菊池@kikuchi_8

2024年4月14日

https://x.com/kikuchi_8/status/1779520688078180792

※数年前から「地獄の軍団」(笑)みたいに名乗る海外のと某悪魔主義結社の日本人のメンバーやシンパと思われるグループから目の敵にされて執拗に中傷攻撃を受けている。私だけならまだしも、私が交流させて頂いている方々にまで矛先を向けて来ており、活動を活発化というか先鋭化させている模様である。

そのグループ自体には大した人材はいないが、彼らの背後組織は欧米の悪魔主義結社として割と名が知られた団体であり、国際的な集団なので、取り込まれる人が出ないように警鐘を鳴らし、かつ「サタニズム=悪魔主義」の考察は裏権力の思想分析に資するので、彼らについて改めて分析しておく事とする。

当該悪魔主義結社は「サタンの喜び(The joy of satan、ジョイオブサタン、略称はJoS」(以後ジョスと表記する事にする)という。米国オクラホマ州のタルサという街を拠点としており、南北アメリカ・アフリカ・ヨーロッパなど世界中にメンバーやシンパがいるようである。主にネット上で活動している。

ジョスは2000年代の初頭から活動しており、教祖は“女教皇”こと「マキシン・ディートリッヒ」(以後「MD」と表記)と名乗る女性である。ウェブサイト上に自らの思想教義を書き込んだ大量の文書群を公開しており、それによって信者を獲得しているようである。666氏らの主張はMDの教義の引き写しである。

ジョスは「霊的悪魔主義(Spiritual Satanism)」という教義を掲げている。ラヴェイ派の悪魔主義団体である悪魔教会の無神論的唯物論的悪魔主義に対比する為に「霊的」という形容を付けたのかもしれない。霊的悪魔主義は西洋神秘主義の一派で、黒魔術・占星術・ハタヨガ・魔女術などを取り入れている。

ジョスは反猶太を掲げているのに、その教義の根幹は明らかに猶太人のゼカリア・シッチンの言説を元にしている。「サタン」を地球外生命体と見なし、シュメール神話の「エンキ」と同一視しているが、サタン=エンキが人間を創造し知識と知恵を授けたとする世界観はまるっきりシッチンの言説と重なる。

ゼカリア・シッチンはアゼルバイジャンのバクー出身の猶太人で、イスラエルやアメリカで著述活動をした。シュメール語の知識があり、シュメール神話を解釈して「異星人のアヌンナキ(シュメール神話の神々に相当する)が二ビルという惑星から地球に飛来してシュメール文明を作った」という説を唱えた。

シッチンはフリーメイソンのメンバー(一説では33階級とも)だと言われている。シッチンらしき人物が映っているフリーメイソンの会合時と思しき場面の映像やジョーダン・マクスウェルという神秘思想研究家とメーソン式の握手をしている映像がある。シッチンの言説の流布は石屋の思想工作と睨んでいる。

フリーメイソンの可能性が高い猶太人の言説を教義の世界観の根幹に据えるジョスの「反猶太」は「猶太」と両建同根であると言える。ウクライナのネオナチのオーナーが猶太系の資本家であるのに似ている。猶太が反猶太の背後にいる「両建」が普通にあり得るというのが、国際謀略の真の複雑怪奇性である。

ジョスの教祖M・ディートリッヒの夫(クリフォード・へリントン)は米国のネオナチ団体であるNSM(国家社会主義運動)の指導者だった人物である。ジョスとNSMのタルサの私書箱が共有されている事が発覚して両者の関係が露見したため、サタニスト側とネオナチ側の双方で大きな騒ぎになったようである。

ジョスはネット上のフォーラムを設けており、そこにサタニスト、オカルティスト、魔術愛好家、スピ愛好家、魔女(ウィッチクラフト=魔女術の愛好者)などが集まっている。ジョスは日本では殆ど知られていないが、近年は日本人メンバーと思しきグループがツイッター上で活動を活発化させている模様。

そのグループこそが実質的なジョイオブサタン日本支部だと推測する。彼らは主にネット上で活動する流動的なネットワークなので、固定的な組織構造は持たないと思われるが、6○6氏を筆頭に活動しているグループ・界隈が実質的な日本支部に当たるのではと推測している。6○6氏は実質的な日本支部長か?

ジョスを「ショッカー」で例えると、「ショッカー日本支部」の歴代トップであるゾル大佐、死神博士、地獄大使みたいなものと言えよう。KKKぽい白頭巾キャラのアイコンという点で、個人的には絵面的に地獄大使を連想した。しかし、ナチス絡みという本質的な部分を勘案すると、ゾル大佐に近いと言える。

「死神博士」は惑沈推進派の医師・医学者らにこそ相応しい名称である。彼らはリアル死神博士。話を戻すが、ジョス一派はまるで特撮の悪役のようである。「粛清」という物騒な言葉遣いをする事など。ジョスのメインターゲットはティーンエイジャーらしいが、どうりで雰囲気が厨学二年チックと思った。

ジョスのサイトのデザインは黒が基調で赤文字で書かれているページもある。こういうおどろおどろしさを演出する事自体、基督教の悪魔観に妥協している。そもそも猶太教・基督教を批判するとしながら、その思想的根拠を聖書由来の「サタン(satan)」という概念に求める事自体、両建に嵌められている。

裏権力の思想派閥は➀一神教➁神秘主義➂理性主義の3つがあると分析する。ジョスの霊的悪魔主義は➁西洋神秘主義に分類される。つまり、彼らは➁の立場から①を批判している訳である。しかし、裏権力の思想派閥は➀だけではないので、それだけだと片手落ちとなり、結局は両建に絡め捕られるのである。

