
ただ、なんとなく、コロナを恐がり、
— ノブ (@nobu_conscience) June 13, 2022
ただ、なんとなく、ワクチンを打ち、
ただ、なんとなく、マスクをして、
ただ、なんとなく、ウクライナを応援する。
多くの日本人が「ただ、なんとなく」
崖に向かって突き進んでいる。
ただ、なんとなく、コロナを恐がり、
ただ、なんとなく、ワクチンを打ち、
ただ、なんとなく、マスクをして、
ただ、なんとなく、ウクライナを応援する。
多くの日本人が「ただ、なんとなく」
崖に向かって突き進んでいる。
平等を愛するけど左翼でない、自由を愛するけどリベラルでない、伝統と日本語を愛するけど保守ではない、日本民族を愛するけど右翼でない。
— ノブ (@nobu_conscience) April 20, 2022
◯◯主義者などという陳腐なレッテルを張らないでほしい。党派性に染めないでほしい。
自分はただ、自分の心が愛するものを大切にして生きたいだけだ。
平等を愛するけど左翼でない、自由を愛するけどリベラルでない、伝統と日本語を愛するけど保守ではない、日本民族を愛するけど右翼でない。
◯◯主義者などという陳腐なレッテルを張らないでほしい。党派性に染めないでほしい。
自分はただ、自分の心が愛するものを大切にして生きたいだけだ。
貧富の格差を無くしたいけれど、「左翼」ではない。日本民族自主独立を切望するけれど「右翼」ではない。資本主義は限界だと考えるけれども「社会主義者」ではない。ワクチンに反対し続けていたら、私はすっかり「孤独」になった。一体、私は何主義者なのだ?私はただ、人間の尊厳を守りたいだけなのだ https://t.co/XyRq5keJ4P
— ノブ (@nobu_conscience) September 24, 2022
貧富の格差を無くしたいけれど、「左翼」ではない。日本民族自主独立を切望するけれど「右翼」ではない。資本主義は限界だと考えるけれども「社会主義者」ではない。ワクチンに反対し続けていたら、私はすっかり「孤独」になった。一体、私は何主義者なのだ?私はただ、人間の尊厳を守りたいだけなのだ
分かります。自分の周りのリベラル、反自民の人々もほぼ全滅でした。世界を見ても、ヨーロッパもアメリカもリベラル政党ほど逆にワクチンを推進していました。だからこそ、右も左も、あらゆる立場の人々が、がまるで地引き網に引っ掛かるかのように根こそぎ騙し打ちされてしまいました。…
— ノブ (@nobu_conscience) May 6, 2023
分かります。自分の周りのリベラル、反自民の人々もほぼ全滅でした。世界を見ても、ヨーロッパもアメリカもリベラル政党ほど逆にワクチンを推進していました。だからこそ、右も左も、あらゆる立場の人々が、がまるで地引き網に引っ掛かるかのように根こそぎ騙し打ちされてしまいました。
本当に、これを仕掛けた連中は用意周到で、頭が良いなと感心してしまいます。
「雰囲気だけで、みんな生きている」
— ノブ (@nobu_conscience) May 5, 2023
なんとなく、コロナは人類最悪の恐怖の新型ウイルスだと思っていた。
実際は身近に誰も感染して亡くなった人などいなかったのに。
なんとなく、ワクチンは安全で、打てば感染予防できると思っていた。… https://t.co/3FqKIuNIOy pic.twitter.com/jsIdERzVtr
「雰囲気だけで、みんな生きている」
なんとなく、コロナは人類最悪の恐怖の新型ウイルスだと思っていた。
実際は身近に誰も感染して亡くなった人などいなかったのに。
なんとなく、ワクチンは安全で、打てば感染予防できると思っていた。
実際は打った人ほど感染して、様々な病気にもかかって、亡くなった人もいたのに。
なんとなく、マスクをすれば感染しないと思っていた。
実際は100円均一のマスクなど何の効果もなかったのに。
なんとなく、消毒すれば感染しないと思っていた。
実際は手が荒れただけだったのに。
なんとなく、アクリル板を使えば感染が防げると思っていた。
実際はただ、邪魔なだけだったのに。
「なんとなく」で3年間も、国民は何の意味もないことをただひたすら、やり続けてきた。
そして、「なんとなく」もう、コロナは5類になったから「終わったこと」にしようとしている。
本当は何一つ終わっていないのに。
なぜ、誰も論理的に合理的に科学的に考えようとしないのか?
