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・脳・身体・精神と環境のミスマッチ
※僕らの脳と身体と精神は、現代のこのような社会生活を想定して作られていない。
精神科医アンデシュ・ハンセンのベストセラー『スマホ脳』に次のような思考実験があります。
10万年前サバンナに生きていた2人の女性を登場させます。カーリンとマリアの2人。カーリンは高カロリーの甘い果実が実る木の前へやってくると、1個だけ食べて満足する。次の日また食べようとその木の前へやってくるが、他の誰かが全部食べてしまっていた。
一方、マリアは甘味を認識する遺伝子に突然変異が起き、甘い果実を食べると脳内でドーパミンが大量に分泌される。ドーパミンの効果によって、マリアは目の前の木の実を全部食べたいという強い欲求を持つことになる。それゆえ彼女はその甘い実を食べられるだけ食べてからその場を去る。翌日、また食べたくなって木の下へやってきたが、カーリンの時と同様にもう木の実は残ってはいなかった。
生き延びる確率が高いのはマリアだということは、わけなく推測できるだろう。消費しきれないカロリーは脂肪として腹部に蓄積され、食べられる物が見つからないときにその人を餓死から守ってくれる。そうすると、子を産み遺伝子を残す可能性が上がる。このカロリー欲求は遺伝子のせいなので、その特質は次の世代にも受け継がれ、その世代も生き延びて子を産むことが容易になる。そこに、環境における要因も関わってくる。強いカロリー欲求を持った子供が徐々に増え、生き延びる可能性が高くなる。何千年か経つ頃には、カロリーへの欲求はゆっくりと確実に、その人たちの間で一般的な性質になっていく。
(アンデシュ・ハンセン『スマホ脳』29‐30頁)
そして、ハンセンは今度はカーリンとマリアの2人を現代社会に登場させる。
カーリンはマクドナルドでハンバーガー1個を食べ、それで満足し、店を出ていく。それに対し、マリアはハンバーガーだけでなく、サイドメニューも飲み物もデザートも全て注文し、それを平らげてからようやく店を後にする。
次の日も、ドーパミンに導かれて、同じ店にやってきたマリアは、前日と同じように大量の食料を摂取することになる。
数カ月経つと、暴食がマリアの身体を蝕み始める。余分な体重が何キロも増えただけでなく、2型糖尿病も発症した。彼女の身体は著しく高い血糖値に耐えられなくなっている。これでカーリンとマリアは立場が逆になった。サバンナでは生き延びるのを助けてくれたカロリー欲求だが、現代社会には適していない。人類の歴史の99.9%の期間、私たちの生存を維持してきた生物的なメカニズムが、突如として益よりも害を引き起こすようになったのだ。
(同書、30頁)
さて、ここで鍵になるのは「進化的適応環境 environment of evolutionary adaptation, EEA」という概念です。
EEAとは、われわれヒト固有の適応が進化した舞台であった環境のことです。先の例で言えば、カーリンとマリアが元々いた10万年前のサバンナなどの環境のことです。
進化生物学、進化心理学において、論者や文献によって揺れはありますが、サピエンスのEEAは具体的には数百万年前~数万年前までの環境を指します。少なく見積もっても、1万年前までの環境がEEAと呼ばれる環境です。
身体も精神も、現代の社会環境に適応していない
おわかりでしょうか。
僕らの身体も精神も、現代の社会環境に適応していないのです。
僕らの身体と精神は、いまだに数万年前の環境にフィットしたまま今日に至っている。
ミスマッチ──。