6○6氏の「フリーメイソンは猶太に乗っ取られた」という説もマキシン・ディートリッヒの説。ジョスの文書群に書いてある。猶太はともかく基督教は近代メーソンと最初から密接である。何故なら長老派牧師のジェームズ・アンダーソンが近代フリーメイソンの憲章(アンダーソン憲章)を書いたからである。

江戸時代の学者である富永仲基は「先行の思想に新たな要素を付け加えて新しい思想を作り、かつ、その新思想の起源を先行思想よりも古いと主張する」という「加上」という思想史の法則を発見した。仲基は主に仏典を研究して加上を証明したが、加上の法則は仏典以外のあらゆる思想に適用する事が出来る。

ジョスの霊的悪魔主義にもまさに加上の法則が表れている。聖書、魔術、占星術、ハタ・ヨーガ、魔女術、ゼカリア・シッチンのシュメール神話解釈など様々な要素を組み合わせて自らの思想教義を構築し、かつその思想の起源はどの文明よりも古いと主張している。これはまさに加上説のセオリー通りである。

「悪魔主義は反体制思想」というのも事実に反する。ジョスと同じ有神論的悪魔主義の団体にセト寺院という団体がある。この団体の創設者であるマイケル・アキノは米国国防総省の高官・高級軍人だった。しかも、心理戦の専門家である。米軍の中枢で心理戦を担当していた高官が悪魔主義者だったのである。

悪魔主義が欧米の裏権力支配下で本当に反体制思想ならば、公然たる悪魔主義者が軍の高官になれるはずがないし、欧米の所謂「セレブ」と称される連中がこぞって「コルナサイン」をする訳もないであろう。悪魔主義と猶太教・基督教を両建と見てこそ、裏権力の思想の全体像が分析の射程に入ると考える。

ジョスの教義では知識と知恵を重視しサタンは自分を信仰する者にそれらを授けるとする。しかし、それはあくまで教義・ドグマに制約された知識・知恵である。知識は批判的思考によって吟味されねばならないし、真の知恵はドグマに制約されぬものである。ドグマを批判的に分析してこその知識知恵である。

ドグマに制約されている時点で猶太教ラビや基督教神学者の知識と同じである。またぞろ「ショッカー」で例えると、怪人に改造されると常人以上の力を得られるが、所詮はショッカーに洗脳された結社の駒でしかない。ドグマに制約された知識・知恵を如何に積み重ねても、それは洗脳されているに過ぎない。

陰謀追及界隈で思想分析に関心を持つ人は比較的少ないので、そんな中で悪魔主義結社に仕込まれた知識をひけらかすと、ある程度は圧倒できる場合もあるかもしれないが、所詮は洗脳されているに過ぎないのである。結社に取り込まれつつある人は、なんとか気付いて脱出し、批判的思考を取り戻してほしい。

ジョスはヒトラーを反基督教だとするが、これは事実に反する。ナチス党の綱領の25箇条の一つ第24条に「積極的キリスト教の立場を支持する」と明記されている。アルフレート・ローゼンベルクは反基督教的だったが、ローゼンベルクの思想はナチスの正式なイデオロギーとしては採用されなかったようだ。

ローゼンベルクの思想は「アリオゾフィ」と呼ばれる神秘思想の潮流の中にある。アリオゾフィは神智学を元にしたアーリア人種至上主義の神秘思想である。ジョスが反基督教を「サタン」で括るのと異なり、アリオゾフィは別に「サタン崇拝」の教義を持っていた訳でも「サタニズム」を標榜した訳でもない。

ジョスの教義はアリオゾフィの影響も受けているが、そこに新たに「サタン崇拝」という要素を「加上」したのである。聖書、神智学、魔術、占星術、ハタヨーガ、シュメール神話などルーツが異なる様々な要素を混合し、その全体を「サタン」という表象で括ったというのがジョスの教義の全体構造だと分析。

ジョス一派の諸君は猶太教や基督教を批判するという観点に立った所まではよかったかもしれないが、それを為すのに既成のカルト教義体系に全面的に依存したのが間違いだった。これでは「批判」(批判とは冷静に吟味・考察・判定する事)になっていないし、一定の枠組みの中に於ける両建抗争でしかない。

ナチスとアーリア人種至上主義的(フェルキッシュという言葉で形容される)な神秘思想との関係については「北極の神秘主義」という書籍が参考になる。難解だが、読んで損はない一冊である。この本には「ヒトラーはローゼンベルクの著書を党としての正統教義とは頑として認めなかった」と書いている。

ジョス日本支部の主張は基本的にマキシン・ディートリッヒ(MD)の教義のコピーだが、独自の要素がない事もない。「反仏教」という要素である。「全ての文明の源は東方にある」とするMDの教説で「反仏教」の要素は特に見当たらなかったので、これはやはり日本支部独自の主張と見てもよさそうである。

ジョス日本支部の主張は基本的にマキシン・ディートリッヒ(MD)の教義のコピーだが、独自の要素がない事もない。「反仏教」という要素である。「全ての文明の源は東方にある」とするMDの教説で「反仏教」の要素は特に見当たらなかったので、これはやはり日本支部独自の主張と見てもよさそうである。

日本支部が独自に「反仏教」を掲げるのは何故か。幾つかの理由を想定出来る。➀欧米とは異なり基督教徒が少ない日本で「反基督教」の悪魔主義を掲げてもいま一つ実感も迫力も出ない。そこで基督教の代替物として仏教を据えて「反仏教」を叫ぶ事で何とか日本の悪魔主義者とし実感や迫力を出そうとした。

