タマホイ@Tamama0306

2024年2月19日

アメリカにとって一番の脅威はロシアではなくアメリカの諜報機関(CIA)である

https://realclearpolitics.com/video/2024/02/16/davidson_our_own_intelligence_community_not_russia_is_the_number_one_threat_to_america.html

彼らは自分たちがこの国を支配し、あなたや私を支配する権利があると考えている
それに少しでも異議を唱えるなら、私たちは真実と客観性の敵だ
彼らは私たちを守り、統治するためにここにいるのだから、私たちは破壊され、黙らされなければならない
そしてそれは彼らの権利である
たまに、彼らは実際にそれを口に出して言うことがある

諜報機関は、我々の共和国にとって、国家安全保障上、最大の脅威である
彼らは、米国民が想定外のことをした瞬間から、明らかに米国民に敵対している
それはドナルド・トランプを大統領に選んだことだ
それ以来、我々の諜報機関は、そしてその証拠が週を追うごとに明らかになるにつれ、基本的に米国民と戦争状態にある
彼らは、彼がホワイトハウスを獲得する前からトランプ陣営と戦争状態にあり、彼の政権と戦争状態にあり、そして2020年の選挙直後から彼の支持者と戦争状態にあった

「ロシアの核兵器が宇宙にある」 ということがどういうことなのかは、ワシントンをよく観察していないとわからないだろう
しかし、ロシアが何をしているのかではなく、自分たちこそが真の敵であり、自由と自治、そして共和主義的な生き方の真の敵であるという事実から目を逸らそうとしていることは言うまでもない

これを説明する言葉は、トランプ大統領の最初の弾劾の際に出てきた「省庁間のコンセンサス」だと思う
トランプは、ウクライナ、イスラエル、中東、NATO、そして情報機関にとって身近で重要な多くの事柄について、「省庁間のコンセンサス」に逆らった
そして、彼らは大統領に我慢がならない
彼がアメリカ国民に選ばれたとしても気にしない
外交政策や他の多くの問題は、自分たちのものだと感じている

そして、もし大統領や議会、あるいは他の誰かが、自分たちが決めた米国の政策に逆らうなら、彼らはその人物と戦争をする
トランプが省庁間のコンセンサスに乗らなかったから、彼らがトランプにしたことだ



https://www.youtube.com/watch?v=oWpnCt5N4eU

https://www.youtube.com/watch?v=VR1f6WRRhd0

ブログ主コメント:なるほどね。護衛のはずのシークレットサービスが、敵の手先で暗殺実行犯では、暗殺を防げるはずもない。

何だろう?安倍晋三暗殺事件と似ている。安倍の件はJFK暗殺のパロディだったんじゃないかな?あれも護衛が(ry

当然、岸田への脅しでもあるだろう。見せしめだ。となると、岸田はジョンソンやニクソン的ポジションか。

真犯人の哀れな身代わり役の山上はオズワルドだな。

なぜ、JFKは殺されたのか。それは、JFKが殺された後、歴史がどう「(動いたか、ではなく、)動かされたか」を見ればわかる。そのように歴史を動かすのが目的であり、そのためにJFKが邪魔だったわけだ。だから力づくで排除された。

つまり、JFKはベトナム戦争から撤退しようとしていた。JFK暗殺後、後を継いだジョンソンは、それを撤回し、逆に10年間にも及ぶベトナム戦争の泥沼にアメリカを引きずり込んだ。

それは軍産複合体に利益をもたらし、それと引き替えに、アメリカ政府の財政を悪化させた。つまり、国家(国民)の富の、私的集団への、移転・収奪である。

そして、その結果、アメリカは、金本位制=兌換紙幣を廃止し、不換紙幣を発行することになる。いわゆるニクソン・ショックである。金とのリンクが無くなればいくらでも紙幣を発行できる(マネタリーベースを増やせる)。

そして、アメリカは財政悪化から、国債と不換紙幣発行を乱発することになり、借金が膨らみ、現在の連邦政府の公的債務残高31兆ドルへと繋がるわけだ。

それは、いずれ、最終的に、ドルの紙屑化=経済の大崩壊=資本主義の廃止=共産主義への移行へと繋がるだろう。

日本でも、デフレ脱却という口実で、異次元金融緩和とか言って、しかし、真の目的は、ハイパーインフレを起こして、円を紙屑化して、国民を無財産・無所有のプロレタリアートにしようとしているよね。

つまり、そういうことだ。当時、すでに、そこまで、歴史の道筋が決まっていたのだろう。

そのきっかけとなる、ベトナム戦争から撤退しようとしたから、JFKは暗殺されたのだろう。もちろん、こうした道筋を実現するための組織である、陰謀組織としてのCIAから権力を奪おうとしたことも、原因であろう。


※https://cherish-media.jp/posts/10579

ケネディ大統領とリンカーン大統領の二人には、奇妙な一致がいくつもあります。

①ケネディ大統領、リンカーン大統領両者とも金曜日に、妻の前で暗殺されている。リンカーン大統領は1860年、ケネディ大統領は1960年でちょうど100年後である。そして、議員として選ばれたのも100年の1847年と1947年である。

②暗殺後にその後を引き継いだ大統領の名前が、どちらもジョンソンである。さらに、二人のジョンソンの生まれた年が1808年と1908年、つまりちょうど100年の差になっているのである。

③リンカーン大統領を暗殺した犯人は1839年生まれで、ケネディ大統領を暗殺したとされているリー・ハーヴェイ・オズワルドは1939年生まれである。これもまたちょうど100年の差となっている。

④ケネディ大統領暗殺事件の犯人とされているリー・ハーヴェイ・オズワルドも、リンカーン大統領を暗殺した犯人も、裁判にかけられるよりも前に別の人間に殺されている。

⑤リンカーン大統領の秘書はケネディで、ケネディ大統領の秘書はリンカーンという名前であった。


・ロバート・ケネディ・ジュニアがJFK暗殺とCIAを結びつける発言をしたインパクト

2023.05.22

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202305110000/

※次のアメリカ大統領選挙へ民主党から出馬すると表明しているロバート・F・ケネディ・ジュニアは5月7日、WABCラジオでホストを務めるジョン・カツィマティディスのインタビュー中、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺にCIAが関係している可能性に言及した。

「合理的疑惑以上」だとしている。

これまで少なからぬ研究者やジャーナリストがこの暗殺を調査、同じ結論に達している。

ケネディ大統領は1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺され、その直後にリー・ハーベイ・オズワルドが逮捕される。

