・日本考古学史上最大の謎「土偶の正体」がついに解明
「土偶は女性モチーフ」の認識が覆った!驚きの新説(前編)(JBpress 2021年4月24日)

竹倉 史人



(上)青森県亀ヶ岡遺跡から出土した遮光器土偶(重要文化財・東京国立博物館所蔵)

※縄文時代に作られた土偶は、女性や妊婦をかたどったものだ、というのが多くの人の認識だろう。「そうではない」という驚きの新説を提唱したのが、人類学者の竹倉史人氏だ。では、土偶は何をかたどっているのか? その結論に至った過程と具体的な土偶の解読内容を前後編でお送りする。

※土偶(どぐう)とは:縄文時代に作られた素焼きの人形。1万年以上前から制作が始まり、2000年前に姿を消した。現在までに2万点近い土偶が発見されている。なお、埴輪(はにわ)は、古墳にならべるための土製の焼き物。4世紀から7世紀ごろに作られたもので、土偶とは時代が異なる。

(※)本稿は2021年4月に発行された『土偶を読む 130年間解かれなかった縄文神話の謎』(竹倉史人著、晶文社)より一部抜粋・再編集したものです。

 
※ついに土偶の正体を解明しました。

こういっても、多くの人は信じないだろう。というのも、明治時代に土偶研究が始まって以来、このように主張する人は星の数ほどいたからだ。そういう人たちの話を聞くと、「土偶は豊饒の象徴である妊娠女性を表しています、なぜなら……」、「土偶は目に見えない精霊の姿を表現していて……」、「縄文人は芸術家です。人体をデフォルメしたのが土偶で……」といった「俺の土偶論」が展開される。こうしたすべての「俺の土偶論」に共通して言えるのは、客観的な根拠がほとんど示されていないこと、話が抽象的すぎて土偶の具体的な造形から乖離(かいり)していること、そしてその説がせいぜい数個の土偶にしか当てはまらないということである。

土偶研究は明治時代に始まり、そこから大正、昭和、平成、令和と、じつに130年以上の歳月が経過した。それでも「何もわからない」ままであるから、アマチュアも入り乱れて「俺の土偶論」が侃々諤々、しまいには土偶=宇宙人説まで唱えられる始末――。ということで、いまさら「土偶の正体を解明しました!」などと口にしたところで、「オオカミが来た!」という虚言のようにしか響かなくなってしまったのである。

130年以上も研究されているのに、いまだに土偶についてほとんど何もわかっていないというのは一体どういうことなのだろうか。


縄文人でも妊娠女性でもない
 
土偶の存在は、かの邪馬台国論争と並び、日本考古学史上最大の謎といってもよいだろう。なぜ縄文人は土偶を造ったのか。どうして土偶はかくも奇妙な容貌をしているのか。いったい土偶は何に使われたのか。縄文の専門家ですら「お手上げ」なくらい、土偶の謎は越えられない壁としてわれわれの前に立ちふさがっているのである。

その一方で、世の中は空前の「縄文ブーム」に沸いている。土偶はまさに縄文のシンボルであり、イメージキャラクターでもあるのに、その肝心の土偶の正体がわかりません、というのでは形無しというほかない。世界に向けて縄文文化の素晴らしさを発信しようにも、その中核にあり、おそらくは土偶が最も体現しているはずの「縄文の精神性」を語ることができないのであれば、それはわれわれの知の敗北を意味するであろう。

それでいいのか。いいわけがない。


結論から言おう。

土偶は縄文人の姿をかたどっているのでも、妊娠女性でも地母神でもない。〈植物〉の姿をかたどっているのである。それもただの植物ではない。縄文人の生命を育んでいた主要な食用植物たちが土偶のモチーフに選ばれている。ただしここで〈植物〉と表記しているのは、われわれ現代人が用いる「植物」という認知カテゴリーが、必ずしも縄文人たちのそれと一致しないからである。

私の土偶研究が明らかにした事実は、現在の通説とは正反対のものである。

すなわち、土偶の造形はデフォルメでも抽象的なものでもなく、きわめて具体的かつ写実性に富むものだったのである。土偶の正体はまったく隠されておらず、常にわれわれの目の前にあったのだ。

