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菊池@kikuchi_8

2021年8月18日

工作員の「論法」について考察する。工作員は「後件肯定の誤謬」をやる事が多いと気付いた。例えば「ネトウヨはサヨクを批判する→サヨクを批判するからネトウヨ」(その逆も然り)というのが典型。「バチカンはニューエイジを批判する→ニューエイジを批判するからバチカンの手先」というのもあった。

バチカンがニューエイジを批判するからと言って、ニューエイジを批判するからバチカンという事にはならない。批判の中身も無視。例えば、バチカンの実体論的教義による批判と日本や東洋の文化文明的見地による批判では中身が全く違う。工作員は論理法則を無視した非論理的な印象操作を常套手段とする。

工作員は論理法則を無視するが、都合のよい論理法則は利用する。例えば排中律。両建には「世界にはAと非Aしかない」という排中律的な前提がある。「右で無ければ左、左で無ければ右」という排中律的な前提があるからこそ左右両建構造が成り立つ。両建を破るには排中律的な前提を外す事が重要である。

「バチカンはニューエイジを批判する→ニューエイジを批判するからバチカンの手先」という誤謬論理にも「世界はニューエイジと非ニューエイジ(基督教)しかない」という排中律的な前提がある。これを言ったサタニスト一味はあまり賢くないので意図的かは不明だが、無意識に排中律的前提を入れている。

両建を破るには排中律的前提の有無を意識する事が重要ポイントである。裏権力及びその走狗は、意識的であろうと無意識的であろうと、必ず排中律的前提を設けて二者択一的二項対立的な両建構造に囲い込んでくる。この両建戦術を斥けるには、暗黙の排中律的前提を自覚的に外して思考する事が重要である。

印度論理学では「否定」には二種類ありとせられる。排中律を前提とする「相対否定」と排中律を前提としない「純粋否定」である。前者は「Aの否定」が「非Aの肯定」を意味するのに対し、後者は「Aの否定」が「非Aの肯定」を意味しない。両建抗争は常に相対否定の応酬だが、両建批判とは純粋否定である。

対立する両陣営による両建抗争は敵の否定は即自陣営の肯定を意味する「相対否定」である。両建抗争とは常に「相対否定」の応酬だと言える。一方、陰謀追及者の両建批判は「純粋否定」である。両建批判者が特定の裏権力派閥を批判しても、その派閥と両建的に対立する他の裏権力派閥の肯定を意味しない。

特定派閥に属する工作員は自派閥への批判者は他派閥に属する者だと決めつける傾向がある。つまり相手の批判を排中律的な前提に立つ相対否定だと捉えている。「相対否定」という言葉を知らなくても、実質的にそう捉えている。純粋否定であっても相対否定と決めつけて両建構造の枠内に収めようとする。

工作員は藁人形論法(ストローマン)を使う事が多い。藁人形論法とは相手の主張を叩き易いように曲解した上で批判する詭弁論法である。意図的に曲解する場合だけでなく、理解力不足で実質的に藁人形になっている事も多い。「言ってない事を言った事にする」やり方。工作員とはまともな会話にならない。

工作員や狂信者と会話にならない原因は彼らが意識的又は無意識的に藁人形をやってくるから。こちらが言った事を曲解したり、言ってない事を言った事にしてくるので、それを逐一正すのに時間を取られてスムーズな会話にならない訳である。意図的な場合もあろうし、偏見と理解力不足による場合もあろう。

排中律の話に戻る。排中律は「AはAである」という同一律と「Aは非Aではない」という矛盾律から来る帰結であるが、「Aは常住不変・独立の実体である」という形而上学的独断が密かな前提としてあるように思える。実体論的思考では両建批判が難しいのは「排中律を外す」という発想が不可だからと考える。

「実体論的思考では両建批判が難しい」のは「AはAである」という同一律が単なる論理法則(思考の規則)ではなく形而上学的に解されてるからである。「Aは(絶対的に)Aである」なら「Aは(絶対的に)非Aではない」となる。「Aと非Aは両建同根」「Aと非Aの背後は同じ」などとは思いもよらない事になる。

排中律はあくまで思考の為の規則なので、ある局面では必要である。だが、現実世界の問題を考える際に「AとBしかない」という排中律的な前提を設定して絶対視すると二者択一的な思考に陥る。排中律に縛られるのではなく、自由に外したり活用したりする観点が大事だと思う。取らず捨てず執着せずが肝要。

