・【弩級証言】山口組五代目のトップシークレット「肝臓癌」治療が、「同和のドン」に相談された理由《手術は「怪僧」が仕切った》(現代ビジネス 2023年2月16日)
※自由同和会京都府本部会長・上田藤兵衞氏の衝撃の告白本『同和のドン 上田藤兵衞 「人権」と「暴力」の戦後史』(伊藤博敏著・講談社)が、発売直後から大変な話題だ。すでに2万5000部に達しているこの本には、同和運動、自民党、山口組、バブル紳士、闇社会のすべてをつないだ男が目にした「戦後史の死角」が綿密に綴られている(文中敬称略)。
上田氏が刑務所時代で知り合い、親交を結んだ山口組五代目・渡辺芳則氏についての記述を今回は紹介しよう(文中敬称略)。
※五代目山口組組長・渡辺芳則の引退
2005年、上田藤兵衞の人生にとって大きな転機が訪れる。同和運動の道で生きていく──そう決めた上田の背中を、五代目山口組組長・渡辺芳則は「お前はその道で男になれ」と応援してくれた。その渡辺芳則が組長を引退したのだ。
六代目・司忍組長への体制にシフトチェンジすると同時に、上田を取り巻く任侠界のパワーバランスが一変する。その経緯については、この『同和のドン』の読みどころだが、いずれ詳述しよう。
〈渡辺五代目の後は、名古屋で弘道会を立ち上げた司忍(つかさ・しのぶ)(本名・篠田建市)が六代目として継承した。そのナンバー2である若頭の高(*実際の字はハシゴ高・以下同)山清司が、傘下組織・弘道会系淡海(おうみ)一家総長・高山義友希(よしゆき)を窓口にして「上田囲い込み」を図った(義友希は高山登久太郎・会津小鉄会四代目の実子で、高山清司若頭との間に姻戚関係はない)〉(『同和のドン』267〜268ページ)
16年間にわたって組長を務めてきた渡辺芳則の体はボロボロだった。上田藤兵衞は、そんな渡辺の治療体制を手配する重責を担った。
〈渡辺は肝臓癌で生体肝移植の手術を受けていた。海も山も好きなスポーツマンで、酒をたしなまず、頑健な体を誇った渡辺だが、60歳を過ぎてから腰痛、糖尿病と持病を抱えるようになり、C型肝炎の治療もうまくいかなかった。その過程の定期検査で肝臓癌が発見される。
治療法を巡って、渡辺は京大医学部など医学界にも人脈のある上田に相談していたが、やがて上田の意見を聞かなくなった。上田が述懐する。
「渡辺さんぐらいになると、体に不調があれば方々からいろんな治療法が持ち込まれる。一度、『風邪もひいてられへん』と愚痴をこぼしたのを聞いたことがあります。くしゃみをすれば、クスリがどっさり届けられる状況とか。肝臓癌が発見されたときも、(臓器提供の)ドナー付きで移植手術を受けられるという話があるというので、『体への負担が大きいし、別の治療法のほうがいいんじゃないですか』と、渡辺さんに言ったことがあります。でも、渡辺さんは生体肝移植を選択した」〉(『同和のドン』270ページ)
「怪僧」池口恵観が仕切った肝移植プロジェクト
五代目山口組組長・渡辺芳則の生体肝移植プロジェクトを、トップシークレットとして進めたのは、あの池口恵観(いけぐち・えかん)の手の者だ。もちろん上田藤兵衞は池口恵観とも面識がある。
〈移植手術そのものは成功した。京都市内の病院で、生体肝移植ではトップレベルの医師が執刀。手術前のことは組織内の人間には知らせず、上田にも秘して、手術のためのチームが編成されたという。
手配したのは、高野山の高僧で「炎の行者」「永田町の怪僧」という異名を持つ池口恵観の弟子筋で、京都の医療関係に幅広い人脈を持つ人物だった。「100万枚護摩行」を達成し、「宿老」という高野山最高位に上り詰めた池口だが、清濁併せ呑む人物で、安倍晋三など大物政治家と付き合う一方、渡辺だけでなく他の山口組幹部とも親しい関係にあった。池口は京都で弟子筋や信者を集めた「恵観塾」を定期的に開催。そんな関係で上田とも親しかった。
渡辺が「休養宣言」を行ったのはそうした事情からだった。ただ、術後の経過は良くなかった。肝臓癌ではなく糖尿病が悪化したうえ、手術前からその兆候が見られた認知症が進んだ。そのせいか突如、怒り出すなど感情の起伏が激しくなった。

(上)「同和のドン」より
渡辺が山健組組長時代から引退後の2012年12月1日に亡くなるまで仕えた山口組三次団体元組長の原三郎が、次のように振り返る。
「手術で2ヵ月ぐらい不在にしていたでしょうか。帰ってきて、精彩がなくなりました。一方で、お客さんのいる前で声を荒らげるなど、気持ちが不安定になっていきました。もともと、16年も組長を務めて疲れていたんは確かやし、引退のときは(組長の上の名誉職的な)総長などの身分を持たず、さっと身を退く覚悟は決めていました。それで復帰しないまま、当代(組長)を名古屋の司(忍)さんに譲ったんです」〉(『同和のドン』270〜271ページ)
「おんどれ、指一本、詰めて終わりかい!」
1996年7月、京都・八幡市内の理髪店で、山口組最高幹部・中野太郎若頭補佐が銃撃されたことがある。襲ったのは会津小鉄(現・会津小鉄会)系のヒットマンだ。会津小鉄系中島会の幹部ら7〜8名が車2台で乗りつけ、理髪店の外側に扇形に並んで拳銃を発射するという劇的な襲撃であった。
この理髪店の窓ガラスを防弾仕様に替え、入念に防備していたおかげで、中野太郎は命を救われる。
〈中野は1936(昭和11)年生まれ。41年生まれの渡辺の5歳上だが、渡辺と中野は同じ ’63年に初代山健組組長・山本健一の盃をもらっている。表に出るのが苦手ですぐに手が出るタイプの中野は、度胸は据わっているのに人当たりがいい渡辺を見込み、右腕として支える覚悟を決めたという。以降、渡辺が山健組内に健竜会を起こすと相談役となり、山健組組長、山口組若頭、山口組組長と、渡辺が山口組で出世していくのに合わせ、補佐役として仕えた。「喧嘩太郎」ではあっても稼業の決め事はキッチリ守るタイプで、渡辺の前に出ると正座、直立不動だった。
それだけに渡辺は、中野襲撃に激怒した。ところが会津小鉄は和解に動き、宅見勝若頭からなる山口組執行部は、これを受け入れた。事件当日の深夜、会津小鉄若頭の図越利次・中島会会長ら最高幹部が、山口組総本部を訪れ、事件の経過を説明するとともに、数億円といわれる「詫料」を渡した。図越は指を詰めていたという。
「おんどれ、指一本、詰めて終わりかい! ザコ、寄こしやがって。トップの高山(登久太郎会長)が来んかい!」