ではなぜわれわれは一世紀以上、土偶の正体がわからなかったのか。

それは、ある一つの事実がわれわれを幻惑したからである。すなわち、それらの〈植物〉には手と足が付いていたのである。

じつはこれは、「植物の人体化(アンソロポモファイゼーション、anthropomorphization)と呼ばれるべき事象で、土偶に限らず、古代に製作されたフィギュアを理解するうえで極めて重要な概念である。

たしかに土偶は文字ではない。しかしそれは無意味な粘土の人形(ひとがた)でもない。造形文法さえわかれば、土偶は読むことができるのである。つまり土偶は一つの“造形言語”であり、文字のなかった縄文時代における神話表現の一様式なのである。

そしてそこからひらかれる道は、はるか数万年前の人類の精神史へとつながっている。私の土偶の解読結果が広く知れ渡れば、日本だけでなく、世界中の人びとがJOMONの文化に興味を寄せ、そしてDOGŪというユニークなフィギュアが体現する精神性の高さに刮目(かつもく)することだろう。


土偶は人体をデフォルメしているのか

「土偶は何をかたどっているのか」。そしてもう一つ「土偶はどのように使用されたのか」。土偶のモチーフや用途をめぐっては諸説あるものの、いずれも客観的な根拠が乏しく、研究者のあいだでも統一的な見解が形成されていないのである。

「それが何か」わからないなりに、土偶についての“通説”のようなものは存在している。現在の通説を大まかにまとめれば、「土偶は女性をかたどったもので、自然の豊かな恵みを祈って作られた」ということができる。そして、実際これが世間に流通する最も一般的な土偶のイメージと言ってよいだろう。



(上)図1 さまざまな土偶。本当に女性の姿に似ているのか? 所蔵:左上から、辰馬考古資料館、東京国立博物館、東京国立博物館。左下から大和文華館、大阪歴史博物館、東京国立博物館

しかし、あらためてここで実際の土偶を見て欲しい(図1)。はたしてこれが女性の姿に見えるだろうか? 見えるかどうかという主観的な印象の次元以前に、頭部や四肢こそあれ、土偶の身体はそもそも人体の形態に類似していない。つまり、土偶=女性像という説明は、われわれの直感に反するのみならず、物理的な事実にも反している。

それにもかかわらず、この無理筋な説明が多くの教科書に採用され、通説として社会に流通しているのはなぜだろう。それは、この説が「土偶は人体をデフォルメしている」というさらなる俗説によって補完されてきたからである。


着想は突然やってきた
 
土偶は人間女性をモチーフにしつつ、それを抽象化してデフォルメしたフィギュアであるから、土偶の多様なかたちには具体的な意味はない――。これは本当だろうか? こうした“通説”は、私には途方もなくデタラメなものに感じられた。土偶のかたちには具体的な意味があり、それは決してデフォルメのようなものではなく、土偶の様式ごとにそれぞれ異なる具体的なモチーフが存在しているのではないか――これが土偶を前にした最初の私の直感であった。

土偶研究の始まりに際して、私は新しい仲間を迎えることになった。遮光器(しゃこうき)土偶のレプリカである。私が購入したのはレプリカとはいえそれなりに再現性のあるものだった(図2)。




(上)図2 わが家にやって来た遮光器土偶のレプリカ

さて、遮光器土偶が自宅に届いてから一週間ほどしたある日のことである。東京国立博物館のウェブページで、私はあらためて遮光器土偶の高精細の画像を眺めていた。3000年近く前、東北地方に住んでいた人びとは、粘土を採取し、それを丁寧に成形し、体表に緻密な紋様を施し、焼成し、このフィギュアを製作した。いったい何をかたどり、何の目的のために? それは答えのない、それどころか手掛かりとなるヒントすらない、途方もない謎のように感じられた。

