・「備後国風土記」の蘇民説話
https://museum.umic.jp/somin/sominshou/s_sominshou02.html
※「備後国風土記」は、(卜部兼方が13世紀後半に著した、)鎌倉時代末期の『釈日本記』に引用記載されていることから逸文(※原文がほとんどなくなって世に一部分しか伝わっていない文章。一部分だけ残った文章)として伝存している。
風土記は、和銅6年(西暦713年)の中央官命により作成された報告公文書で、いつ編述が完了したかは明らかでないが、早くても官命後数年を要したと思われる。
(つまり、8世紀初頭のオリジナルの「備後国風土記」は失われており、13世紀後半の「釈日本記」に一部分が引用という形で残っているだけ。)
この備後国(現広島県東部)風土記逸文に、わが国で最も古い蘇民説話が見られ、原文を要約するとおよそ次のようになる。
「むかし、武塔(むたふ=むとう)神が求婚旅行の途中宿を求めたが、裕福な弟将来はそれを拒み、貧しい兄蘇民将来は一夜の宿を提供した。後に再びそこを通った武塔神は兄蘇民将来とその娘らの腰に茅の輪(ちのわ)をつけさせ、弟将来たちは宿を貸さなかったという理由で皆殺しにしてしまった。武塔神は「吾は速須佐雄の神なり。後の世に疫気あらば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けたる人は免れなむ」と言って立ち去った。」
この説話で注目したいのは、まず武塔神という名の神である。
武塔神(むとうのかみ)は、外国から渡来した武答天神王か、武に勝れた神を意味する名であるかは明確ではないが、「吾は速須佐雄の神なり」と、伝承の過程でスサノオノミコトに武塔神が習合されている。ここでは後にふれる牛頭天王(ごずてんのう)と武塔神は習合されていない。ちなみにスサノオノミコトを祗園社の牛頭天王と習合するのは平安時代以降である。
(『釈日本紀』では「祇園を行疫神となす武塔天神の御名は世の知る所なり」と述べられており、初期の祇園信仰の祭神は武塔天神であり、のちに牛頭天王と称されるようになったと考えられる。)
次に、悪い病気が流行したら除厄の呪文として「蘇民将来の子孫」と唱えるように武塔神が言ったが、この呪文は蘇民将来符に「蘇民・将来・子孫・人也」と書かれている。
※釈日本紀(しゃくにほんぎ)
鎌倉時代中期に著わされた『日本書紀』の注釈書。卜部兼方(懐賢)著。二十八巻。略して『釈紀』ともいう。成立年は未詳であるが、兼方の父兼文が文永十一年(一二七四)―建治元年(一二七五)に前関白一条実経の『日本書紀』神代巻に関する質問に答えたことが文中にみえ、正安三年(一三〇一)転写の奥書があるので、その間に成立したものと考えられる。鎌倉時代の卜部家は古典研究を家学とし、『日本書紀』の講読を行なっていたが、兼方は、平安時代初期以来『日本書紀』を講読してきた諸博士の説と、卜部家の家学を集大成して本書を著わした。全巻は、巻一「開題」、巻二「注音」(難字句の音を記す)、巻三「乱脱」(分注などの位置を正し、読み方を指示する)、巻四「帝皇系図」、巻五―十五「述義」(難語句の意味を諸書・諸説を引いて述べる)、巻十六―二十二「秘訓」(秘伝的な古訓を記す)、巻二十三―二十八「和歌」(『日本書紀』歌謡をあげ解釈を記す)の七部門から成り、「述義」が最も重要な部分である。注釈の態度は、数多くの古書を引用する客観的なもので、現在では散逸した古典が数多く引用されている点でかけがえのない書であり、『丹後国風土記』『伊予国風土記』をはじめとする風土記の逸文は二十余種に及び、『大倭本紀』『上宮記』などの逸文を見ることができる。
※八坂神社(やさかじんじゃ)は、京都府京都市東山区祇園町北側にある神社。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国にある八坂神社や素戔嗚尊を祭神とする関連神社(約2300社)の総本社であると主張している。通称として祇園さんや八坂さんとも呼ばれる。祇園祭(祇園会)の胴元としても知られる。
社名について
元の祭神であった牛頭天王が祇園精舎の守護神であるとされていたことから、元々「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていたものが、慶応4年=明治元年(1868年)の神仏分離令により「八坂神社」と改名された。