ところが暗殺の2日後、ダラス警察の地下でオズワルドは射殺された。

その犯人だとされているジャック・ルビー(ジェイコブ・ルベンスタイン)はナイトクラブのオーナーで、シカゴの犯罪組織とつながっていた。

犯罪組織の大立者でCIAの仕事をしていたサム・ジアンカーナと緊密な関係な関係にあったとも言われている。

ルビーは1964年4月に死刑が言い渡されたが、上訴裁判所はそれを取り消す。

この年の6月にウォーレン委員会のメンバーとダラスで面談したルビーはワシントンDCへ移すように強く求めている。

テキサスにいては命が危ないという理由だった。

自分は真実を話す用意があるが、テキサスでは無理だというのだ。

結局、彼の移送は認められず、1967年1月にパークランド病院でガンのために55歳で死亡した。

ケネディ大統領は1963年11月2日にシカゴを訪れる予定だったが、そこでも暗殺計画があった。

パレードの途中で4名のスナイパーが高性能ライフルで大統領を狙うという情報をFBIが「リー」なる情報源から入手、シークレット・サービスへ伝えられた。

また、シカゴ警察のバークレー・モイランド警部補は10月後半、シカゴにあるカフェテリアの経営者からケネディ大統領に関して不穏当な話をする常連客がいることを知らされている。

そこで警部補はその男が来るのを待ち、トーマス・アーサー・ベイリーだと確認してからシークレット・サービスに連絡している。(James W. Douglass, “JFK”, Orbis, 2008)

ベイリーの自宅を捜索すると、M1ライフル、カービン銃、2800発の銃弾があった。

11月2日午前9時10分(東部時間では10時10分)、ケネディがシカゴのオハラ空港へ到着する予定時刻の30分前にベイリーは逮捕されている。

警察で捜査を担当したのはダニエル・グロスとピーター・シューラだが、グロスはFBIやCIAの訓練を受けた人物で、1969年には警官隊を率い、黒人解放運動を掲げて活動していたブラック・パンサーの指導者であるフレッド・ハンプトンとマーク・クラークを射殺する。

またシューラは1970年代にシカゴの警察本部で情報担当の幹部になった。

11月18日にマイアミで暗殺する計画もあったと言われている。

そこで自動車によるパレードが中止になった。

そして22日に大統領はダラスへ入る。

当時のダラス市長アール・キャベルの兄のチャールズ・キャベルは1953年4月からCIA副長官を務め、アレン・ダレス長官と同じようにソ連との核戦争を視野に入れた好戦的な作戦を実行しようとしていた。

ケネディ大統領は1961年11月にダレス長官を、そして1962年1月にはキャベル副長官を解任している。

1963年11月22日の朝、ケネディ大統領一行はフォート・ワースのカーズウェル空軍基地からダラスのラブ・フィールドへ移動、そこでパレード用のリンカーン・コンバーティブルに乗り込む。

そのリムジンの約400メートル前方を走るパイロット・カーを運転していたのはダラス警察副本部長のジョージ・ランプキン。

この人物は予備役の第488情報分遣隊で副隊長を務めていたが、その分遣隊で隊長を務めていたジャック・クライトンはダラスの石油業者で、ジョージ・H・W・ブッシュと親しく、第2次世界大戦でCIAの前身であるOSSに所属していた。

大統領が乗ったリムジンは防弾仕様でなく、屋根はシークレット・サービスのウィンストン・ローソンの指示で取り外されている。またリムジンのリア・バンパーの左右には人の立てるステップがあり、手摺りもついているが、パレードのときには誰も乗っていない。大統領の指示だったという話もあるが、エージェントだったジェラルド・ベーンは大統領がそうした発言をするのを聞いていないと証言している。元エージェントのロバート・リリーによると、大統領はシークレット・サービスに協力的で警備の方法に口出しすることはなかった。

パレードの途中、12時半頃にケネディ大統領は暗殺された。後ろの教科書ビルから撃たれたことになっているが、映像を見ても証言を調べても、致命傷になったであろう銃撃は前方からのものだった可能性がきわめて高い。

銃撃が始まると、大統領を乗せたリムジンの後ろを走る自動車にいた特別エージェントのエモリー・ロバーツは部下のエージェントに対し、銃撃だと確認されるまで動くなと命令している。

しかし、クリント・ヒルは命令を無視してリムジンに飛び乗る。彼によると、銃撃の後に喉を押さえるケネディ大統領を見てのことだ。まだステップに足がかかる前、血、脳の一部、頭骨の破片が自分に向かって飛んできて、顔、衣類、髪の毛についたとしている。ステップにヒルの足がかかった時、大統領夫人のジャクリーンもボンネットの上に乗り、大統領の頭部の一部を手に触れようとしていた。その時、大統領の頭部の中が見えたという。リムジンの前方から銃撃されたことは決定的だ。事件を調査したウォーレン委員会でジャクリーンは髪の毛を元に戻そうとしたと証言しているが、委員会の報告書からは削除された。

ケネディ大統領の死亡はダラスのパークランド記念病院で確認されているが、後にルビーもこの病院で死亡する。大統領の死体を見た病院のスタッフ21名は前から撃たれていたと証言、確認に立ち会ったふたりの医師、マルコム・ペリーとケンプ・クラークは大統領の喉仏直下に入射口があると記者会見で語っている。前から撃たれたということだ。

その後、そうした証言をしたペリーにベセズダ海軍病院から電話が執拗にかかり、記者会見での発言を撤回するように求められている。

これは同病院で手術や回復のための病室を統括していた看護師、オードリー・ベルの証言。ペリー本人から23日に聞いたというが、数カ月後にそのペリーは記者会見での発言を取り消し、喉の傷は出射口だとする。ウォーレン委員会でもそのように証言した。

大統領の死体は法律を無視してパークランド記念病院から強引に運び出され、検死解剖はワシントンDCのベセズダ海軍病院で行われた。担当した軍医のジェームズ・ヒュームスは検死に不慣れだったとも言われている。

狙撃の訓練を受けたわけでもないオズワルドがひとりでケネディ大統領を暗殺したとする公式説に疑問を持った地方検事がいた。ニューオリンズのジム・ギャリソンだ。1966年後半から捜査を始め、67年3月にクレイ・ショーを逮捕する。オズワルドがソ連へ「亡命」した時に名前が出てきた人物で、サントロ・モンディアール・コメルシアールやパーミンデックスの理事でもあった。

イタリアの王族や貴族もCIAの秘密工作で名前が出てくるが、ここではそうした話を割愛する。

パーミンデックスはCIAやイギリスのMI6と関係が深いと言われている会社で、アルジェリアの独立に反対する軍人グループへ資金を供給していたとイタリアでは報道されている。

ショーを逮捕したギャリソンはアメリカの有力メディアから批判されるが、それだけ彼は核心に迫っていたということだろう。

その軍人グループとは1961年に創設された反ド・ゴール派の秘密組織OAS(秘密軍事機構)。

イタリア政府もサントロとパーミンデックスを危険な存在だと認識、1962年に両社は国外へ追放され、ヨハネスブルクへ本部を移している。

シャルル・ド・ゴールは大戦中、レジスタンスに参加している。

アメリカやイギリスの私的権力はこのゲリラ戦部隊を敵視、対抗するために組織したのがジェドバラ。

この人脈が大戦後、CIAの秘密工作部門やNATOの秘密部隊ネットワークを築いた。

ド・ゴールが命を狙われた一因は第2次世界大戦中にナチスと戦ったことにあると考える人は少なくない。

パーミンデックスが創設されたのはスイスで、カナダにも施設があった。

設立当時の1958年における社長兼会長はルイス・モーティマー・ブルームフィールドだが、この人物は1938年にイギリスの破壊工作機関SOE(特殊作戦執行部)へ入っている。