ハイバックチェアにもたれかかり、私はPCの画面を眺めながら何度か深呼吸をした。すると不意に、私の脳裏にある植物のイメージが浮かびあがった。それはある根茎類の映像だった。次第に鮮明になっていく輪郭を追いかけていくと、その根茎類が目の前にある遮光器土偶のレプリカの手足と重なるような気がした。私はハッとして椅子から起き上がり、ウェブで画像を検索し、実際にその根茎の画像を遮光器土偶の手足に重ねてみた。すると、根茎の描く独特な紡錘形のフォルムは、土偶の四肢とぴったりと重なったのである。

この時、私は探していた“何か”が自分の目の前に現れたと感じた。すなわち、この根茎こそが、遮光器土偶がかたどっているモチーフなのではないか、という着想を得たのである。


ほぼすべての文化で見られる植物霊祭祀



(上)イギリスの人類学者ジェームズ・ジョージ・フレイザー(1854-1941)

私はある一冊の書物のことを思い出していた。19世紀末にイギリスの人類学者ジェームズ・フレイザーが著した『金枝篇』である。

私が特に注目したのはフレイザーが叙述している「栽培植物」にまつわる神話や儀礼である。植物の栽培には必ずその植物の精霊を祭祀する呪術的な儀礼が伴うことを、彼は古今東西の事例をあげて指摘している。

「野生の思考」を生きる人びとにとって、植物を適当に植えるということはあり得ない。播種(はしゅ)が行われるのは単なる畑ではなく、植物霊が集う聖地だからである。一粒の小さな種が発芽し、伸長し、何倍もの数の種を実らせるのはまさに奇跡であって、精霊(生命力)の力と守護がなければ絶対に成就しない事業である。それゆえ播種にあたっては、植物の順調な活着と成長を精霊に祈願してさまざまな呪術的儀礼が行われる。

古代人や未開人は「自然のままに」暮らしているという誤解が広まっているが、事実はまったく逆である。かれらは呪術によって自然界を自分たちの意のままに操作しようと試みる。今日われわれが科学技術によって行おうとしていることを、かれらは呪術によって実践するのである。

呪術が科学技術より優先する社会において重要なのは、儀礼を通じて、自分たちが資源利用する植物の精霊と円滑なコミュニケーションをとることである。とりわけその食用植物が自分たちの食生活の中心となっていたり、交換財としての価値が高い場合には、「植えっぱなし採りっぱなし」ということはあり得ない。

播種の春には歓迎会が開催され、人間界へ来訪する精霊たちをご馳走と歌舞でもてなし(予祝儀礼)、収穫の秋にはふたたび宴席を設けて当該シーズンの精霊の事業を顕彰し(収穫儀礼)、翌年の来訪を約束して盛大な送別会が行われる。

こうしたことからも、「植物を成長させる精霊」という観念と「それを祭祀する儀礼」という事象が、植物栽培によって生命を繫いできたわれらホモ・サピエンスにとっていかに普遍的なものであるかがわかるだろう。フレイザーの『金枝篇』は、こうした植物霊祭祀の慣習と心性が、食用植物を重点的に資源利用するほぼすべての文化においてみられることを明らかにした人類学の古典なのである。


植物食依存はすでに縄文中期から
 
かつての通説では、縄文文化から弥生文化への移行の説明として、「狩猟採集の縄文時代」から「水田稲作の弥生時代」へ(「肉食中心」から「植物食中心」へ、「採集」から「栽培」へ)シフトしたと説明されることがもっぱらであった。ところが、近年の考古研究の進展によって、この図式が不正確であったことがすでに判明している。

縄文遺跡の発掘数の増加だけでなく、花粉分析やプラントオパール(植物珪酸体)分析、土器圧痕レプリカ法、デンプン分析、種実分析といった、電子顕微鏡を用いた理化学的な植物遺体の検出・同定技術の向上、さらには縄文人骨のコラーゲン分析の結果などによって、北海道を除く東日本では、すでに縄文中期(およそ5500年前)あたりから、縄文人が従来の想定よりもはるかに植物食に依存していた実態が浮かび上がってきたのだ。

しかもかれらは単なる採集(gathering)だけでなく、ヒエなどの野生種の栽培化(domestication)、里山でのクリ林やトチノキ林などの管理(management)、マメ類の栽培(cultivation)などを行っていたことも判明しつつある。