主祭神
中御座:素戔嗚尊 (すさのをのみこと)
東御座:櫛稲田姫命 (くし(い)なだひめのみこと) - 素戔嗚尊の妻
西御座:八柱御子神 (やはしらのみこがみ) - 素戔嗚尊の8人の子供(八島篠見神、五十猛神、大屋比売神、抓津比売神、大年神、宇迦之御魂神、大屋毘古神、須勢理毘売命)の総称
配神
(東御座に同座) 神大市比売命、佐美良比売命 - いずれも素戔嗚尊の妻
(西御座に御座) 稲田宮主須賀之八耳神
明治時代の神仏判然令以前は、主祭神は以下の3柱であった。
中の座:牛頭天王 (ごずてんのう)
東の座:八王子 (はちおうじ)
西の座:頗梨采女 (はりさいにょ・ばりうねめ)
牛頭天王は起源不詳の習合神で祇園精舎を守護するとされ、日本では素戔嗚尊と同神とされていた。頗梨采女は牛頭天王の后神であることから素戔嗚の后である櫛稲田姫命と同一視された。櫛稲田姫命は方角の吉方(恵方)を司る歳徳神(としとくしん)と同一と見なされていたこともあり暦神としても信仰された。八王子は牛頭天王の8人の王子であり、暦神の八将神に比定された。
また、東御座には社伝に明確な記述が無い蛇毒気神(だどくけのかみ)が祭られている。この神は沙渇羅(さから)龍王の娘で今御前(第二婦人のこと)と呼ばれる。または、ヤマタノヲロチが変化したものとも考えられている。
歴史
社伝によれば、2つの説があり、貞観18年(876年)南都の僧・円如(えんにょ)が当地にお堂を建立し、同じ年に天神(祇園神)が東山の麓、祇園林に降り立ったことにはじまるという説と、斉明天皇2年(656年)、高句麗(この時代の高句麗の民族はツングース族であるという見方が識者の中では多く見られる)から来日した調進副使・伊利之使主(いりしおみ)の創建とされる説もあるが、この伊利之使主創建説は現存する歴史資料からは根拠に乏しいものと批判されている。
※おみ【使主】〘 名詞 〙
古代の称号。名の下に付す敬称の場合と、姓(かばね)の場合とがある。
古代の姓(かばね)の一つ。臣(おみ)と同じで、渡来人に多い。政治制度としての氏姓制の確立以前は使主と臣は混同して用いられたと思われる。
牛頭天王は釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされるが、実際にはインド、中国、朝鮮において信仰された形跡はなく、日本独自の神である。名は新羅の牛頭山に由来するのだという説があるが、これも定説にはなっていない。そして山城国愛宕郡八坂郷に祀り、「八坂造」の姓を賜ったのに始まるとする。
先述の通り、上記の伊利之使主創建説は現存する歴史資料からは根拠に乏しいものと批判されている。戦後における祇園社の創祀についての先駆的な学術的研究は久保田収の「祇園社の創祀について」であり、久保田は史料を詳細に検討した結果、祇園社は貞観18年(876年)僧・円如が後に神宮寺となる観慶寺を建立し、ほどなく祇園神が東山の麓の祇園林に降り立ち、垂迹したものと結論づけている。
祭神は当初は「祇園天神」または「天神」とだけ呼称されており、牛頭天王(およびそれに習合した素戔嗚尊)の名が文献上は出てこないことから、最初は牛頭天王・素戔嗚尊とは異なる天神が祭神であり、やがて(遅くとも鎌倉時代には)牛頭天王と素戔嗚尊が相次いで習合したものと考えられている。
古くからある神社であるが、延喜式神名帳には記されていない。これは神仏習合の色あいが濃く当初は興福寺、次いで延暦寺の支配を受けていたことから、神社ではなく寺とみなされていたためと見られるが、後の二十二社の一社にはなっており、神社としても見られていたことがわかる。平安時代中期ごろから一帯の産土神として信仰されるようになり、朝廷からも篤い崇敬を受けた。
祇園祭は、貞観11年(869年)に各地で疫病が流行した際に神泉苑で行われた御霊会を起源とするもので、元慶元年(877年)には当社で行われている。天禄元年(970年)ごろからは当社の祭礼として毎年行われるようになった。
※牛頭天王(ごずてんのう)は日本における神仏習合の神。釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされた。蘇民将来説話の武塔天神と同一視され薬師如来の垂迹であるとともにスサノオの本地ともされた。
