・野中広務とツーカーで「同和のドン」となった上田藤兵衞とは何者か…「同和団体の税金優遇」タブーを壊した日
※解放運動の利権化
連載の前回《安倍元首相と写真に写る現役「同和のドン」の評伝で永田町騒然…「全国自由同和会」の結成時、幹部が挨拶した暴力団トップの秘話が凄い》に引き続き、上田の生涯を駆け足で紹介しよう。
上田藤兵衞を「同和のドン」たらしめたキーパーソンの一人は、小渕恵三内閣で官房長官を務めた大物政治家・野中広務だ。野中は、上田とツーカーの仲を築く。
〈全国の副会長、京都の会長として自民党系同和運動を進めてきた上田は、中央では自治大臣など要職を歴任した野中広務を始めとした政治家、あるいは総務庁を中心とした官僚に人脈を築き、京都でも市議、府議、歴代の市長、府知事との交流を欠かさず、パイプを年々太くしてきた。〉(『同和のドン』182ページ)
1987年当時、自民党系の全国自由同和会、社会党系の部落解放同盟、共産党系の全国部落解放運動連合会(全解連)という三種類の同和団体が別々に活動していた。部落解放同盟と全解連の対立は激しかった。なにしろ部落解放同盟は全解連を「差別者集団」と罵り、全解連は部落解放同盟を「利権暴力集団」と呼んでいたのだ。
部落解放同盟の「利権」がやり玉に挙げられるのには理由があった。1968年1月、高木文雄・大阪国税局長(後の国鉄総裁)が「同和事業については課税対象としない」と確約する。
〈部落解放同盟傘下企業の税務申告はフリーパスで認めるということであり、その後’70年2月に、国税庁長官が「同和地区納税者に対して実情に即した課税を行うように」と通達を出した(略)
「税逃れ」を容認したに等しい「7項目確認事項」によって、同和事業にも同和地区にも関係がない企業が、企業連=解放同盟周辺に集まってくるようになった。解放運動の利権化である。〉(『同和のドン』148ページ)
野中広務と上田藤兵衞が撤廃した「同和控除」
野中広務は「政治生命をかけて同和団体の税優遇を是正する」と決意する。そこで野中は、自民党系の同和団体で活動する上田藤兵衞を、部落解放同盟と話をつけるためのフィクサーとして利用するのだ。
〈野中は自治大臣時代の’94年、上田を自治大臣室に呼び、上杉部落解放同盟委員長との面談を依頼する。野中は、会談の意図を次のように説明したという。
「ここらで、同和問題を発展的に解消して、人権政策に転換するために法律を一本化したいんや」
「それに、国税庁長官通達がある限り、いつまで経っても同和問題は解消せぇへん」
上田は、突然の呼び出しと法律一本化と長官通達棚上げ論に戸惑った。
「先生、うかがっていいですか。人権政策に転換したら、そこにまだ解消していない同和問題を解消するための文言は入りますか。また、長官通達を棚上げしたら、運動団体の体力が落ちますが、どうなんですか?」
野中の返事は明快だった。
「人権法に転換することが、根本的に同和問題を解消する道筋なんや。長官通達に頼らんでも、人権法は(時限立法の地対財特法と違って)恒久的な法律やから予算はつけやすい。運動体が、時限立法にしがみついてどうする。人権政策は民主主義の根幹。この法律がなくて、どこが民主主義やな!」
上田は、その勢いに圧倒され、野中の目の前から六本木の解放同盟中央本部に電話をかけた。野中の日程に合わせて、上杉との会談をセッティングしたのだ。そこには上杉の後任委員長(1996〜98年)となる上田卓三(たくみ)元代議士が同席した。
上杉は一本化も国税庁長官通達の棚上げも了承した。〉(『同和のドン』183〜184ページ)

(上)同和問題の現状を考える連絡会議で(左隣が上杉佐一郎、その隣が上田卓三)