さて、そうなると一つの重大な疑問が湧き上がってくる。

縄文時代にはすでに広範な食用植物の資源利用が存在していた。しかも地域によっては、トチノミなどの堅果類を“主食級”に利用していた社会集団があったこともすでに判明している。ということは、そうした植物利用にともなう儀礼が行われていたことは間違いないのであるが、なぜか縄文遺跡からは植物霊祭祀が継続的に行われた痕跡がまったくといっていいほど発見されていないのである。一方、それとは対照的に、動物霊の祭祀を行ったと思われる痕跡は多数見つかっている。

ではなぜ、最重要と思われる植物霊祭祀の痕跡は見つかっていないのだろうか。

「植物霊祭祀の痕跡が見つかっていない」のではなく、本当はすでに見つかっているのに、われわれがそれに気づいていないだけだとしたらどうだろうか。

実はこれこそが私の見解なのだ。

つまり、「縄文遺跡からはすでに大量の植物霊祭祀の痕跡が発見されており、それは土偶に他ならない」というのが私のシナリオである。このように考えれば、そしてこのように考えることによってのみ、縄文時代の遺跡から植物霊祭祀の痕跡が発見されないという矛盾が解消される。

後編では9種類の土偶タイプについて行った、解読作業の具体例を紹介する。


・土偶の正体、ひらめきを得た森での「事件」
「土偶は女性モチーフ」の認識が覆った!驚きの新説(後編)(JBpress 2021年4月25日

竹倉 史人



(上)椎塚土偶(左、所蔵:大阪歴史博物館)と星形土偶(右、所蔵:辰馬考古資料館)

※縄文時代に作られた土偶は、女性や妊婦をかたどったものだ、というのが多くの人の認識だろう。「そうではない」という驚きの新説を提唱したのが、人類学者の竹倉史人氏だ。前編では、「土偶は植物の精霊をかたどったものである」という結論に至った過程を紹介した。後編ではいよいよ具体的な土偶の解読に取りかかる。


※私が直感していたことは、「土偶と植物とは関係がありそうだ」という抽象的なレベルの話ではない。もっと直接的で、具体的な仮説が私の頭の中を駆け巡っていた。それは、「土偶は当時の縄文人が食べていた植物をかたどったフィギュアである」というものだ。

土偶の姿が「いびつ」なものに見えるのは、勝手に私たちが土偶=人体像であると思い込んでいるからではないのか。いびつなのは土偶のかたちではなく、われわれの認知の方なのではないか。ヴィジョンを獲得した日以来、私の目には、遮光器土偶はある根茎植物をかたどった精霊像にしか見えなくなっていた。そして私は、土偶には様式ごとに異なるモチーフが存在し、そのモチーフはすべて植物なのではないかと考えるようになっていた。


ハート形土偶の造形的特徴とは
 
最初に私にその姿を開示したのは、これまで「ハート形土偶」と呼ばれてきた土偶である(図1)。



(上)図1 群馬県吾妻郡東吾妻町郷原で出土したハート形土偶(所蔵:東京国立博物館)

土偶は「食用植物をかたどっている」というのが私の仮説である。したがって、私の仮説によれば、このハート形の頭をした土偶も何らかの植物をかたどっているということになる。そこで私は、とりあえず「ハート形土偶」の造形について細かく分析してみることにした。

群馬県吾妻郡東吾妻町の郷原(ごうばら)から出土したものが有名だが、それ以外にも「ハート形土偶」と呼ばれる土偶は数十点以上も存在している。私は各地の博物館や考古資料館などを巡り、そのなかでも破損が少なく完形に近い10点あまりのハート形土偶を観察した。そして、そこから以下のような六つの造形的特徴を抽出した。

① 眉弓(びきゅう)が顔面の上側の輪郭になっている
② 眉弓と鼻梁(びりょう)が連続している
③ 口は造形されないか、されてもごく小さい
④ 顔面は緩やかな凹面になっている
⑤ 体表に渦巻きの紋様がみられる
⑥ 体表の辺縁に列状の刺し突文(とつもん)が見られる

