・茅の輪くぐりと夏越の祓

岡田耕

2024年7月9日

https://note.com/okadakou/n/nfac6daff509f



※夏越(なごし)の大祓(おおはらえ)

茅の輪を詠むには、夏越の祓(はらえ)全体を理解しておきたいです。

神田明神の夏越の祓に参列してきましたのでご紹介します。

茅の輪くぐりは夏越の祓の一部であることが分かります。

夏越の祓のそもそもの起源は『延喜式』(九〇五年)に規定されています。

大祓の次第は次のようです。


大内裏の朱雀門に内侍・奉行官人・祝師の座が設けられ、酉の刻(午後六時)に諸司官人が着座する。

御贖物(おんあがもの)(祓の具で、人形のようなもの)、祓物(はらえつもの)(罪や穢れをはらうために備える品物)を持ち出し、祓馬(はらえうま)が引き出される。ついで神祇官人が切麻(きりぬさ)を頒ち、祝師が祝詞を読み、大麻が配布される。最後に祓物を撤去して終了する。

窪寺紘一『公武行事歳時記』世界聖典刊行協会 


宮中の行事としては、その後、廃れたようですが、明治になって大祓いの行事が復興したそうです。神社では大祓を年中行事として行っていたそうです。神田明神の夏越の祓いの神事もこの例に倣っているようです。

一、 祝詞の読み上げ

神主が祝詞を読み上げます。参列者は「神拝詞(しんぱいし)」が配られて、その中の「大祓詞(おおはらえのことば)」を神主と唱和します。雅楽が演奏され、巫女二人による「豊栄(とよさか)の舞」が演じられます。




二、裂布(さきぬの)による清め 

祝詞の読み上げの後、神官二人が一尺四方ほどの絹の布を、参列者の前で、縦に三回、つまり一枚が二枚、四枚、八枚になるまでびりびりと裂いて邪気を祓います。大祓詞の一節『天つ菅麻(すがそ)を本刈り断ち 末刈り切りて 八針(やはり)に取り辟(さ)きて』を模したといわれています。



『大祓詞』 写真中央部に「裂布」の一節があります。


三、 切麻(きりぬさ)による清め 

切麻は、和紙と麻の繊維を混ぜたもので、祓いの道具の一つ。参列者には事前に切麻の入った小さな紙袋が渡され、自分で自分の心身のケガレを祓う「自祓(じばらい)」をします。




四、 人形(ひとがた)による清め

紅白一対の人の形をした紙に、家族の氏名と年齢を書いて、体の左右中央を撫でて、息を三度吹きかけます。この人形は、七月三日に東京湾の船上で、お祓いをしてくださるそうです(人形祓流却神事)。明治時代の宮中では、祓物も浜離宮から海に流したそうです。




五、 茅ちの輪くぐりによる清め

神職とともに、参拝者が茅の輪をくぐります。日本神話の蘇民将来の故事に由来するもので、茅の輪は腰に着けていたものが、江戸時代を迎えるころに現在の潜り抜けるものになったそうです。





・どうして茅の輪をくぐるのか(その1)

岡田耕

2024年7月29日

https://note.com/okadakou/n/ne61d45a38e9c

※茅の輪くぐりと夏越の祓

茅の輪くぐりは、夏越の祓いの神事の一つと書いた。

ただ、神田明神の夏越の大祓の神事に参列していながらも、どうしても疑問が残っていた。それは茅の輪くぐりの由来のことである。

各神社の説明でも文献でも、茅の輪くぐりの由来は素戔嗚尊(すさのおのみこと)の神話にもとづいていると説明されている。

参列した神田明神の掲示板にもそう書かれていたし、茅の輪神事の発祥の地とされる素戔嗚(すさのお)神社でもそのように説明されている。


備後風土記逸文によれば、昔 北海に坐ます武塔神(むとうかみ)が南海の神女のもとに行かれる途中、日が暮れ一夜の宿を求めて、この地で富み栄えていた巨旦将来(こたんしょうらい)の家を訪ねたところ断られました。