(垂迹)薬師如来→牛頭天王→スサノオ
(本地)薬師如来←牛頭天王←スサノオ
京都東山祇園や播磨国広峰山に鎮座して祇園信仰の神(祇園神)ともされ現在の八坂神社にあたる感神院祇園社から勧請されて全国の祇園社、天王社で祀られた。また陰陽道では天道神と同一視された。道教的色彩の強い神だが、中国の文献には見られない。
牛頭天王は、京都の感神院祇園社(現八坂神社)の祭神である。
『祇園牛頭天王御縁起』によれば、本地仏は東方浄瑠璃世界(東方の浄土)の教主薬師如来であるが、かれは12の大願を発し、須彌山中腹にある「豊饒国」(日本のことか)の武答天王の一人息子として垂迹し、姿をあらわした。
太子は、7歳にして身長が7尺5寸あり、3尺の牛の頭をもち、また、3尺の赤い角もあった。太子は王位を継承して牛頭天王を名乗るが、后を迎えようとするものの、その姿形の怖ろしさのために近寄ろうとする女人さえいない。牛頭天王は酒びたりの毎日を送るようになった。
3人の公卿が天王の気持ちを慰安しようと山野に狩りに連れ出すが、そのとき一羽の鳩があらわれた。山鳩は人間のことばを話すことができ、大海に住む沙掲羅龍王(八大龍王)の娘のもとへ案内すると言う。牛頭天王は娘を娶りに出かける。
旅の途次、長者である弟の古單將來に宿所を求めたが、慳貪な古単(古端、巨端)はこれを断った。それに対し、貧乏な兄の蘇民將來は歓待して宿を貸し、粟飯を振舞った。蘇民の親切に感じ入った牛頭天王は、願いごとがすべてかなう牛玉を蘇民に授け、のちに蘇民は富貴の人となった。
龍宮へ赴いた牛頭天王は、沙掲羅の三女の頗梨采女を娶り、8年をそこで過ごす間に七男一女の王子(八王子)をもうけた。豊饒国への帰路、牛頭天王は八万四千の眷属を差向け、古単への復讐を図った。古端は千人もの僧を集め、大般若経を七日七晩にわたって読誦させたが、法師のひとりが居眠りしたために失敗し、古単の眷属五千余はことごとく蹴り殺されたという。この殺戮のなかで、牛頭天王は古単の妻だけを蘇民将来の娘であるために助命して、「茅の輪をつくって、赤絹の房を下げ、『蘇民将来之子孫なり』との護符を付ければ、末代までも災難を逃れることができる」と除災の法を教示した。
以上が、『祇園牛頭天王御縁起』の概要である。
※モレク(Molech、ヘブライ語:מלך (mlk))は、古代の中東で崇拝された神の名。カナンの神のヘブライ語名。モロク(Moloch、[ˈmoʊlɒk])ともいう。
セム語派で王を意味するマリク(Malik、mlk)に基づく第二神殿時代の偽悪語法的発音である。

「涙の国の君主」、「母親の涙と子供達の血に塗れた魔王」とも呼ばれており、人身供犠が行われたことで知られる。ラビ・ユダヤ教の伝統では、Molochは生贄が投げ入れられる、火で熱されたブロンズ像とされる。
・蘇民将来と素戔鳴神(伝説の起源を探る)
https://www.eonet.ne.jp/~temb/9/SominShorai/Somin.htm
※蘇民将来(備後国風土記の謎)
素戔鳴系の神社に「蘇民将来」という不思議な伝説があります。素戔烏神が一夜の宿を提供してくれた蘇民将来に対し、茅の輪を付けた一人の娘を残しただけですべて滅ぼしてしまったというものです。あまりにも理不尽なので、滅ぼされたのは弟の一族だなどと誤認されていますが、なぜ、このような理不尽な伝説が生まれたのか。その起源に切り込みます。
二十二社註式 祇園社(群書類従)
「神社本縁記いわく。昔、北海に坐すの武塔神、南海の女に通いて、彼に出ますに、日暮れたり。彼の所に将来二人ありき。兄は蘇民将来という。甚だ貧窮。弟は巨旦将来という。富饒で屋舎一百ありき。ここに武塔神が宿る所を借りるに、惜しみて借さず。兄の蘇民将来は借したてまつる。すなわち、粟柄を以って席となし、粟飯を以って饗たてまつる。武塔出まして後に、年を経て八柱の子を率い還り来て、我、まさに奉りの報答を為さんとす。曰く。汝に子孫ありや。蘇民答えていわく。己(おのれ)に子女、子と婦と侍ると申す。宣わく。茅を以って輪を為し、腰上に着けよ。詔に随いて着く。即ち、夜に、蘇民の女(むすめ)、子と婦と置きて、皆ことごとく殺し亡ぼしてき。時に詔わく、吾は速須佐能神なり。後世に疫気あらば、汝、蘇民将来の子孫と云いて茅の輪を以って腰に着く人あれば、まさに免れむとすと詔き。」
備後国風土記逸文