顔まわりの造形的特徴の要点をまとめると、①顔面の上側の輪郭が眉弓と一致している、すなわち「額が存在しない」のに加え、②通常であれば顔の真ん中に位置するはずの鼻が、頭部の一番上の部分から取り付けられるという特異なデザインがみられる。著しく「鼻が高く」かつ「鼻筋が通っている」のも印象的である。また、③目や鼻は目立つように造形されているにもかかわらず、口だけが造形されないか、されてもほとんど目立たない。そして、④顔面が平面ではなく凹面になっており、中央部が少し窪むように造形されている。

首から下の特徴としては、⑤体表に渦巻きの紋様のある個体が散見される。そして、⑥体表の縁の部分に列状の小さな孔(あな)が見られる。これは土偶を素焼きする前に先の尖った何かで開けられたもので、非常に丁寧に刺突されている。


森の中での「発見」
 
最初は見当もつかなかったハート形の植物であるが、答えは森の中にあった。

2017年の初秋、長野県の山中で渓流に沿って一人で歩いているとき、私はある木の実を見つけた。その場でスマホで検索すると、それが縄文カレンダーに載っていた「オニグルミ」であることがわかった(図2)。樹木は橋の欄干の脇の崖下に生えていたため、ちょうど手を伸ばせば届く高さにたくさんの実がぶら下がっていた。熟した果実の一部はすでに黒ずみ始めており、収穫するにはちょうどよさそうな感じである。果実は素手でもぎ取ることができた。



図2 オニグルミの果実

私は収穫したオニグルミを手に河原まで降りていき、大きめの石を見つけるとその上で果実を踏み付け、果肉を取り除いて核果を取り出してみた。さらに踵で核果を踏み付けたが、殻は石のように堅く、ヒビすら入る気配がなかった。

今度は石の上にオニグルミを縦に置いて、拾ったもう一つの石をハンマーのように振り下ろしてみた。すると何度目かの打撃で縫合線に沿って殻が真っ二つに割れた。中の身、つまり「仁」は殻の中に“Uの字”に収まっていた。クルミだからそのまま食べられるだろうと思い、その場で仁を取り出して齧じってみた。

美味い。味はまさにクルミそのものだったが、薄皮のえぐみがない分、市販のクルミより美味しく感じられたほどだ。私は生まれて初めて食べた野生のクルミの味に感動した。数千年前に生きた縄文人たちも、こうやって森でオニグルミを採って食べていたのだろう。

そのまま食べられる美味しい実が木になっている。このシンプルな事実が、私にはこの上なく特別なことのように感じられた。飽食の現代を生きる私ですらそう感じるのだから、森の恵みで生命をつないでいた縄文人たちにとって、「食べられる木の実」は樹木からの格別の贈り物のように感じられたに違いない。


精霊と目が合った
 
すべての葉が枯れ落ちて、冬には一度死んだかのように見えるクルミの木が、翌春にはふたたび芽吹き始め、秋には数えきれないほどの果実を実らせる――この死と再生の物語が“奇跡”以外の何であろうか。自分たち人間は何も与えていないのに、毎シーズン、クルミの木は生命の果実を贈与してくれる。この事象の背後に、何らかの“善意ある存在”の介在を感じないことの方が難しいだろう。

そして人類ははるか古代から、この“善意ある存在”を“精霊”として表象し、かれらから一方的に贈り物を受け取ることを良しとしなかった。つまり秋に祭祀の場を設け、そこで精霊たちへ供物を捧げ、ときには精霊と気前の良さを競うように盛大な返礼式(収穫儀礼)を行ってきたのである。これは植物と人類における贈与論といってもよいだろう。

長い都会暮らしで私の生命感覚は鈍磨していたようである。一粒の野生のクルミは、「食べる」という行為が単なる栄養摂取のそれではないことを教えてくれた。それは生命という共通項を媒介にして、自分の肉体と植物とがひとつながりになる行為なのであった。