「雰囲気だけで生きている」、そんな国に未来はない。
また同じ悪事が繰り返されるだけだ。
「マトリックスの外へ」
— ノブ (@nobu_conscience) May 6, 2023
コロナ発生前まで、私は典型的な左派リベラルであった。選挙では自民党にいれたことなど一度もなかった。そして、右翼思想を毛嫌いしていた。… https://t.co/ohWDvYtrkk pic.twitter.com/n9aETKRroe
「マトリックスの外へ」
コロナ発生前まで、私は典型的な左派リベラルであった。選挙では自民党にいれたことなど一度もなかった。そして、右翼思想を毛嫌いしていた。
だが、コロナが発生してから、与党から野党まで、自民党から共産党まで、異口同音に「コロナは恐怖のウイルスだ。経済活動よりコロナ対策を優先すべきだ。そして、コロナ収束のためにワクチン接種を速やかに行うべきだ」と言い出した。
私は大いに戸惑った。「これは何か変だ」と思った。普段、「人権尊重」と声高に主張する左派リベラルが、ワクチンを「どんどん打て」と言うのである。
副作用や、アレルギーで打てない人のことなどおかまいなしなのだ。
そして、予想通り接種後の副作用で大勢の人々が亡くなっても与党からも野党からも「接種中止」の声が起きなかった。どう考えてもこれは「医療ファシズム」であった。
そして、与党も野党もワクチンを積極的に推進しているため、結果的に与党の支持者も野党の支持者も疑問に思わずワクチンを打った。国民の8割が打ったのである。
もはや、左翼でもなく右翼でもなく保守でも革新でもなくなった、絶対にワクチンを打たずに抵抗する私は、世間からは「反ワク、頭のおかしい陰謀論者」というレッテルを貼られて孤立し、マスメディアや世間から徹底的に誹謗中傷された。
右でも左でもなく「反ワク」、私自身は何一つブレていないのに、世間がコロナパニックで右往左往したせいで、私の政治的立ち位置が勝手に変えられてしまった。私はただ、人間の尊厳を守りたかっただけなのである。
そして、この「ワクチン」が「ワクチン」などではなく極めて危険なmRNA注射であり、遺伝子治療新薬であるということに気づいた。
「コロナ」のウソにも気づいた。PCR検査のウソにも気づいた。
マスクのウソにも気づいた。
「コロナに関するものは、全て、なにもかもウソだったのだ」と気づいた。
さらに「政治も選挙も政党もマスメディアも医療も全てウソだった」と気づいた。
私は生まれてからずっと、あらゆるものに騙されていたのだ。それに気づいたのである。まさに、この世界が「マトリックス」だったと気づくことであった。
それはあまりに衝撃的な体験だった。
はっきり言って、大抵の人なら正気でいられないと思う。あらゆる価値観も常識も崩壊してしまうのだから。
だけど私は、自分や家族を守りたい一心で、真実に向き合おうと覚悟を決めたのだ。どれだけ世間から白眼視されようと変人扱いされようと、マトリックスの外に出たいと望むなら、何も怖くはないのである。
「この世界が全部ウソだった」と受け入れる「勇気」があるかないか、それがこのコロナワクチン戦争での運命の分かれ道だったと思う。
いまだに「気づかない」人々は、本能的に「全てがウソだと気づく」ことを恐れているのだと思う。気づけば今までの常識も価値観も全てがひっくり返るからだ。気づかないまま、たとえ偽りの自由でもマトリックスの中にいる方が幸せなのかもしれない。
けれども私はそれが嫌なのだ。ウソの世界のなかでウソを真実だと信じ込まされたまま、支配者達の「養分」にされるだけの人生など、一体なにが良いのだ?
いまや、私は保守でも革新でも右翼でも左翼でもない。自由と尊厳を求める一人の「人間」として、二本の足でこの世界に立って、自分の心で素直に感じて、自分の頭で懸命に考えている。マトリックスの外に出ようと必死で、もがいている。
その先にきっと、新しい世界が待っている。
・マスクしてください
中村 篤史/ナカムラクリニック
2022年8月25日
※ブログ主注:中村氏の原文を少し省略改変しています。
※福岡での講演を終えて、博多から新幹線で熊本へ。
九州滞在中は晴天に恵まれて暑かったですが、福岡も熊本も、道行く人はほぼ全員マスクでした。特に熊本では到着早々、ひと悶着ありました。熊本駅からホテルまでタクシーに乗ったら、タクシーの運転手が2重マスクのコロナ脳の方でした。「感染者が増えてますし、マスクしてください」
僕はノーマスクで通しているのでちょくちょくこういう事態に遭遇します。こういうとき、皆さんならどうしますか?
相手が話す価値のある人なら、議論するのもひとつ。マスクの無意味さについて。PCR陽性=感染者の欺瞞について。でもタクシーの運ちゃん相手にそんな議論をするのは不毛です。無駄なことにエネルギーを使いたくない。
僕としては、マスクしろと言われた瞬間に「車止めて。降ろしてください」と言って、すぐに降りたい。業種が何であれ、こういうコロナ脳の人からサービスを受けたくないんです。彼らとしても今どきノーマスクでふらついている僕のような異常者を乗せたくないでしょうから、僕らはお互い近づかないのがベストですね。
でも残念ながら、ここでタクシーを降りたからといって、すぐに次のタクシーが見つかるとは限らない。
プライドをとってすぐに降車するか。それとも、実利をとって乗車を続けるか。

これ、僕がちょうど九州にいたときに起こった事件です。
猛暑の8月にも、皆律儀にマスクをきちんとしている。そんななかノーマスクで涼しげにしている人がいれば、なかには反感を持つ人も出てくるだろう。「全員我慢してマスクしてるんだぞ!お前だけ何をやっている!」
