錬金術ではない。私のはお金になる金ではなく筋肉の錬筋術である。誰もが持っている筋肉は働く庶民の味方だ。 バカとハサミは使いようというが、有り難い事に筋肉はバカじゃない。それどころか本当は賢く美しく育つ、優れ者なのだ。

その気になれば、直ぐにも喜んで働く。嘘つかず、めげない、くじけない頼もしい身内。だがお人好しの筋肉も、脳に先手を 打たれると動きが押さえ込まれる事がある。体を動かすのは苦手とか嫌とか、面倒くさい、楽したいという脳が錬筋術に「待った」をかけるのだ。一番のの身内である脳と筋肉。筋肉の錬筋術は脳の錬脳術でもありそうだ。


 ある本の中で、ボルトガルの紡績工場で働く73歳の女性が「私はこの年になっても幸せというものはわかりません。でも喜びが何かはわかります」と語っていた。これを読んで、錬筋術にも「喜び」という糧がいると思った。かたや単純 で実直な筋肉。かたや一筋縄ではいかずに嘘や、屁理屈や悪知恵も使いこなす脳。馬の鼻先に人参をぶら下げるように、錬筋術にも「喜びのスイッチ」がいると思う。ただし人の脳はもう多種多様で複雑、混沌としてピンからキリまである。何がその人の「喜びのスイッチ」かは簡単ではない。私は場合は至って現金なので錬筋術はお金がかからないと思うところでパッとご機嫌で素直な脳に切り替わる。何しろ錬筋術は、動くのはタダだし、医者も薬代がいらないし快便、快眠。快食もセットでついてくるから嬉しい。多分筋肉の単純さと相性がいい脳なのだ。先々のピンピンコロリも夢じゃないかも。


 「お、これってツイている」と近頃は暮らしの中で錬筋術を見つけるのが喜びだ。先日友人宅からの帰り道は春雨となった。灯りがともった夜道を傘を差しての道行きだ。歩いて1時間。タクシー代も浮くし、気分良く歩けるのって楽しい。何よりも誇らしい。次の日は都城名物の図書館の階段が私にウインクを送ってきた。「よっしゃ一段飛ばしのぶちかましが出来る」と勇み立つ。ちょうどいい高さの階段筋トレとはツイていた。毎日の自転車漕ぎもツイてるが、草取りスクワットも錬筋術の目玉だ。草取りのしゃがみ方で四股踏みモードや尻上げ歩きも面白い。怪しい草取りなので人にはお勧め出来ない道楽の一つだが、本人は「動楽」という意識でやっているのだから愉快である。一応脳には「錬筋術はキツイが綺麗で、お金も得よ」と毎回意識して洗脳している。