「備後国の風土記に曰く。疫隈の国社。昔、北海に坐しし武塔神、南海の神の女子をよばいに出でいますに、日暮れぬ。彼の所に将来二人ありき。兄の蘇民将来は甚だ貧窮。弟の将来は豊饒で屋倉一百ありき。ここに、武塔神宿る所を借りるに、おしみて借さず。兄の蘇民将来は借したてまつる。すなわち粟柄を以って座となし、粟飯等を以って饗たてまつる。ここにおえて出で坐す。のちに、年を経て、八柱の子を率いて還り来て詔りたまひしく、我は将来の報答を為す。汝の子孫、その家にありやと問いたまふ。蘇民将来、答えて申ししく。己が女子、この婦と侍りと申す。すなわち詔りたまひしく。茅の輪を以って腰の上に着けさしめよ。詔にしたがひて着けさしむ。すなわち、夜に蘇民の女子一人を置きて、皆ことごとく殺し滅ぼしてき。すなわち、詔りたまひしく。吾は速須佐雄能神なり。後の世に、疫気あれば、汝、蘇民将来の子孫といひて、茅の輪を以って腰に付けるある人は将にのがれなむと詔たまひしき。」
二十二社註式では、蘇民将来の娘、子と婦の二人を残して、皆、ことごとく殺し亡ぼしたとされていますが、備後国風土記逸文では、「蘇民の女子一人を置きて、皆、ことごとく殺し亡ぼしてき」と、残されたのは一人の女の子です。おそらく、二十二社註式の方が原型を伝えているでしょう。風土記逸文では、「汝の子孫その家に在りや?」という武塔神の問いに、「娘とこの婦がいる。」と答えており、問いの「子孫」と内容がずれています。須佐之男神は、宿を貸してくれなかった弟の巨旦将来一族ばかりでなく、貧しいなりに自分を接待してくれた恩義あるはずの蘇民将来まで殺したことになります。
このことは鶴見良行氏の「ナマコの眼」を読んでいて教えられました。それまでは蘇民将来も生きていると思っていた。「蘇民将来兄の一家は、今日ふうにいうと核家族で夫婦と娘だけで暮らしている。チガヤのベルトを着けた娘だけが助かって、両親は『ことごとに殺しほろぼしてき』となる。武塔に宿を与えたのは、蘇民将来兄だったのだから、仏教の報恩懲罰や近代個人主義の論理でいうと、富者で宿を与えなかった弟一家が死んでよさそうなものだが、弟一家については一言の言及もなく、兄の娘だけがチガヤのお守りで延命するのである。」という文章を見つけて、そんな馬鹿なと読み返したら、鶴見氏の言うとおりでした。常識感覚に引きずられて、正確に読めていなかった。

(上)茅の輪(ちのわ)=智の輪
※マタイは、新約聖書の福音書に登場する人物でイエス・キリストの十二使徒の1人。マタイはヘブライ語系の名前で、新約聖書原文のギリシア語表記はマタイオス (Μαθθαῖος, Maththaios) である。
ラテン語ではマタエウス (Matthaeus)、イタリア語ではマテオ(Matteo) 、フランス語ではマテュー (Matthieu)、英語ではマシュー (Matthew)、ドイツ語ではマテウス (Matthäus)、ロシア語ではマトフェイ (Матфей) 、アラビア語ではマッター(مَتَّى, Mattā)となる。
・新改訳聖書 マタイの福音書 25章31-46節
人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
そうして、王は、その右にいる者たちに言います。
『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
すると、その正しい人たちは、答えて言います。
『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
すると、王は彼らに答えて言います。
『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。
『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』
そのとき、彼らも答えて言います。
『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』
すると、王は彼らに答えて言います。
『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』
こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。