第2次世界大戦中、OSSとの連絡機関としてイギリスはBSC(英国安全保障局)を設置するが、その責任者だったウィリアム・ステファンソンはケネディ大統領が暗殺された当時、ブルームフィールドを動かす立場にいた。

ケネディ大統領が暗殺された後、副大統領だったリンドン・ジョンソンが大統領に就任、11月29日に「ケネディ大統領暗殺に関する大統領委員会」を設置、アール・ウォーレン最高裁長官を委員長に据える。

委員長の名前から「ウォーレン委員会」と呼ばれることが多い。

委員会のメンバーはウォーレンのほかに

リチャード・ラッセル上院議員(当時、以下同じ)、

ジョン・クーバー上院議員、

ヘイル・ボッグス下院議員、

FBIと関係が深いジェラルド・フォード下院議員、

アレン・ダレス元CIA長官、

ドイツの高等弁務官としてナチスの大物を匿ったジョン・マックロイ元世界銀行総裁がいた。

そして主席法律顧問はFBIとCIA両方とつながっていたリー・ランキン。

この中で委員会の専従はダレスだけだった。

ウォーレン委員会が暗殺に関する報告書を出した3週間後の1964年10月12日、ケネディ大統領と親しかったマリー・ピンチョット・メイヤーが散歩中に射殺された。
銃弾の1発目は後頭部、2発目は心臓へ至近距離から撃ち込まれている。
プロの仕業だ。

容疑者として逮捕されたレイモンド・クランプは1965年に無罪が言い渡されているが、捜査は杜撰(ずさん)だった。

ケネディ大統領が暗殺された直後にマリーはハーバード大学で心理学の講師をしていた友人のティモシー・リアリーに電話し、泣きじゃくりながら「彼らは彼をもはやコントロールできなくなっていた。彼はあまりにも早く変貌を遂げていた。・・・彼らは全てを隠してしまった。」と語ったという。

マリーは大統領と親しかったことから何かを聞いていた可能性があるが、それだけではない。彼女が結婚したコード・メイヤーは大戦後、CIAで秘密工作部門の幹部を務めている。ふたりは1958年に離婚しているものの、彼女はCIAの内部情報を知りうる立場にあった。

ジョン・F・ケネディ大統領、弟のロバート・ケネディ、ケネディ兄弟と親しかったマーチン・ルーサー・キング牧師は短い期間の間に暗殺された。

ケネディ大統領の息子であるジョン・F・ケネディ・ジュニアは大統領選挙を翌年に控えた1999年7月16日に「飛行機事故」で死亡している。当時、彼の出馬を望む声は小さくなかった。

次の大統領選挙への出馬を表明しているロバート・F・ケネディ・ジュニアはロバート・ケネディの息子であり、ジョン・F・ケネディの甥であり、ジョン・F・ケネディ・ジュニアの従兄弟にあたる。



・JFK暗殺から60年を経た現在、オズワルドの単独犯行説は説得力を失っている

2023.11.20

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202311200000/

※ジョン・F・ケネディは1963年11月22日、今から60年前にテキサス州ダラスで暗殺された。アメリカでは第2次世界大戦の終盤、1945年4月12日にフランクリン・ルーズベルト大統領が急死してウォール街を根城にするファシズム人脈が息を吹き返していたが、ケネディの大統領就任でその流れが変わる可能性があったのだ。

ケネディ大統領に続き、マーチン・ルーサー・キング牧師が1968年4月4日に、大統領の弟で元司法長官のロバート・ケネディが同年6月6日に暗殺されて流れは変わらない。ロバート・ケネディは1968年の大統領選挙における最有力候補で、キングが副大統領になるとも言われていた。

リンドン・ジョンソン副大統領がケネディ大統領のダラス訪問を発表したのは1963年4月のこと。ダラスに不穏な空気が漂っていたことは大統領自身も承知していたはずだが、大統領は予定を変えず、11月21日の夜にフォート・ワース入りした。

その日から翌日の未明まで、警備を担当するシークレット・サービスのエージェントの多くが「セラー(穴蔵)」というナイトクラブへ繰り出して騒いでいた。そのナイトクラブを経営するパット・カークウッドはジャック・ルビー、つまり、オズワルドを警察署で射殺したとされている人物の友人だという。

銃撃の直後、ダラス警察のジョー・マーシャル・スミスはパレードの前方にあった「グラッシー・ノール(草で覆われた丘)」へ駆けつけ、硝煙の臭いを嗅いでいる。そこで近くの駐車場にいた自動車修理工のように見えた男を職務質問したところ、シークレット・サービスのエージェントだということを示されたのだが、そこにシークレット・サービスの人間は配置されていなかったことが後に判明している。

兵士のゴードン・アーノルドは銃撃の直前、「シークレット・サービスのエージェント」をそこで見たと語っている。パレードを見やすい場所を探してグラッシー・ノールに近づいたところ、私服の男に遮られ、近づかないようにと言われたというのだ。アーノルドが抗議したところバッジを見せながらシークレット・サービスだと名乗ったという。

銃撃が収まってから、今度はふたりの制服を着た「警察官」がアーノルドに近づいて、フィルムを渡すように命じた。アーノルドは素直に渡している。そのフィルムがどうなったかは不明だ。やはり銃撃後、グラッシー・ノールのフェンス近くを走っていたジーン・ヒルもシークレット・サービスを名乗る人物からフィルムを全て取り上げられている。ただ、エイブラハム・ザプルーダーが撮影した8ミリフィルムは後に公開されている。

事件直後、そのフィルムに関する全ての権利を写真雑誌LIFEの編集者リチャード・ストーリーが5万ドルでザプルーダーから買い取ってシカゴの現像所へ運び、オリジナルはシカゴに保管、コピーをニューヨークへ送ったとされていた。

ジャクソンはフィルムが外部に漏れることを警戒し、ストーリーに対して動画に関する権利も買い取るように指示。この契約でLIFEはザプルーダー側へさらに10万ドル、合計15万ドルを支払っている。後にオリジナルのほか3本のコピーが作られ、オリジナルはCIAと国防総省の共同プロジェクトとして設立されたNPIC(国家写真解析センター)へ送られたことがわかる。なお、NPICは1996年にNIMA(国家画像地図局)に組み込まれた。現在のNGA(国家地理空間情報局)だ。

このフィルムをNPICが保管していることを知ったCIA長官のジョン・マコーンは持ってくるように指示、映像を見ている。NPICはそれをオリジナルだとしていたが、本当のところは不明。マコーンはロバート・ケネディに対し、銃撃にはふたりの人間が関係しているという映像から受けた印象を語ったという。またNPICのスタッフで事件直後に映像を見たホーマー・マクマホンによると、銃撃は約8回、少なくとも3方向から撃たれているとしている。

ザプルーダー・フィルムは長い間、一般に公表されていない。フィルムを隠したC・D・ジャクソンはアイゼンハワー大統領のスピーチライターを務めた人物で、アレン・ダレス、フランク・ウィズナー、リチャード・ヘルムズ、フィリップ・グラハムを中心とするメディア支配プロジェクトの協力者でもあった。