マスクに意味があるかないか、なんて段階はとっくに終わっているんです。問題は「空気に従うか従わないか」なんです。
そして「空気に従う人」はワクチンも打っているでしょうから、たとえば新聞にこういう投書をしたりします。

コロナが始まってすでに2年半が過ぎました。
最近の僕は、もはや皆の顔の一部になったマスクを外してあげようとも思わないし、ワクチンを打ちたい人を止めようとも思わない。
自分はマスクもワクチンもやらないけれども、やりたい人はやればいい。ただし、強要されそうになったときは話は別です。
今回の件について、実際に弁護士に聞いてみた。
「こういうもめごとは多いです。スーパー、ジム、公共施設など『マスクしないと利用できません』と掲げている施設はあちこちにあります。
施設管理権とか私的自治の原則というのがあるんですね。『これがうちのルールです!それに同意いただけないなら使っていただかなくて結構です!』彼らはそういう理屈で正当化してくるでしょう。
でも、私的自治にも限界があります。あまりにも差別的で不合理なルールは違法です。
実際、マスク着用率がこんなに高いのは日本だけで、同時に感染者数も世界一というデータがあって、日本は国際社会からバカにされています。無論、マスク着用を求めることに合理性はありません。
もっとも、マスクの無意味さを示すこういうデータを突きつけたところで、『うち独自のルールを設定して何が悪い!気に食わない奴は来るな!』という主張を曲げないでしょう。
こうした主張は、アパルトヘイトとか外国人入店お断りみたいな”差別”と親和性が高いんですね。
でも、先生、残念ながら、現時点での社会通念に従えば、車内でマスク着用を求められることは、不合理で差別的な取り扱いだとまでは裁判所は判断しないと思います。
ただ、ここで大切なのは、社会通念は変わり得るということです。たとえば黒人差別も女性差別も、昔は問題だとすら認識されていなかった。
でも今は違います。それは、個人が抗議の声をあげたからです。そしてその抗議の声を聞いて、社会が過ちを認めたからです」
なるほど、おもしろい議論です。ただ、話が少しずれているようにも思います。黒人として生まれたからには、黒人は一生黒人です。女性も同様です。しかしマスクは違うのでは?
節を屈して妥協すれば、僕はすぐにマスクを着用することができます。呼吸器疾患も皮膚疾患も特にありません。できないのではなく、しないんです。意味のないことはしたなくない。その思いのせいで、こんなふうに揉めるわけです。
「不合理な差別か否か、大きな基準は『自己努力による脱却が可能であるか否か』です。
そういう意味では、マスクは自分の意思で着脱可能なので、それによる区別は不合理ではない、という判断は確かにあり得ると思います。
でも私としては、そういう細かい法律論ではなくて、『そんな社会で本当にいいのか?』と皆で考えることが必要だと思います。
おっしゃる通り、人種や性別と違って、マスクは固定された属性ではありません。しかしその反面、差別する側をもしばっています。
『マスクを着けろ』と強要している人に問いたいんです。本当にそんな社会でいいんですか?大人から子供まで、どんな考えを持った人も、どんな施設でも、どんな天候でも、一生顔を覆い続ける、文字通り”息苦しい”社会でいいんですか?と。
欧米では誰もマスクをしていません。でも日本はいつまで続けるのか?逆に、どのような条件ならやめられるのか?このマスク社会を続けることで失われるものについて、無視し続けたままでいいのか?
そういうことを一人一人が考え、議論し、前に進むことが大事です」
なるほど。差別は、差別される側だけでなく、差別する側をも縛っている、というのがおもしろいです。
「属性が固定化されてないので、自分の選択次第で、差別者/被差別者が入れ替わる(あるいは転落する)んですね。ノーマスクやワクチン非接種を叩いている人たちは、自分たちがいじめてきた側なので、いじめられる側に落ちたくないんです。
実際、差別は差別している側の権利保障をも大きく後退させます。ノーマスク批判やワクチン非接種批判は自縄自縛です。なんというか、『もう意地張らないでいいから戻っておいで』と言ってあげたい気になります(笑)
国土交通省はマスク乗車時のマスク着用を呼び掛けています。それどころか、「マスクしてない客の乗車を拒否してもいい」というお墨付きまで与えている。同じような動きが宿泊施設にも見られて、宿泊施設はマスクしてない客の宿泊を拒否できます。


「私的自治」を金科玉条のごとく放置していると、あたかもマスク着用が社会通念になります。やがて法改正されて、真正面から制約されます。不当なルールに黙って唯唯諾諾と従い続けるとどんどん自由が削られる、ということです。
分かっている人には分かっていることですが、マスクはあくまで踏み絵です。マスク、アクリル板、ワクチンパスポート。非科学的なカンセンタイサクを、民間が好んで推進しているわけです。すると、行政は自らの手を汚すことなく規制を進められます。憲法改正を含めた法改正の土壌となる社会通念を形成できます。
この踏み絵に少しでも多くの人が気付き、疑問の声をあげないと、最終的には家畜のように管理される社会が実現するかもしれない。
そういう意味で、今回先生がタクシーの車内でマスク着用を求められたことは、声をあげるチャンスです。ただ、裁判所は私的自治の領域に入っていくことについて極めて消極的です。裁判所とかの権力に安易に頼るものではありません。ブログに書いて世間に訴える、ぐらいにとどめておきませんか?(笑)」