https://museum.umic.jp/somin/sominshou/s_sominshou02.html
※「備後国風土記」は、(卜部兼方が13世紀後半に著した、)鎌倉時代末期の『釈日本記』に引用記載されていることから逸文(※原文がほとんどなくなって世に一部分しか伝わっていない文章。一部分だけ残った文章)として伝存している。
風土記は、和銅6年(西暦713年)の中央官命により作成された報告公文書で、いつ編述が完了したかは明らかでないが、早くても官命後数年を要したと思われる。
(つまり、8世紀初頭のオリジナルの「備後国風土記」は失われており、13世紀後半の「釈日本記」に一部分が引用という形で残っているだけ。)
この備後国(現広島県東部)風土記逸文に、わが国で最も古い蘇民説話が見られ、原文を要約するとおよそ次のようになる。
「むかし、武塔(むたふ=むとう)神が求婚旅行の途中宿を求めたが、裕福な弟将来はそれを拒み、貧しい兄蘇民将来は一夜の宿を提供した。後に再びそこを通った武塔神は兄蘇民将来とその娘らの腰に茅の輪(ちのわ)をつけさせ、弟将来たちは宿を貸さなかったという理由で皆殺しにしてしまった。武塔神は「吾は速須佐雄の神なり。後の世に疫気あらば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けたる人は免れなむ」と言って立ち去った。」
この説話で注目したいのは、まず武塔神という名の神である。
武塔神(むとうのかみ)は、外国から渡来した武答天神王か、武に勝れた神を意味する名であるかは明確ではないが、「吾は速須佐雄の神なり」と、伝承の過程でスサノオノミコトに武塔神が習合されている。ここでは後にふれる牛頭天王(ごずてんのう)と武塔神は習合されていない。ちなみにスサノオノミコトを祗園社の牛頭天王と習合するのは平安時代以降である。
(『釈日本紀』では「祇園を行疫神となす武塔天神の御名は世の知る所なり」と述べられており、初期の祇園信仰の祭神は武塔天神であり、のちに牛頭天王と称されるようになったと考えられる。)
次に、悪い病気が流行したら除厄の呪文として「蘇民将来の子孫」と唱えるように武塔神が言ったが、この呪文は蘇民将来符に「蘇民・将来・子孫・人也」と書かれている。
※釈日本紀(しゃくにほんぎ)
鎌倉時代中期に著わされた『日本書紀』の注釈書。卜部兼方(懐賢)著。二十八巻。略して『釈紀』ともいう。成立年は未詳であるが、兼方の父兼文が文永十一年(一二七四)―建治元年(一二七五)に前関白一条実経の『日本書紀』神代巻に関する質問に答えたことが文中にみえ、正安三年(一三〇一)転写の奥書があるので、その間に成立したものと考えられる。鎌倉時代の卜部家は古典研究を家学とし、『日本書紀』の講読を行なっていたが、兼方は、平安時代初期以来『日本書紀』を講読してきた諸博士の説と、卜部家の家学を集大成して本書を著わした。全巻は、巻一「開題」、巻二「注音」(難字句の音を記す)、巻三「乱脱」(分注などの位置を正し、読み方を指示する)、巻四「帝皇系図」、巻五―十五「述義」(難語句の意味を諸書・諸説を引いて述べる)、巻十六―二十二「秘訓」(秘伝的な古訓を記す)、巻二十三―二十八「和歌」(『日本書紀』歌謡をあげ解釈を記す)の七部門から成り、「述義」が最も重要な部分である。注釈の態度は、数多くの古書を引用する客観的なもので、現在では散逸した古典が数多く引用されている点でかけがえのない書であり、『丹後国風土記』『伊予国風土記』をはじめとする風土記の逸文は二十余種に及び、『大倭本紀』『上宮記』などの逸文を見ることができる。
※八坂神社(やさかじんじゃ)は、京都府京都市東山区祇園町北側にある神社。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国にある八坂神社や素戔嗚尊を祭神とする関連神社(約2300社)の総本社であると主張している。通称として祇園さんや八坂さんとも呼ばれる。祇園祭(祇園会)の胴元としても知られる。
社名について
元の祭神であった牛頭天王が祇園精舎の守護神であるとされていたことから、元々「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていたものが、慶応4年=明治元年(1868年)の神仏分離令により「八坂神社」と改名された。