このフィルムを公開させたのがルイジアナ州ニュー・オーリンズの地方検事だったジム・ギャリソン。これがオリジナルである保証はないのだが、ともかくそれを1969年2月に法廷で映写させた。ただ、フィルムには大きな傷があり、見えない部分がある。

その傷に関し、LIFE側は現像所の技術的なミスで損傷を与えたと説明したが、有名写真雑誌のプロがそうしたミスをするとは考えにくい。いつ、どのようにして傷つけたかを明確にするべきだが、現在に至るまで納得のできる説明はない。

本来ならフィルムを隠したC・D・ジャクソンから事情を聞くべきなのだが、大統領が暗殺された翌年、1964年9月18日に彼は62歳で死亡している。

ケネディ大統領の暗殺を調査するため、リンドン・ジョンソン新大統領は1963年11月29日に「ケネディ大統領暗殺に関する大統領委員会」を設置、アール・ウォーレン最高裁長官を委員長に据えた。委員長の名前から「ウォーレン委員会」と呼ばれることが多い。

委員会のメンバーはウォーレンのほか、リチャード・ラッセル上院議員(当時、以下同じ)、ジョン・クーバー上院議員、ヘイル・ボッグス下院議員、ジェラルド・フォード下院議員、アレン・ダレス元CIA長官、ジョン・マックロイ元世界銀行総裁がいた。そして主席法律顧問はリー・ランキンだ。

ダレスはウォール街の大物弁護士で、大戦中からOSSの幹部として破壊活動を指揮、戦後CIA長官になるが、ケネディ大統領に解任させられている。マックロイはウォール街の大物で、大戦の後に世界銀行の総裁を経てドイツの高等弁務官としてナチスの大物たちを守った。フォードはJ・エドガー・フーバーFBI長官に近く、ランキンはCIAとFBIにつながっている。ダレスは委員会の中で唯一の専従だった。

この委員会にはCIAやFBIから情報が提供されたが、1964年1月にはCIAとの連絡係としてジェームズ・アングルトンが任命された。FBIはウィリアム・サリバンが担当している。

ウォーレン委員会の結論はリー・ハーベイ・オズワルドの単独犯行だが、この結論をヘイル・ボッグスは口頭で批判していたという。ボッグスは1966年、委員会の腐敗した状況をジム・ギャリソンに話しているという。このボッグスを乗せたセスナ310は1972年10月16日、アラスカで行方不明になった。

ケネディ暗殺の際、CIA、シークレット・サービス、警察などに不可解な動きがあり、複数の狙撃者がいたことを示す証拠や証言が次々と明らかになる。それに対抗し、単独犯説を主張する勢力は「陰謀論」という呪文を考えつき、連呼するようになった。



以下「さてはてメモ帳」様より転載

http://glassbead.blog.shinobi.jp/medical%20tyranny/says%20he%20must%20%E2%80%98be%20careful%E2%80%99

・RFK Jr.、CIAに関する主張で衝撃を与える、CIAに暗殺されないよう「気をつけなければならない」と発言 

JD Heyes

2023年6月20日

https://www.naturalnews.com/2023-06-20-rfk-jr-stuns-with-claim-about-cia.html#

※民主党の大統領予備選で、当選は絶望視されているロバート・F・ケネディ・ジュニア[Robert F. Kennedy Jr.]は今週、多くのアメリカ人に1963年に大統領の叔父に起こったことを回想させるインタビューの中で頭角を現しました。

RFKジュニアは、叔父と父の暗殺について公然と議論することで、自分自身の安全を危険にさらしていると考えていることを認めました。彼は、CIAによる危害や暗殺の可能性から身を守るために「予防策」を講じていると表明しました。

ローガンは、候補者でありケネディの遺産を持つ彼が、実際に大統領選に勝利したり、勝利できるかのように見え始めたらどうなると思うか、と質問しました。

「気をつけないといけないね」と、彼は言いました。

「私は、その危険性を認識しているんだ。それを恐れて生きているわけではない-まったくね。でも、バカじゃないから、用心しているんだ」と付け加えました。

ケネディはまた、叔父であるジョン・F・ケネディ大統領が軍産複合体と「戦争」していたことを語り、当時、米国の情報機関はキューバとベトナムへの軍事作戦を開始するために「彼をだまそうと」していたと付け加えました。

RFK Jr.は再びJFKについて語り、最終的にはCIAを「千々に砕き」、「風に散らす」必要があると結論づけました。

「JFKは、CIAと情報機関の目的は、軍産複合体のために新しい戦争の絶え間ないパイプラインを作ることだと、非常に早くから学んでいた」と、ケネディは語りました。さらに、JFKは「他国がどのような政府を持つかを決めるのは、米国の仕事ではない」と断言していたとも述べています。

JFKは、「1963年10月、グリーンベレーが何人か殺されたと聞き、ベトナムの犠牲者リストを出せと言った。補佐官がやってきて、75人のアメリカ人が死んだと言いました。彼は、それは多すぎると言いました。彼はその日、ベトナムからの全軍撤退を命じる国家安全保障指令に署名しました。最初の1000人は翌月に、残りは1965年の初めまでに。そして、その1ヶ月後に彼は殺されました」と、彼は語りました。

JFKはテキサス州ダラスで暗殺されました。犯人とされたリー・ハーヴェイ・オズワルド[Lee Harvey Oswald]は、オズワルドが警察署から誘導される際に、マフィアとつながりのあるナイトクラブのオーナー、ジャック・ルビー[Jack Ruby]に自ら撃たれて殺されました。

また、第二次世界大戦の連合国最高司令官であったドワイト・D・アイゼンハワー[Dwight D. Eisenhower]大統領が、JFK就任の数日前に行った任期最後の演説で、「軍産複合体」について警告したことにも言及しました。



・R・ケネディ・ジュニアは大統領選挙を前にして、シオニストやCIAと手を組んだ

2023.10.27
 
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202310270001/

※ケビン・マッカーシーがアメリカ下院議長を解任されたのは10月3日のことだった。​その後任にマイク・ジョンソン下院議員が選ばれたのだが、この人物は福音主義キリスト教徒​で、ベンヤミン・ネタニヤフ首相を含む「修正主義シオニズム」と緊密な関係にある。以前からユダヤ系アメリカ人はイスラエルのパレスチナ弾圧に批判的な人が多く、そうした弾圧を支援してきたのは福音主義キリスト教徒だ。新下院議長はシオニストだと考えて間違いないだろう。

アメリカはシリアをアル・カイダ系武装集団に攻撃させた際、現地のキリスト教徒を殺戮していたが、イスラエルはガザにあるキリスト教の教会を攻撃している。福音主義キリスト教徒はアメリカで最も強くイスラエルを支援している勢力で、しかもほかのキリスト教徒とも考え方が違う。

アメリカを支配しているのはキリスト教徒でもユダヤ教徒でもなく、シオニストであり、その背後には金融資本が存在していると言えるだろう。ジョン・F・ケネディはその力に立ち向かったが、甥のロバート・ケネディ・ジュリアはすでに屈服している。パレスチナ問題でイスラエル支持を明確にしたのだ。