渡辺は、こう荒れたという。だが渡辺は、結果的に宅見執行部の和解方針に従った。山口組組長は日本の暴力団の象徴的存在であり、権威である。「神輿」といっていい存在で、権力を握るのは若頭の宅見である。1989年7月、48歳と若い渡辺が五代目体制を発足させるのに最も功績があったのは、「渡辺支持」で組内をまとめた5歳年上の宅見だった。宅見の決定には逆らい難く、さらに中野会と会津小鉄の抗争は泥沼化しており、どこかで手打ちをする必要があった。〉『同和のドン』272〜274ページ)
後篇《宅見勝を射殺した中野会トップ・中野太郎の自宅を、なぜ同和のドン・上田藤兵衞は訪れたのか…歴史的証言がヤバすぎる》では、渡辺の口利きで上田が訪れた様子を紹介する。
・宅見勝を射殺した中野会トップ・中野太郎の自宅を、なぜ同和のドン・上田藤兵衞は訪れたか…歴史的証言がヤバすぎる
※連載の前篇《山口組五代目のトップシークレット「肝臓癌」治療が、「同和のドン」に相談された理由《手術は「怪僧」が仕切った》》に引き続き、山口組の抗争にいかに上田氏が巻き込まれていったか、その核心部分を紹介しよう(文中敬称略)。
※中野会と会津小鉄の抗争の場・崇仁地区
〈もともと山口組と会津小鉄は、木屋町事件をきっかけに山口組の田岡一雄・三代目と会津小鉄会の図越利一・三代目との間で、山口組は京都に進出しない「京都不可侵」の“黙契”があった。だが、現実問題として「利権」があれば取り込みに入るのが暴力団である。
なかでも京都駅前の崇仁地区は、同和運動関係者に暴力団が複雑に絡んで「魔窟」と化しており、1990年代に入ると、中野会と会津小鉄の抗争の場となった。
’92年、’93年、’94年と、中野会を中心とした山口組が、崇仁地区の権益を巡って同和団体のバックについた会津小鉄との間で、殺傷事件を繰り返した。それが嵩じたのが ’95年のことで、6月には双方が14件の発砲事件を引き起こし、中野の自宅や同和団体幹部宅への発砲、放火事件が発生した。
同年8月、中野会組員が同和団体幹部を射殺。それを受けて京都府警は、いっそう厳戒態勢を強めていた。その厳戒態勢のなか、会津小鉄系組織の前に動員されていた警察官を山口組系三次団体の組員が誤って射殺した。これが、先に触れた渡辺が使用者責任を問われた事件だった。
’96年2月、泥沼化する抗争に終止符を打つ意味もあって、渡辺の後に山健組を継承した五代目山口組若頭補佐の桑田兼吉、会津小鉄若頭の図越利次、広島最大の暴力団・共政会会長の沖本勲の三人が兄弟盃を結んだ。この時点で、次期山口組組長の有力候補だった桑田と、会津小鉄会三代目の実子で五代目が確実視された図越は「兄弟」となった。渡辺が、「これ以上、京都で抗争を広げたくない」と思うのも無理はない。
だが、襲撃を受けた中野はそうはいかない。「武闘派」「喧嘩太郎」としてのプライドもある。「返し」は行わなければならない。では、それがなぜ会津小鉄ではなく宅見だったのか。一晩で和解を受け入れたのは宅見だが、それを承認したのは、「親がクロといえばシロでもクロだ」という価値観を持つ中野にとっては絶対的存在の渡辺だった。〉『同和のドン』272〜274ページ)
「宅見の頭です!」
報復として、’97年8月に中野会は山口組の宅見勝若頭を襲撃、射殺した。宅見勝暗殺事件を機に、中野太郎は山口組から絶縁される。
〈宅見若頭が、ヒットマンによって銃撃され、意識不明の重体のまま亡くなったのは、1997年8月28日のこと。襲撃された場所は、JR神戸駅前の新神戸オリエンタルホテル4階ロビーのティーラウンジだった。
午後3時20分、ボディガードを少し遠ざけ、宅見若頭と岸本才三総本部長、野上哲男副本部長の三人が談笑していたところ、青い作業服にサングラス、野球帽をかぶった4人組の男らが駆け寄り、10発以上の銃弾を宅見に浴びせ、うち7発が命中して、神戸市内の病院に緊急搬送されたものの、1時間後に絶命した。岸本と野上は無事だったが、流れ弾一発が、隣のテーブルにいた芦屋市の歯科医の側頭部に当たり、意識不明の重体となった後、9月3日に亡くなった。
渡辺は現場から山口組本部にもたらされた電話で事件を知る。本部とつながる本家で植木の手入れをしていたが、「(若)頭がやられました!」と、息せききって駆け付けた本部秘書役の報告に、こう問い返した。
「どこの頭や?」
「宅見の頭です!」
「何やと! どないなっとるんや!」
組をあげての情報収集が始まり、その日のうちに「中野会の仕業」という声が有力となった。「中野を呼べ!」と、渡辺は命じた。その日の夜、中野はまず本部に行き、執行部のメンバーに「ウチはやってないが、改めて確認する」と説明。その後、本家にあがって渡辺と面談し、「ワシは、ゴルフをしておりました。うちはやってまへん。もし、自分とこの人間がかかわっていたら、ワシは腹を切ります」と言明したという。
中野は否定したものの、新神戸オリエンタルホテル内の防犯カメラに中野会若頭補佐に酷似する人物が映っていたこと、事件後、犯人グループが逃走に使った車両が中野会関係者の所有車だったことなどから、本人否認のまま執行部は中野の「破門」処分を決めた。「破門」は復帰の可能性を残しており、そういう意味では甘い処分だったが、9月3日、歯科医の巻き添え死が判明したことで、暴力団社会からの追放を意味する「絶縁」となった。絶縁は、中野会及び中野太郎との関係を続けるなら、山口組と抗争になることを意味する重い処分である。〉(『同和のドン』276〜277ページ)
中野邸に向かった上田は
盛力健児の証言(著書『鎮魂』)によれば、中野が宅見を攻撃した理由を「山口組が(中野襲撃を)了承しとったからですよ。あの散髪屋の(中野襲撃)事件は、宅見が会津にやらせよったんや。宅見が仕組んだんですよ」と言う。
〈その背景には、渡辺と宅見の確執があったという。
権威の渡辺と権力の宅見。神輿として担がれたままでは面白くない渡辺は、宅見の力を奪おうとしていた。それを察知した宅見が、「渡辺を排斥して自分の言うことをきく桑田(兼吉・若頭補佐)を六代目に据えて、自分は総裁の立場でコントロールする」というクーデター計画を持っていた、というのが盛力の“見立て”である。その最大の障害が渡辺に絶対服従の武闘派・中野なので、まず中野を排除しようとしたというのだ。〉(『同和のドン』276ページ)