・新型コロナの「空気」「自粛警察」 同調圧力の中で一貫性を持って生きるには―― 辻田真佐憲さんに聞く(じんぶん堂 2020年6月22日)
https://book.asahi.com/jinbun/article/13459426
※新型コロナウィルスへの対応を巡り、政府による緊急事態宣言や飲食店などへの営業自粛要請に伴う「自粛ムード」など、社会全体の「同調圧力」が戦前の雰囲気と似ているのではないかという指摘が数多くなされている。作家で近現代史研究者の辻田真佐憲さんは、そうした世の中の「空気」を戦前と比較しつつ、「バズったもん勝ち」が横行する現代社会で、一人の人間として一貫性を保つことが大切だと説く。長い時間軸の中で今起きていることを見つめる材料として、比較的手に取りやすい本を3冊選んでもらった。
辻田さんが選ぶ「空気」を巡る本
『空気の研究』(山本七平、文春文庫)
『失敗の本質―日本軍の組織論的研究』(戸部良一ほか、中公文庫)
『流言・投書の太平洋戦争』(川島高峰、講談社学術文庫)
SNS社会論として読む、時代の連続性
『空気の研究』(山本七平、文春文庫)
現代の雰囲気が戦前と似ているのではないか。いろいろなところで聞かれますが、この問題は極端になりがちで「何でも戦前」みたいなことを言う人もいて、それがネットでも受けるので、注意が必要です。
歴史を見る時には「類似」と「差異」の両面を見る必要があります。たとえば、戦前は監視社会と言われますが、当時は警察官の数も今ほど多くないですし、警察の監視網も全国に津々浦々にあったわけではない。監視カメラやICレコーダーもない時代、隅々まで監視しようと思ってもできなかった。ではなぜ、井戸端会議での会話が通報されて捕まったのかというと、密告者がいたからです。
隣組に代表される相互監視によって、「こいつは自粛しない」、つまり国策に協力していないといった、ある種の密告がなされて逮捕に至るケースは「特高月報」など特高警察や憲兵隊の資料で確認できます。上からではなく、下からの同調圧力は、共通点として指摘できるでしょう。今風に言うと、ある種の「自粛警察」ですね。
一方で、当時は「上からの圧力」もかなりあった。例えば工場などへの動員に行かなかった人などを、実際に法律で取り締まる根拠があった。今は飲食店が営業を自粛しなくても、警察が来て逮捕されることはない。あくまで「要請」という違いは大きいと思います。
その意味で、山本七平 著『空気の研究』は、現在の状況に引きつけて読める本です。改めて読み返すと、SNS社会論としても参考になる点が多い。「ネット右翼」や「ネット左翼」といわれる人たちがいますが、思想信条に関係なく、ほとんど行動パターンは一緒なんですよね。その時々の話題に食いついて、いかに話題になるかを気にしているけど、1週間たつとまったく違う話題をしている。「バズる」といったSNSの反響に人々が支配されていることが、山本が指摘した「空気」と重なるんです。
――「空気の研究」は約40年前に書かれた雑誌の連載をまとめた本ですが、さらに30年経った今読んでみても、そんなに大きく変わらない。戦後70年以上の流れの中で、一種の連続性や一貫性すら感じられます。
山本は、40年前の論壇の雰囲気を、戦前の軍国主義の時代と行動原理は一緒ではないかと、やや冷めた視点で批判しています。具体的には、戦前であれば忠君愛国、山本七平が生きていた時代であれば「正直者が馬鹿を見ない社会であれ」といった価値観です。それが絶対的命題となり、歯向かうと「抗空気罪」「全体空気拘束主義」で罰せられると表現しているわけです。
山本によれば、中東や西洋など一神教の世界では、絶対神がいるので、それ以外のものはすべて相対化される。従って空気には支配されない。一方でアニミズム(多神教)の日本には、絶対神がいない。だからこそ、その時々の相対的なものが絶対的命題に祭り上げられていき、人々がそれに拘束されてしまうという話をしています。つまり、日本は基準が曖昧だと言うわけです。
こうした社会は柔軟な面もあるわけで、基準がゴムのように高伸縮するので、時代の転換にうまく乗れたときは変化に追いつけることもある。しかし空気が収縮すると、科学的なデータも関係なく「今はもうこういうことを言えない」とか「科学的には正しいことを言ってるのに、空気と反するからすごい叩かれてしまう」など、際限なく制限されてしまう。
西洋と日本、一神教と多神教といった考え方は「そんな単純じゃない」と今だったら批判も受けそうですが、人間の生き方には2種類ある。常にバズったものばかり追いかけて、一貫性がない人。そういうものと距離を取って、できるだけ人として一貫性を持ちたい人。そう読み替えれば、今の社会にも結構当てはまるところがあると思います。
合理性よりも組織融和を優先する「空気」
『失敗の本質―日本軍の組織論的研究』(戸部良一ほか、中公文庫)
太平洋戦争末期に日本軍が壊滅的な敗北を喫した「インパール作戦」など、作戦の合理性よりも、内部の協調や組織間の対立を招かないため、無理だろうと思われていた作戦を実行してしまったという指摘は、改めて現代の「コロナとの戦い」に重ねる人が多いのだと思います。
私も戦前の大本営など、組織間の融和を優先して動いていた歴史を研究しているので、現在もそうした動機で動いている側面はあるかもしれないと推測はできます。ただ、これに関してはある程度時間が経ってから、政権交代などで出てきた証言を突き合わせることで、当時と現在の比較も可能になるのではないかと思います。