​ロバート・ケネディ・ジュニア​の長男、コナーは反ロシアの立場からジョージタウン大学の授業に出ず、ウクライナでネオ・ナチの軍隊に入り、ロシア軍と戦っていた。コナーの弟、ロバート・ケネディ3世が結婚した相手は「元CIAオフィサー」のアマリリリス・フォックス・ケネディ。ロバート・ケネディ・ジュニアは10月14日、選挙運動本部長をデニス・クシニッチからアマリリスに交代させている。

来年の大統領選挙を前に、ロバート・ケネディ・ジュニアはシオニストとCIAに屈したと言えるだろう。これまで彼を支援していた人が離れていくことは避けられない。



以下「さてはてメモ帳」様より転載

http://glassbead.blog.shinobi.jp/history/the%20fed%20killed%20jfk

・FRBがJFKを殺した

クリフォード・シャック

2023年11月2日

https://henrymakow.com/2023/11/clifford-shack---the-fed-kille.html

※JFKが殺害されたのは、彼が連邦準備銀行券を銀券に代えたかったからだけではない。

JFKの愛人メアリー・ピンチョー・マイヤー(メイヤー)[Mary Pinchot Mayer]は、CIAの内通者であるコード・マイヤー[Cord Mayer]と結婚していた。マイヤーは彼女に、中央銀行家がCIAを通じて戦前にナチスと関係があったことを話した。J・F・ケネディ大統領は、『彼は知りすぎていて、コントロールできなかったから』去らねばならなかった。

「両世界大戦は、何もないところから金を稼ぐ連中によって計画され、資金提供された。あなたは、戦争が本当は善人対悪人ではなかったことを理解している。その両戦争は、主要な目的を達成するために慎重に計画された・・・」

ケネディたちは彼らの想像以上に大きなドラゴンと戦っていた。どのくらい大きいか?ほとんどの人の想像を超えている。私たちすべてを影から支配している怪物を理解するには、以下の記事が良いきっかけになるだろう。

https://larouchepub.com/eiw/public/1987/eirv14n48-19871204/eirv14n48-19871204_011-sympathy_for_the_devil_the_warbu.pdf

ここで、クリフォード・シャックは、世界を支配し、私たちを奪い、奴隷にしようとしているユダヤ人銀行一族のネットワークを垣間見させる。



・JFK暗殺から60年

クリフォード・シャック Clifford Shack

※チェース・マンハッタンのオーナーは、他の銀行一族とともに連邦準備銀行も所有していた。

この銀行はロックフェラー家とウォーバーグ家のメンバーによって考案され、実行に移された。ウォーバーグ家はシフ家と婚姻関係で結ばれている。ドイツ、フランクフルトのシフ家はロスチャイルド家の隣人だった。両家は代々、フランクフルトのユダヤ人ゲットーに住み、苦しめられてきた。このような状況から、両家が血縁関係にあることは疑いない。

ウォーバーグ家とロスチャイルド家も血縁関係にある。これは、筆者が40年にわたるJFK暗殺に関する調査の過程で発見した秘密の関係である。

ロスチャイルド家とウォーバーグ家の家長は、1512年に最初のユダヤ人ゲットーが設置される前後、ヴェネツィアのユダヤ人社会のリーダーであった。家長の名はアンセルモ・デル・バンコ[Anselmo del Banco]。元の名はアッシャー・メシュラム・ハ・レヴィ[Asher Meshullam Ha-Levi]。アッシャー・メシュラムはイタリアのパドヴァで生まれた。アッシャー・メシュラムの父親はサロマンシーノ[Salomancino]という名前で、ヘブライ語ではシュロモ(ソロモン)[Shlomo (Solomon).]という。

ロスチャイルド家の家系図を見ると、アンセルムやサロモンという名前を持つロスチャイルド家のメンバーがいる。特に1人のメンバーはアンセルム・サロモン[Anselm Salomon]という名前であった、彼は、存命中にヨーロッパ一の富豪となった。アドルフ・ヒトラー[Adolph Hitler]の父方の祖父にあたるのは、このアンセルム・サロモンである。

アッシャーはヘブライ語で幸福を意味する。ポール・ウォーバーグ[Paul Warburg]の弟はフェリックス・ウォーバーグ[Felix Warburg]。フェリックスはラテン語で「幸せ」を意味する。ユダヤ人は、亡くなった親族の名前を受け継ぐことで、最愛の親族に敬意を払うのである。

消化することがたくさんあると思うが、我慢してほしい。きっとすべてがつながるはずだ。


JFKがアメリカから連邦準備制度理事会(FRB)を追い出したかったことはよく知られている。それは確かに、ロックフェラー、シフ、ウォーバーグ、ロスチャイルド一族の指導者たちが彼の暗殺を画策するには十分な理由だろう。(リンカーンの暗殺は、ロスチャイルドのエージェント(そして非嫡出子)であるオーガスト・ベルモント[August Belmont]がニューヨークの事務所から仕組んだことである。

この著者の40年にわたる調査の過程で、FRBを排除することは、FRBのオーナーがJFK(とRFK)の死を望んだ主な理由のひとつに過ぎないことが判明した。それはさらに複雑になる。

JFKはロックフェラーとウォーバーグ/ロスチャイルドの強盗男爵一族の暗躍を知りすぎていた。

私は、あなたが分かるようにできる限り暗い話をしているのだ。第2次世界大戦の恐怖に目を向けよう。世界史上最も血なまぐさい戦争で、8300万人以上が亡くなった。当時の世界人口の3%だ。

JFKが第2次世界大戦終結からわずか15年後に大統領選に勝利したことを理解してほしい。彼は友人や敵と同様に戦争に参加した。戦争中、米国の諜報部門であった戦略サービス機構(OSS)には多くの者がいた。アメリカでは、戦争の軍事機密の詳細は、OSSのトップ、ウィリアム・「ワイルド・ビル」・ドノヴァン[William "Wild Bill" Donovan]の側近にしか知られていなかった。ドノヴァンは第一次世界大戦の英雄であり、ロックフェラー家と密接な関係にあった。(1920年代初頭、ドノヴァンはミュンヘンのビアホールでアドルフ・ヒトラーと内密に会話を交わしたことで知られている)。

JFKの親友はワシントン・ポスト紙の編集者ベン・ブラッドリー[Ben Bradlee]だった。ブラッドリーはOSSだった。ブラッドリーは同じくOSSのジェームズ・アングルトン[James Angleton]と親しかった。アングルトンは戦後、ナチスの戦犯をヨーロッパからこっそり連れて行った(ヒトラーもこっそり連れて行かれた一人だったという説もある)。戦後、メキシコ人の母を持つアングルトンは、図らずもユダヤ人であったため、CIAの防諜主任となった。アングルトンはCIAのイスラエルデスクも担当していた。

CIA長官はアレン・ダレス[Allen Dulles]で、彼はスイスのベルンで活動していたOSSのスパイマスターだった。ダレスは、親友でありナチスのカウンターパートであったカール・ヴォルフ[Karl Wolff]とともに、一筆書きで第二次世界大戦を終結させた。ヴォルフの仕事のひとつは、ナチスの絶滅収容所行きのユダヤ人や政治犯を乗せた家畜運搬車が、予定通りにスムーズに運行されるようにすることだった。