しかし、法事の時しか坊さんに用が無いという人が多い中で「反仏教」を叫んでも空回り感が否めない。➁「仏教を滅ぼすのや」と述べた出口王仁三郎の影響。これは大いにあり得るだろう。ジョス日本支部メンバーは元々スピ系なので、オカルト業界に影響が強い旧大本教系の思想の影響も受けているはず。

③哲学を恐れている可能性。ひと口に「仏教」と言っても様々な要素や派閥があるが、6○6氏らがその全部を嫌っているとは思えない。彼らは元々「仏教=グノーシス主義」と言い張り彼らなりに仏教を高く評価していた。彼らは恐らくチベットを秘教の聖地とする神智学の影響でチベット密教は好きであろう。

欧米の神秘主義者がチベット仏教に言及する際には専らタントラの影響を受けた「密教」を重視して、印度中観派がベースにある「顕教」は無視する傾向がある。中観派の空の論理はあらゆる表象的・概念的な構想を相対化して思考の零地点に戻すので、形而上学なドグマを構築したい者には不都合なのだろう。

「哲学を恐れている」とはまさにこの意味。空の論理という哲学を忌避している可能性である。「思考の零地点に戻す」とは「あらゆる思想(表象や概念の産物)を絶対視せずに思考を中正な(偏りのない)状態に戻す」「思考と共に積み重なった偏見から離れて思考の出発点に戻る」という程の意味で書いた。

仏教と称される文化体系の中でも一部の哲学は批判的思考を磨くのに参考になるものがある。中観など私が引用した事があるのはそういう哲学であって、仏教を推している訳ではない。思想を冷静に分析する事が出来ず、ドグマ的な体系としてしか受容も理解も出来ないジョス一派にはそこが分からないようだ。

結社の思想の哲学的基盤はプラトンやアリストテレスなどのギリシャ哲学である。故に結社の思想の哲学的部分を批判するには、西洋哲学とは異なる、歴史的に日本人になじみ深い哲学を参考にするのが有効と考えたのである。だが、あくまで批判的思考の為に日本や東洋の先人の思考を参考にしたに過ぎない。

私としては批判的思考をする上での参考として先人の思考(国学儒学仏学老荘などどれも「道」を探求するので最近では「道の学問」と呼んでいる)を参照したに過ぎないので、私に対する限りではジョス一派の「反仏教」とは実は「仏教」というよりは哲学や批判的思考そのものに向けられたものと言えよう。

なぜ哲学や批判的思考を敵視するのかというと、思想を制約なく批判・吟味されると、教義を絶対化したい者にはとても不都合だからだろう。ジョスの教義を日本人に広めて洗脳するには、まずはかかる思想体系を批判的に吟味する者を排除せねばならない。これが彼らが私を目の敵にする理由だと結論付ける。

「菊池信者」と言って私に盲目的信者がいるかのように印象操作するのも見当外れ。私以上に他の方々に非常に失礼だ。自分で批判的に物を考える人は、客観的な事実や道理に即する以上、近い結論に至る事も多い。その結果、お互いに自然と交流が生じる。私とフォロワーの方々の交流はそういう性質のもの。

SNS上の交流には声の大きい教祖的又はインフル的な者がいて、その者の思想を盲信して集まるパターンもある。ジョス日本支部の面々ががまさにそれである。6○6氏が「わしについてこい」と言っているではないか。ついていくのは対等な関係ではなく教祖と信者の関係である。信者云々は完全に自己投影だ。

私に「信者」などいない。どなたとも対等な立場で対話・議論・意見交換・論争するのみ。大事なのは盲信ではなく対等な議論。それで批判的思考も磨かれると考える。陰謀追及に関して、本質的な議論が展開されている界隈は、独立的思考者の集まりであり、意見が一致する事はあっても「信者」はいない。

そもそも何故日本人(?)なのにネオナチを支持するのか理解不能。論理矛盾だろう。ジョスが使ってる「サタン」のイラストは金髪の白人である。これが彼らの「サタン」のイメージである。「サタン」が登場した旧約聖書はバビロニアなど中東で編纂されたのでアラブ人のような見た目でないと変である。

個人的には反論する場合を除き自分から誰かを個人攻撃しないタイプなので恨みを買う謂われはない。にも拘らず異常な敵意を向けられる事が多い。これは思想を客観的に分析しているからだろう。それを不快や不都合に感じる者がいるのかもしれぬ。逆にこの事で思想が人を動かす力の大きさをも感じている。

先述の「空の論理」について補足。世界観というより批判的思考方法と捉えてみたい。どんな思考や現象も孤立しておらず、それが生じるのに原因や条件が存在する。それらを知るには偏見を離れ事実をありのままに観察する必要がある。ドグマを盲信するジョス一派が嫌うのは、まさにこの部分かもしれない。

「空」は裏から言うと「縁起」。縁起は物事がそれ自体ではなく関係的に生起する道理をいう。中観の縁起は因果関係を含む物事の関係性一般を指す。原因条件で生起する現象を如実に追う、謂わば具体的な歴史の論理。空だから有ではなく縁起だから無でもない、有無でないから「中道」と。整然たる論理。

前述の如き事実・現象の論理は事実・現象を観察し分析する際の参考になる。物事を見る際にそれが生起する原因や条件を常に考慮する事が重要である。社会の事象を孤立した現象とのみ見て、全体構造を考察しないから、両建に絡め捕られる。それを避けるには全体と個別や、個別同士の関係を見る必要あり。

