・なぜWHOの「パンデミック条約」に対する反対運動が広がっているのか…「とんでもない内容」が盛り込まれている条約の「中身」(現代ビジネス 2024年6月7日)

長谷川 幸洋

※「パンデミック条約」への反対運動

世界保健機関(WHO)が検討している「パンデミック条約」に対する反対運動が広がっている。米国では、共和党の上院議員や州知事らが条約に反対する公開書簡をジョー・バイデン大統領に送った。日本でも、抗議デモが起きている。いったい、何が問題なのか。

この条約(pandemic agreement)は、新型コロナのような世界的感染症に対する新たな対応ルールを定める狙いで、2022年からWHOを舞台に交渉が始まった。最大の目的は、先進国から途上国へワクチンの技術開発や生産、製品の移転を促すことだ。

5月にジュネーブで開かれたWHO年次総会では、194の加盟国が合意案のたたき台を基に議論したが、意見の相違は埋まらず、25年までの交渉続行を決めて閉会した。
WHOは条約の締結とともに、緊急時の対応手順などを定めた既存の「国際保健規則(IHR)」の改定も目指している。総会では、規則の中に新たに「パンデミック緊急事態」の規定を盛り込むことで合意した。

これだけ見れば、いかにも結構な話のようだ。ところが、一皮むけば、とんでもない内容が盛り込まれている。問題点はいくつもある。49人に上る米共和党の上院議員は5月2日、連名でバイデン大統領に条約に反対する公開書簡を送った。以下のようだ。

〈バイデン政権はWHOの権威を強化する2つの合意に同意しようとしている。新型コロナの感染が拡大した際のWHOの失敗は、完全に予測可能であり、我が国に永続的な損害を与えた。WHOの機能不全は無視できず、国際保健規則の改定や条約を検討する前に、包括的なWHO改革が必要だ。我々は政権に方針転換を強く勧める〉

〈加盟国が提出した300を超える国際保健規則の改正提案は、WHOの緊急事態権限を抜本的に強化し、米国の主権を侵害する。4カ月前に加盟国に修正提案を通知するルールも守られていないので、修正は有効ではない〉

〈WHOの欠陥に対応する代わりに、この条約は義務付けられた資源と技術の移転、知的財産権の寸断、言論の自由の侵害、WHOの拡充強化に焦点を当てている。中国が正当で独立した調査を拒んでいるために、我々は新型コロナの起源について、いまなお不確かなままだ。我々は、米国がいかなるパンデミック関連の条約や協議、合意にも参加しないように強く求める。要求を無視するなら、憲法の規定で条約に上院の3分の2の同意を必要とする扱いを求めるだろう〉


「パンデミック条約」がはらむ問題点

同じく共和党の州知事24人も5月22日、同じように連名で、バイデン大統領に書簡を送った。以下のようだ。

〈我々は、米国と国民に対する前例のない憲法違反の権限をWHOに与えるような2つの提案に反対する。もし採択されれば、これらの合意はWHOを公衆衛生における助言機関から世界的な権威に高める結果になる。国家主権を損ない、WHO事務局長が国際的な公衆衛生危機を宣言する一方的な権限を握ってしまう〉

〈それは国民代表の役割を剥奪し、国民にWHOの指示に従うよう強制するものだ。国際的な監視組織を創設し、加盟国に公衆衛生に関する言論統制を要求し、生物兵器の拡散を促す可能性もある。公衆衛生政策は連邦政府やWHOのような国際機関の問題ではなく、国家に帰属する問題だ。我々は、いかなるWHOへの権力移転にも反対する〉

2つの書簡に、パンデミック条約と国際保健規則の改定がはらんでいる問題点が示されている。それは(1)新型コロナにおけるWHOの失敗を覆い隠してしまう(2)国家主権をWHOに売り渡す結果になりかねない(3)中国の責任追及をしていない(4)言論統制につながる危険がある、といった問題である。

このうち、(1)と(3)は連動している。WHOは新型コロナの初期に中国に現地調査団を派遣して調べようとしたが、中国は当初、頑として応ぜず、ようやく応じた後も形ばかりの協力をしたにすぎなかった。中国はゲノム情報のような証拠を隠蔽した疑いもある。その結果、現在に至るまで感染の起源がはっきりしていない。

それどころか、中国はパンデミック条約の創設で、米欧の製薬先進国が開発したワクチン等に関する知的所有権を格安で手に入れてしまう可能性すらある。なぜかと言えば、国連の枠組みでは、中国は優遇扱いされるべき「途上国」に分類されているからだ。


責任追及はおろか支援まで!?

