・二度にわたる日本軍の朝鮮出兵は“老害”豊臣秀吉による誇大妄想的な行動だったのか?

信長 秀吉 家康はグローバリズムとどう戦ったのか<前編>

三浦 小太郎

2024.9.3

歴史上の人物への評価は、常に同じわけではない。例えば、三英傑と呼ばれる信長・秀吉・家康も、時代によって変わってきた。豊臣秀吉とイエズス会宣教師たちとの関係は、当初は良好だったが、1587年、秀吉自ら軍を率いて九州征伐へと向かった頃から変わったようだ。政治評論家の三浦小太郎氏によると、それは日本を守るための行動であったと言います。

※本記事は、三浦小太郎:著『信長 秀吉 家康はグローバリズムとどう戦ったのか 普及版 なぜ秀吉はバテレンを追放したのか』(ハート出版:刊)より一部を抜粋編集したものです。


※伴天連追放令を出した秀吉の決断

豊臣秀吉が望んでいたのは、なによりもまず日本国内の「平和」だった。

秀吉の眼から見れば、宣教師たちがおこなっていた他宗派への排撃、キリシタン大名による上からの強制、ある種の宗教国家体制の構築は、平和への敵だったのである。

おそらく、秀吉はイエズス会との関係を断つべきか、貿易の利を守るために友好関係を維持するか悩んでいたと思われる。

そして、伊勢神宮からの要請、キリシタン大名領地から報告される寺社への攻撃の実情などが、秀吉のもとにはもたらされていたはずだ。

「国分」と「裁定」にあらがう島津家を征伐する九州遠征によって、秀吉はキリシタン大名の領地に実際に初めて足を踏み入れ、かつ、イエズス会が領有する長崎の港、そして日本人奴隷の実態などに触れただろう。

秀吉によって領土を守られるはずのキリシタン大名・大友家や大村家が、政治的にはイエズス会士たちの強い影響下にあることを秀吉は見抜いたはずだ。

そして、イエズス会士たちが、このキリシタン大名の領土を、ある種の「根拠地」として強い影響下にある領土のように振る舞っていたことも。

これらのさまざまな要素が絡み合い、ついにある感情の一線が切れてしまったこと、それがこの時期の秀吉の心理ではなかったかと私は考えている。

もちろん、これはあくまで推測に過ぎない。

より重要なのは、この九州征伐の時点での秀吉のキリシタン批判が、政治的な面においてはほぼ妥当なものであったこと、乱世を終わらせ平和を構築しようとする豊臣政権にとって、宣教師たちの日本の国法や伝統的宗教を布教のために踏みにじる行為をやめさせようとした姿勢は、一定の正統性を持っていることを理解することのほうが、秀吉の内面を探るよりもはるかに重要なことであろう。

たとえ、この時期に出されずとも、伴天連追放令は豊臣秀吉が「平和」を日本に構築するためには、いつかは必要なものだったのである。


秀吉はインド征服までを構想していた

そして、秀吉の伴天連追放令と同時に見ておかなければならないのは、朝鮮や琉球、そしてインドやフィリピンにまでわたる「アジア戦略」が同時に発動されていたことである。

従来、1592年から93年における文禄の役、1597年から1598年における慶長の役という二度にわたる日本軍の朝鮮出兵は、晩年の秀吉による誇大妄想的な行動だとみなされることが多かった。

一方、この出兵を評価する説もいくつかあり、当時のアジアを支配していた明国の冊封体制の打破、統一後の諸大名に対する秀吉政権の支配力強化、諸大名の戦意の海外への発揚、また、明との交易を真の目的とする説などがある。

そのうち、この出兵前後の秀吉の行動を分析し、それをスペイン・ポルトガルのアジアへの侵略に対抗する独自のアジア戦略であったことを論証したのが、『スペイン古文書を通じて見たる日本とフィリピン』(経営科学出版により復刻)を、大東亜戦争中の昭和17年に著した奈良静馬と、さらに緻密な研究をおこない『戦国日本と大航海時代』(中公新書)で和辻次郎賞を受賞した平川新である。