進化の歴史の中で獲得した身体的特徴および心的特徴と、現代社会という環境のミスマッチが起こっているのです。その1つの事例が、先のマリアが置かれた状態でした。
何を「美味しいと感じる」のかも、何を「いい匂いと感じる」のかも、かつてのサバンナではそのような遺伝的性質を持った個体の方が生き延びやすかったがゆえに(そして生存の結果、遺伝子を次世代に繋ぐことに成功したがゆえに)、獲得されてきたのです。
飢餓が身近であった数万年前までの環境では、糖質と塩分と脂質に対する強い嗜好が適応的だったわけです。
言い換えれば、数万年前の環境において僕らを生かしてくれていたさまざまな形質の名残りを、現在も持ってしまっているということなのです。
数百万年前から数万年前までの自然環境。僕らの心はそこで生まれた。
生存の危険に満ちたサバンナで、僕らの心は生まれた。
その心理的傾向、認知的特徴が現代では「認知的バイアス」と呼ばれます。
例えば、「みんな」や「いつも」という表現を僕らが思わず使ってしまうのは、「3人」「3回」からです(池谷裕二『自分では気づかない、ココロの盲点 完全版』)。
「私の友達はみんな喫煙者だ」とか「君はいつも眠たそうだね」と一般化するのに必要な目撃回数は3人、3回だといいます。
現代においては、そのようなたった3つのサンプルをもとにした、「みんな」「いつも」とすべてがそうであるという認知は確かに偏見であり、思い込みにすぎません。
ですが、数万年前のサバンナではたとえば仲間がある色のヘビに噛まれて亡くなったとしたら、科学的な観察や実験をすることなく、3回程度観測した時点で「この色のヘビは危険である」と思い込む個体の方が適応的でしょう。
つまり、都市環境では偏見、思い込みになってしまう認知的バイアスも、かつての危険に満ちた環境では僕らを生かしてくれたのです。
認知的バイアスは、まさに、太古的な環境では適応的だったが、現代的な都市生活においては不適応となる最たる例です。
農耕がはじまってからのたった1万年のあいだに、サピエンスたちは遠くまで歩いてしまった。EEAでは適応的だったさまざまな行動パターン、認知の枠組み、心のメカニズムが不適応な形質となってしまったのです。
僕らが進化するよりも早く、制度とテクノロジーが進歩してしまうから。
環境に適応できず、傷を抱えた動物
環境とのミスマッチ。
それゆえ、僕らの心はバグを抱え込むことになった。というよりも、サピエンスという存在自体が、進化というメカニズムにとってバグなのです。
環境に適応できない、出来損ないの種。傷を抱えた動物。
生物学者のエドワード・O・ウィルソンは人間という存在を次のように端的に表現しています。
われわれは、石器時代からの感情と、中世からの社会システムと、神のごときテクノロジーをもつ
(エドワード・O・ウィルソン『人類はどこから来て、どこへ行くのか』2頁)
見事な要約だと思います。
身体と心、制度やシステム、そしてテクノロジー。
この3つが見事にズレている。それぞれがもつ、生理的時間、進展のタイムスパンがあまりにもちぐはぐなのです。
「ケア」抜きには生きていけなくなった
かつて僕らの身体、脳、心は太古の環境と調和していた。
だが、大きくなった脳は、暇という時間的余裕を味方につけて、文明を、文化を作ってしまった。そして、その文明は生存は保障してくれるが、「生きているという心地」「生まれてきたことの意味と実感」までは与えてくれなかった。これが僕らが生きづらさを抱えていることの顛末です。
それは、もはやサピエンスという種の運命と言えます(ちなみに腰痛と肩こりも、二足歩行に適していない骨格のまま生活せざるを得ない僕らの運命です)。
では、なぜ僕らは絶滅せずに今も生き延びているのか?