途上国支援は条約案のさまざまな部分に記述されている。WHO事務局が総会に用意した5月24日付の草案をみると、たとえば、技術移転については、18ページでこう記されている。

〈各国の国内法および国際法にしたがって、非独占的で世界的かつ透明性に基づいて、開発途上国の利益のために、政府所有のパンデミック関連技術に関するライセンスを利用可能にし、私的権利者に同じことをするよう促す〉

つまり「欧米の政府や企業がもつ技術を途上国に移転せよ」というのだ。具体的に途上国がどの国を指すかは明示していない。ところが、WHOの母体である国連の経済統計では、中国は、堂々と途上国に分類されている。米シンクタンク、ヘリテージ財団の上級研究員は「世界第2位の経済大国である中国は、もはや途上国ではない。米国は途上国扱いをやめるべきだ」と指摘している。

国連本体の報告書が中国を途上国扱いしているとなると、パンデミック条約も中国を途上国扱いする可能性がきわめて高い。そうなると「中国は新型コロナの感染拡大の主犯格であるにもかかわらず、その責任が問われないばかりか、なんと新たな条約では、先進国から技術移転の恩恵を受ける」という話になってしまうのだ。

これが、とんでもなく馬鹿げた話であるのは、言うまでもないだろう。


言論統制の懸念

言論統制に対する懸念もある。

合意草案は第18条で「締約国は必要に応じて科学、公衆衛生、感染教育を強化し、リスク情報伝達と効果的なコミュニティレベルの関与を通じて、パンデミックとその原因、影響、健康製品の有効性と安全性に関する透明でタイムリー、正確な科学的および証拠に基づいた情報を伝える」「WHOは感染に関連したコミュニケーションと国民の意識に対する技術支援を引き続き提供しなければならない」などと記している。

一見、もっともらしいが、裏読みすれば、各国政府は「正確な科学的証拠に基づいていない」という理由で、WHOに都合の悪い情報を排除するようになるかもしれない。ちなみに、WHOによれば、この18条は今回のWHO総会で暫定合意されてしまった。

日本のNHKは6月1日、パンデミック条約について「国家の主権や基本的人権が損なわれるとか、ワクチンの強制接種が行われるといった事実ではない誤った情報がSNSで広がっています」と報じた。「国家主権が損なわれる」という主張は、先に見たように、米共和党の上院議員や州知事らが指摘している。NHKは、共和党の主張を「フェイク」と言ったも同然だ。


共和党の主張を無視した指摘

NHKが共和党の主張を知っていたかどうか、知らないが、私に言わせれば、NHKの報道こそ「フェイク」ではないか。知っていたなら悪質だし、もしも知っていなかったのだとしたら、取材不足で偽情報を垂れ流したことになる。

NHKの報道で、ある大学教授は「正しくない情報が広がり続けば、今後の交渉がますます難航することにつながる可能性もある」「国際機関が国家に対して何かを命令したり強制したりすることは、パンデミック条約に限らず、国際法の基本としてあり得ないこと」などと指摘している。この発言も共和党の指摘を無視している。

ちなみに、同教授は前職での教授時代に、厚生労働省から「世界の健康危機への備えと対応の強化に関する我が国並びに世界の戦路的・効果的な介入に関する研究」などで、22年度と23年度に計903万円余の補助金を受け取っている。

公開されている22年度の研究報告によれば「現在、世界の健康危機への備えと対応を強化するためには、1.疾病の国際的伝播を最大限防止する目的で制定された法的枠組である国際保健規則(IHR)を強化すること、2.IHRで対応できない課題解決のために新たな法的枠組を策定すること、の2点が必要であるということが加盟国間の合意」であるそうだ。

私は中東問題に関連して、日本の国際政治学者が外務省から補助金を受け取って、政策の助言と宣伝をする構図を何度も指摘してきた。この構図は、厚労省が所管するパンデミック条約問題でも似たようなものだ。


大統領選が鍵を握る

だが、加盟国が本当に合意にこぎ着けられるかどうかは疑わしい。

11月の米大統領選でドナルド・トランプ氏が大統領に復活するか、共和党が米議会で多数を握れば、新政権は条約に同意しない、またはできないだろう。トランプ陣営は、新型コロナの感染を世界に拡大させた中国の責任を追及する方針を強めこそすれ、弱める気配はないからだ。

それどころか、トランプ前政権は2020年、WHOは「中国に完全に牛耳られている」という理由で、WHOから脱退した。政権を奪回すれば、米国は再び、WHOから脱退するだろう。

そのとき、日本の姿勢も問われる結果になる。