主祭神
中御座:素戔嗚尊 (すさのをのみこと)
東御座:櫛稲田姫命 (くし(い)なだひめのみこと) - 素戔嗚尊の妻
西御座:八柱御子神 (やはしらのみこがみ) - 素戔嗚尊の8人の子供(八島篠見神、五十猛神、大屋比売神、抓津比売神、大年神、宇迦之御魂神、大屋毘古神、須勢理毘売命)の総称
配神
(東御座に同座) 神大市比売命、佐美良比売命 - いずれも素戔嗚尊の妻
(西御座に御座) 稲田宮主須賀之八耳神
明治時代の神仏判然令以前は、主祭神は以下の3柱であった。
中の座:牛頭天王 (ごずてんのう)
東の座:八王子 (はちおうじ)
西の座:頗梨采女 (はりさいにょ・ばりうねめ)
牛頭天王は起源不詳の習合神で祇園精舎を守護するとされ、日本では素戔嗚尊と同神とされていた。頗梨采女は牛頭天王の后神であることから素戔嗚の后である櫛稲田姫命と同一視された。櫛稲田姫命は方角の吉方(恵方)を司る歳徳神(としとくしん)と同一と見なされていたこともあり暦神としても信仰された。八王子は牛頭天王の8人の王子であり、暦神の八将神に比定された。
また、東御座には社伝に明確な記述が無い蛇毒気神(だどくけのかみ)が祭られている。この神は沙渇羅(さから)龍王の娘で今御前(第二婦人のこと)と呼ばれる。または、ヤマタノヲロチが変化したものとも考えられている。
歴史
社伝によれば、2つの説があり、貞観18年(876年)南都の僧・円如(えんにょ)が当地にお堂を建立し、同じ年に天神(祇園神)が東山の麓、祇園林に降り立ったことにはじまるという説と、斉明天皇2年(656年)、高句麗(この時代の高句麗の民族はツングース族であるという見方が識者の中では多く見られる)から来日した調進副使・伊利之使主(いりしおみ)の創建とされる説もあるが、この伊利之使主創建説は現存する歴史資料からは根拠に乏しいものと批判されている。
※おみ【使主】〘 名詞 〙
古代の称号。名の下に付す敬称の場合と、姓(かばね)の場合とがある。
古代の姓(かばね)の一つ。臣(おみ)と同じで、渡来人に多い。政治制度としての氏姓制の確立以前は使主と臣は混同して用いられたと思われる。
牛頭天王は釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされるが、実際にはインド、中国、朝鮮において信仰された形跡はなく、日本独自の神である。名は新羅の牛頭山に由来するのだという説があるが、これも定説にはなっていない。そして山城国愛宕郡八坂郷に祀り、「八坂造」の姓を賜ったのに始まるとする。
先述の通り、上記の伊利之使主創建説は現存する歴史資料からは根拠に乏しいものと批判されている。戦後における祇園社の創祀についての先駆的な学術的研究は久保田収の「祇園社の創祀について」であり、久保田は史料を詳細に検討した結果、祇園社は貞観18年(876年)僧・円如が後に神宮寺となる観慶寺を建立し、ほどなく祇園神が東山の麓の祇園林に降り立ち、垂迹したものと結論づけている。
祭神は当初は「祇園天神」または「天神」とだけ呼称されており、牛頭天王(およびそれに習合した素戔嗚尊)の名が文献上は出てこないことから、最初は牛頭天王・素戔嗚尊とは異なる天神が祭神であり、やがて(遅くとも鎌倉時代には)牛頭天王と素戔嗚尊が相次いで習合したものと考えられている。
古くからある神社であるが、延喜式神名帳には記されていない。これは神仏習合の色あいが濃く当初は興福寺、次いで延暦寺の支配を受けていたことから、神社ではなく寺とみなされていたためと見られるが、後の二十二社の一社にはなっており、神社としても見られていたことがわかる。平安時代中期ごろから一帯の産土神として信仰されるようになり、朝廷からも篤い崇敬を受けた。
祇園祭は、貞観11年(869年)に各地で疫病が流行した際に神泉苑で行われた御霊会を起源とするもので、元慶元年(877年)には当社で行われている。天禄元年(970年)ごろからは当社の祭礼として毎年行われるようになった。
※牛頭天王(ごずてんのう)は日本における神仏習合の神。釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされた。蘇民将来説話の武塔天神と同一視され薬師如来の垂迹であるとともにスサノオの本地ともされた。