ジョン・J・マクロイ[John J. McCloy]は、老齢のヘンリー・スティムソン[Henry Stimson]の下で陸軍次官補を務めた。第二次世界大戦中、マクロイは事実上の国防省のトップだった。米空軍がアウシュビッツ強制収容所に通じる登り列車軌道を爆撃するのを阻止したのはマクロイだった。彼は、米軍機は収容所から遠すぎて、そこに迂回させることはできないと虚偽の主張をした。彼の発言の直後、米軍の爆撃機が誤って収容所を爆撃した。

1936年のベルリン・オリンピックの間、マクロイはヒトラーのボックス席から競技を見ていた。ドノヴァンと同様、彼もロックフェラー家の弁護士だった。実際、少年時代、マクロイの母親は夏の間、メイン州のロックフェラー家とシフ&ウォーバーグ家の両方の散髪屋をしていた。彼はジョン・D・ロックフェラー・ジュニアの5人の息子たちにヨットの乗り方を教えた。

戦後、マクロイはドイツのアメリカ部門の高等弁務官を務めた。彼はコンラート・アデナウアー[Konrad Adenauer]をドイツ首相に据えることになる。アデナウアーはマクロイの妻の親戚だった。戦前、彼はロックフェラー家の「仕事」で何度もドイツを訪れた。公式には、彼が第1次世界大戦中にヨーロッパに向かう戦時用爆薬の保管庫であったブラック・トムの大爆発を調査していたということになっている。

この調査により、彼はナチス諜報機関と密接な関係を持つことになった。この著者によれば、マクロイはブラック・トム事件[Black Tom affair]を隠れみのにして、第2次世界大戦が始まる前に、ナチスとの秘密裏に結ばれたアメリカの諜報機関との関係を確立し、強化するために使っていたのだという。英国はすでにドイツとの関係を築いていた。英国諜報部は当時、米国諜報部よりもはるかに進んでいた。

基本的に、JFKはドイツや他の「枢軸」国との銀行家の汚い世界大戦の秘密を十分に学び、それは彼の再選が米国の真の支配者である中央銀行家にとって脅威となるようにした。

J.F.K.はどのようにして米国諜報機関の最も暗い秘密を知ったのか?JFKは、クローゼットの中の骨格にアクセスできる女性と2年間不倫関係にあった。彼女はJFKに十分な情報を与え、JFKは弟のロバートをDCIA(中央情報局長官)に任命することを計画した。ケネディ一家は、その後何十年もの間、中央銀行家たちを手玉に取ることになっただろう。



以下「さてはてメモ帳」様より転載

https://satehate.exblog.jp/8002714/

・ジョン・マクロイのサバティアン/フランキスト・コネクション、ホロコーストとJF・ケネディ

※美容師の息子



これは、有名なドイツ、フランクフルトのロスチャイルド家。

長年にわたり、 ロスチャイルド家は2つの家族用の家の所有権をシッフ家と共有していた。

旧ユダヤ人街に位置して、その家は、ロスチャイルド家の側は赤い盾、シッフ家の側は船で印付けられていた。それらの印から2つの家族の姓が当初派生したものであった。



ジェイコブ・シッフ  (ヤコブ・シッフ)



ジェイコブ・シッフは、投資銀行クーン・ローブ商会の創立者で、家族と一緒に中央右側に座っている。メイン州のマウントデザート島バーハーバーを見渡すシッフ家の夏の家Farviewにて。ジェイコブ・シッフの妻、テレス、はシッフの右となり。彼の娘のフリーダ・シッフ・ウォーバーグと彼女の夫フェリックス・ウォーバーグがジェイコブの後ろに立っている。

ジェイコブが死んだとき、フェリックスがクーン・ローブを引き継いだ。
彼はまた、マンハッタン銀行を所有していた。それは1955年、ロックフェラーのチェース銀行と合併することになる。





マウント・デザート島





テレス・ローブ・シッフ



フィラデルフィアのアンナ・スネイダー・マクロイ。

彼女は、マウントデザート島での夏の間のテレス・シッフの美容師だった。
アンナは、こぎれいで、精力的な、そして知的な若い未亡人であった。彼女は、自身で理髪を教えて小さいけれどまともな家族の収入をやりくりしていた。
彼女は、年間を通して、フィラデルフィアの金持ちにサーヴィスを提供した。夏の間の顧客はマウントデザート島の金持ち達であった。
その島の数少ない美容師の一人として、アンナは徒歩または自転車で仕事に回っていた。
6時までには起きて、彼女は散髪するための仕事道具の入った袋を運んだ。
彼女の人好きのする個性が、これらの社交会の金持ちの男女達を顧客というだけでなくある種の友人にした。
アンナは、お金よりも世間体を切望する種類の女性だった。
彼女の社会的地位は単なる家庭内の使用人のそれよりも高かった。
彼女は、 "働く"上流社会の女性だった。

「フィラデルフィアでは、ある貴婦人が彼女の仕事の尊厳を彼女自身のレベルまで持ち上げた:彼女自身は決して沈むことはない。」 

2人の人物が、ときどき母親の仕事に同行していた彼女の唯一の残された息子、ジャックに親切だった。
かれらは自分達の子供の中古のおもちゃを彼に与えた。
1人の博愛主義者が彼女の息子にシェイクスピアのセットを与えた。



これは美容師アンナの息子、ジャック。
この写真は1916年に撮影されたもので、彼は大学の新入生だった。

教室外で、彼は、授業料のため少しでも多くのお金を稼ぐため、家庭教師の仕事を始めた。
1920年の夏の間、ジャックは母親に再び同伴したが、このときには彼は自分自身を歴史と法律の家庭教師として売り込むことができた。
ある日、彼の母親は彼女の富裕な顧客の一人であるロックフェラー家に家庭教師の仕事についてアプローチすることを強く促した。



ロックフェラーの子供たちにはすでに歴史の家庭教師がいたにもかかわらず、彼のこぎれいで品のある母親は、ロックフェラーの子供達に彼らの邸宅の下の湾でセーリングを教える仕事をジャックにうまく得ることができた。
ジョン D. ロックフェラー, Jrは、46歳で、5人の息子と当時17歳の1人娘アビーがいた。
ジョンD.三世、ネルソン、ローランス、ウィンスロップ、若いデビッド(14から5歳)。

その夏が、のちにそれゆえにジャックとロックフェラー家との間の生涯にわたる関係ができたと判明する期間を用意した。
デビッドはその時はとても若くて、そのエピソードをほとんど覚えていなかった。
しかし、他の男の子達の目には、マクロイは、いつも先生のように見えただろう。権威において、彼ら自身よりも彼らの父親の世代に近い一人の成熟した姿として。



大人になったロックフェラーの子供たち。シール・ハーバーにて。

この美容師の息子、ジョン J. マクロイはさらに、シッフ、ウォーバーグ、そしてロックフェラー家の信頼できる友人で弁護士となった。
それらの家族は、マクロイを極めて繊細な任命をもって信頼したであろう。