まず、伴天連追放令前後の豊臣秀吉の行動を、平川の著書によって時系列に並べてみる。

1587年 秀吉九州平定、対馬の宗氏に朝鮮服属の交渉を命じる
     伴天連追放令伴天連追放令発布
1588年 島津氏を命じて琉球に入貢を命ずる
1591年 ポルトガル領インド副王への書簡作成
     マニラのフィリピン総督に服属要求書簡作成、発送
1592年 朝鮮出兵(文禄の役)
1593年 フィリピン総督に二度目の書簡送付
     台湾に入貢を求める書面

平川が着目したのは、豊臣秀吉は朝鮮出兵以前から、明国征服のみならず南蛮(東南アジア)や天竺(インド)征服を構想していたことだ。1585年の関白就任直後、秀吉は「日本国の事は申すに及ばず、唐国まで仰せ付けられ候心に候か」と語ったことが、家臣の書状に記されている。

また、1586年イエズス会のコエリョに大坂城で謁見した際も、「国内平定後は日本を弟の秀長に譲り、明国征服に乗り出すことを語った」とフロイスの記録にある。


ポルトガルと日本の軍事同盟が結ばれていたら?

じつは、秀吉はこのときにポルトガルと日本との軍事同盟まで持ち出し、コエリョはこれに賛同している。ここから読み取れるのは、伴天連禁止令を発する以前の秀吉の発想は明国征服までであり、そのためにポルトガルの軍事力も利用しようと考えていたのだ。

ポルトガルにも明国征服(および大陸全土へのキリスト教布教)の野望があり、この時点では双方が同盟を結ぶ可能性は十分あった。しかし、伴天連禁止令以後、その発想は放棄される。

それだけではなく、スペインの支配するフィリピン、ポルトガルの支配するインドが、秀吉にとっては征服の対象となる。これは海外征服の野望という以上に、スペインとポルトガルのアジア侵略への逆襲としての世界戦略であった。

そのことはまず、1591年にヴァリニャーノがポルトガル領インド副王の親書を持参して謁見した際、秀吉側から渡された返事にも示されている。この内容はかなり激烈なもので、それをどうにか修正した形でヴァリニャーノたちは持ち帰らざるを得なかった。

この文書にはこうある。

「一度大明国を治せんと欲するの志あり。不日楼船を浮かべて中華に至らん事掌を返すが如し。其便路をもって其地に赴くべし。何ぞ遠近融を作さん乎」と明国征服が堂々と語られ、それによってインドとは近くなるのだから交流をしようと呼び掛けている。

同時に、日本は神国であり、仁の精神によって国を治めている。

しかるに「爾の国土のごときは教理をもって専門と号して、しかし仁義の路を知らず。此故に神仏を刑せず、君臣を隔てず、只邪法を囲て正法を破せんと欲する也」。

今後「邪法」を説く伴天連の布教は認めず、もし行えば「之を族滅すべし。臍を噛むことなかれ」。ただし、友好と貿易を求めるならば「商売の往還を許す」というものだった。
[『スペイン古文書を通じてみたる日本とフィリピン』を要約]

どう読んでもこれは友好関係を目指すものではなく、「神国日本」の優位性を明確にした挑戦状である。

だが、この表現が多少乱暴に見えたとしても、スペイン・ポルトガルが、インカ帝国やアジア・アフリカ各地でおこなってきた虐殺と収奪、そしてキリスト教が世界唯一の真理であり、他は「邪法」であるという価値観が、その侵略を正当化してきたこと、さらに日本における伴天連の寺社仏閣への破壊行為などを考慮すれば、この時点で秀吉が「神国」という理念でそれと対峙したことにも一理はあるというべきだろう。

この強硬な意思は、文禄の役における初期の戦勝後、さらに明確に表れる。1592年5月に朝鮮に上陸した日本軍は、6月には開城を征服し、秀吉がこの時期、関白秀次らに送った書簡には、今後の征服計画が次のように記されている。

(一) 大明国を支配し、秀次を「大唐関白」とする。
(二) 後陽成天皇を北京に移し、日本帝位は良仁親王か智仁親王のいずれかにする。日本関白は宇喜多秀家か羽柴秀康。
(三) 秀吉は寧波に居所を定める。
(四) 明の次は天竺(インド)征服を行う。

寧波とは中国・浙江省の港町である。

古くは遣唐使が送られていたことで知られており、室町時代初期には日明貿易の拠点であった。秀吉はここを抑えて東シナ海・南シナ海を制覇するための拠点にすることを考えていたと思われる。