(垂迹)薬師如来→牛頭天王→スサノオ
(本地)薬師如来←牛頭天王←スサノオ
京都東山祇園や播磨国広峰山に鎮座して祇園信仰の神(祇園神)ともされ現在の八坂神社にあたる感神院祇園社から勧請されて全国の祇園社、天王社で祀られた。また陰陽道では天道神と同一視された。道教的色彩の強い神だが、中国の文献には見られない。
牛頭天王は、京都の感神院祇園社(現八坂神社)の祭神である。
『祇園牛頭天王御縁起』によれば、本地仏は東方浄瑠璃世界(東方の浄土)の教主薬師如来であるが、かれは12の大願を発し、須彌山中腹にある「豊饒国」(日本のことか)の武答天王の一人息子として垂迹し、姿をあらわした。
太子は、7歳にして身長が7尺5寸あり、3尺の牛の頭をもち、また、3尺の赤い角もあった。太子は王位を継承して牛頭天王を名乗るが、后を迎えようとするものの、その姿形の怖ろしさのために近寄ろうとする女人さえいない。牛頭天王は酒びたりの毎日を送るようになった。
3人の公卿が天王の気持ちを慰安しようと山野に狩りに連れ出すが、そのとき一羽の鳩があらわれた。山鳩は人間のことばを話すことができ、大海に住む沙掲羅龍王(八大龍王)の娘のもとへ案内すると言う。牛頭天王は娘を娶りに出かける。
旅の途次、長者である弟の古單將來に宿所を求めたが、慳貪な古単(古端、巨端)はこれを断った。それに対し、貧乏な兄の蘇民將來は歓待して宿を貸し、粟飯を振舞った。蘇民の親切に感じ入った牛頭天王は、願いごとがすべてかなう牛玉を蘇民に授け、のちに蘇民は富貴の人となった。
龍宮へ赴いた牛頭天王は、沙掲羅の三女の頗梨采女を娶り、8年をそこで過ごす間に七男一女の王子(八王子)をもうけた。豊饒国への帰路、牛頭天王は八万四千の眷属を差向け、古単への復讐を図った。古端は千人もの僧を集め、大般若経を七日七晩にわたって読誦させたが、法師のひとりが居眠りしたために失敗し、古単の眷属五千余はことごとく蹴り殺されたという。この殺戮のなかで、牛頭天王は古単の妻だけを蘇民将来の娘であるために助命して、「茅の輪をつくって、赤絹の房を下げ、『蘇民将来之子孫なり』との護符を付ければ、末代までも災難を逃れることができる」と除災の法を教示した。
以上が、『祇園牛頭天王御縁起』の概要である。
※モレク(Molech、ヘブライ語:מלך (mlk))は、古代の中東で崇拝された神の名。カナンの神のヘブライ語名。モロク(Moloch、[ˈmoʊlɒk])ともいう。
セム語派で王を意味するマリク(Malik、mlk)に基づく第二神殿時代の偽悪語法的発音である。

「涙の国の君主」、「母親の涙と子供達の血に塗れた魔王」とも呼ばれており、人身供犠が行われたことで知られる。ラビ・ユダヤ教の伝統では、Molochは生贄が投げ入れられる、火で熱されたブロンズ像とされる。
・蘇民将来と素戔鳴神(伝説の起源を探る)
https://www.eonet.ne.jp/~temb/9/SominShorai/Somin.htm
※蘇民将来(備後国風土記の謎)
素戔鳴系の神社に「蘇民将来」という不思議な伝説があります。素戔烏神が一夜の宿を提供してくれた蘇民将来に対し、茅の輪を付けた一人の娘を残しただけですべて滅ぼしてしまったというものです。あまりにも理不尽なので、滅ぼされたのは弟の一族だなどと誤認されていますが、なぜ、このような理不尽な伝説が生まれたのか。その起源に切り込みます。
二十二社註式 祇園社(群書類従)
「神社本縁記いわく。昔、北海に坐すの武塔神、南海の女に通いて、彼に出ますに、日暮れたり。彼の所に将来二人ありき。兄は蘇民将来という。甚だ貧窮。弟は巨旦将来という。富饒で屋舎一百ありき。ここに武塔神が宿る所を借りるに、惜しみて借さず。兄の蘇民将来は借したてまつる。すなわち、粟柄を以って席となし、粟飯を以って饗たてまつる。武塔出まして後に、年を経て八柱の子を率い還り来て、我、まさに奉りの報答を為さんとす。曰く。汝に子孫ありや。蘇民答えていわく。己(おのれ)に子女、子と婦と侍ると申す。宣わく。茅を以って輪を為し、腰上に着けよ。詔に随いて着く。即ち、夜に、蘇民の女(むすめ)、子と婦と置きて、皆ことごとく殺し亡ぼしてき。時に詔わく、吾は速須佐能神なり。後世に疫気あらば、汝、蘇民将来の子孫と云いて茅の輪を以って腰に着く人あれば、まさに免れむとすと詔き。」
備後国風土記逸文