たとえば旧防衛庁で「天皇」と呼ばれた大物官僚・海原治は、戦前に内務省に入った時に先輩から「明哲保身の術」を教わったと回想しています。会議では最初は黙っておけ、ある程度議論が展開してくると、どっちの方向に行きそうなのかが分かってくる。その時に「勝ちそうだ」と思ったところに同意する意見をその場で言う。そうすると「こいつはいつもちゃんとしたことを言うやつだ」と評価が上がり、お前は出世できるぞと言われた、という話です。
助言したのは灘尾弘吉。戦前は内務次官、戦後は政治家となって文部大臣や厚生大臣を歴任しました。海原は反発して、自分は好き勝手を言うと心に決めるわけですが、結局、事務次官になれなかった。官僚として上り詰めた人のアドバイスが「空気に支配されろ」だったということは「空気支配」が官僚機構の中にも当たり前の構図として存在することを象徴しています。
そもそも公務員とは何かという、根本的な話ですね。政権もコロコロ変わるかもしれない、その中で公務員として一貫してやるべきことは何なのか。奉仕するべきなのは誰なのかという問題に立ち戻らないと、「組織間の調和」や、単に「出世したいから」といった方に動かされてしまう。その結果、目の前で起きている問題を、今の政権の好みといった、一貫性がない場当たり的な対処になってしまうのではないかと思います。
「空気」にどれほど人々は順応したのか
『流言・投書の太平洋戦争』(川島高峰、講談社学術文庫)
戦時下に警察や憲兵が集めた流言や投書を研究した本です。「空気」がいかに力を持っていたのか。当時の人々の「空気」に順応した熱狂ぶりや、実は裏で思っていたことを表に出せなかったといったことが記録されている。山本七平が、戦艦大和の出撃決定など端的に取り上げた戦時下の話も、当時の状況をより詳しく知ることができます。研究書ですが文庫で比較的読みやすいですから、拾い読みだけでも面白いですね。
また、書籍ではありませんが、戦時中、日本では防諜(スパイ対策)の重要性を説く講演や歌のレコードが発売されていました。そうした音源をまとめたCD「あなたは狙われている #防諜とは スパイ歌謡全集」が2014年に発売され、私も監修に加わっています。スパイ対策と称して上から民衆に圧力をかける宣伝に、当時のレコード会社が順応して商品を作っていた。そうした時代の記録でもあります。
――新型コロナを巡る政策決定の過程で、日本は公文書や記録類の保管が政策的に非常に軽視されていることも、改めて浮き彫りになりました。社会の文化として指摘する人もいます。
今はネット上の誹謗中傷が話題になっていますが、「これで政権が倒れる」「これで社会がガラッと変わる」レベルの話が、次から次に消費されて、あっという間に忘れられていく。そういうことを繰り返すこと自体、あまりにも単純すぎないかという反省が必要になってきているのではないでしょうか。
そもそも戦前を持ち出すまでもなく、2011年の東日本大震災のあとも、福島差別や「節電しろ」と強要する自粛警察がいたわけです。10年も経たずに、また同じことをしているのは、忘れているか、覚えていても愚かな行為だと思っていない。むしろ非常時だから仕方ないという受け止めになってしまっているからではないか。
最近私は、コロナ関係の差別事件を集めた記事をネットメディアに書いています。営業を続ける飲食店に石を投げたり、落書きしたりという「自粛警察」の行為は、我々が学校教育で「やってはいけない」と教わったはずのことで、もはや単なる差別事件です。人としての一貫性を保つためにも、単なる愚行として意識的に記録し、記憶を継承しておくことが大切だと私は思います。そうしないと、また忘れて、またいつか繰り返されますから。
SNSという現代の「空気」支配から脱するために
『空気の研究』で山本は、空気からの脱却を説くわけです。戦時中の天皇制絶対主義から、戦後の左翼が強い言論空間を両方見てきた山本は、あまりに人々が簡単に自らの主張を入れ替えすぎていると思ったんでしょう。両方の歴史を記憶した上で、いかに一人の人間として一貫性を持って生きられるのかを考えようとしたんだと思います。
ただ、山本はどちらかというと一神教的な価値観に解決策を見いだそうとした。多神教と一神教の対立軸というのはあまりにも単純化しすぎなので、このような時代だからこそ、SNSから距離を取って、一個の人間として一体性をどう保つのかを考えないといけないと思います。人間が愚かなことは簡単に変わらないので、諦めと同時に覚悟をもって臨まないといけない。
戦後社会も時代は流れ、今は右翼が強い時代となり、そしてまさに今、時代の変化の最中でもあるわけです。そこでいかに一貫性を保てるかが問われていると思うんです。
最近もネットの誹謗中傷が問題になっていますが、あの空間では、普段は善良な人間が、信じられないような卑劣な行為を、集団心理でやってしまう。山本七平は、空気は閉鎖空間で発生するから、そこから出ることが大切だと説いていましたが、今はSNSが逆に閉鎖空間になっていると思うんですよ。
反時代的に聞こえるかもしれませんが「バズったもん勝ち」、炎上してでも数字を稼いだ者勝ち、みたいな風潮が、今はあまりにも強いので、SNSを離れて、一人で本を読んだり何か考えたりすることが、逆にその「空気」から脱出する手段だと思っています。
現代社会でSNSを完全に遮断して生きていくことはできないので、違った価値観を自分の中でもう一つ養っておくことが大切だと思います。今の社会はこうだけど、長い目で見るとこうではないかという「ダブルの思考」を常に持つことですね。そのためには普段から古典や映画に親しみ、歴史を俯瞰するなど長いスパンで物を考えることが、安全装置になっていくと思います。
辻田真佐憲(つじた・まさのり)