美容師の息子は、右側。
ここでは、マクロイはデイリー・プラザにいる。ウォーレン委員会のロックフェラー/ウォーバーグマンとして。マクロイの仕事は彼のパトロン達がJFケネディ暗殺の背後にいたということを疑うものが誰もいないことを確実にすることだった。



マクロイは、左端。スパイ仲間アレン・ダレスは右から3人目。ウォーレンがリンドン・ジョンソンに対してウォーレン報告書として知られる彼らがまとめた報告書類の束(堆積物)を手渡している。(ジョンソンは誰が彼を大統領にしたか知らなかったかのように振る舞った)



戦争次官補であるマクロイは左側。長官スティムソンは中央。
ジョージ C. パットン将軍が右側にいる。

マクロイの島の常得意は、ヨーロッパがEUに向けての道を整えるため、ヨーロッパの望ましくない民衆をきれいに掃除することを望んでいたので、美容師の息子は、第2次世界大戦中戦争次官補として、アウシュビッツの鉄道路線を爆撃から遠ざけ守った。収容所の上空に飛行機を飛ばすのは実際的ではないと主張して。
これは彼が大変に熱心についたうそだった。
が、ロスチャイルド、ウォーバーグ、あるいはロックフェラーより彼の方がましだろう。



ナチの「戦争犯罪者」アルフリード・クルップはニュルンベルク裁判で、寛大な処置を付与された。HICOG(ドイツの高等弁務官)のマクロイによって。

戦後、美容師の息子は彼のパトロンに代わって多くのナチス戦犯を自由放免にした。
ショックを受けたエレノア・ルーズベルトは、マクロイに宛てて書いている: 「なぜ我々はそれほど多くのナチスを解放するのか。」彼女は明らかに蚊帳の外に置かれていた。
ルーズベルトはそうではない。
彼らはお互いに秘密保持したのだと私は推測する。
この場合、それは良いことだった。



1955年には、美容師の息子はマウントデザート島からの彼の母親の顧客達の銀行を併合した。ウォーバーグのマンハッタン銀行とロックフェラーのチェース銀行である。
その銀行はチェースマンハッタン銀行として知られることになった。

次回あなたが、誰がJFケネディを殺したのかあるいはナチスの背後に誰がいたのか不思議におもったら、フィラデルフィア出身の野心的な美容師を思い出し、彼女の才能ある息子ジャックを追ってみなさい。



以下「さてはてメモ帳」様より転載

https://satehate.exblog.jp/7996730/

・ジョン J. マクロイを理解する

クリフォード・シャック Clifford Shack

※アウシュビッツへ続く鉄道路線の爆撃を拒絶した、ロスチャイルド/ウォーバーグ/ロックフェラーの代理人



マクロイの抜け目のない母親は、彼女の息子に機会を提供する決意をした。

彼女は、夏の休暇期間中のスーパーリッチ達のヘアドレッサーだった。

彼女の"頭"の1つはクーン・ローブのジェイコブ・シッフ[1847-1920]の妻だった。

シッフの家族はフランクフルトでロスチャイルド家と隣あわせに住んでいた。

ジョン・マクロイは、ティーンエージャーとして、J.D.ロックフェラーJr.の5人の息子達にセーリング・レッスンをしただろう。彼は彼らの特別なトラブル・シューターになった。



マクロイ、大学新入の若者時代。

マクロイの母親は倹約して貯蓄して、彼女にできる最高の教育を彼に提供した。



投資銀行クーン・ローブ商会からの2人のマクロイの顧客 -オットー H. カーン[1867-1934](左)とベンジャミン(右)、 -1930年代に、上院で証言しているところ。

上院の調査委員会は、1920年代と30年代の様々な鉄道の破産に対する取り扱いにおけるマクロイの役割を批判した。

マクロイは投資家を法律的な無意味さに埋もれさせて混乱させた。そうでなければ簡単な説明書を彼らが読み違えるように。
マックス・ローウェンタールによると、マクロイが関与していた<投資家の報酬(投資家は儲かる)>とよばれるケースのうちの1つについて、のちに小さな本を書いた上院調査官の一人は、もし普通の投資家が「(マクロイにより立案された)その文書の探検を試みた場合、彼は無神経な言葉のジャングルの中で死ぬだろう」 ことを観察している。

「この文書は目次や索引がまったくなかった(妙にウォーレン委員会報告書に似ている)。
その言語は不可解以外なにものでもない。一文が2250語にもわたっている。

提案された財産管財人による管理の文書全体を通して埋設されたものは、この基本的事実である: いかなる株主も財産管理に参加するためには、彼は無条件の委任状を銀行家に与えねばならない...

誰もこの単純な事実をその文書のなかに見つけることができなかったので、その鉄道オークションにおいて、クーン・ローブのもの以外の入札はなかった。
関与した弁護士や銀行は、独立した鉄道投資家達につかませる欺瞞を過剰に高揚させた。
マクロイは英雄だった。

マクロイのスキルがクーン・ローブに再び求められるだろう。JFケネディの暗殺の「調査」を行う(指揮する)ために。
目次はあったが、ウォーレン報告書には索引がなかった。
ウォーレン報告書は、煙に巻き迷わすためにデザインされた。解明・啓発のためではない。
どうしてそんなことが?

もし真剣な調査が行われた場合、ウォーレン委員会のうちの2人、ジョン J. マクロイとアレン・W・ダレス[1893-1069]がケネディ暗殺に直接関与していたことが結論づけられただろう。

まず、ウォーレン委員会は、不思議な偶然の事実を調査しなかった。リー・ハーヴェイ・オズワルドのダラスの女家主、グラディス・ジョンソン、はメアリー・バンクロフトの親友だった。アレン・ダレスの愛人の・・・



1915年、マクロイはニューヨーク、プラッツバーグの"億万長者キャンプ"と称されるエリート軍キャンプに入会した。ルシタニア号の沈没によって触発され、一部バーナード・バルーク[1870-1965]に資金を提供されて。
1917年までには、マクロイはプラッツバーグの3年次ベテランだった。
彼は誰もがなりたい副官になった。彼のメンターであったろう一人の男、准将ガイ・H・プレストンの。
プレストンは、荒々しい経歴の騎兵隊将校で、スー族インディアンとのダコタの戦いでの彼の戦闘話でマクロイを大いに楽しませた。(1890年12月には、少尉プレストンは、ひざの負傷で彼の"勇気と持久力"を"表彰"された。そこでは少なくとも153のスー族の男性、女性、子供たちが虐殺された) 。マクロイはプレストンにとても好意をいだくようになった;長年にわたって、将軍は一人の父親像になった。プレストンがマクロイへの彼の手紙の署名を「愛する父より」と始めだすところまで。
「お父さん」は間違いなく、彼の息子の「勇気と持久力」を誇りに思ってきただろう。マクロイが死の収容所への導く鉄道への爆撃をサインしないという「失敗(怠慢)」によって促進した、ハンガリーのユダヤ人をアウシュビッツへ輸送するというという大虐殺の間。