「備後国の風土記に曰く。疫隈の国社。昔、北海に坐しし武塔神、南海の神の女子をよばいに出でいますに、日暮れぬ。彼の所に将来二人ありき。兄の蘇民将来は甚だ貧窮。弟の将来は豊饒で屋倉一百ありき。ここに、武塔神宿る所を借りるに、おしみて借さず。兄の蘇民将来は借したてまつる。すなわち粟柄を以って座となし、粟飯等を以って饗たてまつる。ここにおえて出で坐す。のちに、年を経て、八柱の子を率いて還り来て詔りたまひしく、我は将来の報答を為す。汝の子孫、その家にありやと問いたまふ。蘇民将来、答えて申ししく。己が女子、この婦と侍りと申す。すなわち詔りたまひしく。茅の輪を以って腰の上に着けさしめよ。詔にしたがひて着けさしむ。すなわち、夜に蘇民の女子一人を置きて、皆ことごとく殺し滅ぼしてき。すなわち、詔りたまひしく。吾は速須佐雄能神なり。後の世に、疫気あれば、汝、蘇民将来の子孫といひて、茅の輪を以って腰に付けるある人は将にのがれなむと詔たまひしき。」
二十二社註式では、蘇民将来の娘、子と婦の二人を残して、皆、ことごとく殺し亡ぼしたとされていますが、備後国風土記逸文では、「蘇民の女子一人を置きて、皆、ことごとく殺し亡ぼしてき」と、残されたのは一人の女の子です。おそらく、二十二社註式の方が原型を伝えているでしょう。風土記逸文では、「汝の子孫その家に在りや?」という武塔神の問いに、「娘とこの婦がいる。」と答えており、問いの「子孫」と内容がずれています。須佐之男神は、宿を貸してくれなかった弟の巨旦将来一族ばかりでなく、貧しいなりに自分を接待してくれた恩義あるはずの蘇民将来まで殺したことになります。
このことは鶴見良行氏の「ナマコの眼」を読んでいて教えられました。それまでは蘇民将来も生きていると思っていた。「蘇民将来兄の一家は、今日ふうにいうと核家族で夫婦と娘だけで暮らしている。チガヤのベルトを着けた娘だけが助かって、両親は『ことごとに殺しほろぼしてき』となる。武塔に宿を与えたのは、蘇民将来兄だったのだから、仏教の報恩懲罰や近代個人主義の論理でいうと、富者で宿を与えなかった弟一家が死んでよさそうなものだが、弟一家については一言の言及もなく、兄の娘だけがチガヤのお守りで延命するのである。」という文章を見つけて、そんな馬鹿なと読み返したら、鶴見氏の言うとおりでした。常識感覚に引きずられて、正確に読めていなかった。

(上)茅の輪(ちのわ)=智の輪
※マタイは、新約聖書の福音書に登場する人物でイエス・キリストの十二使徒の1人。マタイはヘブライ語系の名前で、新約聖書原文のギリシア語表記はマタイオス (Μαθθαῖος, Maththaios) である。
ラテン語ではマタエウス (Matthaeus)、イタリア語ではマテオ(Matteo) 、フランス語ではマテュー (Matthieu)、英語ではマシュー (Matthew)、ドイツ語ではマテウス (Matthäus)、ロシア語ではマトフェイ (Матфей) 、アラビア語ではマッター(مَتَّى, Mattā)となる。
・新改訳聖書 マタイの福音書 25章31-46節
人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
そうして、王は、その右にいる者たちに言います。
『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
すると、その正しい人たちは、答えて言います。
『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
すると、王は彼らに答えて言います。
『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。
『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』
そのとき、彼らも答えて言います。
『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』
すると、王は彼らに答えて言います。
『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』
こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。