1992年3月に施行された暴力団対策法は、改正を重ねて、暴力団のシノギを厳しいものにし、司忍ら3人の最高幹部を、「ボディガードが持っていた拳銃の共謀共同正犯」とするなど、暴力装置としての牙を抜いていった。最高裁が2004年11月、「組長の使用者責任」を認めたように、ピラミッドであることが強みの組織が、もはやトカゲの尻尾切りを許されず、かえってトップが狙われることになった。企業社会を見舞ったコーポレートガバナンス(企業統治)やコンプライアンス(法令遵守)を重視する流れは、社長も組長も結果責任を問われるようになったという意味で、同じピラミッド構造である暴力団社会にも及んでいったわけである。
「喧嘩太郎」の異名をもつ中野太郎のもとへ、上田藤兵衞が直談判に訪れたことがある。全国最大規模の同和地区「崇仁地区」を舞台とした会津小鉄と中野会の抗争が激化していたからだ。
〈上田は同和運動が絡むこともあって、中野太郎の狙いと思惑を聞く必要に迫られた。そこで、渡辺の口利きで機動隊が取り囲む厳戒態勢の中野邸を単身、訪れたことがある。’96年7月の中野襲撃事件の前のことである。
「殺傷事件が続く異常事態です。『親分(渡辺のこと)から電話があった。信頼して、相談に乗ってくれという話やった』ということで、中野さんもフランクに話はしてくれました。
正直、利権と人脈の絡みが複雑過ぎて、解きほぐすのは容易じゃない。ただハッキリしているのは、抗争を続けるのは、崇仁地区にとっても同和団体にとっても山口組にとってもいいことじゃない。それは理解してくれたんですわ。銃声や殺傷はいったん収まり、その後お礼の意味を込めて、解放同盟の村井(信夫)と一緒に、もう一度中野さんの自宅に行きました」(上田)
(略)
上田と渡辺の“連帯”が、うまく機能していたのはこの頃までで、’97年8月の宅見銃撃事件以降、反社封じ込めの流れは加速し、渡辺との個人的な関係は続いたものの、手を結ぶような関係は薄れていった。〉(『同和のドン』280ページ)
「山口組若頭・高山清司を刑務所に送り込んだ「同和のドン」の戦い方がヤバすぎる《完売店続出の告白本》」につづく
・山口組若頭・高山清司を刑務所に送り込んだ「同和のドン」の戦い方がヤバすぎる《完売店続出の告白本》(現代ビジネス 2023年2月22日)
※連載の前篇《宅見勝を射殺した中野会トップ・中野太郎の自宅を、なぜ同和のドン・上田藤兵衞は訪れたか…歴史的証言がヤバすぎる》に引き続き、上田氏と暴力団との知られざる因縁の真相を明かそう(文中敬称略)。
※山口組若頭・高山清司、そして会津小鉄四代目の息子
五代目山口組組長・渡辺芳則の引退によって、上田藤兵衞を取り巻く闇社会の包囲網が突如として狭まり始める。
〈2004年11月、渡辺が出した「休養宣言」は、上田と山口組との関係がいったん終了することを意味した。1980年代前半、神戸刑務所で出会った二人の個人的関係に依拠するものだったからである。だが、そう見ない人たちがいた。渡辺五代目体制を継承することになった司忍が率いる弘道会である。
蠢きは、’05年7月の渡辺引退の前から始まった。
最初は、同年3月、弘道会系淡海一家・高山義友希総長から上田にかかってきた一本の電話である。
「滋賀県で仕事をしていませんか」
「いや、してませんけどね……」
こんなやりとりがあった。高山義友希は、上田が子どもの頃から親しんだ会津小鉄四代目・高山登久太郎の実子である。
登久太郎は、跡目を図越利次に譲って1997年に引退するが、2003年6月15日に亡くなる直前、上田を呼んで「義友希を頼む」と託すような間柄だった。義友希もまた、登久太郎の葬儀の後、上田を祇園の料亭に招き、「父から話は聞いています。これから藤兵衞さんにいろいろと相談しますので、宜しくお願いします」と頭を下げた。
(略)
父の死後、高山清司が率いる弘道会に加入し、滋賀県大津市に淡海一家を起こして総長となった。弘道会での役職は舎弟頭補佐である。稼業の道を選んだ以上、「縄張り」は守らねばならない。京都は会津小鉄会だが滋賀は自分のもの。上田への電話で義友希は、「滋賀県は私が守らなアカンから、仕事をするときは、私とこ通してください」と続けたという。
といっても上田に覚えはなかった。その後、義友希から同様の電話が2回あり、「やってないですけどねぇ」と答える。さらに上田と親しい不動産業者からも「滋賀で仕事をしていませんか?」という電話が何度も入った。「やってないけどなぁ」と上田は繰り返した。
これが山口組若頭で弘道会会長の高山が、淡海一家・高山義友希総長を窓口にして、上田から4000万円を恐喝したという事件の起点となった。〉(『同和のドン』280〜282ページ)
弘道会系淡海一家・高山義友希総長からの圧力
弘道会系淡海一家の高山義友希総長は、「同和のドン」上田藤兵衞に激しく圧力をかける。
〈淡海一家で「滋賀県問題」を担当する相談役の配下が、上田の会社に直接押しかけて面談を求めたのは2005年7月のことだった。やむなく上田は、7月30日、「義友希の兄弟分」を名乗る相談役と京都市内のホテルで面談する。前日の29日には、山口組総本部で司忍の六代目就任が発表されていた。実力行使の原因のひとつだろう。「滋賀県の仕事」とは、県下日野町の清掃工場のことだった。
「ワシがやっている仕事をお前が潰した。ワシの利益を取った。本来、命もらわなあかん話やけど、関係者もおるし取った分の利益は持ってこい」
相談役は、こう激しく責めたという。続いて8月5日、同じホテルで相談役との再交渉が行われる。ここで上田は、人間関係が構築できていない相談役との単独交渉を避け、義友希との窓口となることを期待し、旧知の不動産業者に同席を依頼した。だが、その業者にも厳しい言葉を投げかけられた。
「義友希さんが前もって電話してるのに応じひんから、こんなことになったんやで。時代も変わったし、軍門に下ったらどうや」
上田は、相談役と不動産業者に調査を約束し、「そのうえで、もし関与しているようならカネを払う」と言明した。以降、上田は8月から9月にかけて調査をし、「なんぼ調べても覚えがない」というのだが、窓口となった不動産業者は納得しない。