「後件肯定の誤謬」と「藁人形論法(ストローマン)」は工作員の2大「論法」だと分析する。これまで数々の工作員と論争した経験から言うと、彼らが使う手口は大抵がこれだと見る。工作員に絡まれた際には主にこの2つに注意されたし。「論法」と言っても、まともな論法ではなく邪まな詭弁論法である。

「論点ずらし」の手口もある。藁人形論法が相手の主張を曲解する手口なのに対し、論点ずらしは自分の主張を微妙に変化させて自らに好都合な論点に誘導しようとする手口だと言える。論点ずらしは主に批判への応答の際になされるので、一方的に攻撃を仕掛ける工作員にとっては2次的な技法だと思われる。

論点ずらしは論争で追い込まれた際に「逃げ」の手段として使われる事が多いと見る。工作員は標的を監視などした上で自分に都合のよいタイミングで一方的に攻撃を仕掛けてくる。故に論点ずらしの如き受け身の手法は藁人形論法や後件肯定の誤謬など攻めの手法に比べると幾らか重要度が劣ると分析出来る。

論理学で言う排中律の「中」は「中間」という意味である。だが、「中」には「正」という意味もある。「中正」とは「偏りが無く正しい事」。両建戦術で導入される排中律的前提の「中」は「正」の意味で読む事も出来ると思う。両建で二者択一を押し付けて「正」即ち正しい判断を「排」する(排除する)。

論理学的な意味での排中律の「中」は「中間」の意味だが、「両建戦術の排中律的前提」と言う場合の「中」は「中間」という以上に「正(=中)」の意味で解した方がしっくりくる。両建によって人々に偏った二択を強要して正しい判断を妨げるからである。「排中律」ならぬ「排正律」とでも呼べようか。

工作員の論法はまだある。例えば惑沈接種と死亡の間の「因果関係は不明」という言い方。政府・メディアを含む裏権力工作員は「因果関係は不明」を実質的に「因果関係はない」というイメージで使っている。「論法」というより非論理的な印象操作である。「不明」は「因果関係がある可能性」を含意する。

惑沈接種と死亡の因果関係を100%証明出来なければ、「因果関係は不明」という言葉を使って漠然と「因果関係はない」というイメージ操作をする。論理的思考を働かせれば騙されないが、漠然とした雰囲気やイメージだけで受け取る人は簡単に惑わされる。論理ではなく表象に働きかけて惑わす手口である。

「因果関係は不明≠因果関係は無い」である。普通に考えれば分かる事だが、政府やメディア、有名人やらインフルエンサーやらがこぞって惑沈は「安全」(という言葉を使わずして)とアピールするので、雰囲気に呑まれて論理的思考が飛んでしまってる者は多いと思われる。事理に即して自分で考えるべき。

何かあっても「因果関係は不明と言ったのであって因果関係は無いとは言っていません。勝手に安全と信じたのはあなたの自己責任です。」などと言って逃げるつもりだろう。かかる狡賢い外道共が強大な権力と影響力を持ってしまっている非常に危険な状況である。事実と道理に即した独立的思考が身を守る。

「因果関係は不明」を「因果関係は無い」と思い込ませる印象操作は、論理ではなく表象(イメージ)や感情(不安や恐怖)に働きかける手法である。雰囲気が醸し出す漠然としたイメージを信じ込んだり、不安や恐怖を煽り立てられる事無く、事理に即して独立的思考を働かせれば、かかる「幻術」は破れる。

工作員の論法考察の続き。言葉の多義性を利用する詭弁論法もある。例えば「デマ(デマゴギー)」は「宣伝・煽動」が原意だが、「虚偽」のニュアンスでも使われる。惑沈不安に「デマ」と言うのは「虚偽」の意味だが、「虚偽だと証明する責任」を追及されたら「煽動」の意味と言って逃げる事も出来る。

定義が曖昧で漠然としたイメージしか持たない言葉も工作員論法の具である。「陰謀論」という言葉が典型。明確な定義は無いが、何となく「胡散臭い物」というイメージが付きまとう言葉を貼り付ける事で特定の言説を貶める。所詮主観的なイメージに過ぎないので「陰謀論だと証明する責任」も回避出来る。


菊池
@kikuchi_8
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2021年8月22日
「デマ」など日本人にとって外来語の横文字言葉は意味が曖昧な場合が多い。吾人も“コロナ禍”工作が開始する以前は工作員の薄汚い手口に筆誅を加える際に「デマ工作」(虚偽宣伝工作という明確な意味で)などの表現を使っていたが、今は惑沈推進派があまりに「デマ」を多用するので使用を控えている。