そして、先の書簡に示されていたように、秀吉はスペインが支配していたフィリピンのみならず、ポルトガルの支配するインドをも射程圏内に置いていることを明確にしている。


・イエズス会とキリシタンを守るために! 宣教師たちが考えていた「長崎要塞化計画」

信長 秀吉 家康はグローバリズムとどう戦ったのか<中編>

三浦 小太郎

2024.9.9

新大陸を“発見”したとされてきた探検家のコロンブスへの評価も変わり、大航海時代に西洋諸国によるキリスト教の布教が、侵略と植民地政策と密接に結びついていた歴史的事実を知るに至った今、政治評論家の三浦小太郎氏が、「バテレン追放令」を豊臣秀吉が出した意味を再検証する。

※本記事は、三浦小太郎:著『信長 秀吉 家康はグローバリズムとどう戦ったのか 普及版 なぜ秀吉はバテレンを追放したのか』(ハート出版:刊)より一部を抜粋編集したものです。


※宣教師たちによる日本に対する軍事行動計画

秀吉は1587年の伴天連追放令のあとも、現実に宣教師たちを捕まえて、強制的に追放するような行動は控えていた。

キリスト教が、他の宗派と衝突することなく一つの信仰として、この日本社会に軟着陸するのであれば、南蛮貿易を継続するためにも、キリシタン弾圧や追放など、ポルトガルやイエズス会と決定的に対立することは避けたかったのだ。

コエリョ司祭も、全国のイエズス会士を平戸に集め(イエズス会の領地だった長崎は、秀吉により接収されることは確実だった)、追放令は無視して日本に残留する、しかし、秀吉を刺激することは極力避けることを基本方針として決定した。

全国に散っていた宣教師たちが九州に集結し、充実した布教や教学を施すことができたので、改宗者が増え、質が上がったという報告もあるほどである。

しかし、この裏で見過ごしてはならない計画が、コエリョを中心に日本の司祭たち(フロイスを含む)によって企画されていた。

ポルトガルとスペイン軍による日本攻撃計画を、彼らが本国やマニラに打診しようとしていたのである。以下、このキリシタン宣教師たちの日本に対する軍事行動の計画については、高瀬弘一郎の優れた論考『キリシタン宣教師の軍事計画』が詳しく論じている。


中国征服のためにキリシタン大名を支援

すでに1585年3月3日付で、コエリョがフィリピンのイエズス会宛てに、日本へのスペイン艦隊派遣を求めた書簡が記録されている。

「(前略)総督閣下に、兵隊、弾薬、大砲、及び兵隊のための必要な食糧、一、二年間食糧を買うための現金を充分備えた三、四艘のフラガータ船を、日本のこの地に派遣していただきたい。それは、現在軍事力に劣るために抵抗出来ず、他の異教徒に悩まされ、侵犯されている何人かのキリスト教徒の領主を支援するためである。(中略)

この援軍の派遣により、陛下にとっていろいろ大きな利益が生ずるであろう。

第一に、これらのキリスト教徒の領主とその家臣は、これほど遠方から陛下の援助が与えられるのを知り、その庇護の下に一層信仰を強固なものにする。

第二に、異教徒はこのことから脅威と驚きを抱き、キリスト教会に対する迫害や、新たに改宗を望む者に対する妨害をしようとはしなくなるであろう。

第三に、異教徒は、キリスト教徒が陛下から援助をうけるのを見て、これを好機に、改宗に反対する領主を恐れることなく改宗するであろう」

『キリシタン宣教師の軍事計画』より

当時、フィリピンはスペインの支配下にあり(1529年、スペインとポルトガルのあいだで決められたサラゴサ条約によって、フィリピンはスペイン領と決められていた。これはトルデシリャス条約の部分修正であるが、これまた、当のフィリピン人には関係のない侵略者間の取り決めである)、同地のフィリピン総督は、しばしば中国大陸への武力征服を提案する文書をスペイン国王宛てに送っていた。

スペイン国王は、そのような軍事的冒険よりも、フィリピンの経営と対中国貿易に専念することを求めていたのだが、同地の宣教師たちのあいだでは、布教のために中国を征服することを求める声が盛んにあがっていたのだ。

