・実は米国が軍事支援したソ連の北方4島占領 米ソの極秘作戦「プロジェクト・フラ」開始から今日で78年(Yahoo!ニュース 2023年4月16日)
高橋浩祐 英軍事週刊誌ジェーンズ・ディフェンス・ウィークリー東京特派員

(上)米ソ極秘作戦「プロジェクト・フラ」を密約した1945年のヤルタ会談
※78年前の今日、1945年4月16日。ソ連の対日参戦に備え、米国アラスカ州のコールドベイで米ソの極秘軍事作戦の訓練が始まった。そのコード名は「プロジェクト・フラ」。ソ連は米国からの軍事支援を受け、その4カ月後に千島列島に上陸し、北方4島を占拠した。
このプロジェクト・フラは日本の近現代史に多大な影響を与えてきた重要な史実だ。しかし、戦後長らく歴史に埋もれてきたためか、日本では今もよく知られていない。
※実はアメリカが軍事支援したソ連の北方4島占領 米ソの極秘作戦プロジェクト・フラはなぜ、長い間知られなかったのか?
●元凶は「ヤルタ密約」
歴史は残酷である。大国による「分割」が、人々にいつまでも深い悲しみと傷を負わせる。
大国間の陰謀や駆け引きの陰では、常に多くの住民が犠牲になってきた。米ソのすさまじい権謀術数が渦巻いた北方領土問題は、その最たる例だ。平均年齢83歳(筆者注:今年3月末時点では87.5歳)になる北方領土の元島民は今もなお、歴史と国家のはざまで翻弄(ほんろう)され続けている。
北方領土問題の元凶としては、「ヤルタ密約」がよく知られている。第2次世界大戦末期の1945年2月、アメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン首相の連合国3首脳がクリミア半島のヤルタに集まった。そして、ソ連が1941年4月に締結した日ソ中立条約を破棄して対日参戦する見返りに、日本領だった千島列島と南樺太をソ連に引き渡すことで合意した。
アメリカは1941年12月の日米開戦直後から、ソ連に対し、対日参戦を再三申し入れていた。米軍機が日本を爆撃できるようにシベリアでの基地提供も求めていた。アメリカはヤルタ会談当時、原子力爆弾を秘密裏に開発していたが、完成のメドはなかなか立たない。日本との本土決戦でアメリカ人犠牲者をできるだけ少なくするためにも、ソ連を対日戦争に引きずり込む必要があったのである。
スターリンは1943年10月のモスクワで開かれた米英ソ3国外相会談の晩餐会の席で初めて、ドイツに勝利したのちの対日参戦する意思を表明する。そして、ヤルタ会談で対日参戦の条件として千島列島と南樺太の領有権や満州での権益が認められると、ドイツの降伏から2、3カ月後に、連合国にくみして対日参戦することで合意した。
北方領土交渉において、ソ連の継承国家であるロシアは、このヤルタ協定を引き合いに出し、国後、択捉、歯舞、色丹の北方4島の領有が「国際法で確認されている」と主張している。これに対し、日本は、「ヤルタ協定は密約であって法的根拠はない」と反論。4島は日本固有の領土であり、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連によって「不法占拠」されたとの立場を取ってきた。
さて、ここまでは本稿の前置きである。実はこのヤルタ会談では、他にも重要な密約があった。アメリカはソ連の対日参戦を決意させるために、ソ連に特別の軍事支援をすることも約束し、実行に移していたのだ。
具体的には、1945年8月14日に日本が連合国のポツダム宣言を受諾した後、ソ連軍は8月28日から9月5日にわたって北方4島を軍事占領したが、そのソ連の上陸占領作戦に、アメリカからの貸与艦船11隻が投入され、ソ連を軍事支援していた。「プロジェクト・フラ」と呼ばれる米ソの極秘作戦である。
●米ソの極秘作戦「プロジェクト・フラ」
「プロジェクト・フラ」とは、ソ連の対日参戦が決まった1945年2月のヤルタ会談の直後、米ソが始めた秘密裏の合同作戦だ。元アメリカ陸軍少尉、リチャード・A・ラッセル氏が1997年、ワシントンにあるアメリカ海軍歴史センターから『Project Hula: Secret Soviet-American Cooperation in the War Against Japan』(仮訳、プロジェクト・フラー対日戦争での米ソの秘密協力』との題名で本を出版している。インターネットでも無料で全文が公開されている。

(上)リチャード・A・ラッセル氏の著書「プロジェクト・フラ」の表紙
この本によると、アメリカ海軍は掃海艇55隻、上陸用舟艇30隻、フリゲート艦28隻、駆潜艇32隻など計149隻の艦船をソ連に無償貸与した。(ただし、この本の本文には149隻をソ連に引き渡したとの記述が2カ所あるものの、本の巻末別表にある「ソ連への引き渡し艦艇一覧」には145隻しか記載されていない矛盾がある)。アメリカ海軍は当初の計画では、1945年11月までに180隻をソ連に貸与することを考えていた。