「悪魔主義(サタニズム)」についてまとめておくとする。悪魔主義には➀有神論的悪魔主義と➁無神論的悪魔主義がある。①は文字通り「霊的存在」としての悪魔を信じる立場。猶太教や基督教の文化に付随する古典的な「悪魔崇拝」からサタンを地球外生命体と捉えるものまで様々なバリエーションがある。

➁無神論的悪魔主義はアントン・ラヴェイが創設した悪魔教会の思想が代表例。②の立場では「悪魔」の実在を信じず、無神論的快楽主義的な思想哲学を主張する。ラヴェイはショービジネスにも関わっていたようで、ラヴェイ派悪魔主義にとっては悪魔とは自分らの思想教義を飾る為の演出の如きものらしい。

裏権力の思想派閥(あるいは思想の型)を➀一神教➁神秘主義③理性主義に分類しているが、悪魔主義はどれに分類されるか。有神論的悪魔主義の中でも、古典的な「悪魔崇拝」は➀、ジョスのような「霊的悪魔主義」は②に分類されるであろう。無神論的悪魔主義は②と③の中間くらいに分類出来ると思う。


各思想派閥の具体例を挙げてみる。

➀一神教
・バチカン
・イエズス会
・ラビの猶太教(パリサイ派の系譜)
・プロテスタント各教派
・旧統一協会

➁神秘主義
・英国系フリーメイソン
・猶太教カバラー派
・魔術結社(薔薇十字団、GD、OTOなど)
・神智学協会
・ルシス・トラスト
・旧大本教

③理性主義
・仏蘭西系フリーメイソン(大東社)
・百科全書派(仏蘭西啓蒙主義)
・ジャコバン派
・近代イルミナティ(アダム・ヴァイスハウプトが創設)
・各国共産党(ボルシェビズム、マルクス・レーニン主義、毛沢東主義など)
・アナーキスト(バクーニンは大東社メンバー)
・新左翼各党派

➀一神教➁神秘主義③理性主義は、境界が曖昧な場合やきっちりと分類出来ない場合も多々ある。例えば、猶太教のカバリストは新プラトン主義者とは異なり、「神との合一」までは言わず、猶太一神教の範疇に留まっているとも言える。上記の分類はあくまで思想分析の際の一応の目安と受け取って頂きたい。

英国系フリーメイソンを➁神秘主義に分類したが、英国系石屋には啓蒙主義の要素もあるので、これもまた一応の分類という事になる。仏蘭西系石屋は英国系から枝分かれしたものだが、思想的にも同様である。仏蘭西啓蒙思想は元々は英国啓蒙思想の移植。ヴォルテールの哲学書簡は英国礼賛の書でもある。

「イルミナティ」という名称について。「イルミナティ」という名称は➀裏権力(国際秘密力)の総体を指す呼称として用いられる場合と、➁1776年にイエズス会士アダム・ヴァイスハウプトが創設した啓蒙主義結社の名称という狭義の意味で用いられる場合がある。後者は反神秘主義の理性主義に分類される。

他の境界が曖昧な事例としては、イエズス会創設者のイグナチウス・デ・ロヨラが書いた「霊操」が神秘主義的な内容を持つ事が挙げられる。例の東アジア反日武装戦線などに見られる反日亡国論系の新左翼は、理性主義系の大東社系左翼とは異なり、オカルトや神秘主義と親和的な場合があり得ると見ている。


海外のカルト的な思想グループが組織やグループである事を曖昧にしたり隠したりしてSNS上で日本人のユーザーを引き入れるという事をやっている事に気付いた。かれこれ5年以上前からである。私はこの手の思想グループに異常に敵視される。批判的に思想分析をするので勢力拡大の邪魔になるのだろう。

これまで国際的悪魔主義結社ジョス以外に、米国NYの猶太人がネタ元だというヒトラー礼賛グループや、「薔薇十字団」を名乗る仏蘭西大東社系左翼一派などが日本人ユーザーの取り込みを行っているのを察知した。どのグループも面妖かつ執拗で、何故か私を異常に憎み敵視していた。余程邪魔なのであろう。

海外系の思想集団に異常に目の敵にされる傾向。彼らが日本又は日本語圏に侵入し橋頭保を作り日本人を洗脳し勢力を拡大するのに、真っ先に排除すべきかなり邪魔な存在と思われているようである。こちらから何も攻撃していないのに、いつの間にか一方的に異常に目の敵にしてくるパターンが共通している。

最近は匿名・流動型犯罪グループ(トクリュウ)が社会問題になっているが、オカルト結社やカルト集団もSNSを使って秘密裏に勢力拡大を図っている可能性があると見る。何年かに一回この手の集団が現れて攻撃を仕掛けてくるのは偶然とも思えない。面妖な集団が現れても惑わされぬよう十分注意されたし。


思想派閥の➁神秘主義にニューエイジ派を入れるのを忘れていた。ニューエイジは神智学などの西洋の神秘主義に東洋思想を改変したものを混ぜ合わせた思想潮流である。ラヴェイ派悪魔主義も広い意味でこの潮流に位置づける事が出来ると思う。一説ではタヴィストック研究所が仕掛けたものと言われている。

匿名流動型思想集団は素人を引き入れようとするのが厄介である。一般人が気付いたらいつの間にか結社の手駒になっていたなんていう事があり得る。各種思想に関する基礎知識がない人が引っ掛かり易いと思う。各種思想を「信じる」事と「知る」事は別である。カルトを見破る為にも思想を知る事が大事。

ネオコンは思想集団としては③理性主義に分類されると見る。何故ならネオコンは元々は猶太系のトロツキー主義者の思想グループであるから。「共産主義」の代わりに「自由民主主義」のイデオロギーを据えて、世界革命を目指したトロツキストさながらに世界中で軍事力による体制転覆を繰り返している。