戦闘的な糾弾闘争によって怖れられた同和団体は、「税逃れ」「同和控除」のおかげで、さまざまな果実を手にしてきた。’99年10月に自自公連立政権が誕生すると、野中広務は国税庁と各地の税務署に「税逃れ」「同和控除」の撤廃を命令する。いびつな利権構造が、野中広務&上田藤兵衞のコンビによってとうとう破壊されたのだ。
「イトマン事件」の伊藤寿永光と許永中
上田藤兵衞は、野中広務のような表社会のドンと対等に渡り合っただけではない。裏社会のドンと対峙するときにも、上田はまるでひるむことがなかった。あの許永中を前にしてもそうだ。
〈膨張戦略の山口組と違い、京都から出ることなく盆地をガッチリと固める会津小鉄会がそうであるように、バブル期に京都は「侵される古都」となっていた。その侵食した側の代表が、在日韓国人の許永中だろう。
許は、1980年代後半から’90年代前半のバブル時代に、「裏」の権力である暴力団と、「表」の権力である有力政治家の力を使い分けながら、大企業を侵食した大物仕事師だった。〉(『同和のドン』204ページ)
住友銀行出身の河村良彦社長が立ち上げた総合商社イトマンをめぐり、地上げ屋の伊藤寿永光や許永中が「イトマン事件」を引き起こす。「3000億円が闇に消えた」と言われるキナ臭い「イトマン事件」によって、河村良彦や伊藤寿永光、許永中らは大阪地検特捜部に逮捕された。
許永中が稀代の詐欺師として暗躍する前夜の時代、許は同和事業の利権に目をつけ、ゴト師としての地歩を築く──。
(第4回後篇 バブル期に「許永中に唯一対抗できた男」がやったことがヤバすぎて…山口組五代目と山段芳春の会談の真相につづく)
バブル期に「許永中に唯一対抗できた男」がやったことがヤバすぎて…山口組五代目と山段芳春の会談の真相 につづく
・バブル期に「許永中に唯一対抗できた男」がやったことがヤバすぎて…山口組五代目と山段芳春の会談の真相(現代ビジネス 2023年2月10日)
※同和事業によって築かれた基盤
自民党中枢にもヤクザにも太いパイプをもつ許永中は、政財界と闇社会に「旋風」を巻き起こす。関西で許永中に対抗できる人間は、もはや上田藤兵衞しかいなかった。
〈伊藤寿永光の許を評する造語に「空想のディズニーランドをつくる天才」というのがある。華やかなプロジェクトを次々に立ち上げ、多くの企業、人物を巻き込み、金融機関からカネを引き出し、旋風を巻き起こすが、地道な事業実態を伴わない「空想の産物」で、プロジェクトはやがて雲散霧消。カネは溶かされ、企業も人も散り散りになる。伊藤はそれを「許永中旋風」と呼んだ。
許が、最初に基盤を築くのは同和事業によってだった。
1947年生まれの許は、大学中退後、無頼の生活を経て、東京のフィクサー大谷貴義のもとで秘書を務めて、政治家と経済界と暴力団とのトライアングルを知る。20代半ばでそれを切り上げ、大阪に戻った許は、大淀建設という土建会社を支配した。
そのうえで同和とは縁もゆかりもないものの、「在日」として「差別を受けたもの同士」という理屈で、部落解放同盟西成支部の「支部長付」という肩書を得て、同対法施行後の’70年、大阪に設立された同和建設協会(同建協)の会員となる。やがて大淀地区の同和事業を独占するようになり、予算面で2〜3割高の工事を丸投げして利益を得て、電気・ガス・上下水道といった分野にも進出した。
だが、「同和系土建屋の親父」に満足する男ではなかった。彼が京都で巻き起こした旋風により、「陰の支配者」といわれた山段芳春(さんだん・よしはる)京都自治経済協議会理事長、内田和隆・KBS京都社長、白石浩子・京都新聞社会長、福本邦雄・KBS京都社長、(略)太田清蔵【※東邦生命社長】などが巻き込まれていく。
そんな彼らがこぞって頼った相手こそ、上田藤兵衞だった。