さらに、同書によると、アメリカ海軍は、アリューシャン列島に連なるアラスカ半島の先端に近いアラスカ州コールドベイの米軍基地にソ連兵1万2000人を集め、船舶輸送やレーダー、無線通信、ソナー、エンジニアリング、機雷除去などの習熟訓練を行なった。コールドベイにはアメリカ兵約1500人が常駐し、ソ連兵の指導に当たった。

(上)米アラスカ州にあるコールドベイの位置
ラッセル氏は本の序章で、このプロジェクト・フラが、アメリカが日独伊などの枢軸国相手に連合国を積極的に支援した「レンドリース法」(武器貸与法)の適用の一環とし、ソ連太平洋艦隊に貸与するアメリカ海軍艦艇の操船訓練だったと指摘している。そして、この米ソ合同極秘作戦が「第2次世界大戦における最大で最も野心的な米ソの艦艇移転プログラム」だったと述べている。

(上)プロジェクト・フラについて紹介したTOKYO MXテレビ「モーニングCROSS」=2018年11月2日
また、この本をめぐっては、アメリカ海軍協会が発行する雑誌『海軍史』ディレクターのウィリアム・ダドリー氏が前書きで、「第2次世界大戦末期のレンドリースと米ソ関係それぞれにおいて、ほとんど知られていない側面を取り上げている」と執筆をたたえている。
●4島占領にアメリカからの貸与艦船11隻を投入
筆者は2018年10月10、11両日、北方領土問題の取材で、北海道根室市と羅臼町に行き、根室市長や羅臼町長、北方4島の元島民らの方々の話を伺った。その際、納沙布岬にある北方館の小田嶋英男館長から、この「プロジェクト・フラ」という米ソ極秘作戦の史実を初めて知った。
日本では、戦後70年となった2015年度から「北方領土遺産発掘・継承事業」に取り組んできた根室振興局北方領土対策課の手によって、プロジェクト・フラの具体的な史実が判明した。
同課は、サハリン州の歴史研究者、イーゴリ・A・サマリン氏が樺太南部と千島列島での上陸作戦に投入された全艦船を調べ上げた論文や、国後島の地元紙「国境にて」の過去記事など各種資料を照らし合わせ、北方4島の占領作戦には、前述のアメリカの貸与艦船149隻のうちの11隻を含む18隻(輸送船を含む)が使用されていたことを突き止めた。このアメリカの貸与艦船は、ソ連海軍によって千島列島のほか、南樺太や朝鮮半島北部の上陸作戦にも使われた。
北海道新聞が同課の調査結果をもとに、2017年12月30日付の朝刊1面のトップ記事で大きく報じた。筆者も2018年11月2日のTOKYO MXテレビ「モーニングCROSS」で紹介したところ、ネットで大きな反響があった。

(上)プロジェクト・フラについて紹介したTOKYO MXテレビ「モーニングCROSS」=2018年11月2日
北方館の小田嶋館長は取材に対し、「これは多くの方が大変なショックを受けた。今まではソ連の一方的な侵攻によって4島が占領されたと思われていた。しかし、いろいろな昔の話の中では、国籍不明の船がどうもいたというような見方をしていた人がいた。どうもソ連の船じゃないようだと」と述べた。
作家の半藤一利氏も筆者の取材に対し、「プロジェクト・フラの話は初めて聞いた。確かに当時、ソ連には上陸用舟艇がなく、日本陸軍もソ連の北海道への上陸を心配していなかった。私も(ソ連の北方4島上陸作戦については)おかしいなとは思っていた。ソ連時代は、こうした昭和史の資料がなかなか出てこなかった。ロシアになり、民主化されてから徐々に出るようになってきた。このため、私もソ連時代はなかなか資料を入手できなかった」と述べた。
●見事なまでのアメリカの二枚舌外交
この史実を知った時に、筆者も大変驚いた。なぜなら、1956年8月に日本の重光葵外相がロンドンでアメリカのダレス国務長官と会談した際、ダレス国務長官は「日本が歯舞、色丹の2島返還のみでソ連と平和条約を結べば、沖縄をアメリカ領にする」と恫喝(どうかつ)していた経緯があるからだ。
アメリカは戦中はソ連の北方4島占領を軍事支援していたのに、戦後は「2島返還でソ連と手を打つな。4島返還を目指せ」と日本を脅していたわけだ。見事なまでの二枚舌外交である。つまり、北方領土問題は、その時々に合わせて自国の利益を追求したアメリカの動向が大きく影響したのである。
ヤルタ密約では、ソ連の対日参戦の見返りに千島列島の領有を認める立場。そして、冷戦の最中は、アメリカは日本に「4島返還」を主張させる方が日ソ間を分断できると考えていた。北方領土問題を日ソ間のくさびとして残した方がアメリカの国益になるとの考えがあった。
●握りつぶされた対日参戦の情報
悔やまれるのが、大戦末期に敗戦色が濃厚になるなか、日本が中立条約を結んだソ連に、最後の最後まで英米との和平の仲介を依頼し続けたことだ。前述のごとく、スターリンが1943年10月の早い段階で、対日参戦の意思を明確にしていたにもかかわらず、だ。

(上)北方領土の国後島(2016年12月21日撮影)(写真:ロイター/アフロ)
日本はソ連の対日参戦の動きを察知できなかったのか?