1984年大阪府生まれ。作家・近現代史研究者。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院文学研究科中退。政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。著書に『古関裕而の昭和史』『文部省の研究』(文春新書)『空気の検閲』(光文社新書)、『たのしいプロパガンダ』(イースト新書Q)、監修に『満洲帝国ビジュアル大全』(洋泉社)など多数。
・「ノーマスクで飛行機乗れます」JALは了承していたはずなのに、なぜ強制的に降ろされた? 納得いかない弁護士「この3年の異常な『空気』を今こそ考えてほしい」(47NEWS 2023年5月24日)

(上)JALから桜井康統さんへのメール。「マスク着用ができない旨、ご予約記録に登録させていただきました」と記載されている
※新型コロナウイルス感染症が、5月8日から季節性インフルエンザと同等に引き下げられ、マスクをつけない人も目立つようになっている。ただ、以前から屋外でのマスク着用は原則不要であり、屋内でも「一定の距離を確保できて会話がほとんどない場合」は不要だった。さらに、3月にはマスクを着用するかどうかは「個人の判断」となっていたが、それでも多くの人は最近までマスク着用を継続した。
こうした状況に、以前から日常生活でマスクをつけてこなかった弁護士の桜井康統さんは恐ろしさを感じてきたという。その恐怖は「空気」や「同調圧力」と言い換えられるかもしれない。「マスク着用は政府が『推奨』したのであり、『義務』ではなかった。基本的対処方針には『強制しないように』とあるにもかかわらず、日常の多くの場面で『お願い』という名の事実上の『強制』へと変化させた」
桜井さんは、マスク不着用を理由に飛行機を強制的に下ろされたとして、日本航空(JAL)に賠償を求める訴訟を起こした。ノーマスクによる搭乗トラブルはこれまでも世間をにぎわせ、客が有罪となったケースもあるが、桜井さんの場合は少し違う。トラブルにならないよう事前にJALに問い合わせをし、JAL側はノーマスクでの搭乗を了承していたにもかかわらず、最終的には、警察官に囲まれながら降ろされる事態になったという。一体、何が起きていたのか。
「ご予約記録に登録させていただきました」
桜井さんは昨年秋、屋久島への旅行を計画し、大阪(伊丹)空港―屋久島空港間の往復の航空券を予約した。
普段からノーマスクのため、飲食店やトレーニングジムでの「入店お断り」を経験してきた桜井さんは、出張や旅行で飛行機に乗る際には事前にノーマスクであることを航空会社に伝えるようにしている。今回も、JAL側には、フライトの2日前に往復の予約番号を記した上で、こんなメールを送っている。
「呼吸しづらいため、マスクは着用しませんので、マスクの件で絡んでこないよう周知をお願いします」
それに対するJAL側の返信はこうだった。
「桜井様が健康上の理由でマスク着用ができないお客さまでいらっしゃる旨、ご予約記録に登録させていただきました」
さらに、ハンカチでの代用や、会話を控えるよう求めた上で、こんな記載もあった。「当日は、空港係員や客室乗務員より、健康上の理由、および健康状態を確認させていただくこともございます」
桜井さんは念のため「健康なのでマスクは着けないだけです」「マスクを着けることはありませんので、私の意思に反して干渉してこないよう周知をお願いします」と送信。最終的にJAL側は、予約記録に登録したことを再度記し、「機内では会話をお控えいただくとともに、せき・くしゃみ時には口・鼻をハンカチなどで覆っていただきますようお願いいたします」と回答した。
双方のメールを読む限り、ノーマスクでの搭乗に関する合意が成立していたように思える。なぜトラブルになったのだろうか。
「お降りいただくことが決定いたしました」
訴状や桜井さんがCAとのやりとりを録音したデータを基に、経過を追ってみる。
往路では、空港でも機内でもマスクに関する指摘は一切なかった。桜井さんは安心して屋久島観光を楽しんだが、異変は復路で起こった。
2022年11月25日、屋久島空港を午後2時35分に出発予定の伊丹行き日本エアコミューター機(日本エアコミューターはJALの子会社)に乗り込み着席後、一人の客室乗務員(CA)が声を掛けてきた。
「お客さま、マスクはお持ちでないでしょうか」
驚き、言葉に詰まった桜井さんに、CAは質問を重ねる。
「マスクを着けられない理由はございますでしょうか」
桜井さんは「やめてもらえますか。マスクは着けないので」と返答したが、CAは譲らない。「他にお客さまがいますので」
このため桜井さんは、事前にマスクを着けないとのメールをJALに送り、許可を得たこと、行きの便では何も言われなかったことを説明した。
それでもこのCAは「正当な理由を確認できていない」「JALグループの方針で確認させてもらっている」などと繰り返した。
しばらくやりとりした後、CAは「確認させていただきます」と言い残して姿を消した。少しして再び現れたが、お互いの話はやはりかみ合わない。これが4回繰り返された後、CAは桜井さんにこう告げた。
「確認が取れない、正当な理由がないということでございますので、機長ならびに屋久島空港所長の判断で、お客さまにはお降りいただくことが決定いたしました」
予約時にJALが了承したのに、なぜ降りないといけないのか。桜井さんは納得できず、一度は「絶対に嫌です」と降機を拒否。すると、空港責任者と名乗る男性が警察官を3人連れて現れ、再び降機を命じられた。
「このままでは業務妨害罪や不退去罪で不当逮捕されかねない」と恐れ、飛行機を降りた。