次に兄の蘇民将来(そみんしょうらい)を訪ねました。貧しいながらも蘇民は快く一夜の宿をお貸ししました。

時を経て尊は八人の王子を連れて蘇民将来の家に立ち寄られ、「吾は速須 佐能雄神(すさのうのかみ)なり。後の世に疫病(えやみ)あらば、汝は蘇民将来の子孫と云いて、茅の輪を以って腰に着けたる人は免れるであろう」と 云われ、巨旦将来を誅滅された伝説が残っています。

尊は温かいもてなしを受けた感謝のしるしとして蘇民将来に「茅の輪」を授けられ、蘇民の一族は疫病から逃れることが 出来ました。

これが今日に伝わっている茅の輪くぐりの神事の起りです。

今では全国的に行われていますが、備後風土記逸文に出てくる疫隈國社は戸手の素盞鳴(すさのお)神社のことであり、茅の輪神事の発祥の地であります。

年間行事 | 備後國一の宮 素盞嗚神社 (susanoojinja.com)


しかし、その由来とされる神話からは、現在の茅の輪くぐりが、どうして茅の輪をくぐらなければならないのか、という疑問の答えになっていないのである。

神話のとおり腰につけた茅の輪が疫病退散になるというのなら、現在の茅の輪神事は、お祓いのされた手の平サイズほどの茅の輪を参列者に授けて、腰に付けてもらえばよいはずである。

また、大祓いは過去の半年間の穢れを祓うためのもので、疫病退散の物語の神話と目的が違うのではないか。

さらに、夏の六月末と冬の十二月末に行われる大祓いの時期に行われるのにも違和感がある。

素戔嗚尊の神話だけが由来であれば、どういう変遷を経て神社にあんな大きな茅の輪を建てることになったのか想像ができないのである。

平安時代中期に編纂された『延喜式』(九〇五年)に規定された大祓いの神事の中にも、祝詞の読み上げ、裂布(さきぬの)、切麻(きりぬさ)、人形(ひとがた)の神事の四つは記載されているが、五つ目の茅の輪神事は書かれていない。(「茅の輪くぐりと夏越の祓」)

茅の輪くぐりは、どうも大祓の神事と一緒にするのは違う気がしたのである。

この疑問を解決するヒントが、宇佐八幡宮(豊前・今の大分県)で行われていた御祓会の神幸行列の概略を描いた絵巻『宇佐御祓図』(江戸時代画)にあった。



『宇佐御祓図』

資料の解説によると、この御祓会の行列の図の行列の前方には「菅貫輪(すがぬきわ)」という輪を持っている人が描かれている。

この御祓会は大祓と同様に六月末に行われていたという。

この「菅貫輪」は「茅の輪」と同じものと考えれば、「菅貫(すがぬき)」は大祓とは別個の行事だったというのである。

「茅の輪くぐり」は、どうもこの「菅貫」に関係があるようだ。



・どうして茅の輪をくぐるのか(その2)

岡田耕

2024年8月2日

https://note.com/okadakou/n/n611650d5be19



※夏の祓は平安時代には行われていた。

『拾遺和歌集』に「水無月の 夏越の祓する人は 千歳の命 延ぶといふなり」という歌があり、平安時代中期には宮中で行われていたようである。

菅貫(すがぬき)という草の輪は、夏の祓の道具として用いられていた。

平安時代の年中行事を描いた『年中行事絵巻』の「六月祓」にも、その菅貫の場面が描かれている。




『年中行事絵巻』 国立国会図書館デジタルコレクション

手前左の池に面して案(机)が置かれ、その上には幣串(へいぐし)(白木の棒に紙を挟んだ串で、祓に用いる)が立てられている。案の前には円座(丸い形の敷物)が置かれ、祓をする座になっている。
 