岡部伸氏の著書『消えたヤルタ密約緊急電―情報士官・小野寺信の孤独な戦い』によれば、日本帝国陸軍のストックホルム駐在武官だった小野寺信少将はヤルタ会談直後の1945年2月半ばに米ソの「ヤルタ密約」を入手、ソ連の対日参戦の極秘情報を東京の大本営参謀本部に公電で報告していた。しかし、この日本の国家の命運を左右する第1級の情報は、ソ連に和平仲介を期待する勢力によって「不都合な真実」として握りつぶされたとされる。岡部氏は、このヤルタ電抹殺に、大本営作戦課の参謀だった瀬島龍三氏が深く関わっていた可能性を指摘している。
岡部氏は著書で「ソ連への傾斜を打切り、もっと早い段階で米英との和平に応じる決断に至ることも十分可能だった。刃を向けて来るソ連を頼った終戦までの半年間を、日本は無為に過ごしたとも言えるだろう」と指摘する。
●スターリンのずる賢さを見抜けなかった日本
ただし、この超一流のインテリジェンス・オフィサーだった小野寺氏でさえも当時はプロジェクト・フラの存在をつかんではいなかったとみられる。
負け戦の早期終結という国の存亡をかけた大事な局面で、日本は情報分析もままならず、状況判断を誤った。米ソの策略を見破れなかった。スターリンの領土拡張という露骨な帝国主義やずる賢さを見抜けず、ずるずると降伏の決断が遅れ、悲劇が広がっていった。
スターリンにとっては、ソ連の対日参戦は、日露戦争の敗北とロシア革命後の日本のシベリア出兵への屈辱を果たすリベンジ(報復行為)だった。しかし、日本にとっては、ソ連は日本が原爆2発を受けて既に戦争継続能力を失っていた時に、日ソ中立条約を破って火事場泥棒のように攻め込んできて、島を奪った侵略行為にしか思えない。両者の間には、明らかにズレがある。
●問われるインテリジェンスと国家のあり方
日本がインテリジェンス(諜報)にもっともっと秀でた国家であったならば、そして、国の中枢にいた指導者たちにインテリジェンスをきちんと分析し、もっと生かす能力があったならば、ひょっとして東京大空襲も、沖縄戦も、広島、長崎の原爆投下も、北方領土問題も、シベリア抑留もなかったかもしれない。私たち後世の人々は2018年の今日も、その重いツケに苦しみ悩まされている。
難局に対する処方箋(しょほうせん)は歴史だ。にもかかわらず、プロジェクト・フラという史実は日本であまり知られてこなかった。インテリジェンスの情報収集や分析判断を含め、日本という国家のあり方を、今もなお改めて問うているように思えて仕方がない。
高橋浩祐
英軍事週刊誌ジェーンズ・ディフェンス・ウィークリー東京特派員
2009年1月からジェーンズ・ディフェンス・ウィークリー東京特派員を務める。コリアタウンがある川崎市川崎区桜本の出身。ホリプロ所属。令和元年度内閣府主催「世界青年の船」日本ナショナルリーダー。米ボルチモア市民栄誉賞受賞。ハフポスト日本版元編集長。元日経CNBCコメンテーター。1993年慶応大学経済学部卒、2004年米コロンビア大学大学院ジャーナリズムスクールとSIPA(国際公共政策大学院)を修了。朝日新聞やアジアタイムズ、ブルームバーグで記者を務める。The DiplomatやNikkei Asia、NK News、東洋経済、週刊文春、論座、英紙ガーディアン、ストレーツ・タイムズ等に記事掲載。
・北方領土問題、マスコミは歴史的事実を正しく語れ(JB press 2019年1月29日)
筆坂 秀世:元参議院議員、政治評論家
※1月27日の「サンデーモーニング」(TBS)を見ていて驚いた。評論家の寺島実郎氏が北方領土問題の解説を行ったのだが、その際、使われた地図の表記があまりにもデタラメだったからだ。
寺島氏は、まず歴史を踏まえて1855年、江戸幕府がロシアとの間で日露通交条約を結び、得撫島(うるっぷとう)から以北がロシア領となり、国後島と択捉島が日本領となったことを説明した。これはその通りである。問題は寺島氏が示した地図には、得撫島以北が千島列島とされていたことだ。
続いて寺島氏は、1875年に得撫島以北の島(寺島氏によれば、これが千島列島)は日本領に、樺太はロシア領とする千島・樺太交換条約が結ばれたことを説明した。寺島氏の説明で一貫していたことは、国後と択捉が千島列島には含まれないとすることであった。

歴史の事実を正直に語らない日本のメディア
実は、外務省も「そもそも北方四島は千島列島の中に含まれません」と説明している(「日本の領土をめぐる情勢 北方領土」)。国後も択捉も千島列島ではないというのだ。だが、国後と択捉が千島列島を構成する島であり、南千島であることはあまりにも常識的なことである。
サンフランシスコ講和条約が調印された際、当時の吉田茂首相は、「千島南部の2島、択捉、国後」などと発言している。西村熊雄・外務省条約局長は国会答弁で、「条約にある千島列島の範囲については、北千島と南千島の両者を含むと考えております」と述べている。北千島とは得撫島以北のことであり、南千島とは国後と択捉のことである。
ではサンフランシスコ講和条約では、どう書かれているか。その2条C項には、「日本国は、千島列島並びにポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」とある。国後、択捉は放棄したということである。
寺島氏だけではないが、日本のテレビも、新聞もこの歴史の明白な事実を正直に語らない。そのため、国民の間でも正確な情報が伝わっていないのである。
では、歯舞群島、色丹島はどうか。西村局長は、「この千島列島のなかには、歯舞、色丹はこれは全然含まれない」と明確に述べている。これは吉田首相も同様であった。歯舞、色丹は千島ではなく、北海道の一部なのである。