ターミナルビルに戻った桜井さんに対し、警察官は「暴れたら問題になるからね」と言った。空港責任者からは「態度が悪かったと聞いている」と言われたが、次の言葉に耳を疑った。「会話をしないと約束すればマスクを着用しなくてもいいことになっている」
桜井さんは「さっき、CAには『あなたに話しかけられなければ、一言もしゃべりません』と答えました」と反論した。会話せざるを得なかったのは、CAが何度も問いかけてきたからだ。しかし、空港責任者は何も返事をしなかったという。
途方に暮れた桜井さんだったが、屋久島発鹿児島行き、さらに鹿児島発羽田行きの便にそれぞれ空席を見つけ、どうにか帰宅できたという。「どちらの便もノーマスクだったが、CAや地上係員から声を掛けられることは一切なく、なんのトラブルもなかった」。降機を巡るあの騒動は、一体なんだったのか。
JALの見解は…
降機後、桜井さんはなぜこうなったのかと考えたが、疑問は尽きなかった。CAが「正当な理由が確認できない」と判断した理由は何だったのか。JALからJACには何も引き継がれていなかったということなのか。さらに言えば、降機を強制する根拠は何だったのか。
JALはどう答えるのか。取材を申し込んだが、「頂戴したご質問はいずれも訴訟係属中なのでお答えいたしかねます。どうかご了承ください」との回答だった。
一方で、JALのマスク着用ルールの根拠を一般論として尋ねると、こんな答えが返ってきた。「日本政府が発信している基本的対処方針およびそれに紐づく定期航空協会のガイドラインにのっとっております」
JALを含め協会加盟航空会社は2020年5月29日以降、このガイドラインに沿い、マスク着用強化対応を実施した。ガイドラインを読むと、「ワクチン接種後も引き続き、マスク着用をお願いいたします」と求め、「スタッフが事情を伺っても意図的な無視・沈黙がなされ、適切な対応を取ることができない」場合には、「搭乗をお断りする」とも記載している。
桜井さんは、このガイドラインの正当性には疑問があると指摘する。「この基準は国土交通大臣の認可を受けておらず、運送約款の内容にもならない」
(※ガイドラインはその後、「3月10日、協会より航空分野におけるガイドラインの改訂が発表され、JALもマスク着脱を個人の判断に委ねる新しい方針を開始しております」となった)
恐ろしい「空気」とは
桜井さんは以前、東京・恵比寿の高級ホテルでもノーマスクを理由に宿泊拒否されたとして、ホテルを訴えている。
記事になった際、ニュースプラットフォームのコメント欄やSNS上で、「ルールなんだから従え」「マスクくらいしろ」といった批判的なコメントが多数寄せられた。
今回のJALの対応の根底にも同様の「空気」があるとみている。「繰り返しになるが、マスク着用は日本では『推奨』に過ぎず、『義務』ではない。強制的に守るべきルールでも何でもないし、着用しない権利もある。多数派による人権侵害が当たり前の空気のように存在し、JALを含め、多くの企業やお店が推奨という言葉を『お願い』という名の事実上の『強制』へと変化させている」
弁護士として桜井さんがあえて提訴に踏み切る背景にはこうした不安があるという。多数派がある「空気」を生み出すと、根拠が明確でないだけに反論が難しい。疑問を感じても、やがて主体性を奪われ、自由な考えを妨げられる。「数年後、数十年後、『あのときの空気ではそうせざるを得なかった』と言うのだろうか。この3年間の異常な光景を、今こそ振り返るべきだ」
・日本人はなぜ理不尽な「同調圧力」に負けてしまうのか?世界から見て圧倒的に「欠けているもの」(現代ビジネス 2023年7月31日)
山崎 雅弘
※同調圧力は日本固有の現象ではない
日本で「同調圧力」と呼ばれている社会現象あるいは心理的状態を、英語では「ピア・プレッシャー」と呼んでいます。
ピア(peer)とは、同輩や友人から成る集団のことで、その集団内の規範への同調や順応を各メンバー(構成員)に強いる心理的圧力を、こう呼んでいます。厳密には、その意味するところは、日本の同調圧力とまったく同じではありませんが、全体として見た場合には、その理不尽さも含めて、重なる部分が多々あるようです。
つまり、同調圧力という社会現象あるいは心理的状態は、日本独自のものではなく、欧米諸国を含む諸外国にも、程度の差こそあれ、存在しているのです。
ところが、日本社会ではしばしば「日本は同調圧力が強い国だ」と、あたかもそれが日本固有の現象ないし状態であるかのように語られます。
これは一体どういうことでしょうか?
日本人からすると、欧米人は、集団の中でも自分が思ったことを遠慮なく口にしたり、自分一人だけが違う行動をとったりすることが平気なように見えます。
自分が属する集団の中で、おかしいと疑問に思うことが何かあれば、「これはおかしいんじゃないか」と発言し、周囲のメンバーも「確かにそうかもしれない」と耳を傾けて、今までのやり方を別の形にあっさり変更することも珍しくありません。
欧米にも「ピア・プレッシャー」は存在するはずなのに、それに押し潰されずに、自分の言いたいこと、やりたいことを通す人が、たくさんいるように見えます。
それは、アジアやアフリカなど他の地域でも同様です。
それぞれの国や地域に、何かしらのピア・プレッシャーのようなものは存在するはずですが、それでも町中で人の様子を観察すると、宗教的な教義が厳しい国は別として、それ以外ではわりと自由に、周囲との摩擦を過剰に気にすることなく、気楽な感じで自分の言いたいことを言い、したいことをやっているように感じられます。
日本人が同調圧力に負けてしまう理由
では、それらの国々と日本では、何が違うのでしょうか?