この頃、許は無敵の力を誇った。「同和」と「在日」というマイノリティに基盤を持ち、暴力団社会には西にも東にも兄弟分がいる。大阪ではフィクサー・野村周史、東京では「政界動物園の切符切り」という存在の福本邦雄を通じて、竹下登、渡辺美智雄といった大物政治家にもパイプがある。
京都でこの許に対抗できる唯一の存在が、「政」「官」「財」「暴」に人脈を持つ上田だった。〉(『同和のドン』205〜206ページ)
京都のフィクサー・山段芳春が頼った相手
前出の山段芳春(京都自治経済協議会理事長)とは、京都では名うてのフィクサーだ。〈人脈と情報の力で、市政、金融、財界、公共工事、マスコミなどのあらゆる分野を掌握した。影響力は京都に限られていたものの、京都府警OBの就職を斡旋することで警察権力とのパイプを保持していたし、終戦直後からの暴力団との付き合いは、その後も続いていた。〉(『同和のドン』209ページ)
大物ヤクザとツーカーである山段芳春の存在を、許永中はまるで怖れもしない。
〈京都に根を張り、怖いものなしの山段に、ストレートで攻め込むのが許の凄さだった。許は、イザとなれば、180センチ100キロの体をかけて凄む。肉体的言語を持つ者は、やはり強い。自伝『海峡に立つ』には、1984年春、山段がひとりでいる時間帯の午前9時45分を狙って急襲する様子が描かれている。
「誰の紹介ねんな?」と尋ねる山段に、「誰の紹介もおまへん。KBS京都の内田のことで話があってきただけですわ」と、許が答え、緊迫する。
〈「藤田〔許は夫人の藤田姓を名乗ることがあった〕はん。アンタ、ワシのことをわかって来たいうけど、チョット無茶と違うか?」
「いや、理事長。無茶は理事長さんですがな。話がつかんかったら、私はこのまま手ぶらでは帰らんだけの話です。簡単な話ですがな」
完全な脅しである。山段は間を置くようにお茶を手に取り、ゆっくりと飲んだ〉(『海峡に立つ』)
山段は、許に呑まれた。というより、自分の老練なテクニックで、味方にすればいいと思ったのかも知れない。〉(『同和のドン』210ページ)
強引な許永中に取りこまれかけた山段芳春は、上田藤兵衞に助けを求める。そこで許永中対策のために、神戸刑務所時代の“同窓生”である山口組五代目・渡辺芳則との会談を上田が取りつけたのだ。
〈山段は、「京都の枠」に収まりきらない許に不安を覚えた。牽制のために山口組五代目の力を借りようと頼ったのが、上田だった。
「山段さんの顧問弁護士で、私も親しくしている先生から電話がかかってきたんです。『すまんけど、一度、神戸(渡辺五代目)に会わしてくれへんか』ということやった。そこで私がセッティングして、先生と山段さん、それに秘書の女性を連れて行きました。神戸の山手にある、渡辺さんがよく使う天ぷら屋です。貸し切りだったんですが、私と先生と秘書は別テーブル。山段さんと渡辺さんは3時間以上、二人で話し込みました」(上田)
京都における山口組対策、許永中対策を相談したのだろう。だが、上田は話には加わらなかった。当事者になるつもりがなかったからだ。〉(『同和のドン』211ページ)
上田と親しいことが「保険」となった
前出の東邦生命社長・太田清蔵のことを、許永中は著書の中で「恩人」と称している。上田藤兵衞は、その太田清蔵とも昵懇の仲だった。
〈山科の町内に散髪屋があり、そこの娘が美容グループ「ヤマノビューティメイト」の山野彰英と結婚した。その山野が支配権を握っていたのが日本レースで、その後見人が太田だった。代理人を通じて上田に連絡があり、上田は京都ブライトンホテルで太田に会った。
シベリア開発、朝鮮半島へのトンネル掘削といったスケールの大きな話を次々に繰り出す太田に圧倒されるが、最後に持ち出した「お願い事」が、「日本レースの経営を任せたい」だった。これも断ったが、突っ走る許の防波堤、諫(いさ)め役を期待されたのだろう。
