・本当に強かった日本 江戸時代、実は欧州諸国以上の「経済大国」だった GDPは日本の154億ドルに対し英国107億ドル、オランダ40億ドル…米国は5億ドル(zakzak 2023年6月10日)
※日本史や世界史を見ても、日本が世界でどのような位置を占めていたかということは、なかなか出てこない。大航海時代、日本の戦国時代には、西洋と日本との交易が盛んになる。
英国の歴史学者、チャールズ・マクファーレン(1799―1858年)の著書『日本1852』によると、「年間300トンにもなる金、銀、銅がポルトガル人に持ち出されている。あふれる金銀でマカオの町は、ソロモン王時代のエルサレムの様相」というほどの繁栄を見せた。
つまり、マカオの繁栄は、日本と中国の間の貿易によりマカオにもたらされた日本の金銀によっていたのである。戦国から江戸初期にかけての日本は、中国の絹織物などを豊富な金銀で輸入しており、ポルトガルなどの商人は、明と日本の貿易の仲介をすることで巨大な富を築いていた。
同書によると、オランダ東インド会社のバタヴィア総督の1744年の資料に「日本からの金銀の持ち出しは年間84万英ポンド(83万両)にも上り、1680年に金の持ち出しが禁止されるまでに数千万英ポンドに相当する金が持ち出されている。
ポルトガル人は、1年で58万英ポンドに相当する銀を持ち出していた」と記されている。高品質の銅のインゴットは、オランダ商人の主要な購入品目の一つとなっており、銅の輸出は1800年以降まで続いている。日本からの金銀の流出は、元禄から徳川吉宗の時代にかけて、中国輸入品目の多くが国産化されることにより減少する。
OECD(経済協力開発機構)の「The World Economy Historical Statistics」というリポートでは、戦国時代や江戸時代の世界各国のGDP(国内総生産)が推計されている。
1701年というと、忠臣蔵の「松の廊下の刃傷」が起こった年で、元禄の繁栄の最中であるが、この1700年の日本と欧米各国のGDPを比較すると、日本は154億ドル、英国は107億ドル、オランダは40億ドル、スペインは75億ドル、ポルトガルは16億ドル、移民まもない米国は5億ドルとなっている。
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つまり、この頃の欧米各国の経済規模は、元禄日本より小さかったわけである。この時に日本よりGDPが大きかったのは、康熙・雍正帝時代の強い中国、アウランジィーブ皇帝の強国インド、ベルサイユを建設した絶頂期のフランスだけである。
江戸日本の経済力は、吉宗の頃までは、欧州諸国よりも大きかった。江戸幕府前半時代は、武力、経済力ともに欧州諸国を上回っていたわけで、これが平穏な国際関係の基礎であったといえよう。
幕末も近づく1820年には、日本は207億ドル、英国は362億ドル、オランダは43億ドル、スペインは123億ドル、ポルトガルは30億ドル、独立後30年の米国は125億ドルと推定されている。
欧州では、1800年頃から産業革命が各国に浸透し始め、英国、ドイツなどは、急速に経済成長し、日本のGDPを追い越すようになる。
しかし、1820年の文政江戸文化が爛熟(らんじゅく)する徳川家斉の治世の頃でも、日本の経済力は欧州各国に比較し見劣りするものではなかった。黒船30年前には、米国経済より日本経済の方が大きかったのである。
英国経済の原動力だった英国東インド会社は、単なる貿易会社ではなく国王から交戦権を特許され、軍隊を持つ会社であった。1698年にコルカタ周辺3村の徴税権を買い取り拠点をつくると、その軍事力でベンガル24郡の徴税権を戦い取る。
ムガール帝国末期の皇帝は末期の室町将軍家のようで、インドは戦国時代のごとく乱れ、英国東インド会社は戦国大名のようにインドを統一していく。1858年、ムガール最後の皇帝の軍を破り廃位させると、英国王は東インド会社から統治権を取り上げて直接統治する。英領インドは150年かけて完成された民間会社の作品なのである。
■内藤克彦(ないとう・かつひこ) 歴史探求家。1953年、東京都生まれ。東京大学大学院工学部物理工学専門課程修了。環境省地球総合環境政策局環境影響審査室長、水・大気環境局自動車環境対策課長、東京都港区副区長などを経て、京都大学大学院経済学研究科特任教授。個人的に歴史研究を深めている。著書に『展望次世代自動車』(化学工業日報社)、『五感で楽しむまちづくり』(学陽書房)など多数。