コエリョも彼ら同様、将来の中国征服のためにも、日本のキリシタン大名を軍事面で支援し、その勢力を広げていくことを求めていた。

ここで重要なのは、キリシタン大名の側にも、コエリョの計画に賛同する面があったことである。

1587年6月26日付で、フィリピン総督からメキシコ国王に送られた報告書には、フィリピン総督との貿易を望んでいた平戸の松浦鎮信(彼自身はキリシタン大名ではない)から、必要であれば充分な武装兵を安価な傭兵料金で派遣する用意がある、またキリシタン大名の小西行長の軍も共に行動するだろうという申し出があった、という記録が残されているのだ。

コエリョの軍事行動の要請は、根拠のないものではなかったのである。


日本への関わり方について宣教師が対立

コエリョの要請に対し、フィリピンのイエズス会からは、二つの理由によって、このような軍事行動には協力できないという返答が来た。

第一に、現在のフィリピン総督には、それだけの強大な軍事力はない。第二に、フィリピンと日本との交流が進み、イエズス会以外の宣教師が日本に行くようなことになれば、イエズス会の日本のキリスト教布教の弊害となる。

この第二の理由が挙げられたのは、日本における布教活動は原則、イエズス会の独占にすることが、ヴァリニャーノ他、日本イエズス会首脳の方針だったからだ。

遣欧使節の目的の一つも、ローマ教皇にそのことを訴えるためでもあったのだ。特にヴァリニャーノは、フィリピンの宣教師が日本に行くことを禁じてほしい、という書簡を繰り返し送っていた。

しかし、1585年の段階では、キリシタン大名も、またキリスト教布教もそれほどの危機状態にあったわけではなかった。1587年、秀吉が伴天連追放令を出したことは、再びコエリョに、武力により秀吉に対抗しなければならないという意識を持たせた。

コエリョの姿勢に対してヴァリニャーノは、日本に帰国した年の1590年10月14日、イエズス会会長宛てに送っている書簡で紹介しつつ批判している(コエリョは、この年の9月に病死していた)。

ヴァリニャーノはまず、コエリョが善意からであれ、多くの過ちを犯したことを指摘する。かつて、有馬氏のようなキリシタン大名が危機に陥ったときに、コエリョは彼らを守りたいがために、秀吉に、薩摩の島津氏や肥前の龍造寺氏らを攻めるよう勧め、また、自分がキリシタン大名が団結して秀吉に味方させると約束した。

さらに、秀吉が「自分は日本を統一したあとは、明に遠征するつもりである」とコエリョに語ると、コエリョは「そのときは自分が関白を援助できる。二隻のポルトガル船を調達しよう。インド副王に交渉して援軍を送らせよう」などと申し出た。

これによって、秀吉に「この伴天連は大名を自由に動かせるほどの力を持っているのか。このような存在を許していては、かつての一向一揆のように、危険な勢力になるかもしれない」という疑いを抱かせてしまった。

「そもそもイエズス会は、日本における戦国大名間の争いに対してはできるだけ中立の立場を保ち、仮にキリシタン大名であれ、よほどの場合でない限り、武器を供与するようなことはあってはならない」

ヴァリニャーノはこう述べ、コエリョがいたずらに自己の政治力、キリシタン大名への影響力を誇示したことが、かえって秀吉にイエズス会の布教が危険な政治勢力を生み出すのではないか、という危機感を与えてしまい、結局、伴天連追放令につながっていったのだと分析した。


秀吉との戦争はコエリョの独断だったのか?

そして、コエリョはさらに暴走し、追放令以後、秀吉との戦争まで企画したとヴァリニャーノは批判する。


「彼は直ちに有馬に走り、有馬殿及びその他のキリスト教徒の領主達に対し、力を結集して関白殿への敵対を宣言するよう働きかけた。そして自分は金と武器、弾薬を提供して援助すると約束し、直ちに多数の火縄銃の買い入れを命じ、火薬、硝石、その他の弾薬を準備させた。そして結局、無理矢理上述の領主達をして関白殿への敵対を宣言させようとし、すんでのところで戦争が勃発するところであった」