「証拠はあるんや。何を今更、言ってるねん。逃げられへんで。義友希さんと一緒に、ともかく仕事をやってくれたらええんや」〉(『同和のドン』286〜287ページ)
山口組ナンバー3・入江禎総本部長の仲介
弘道会系淡海一家の高山義友希総長から圧力をかけられ、上田藤兵衞は困り果てた。そこで山口組ナンバー3の大物ヤクザに仲介を依頼することにした。
〈義友希サイドとは話が噛み合わないし、何を言っても認めてくれないので、上田は山口組内の別ルートに救いを求めた。序列でいえば山口組ナンバー3の入江禎(ただし)総本部長である。旧知の山口組直参に仲介を頼んだ。
入江は1997年に中野会に射殺された宅見勝若頭の右腕だった。事件後、宅見組を継承して二代目組長となって直参に昇格。司六代目体制のスタートとともに総本部長の要職に就き、関西の実情や山口組執行部の内情を知らない高山若頭をサポートした。
入江は武闘派ではなく智将といったタイプだけに、相談はしやすかった。2005年9月29日、上田は入江と京都市内の料亭で会い、一連の淡海一家のクレームを伝えて仲裁を依頼する。入江は「淡海は京都を取るものと見える」「頭も出張って何でもしようと思ってる」「なんで頭はそんなに焦ってるのやろ」などといい、仲裁を了解した。
(略)
入江との面談の1週間後、上田は偶然、高山と接触した。10月5日、祇園のクラブで、義友希が高山を接待している現場に居合わせたのだ。義友希に高山若頭を紹介された上田は、「こんばんは。ようこそいらっしゃいました。上田藤兵衞です。京都まで来ていただいてありがとうございます」と挨拶した。「どうも、高山です」と高山は短く返した。挨拶だけに終わったが、3月から揉めている清掃工場の件もあり、義友希らの支払いは上田が持った。〉(『同和のドン』287〜288ページ)
この後、事態は急展開する。後篇「4000万円を山口組に恐喝された「同和のドン」はなぜ刑事告訴に踏み切ったか《あなたの知らない戦後史》」では、その真相が明かされる。
・4000万円を山口組に恐喝された「同和のドン」はなぜ刑事告訴に踏み切ったか《あなたの知らない戦後史》
※連載の前篇「山口組若頭・高山清司を刑務所に送り込んだ「同和のドン」の戦いがヤバすぎる《完売店続出の告白本》」に引き続き、上田氏と暴力団との知られざる因縁の真相を明かそう(文中敬称略)。
※「みかじめを持ってこい」「1000万円以上や」
「頭が一席設けるというてる」
弘道会系淡海一家・高山義友希総長からかかってきた電話によって、上田藤兵衞は山口組若頭・高山清司との秘密会談に呼び出される。
〈義友希から電話があった。
「藤兵衞さん、頭が一席設けるというてるから日程が欲しい」
祇園のクラブの返礼かと思い、上田は軽い気持ちで受ける。場所は京都市内の老舗料亭「たん熊」で、日時は10月26日午後6時と決まった。(略)上座に座ったのは高山と義友希で、下座に上田と不動産業者。高山は、義友希と不動産業者を指し、「日頃、これらがお世話になってる」「今後も仲良くしてやってくれ」「仕事も力合わせてよろしく頼む」と言った。高山サイドとしては、この会合は上田を企業舎弟にする儀式のつもりだったようだ。
彼らは、この日を境に上田を「企業舎弟」と認定した。義友希とその窓口の不動産業者からは上田に「みかじめを持ってこい」「1000万円以上や」といった強圧的な連絡が入るようになる。
仲裁を依頼した入江【※山口組ナンバー3の入江禎(ただし)総本部長】に相談すると、「京都ルール」を設定すると請け合った。
京都の土木建築業者が京都で仕事をするときには、会津小鉄会とその関係者に地域対策費などを支払えば仕事に介入しない、というのが京都ルール。その代わりに滋賀県は淡海一家が取り仕切る。
図越が司の舎弟だとはいえ、京都は本来、会津小鉄会の縄張りである。この時点で淡海一家は弘道会の傘下であり山口組の三次団体に過ぎない。「京都ルール」は、「京都は会津小鉄会のもの」という縄張りを改めて確認するものだった。その確立のために入江が汗をかいてくれたというので、11月14日、上田は大阪ミナミの宅見組本部に赴き、入江に挨拶して謝辞を述べた。〉(『同和のドン』289〜290ページ)
そして、山口組分裂へ
弘道会をバックにした淡海一家からのユスリは止まらない。淡海一家の相談役は〈保険はかかっとるけど保険料金おさめていないわな、というのがワシの印象ですわ〉(『同和のドン』292ページ)という露骨な脅しによって、さらなる上納金を要求する。
〈上田は相談役の来訪以降、命の危険を感じ、それまでの出来事を「遺言書」と題する文書にまとめていた。
そのうえで、
1 引き続き入江に仲裁を依頼すること
2 警察に飛び込むことを入江に伝えて弘道会を牽制すること
3 弘道会の要求を呑んで一時金を支払うこと
の三つを決めた。
2006年3月10日、まず入江に「警察に飛び込む覚悟」を伝えた。入江は「そんなこと言わんとき。ワシも頑張るから」と上田をなだめたという。
また、同年8月、淡海一家相談役から「8月に入ったんで、(盆暮れに頭に届ける)枕(1000万円)以上持ってこい」という連絡を受け、8月9日午後、相談役が待つ市内のホテル喫茶室に向かい、2000万円を紙袋ごと渡した。相談役は中をのぞき、「確かに預かりました。頭に届けます」と言った。
その頃から入江の態度が変わり、よそよそしくなった。12月に入ると、また相談役から「12月に入った。枕以上、持ってきてくれ」と言われ、12月18日、市内のホテル喫茶室で待つ相談役に1000万円を届ける。「確かに受け取りました。頭に届けときます」と同じセリフだった。
企業舎弟扱いは収まらず、仲裁役のはずの入江が間に入るつもりがないことがハッキリしたうえ、これまで上田が築いてきた資金も尽きた。上田は京都府警への告訴を決めて告訴状を提出した。〉(『同和のドン』292〜293ページ)
上田藤兵衞の刑事告訴によって、当局が動く。上田への4000万円恐喝が認められ、山口組若頭・高山清司への懲役6年の実刑判決が下されたのだ。2014年12月、高山は府中刑務所に収監された。
上田藤兵衞への恐喝事件によって、山口組ナンバー2である若頭・高山清司が長期にわたってシャバを留守にすることとなる。高山が塀の中の住人になったあと、2015年8月、山口組は六代目山口組と神戸山口組に分裂した。「同和のドン」上田藤兵衞の存在は、奇しくも任侠界のパラダイムシフトを促す重要なトリガーとなったのだ。