初秋の河原でしばし感慨にふけっていた私は、殻の窪みに残っていたクルミの破片をナイフで搔き出した。そして、事件は次の瞬間に起きた――目が合ったのである。精霊と。それは私がずっと探していたあの“かたち”に他ならなかった。


酷似する二つのフォルム
 
オニグルミが縄文人の重要な食料源であったことは知っていた。しかし、“クルミ”という先入観から、私はスーパーで売っている普通の西洋クルミしかイメージしていなかったのである。

二つに割られたオニグルミの殻は、私の手のなかで見事なハート形を示していた。

仁を取り出した後のオニグルミの殻は、ハート形土偶の顔に瓜二つだったのである。ハート形の輪郭はもちろん、オニグルミの殻の形態は先に挙げた①~④の土偶の顔面の特徴にそのまま当てはまる。

殻を左右に分ける隔壁は土偶の顔面の最上部から下垂する高い鼻梁に、そして殻の左右の窪みは眼部に見える。そして目と鼻が造形されているにもかかわらず、なぜ口だけが造形されないのかという謎もこれで合理的に説明できる。そして顔面全体が凹面に造形されている点も、オニグルミの殻の形態と合致している(図3)。



(上)図3 オニグルミの殻の断面とハート形土偶の顔面(所蔵:東京国立博物館)

それだけではない。オニグルミの殻の表面には渦巻き状の模様が縦に並ぶことがあり、これはハート形土偶の体表にしばしば施文される渦巻きを連想させる。また、オニグルミの殻の辺縁部には列状の小さな孔がみられるが、これもまたハート形土偶の体表部の縁にみられる刺突文に対応していると考えれば、土偶製作者がわざわざこの面倒な意匠を採用した理由も説明できる。


オニグルミの生育分布と土偶の出土分布
 
オニグルミはどこにでも生えている木ではない。たしかに平野部の河畔林で見かけることもあるが、分布はまばらであって本数も限られている。一方、東北・甲信越地方の山間部の渓流沿いを歩けば、限られたエリアだけでも相当な本数のオニグルミを見つけることができた。したがって、縄文期にオニグルミを食用資源として重点的に利用していたのは、東日本の山間部やその周辺に生活基盤を持つ社会集団であったと考えられる。ここでピンときた。

もしハート形土偶がオニグルミをかたどっているならば、すなわちオニグルミの精霊を祭祀するために作られた呪具ならば、ハート形土偶を所有・使用していたのはまさにそうした東日本の山間地域や中山間地域に暮らす人びとが主体となっていたはずだ。

ということは、ハート形土偶の出土分布を調べ、もしそこにオニグルミの生育分布との近接性がみられれば、両者の「見た目の類似」が偶然である可能性を低減させることができる。

ハート形土偶が本格的に製作されたのは縄文後期からで、とりわけ後期初頭にその数が一気に増加したといわれている。また、ハート形土偶は東北地方南部から関東地方北部にかけて多く見つかり、分布の中心は福島県の阿武隈(あぶくま)山地である。

図4は、縄文後期の福島県域における遺跡分布図をもとに私が作製した地図で、ハート形土偶の出土した遺跡が丸でプロットしてある。ご覧のように丸は阿武隈山地と会津盆地に集中しており、この地域からハート形土偶が多出している状況がよくわかる。



(上)図4 ハート形土偶の出土分布図(福島県域) 竹倉作成

私もさっそく現地でフィールド調査を行ったが、ハート形土偶が多く見つかっている三春町の周辺には阿武隈川の支流である大滝根川をはじめ多くの沢筋が存在しており、オニグルミの生育に好適な環境が広がっていることが確認できた(渓畔林には実際にオニグルミが多数自生していた)。


オニグルミが食料とされていたことは確実
 
これらは現在の福島県域の状況であるが、古環境学的にもハート形土偶が多く造られた縄文後期と現代の自然環境は大きく異なるものではなかったことがわかっている。たとえば縄文後期、阿武隈山地周辺にオニグルミが繁茂する植物相があったことは花粉分析からもすでに明らかになっている。