一方、択捉、国後などに住んでいた元島民による「千島歯舞諸島居住者連盟」という組織がある。この名称をみても国後と択捉が千島であることは明白なのである。
なぜ「北方領土」と呼ぶのか
北方領土という言い方は、地理学的な概念ではない。“北方にある日本の領土”ということを強調するための造語である。沖縄返還運動の際に、「南方領土返還」などとは言わなかった。「沖縄を返せ」とか、「沖縄返還」と言ったものだ。
なぜそれを「千島を返せ」とか、「歯舞、色丹を返せ」と言わずに北方領土と呼ぶようになったのか。それは前述したように、サンフランシスコ講和条約で千島を明確に放棄してしまったからである。
ただそうは言っても国後、択捉、歯舞、色丹には終戦時1万7000人が住んでいたのであり、当然、元島民の声に耳を傾ければ「4島返還」という旗印を立てざるを得なかったことも事実である。
アメリカからの巻き返しも強烈なものがあった。当時は冷戦状態にあり、米ソは厳しく対決していた。日本とソ連が仲良くすることは、在日米軍基地を拠点にしてソ連や中国と軍事的に対抗するというアメリカの戦略に齟齬を生じることになるからである。そこでアメリカのダレス国務長官は、1956年8月、ロンドンで重光葵外相と会談し、択捉、国後をソ連のものだと認め、2島返還で決着させるなら、沖縄は絶対に返還しないと宣言したのである。「ダレスの恫喝」と言われている。
国後、択捉はソ連領と認めないとする「ダレスの恫喝」を受け入れるには、千島放棄を明記したサンフランシスコ講和条約との整合性を図らなければならない。そこで条約起草者であったアメリカ国務省は、新たな理屈を考えたのである。それが「国後、択捉は千島ではない。したがって日本が放棄した島ではない」というものであった。
吉田首相の答弁や千島歯舞諸島居住者連盟の存在をみても、これが苦しいこじつけであったことは間違いない。
ここから現在につながる「4島返還」や「北方領土」という言葉も生み出されていったのである。
だが4島返還では、日ソ交渉は一歩も進まない。そこで1956年10月、当時の鳩山一郎首相が病身であるにもかかわらずモスクワを訪問し、「日ソ共同宣言」を作り上げた。この訪ロによって、ソ連が日本の国連加盟を認めたので、日本は国際社会に復帰することができた。この日ソ共同宣言では、当時のソ連と日本の間で平和条約が締結された後、ソ連は「歯舞諸島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する」と明記された。これは2島返還で合意したということである。
しかし、実際には日本は「4島返還」の立場であったので領土問題が進展することはまったくなかった。他方、ソ連は「領土問題は存在しない。解決済みである」という態度に固執し続けることとなった。ソ連時代にも日ソ首脳会談は行なわれたが、領土問題がまともに話し合われたことはなかった。
「北方領土返還!」とは言うが、それは日本国内でのかけ声だけで、まともな交渉などしてこなかったというのが真相である。
領土問題には相手がいる
世論調査などを見ると「4島一括返還」という声が圧倒的に多い。それはそうだろう。実現するのであれば、それが最良である。だがロシアがこんな要求を認めるわけもないこともまた自明である。
そもそもなぜ北方領土をソ連に取られたのか。戦争に負けたからである。戦争に勝っていれば、取られることはなかったのだ。竹島や尖閣諸島でもそうだが、実効支配しようと思えば、実力行使という側面がどうしても出てくる。これが領土問題である。
産経新聞1月24日付に、「正攻法で領土返還を目指せ」という主張が掲載されていた。「4島は日本固有の領土だ。日ソ中立条約を一方的に破ったソ連が不法占拠した。ロシアは4島を日本に返還しなければならない」「日本はこの法と正義に基づく立場を変えてはならない」とある。それはその通りなのだが、これでは一歩も進まないこともまた事実である。
1941年8月の大西洋憲章では、「領土的たるとその他たるとを問わず、いかなる拡大も求めない」と明記し、43年11月のカイロ宣言でも「領土拡張の何等の念をも有するものにあらず」としていた。戦争による「領土不拡大」というのが国際社会の原則であった。これを破ったのが当時のソ連の指導者スターリンである。この強欲なスターリンの要求を認めたのがヤルタ会談でのルーズベルト米大統領とチャーチル英首相だった。自ら領土不拡大の原則を世界に示しながら、スターリンの不当な日本領土の強奪要求は認めてしまった。北方領土問題は、スターリン主義の悪しき遺産なのである。
はっきり言えるのは、国後、択捉はサンフランシスコ条約で放棄した千島であったとしても、歯舞、色丹は同条約で放棄した千島ではないということだ。これは現在のロシアの指導者に対しても、大いに主張すべきことである。
高橋浩祐 英軍事週刊誌ジェーンズ・ディフェンス・ウィークリー東京特派員

(上)米ソ極秘作戦「プロジェクト・フラ」を密約した1945年のヤルタ会談
※78年前の今日、1945年4月16日。ソ連の対日参戦に備え、米国アラスカ州のコールドベイで米ソの極秘軍事作戦の訓練が始まった。そのコード名は「プロジェクト・フラ」。ソ連は米国からの軍事支援を受け、その4カ月後に千島列島に上陸し、北方4島を占拠した。
このプロジェクト・フラは日本の近現代史に多大な影響を与えてきた重要な史実だ。しかし、戦後長らく歴史に埋もれてきたためか、日本では今もよく知られていない。
※実はアメリカが軍事支援したソ連の北方4島占領 米ソの極秘作戦プロジェクト・フラはなぜ、長い間知られなかったのか?