ネオコンはフリーメイソンで言うと英米系だが、思想派閥で言うと③理性主義であり、基督教福音派や旧統一協会という③一神教系カルトを手足としている。このように思想派閥の分類は一応の目安に過ぎず、実際にはかなり入り組んでいる事が多い。ネオコンはその典型と言えよう。シオニストも同じである。

シオニズムの創設者はモーゼス・ヘスだとされている。猶太人であるヘスはヘーゲル左派の哲学者で、マルクスの同志でもある社会主義者であった。よって思想派閥だと③理性主義に分類される。このようにシオニズムは思想的淵源は③だが、シオニストが手足とするのは主に①の基督教原理主義者などである。

➀一神教派閥の猶太教超正統派の中にはイスラエルという国家の存在を認めないグループも存在する。それらのグループの猶太教教義の解釈だと、「メシア」の登場を待たずに人間の力で猶太国家を作るのは猶太の神の教えに反するという事らしい。この辺は思想派閥の➀と③の両建抗争と捉える事が出来る。

「理性主義」者が「理性的」であるとは限らない。理性主義的である事と理性的である事は異なる。科学的である事と科学主義的又は科学崇拝的である事が違うのと同じ。歴史に見られる大東社系左翼の暴力や科学を重視すると称する惑沈信者の狂信的な言動を見れば、理性主義的と理性的の違いがよく分かる。

ハシディズム系のハバト・ルバビッチ派の世界本部(NY)の地下で勝手に隠しトンネルを掘っていたとして信者が逮捕されていた。何をしようとしていたのか?この一派はハシディズム系という事なのでカバラー派と見る事が出来る。思想派閥だと①一神教と②神秘主義の中間くらいに位置付けられるだろうか。

ハバト・ルバビッチ派の指導者は若い信者の過激派がした事と説明したようだが、同じ建物や周辺の地下にトンネルを掘っているのに気づかないという事があるのだろうか。隠しトンネルを作る目的は何なのか。そもそも建物があるのに何故大きな地下室が要るのか?非常に怪しい事をやっているなと思った。

「(ネオコンは)基督教福音派や旧統一協会という③一神教系カルトを手足としている」と書いたが、日本でネオコンの手先となっているのは右派新興宗教を中心とする勢力である。この勢力が改憲運動などを主導しているが、最近は一部が反惑沈反パンデミック条約の運動を行っている。両建に要注意である。

裏権力派閥を「➀一神教➁神秘主義③理性主義」「英国系フリーメイソンVS仏蘭西系フリーメイソン」「国内の三大派閥➀旧統一協会系➁旧大本教系➂大東社系」など様々に分類しているが、各裏権力派閥同士の関係性についてどう捉えるかについて述べておきたい。「両建」というと如何にも「対立」を否定するかのように聞こえるかもしれないが、「両建」と「対立」は必ずしも矛盾するものではない。「両建」には完全なヤラセ・グルのようなケースだけでなく、当事者同士は本気で対立・抗争している場合なども含まれると考える。「両建」というと、どうも前者のイメージだけで捉えている人が多い気がする。

裏権力派閥同士は様々な思想教義の違いや利害対立をはらんでおり、時に対立・抗争を演じたりもする。だが、それを「両建」と見るのは、我々庶民からすると、どちらが勝っても「世界統一支配」に誘導される事に変わりはないからである。裏権力派閥同士の「対立」と裏権力と一般庶民の対立は質が違う。

裏権力派閥同士は時に激しい対立抗争を演じるが、裏権力以外の者に対しては一致団結して排除にかかると見る。例えば、カルテルを結んでいる巨大資本同士が新規参入者を許さないのと同じである。裏権力派閥同士の抗争は「綱引き」レベル。相互の完全な殲滅を目指していないと見る。だが、裏権力外部に対しては本気で殲滅にかかる。犬で言うと「甘噛み」と「本気噛み」の違いである。毎年一回、裏権力の各派閥が一か所に集まりビルダーバーグ会議を開催しているように、派閥間の利害調整や意思疎通を図っているとみられる。抗争をしてもその枠組みを超える所まではしないと見る。これを両建抗争と言う。

プロレスには台本=ブックが存在すると言われているが、裏権力派閥同士の抗争もこれに近いと見る。流れの中で時にセメントマッチみたいな事をやる場合もあるかもしれないが、基本的には毎年ビルダーバーグ会議などで決定した枠組みから逸れない範囲で抗争していると見ている。謂わば「試合」である。

それに対し目障りな裏権力外部の者に対しては単なる暴力を振るう。抗争を演じるのではなく、只潰そうとする。ここが裏権力派閥同士の抗争との本質的な違い。巨大企業や麻薬組織がカルテルを結ぶのは、その方が無駄な対立抗争をするより楽に利益を確保出来るからである。裏権力派閥の関係もこれに似る。

だが、いつまでも多派閥が対等に併存する状況だと「世界統一支配」とは言えない。そこで彼らはどのようにワンワールドに誘導しようとするのかシミュレートすると、次のシナリオを想定出来る。

・最終的に綱引きに競り勝った派閥の構想を採用する
・各派閥の妥協点を見出し最大公約数的な構想を採用する

各裏権力派閥には様々な思想教義や利害の違いがあるが、「世界統一支配」を志向するという点は共通する。こう言うと「思想が違うのに同じ世界統一支配構想を持つなんてあり得ない」と言われるかもしれないが、さに非ず。「同じ世界統一支配構想」とは言っていない。世界支配構想の中身は各派閥で微妙に