右側の遣水(やりみず)(画像外)に向かっているのは陰陽師(おんみょうじ)とのこと。




奥の神殿の中には、女性が四人いて、幼児を抱いている母親らしき女性に輪のようなものが掛けられている。

輪の大きさは絵からみて直径四~五尺くらい、今でいうフラフープくらいの大きさである。




この輪のようなものが茅の輪で、くぐらせているのは乳母だろうとのこと。あとの二人は侍女らしい。

六月祓で母子の健康を祈っているようなのである。

茅の輪は「菅貫(すがぬき)」ともいい、この絵のように頭上から足もとに下してくぐることを三回繰り返したという。

この資料で分かるのは次の点になる。

1)平安時代には夏の祓の神事に茅の輪(菅貫)が使われていた。
2)茅の輪の大きさは直径四~五尺くらいで、頭からくぐらせている。
3)茅の輪をくぐらせる神事は、陰陽師が宮中で公家に行っていた。
4)菅貫の神事は、屋外で池の前で道具を設え行われていた。

次は、現在も行われている菅貫神事をみてみることにする。



・どうして茅の輪をくぐるのか(その3)

岡田耕

2024年8月8日

https://note.com/okadakou/n/n9551b13618f1



※この菅貫神事は現在の宇佐神宮でも、7月31日、8月1日、8月2日に斎行される御神幸祭(夏越祭り)の中で行われています。



菅貫神事/宇佐市

宇佐神宮特有の祓具である「解縄串(ときなわぐし)」で、宮司以下神職が各自の祓を修した頃、二重の茅輪を後取(奉仕係の神職)が薦の上に置き、その片方を垂直に立てて待機する。

神職が薦の上に進んで起拝を行い伏せる頃、後取は立てた茅輪を神職をくぐらせる様に倒す(菅貫)。

神職は体を起こして、笏に添え持った解縄串を川御幣に投げ放つ。

菅貫神事/宇佐市


神輿が到着すると神事が始まる前に神官の祓いを行う行事です。
祝詞が奏上された後、最初に宮司が茅の輪をくぐる。
茅の輪をくぐり神前に着くための祓いを行います。
参列している全ての神官が、同じ所作を行います。
最後に御幣を投げて祓いを行います。
参列した神官全員が茅の輪をくぐり御幣を投げると、この神事が終了します。
古来では、祓いに使った御幣や茅の輪を寄藻川に流していました。
穢れは放生会で彼岸に送られるとして行われており、宇佐神宮における神仏習合の名残といえます。


ここで押さえておくべきは、「神事が始まる前」ということと、「神官の祓い」ということです。
 
御神幸祭は、人々の疫病を除き災厄を防ぐと共に、八幡総本宮として国家国民の安寧を祈願するものだそうです。

一日目は、上宮での祭典の後、本殿より三所のご神体が三基の神輿みこしに乗り境内の頓宮(とんぐう)(御仮屋)まで御神幸になります。

菅貫神事は、この三基の神輿が頓宮に入る前に行われます。

神職も神様と共に頓宮に入るのは一年ぶりになるのですから、自身のお祓いをするということなのでしょう。

ですから、菅貫神事は頓宮の門の前で行われます。

このあと神職は、頓宮の門から入り、頓宮での祭典「頓宮御着輦祭」が催行されます。

御神幸祭は疫病退散と国家安寧を願うものではあるものの、菅貫神事は、その中で宮司や神官の身を祓うための神事として位置づけられているようです。

菅貫神事の設えは、平安時代の『年中行事絵巻』の「六月祓」の中の設えともよく似ています。



『年中行事絵巻』 国立国会図書館デジタルコレクション


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次は、菅貫神事の、神話との関係、茅の輪くぐりとの関係を考えてみることにします。



・どうして茅の輪をくぐるのか(その4・完)