環境に適応することができなくなった種の運命は、絶滅と決まっているはずです。
僕らはなぜかいまだに絶滅していない。
答えはこうです。
進化のプロセス、すなわち環境の変化とそれに応じた適応進化のメカニズムから外れた僕らの心は、互いに助け合い、互いにケアするようになった──。
言い換えれば、ケア抜きには生きていけなくなった種なのです。
ケアと利他。
それによって、かろうじて生存し、そして、生きている心地と実感を得るようになったのが僕らなのです。
・脳・身体・精神と環境のミスマッチ
※僕らの脳と身体と精神は、現代のこのような社会生活を想定して作られていない。
精神科医アンデシュ・ハンセンのベストセラー『スマホ脳』に次のような思考実験があります。
10万年前サバンナに生きていた2人の女性を登場させます。カーリンとマリアの2人。カーリンは高カロリーの甘い果実が実る木の前へやってくると、1個だけ食べて満足する。次の日また食べようとその木の前へやってくるが、他の誰かが全部食べてしまっていた。
一方、マリアは甘味を認識する遺伝子に突然変異が起き、甘い果実を食べると脳内でドーパミンが大量に分泌される。ドーパミンの効果によって、マリアは目の前の木の実を全部食べたいという強い欲求を持つことになる。それゆえ彼女はその甘い実を食べられるだけ食べてからその場を去る。翌日、また食べたくなって木の下へやってきたが、カーリンの時と同様にもう木の実は残ってはいなかった。
生き延びる確率が高いのはマリアだということは、わけなく推測できるだろう。消費しきれないカロリーは脂肪として腹部に蓄積され、食べられる物が見つからないときにその人を餓死から守ってくれる。そうすると、子を産み遺伝子を残す可能性が上がる。このカロリー欲求は遺伝子のせいなので、その特質は次の世代にも受け継がれ、その世代も生き延びて子を産むことが容易になる。そこに、環境における要因も関わってくる。強いカロリー欲求を持った子供が徐々に増え、生き延びる可能性が高くなる。何千年か経つ頃には、カロリーへの欲求はゆっくりと確実に、その人たちの間で一般的な性質になっていく。
(アンデシュ・ハンセン『スマホ脳』29‐30頁)
そして、ハンセンは今度はカーリンとマリアの2人を現代社会に登場させる。
カーリンはマクドナルドでハンバーガー1個を食べ、それで満足し、店を出ていく。それに対し、マリアはハンバーガーだけでなく、サイドメニューも飲み物もデザートも全て注文し、それを平らげてからようやく店を後にする。
次の日も、ドーパミンに導かれて、同じ店にやってきたマリアは、前日と同じように大量の食料を摂取することになる。
数カ月経つと、暴食がマリアの身体を蝕み始める。余分な体重が何キロも増えただけでなく、2型糖尿病も発症した。彼女の身体は著しく高い血糖値に耐えられなくなっている。これでカーリンとマリアは立場が逆になった。サバンナでは生き延びるのを助けてくれたカロリー欲求だが、現代社会には適していない。人類の歴史の99.9%の期間、私たちの生存を維持してきた生物的なメカニズムが、突如として益よりも害を引き起こすようになったのだ。
(同書、30頁)
さて、ここで鍵になるのは「進化的適応環境 environment of evolutionary adaptation, EEA」という概念です。
EEAとは、われわれヒト固有の適応が進化した舞台であった環境のことです。先の例で言えば、カーリンとマリアが元々いた10万年前のサバンナなどの環境のことです。
進化生物学、進化心理学において、論者や文献によって揺れはありますが、サピエンスのEEAは具体的には数百万年前~数万年前までの環境を指します。少なく見積もっても、1万年前までの環境がEEAと呼ばれる環境です。
身体も精神も、現代の社会環境に適応していない
おわかりでしょうか。
僕らの身体も精神も、現代の社会環境に適応していないのです。
僕らの身体と精神は、いまだに数万年前の環境にフィットしたまま今日に至っている。
ミスマッチ──。
進化の歴史の中で獲得した身体的特徴および心的特徴と、現代社会という環境のミスマッチが起こっているのです。その1つの事例が、先のマリアが置かれた状態でした。