※自由同和会京都府本部会長・上田藤兵衞氏の衝撃の告白本『同和のドン 上田藤兵衞 「人権」と「暴力」の戦後史』(伊藤博敏著・講談社)が、発売直後から大変な話題だ。すでに2万5000部に達しているこの本には、同和運動、自民党、山口組、バブル紳士、闇社会のすべてをつないだ男が目にした「戦後史の死角」が綿密に綴られている(文中敬称略)。
上田氏が刑務所時代で知り合い、親交を結んだ山口組五代目・渡辺芳則氏についての記述を今回は紹介しよう(文中敬称略)。
※五代目山口組組長・渡辺芳則の引退
2005年、上田藤兵衞の人生にとって大きな転機が訪れる。同和運動の道で生きていく──そう決めた上田の背中を、五代目山口組組長・渡辺芳則は「お前はその道で男になれ」と応援してくれた。その渡辺芳則が組長を引退したのだ。
六代目・司忍組長への体制にシフトチェンジすると同時に、上田を取り巻く任侠界のパワーバランスが一変する。その経緯については、この『同和のドン』の読みどころだが、いずれ詳述しよう。
〈渡辺五代目の後は、名古屋で弘道会を立ち上げた司忍(つかさ・しのぶ)(本名・篠田建市)が六代目として継承した。そのナンバー2である若頭の高(*実際の字はハシゴ高・以下同)山清司が、傘下組織・弘道会系淡海(おうみ)一家総長・高山義友希(よしゆき)を窓口にして「上田囲い込み」を図った(義友希は高山登久太郎・会津小鉄会四代目の実子で、高山清司若頭との間に姻戚関係はない)〉(『同和のドン』267〜268ページ)
16年間にわたって組長を務めてきた渡辺芳則の体はボロボロだった。上田藤兵衞は、そんな渡辺の治療体制を手配する重責を担った。
〈渡辺は肝臓癌で生体肝移植の手術を受けていた。海も山も好きなスポーツマンで、酒をたしなまず、頑健な体を誇った渡辺だが、60歳を過ぎてから腰痛、糖尿病と持病を抱えるようになり、C型肝炎の治療もうまくいかなかった。その過程の定期検査で肝臓癌が発見される。
治療法を巡って、渡辺は京大医学部など医学界にも人脈のある上田に相談していたが、やがて上田の意見を聞かなくなった。上田が述懐する。
「渡辺さんぐらいになると、体に不調があれば方々からいろんな治療法が持ち込まれる。一度、『風邪もひいてられへん』と愚痴をこぼしたのを聞いたことがあります。くしゃみをすれば、クスリがどっさり届けられる状況とか。肝臓癌が発見されたときも、(臓器提供の)ドナー付きで移植手術を受けられるという話があるというので、『体への負担が大きいし、別の治療法のほうがいいんじゃないですか』と、渡辺さんに言ったことがあります。でも、渡辺さんは生体肝移植を選択した」〉(『同和のドン』270ページ)
「怪僧」池口恵観が仕切った肝移植プロジェクト
五代目山口組組長・渡辺芳則の生体肝移植プロジェクトを、トップシークレットとして進めたのは、あの池口恵観(いけぐち・えかん)の手の者だ。もちろん上田藤兵衞は池口恵観とも面識がある。
〈移植手術そのものは成功した。京都市内の病院で、生体肝移植ではトップレベルの医師が執刀。手術前のことは組織内の人間には知らせず、上田にも秘して、手術のためのチームが編成されたという。
手配したのは、高野山の高僧で「炎の行者」「永田町の怪僧」という異名を持つ池口恵観の弟子筋で、京都の医療関係に幅広い人脈を持つ人物だった。「100万枚護摩行」を達成し、「宿老」という高野山最高位に上り詰めた池口だが、清濁併せ呑む人物で、安倍晋三など大物政治家と付き合う一方、渡辺だけでなく他の山口組幹部とも親しい関係にあった。池口は京都で弟子筋や信者を集めた「恵観塾」を定期的に開催。そんな関係で上田とも親しかった。
渡辺が「休養宣言」を行ったのはそうした事情からだった。ただ、術後の経過は良くなかった。肝臓癌ではなく糖尿病が悪化したうえ、手術前からその兆候が見られた認知症が進んだ。そのせいか突如、怒り出すなど感情の起伏が激しくなった。

(上)「同和のドン」より
渡辺が山健組組長時代から引退後の2012年12月1日に亡くなるまで仕えた山口組三次団体元組長の原三郎が、次のように振り返る。
「手術で2ヵ月ぐらい不在にしていたでしょうか。帰ってきて、精彩がなくなりました。一方で、お客さんのいる前で声を荒らげるなど、気持ちが不安定になっていきました。もともと、16年も組長を務めて疲れていたんは確かやし、引退のときは(組長の上の名誉職的な)総長などの身分を持たず、さっと身を退く覚悟は決めていました。それで復帰しないまま、当代(組長)を名古屋の司(忍)さんに譲ったんです」〉(『同和のドン』270〜271ページ)
「おんどれ、指一本、詰めて終わりかい!」
1996年7月、京都・八幡市内の理髪店で、山口組最高幹部・中野太郎若頭補佐が銃撃されたことがある。襲ったのは会津小鉄(現・会津小鉄会)系のヒットマンだ。会津小鉄系中島会の幹部ら7〜8名が車2台で乗りつけ、理髪店の外側に扇形に並んで拳銃を発射するという劇的な襲撃であった。
この理髪店の窓ガラスを防弾仕様に替え、入念に防備していたおかげで、中野太郎は命を救われる。
〈中野は1936(昭和11)年生まれ。41年生まれの渡辺の5歳上だが、渡辺と中野は同じ ’63年に初代山健組組長・山本健一の盃をもらっている。表に出るのが苦手ですぐに手が出るタイプの中野は、度胸は据わっているのに人当たりがいい渡辺を見込み、右腕として支える覚悟を決めたという。以降、渡辺が山健組内に健竜会を起こすと相談役となり、山健組組長、山口組若頭、山口組組長と、渡辺が山口組で出世していくのに合わせ、補佐役として仕えた。「喧嘩太郎」ではあっても稼業の決め事はキッチリ守るタイプで、渡辺の前に出ると正座、直立不動だった。
それだけに渡辺は、中野襲撃に激怒した。ところが会津小鉄は和解に動き、宅見勝若頭からなる山口組執行部は、これを受け入れた。事件当日の深夜、会津小鉄若頭の図越利次・中島会会長ら最高幹部が、山口組総本部を訪れ、事件の経過を説明するとともに、数億円といわれる「詫料」を渡した。図越は指を詰めていたという。
「おんどれ、指一本、詰めて終わりかい! ザコ、寄こしやがって。トップの高山(登久太郎会長)が来んかい!」