●元凶は「ヤルタ密約」
歴史は残酷である。大国による「分割」が、人々にいつまでも深い悲しみと傷を負わせる。
大国間の陰謀や駆け引きの陰では、常に多くの住民が犠牲になってきた。米ソのすさまじい権謀術数が渦巻いた北方領土問題は、その最たる例だ。平均年齢83歳(筆者注:今年3月末時点では87.5歳)になる北方領土の元島民は今もなお、歴史と国家のはざまで翻弄(ほんろう)され続けている。
北方領土問題の元凶としては、「ヤルタ密約」がよく知られている。第2次世界大戦末期の1945年2月、アメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン首相の連合国3首脳がクリミア半島のヤルタに集まった。そして、ソ連が1941年4月に締結した日ソ中立条約を破棄して対日参戦する見返りに、日本領だった千島列島と南樺太をソ連に引き渡すことで合意した。
アメリカは1941年12月の日米開戦直後から、ソ連に対し、対日参戦を再三申し入れていた。米軍機が日本を爆撃できるようにシベリアでの基地提供も求めていた。アメリカはヤルタ会談当時、原子力爆弾を秘密裏に開発していたが、完成のメドはなかなか立たない。日本との本土決戦でアメリカ人犠牲者をできるだけ少なくするためにも、ソ連を対日戦争に引きずり込む必要があったのである。
スターリンは1943年10月のモスクワで開かれた米英ソ3国外相会談の晩餐会の席で初めて、ドイツに勝利したのちの対日参戦する意思を表明する。そして、ヤルタ会談で対日参戦の条件として千島列島と南樺太の領有権や満州での権益が認められると、ドイツの降伏から2、3カ月後に、連合国にくみして対日参戦することで合意した。
北方領土交渉において、ソ連の継承国家であるロシアは、このヤルタ協定を引き合いに出し、国後、択捉、歯舞、色丹の北方4島の領有が「国際法で確認されている」と主張している。これに対し、日本は、「ヤルタ協定は密約であって法的根拠はない」と反論。4島は日本固有の領土であり、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連によって「不法占拠」されたとの立場を取ってきた。
さて、ここまでは本稿の前置きである。実はこのヤルタ会談では、他にも重要な密約があった。アメリカはソ連の対日参戦を決意させるために、ソ連に特別の軍事支援をすることも約束し、実行に移していたのだ。
具体的には、1945年8月14日に日本が連合国のポツダム宣言を受諾した後、ソ連軍は8月28日から9月5日にわたって北方4島を軍事占領したが、そのソ連の上陸占領作戦に、アメリカからの貸与艦船11隻が投入され、ソ連を軍事支援していた。「プロジェクト・フラ」と呼ばれる米ソの極秘作戦である。
●米ソの極秘作戦「プロジェクト・フラ」
「プロジェクト・フラ」とは、ソ連の対日参戦が決まった1945年2月のヤルタ会談の直後、米ソが始めた秘密裏の合同作戦だ。元アメリカ陸軍少尉、リチャード・A・ラッセル氏が1997年、ワシントンにあるアメリカ海軍歴史センターから『Project Hula: Secret Soviet-American Cooperation in the War Against Japan』(仮訳、プロジェクト・フラー対日戦争での米ソの秘密協力』との題名で本を出版している。インターネットでも無料で全文が公開されている。

(上)リチャード・A・ラッセル氏の著書「プロジェクト・フラ」の表紙
この本によると、アメリカ海軍は掃海艇55隻、上陸用舟艇30隻、フリゲート艦28隻、駆潜艇32隻など計149隻の艦船をソ連に無償貸与した。(ただし、この本の本文には149隻をソ連に引き渡したとの記述が2カ所あるものの、本の巻末別表にある「ソ連への引き渡し艦艇一覧」には145隻しか記載されていない矛盾がある)。アメリカ海軍は当初の計画では、1945年11月までに180隻をソ連に貸与することを考えていた。
さらに、同書によると、アメリカ海軍は、アリューシャン列島に連なるアラスカ半島の先端に近いアラスカ州コールドベイの米軍基地にソ連兵1万2000人を集め、船舶輸送やレーダー、無線通信、ソナー、エンジニアリング、機雷除去などの習熟訓練を行なった。コールドベイにはアメリカ兵約1500人が常駐し、ソ連兵の指導に当たった。

(上)米アラスカ州にあるコールドベイの位置