まず注意すべきポイントは、同調圧力やピア・プレッシャーが「存在するか否か」ではなく、それらの圧力に「抗う力」あるいは「抗う勇気」を、国民や市民がそれぞれの内面に持っているかどうかではないかと、私は思います。
集団の中で、何らかのピア・プレッシャーが存在したとしても、一人一人の国民や市民が、それに抗うだけの「抵抗力」を持っていれば、ピア・プレッシャーで集団に従わせる効果は激減します。逆に、それに抗うだけの「抵抗力」を、一人一人の国民や市民が持たなければ、同調圧力で集団に従わせる効果は、逆に強化されます。
私は、この同調圧力に対する「抵抗力」とは「自分は個人であるという意識」ではないかと思います。
個人とは、英語で「インディビデュアル」と言いますが、人間は一人一人が独立した存在であり、それぞれがオリジナルの考えや価値観、行動規範を持ってもいいという考え方に根差しています。
横暴な権力者を、市民のデモや革命で倒すという社会的プロセスも、一人一人の人間がそれぞれ独立した価値を持つという考え方の上に成り立つものです。
この考え方が子どもの頃から内面化していれば、たとえ集団や共同体の内部で多少のピア・プレッシャーがあったとしても、よほど大きな権威(服従しないといけないような超越的存在)に裏打ちされていない限り、無視しても大したことになりません。
日本でとりわけ同調圧力が強いように感じられるとしたら、それは社会の中で「個人」を尊重しようという風潮と、一人一人の国民や市民の内面における「自分は個人だという意識」が、諸外国に比べて少ないからではないか。だから、同調圧力への「抵抗力」も諸外国の人より弱くて、それに負けてしまう人が多いのではないか。
私はこんな風に考えます。
個人が尊重されない社会は同調圧力に弱い
先に述べたように、「個人」が確立した社会では、同調圧力と「個人」の力が拮抗するので、一人一人の国民や市民がその圧力に押し潰されずに済みます。
けれども、「個人」が確立していない社会では、同調圧力と「個人」の力が拮抗せず、心理的な圧力が「個人」を圧倒してねじ伏せるような形になってしまいます。
ヨーロッパでも、ナチス・ドイツのようなファシズムの国では、社会の中で「個人」を尊重する価値観が一時的に失われ、国家「全体」や社会「全体」が共有する価値観や世界観に、国民全員が同調して従うことを政府が強要していました。
ファシズムを日本語で「全体主義」と呼ぶのは、こうした図式があるからです。
ナチス時代のドイツでも、そうしたピア・プレッシャー(ドイツ語では「グルッペンツヴァング=集団の力」)に抗い、ヒトラーやナチスに反逆した人は一部にいました。
有名なのは、ミュンヘン大学でナチス批判のビラを撒いて逮捕・処刑された、ゾフィーとハンスのショル兄妹らの「白バラ抵抗運動」ですが、彼ら以外にも、ファシズムによる支配はやがてドイツを滅ぼすことになると考え、一刻も早くヒトラー体制を打倒すべきだと確信して行動を起こすドイツ人が少なからずいました。
トム・クルーズ主演の映画『ワルキューレ』で描かれた、ドイツ軍の反ナチス将校によるヒトラー暗殺とクーデターの計画(一九四四年七月二十日事件)もその一例です。
最高司令官である「総統」ヒトラーに忠誠を誓っていたはずのドイツ軍人の中にすら、そんな考えを持つ者が、組織の中枢に存在していたのです。
戦時中のドイツと日本の決定的な違い
ナチス・ドイツと同じ時代、つまり昭和期の大日本帝国時代の日本でも、明治期や大正期には限定的ながら社会に存在した「個人」を尊重する価値観(たとえば自由民権運動)が一時的に失われ、国家全体や社会全体が共有する価値観や世界観、すなわち「天皇を中心とする国家体制への献身奉仕」という考え方に、国民全員が同調して従うことが強要されていました。
しかし、ドイツと異なるのは、第二次世界大戦(日中戦争とアジア太平洋戦争)中の大日本帝国には、自国の将来のために国家体制を変革する行動を起こす軍人や国民が、ほとんど存在しなかったことでした。
当時の大日本帝国の国民(天皇に仕える立場という意味で「臣民」と呼ばれた)は、一九四五年八月に破滅的な降伏を迎えるまで、国家全体や社会全体が共有する価値観や世界観に従い続け、もし従わない者がいれば、周囲の国民が情け容赦なく同調圧力をかけて、精神的なプレッシャーで押し潰して従わせました。
ここにも、社会の中に「個人」が存在したかどうかという違いが見て取れます。
同調圧力の問題を批判的な視点で考える場合、この「個人」という要素は、きわめて重要であるように、私には思えます。
なぜなら、「個人を尊重しない社会や国家」とは、つまるところ「人間を人間として尊重しない社会や国家」であり、社会や国家という集団を守るためなら平気で「同調しない人間」を虐げたり殺したりするような方向へと進んでいくものだと、過去の歴史が我々に教えているからです。