渡辺は、こう荒れたという。だが渡辺は、結果的に宅見執行部の和解方針に従った。山口組組長は日本の暴力団の象徴的存在であり、権威である。「神輿」といっていい存在で、権力を握るのは若頭の宅見である。1989年7月、48歳と若い渡辺が五代目体制を発足させるのに最も功績があったのは、「渡辺支持」で組内をまとめた5歳年上の宅見だった。宅見の決定には逆らい難く、さらに中野会と会津小鉄の抗争は泥沼化しており、どこかで手打ちをする必要があった。〉『同和のドン』272〜274ページ)
後篇《宅見勝を射殺した中野会トップ・中野太郎の自宅を、なぜ同和のドン・上田藤兵衞は訪れたのか…歴史的証言がヤバすぎる》では、渡辺の口利きで上田が訪れた様子を紹介する。
・宅見勝を射殺した中野会トップ・中野太郎の自宅を、なぜ同和のドン・上田藤兵衞は訪れたか…歴史的証言がヤバすぎる
※連載の前篇《山口組五代目のトップシークレット「肝臓癌」治療が、「同和のドン」に相談された理由《手術は「怪僧」が仕切った》》に引き続き、山口組の抗争にいかに上田氏が巻き込まれていったか、その核心部分を紹介しよう(文中敬称略)。
※中野会と会津小鉄の抗争の場・崇仁地区
〈もともと山口組と会津小鉄は、木屋町事件をきっかけに山口組の田岡一雄・三代目と会津小鉄会の図越利一・三代目との間で、山口組は京都に進出しない「京都不可侵」の“黙契”があった。だが、現実問題として「利権」があれば取り込みに入るのが暴力団である。
なかでも京都駅前の崇仁地区は、同和運動関係者に暴力団が複雑に絡んで「魔窟」と化しており、1990年代に入ると、中野会と会津小鉄の抗争の場となった。
’92年、’93年、’94年と、中野会を中心とした山口組が、崇仁地区の権益を巡って同和団体のバックについた会津小鉄との間で、殺傷事件を繰り返した。それが嵩じたのが ’95年のことで、6月には双方が14件の発砲事件を引き起こし、中野の自宅や同和団体幹部宅への発砲、放火事件が発生した。
同年8月、中野会組員が同和団体幹部を射殺。それを受けて京都府警は、いっそう厳戒態勢を強めていた。その厳戒態勢のなか、会津小鉄系組織の前に動員されていた警察官を山口組系三次団体の組員が誤って射殺した。これが、先に触れた渡辺が使用者責任を問われた事件だった。
’96年2月、泥沼化する抗争に終止符を打つ意味もあって、渡辺の後に山健組を継承した五代目山口組若頭補佐の桑田兼吉、会津小鉄若頭の図越利次、広島最大の暴力団・共政会会長の沖本勲の三人が兄弟盃を結んだ。この時点で、次期山口組組長の有力候補だった桑田と、会津小鉄会三代目の実子で五代目が確実視された図越は「兄弟」となった。渡辺が、「これ以上、京都で抗争を広げたくない」と思うのも無理はない。
だが、襲撃を受けた中野はそうはいかない。「武闘派」「喧嘩太郎」としてのプライドもある。「返し」は行わなければならない。では、それがなぜ会津小鉄ではなく宅見だったのか。一晩で和解を受け入れたのは宅見だが、それを承認したのは、「親がクロといえばシロでもクロだ」という価値観を持つ中野にとっては絶対的存在の渡辺だった。〉『同和のドン』272〜274ページ)
「宅見の頭です!」
報復として、’97年8月に中野会は山口組の宅見勝若頭を襲撃、射殺した。宅見勝暗殺事件を機に、中野太郎は山口組から絶縁される。
〈宅見若頭が、ヒットマンによって銃撃され、意識不明の重体のまま亡くなったのは、1997年8月28日のこと。襲撃された場所は、JR神戸駅前の新神戸オリエンタルホテル4階ロビーのティーラウンジだった。
午後3時20分、ボディガードを少し遠ざけ、宅見若頭と岸本才三総本部長、野上哲男副本部長の三人が談笑していたところ、青い作業服にサングラス、野球帽をかぶった4人組の男らが駆け寄り、10発以上の銃弾を宅見に浴びせ、うち7発が命中して、神戸市内の病院に緊急搬送されたものの、1時間後に絶命した。岸本と野上は無事だったが、流れ弾一発が、隣のテーブルにいた芦屋市の歯科医の側頭部に当たり、意識不明の重体となった後、9月3日に亡くなった。
渡辺は現場から山口組本部にもたらされた電話で事件を知る。本部とつながる本家で植木の手入れをしていたが、「(若)頭がやられました!」と、息せききって駆け付けた本部秘書役の報告に、こう問い返した。
「どこの頭や?」
「宅見の頭です!」
「何やと! どないなっとるんや!」
組をあげての情報収集が始まり、その日のうちに「中野会の仕業」という声が有力となった。「中野を呼べ!」と、渡辺は命じた。その日の夜、中野はまず本部に行き、執行部のメンバーに「ウチはやってないが、改めて確認する」と説明。その後、本家にあがって渡辺と面談し、「ワシは、ゴルフをしておりました。うちはやってまへん。もし、自分とこの人間がかかわっていたら、ワシは腹を切ります」と言明したという。
中野は否定したものの、新神戸オリエンタルホテル内の防犯カメラに中野会若頭補佐に酷似する人物が映っていたこと、事件後、犯人グループが逃走に使った車両が中野会関係者の所有車だったことなどから、本人否認のまま執行部は中野の「破門」処分を決めた。「破門」は復帰の可能性を残しており、そういう意味では甘い処分だったが、9月3日、歯科医の巻き添え死が判明したことで、暴力団社会からの追放を意味する「絶縁」となった。絶縁は、中野会及び中野太郎との関係を続けるなら、山口組と抗争になることを意味する重い処分である。〉(『同和のドン』276〜277ページ)
中野邸に向かった上田は
盛力健児の証言(著書『鎮魂』)によれば、中野が宅見を攻撃した理由を「山口組が(中野襲撃を)了承しとったからですよ。あの散髪屋の(中野襲撃)事件は、宅見が会津にやらせよったんや。宅見が仕組んだんですよ」と言う。
〈その背景には、渡辺と宅見の確執があったという。
権威の渡辺と権力の宅見。神輿として担がれたままでは面白くない渡辺は、宅見の力を奪おうとしていた。それを察知した宅見が、「渡辺を排斥して自分の言うことをきく桑田(兼吉・若頭補佐)を六代目に据えて、自分は総裁の立場でコントロールする」というクーデター計画を持っていた、というのが盛力の“見立て”である。その最大の障害が渡辺に絶対服従の武闘派・中野なので、まず中野を排除しようとしたというのだ。〉(『同和のドン』276ページ)