ラッセル氏は本の序章で、このプロジェクト・フラが、アメリカが日独伊などの枢軸国相手に連合国を積極的に支援した「レンドリース法」(武器貸与法)の適用の一環とし、ソ連太平洋艦隊に貸与するアメリカ海軍艦艇の操船訓練だったと指摘している。そして、この米ソ合同極秘作戦が「第2次世界大戦における最大で最も野心的な米ソの艦艇移転プログラム」だったと述べている。

(上)プロジェクト・フラについて紹介したTOKYO MXテレビ「モーニングCROSS」=2018年11月2日
また、この本をめぐっては、アメリカ海軍協会が発行する雑誌『海軍史』ディレクターのウィリアム・ダドリー氏が前書きで、「第2次世界大戦末期のレンドリースと米ソ関係それぞれにおいて、ほとんど知られていない側面を取り上げている」と執筆をたたえている。
●4島占領にアメリカからの貸与艦船11隻を投入
筆者は2018年10月10、11両日、北方領土問題の取材で、北海道根室市と羅臼町に行き、根室市長や羅臼町長、北方4島の元島民らの方々の話を伺った。その際、納沙布岬にある北方館の小田嶋英男館長から、この「プロジェクト・フラ」という米ソ極秘作戦の史実を初めて知った。
日本では、戦後70年となった2015年度から「北方領土遺産発掘・継承事業」に取り組んできた根室振興局北方領土対策課の手によって、プロジェクト・フラの具体的な史実が判明した。
同課は、サハリン州の歴史研究者、イーゴリ・A・サマリン氏が樺太南部と千島列島での上陸作戦に投入された全艦船を調べ上げた論文や、国後島の地元紙「国境にて」の過去記事など各種資料を照らし合わせ、北方4島の占領作戦には、前述のアメリカの貸与艦船149隻のうちの11隻を含む18隻(輸送船を含む)が使用されていたことを突き止めた。このアメリカの貸与艦船は、ソ連海軍によって千島列島のほか、南樺太や朝鮮半島北部の上陸作戦にも使われた。
北海道新聞が同課の調査結果をもとに、2017年12月30日付の朝刊1面のトップ記事で大きく報じた。筆者も2018年11月2日のTOKYO MXテレビ「モーニングCROSS」で紹介したところ、ネットで大きな反響があった。

(上)プロジェクト・フラについて紹介したTOKYO MXテレビ「モーニングCROSS」=2018年11月2日
北方館の小田嶋館長は取材に対し、「これは多くの方が大変なショックを受けた。今まではソ連の一方的な侵攻によって4島が占領されたと思われていた。しかし、いろいろな昔の話の中では、国籍不明の船がどうもいたというような見方をしていた人がいた。どうもソ連の船じゃないようだと」と述べた。
作家の半藤一利氏も筆者の取材に対し、「プロジェクト・フラの話は初めて聞いた。確かに当時、ソ連には上陸用舟艇がなく、日本陸軍もソ連の北海道への上陸を心配していなかった。私も(ソ連の北方4島上陸作戦については)おかしいなとは思っていた。ソ連時代は、こうした昭和史の資料がなかなか出てこなかった。ロシアになり、民主化されてから徐々に出るようになってきた。このため、私もソ連時代はなかなか資料を入手できなかった」と述べた。
●見事なまでのアメリカの二枚舌外交
この史実を知った時に、筆者も大変驚いた。なぜなら、1956年8月に日本の重光葵外相がロンドンでアメリカのダレス国務長官と会談した際、ダレス国務長官は「日本が歯舞、色丹の2島返還のみでソ連と平和条約を結べば、沖縄をアメリカ領にする」と恫喝(どうかつ)していた経緯があるからだ。
アメリカは戦中はソ連の北方4島占領を軍事支援していたのに、戦後は「2島返還でソ連と手を打つな。4島返還を目指せ」と日本を脅していたわけだ。見事なまでの二枚舌外交である。つまり、北方領土問題は、その時々に合わせて自国の利益を追求したアメリカの動向が大きく影響したのである。
ヤルタ密約では、ソ連の対日参戦の見返りに千島列島の領有を認める立場。そして、冷戦の最中は、アメリカは日本に「4島返還」を主張させる方が日ソ間を分断できると考えていた。北方領土問題を日ソ間のくさびとして残した方がアメリカの国益になるとの考えがあった。
●握りつぶされた対日参戦の情報
悔やまれるのが、大戦末期に敗戦色が濃厚になるなか、日本が中立条約を結んだソ連に、最後の最後まで英米との和平の仲介を依頼し続けたことだ。前述のごとく、スターリンが1943年10月の早い段階で、対日参戦の意思を明確にしていたにもかかわらず、だ。

(上)北方領土の国後島(2016年12月21日撮影)(写真:ロイター/アフロ)
日本はソ連の対日参戦の動きを察知できなかったのか?