岡田耕

2024年8月12日

https://note.com/okadakou/n/n6fe499e05876



※どうして茅の輪をくぐるのか。
 
その由来と神話とのかかわりについて、歴史学者・東洋古代思想史研究家 村上瑞祥さんのコラムに興味深い説明があったので、これまでの疑問ごとに結論の部分を抜粋、要約する。

1)なぜ「茅」なのか。

⇒中国では古くから茅は魔除けとして、また神前に備える供物として使われてきた。漢字の「茅」の文字は、「草の矛」という意味を持つため、葉の持つ矛のような形状が、強力な神威の現れだと考えられていた。


2)なぜ素戔嗚尊(すさのおのみこと)なのか。

⇒スサノオの正体は、父神から海を統治することを命じられていることから、水神(龍神)である。


3)なぜ輪にするのか。

⇒水神(龍神)であるスサノオが、蘇民将来に茅の輪を身に付けるように言ったのは、茅の輪はとぐろを巻いた蛇もしくは龍の形であり、それは自分の姿を形取った形代(身代わり人形)という意味を持っていた。


4)なぜくぐるのか。

⇒それは古事記の中に書かれている「国生み神話」でイザナギとイザナミが左右で回り出会ったところで、国や神、スサノオたちを生んだという故事に由来している。


5)なぜ6月30日なのか。

⇒初秋のお盆に先祖霊が帰ってくるという考え方と、神道の水神信仰とが混じり合って生まれたのが「水神様が7月15日に来訪される」という信仰に繋がった。
茅の輪潜りは7月15日に来訪すると言われている水神様をお迎えするための準備の儀式で、6月30日に執り行われる。


6)何のためにくぐるのか。

⇒目的は水神様を迎えるにあたり穢れを祓い清めることにある。


これで、茅の輪くぐりと、その由来とされる素戔嗚尊(すさのおのみこと)の神話については理解できた。

特に、水神様を迎えるためというのは、確かに『年中行事絵巻』のお祓いも池の前に神具が設えてあった。

宇佐神宮の菅貫神事でも、水による祓を象徴する川を模したというジグザグの形の紙飾りが付いた三つの川御幣(写真)設えられている。
 
菅貫神事は、元来、池や川などの水辺で行われていたのだろう。



菅貫神事/宇佐市
 
最後にわからないのが、現代の我々は、なぜあんなに大きな茅の輪をくぐるのかということ。

由来とされる神話では素戔嗚は、蘇民将来に茅の輪を授けたり、身に着けるようには言ったが、くぐりなさいとは言っていない。しかも腰につけられるほど小さなものだ。

素戔嗚が授けた茅の輪は、自身の形代だということならば、茅の輪は素戔嗚の本人そのものである。
 
後世の神事で茅の輪をくぐるのは、こしらえた茅の輪が素戔嗚のものであることを水神様にお示しするために、素戔嗚が生まれたという神話にならってくぐってみせるのではないか。
 
神話では、茅の輪は素戔嗚尊の形代で本人そのものなので、わざわざくぐってみせる必要もなく、くぐれるほど大きくする必要がないのだ。

また、神話のあらすじでは、素戔嗚は泊めてもらったお礼に、後日、茅の輪を蘇民将来に授けることになっている。
 
道に迷うほどの遠くで出会った蘇民将来の家にまで、くぐれるほど大きな茅の輪を持ち歩くのは、たとえ感謝の気持ちがあったにせよ、難儀だったにちがいない。だから持ち運びのできる小さな茅の輪なのかもしれない。

それにしても現代の茅の輪のあの大きさは何だろう。



神田明神の茅の輪
 
想像のヒントは、この茅の輪くぐりは、江戸時代に入ると一般庶民にも広がったということにある。

宇佐神宮の菅貫神事では、宮司と神職が自らを清めるためにお祓いをした。

また平安時代の「年中行事絵巻」では陰陽師が宮中の貴族のお祓いをしていた。

これまでは、茅の輪をくぐるのは、宮司や貴族など特定の人に限られていた。それが庶民に広がったということは、神社の神職が不特定多数の人のお祓いをすることになったのである。