『キリシタン宣教師の軍事計画』より


しかし、有馬や小西らキリシタン大名が、この呼びかけを拒否したので、今度はフィリピンから直接スペイン軍を日本に派遣することをコエリョは求めた。


「彼は二〇〇乃至三〇〇人のスペイン兵を導入すれば、すべてのパードレが或る場所で要塞を築き、関白殿の権力に対抗して自衛出来ると考え、そこでフィリピン諸島の総督、司教、及びパードレ達に書送り、このような援軍を送ってもらいたい旨要請した」

『キリシタン宣教師の軍事計画』より


ヴァリニャーノは、この要請をフィリピン総督が拒絶してくれたからよかったものの、もしも、上記いずれかの計画であれ実現していたら、秀吉の怒りを買い、日本におけるイエズス会もキリシタンも破滅的な状況に追い込まれただろうと述べ、コエリョの無謀な試みを全否定している。

しかも、1589年、当時マカオにいたヴァリニャーノのもとに、コエリョはイエズス会士ベルチョール・デ・モーラを派遣、コエリョとほぼ同じ考えを持っていたモーラは、ヴァリニャーノにコエリョの意志として、帰国する際は、二百人ほどの兵士と武器弾薬を連れてきてほしいと頼んでいる。

ヴァリニャーノは当然これを拒否、日本帰国後、武器弾薬の全てをひそかに売却処分、大砲はマカオに売却する手はずを整えた。上記の書簡は、そのあとに書かれたものである。

ここには都合の悪いことの全てを、死んだコエリョに押しつけている感はなくはない。

ヴァリニャーノ自身、窮地に陥った有馬氏を軍事的、経済的に支援することでキリシタン大名の領土を守った前例があり、1599年には「この国を征服するだけの武力を持ちたいと神に祈る」と語っていた。

ヴァリニャーノとコエリョの違いは、当時の情勢判断、特に豊臣政権の軍事力についての判断において、前者のほうが冷静だったに過ぎないという解釈もありうるだろう。

この軍事計画のすべてを、コエリョが独断でおこない、実践したというのはあまりも不自然である。例えばフロイスは、1589年1月30日、イエズス会本部に向けて、この地域でイエズス会とキリシタンを維持するためには、日本に堅固な要塞を築き、迫害が起きたらそこに逃れることができるようにする必要があり、同時にその要塞を守る兵士が必要だと書き送っている。

これは、実際には長崎を要塞化する計画であった。そしてフロイスは、少しの例外を除き司祭たちはほぼ同意見だと述べている。

モーラがヴァリニャーノに援軍を率いて日本に戻るよう求めたのは、最も親日的なオルガンティーノ司祭以外のほぼ全員の意志だったようだ。ヴァリニャーノとしては、このような無謀な試みを今後なくすためにも、この意見をコエリョ個人のものとして消してしまうしかなかったのかもしれない。

イエズス会が組織として、この時期に日本への侵略や軍事作戦を考えていたわけではない。スペイン国王、フィリピン総督、そして当区の布教責任者であるヴァリニャーノも、いずれもそのような試みには反対だった。

しかし、それは武力による征服を否定するものではなかった。

当時のスペインやポルトガルの軍事力では、日本や中国大陸への戦争を仕掛けるだけの力量はないという客観的な分析、また、スペイン軍の行動が、日本にイエズス会以外のスペイン系の修道士会流入を同時にもたらすことへの警戒心などの戦術的な面が、この選択を取らせなかったのである。

これは筆者の見解だが、秀吉がキリシタンを警戒するようになったのは、コエリョの態度のうちに、朝鮮・明国への遠征に対し、秀吉への協力を申し出るように見えて、豊臣政権と軍事的に一体化することで、キリシタンの勢力をさらに伸ばし、場合によっては朝鮮や明国に対しての布教のために、秀吉軍をも利用しようとしているかのような姿勢を見出したからではないか。

秀吉をはじめ、戦国乱世を生きた武将であれば皆、そのように他国の軍隊を利用して領地を拡大してきたのである。そして、そのような「同盟者」は、いつ裏切るかもしれぬ存在であることも自明の理であった。


・朝鮮・中国・フィリピン・インド…秀吉のアジア戦略を昭和の文化人はどう評したのか?