1992年3月に施行された暴力団対策法は、改正を重ねて、暴力団のシノギを厳しいものにし、司忍ら3人の最高幹部を、「ボディガードが持っていた拳銃の共謀共同正犯」とするなど、暴力装置としての牙を抜いていった。最高裁が2004年11月、「組長の使用者責任」を認めたように、ピラミッドであることが強みの組織が、もはやトカゲの尻尾切りを許されず、かえってトップが狙われることになった。企業社会を見舞ったコーポレートガバナンス(企業統治)やコンプライアンス(法令遵守)を重視する流れは、社長も組長も結果責任を問われるようになったという意味で、同じピラミッド構造である暴力団社会にも及んでいったわけである。
「喧嘩太郎」の異名をもつ中野太郎のもとへ、上田藤兵衞が直談判に訪れたことがある。全国最大規模の同和地区「崇仁地区」を舞台とした会津小鉄と中野会の抗争が激化していたからだ。
〈上田は同和運動が絡むこともあって、中野太郎の狙いと思惑を聞く必要に迫られた。そこで、渡辺の口利きで機動隊が取り囲む厳戒態勢の中野邸を単身、訪れたことがある。’96年7月の中野襲撃事件の前のことである。
「殺傷事件が続く異常事態です。『親分(渡辺のこと)から電話があった。信頼して、相談に乗ってくれという話やった』ということで、中野さんもフランクに話はしてくれました。
正直、利権と人脈の絡みが複雑過ぎて、解きほぐすのは容易じゃない。ただハッキリしているのは、抗争を続けるのは、崇仁地区にとっても同和団体にとっても山口組にとってもいいことじゃない。それは理解してくれたんですわ。銃声や殺傷はいったん収まり、その後お礼の意味を込めて、解放同盟の村井(信夫)と一緒に、もう一度中野さんの自宅に行きました」(上田)
(略)
上田と渡辺の“連帯”が、うまく機能していたのはこの頃までで、’97年8月の宅見銃撃事件以降、反社封じ込めの流れは加速し、渡辺との個人的な関係は続いたものの、手を結ぶような関係は薄れていった。〉(『同和のドン』280ページ)
「山口組若頭・高山清司を刑務所に送り込んだ「同和のドン」の戦い方がヤバすぎる《完売店続出の告白本》」につづく
・山口組若頭・高山清司を刑務所に送り込んだ「同和のドン」の戦い方がヤバすぎる《完売店続出の告白本》(現代ビジネス 2023年2月22日)
※連載の前篇《宅見勝を射殺した中野会トップ・中野太郎の自宅を、なぜ同和のドン・上田藤兵衞は訪れたか…歴史的証言がヤバすぎる》に引き続き、上田氏と暴力団との知られざる因縁の真相を明かそう(文中敬称略)。
※山口組若頭・高山清司、そして会津小鉄四代目の息子
五代目山口組組長・渡辺芳則の引退によって、上田藤兵衞を取り巻く闇社会の包囲網が突如として狭まり始める。
〈2004年11月、渡辺が出した「休養宣言」は、上田と山口組との関係がいったん終了することを意味した。1980年代前半、神戸刑務所で出会った二人の個人的関係に依拠するものだったからである。だが、そう見ない人たちがいた。渡辺五代目体制を継承することになった司忍が率いる弘道会である。
蠢きは、’05年7月の渡辺引退の前から始まった。
最初は、同年3月、弘道会系淡海一家・高山義友希総長から上田にかかってきた一本の電話である。
「滋賀県で仕事をしていませんか」
「いや、してませんけどね……」
こんなやりとりがあった。高山義友希は、上田が子どもの頃から親しんだ会津小鉄四代目・高山登久太郎の実子である。
登久太郎は、跡目を図越利次に譲って1997年に引退するが、2003年6月15日に亡くなる直前、上田を呼んで「義友希を頼む」と託すような間柄だった。義友希もまた、登久太郎の葬儀の後、上田を祇園の料亭に招き、「父から話は聞いています。これから藤兵衞さんにいろいろと相談しますので、宜しくお願いします」と頭を下げた。
(略)
父の死後、高山清司が率いる弘道会に加入し、滋賀県大津市に淡海一家を起こして総長となった。弘道会での役職は舎弟頭補佐である。稼業の道を選んだ以上、「縄張り」は守らねばならない。京都は会津小鉄会だが滋賀は自分のもの。上田への電話で義友希は、「滋賀県は私が守らなアカンから、仕事をするときは、私とこ通してください」と続けたという。
といっても上田に覚えはなかった。その後、義友希から同様の電話が2回あり、「やってないですけどねぇ」と答える。さらに上田と親しい不動産業者からも「滋賀で仕事をしていませんか?」という電話が何度も入った。「やってないけどなぁ」と上田は繰り返した。
これが山口組若頭で弘道会会長の高山が、淡海一家・高山義友希総長を窓口にして、上田から4000万円を恐喝したという事件の起点となった。〉(『同和のドン』280〜282ページ)
弘道会系淡海一家・高山義友希総長からの圧力
弘道会系淡海一家の高山義友希総長は、「同和のドン」上田藤兵衞に激しく圧力をかける。
〈淡海一家で「滋賀県問題」を担当する相談役の配下が、上田の会社に直接押しかけて面談を求めたのは2005年7月のことだった。やむなく上田は、7月30日、「義友希の兄弟分」を名乗る相談役と京都市内のホテルで面談する。前日の29日には、山口組総本部で司忍の六代目就任が発表されていた。実力行使の原因のひとつだろう。「滋賀県の仕事」とは、県下日野町の清掃工場のことだった。
「ワシがやっている仕事をお前が潰した。ワシの利益を取った。本来、命もらわなあかん話やけど、関係者もおるし取った分の利益は持ってこい」
相談役は、こう激しく責めたという。続いて8月5日、同じホテルで相談役との再交渉が行われる。ここで上田は、人間関係が構築できていない相談役との単独交渉を避け、義友希との窓口となることを期待し、旧知の不動産業者に同席を依頼した。だが、その業者にも厳しい言葉を投げかけられた。
「義友希さんが前もって電話してるのに応じひんから、こんなことになったんやで。時代も変わったし、軍門に下ったらどうや」
上田は、相談役と不動産業者に調査を約束し、「そのうえで、もし関与しているようならカネを払う」と言明した。以降、上田は8月から9月にかけて調査をし、「なんぼ調べても覚えがない」というのだが、窓口となった不動産業者は納得しない。
「証拠はあるんや。何を今更、言ってるねん。逃げられへんで。義友希さんと一緒に、ともかく仕事をやってくれたらええんや」〉(『同和のドン』286〜287ページ)