ハート形土偶が集中的に出土する阿武隈川の上流域の遺跡に注目すると、柴原A遺跡の土坑(中期中葉)からオニグルミ核果が見つかっているほか、高木遺跡の土坑からオニグルミの炭化種実遺体(中期後葉)が、一斗内遺跡の泥土から大量のオニグルミ核果(後期後葉)が、そして仲平遺跡からは土坑から268個、自然流路から112個のオニグルミ核果(ともに晩期)が発見されており、少なくとも中期以降の阿武隈川上流域において、オニグルミが食料資源として広く利用されていたことは確実である。

こうなると、ハート形土偶とオニグルミの見た目の類似を単なる偶然として無視することはもはや適当ではない。少なくとも、ハート形土偶がオニグルミをかたどって製作された可能性について、まじめに考察するだけの価値があると主張することは許されるだろう。

しかし、これだけで「ハート形土偶はオニグルミをかたどったフィギュアである」と結論することはできない。

というのも、オニグルミは平野部でも生育可能であり、量の多寡はさておき、生育環境は山間部に限定されない。また、全国各地の縄文遺跡からオニグルミ遺体は検出されており、その分布がハート形土偶の出土した地域に限定されているわけでもない。つまり、ここでの検証作業によって満たされたのは十分条件ではなく必要条件に過ぎないのである。

したがって、「土偶は当時の縄文人が食べていた植物をかたどったフィギュアである」という私の仮説の妥当性を検証するためには、このハート形土偶のような事例、つまり、推定モチーフと土偶とのあいだに「見た目の類似」がみられるだけでなく、当該の土偶を所有していた社会集団が推定モチーフの植物を実際に資源利用していたことが発掘調査資料によって確認できるような事例を、一つでも多く枚挙していく必要があるといえるだろう。

その作業を行った結果が次の通りである。

ハート形土偶はオニグルミ
中空土偶はシバグリ
椎塚土偶(山形土偶)はハマグリ
みみずく土偶はイタボガキ
星形土偶はオオツタノハ
縄文のビーナスはトチノミ
結髪土偶はイネ
刺突文土偶はヒエ
遮光器土偶はサトイモ



(上)図5 中空土偶(所蔵:函館市)とシバグリ。頭頂部にある突起や顎の下の曲線は、クリの果実を頭部に見立てることで氷解する



(上)図6 縄文のビーナス(所蔵:茅野市尖石縄文考古館)とトチノミ。眉弓の位置にあるカモメのような造形(カモメラインと命名)と、細い吊り目&鼻孔が特徴

これで現在「○○土偶」と呼ばれている主要な様式の土偶はほぼ網羅することができた。


貝は植物ではないが
 
この中には、ハマグリ、イタボガキ、オオツタノハという貝類が含まれている。これについて、われわれはどのように考えるべきなのだろうか。

椎塚土偶の解読から私が気づかされたことは、そもそも「植物」とか「貝類」といった観念は現代人の認知カテゴリーに過ぎないということである。たとえば縄文人が動物を見て「これは哺乳類」とか「これは爬虫類」といった分類をしたわけもなく、かれらはわれわれには未知の、独自の分類体系によって生物種を認知していたはずである。したがって、そもそも「植物」というわれわれの認知カテゴリーをそのまま縄文人に当てはめようとすること自体が不適切だったのである。

そこから私が直感したのは、ひょっとして縄文人は貝類と堅果類を近似したカテゴリーとして認知していたのではないか、ということである。

そもそも「ハマグリ」の語源は「浜に落ちている栗」、つまり「浜栗」だったのだ! 貝類と堅果類との認知的な近接性は、日本語の中にもはっきりと示されていた。

こうした事実を考慮すれば、縄文人も貝類と堅果類とを近接するカテゴリーに分類し(あるいは両者を包含する認知カテゴリーが存在し)、どちらの精霊も土偶祭祀の対象になっていたと考えても不自然ではないだろう。海は水のある森であり、森は水のない海なのである。

そういうわけで、椎塚土偶の解読を経て、私は自らの仮説を修正することになった。すなわちそれは、「土偶は食用植物および貝類をかたどったフィギュアである」というように拡張されたのである。