何を「美味しいと感じる」のかも、何を「いい匂いと感じる」のかも、かつてのサバンナではそのような遺伝的性質を持った個体の方が生き延びやすかったがゆえに(そして生存の結果、遺伝子を次世代に繋ぐことに成功したがゆえに)、獲得されてきたのです。
飢餓が身近であった数万年前までの環境では、糖質と塩分と脂質に対する強い嗜好が適応的だったわけです。
言い換えれば、数万年前の環境において僕らを生かしてくれていたさまざまな形質の名残りを、現在も持ってしまっているということなのです。
数百万年前から数万年前までの自然環境。僕らの心はそこで生まれた。
生存の危険に満ちたサバンナで、僕らの心は生まれた。
その心理的傾向、認知的特徴が現代では「認知的バイアス」と呼ばれます。
例えば、「みんな」や「いつも」という表現を僕らが思わず使ってしまうのは、「3人」「3回」からです(池谷裕二『自分では気づかない、ココロの盲点 完全版』)。
「私の友達はみんな喫煙者だ」とか「君はいつも眠たそうだね」と一般化するのに必要な目撃回数は3人、3回だといいます。
現代においては、そのようなたった3つのサンプルをもとにした、「みんな」「いつも」とすべてがそうであるという認知は確かに偏見であり、思い込みにすぎません。
ですが、数万年前のサバンナではたとえば仲間がある色のヘビに噛まれて亡くなったとしたら、科学的な観察や実験をすることなく、3回程度観測した時点で「この色のヘビは危険である」と思い込む個体の方が適応的でしょう。
つまり、都市環境では偏見、思い込みになってしまう認知的バイアスも、かつての危険に満ちた環境では僕らを生かしてくれたのです。
認知的バイアスは、まさに、太古的な環境では適応的だったが、現代的な都市生活においては不適応となる最たる例です。
農耕がはじまってからのたった1万年のあいだに、サピエンスたちは遠くまで歩いてしまった。EEAでは適応的だったさまざまな行動パターン、認知の枠組み、心のメカニズムが不適応な形質となってしまったのです。
僕らが進化するよりも早く、制度とテクノロジーが進歩してしまうから。
環境に適応できず、傷を抱えた動物
環境とのミスマッチ。
それゆえ、僕らの心はバグを抱え込むことになった。というよりも、サピエンスという存在自体が、進化というメカニズムにとってバグなのです。
環境に適応できない、出来損ないの種。傷を抱えた動物。
生物学者のエドワード・O・ウィルソンは人間という存在を次のように端的に表現しています。
われわれは、石器時代からの感情と、中世からの社会システムと、神のごときテクノロジーをもつ
(エドワード・O・ウィルソン『人類はどこから来て、どこへ行くのか』2頁)
見事な要約だと思います。
身体と心、制度やシステム、そしてテクノロジー。
この3つが見事にズレている。それぞれがもつ、生理的時間、進展のタイムスパンがあまりにもちぐはぐなのです。
「ケア」抜きには生きていけなくなった
かつて僕らの身体、脳、心は太古の環境と調和していた。
だが、大きくなった脳は、暇という時間的余裕を味方につけて、文明を、文化を作ってしまった。そして、その文明は生存は保障してくれるが、「生きているという心地」「生まれてきたことの意味と実感」までは与えてくれなかった。これが僕らが生きづらさを抱えていることの顛末です。
それは、もはやサピエンスという種の運命と言えます(ちなみに腰痛と肩こりも、二足歩行に適していない骨格のまま生活せざるを得ない僕らの運命です)。
では、なぜ僕らは絶滅せずに今も生き延びているのか?
環境に適応することができなくなった種の運命は、絶滅と決まっているはずです。
僕らはなぜかいまだに絶滅していない。
答えはこうです。
進化のプロセス、すなわち環境の変化とそれに応じた適応進化のメカニズムから外れた僕らの心は、互いに助け合い、互いにケアするようになった──。
言い換えれば、ケア抜きには生きていけなくなった種なのです。
ケアと利他。
それによって、かろうじて生存し、そして、生きている心地と実感を得るようになったのが僕らなのです。