※日本史や世界史を見ても、日本が世界でどのような位置を占めていたかということは、なかなか出てこない。大航海時代、日本の戦国時代には、西洋と日本との交易が盛んになる。
英国の歴史学者、チャールズ・マクファーレン(1799―1858年)の著書『日本1852』によると、「年間300トンにもなる金、銀、銅がポルトガル人に持ち出されている。あふれる金銀でマカオの町は、ソロモン王時代のエルサレムの様相」というほどの繁栄を見せた。
つまり、マカオの繁栄は、日本と中国の間の貿易によりマカオにもたらされた日本の金銀によっていたのである。戦国から江戸初期にかけての日本は、中国の絹織物などを豊富な金銀で輸入しており、ポルトガルなどの商人は、明と日本の貿易の仲介をすることで巨大な富を築いていた。
同書によると、オランダ東インド会社のバタヴィア総督の1744年の資料に「日本からの金銀の持ち出しは年間84万英ポンド(83万両)にも上り、1680年に金の持ち出しが禁止されるまでに数千万英ポンドに相当する金が持ち出されている。
ポルトガル人は、1年で58万英ポンドに相当する銀を持ち出していた」と記されている。高品質の銅のインゴットは、オランダ商人の主要な購入品目の一つとなっており、銅の輸出は1800年以降まで続いている。日本からの金銀の流出は、元禄から徳川吉宗の時代にかけて、中国輸入品目の多くが国産化されることにより減少する。
OECD(経済協力開発機構)の「The World Economy Historical Statistics」というリポートでは、戦国時代や江戸時代の世界各国のGDP(国内総生産)が推計されている。
1701年というと、忠臣蔵の「松の廊下の刃傷」が起こった年で、元禄の繁栄の最中であるが、この1700年の日本と欧米各国のGDPを比較すると、日本は154億ドル、英国は107億ドル、オランダは40億ドル、スペインは75億ドル、ポルトガルは16億ドル、移民まもない米国は5億ドルとなっている。
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つまり、この頃の欧米各国の経済規模は、元禄日本より小さかったわけである。この時に日本よりGDPが大きかったのは、康熙・雍正帝時代の強い中国、アウランジィーブ皇帝の強国インド、ベルサイユを建設した絶頂期のフランスだけである。
江戸日本の経済力は、吉宗の頃までは、欧州諸国よりも大きかった。江戸幕府前半時代は、武力、経済力ともに欧州諸国を上回っていたわけで、これが平穏な国際関係の基礎であったといえよう。
幕末も近づく1820年には、日本は207億ドル、英国は362億ドル、オランダは43億ドル、スペインは123億ドル、ポルトガルは30億ドル、独立後30年の米国は125億ドルと推定されている。
欧州では、1800年頃から産業革命が各国に浸透し始め、英国、ドイツなどは、急速に経済成長し、日本のGDPを追い越すようになる。
しかし、1820年の文政江戸文化が爛熟(らんじゅく)する徳川家斉の治世の頃でも、日本の経済力は欧州各国に比較し見劣りするものではなかった。黒船30年前には、米国経済より日本経済の方が大きかったのである。
英国経済の原動力だった英国東インド会社は、単なる貿易会社ではなく国王から交戦権を特許され、軍隊を持つ会社であった。1698年にコルカタ周辺3村の徴税権を買い取り拠点をつくると、その軍事力でベンガル24郡の徴税権を戦い取る。
ムガール帝国末期の皇帝は末期の室町将軍家のようで、インドは戦国時代のごとく乱れ、英国東インド会社は戦国大名のようにインドを統一していく。1858年、ムガール最後の皇帝の軍を破り廃位させると、英国王は東インド会社から統治権を取り上げて直接統治する。英領インドは150年かけて完成された民間会社の作品なのである。
■内藤克彦(ないとう・かつひこ) 歴史探求家。1953年、東京都生まれ。東京大学大学院工学部物理工学専門課程修了。環境省地球総合環境政策局環境影響審査室長、水・大気環境局自動車環境対策課長、東京都港区副区長などを経て、京都大学大学院経済学研究科特任教授。個人的に歴史研究を深めている。著書に『展望次世代自動車』(化学工業日報社)、『五感で楽しむまちづくり』(学陽書房)など多数。