異なる。例えば、世界統一支配構想の種類には次のようなものがあると見る。

・オカルト神権体制(統一宗教の強制)
・科学主義的な独裁(ソ連的な)
・世界連邦(世界各地を広域ブロック化してそれらを統合する)


これらは「世界全体を支配する」という野望・志向が共通しているが細部は異なる。

各裏権力派閥は彼らの世界統一支配構想を如何に収斂させようとしているのかを二つのパターンに分けて分析する。

➀最終的に綱引きに競り勝った派閥の構想を採用する
例えば、最終的に英国系石屋の秘教主義が大東社系の科学主義に競り勝ったら、オカルト神権体制的な統一支配構想を採用するパターン。

英国系石屋の秘教主義が大東社系の科学主義に競り勝った場合だと、前者が掌握する支配体制下では後者は一切の存在を許されないというレベルまで「粛清」されるのか?主導権は握らせないまでも、ある程度の立ち位置で存在を許そうとする可能性が高い気がする。裏権力派閥同士の序列を固定化する可能性。

➁各派閥の妥協点を見出し最大公約数的な構想を採用する場合
これは各派閥がある程度の所で妥協点を見出し最大公約数的な構想でまとまるパターンである。「世界政府の独裁」では一致しつつ、神権独裁か科学独裁かは曖昧にしておくなど。このパターンだと世界連邦が採用される可能性が高そうである。

裏権力派閥同士は思想教義が違うと連合しないのか?というと、そんな事はないだろう。例えば、統一と創価は表面上の教義は違うのに自公連立という形で長年連合を組んでいる。統一の「地上天国」と創価の「総体革命」が結合していると見る事も出来る。両者には大日本皇道立教会人脈という共通点がある。

日本会議には教義が異なる様々な新興宗教が参加しているが、教義は違っても政治イデオロギーの点で一致して連合している。また、旧大本教系の新興宗教はたくさんあり、教義はそれぞれ微妙に異なるが、思想傾向や主張は大体共通する。以上のような事は、親玉である裏権力派閥同士にも当てはまると思う。

「両建」解釈を巡る論議は大体において「両建」の定義の相違や広狭に起因する事が多いと感じる。個人的には両建を「ヤラセ・グル」(の場合も勿論ある)だけでなく、「特定の枠組み内での抗争」「一定の思想的枠組み内での対立」「どちらが勝っても庶民には災厄」といったケースも含んで使っている。

両建は手先に指示を出してヤラセ抗争をさせるばかりとは限らない。予めある一定の思想的枠組みを用意しておき、人々をその中に囲い込んでその枠内で争わせるという形もある。現実にはむしろそのパターンが多いかもしれない。「思想」を支配するとそういう事が出来る。だから思想分析が重要なのである。

両建の認識論的な基礎は概念的な「判断」である。判断は物事を言葉・概念で二つに切り分ける事。分節化ともいう。人間の思考が不可避的に帯びている制約である。両建とはこうした人間の思考形式に付け込む罠と言える。両建を破るには概念的思考の構造を考察し自覚し相対化し俯瞰する事が有効だと思う。

概念的な判断を東洋の古い言葉では「分別」と言う。分別を超える事を「無分別」と言うが、人が思考する間は一瞬たりとも無分別でいる事は難しい。「判断=分別を絶対視せずに判断する」事を以て幾らかでも無分別にあずかるとしなければ、「無分別」は思考者である限りほぼ無縁のものとなりそうである。

「各派閥の妥協点を見出し最大公約数的な構想を採用する」事についてだが、最近AIやVRなどの先端技術を「魔法」と称する言説があるが、こうした「世界の再魔術化」的な傾向は、英国系石屋の秘教主義と大東社系の科学主義との融合現象と捉える事が出来ると思う。トランスヒューマニズムもオカルト的だ。

「一定の思想的枠組み内での対立」と書いたが、思想派閥➀一神教➁神秘主義③理性主義に共通するのは実体論的思考。究極的な実体のようなものを想定し、その観念を中心に世界観を組み立てている点は各思想派閥で共通している。「神」「一者」「理性」「物質」など何を「実体」として立てるかの違い。

物事の認識が相対的というのは「どの認識も間違い」という意味ではない。特定の観点に定位すると、正しい見方は一つしかない場合もあり得る。例えば、円筒形を真上から見ると円に見えるが、それは真上の位置に視点を取る限りでは正しい見え姿である。だが、視点を変えて真横からだと長方形に見える。

何が言いたいかというと、「認識」とは「認識する側」と「認識される側」の相対関係で決まる・変わる面があるという事である。「判断を絶対視しない」と述べたのは自己の視点と判断の相対化という意味合いも含んでいる。「正しい認識など不可能」などという認識論的なニヒリズムを述べたのではない。

以前述べた「記号の主客連関態」という事もここに通じる。記号の意味合いは記号の音や形という客観側だけでなく、それらに如何なる意味を込めるかという記号を使う主観側の意図も相まって決まる。たとえ音や形は同じでも、全く別の意味を込める事は可能である。でなければ同音異義語などはあり得ない。

「認識主体と認識対象」「考える人と考えられる事物」の相対関係を意識するのは、自分の認識や考えの絶対視に陥るのを防ぐのに役立つと思う。「両建」というのも然りで、何でもかんでも常に両建と決め付けている訳ではない。罠に嵌められるのを防ぐ為の一つの観点として可能性・目安として述べている。