信長 秀吉 家康はグローバリズムとどう戦ったのか<後編>

三浦 小太郎

2024.9.20

三英傑と呼ばれる信長・秀吉・家康。2023年の大河ドラマ『どうする家康』や、映画『レジェンド&バタフライ』『首』など、現在でも人気が高い歴史上の人物だ。政治評論家の三浦小太郎氏が、現代のグローバリズムやナショナリズムを踏まえて、豊臣秀吉のアジア戦略について検証する。

※本記事は、三浦小太郎:著『信長 秀吉 家康はグローバリズムとどう戦ったのか 普及版 なぜ秀吉はバテレンを追放したのか』(ハート出版:刊)より一部を抜粋編集したものです。


※秀吉によるフィリピン総督への「降伏勧告」

豊臣秀吉は朝鮮出兵に先んじ、1591年11月の段階で、マニラのフィリピン総督に対し「降伏勧告」の書簡を送っている。

届いたのは翌年であるが、内容は次のようなものである。

なお、ここに記されている原田孫七郎は貿易商で、数回フィリピンにわたり、かの地は防衛が手薄であり出兵すべきことを、しばしば秀吉に説いていた。

我が国はここ百年以上、国内は様々な群雄が現れて戦乱が続いたが、この十年の間に自分がことごとく平定し統一した。これによって、朝鮮、琉球など諸国も我が国に帰服しており、これより、明国を征服する予定である。しかし、フィリピン総督はいまだに我が国に献上物も送る礼を尽くさない。「故に、まず軍卒をして其地を討たしめんと欲す」。

しかし、まず戦争の前に、原田孫七郎の貿易船によって余の意志を伝える。戦争になる前に、これ旗を倒して(降伏して)余に服従すべき時である。「来春、九州肥前に営すべし。時日を移さず、降幡を伏せてしかして来服すべし」。降伏しなければ、速やかに征伐を行うであろう。

[『スペイン古文書を通じてみたる日本とフィリピン』を要約]

まさに宣戦布告以上の降伏勧告文書である。

これに対し、フィリピン総督ダスマリナスは、戦争を覚悟してマニラに戒厳令を敷き、市民に許可なく財産や家族を市から移すことを禁じた(違反したものは処刑のうえ財産を没収、軍資金とする)。

さらに、マニラ付近の山間地帯に要塞を建設することを命ずるとともに、マニラ在住の日本人を武装解除して市外に隔離している。

また、スペイン国王にも特使を送り、援軍の派遣を求めるとともに、日本に対しては、原田孫七郎は商人であり、果たしてこの書簡が真に秀吉の正式な文書かどうかすぐには判断しかねる、しかし、日本との親交を我々は希望するという親書を送った。

秀吉は1592年8月と12月、2回にわたってフィリピン総督に書簡を送っている。

特に12月の書簡では「余が部下の将の多数はマニラに至り、その地を領すべき許可を与えられん」と、諸将もフィリピン出兵を望んでいることが告げられ「支那に渡りたる後はルソンは容易に我が到達し得る範囲内にあり」。

だが、余の願うのはあくまで親善関係である。スペイン国王に余の意志を伝えよ。「遠隔の地をもってカステイラ(スペイン)王をして、余が言を軽んじせしむることなかれ」と、フィリピン総督のみならずスペイン国王にも呼びかけ、親善を望むのならば地位ある要人を国王自ら日本に送るようにと書簡を結んでいる。


朝鮮出兵が終わらなければマニラは平和

フィリピンを支配していたスペイン人たちが恐れていたのは、日本軍の来襲と共に、植民地下のフィリピン人が蜂起することだった。

「フィリピンの原住民はスペイン人を憎んでいるから、日本人がスペインに行けば直ちに、原住民はスペイン人を日本人の手に引き渡すであろう」と、秀吉配下の武将が語っていたという噂が、当時のフィリピンでは流れている。

「太閤が死ねば2歳の息子しか相続人がおらず、分裂が起こり、マニラは危険から免れるであろう」と、総督の使者として1594年に来日するフランシスコ会士のジェロニモ・デ・ジェズスは語っていた。