始めは神社の神職が希望する参拝者一人ひとりにフラフープほどの大きさの茅の輪をくぐらせていたかもしれない。
 
それが大人数が希望するとなれば、神職の手に負えなくなったのだろう。
 
茅の輪は、くぐることが大切なのであって、誰がくぐらせるかは神事の目的からすれば問題ではない。ならば、参拝者に自分でくぐってもらってはどうか、と考えた神職がいたのではないか。

ただ、神職のそばで直径四~五尺の輪を一人三回くぐらせるだけでも時間がかかるし、日も暮れてしまう。
 
それなら境内に置いておけば、神職がいなくてもお祓いできるのではと考えた。
 
しかし、輪を置いておくだけでは盗まれてしまう。それならと、鳥居や大木に立てかけて結んでおいたら、今度は、自分でくぐるには腰をかがめねばならず、くぐりづらいと苦情がでた。

ならば、いっそのこと、立ったまま歩いてくぐれるように、輪をもっと大きくしてはどうかと考えた。

これは神社側もまた大きな利点がある。

神職はそのお祓いに立ち会う必要はない。時期になったら大きな茅の輪を境内に据えておけば、多くの参拝者が来てくれる。
 
卑近な例で恐縮だが、スーパーマーケットのレジで店員が商品の一つ一つをバーコードリーダーにくぐらせていたものが、お客様がセルフレジで自分で商品をバーコードリーダーをくぐらせて会計をしてくれるのに似ている。

すなわち、茅の輪くぐりは神職のいない「セルフ神事」なのである。

しかも夜中でもくぐることが出来る「24時間営業」である。

これで茅の輪が大きくなって、いつでもくぐりやすくなったが、それだけでは庶民に普及することはなかっただろう。
 
宮廷で行われていた神事が一般庶民に普及するためには、利益に結び付く分かりやすい物語が必要である。
 
宮中で五節の神事であったものが、現代に一般庶民の間で三月三日のひなまつり、五月五日のこどもの日、七月七日の七夕さまに変遷したのがその例である。九月九日の重陽の節句が一般に普及しないのは、その目的と利益が庶民にはわかりづらいのである。

そこにうってつけだったのが素戔嗚尊の神話である。
 
蘇民将来は、茅の輪を身に着けただけで一家は疫病から免れたというのである。
 
神社に行って茅の輪を三回くぐるだけで蘇民将来のようにお祓いになることが、江戸時代の庶民の間で噂で広まった。それで神社に多くの参拝者が訪れるようになったのだろう。

各地の神社もその盛況ぶりを知って、鳥居や神前に大きな茅の輪を据えるようになったのではないだろうか。

これもまた卑近な例で恐縮だが、アメリカ大リーグで活躍する日本人野球選手が化粧水のCMで「肌を整える。自分が整う。」と言ったら、百貨店に多くの人が詰めかけて、売上が激増したそうだ。

憧れの有名人がその商品やサービスを使っていると聞けば、庶民がその方向に一斉に向かうという消費行動は江戸時代も現代も変わらない。
 
素戔嗚尊は、茅の輪くぐりのイメージタレントの役割を果たしていたのだ。

ただ、我々が忘れてはならないのは、蘇民将来の一家が疫病から免れたのは、宿がなくて困っていた素戔嗚尊に、貧しいながらも心づくしのおもてなしをしたからということだ。
 
化粧水のCMの野球選手も、CMの初めの部分で、「やることをやってきたか。いい顔ができているか。」と鏡の前で自分に問いただしているではないか。

茅の輪は、ただくぐればご利益があるというものではないのだろう。

結局は、日ごろの行いが大事なのだ。

(岡田 耕)