一つの観点・物の見方として述べているのに何故か「何でもかんでも両建と決め付ける」と決め付けられる事が多い。両建批判の基本的考えについてあまり理解されていない事も一因と推測した。よって改めて説明した次第。ここまで説明すれば相手がジョスのような狂信集団でもない限り誤解は解けると思う。

毎年ビルダーバーグ会議には米国のネオコンからEUの世界連邦派まであらゆる裏権力派閥が参集する。そこでは各裏権力派閥が同意出来る最大公約数的な合意事項を策定しているのだと推測する。各裏権力派閥は思想や路線の対立はあるが、共通の合意事項の枠内で行動する点では両建。対立と両建は両立する。

何でもかんでも両建と言う訳ではないが、世の事象を見る際に両建という観点を持つだけで簡単に騙される事がなくなるのは事実である。何も「両建」という概念だけで世の事象の全てを見るべしと言ってるのではない。一つの物の見方として頭の片隅にでも置くだけで、格段に騙されにくくなるはずである。

個人的には以下のような場合を両建と捉える。

・ヤラセの抗争や対立する両当事者がグル
・特定の思想的枠組み内での抗争
・特定の議題設定(アジェンダ・セッティング)下での抗争
・対立する両勢力が同一の黒幕に資金提供されている
・「世界統一支配」という目的は同じで具体的な構想や方法論で対立
・ヤラセの抗争や対立する両当事者がグル

「両建」と言えば、これが最もイメージされ易いケースだと思う。表では対立する振りをするが、後ろでは示し合わせているパターンである。国際的な戦争、国内的な政治闘争、インフル同士の喧嘩など、大小様々な争い事に於いてこれに該当するケースがあり得る。

・特定の思想的枠組み内での抗争

西洋的実体論の思想闘争はいずれが勝っても類似の結果に導かれると見る。「神秘主義VS理性主義」など。英国系フリーメイソン的な神秘主義が導くオカルト神権体制も大東社的な理性主義が導く科学主義的独裁も、いずれも人々を抑圧する寡頭独裁である事に変わりはない。

・特定の議題設定(アジェンダ・セッティング)下での抗争
政治家同士の争いやメディア対インフルエンサー、インフル同士の喧嘩などは大抵がこれである。本当の最重要問題から逸れた議題を設定し、その議題を巡って争う。そこに人々を囲い込むので裏権力及びその計略には何の影響も及ばないのである。

・対立する両勢力が同一の黒幕に資金提供されている
これは昔から猶太資本家が得意とした戦術。「猶太の両建戦術」と言えば、まずはこれがイメージされると思う。日露戦争時に英国系ロスチャイルドが日本に、仏蘭西系ロスチャイルドがロシアに資金提供したとされる事など歴史的事例は枚挙に暇がない。

・「世界統一支配」という目的は同じで具体的な構想や方法論で対立
これはネオコンと世界連邦派の対比が典型例であろう。ネオコンは軍事力(軍事侵略や武力クーデター)でグローバリズムを推進するのに対し、世界連邦派はEU方式で徐々に世界各地に広域共同体を広める戦略を取っている。方法論が相違。

このように見てくると、両建では対立当事者に一々指示を出すよりも、一定の枠組みを作ってそこに人々を囲い込む方がより効率的で強力であるように見える。最初に枠組みを作って人々を囲い込んでおけば、一々指示を出さなくても人々をコントロール出来る。だから裏権力支配の打破には枠を出る事が必要。

枠を出る、ひいては枠を破る為には、まずは「枠」の構造を客観的に観察・分析し、その上で構造の全体像を俯瞰する必要があると考える。問題を解決するには、まずは問題を対象として把握する必要がある。問題を把握する事は対象を言語化する事に直結する。言語化してこそ問題として明確に認識される。

問題を認識し言語化する事は問題を追認する事ではなく問題を問題として認識し解決の糸口とする事である。例えば裏権力支配の構造を「両建」として言語化する事は、両建という支配構造を追認する事ではなく、両建を問題として認識する事である。問題を認識し言語化する事が問題解決の第一歩だと考える。

人々が支配構造を客観的に認識し言語化する事は支配者にとっては都合が悪いはずである。彼らにとって支配構造は出来るだけ人々から認識出来ないようにさせておくのが望ましい。裏権力支配構造の特質を「両建」と指摘する言語活動は支配への抵抗になり得る。人々が両建に気付けば両建は無効になるから。

構造と言っても制度のような法的に保護されている構造の変革には法改正などが必要になるが、両建構造のように主に人々の主観に依存している事実上の構造は、人々の認識が変わるだけで無効化する可能性がある。簡単に言うと、両建と気付いた人は騙されにくくなる。人を騙せなければ陰謀は出来なくなる。

特定の言語体系(国語の体系)によって可能となる個々の発話行為が逆に言語体系の変化に繋がる可能性があると思うが、ある支配構造をそれとして言語化する事は支配構造を揺るがす事に繋がり得ると考える。両建支配構造を「両建」と指摘する言語活動は支配への批判であり抵抗である。これ即ち言語の道。

「両建」というのは裏権力(国際秘密力)がそう名付けている訳ではないだろう。両建とはあくまで追及者が裏権力の戦略戦術や支配構造を観察分析して付けた名称。裏権力側は認識されないようにするため彼らの手口に名前を付けないと思われる。内部では名称があるかもしれないが、公表はしないであろう。

裏権力が人々の目から隠すために敢えて名付けをしないでいる事柄(彼らの存在自体も含む)に対して実態に適合する名付けをする(正名)をする事は有効な対抗手段になる。「国際秘密力」という名称も「国際的な」「秘密の」「力=事実上の権力」という裏権力の性質を過不足なく盛り込んだ正名と考える。