岡部伸氏の著書『消えたヤルタ密約緊急電―情報士官・小野寺信の孤独な戦い』によれば、日本帝国陸軍のストックホルム駐在武官だった小野寺信少将はヤルタ会談直後の1945年2月半ばに米ソの「ヤルタ密約」を入手、ソ連の対日参戦の極秘情報を東京の大本営参謀本部に公電で報告していた。しかし、この日本の国家の命運を左右する第1級の情報は、ソ連に和平仲介を期待する勢力によって「不都合な真実」として握りつぶされたとされる。岡部氏は、このヤルタ電抹殺に、大本営作戦課の参謀だった瀬島龍三氏が深く関わっていた可能性を指摘している。
岡部氏は著書で「ソ連への傾斜を打切り、もっと早い段階で米英との和平に応じる決断に至ることも十分可能だった。刃を向けて来るソ連を頼った終戦までの半年間を、日本は無為に過ごしたとも言えるだろう」と指摘する。
●スターリンのずる賢さを見抜けなかった日本
ただし、この超一流のインテリジェンス・オフィサーだった小野寺氏でさえも当時はプロジェクト・フラの存在をつかんではいなかったとみられる。
負け戦の早期終結という国の存亡をかけた大事な局面で、日本は情報分析もままならず、状況判断を誤った。米ソの策略を見破れなかった。スターリンの領土拡張という露骨な帝国主義やずる賢さを見抜けず、ずるずると降伏の決断が遅れ、悲劇が広がっていった。
スターリンにとっては、ソ連の対日参戦は、日露戦争の敗北とロシア革命後の日本のシベリア出兵への屈辱を果たすリベンジ(報復行為)だった。しかし、日本にとっては、ソ連は日本が原爆2発を受けて既に戦争継続能力を失っていた時に、日ソ中立条約を破って火事場泥棒のように攻め込んできて、島を奪った侵略行為にしか思えない。両者の間には、明らかにズレがある。
●問われるインテリジェンスと国家のあり方
日本がインテリジェンス(諜報)にもっともっと秀でた国家であったならば、そして、国の中枢にいた指導者たちにインテリジェンスをきちんと分析し、もっと生かす能力があったならば、ひょっとして東京大空襲も、沖縄戦も、広島、長崎の原爆投下も、北方領土問題も、シベリア抑留もなかったかもしれない。私たち後世の人々は2018年の今日も、その重いツケに苦しみ悩まされている。
難局に対する処方箋(しょほうせん)は歴史だ。にもかかわらず、プロジェクト・フラという史実は日本であまり知られてこなかった。インテリジェンスの情報収集や分析判断を含め、日本という国家のあり方を、今もなお改めて問うているように思えて仕方がない。
高橋浩祐
英軍事週刊誌ジェーンズ・ディフェンス・ウィークリー東京特派員
2009年1月からジェーンズ・ディフェンス・ウィークリー東京特派員を務める。コリアタウンがある川崎市川崎区桜本の出身。ホリプロ所属。令和元年度内閣府主催「世界青年の船」日本ナショナルリーダー。米ボルチモア市民栄誉賞受賞。ハフポスト日本版元編集長。元日経CNBCコメンテーター。1993年慶応大学経済学部卒、2004年米コロンビア大学大学院ジャーナリズムスクールとSIPA(国際公共政策大学院)を修了。朝日新聞やアジアタイムズ、ブルームバーグで記者を務める。The DiplomatやNikkei Asia、NK News、東洋経済、週刊文春、論座、英紙ガーディアン、ストレーツ・タイムズ等に記事掲載。
・北方領土問題、マスコミは歴史的事実を正しく語れ(JB press 2019年1月29日)
筆坂 秀世:元参議院議員、政治評論家
※1月27日の「サンデーモーニング」(TBS)を見ていて驚いた。評論家の寺島実郎氏が北方領土問題の解説を行ったのだが、その際、使われた地図の表記があまりにもデタラメだったからだ。
寺島氏は、まず歴史を踏まえて1855年、江戸幕府がロシアとの間で日露通交条約を結び、得撫島(うるっぷとう)から以北がロシア領となり、国後島と択捉島が日本領となったことを説明した。これはその通りである。問題は寺島氏が示した地図には、得撫島以北が千島列島とされていたことだ。
続いて寺島氏は、1875年に得撫島以北の島(寺島氏によれば、これが千島列島)は日本領に、樺太はロシア領とする千島・樺太交換条約が結ばれたことを説明した。寺島氏の説明で一貫していたことは、国後と択捉が千島列島には含まれないとすることであった。

歴史の事実を正直に語らない日本のメディア
実は、外務省も「そもそも北方四島は千島列島の中に含まれません」と説明している(「日本の領土をめぐる情勢 北方領土」)。国後も択捉も千島列島ではないというのだ。だが、国後と択捉が千島列島を構成する島であり、南千島であることはあまりにも常識的なことである。
サンフランシスコ講和条約が調印された際、当時の吉田茂首相は、「千島南部の2島、択捉、国後」などと発言している。西村熊雄・外務省条約局長は国会答弁で、「条約にある千島列島の範囲については、北千島と南千島の両者を含むと考えております」と述べている。北千島とは得撫島以北のことであり、南千島とは国後と択捉のことである。
ではサンフランシスコ講和条約では、どう書かれているか。その2条C項には、「日本国は、千島列島並びにポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」とある。国後、択捉は放棄したということである。