曖昧さの無い「虚偽」「嘘」という語を使うと「虚偽」「嘘」と証明しなければならなくなる。だから多義的な言葉や定義が曖昧な言葉を漠然と使う事で挙証責任を回避しつつ特定の言説を貶める手口を使うのだと分析。「デマ」や「陰謀論」など簡単だが微妙な言葉で「否定」した気になるだけなので楽ちん。

メディアの影響を受けた一般人が「デマ」や「陰謀論」などと得意気に語るのは、テレビで見た芸人の流行ネタを真似するのと同じと言える。冷静に顧みて、結局そういう恥ずかしい振る舞いをしているに過ぎないと気付き、もう少し自分で考えるべき。メディアの口真似で得意がるのはお馬〇のする事である。

世間では身体的攻撃への護身術は流行っているが、精神攻撃や情報戦に対する護身の観点は希薄なように思う。前者は日本では滅多に使う機会が無いが、後者に関しては各種媒体を通じ日々脅威に晒されている。今や思考誘導されると命に関わる。兵法では物理的戦い以上に心理戦や情報戦の観点が重視される。

工作は「➀無視→➁嘲笑・冷笑→➂悪口雑言(詭弁含む)→④社会的圧力→⑤暴力」という順でエスカレートすると分析する。最後の暴力は最終手段。常日頃は裏権力工作員は人々への精神支配や精神破壊の工作を仕掛けてきている。対抗するには彼らの手口の分析・研究が必要なので考察スレッドを作った。

国際秘密力の本領は物理的攻撃より情報戦・心理戦・諜報戦・思想戦・世界観闘争にありと見る。無論武力を掌握する事は「支配」の不可欠の要素であるが、ベネチア金融貴族由来の国際金融ネットワークや魔術師ディー創始という説もある情報機関等を中核的な支配手段とする国際秘密力の本領は前者にあり。

近代以降の日本人が国際秘密力にほぼやられっ放しで来ているのは、「情報戦・心理戦・諜報戦・思想戦・世界観闘争」という枠組を認識出来てない事にも大きな原因があると思う。国際秘密力が最も得意とし本領を発揮する領域を明確に意識する事すら出来ていない。枠組の認識が無ければ対抗など不可能。

国際秘密力が最も本領を発揮する「戦場」(フィールド)すら認識出来なければ、戦わずして負ける他はない。勿論精神侵略に部分的に対抗した先人達はいる。例えば、江戸初期には切支丹への批判書(排耶書)が多数出版された。だが、あくまで部分的な批判に留まり国際秘密力へのトータルな批判ではない。

ある程度「戦場」(フィールド)の認識があるように見える者がいても、大抵は向こう側の思想的影響を受けていたり、まんまと両建に嵌められている場合が多い。分かり易い例だと、「猶太批判をしながら何故か日猶同祖論を盲信する」類である。明治以後の「反西洋」を掲げる人士の多くがその類である。

国際秘密力が日本人を「容易い」と思っているとしたら彼らの枠組への認識すら無かったからだろう。吾人が工作員連中から異様な敵意と憎悪を向けられるのは、両建批判をしている事に加え、前述の如き「戦場」(フィールド)を日本人として明確に認識した上で対抗しようとしているからだと推測している。

一つ注意が必要なのは「精神侵略に対抗」と言ってもあるドグマに対して別のドグマをぶつけるような戦い方はむしろ向こうの思う壺だという事である。所詮そういう二元論は両建に絡めとられる。自分の説を絶対の真理やドグマのように語る論者は多いが、それでは対抗不可。大事なのは批判的思考だと思う。

戦前の東西対抗論者など「あるドグマに対して別のドグマをぶつけるような戦い方」をするタイプは明治以後に大勢いた。だが、そういう類には思想ツールやカルト・新興宗教の影があるのが常。表面的に「反西洋」を掲げて独善的教義に誘い込むカルトの手口もある。これらの類は向こう側の先兵と見るべき。

「批判的思考が大事」とは誰でも言うありきたりな発想に見えるが、実践となると出来ている人は少ないと思う。「批判=否定」ではなく「批判=吟味し評価・判定する事」である。批判的思考によって思考誘導や思想工作の実態を観察・分析した上で悪影響を遮断する事。これが精神侵略への対抗だと考える。

以前「批判と否定は違う」と書いたが、「批判」の結果として「否定」が導かれる事はある。批判は「物事を吟味し評価する事」だとすれば、「肯定」「否定」はその結果として導かれる。「両建批判」は「両建を打ち破る」という「否定」を含意するが、そこに至る分析を重視するので「批判」と呼んでいる。