1916年7月に、 1000トンの弾薬がニューヨーク港のブラックトム島で爆発した。
1930年、マクロイは、責任を負う者は誰かを発見する任務を"割り当てられた"。
彼は、彼の人生の次の9年間を、英国とドイツの諜報局周囲を探偵してすごした。

彼の"捜査"中、1936年のベルリン五輪では、ナチスの高官ルドルフ・ヘスとヘルマン・ゲーリングの招待で、マクロイはアドルフ・ヒトラーのボックスに座っていた。

私に言わせていただければ、ブラックトム捜査、結局最終的には何の成果もなかったが、それはマクロイのカバーストーリー以外のなにものでもない。彼は来るべき戦争に助力したのだから。

私は彼を思い描く。ウォーバーグマンとして、多くの法的・戦術的な問題についてナチスを助けていたと。
人種的純血法から、ヨーロッパのユダヤ人の駆除まで。

結局のところ、彼の義理の父親が第一次世界大戦中、毒ガスを製造した。彼の義理の兄弟が、チクロンB製造元のアメリカンサイアニミッド社の副社長だった。彼の妻のいとこは、「ラット・シラミ・歴史」という本を書いた絶滅・駆除の世界的権威だった(訳注:Hans Zinsser [1878-1940]のこと)。

たぶん彼は、戦後のコネクションを作っていたのだ。

結局、彼の妻の親戚のひとりは、コンラート・アデナウアー[1876-1967]と結婚した。アデナウアーは偶然にも戦後西ドイツの首相になることになった。
政治で偶然に起こることは何もないと言ったのはルーズベルトだった...



ヘンリー・モーゲンソー財務長官(右)はマクロイを<ユダヤ人迫害者>と呼んだ。なぜなら、マクロイは、次官補として、戦争努力から離れて欧州のユダヤ人の救出にいかなる軍事的資源を転ずることにも消極的でしぶっていたから。 
もし彼が知ってさえいれば・・・
(訳注:ただ、モーゲンソーも「役者」だった可能性も高い。なにしろ、財務長官である)



マクロイ、戦争次官補(副長官)として、スティムソン戦争長官、パットン将軍とともに。

<写真欠落中>
マクロイとパットン将軍(暗殺されたとうわさされる前)



マクロイはHICOG(ドイツの高等弁務官)に任命された。マクロイの、占領ドイツの「最初の家族」。ミュンヘンのタウンホールで、バイエルン[Bavarianです]輸出週間を支援して大ジョッキのビールを飲み下す。

ドイツ経済の復興を励ましながら、マクロイは時に彼の「嫌悪」を抑えねばならなかった。
彼は、かつてドイツ財界人のグループに怒りをあらわにしながら講義した、 「戦争とそれに続いたあらゆる悲惨を思い出せ・・・ それはドイツの土壌に生まれて育てられた・・・あなた達のビールに涙を流すな」

なんてうそだ。

私に言わせていただければ、、ロンドンがその発祥の地だった。
より正確には、スイッチンス通り。



東ドイツ共産主義者のパレード;西ドイツ首相のコンラート・アデナウアーに命令を口述するHICOGのマクロイの戯画とともに。
アデナウアーが、マクロイの妻の親戚だとは、彼らはほとんど知らなかった。



アルフリード・クルップは、ニュルンベルクで戦争犯罪の有罪判決を受けた。
1951年に、マクロイはクルップに寛大な処置を認め、彼の私的財産を回復した。
ショックを受けたエレノア・ルーズベルトはマクロイに書いた: "なぜ我々は非常に多くのナチスを解放しているのですか?
もし彼女が知っていさえすれば・・・



マクロイと彼の反ユダヤ(反セム)主義の義理の兄弟ルー・ダグラス[1894-1074]。
マクロイがドイツを統治しているあいだ、ダグラスはロンドンでトルーマンの大使を務めていた。
戦争前にはジョセフ P. ケネディが着いていた地位。
アメリカを「銀行屋の戦争」の外側に守っておこうと最善の努力をしていたケネディはルーズベルトに解雇された。
なるほど確かに、ジョー・ケネディは彼のロンドン時代に高い地位にいる敵を作った。彼らは復讐するだろう・・・



チェース銀行の頭取として、マクロイ-デビッド・ロックフェラー[b.1915]の左側に、ジョージ・チャンピオン、およびスチュワート J. ベーカー、-は1955年、そのロックフェラーに支配された銀行を、ウォーバーグ支配下のマンハッタン銀行と合併させることで、チェースマンハッタン銀行を形成し米国第2位の銀行に変えた。



JFケネディはチェースマンハッタンに友人を持たなかったと言えば十分だろう・・・


ウォーバーグ・ロックフェラーの利益代理人として、マクロイは大統領執務室へアクセスできた。当時そこに誰が座っているかにかかわりなく。




ここでは彼はLBジョンソンと共に。



マクロイとジミー・カーター。



以下「さてはてメモ帳」様より転載

https://satehate.exblog.jp/9048090/

・コンラート・アデナウアー/ジンサー-マクロイ・リンク 

クリフォード・シャック Clifford Shack

※第二次世界大戦の終了後、ドイツは僅差で新しい首相を選出した。彼の名前はコンラート・アデナウアーであった。



十分不思議なことにアデナウアーの右腕の男は、元ナチスであった。

しかし、さらに興味深くさえあることは、前ドイツ・ケルン市長のこの老人は、ドイツの国内政治において事実上無名の人物であった。





それで、この男はいかにしてこのような立場を得るべく選出されたのか?(彼はわずか800語の語彙しか有さないとして知られていた事実はいうに及ばず! )



私は本当に知らない。(本当にわからないです。)

私が知っているすべては...彼の妻ガッシーの旧姓はジンサーだったということである。

彼女は、また、ジョン・J・マクロイの妻の親戚であった。

マクロイとの関係は、マクロイ自身がドイツの高等弁務官になることになった事実を考えるとき、さらに興味深くなる。





ヨーロッパのユダヤ人殺害に対するイスラエル国家への賠償が迅速かつひっそりとした式典のなかで取り決められたのはアデナウアーの在任期間中であった。

それ以来ずっと、ドイツは賠償を続けている。

ここにある奇妙な皮肉がある。

ロスチャイルドとウォーバーグ(ワールブルク)がイスラエルを建国した。

彼らはヒトラーを独裁者としてインストールした。





ヒトラーは、パレスチナに植民するようドイツのユダヤ人を送るために、ウォーバーグと共に働いた。

ヒトラーは、望ましくない非ドイツユダヤ人を滅ぼす。

そしてその後、ドイツは、賠償の形でイスラエルに資金供給をする。

何というスキームだ!

そのアデナウアー・コネクションから出てくるもうひとつ別の興味深い繋がりがある。

アデナウアーは、ドイツ・ケルンの前市長だった。

その都市から出たという特徴を持つもう一人別のドイツの主役がいた。

私はクルト・フォン・シュレーダー(英:シュローダー)のことを言っている。

クルト・フォン・シュレーダーは、(もちろんマクロイがそうだったように)ロックフェラーとの結びつきがあった同一人物で、ヒトラーを直接権力へと後援していたといわれるその男である。