寺島氏だけではないが、日本のテレビも、新聞もこの歴史の明白な事実を正直に語らない。そのため、国民の間でも正確な情報が伝わっていないのである。
では、歯舞群島、色丹島はどうか。西村局長は、「この千島列島のなかには、歯舞、色丹はこれは全然含まれない」と明確に述べている。これは吉田首相も同様であった。歯舞、色丹は千島ではなく、北海道の一部なのである。
一方、択捉、国後などに住んでいた元島民による「千島歯舞諸島居住者連盟」という組織がある。この名称をみても国後と択捉が千島であることは明白なのである。
なぜ「北方領土」と呼ぶのか
北方領土という言い方は、地理学的な概念ではない。“北方にある日本の領土”ということを強調するための造語である。沖縄返還運動の際に、「南方領土返還」などとは言わなかった。「沖縄を返せ」とか、「沖縄返還」と言ったものだ。
なぜそれを「千島を返せ」とか、「歯舞、色丹を返せ」と言わずに北方領土と呼ぶようになったのか。それは前述したように、サンフランシスコ講和条約で千島を明確に放棄してしまったからである。
ただそうは言っても国後、択捉、歯舞、色丹には終戦時1万7000人が住んでいたのであり、当然、元島民の声に耳を傾ければ「4島返還」という旗印を立てざるを得なかったことも事実である。
アメリカからの巻き返しも強烈なものがあった。当時は冷戦状態にあり、米ソは厳しく対決していた。日本とソ連が仲良くすることは、在日米軍基地を拠点にしてソ連や中国と軍事的に対抗するというアメリカの戦略に齟齬を生じることになるからである。そこでアメリカのダレス国務長官は、1956年8月、ロンドンで重光葵外相と会談し、択捉、国後をソ連のものだと認め、2島返還で決着させるなら、沖縄は絶対に返還しないと宣言したのである。「ダレスの恫喝」と言われている。
国後、択捉はソ連領と認めないとする「ダレスの恫喝」を受け入れるには、千島放棄を明記したサンフランシスコ講和条約との整合性を図らなければならない。そこで条約起草者であったアメリカ国務省は、新たな理屈を考えたのである。それが「国後、択捉は千島ではない。したがって日本が放棄した島ではない」というものであった。
吉田首相の答弁や千島歯舞諸島居住者連盟の存在をみても、これが苦しいこじつけであったことは間違いない。
ここから現在につながる「4島返還」や「北方領土」という言葉も生み出されていったのである。
だが4島返還では、日ソ交渉は一歩も進まない。そこで1956年10月、当時の鳩山一郎首相が病身であるにもかかわらずモスクワを訪問し、「日ソ共同宣言」を作り上げた。この訪ロによって、ソ連が日本の国連加盟を認めたので、日本は国際社会に復帰することができた。この日ソ共同宣言では、当時のソ連と日本の間で平和条約が締結された後、ソ連は「歯舞諸島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する」と明記された。これは2島返還で合意したということである。
しかし、実際には日本は「4島返還」の立場であったので領土問題が進展することはまったくなかった。他方、ソ連は「領土問題は存在しない。解決済みである」という態度に固執し続けることとなった。ソ連時代にも日ソ首脳会談は行なわれたが、領土問題がまともに話し合われたことはなかった。
「北方領土返還!」とは言うが、それは日本国内でのかけ声だけで、まともな交渉などしてこなかったというのが真相である。
領土問題には相手がいる
世論調査などを見ると「4島一括返還」という声が圧倒的に多い。それはそうだろう。実現するのであれば、それが最良である。だがロシアがこんな要求を認めるわけもないこともまた自明である。
そもそもなぜ北方領土をソ連に取られたのか。戦争に負けたからである。戦争に勝っていれば、取られることはなかったのだ。竹島や尖閣諸島でもそうだが、実効支配しようと思えば、実力行使という側面がどうしても出てくる。これが領土問題である。
産経新聞1月24日付に、「正攻法で領土返還を目指せ」という主張が掲載されていた。「4島は日本固有の領土だ。日ソ中立条約を一方的に破ったソ連が不法占拠した。ロシアは4島を日本に返還しなければならない」「日本はこの法と正義に基づく立場を変えてはならない」とある。それはその通りなのだが、これでは一歩も進まないこともまた事実である。
1941年8月の大西洋憲章では、「領土的たるとその他たるとを問わず、いかなる拡大も求めない」と明記し、43年11月のカイロ宣言でも「領土拡張の何等の念をも有するものにあらず」としていた。戦争による「領土不拡大」というのが国際社会の原則であった。これを破ったのが当時のソ連の指導者スターリンである。この強欲なスターリンの要求を認めたのがヤルタ会談でのルーズベルト米大統領とチャーチル英首相だった。自ら領土不拡大の原則を世界に示しながら、スターリンの不当な日本領土の強奪要求は認めてしまった。北方領土問題は、スターリン主義の悪しき遺産なのである。
はっきり言えるのは、国後、択捉はサンフランシスコ条約で放棄した千島であったとしても、歯舞、色丹は同条約で放棄した千島ではないということだ。これは現在のロシアの指導者に対しても、大いに主張すべきことである。