またジェズスは、朝鮮での戦争が終わらないことを望む、そうであればマニラは平和なのだからとも語っている。いずれも、スペイン側の恐怖を表す言葉である。

奈良静馬の『スペイン古文書を通じて見たる日本とフィリピン』は、書物としては古文書を網羅して紹介しようとする意志が強すぎて、ややまとまりを欠いているが、そこには秀吉の堂々たる「神国理念」に基づいた外交文書を記録にとどめようという意思と、スペイン、そしてアメリカの植民地化に置かれたフィリピンの独立への共感がみなぎっている。

そこには歴史的共通性も根拠もあったのだ。


評論家・小林秀雄による「豊臣秀吉」論

さらに秀吉は1593年、台湾にも服属を求める書簡を送っている。

逆にフィリピンのスペイン高官のなかには、秀吉が朝鮮半島に力を奪われている今こそ、台湾を征服し防波堤とすべきだという説もおきていた。これもある意味、フィリピン以下、インドへの戦線を構築するために台湾が重要な拠点になるという、秀吉なりの戦略であったのかもしれない。

当時、近代的な意味での国家主権や国境概念は希薄な時代だった。現在の視点から見れば、豊臣秀吉の朝鮮出兵が過酷な苦しみを日本軍にも、また朝鮮民衆にも与えたし、結果として豊臣政権は疲弊、武将たちの団結も秀吉の死後には崩壊し、将来の豊臣家滅亡につながったことは否定できない。

しかし、朝鮮出兵と、その前後におこなわれた「アジア戦略外交」について、『戦国日本と大航海時代』(中公新書)で平川新は次のように評価している。

服属要求といい、征明の通告といい、これらの書簡はインド副王やフィリピン総督に対して、豊臣秀吉という人物、そして日本という国の強大さを誇示したものであった。(中略)

あえて明国征服を喝破していることからみれば、両国(スペイン、ポルトガル)が早くからねらっていた明国を、自分が先駆けて征服するぞ、と通告する意図までも感じ取ることができる。(中略)

こうした秀吉の言動は、ヨーロッパ最大の強大国に対する強烈な対抗心と自負心を示している。(中略)

秀吉がめざしたのは、世界最強国家スペインと対抗し、アジアを日本の版図に組み込んでいくことだった。言葉を換えれば、世界の植民地化をめざすスペインに対する東洋からの反抗と挑戦だともいえるだろう。

『戦国大名と大航海時代』より

そして、この秀吉の精神を、まるでその後の大東亜戦争の歴史を予言するかのように語っているのが、小林秀雄の昭和15(1940)年8月に行われた講演『事変の新しさ』である(『小林秀雄全作品13巻 歴史と文学』収録)。

この講演で、小林は「豊臣秀吉は気宇壮大ではあったが、決して空想家ではなかった。空想や誇大妄想にかられるような人間が天下をとれるわけがない。朝鮮出兵も明国征服も、秀吉のこれまでの豊富な知識と体験から導き出された戦略であった。しかし、結果は惨憺たる失敗であり、秀吉の誤算だったことは間違いない。だが、その誤算は、秀吉が耄碌(もうろく)したなどという『消極的な誤算』ではない」と断定する。

太閤は耄碌はしなかった。戦争の計画そのものが彼のあり余る精力を語っているわけです。彼が計算を誤ったのは、彼が取組んだ事態が、全く新しい事態だったからであります。この新しい事態に接しては、彼の豊富な知識は、何んの役にも立たなかった。

役に立たなかったばかりではない、事態を判断するのに大きな障碍(しょうがい)となった。つまり判断を誤らしたのは、彼の豊富な経験から割り出した正確な知識そのものだったと言えるのであります。これは一つのパラドックスであります。(中略)

太閤の知識はまだ足りなかった、もし太閤がもっと豊富な知識を持っていたら、彼は恐らく成功したであろう、という風に呑気な考え方をなさらぬ様に願いたい。そうではない。知識が深く広かったならば、それだけいよいよ深く広く誤ったでありましょう。(中略)

そういうパラドックスを孕らんでいるものこそ、まさに人間の歴史なのであります。これは悲劇です。太閤のような天才は自ら恃のむところも大きかった。したがって醸もされた悲劇も大きかった。これが悲劇の定法です。悲劇は足らない人、貧しい人には決して起りませぬ。

『事変の新しさ』より

豊臣秀吉に対する、また、歴史というものに対する最も深い、かつ逆説的な形でしか現れぬ真理がここにある。