個人的に考える「両建」の定義の一つに

・反対勢力のコントロール

を付け加えたい。
裏権力やその政策に反対する勢力に紐を付けてあらぬ方向に誘導し裏権力にとって脅威とならないようにコントロールする場合。カルト人脈が惑沈反対運動に介入するのが典型例である。これは目下行われていると見る。

所謂“B層”は自民党清和会=安倍派=旧統一協会に近い人脈が何故惑沈反対・反パンデミック条約の運動を組織化しているのか全く理解不能であろう。これは政治現象としてはかなり高度な部類に属するので無理もない。だが、一度「両建」を知ると、こうした現象を分析するのもそれ程難しい事ではなくなる。

「両建」が念頭にない人が惑沈反対運動にカルトが関わっていると知った場合は「➀惑沈反対=カルトだと決めつけて惑沈推進が正しいと思い込む」「➁惑沈反対運動にカルトが関わっている事実を見ないようにする」かのどちらかであろう。いずれに転んでも、この枠組みを設定した裏権力に好都合な結果に。

前述の➀はストレートに惑沈推進に加担するコースで、➁は「制御された反対派」による誘導工作に加担するコースである。この二つは両建。②は惑沈反対、パンデミック条約・IHR改定反対に見せつつ改憲に賛同し惑沈強制接種や日本人の戦争への動員を可能とする体制への誘導工作の駒になる事を意味する。

端的に言うと、両建が念頭にない人は二元論的・二者択一的な発想になりがちである。では、中ほどを取れば正解なのかというとそうでもない。個々の事象ごとに事実や道理に照らし自分で考えて妥当と思える判断をするしかない。上記の場合に於ける個人的判断は惑沈・P条約・IHR改定・改憲の全てに反対。

裏権力が大衆に与える選択肢は二つと分析。➀主要メディアを信じるか➁紐付き論者に絡め捕られるかである。➀大衆社会に於けるスノッブは知的である事よりも知的に見られる事を重視するので、批判的に思考する事で世間から狂人と見られるくらいなら思考停止する事で世間から常識人と見られる事を選ぶ。

➁紐付き論者に絡め捕られた者は往々にして「覚醒した」として選民意識に囚われがちである。①の状態を脱したとして異様な高揚状態にあるが、➀とは別枠の被洗脳状態に陥っている事に気付けていない。盲信の対象が一般メディアやインフルから陰謀宣伝者などに変わっただけで批判的思考が出来ていない。

①と②は謂わば「俗物」と「狂信」の両建。人々はこの両極の間で揺れ動いている。俗物を嫌悪する者がある時「覚醒」し狂信に奔る。狂信を見て嫌悪したものは俗物である事に安住する。「大多数」と同じである事に安心を見出す者と「選民」である事に喜びを見出す者。この両建両極構造は非常に危うい。

両建を破るには「俗物」でも「狂信」でもない道を見出す事が必要であると考える。俗物と狂信を足して二で割っても「止揚」しても何も出てこないであろう。個人的にはかかる弁証法の論理をキッパリと拒否する。何が事実か何が道理かを常に探求し続ける。何かを盲信せず謙虚に着実に学び探求し考えたい。

ジョス一派は狂信に奔った典型的なパターンである。陰謀追及界隈では猶太批判から基督教批判に考察が進んだ流れがあるが、それは探求や思考を積み重ねた結果であって、ジョス一派のようにサタニズムという特定のドグマに基いた言説と根本的に異なる。彼らの言説は「批判」ではなく布教活動に過ぎない。

個人的な考えでは、猶太教も基督教も地中海文明(西洋文明の源流)的な実体論(又は実体論的思考)の発現形態の一つであると見ている。どんな思想や宗教も人間の思考から生まれる以上、思考の型・パターン(この場合は実体論)を押さえる事で、発現形態が変わってもその本質を捉えられると考えている。

地中海的又は西洋的な実体論の特徴は「究極の実体」のようなものを立てて、そこに全てを収斂させていくような思考パターンが特徴だと分析する。印度哲学にも実体論があるが、ヴァイシェーシカ派・ニヤーヤ派・説一切有部などの実体論は多元的で究極の実体に一切を収斂させていくタイプの論理ではない。

前述のような西洋的実体論を仮に「極の実体論」と呼ぶとする。この「極の実体論」は様々な形態で発現する。猶太一神教の「ヤハウェ」、プラトン主義の「イデア」や「一者」、アリストテレスの「第一原因」、悪魔主義の「サタン」、理性主義の「理性」、唯物論の「物質」、ヘーゲルの「絶対精神」等々。

極の実体論の特徴は単に究極の実体を設定するだけでなく、終末論・救世主待望論などとワンセットの場合が多い事である。以下のような仮の公式を立てて見る。
極の実体論=究極の実体を立てる実体論+黙示録的終末思想+救世主(メシア)待望論+生贄の論理
これらの要素が全部揃うとかなり危険である。

前述の要素が揃っていると、幾らでも新手のカルト宗教を作り出す事が出来る。実際、新興宗教の教義には大抵これらの要素が入っている。具体的な現象形態・発現形態だけでなく、そこに潜む思考の型を見極めるべきだと考える。そうすれば、新手が出て来てもすぐにその本質を見抜けるようになると思う。

ジョス一派は猶太教基督教を批判しているつもりかもしれないが、「極の実体論」の一発現形態であるサタニズムに捕らわれた時点で両建の一角に過ぎないという事が分かる。陰謀追及界隈が積み重ねてきた猶太や基督教に関する批判的研究を着実に参照せずに、海外のカルトに奔ったのが間違いの元だった。