山口組ナンバー3・入江禎総本部長の仲介
弘道会系淡海一家の高山義友希総長から圧力をかけられ、上田藤兵衞は困り果てた。そこで山口組ナンバー3の大物ヤクザに仲介を依頼することにした。
〈義友希サイドとは話が噛み合わないし、何を言っても認めてくれないので、上田は山口組内の別ルートに救いを求めた。序列でいえば山口組ナンバー3の入江禎(ただし)総本部長である。旧知の山口組直参に仲介を頼んだ。
入江は1997年に中野会に射殺された宅見勝若頭の右腕だった。事件後、宅見組を継承して二代目組長となって直参に昇格。司六代目体制のスタートとともに総本部長の要職に就き、関西の実情や山口組執行部の内情を知らない高山若頭をサポートした。
入江は武闘派ではなく智将といったタイプだけに、相談はしやすかった。2005年9月29日、上田は入江と京都市内の料亭で会い、一連の淡海一家のクレームを伝えて仲裁を依頼する。入江は「淡海は京都を取るものと見える」「頭も出張って何でもしようと思ってる」「なんで頭はそんなに焦ってるのやろ」などといい、仲裁を了解した。
(略)
入江との面談の1週間後、上田は偶然、高山と接触した。10月5日、祇園のクラブで、義友希が高山を接待している現場に居合わせたのだ。義友希に高山若頭を紹介された上田は、「こんばんは。ようこそいらっしゃいました。上田藤兵衞です。京都まで来ていただいてありがとうございます」と挨拶した。「どうも、高山です」と高山は短く返した。挨拶だけに終わったが、3月から揉めている清掃工場の件もあり、義友希らの支払いは上田が持った。〉(『同和のドン』287〜288ページ)
この後、事態は急展開する。後篇「4000万円を山口組に恐喝された「同和のドン」はなぜ刑事告訴に踏み切ったか《あなたの知らない戦後史》」では、その真相が明かされる。
・4000万円を山口組に恐喝された「同和のドン」はなぜ刑事告訴に踏み切ったか《あなたの知らない戦後史》
※連載の前篇「山口組若頭・高山清司を刑務所に送り込んだ「同和のドン」の戦いがヤバすぎる《完売店続出の告白本》」に引き続き、上田氏と暴力団との知られざる因縁の真相を明かそう(文中敬称略)。
※「みかじめを持ってこい」「1000万円以上や」
「頭が一席設けるというてる」
弘道会系淡海一家・高山義友希総長からかかってきた電話によって、上田藤兵衞は山口組若頭・高山清司との秘密会談に呼び出される。
〈義友希から電話があった。
「藤兵衞さん、頭が一席設けるというてるから日程が欲しい」
祇園のクラブの返礼かと思い、上田は軽い気持ちで受ける。場所は京都市内の老舗料亭「たん熊」で、日時は10月26日午後6時と決まった。(略)上座に座ったのは高山と義友希で、下座に上田と不動産業者。高山は、義友希と不動産業者を指し、「日頃、これらがお世話になってる」「今後も仲良くしてやってくれ」「仕事も力合わせてよろしく頼む」と言った。高山サイドとしては、この会合は上田を企業舎弟にする儀式のつもりだったようだ。
彼らは、この日を境に上田を「企業舎弟」と認定した。義友希とその窓口の不動産業者からは上田に「みかじめを持ってこい」「1000万円以上や」といった強圧的な連絡が入るようになる。
仲裁を依頼した入江【※山口組ナンバー3の入江禎(ただし)総本部長】に相談すると、「京都ルール」を設定すると請け合った。
京都の土木建築業者が京都で仕事をするときには、会津小鉄会とその関係者に地域対策費などを支払えば仕事に介入しない、というのが京都ルール。その代わりに滋賀県は淡海一家が取り仕切る。
図越が司の舎弟だとはいえ、京都は本来、会津小鉄会の縄張りである。この時点で淡海一家は弘道会の傘下であり山口組の三次団体に過ぎない。「京都ルール」は、「京都は会津小鉄会のもの」という縄張りを改めて確認するものだった。その確立のために入江が汗をかいてくれたというので、11月14日、上田は大阪ミナミの宅見組本部に赴き、入江に挨拶して謝辞を述べた。〉(『同和のドン』289〜290ページ)
そして、山口組分裂へ
弘道会をバックにした淡海一家からのユスリは止まらない。淡海一家の相談役は〈保険はかかっとるけど保険料金おさめていないわな、というのがワシの印象ですわ〉(『同和のドン』292ページ)という露骨な脅しによって、さらなる上納金を要求する。
〈上田は相談役の来訪以降、命の危険を感じ、それまでの出来事を「遺言書」と題する文書にまとめていた。
そのうえで、
1 引き続き入江に仲裁を依頼すること
2 警察に飛び込むことを入江に伝えて弘道会を牽制すること
3 弘道会の要求を呑んで一時金を支払うこと
の三つを決めた。
2006年3月10日、まず入江に「警察に飛び込む覚悟」を伝えた。入江は「そんなこと言わんとき。ワシも頑張るから」と上田をなだめたという。
また、同年8月、淡海一家相談役から「8月に入ったんで、(盆暮れに頭に届ける)枕(1000万円)以上持ってこい」という連絡を受け、8月9日午後、相談役が待つ市内のホテル喫茶室に向かい、2000万円を紙袋ごと渡した。相談役は中をのぞき、「確かに預かりました。頭に届けます」と言った。
その頃から入江の態度が変わり、よそよそしくなった。12月に入ると、また相談役から「12月に入った。枕以上、持ってきてくれ」と言われ、12月18日、市内のホテル喫茶室で待つ相談役に1000万円を届ける。「確かに受け取りました。頭に届けときます」と同じセリフだった。
企業舎弟扱いは収まらず、仲裁役のはずの入江が間に入るつもりがないことがハッキリしたうえ、これまで上田が築いてきた資金も尽きた。上田は京都府警への告訴を決めて告訴状を提出した。〉(『同和のドン』292〜293ページ)
上田藤兵衞の刑事告訴によって、当局が動く。上田への4000万円恐喝が認められ、山口組若頭・高山清司への懲役6年の実刑判決が下されたのだ。2014年12月、高山は府中刑務所に収監された。
上田藤兵衞への恐喝事件によって、山口組ナンバー2である若頭・高山清司が長期にわたってシャバを留守にすることとなる。高山が塀の中の住人になったあと、2015年8月、山口組は六代目山口組と神戸山口組に分裂した。「同和のドン」上田藤兵衞の存在は、奇しくも任侠界のパラダイムシフトを促す重要なトリガーとなったのだ。