動ける機械を使って人は歩く。動かすのは骨格筋だが、随意筋とも言う。随意筋は人が思う まま に自由に使いこなす事が出来る筋肉なのである。この筋肉は真っ正直な働き者。大事に、長く付き合えば生涯無心の愛で応えてくれる。もちろん愛着の程度も人それぞれだと思うが、私は最後まで自由に歩きたいので、随意筋と言うより自由筋と勝手に名を変え、気心合わせて仲良く暮らしている。                                              


 自由筋との付き合いは、朝寝床から起きて、立ち上がり、歩き出すところからである。これがすんなり気持ち良く出来たら、まず上々の滑り出し。ここで一声かける。お陰さま、有難うのお念仏。今日も愛おしい働き者達との一日が始まる。昔の人はこの身のこなしを[立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花]と讃えた。  だが人生100年ともなると老いた自由筋も大変だ。歩く動力機械だって勤続疲労が続けば、いつまでも花ではいられない。外反母趾や膝痛、腰痛に股関節痛と悩ましい。そもそもしゃがみ立ちや歩き方を正しく学んでいないから、本来は自分の意思で思い道りになる柔らかで強靭な自由筋に、多くの人は無関心、無自覚、無意識のままである。                           


 歩くというの身体の軸を意識して肩甲骨、背骨、股関節まわりの自由筋の発揮だ。足のつま先から、頭のてっぺんまで繋がる連動である。

歩く動きは肩甲骨を動かすと骨盤、股関節が動き、脚が前に出る。肩甲骨をきっかけに体幹の筋肉を使うから脚の負担が少なくなり、軽やかにしなやかに美しく歩けるようになっている。   



 踊りは更にその上をいく総発揮だ。歩くのと同じで胸の 下から長い脚が働き、捻りや引き上げをする応用である。自由筋の究極の美の表現だと思う。踊る百合の花々はさぞかし見事な事だろう。まあそうは言っても[この年で踊るなんて滅相もない、みっともない、好きじゃない]と多くの高齢者は思うかもしれないが、それを承知の上であえて自由筋を讃えたい。踊る歓喜の火種は誰もが身体の奥深く持っている。踊れるうちが華だ。