丁重に断ったものの、上田と太田の関係は継続した。上田は太田のスケールに惹かれた若手実業家が組織する「21の会」に参加し、「平安京21の会」の副会長に就いた。
太田は、「太田クリニック」と自称するほど企業再生に力を入れ、それゆえトラブルが発生することもあった。そこから逃れようと太田夫妻が、京都で正月の1週間を過ごしたことがある。上田はスケジュールを立てて、下にも置かぬもてなしをした。
内田【※和隆】、伊藤【※寿永光】といったイトマン事件の主役たちに対する対応もそうだ。一流どころで歓待し、祇園で遊ばせはするが、具体的に相談を引き受けることはない。実際のところ彼らも、上田と親しいことが「保険」になればいい。〉(『同和のドン』211〜212ページ)
おいしい話が持ちかけられようが、パクッと食いつきもしない。政財界、そして裏社会で棲息する癖だらけの住人と絶妙な距離感を保ち、許永中のような怪物とも対峙しながら、上田藤兵衞は「同和のドン」への階段を駆け上がっていくのだ――。
(第5回 政界と同和を結ぶパイプライン「野中広務事務所」を、同和のドンが訪れた日《隠語は「八条口」だった》【完売店続出の書の中身】につづく)
・政界と同和を結ぶパイプライン「野中広務事務所」を、同和のドンが訪れた日《隠語は「八条口」だった》(現代ビジネス 2023年2月11日)
※警戒心を露わに見せた野中
野中広務といえば、99年に自自公連立政権を立ち上げ、自民党の長期安定政権を樹立した重要人物だ。その大物政治家と上田藤兵衞は、長きにわたって政界と同和を結ぶパイプラインとなった。ただし野中と上田が、最初から昵懇の仲だったわけではない。野中は当初、上田の存在に警戒感を抱いていたようだ。
〈野中が有力代議士になるのに合わせて、自民党系同和団体を引っ張る上田との関係が深くなった。だが、はじめは警戒感を露わに見せた。最初の出会いは、上田がまだ全国自由同和会に加わる前、全日本同和会で青年部長だったときである。府内上下水道などのインフラを握る京都府副知事の野中に陳情に行ったが、深い人間関係を結ぶには至らなかったという。
「その後、全国自由同和会が堀内(俊夫・自民党地域改善対策特別委員会委員長)先生の根回しで立ち上がり、約束通り、我々は自民党の友好団体として認知され、全日本同和会に代わって意見聴取団体となります。
全国大会は自民党本部ホールで行われ、中央本部も自民党政務調査会の配慮で、党本部のある平河町に置かれました。堀内先生が清和会に所属していたこともあり、我々は派閥領袖の安倍晋太郎先生への報告と挨拶を欠かさんかった。野中先生にすれば、はじめは他の派閥の同和利権と思いはったかも知れません」(上田)
実際は全国自由同和会として特定派閥に肩入れすることなどなく、安倍晋太郎と並ぶ大物の竹下登・経世会会長への接触も重ね、パーティーなどでは挨拶、手紙などでの報告や陳情も欠かさなかった。
やがて竹下事務所から「京都の窓口は野中事務所で」という形で振られたことが、野中と上田の“仕切り直し”となって関係が深まっていく。〉(『同和のドン』233〜234ページ)
「手を引け。工事には触らんとけ!」
京都府議会議員を12年間、さらに京都府副知事の要職を務めるうちに、野中広務は京都の土木・建設利権を一手に仕切るようになる。というよりも、「カネと票」を押さえる建設業者と握らなければ、自民党の保守政治家として中央政界に進出することなどとてもできなかった。
〈野中は、’83年12月、2度目の衆院選に勝利し、’86年7月に3選を果たす頃には、「京都の建設業者は押さえた」と、豪語するまでになっていた。
その布石として、野中は建設の族議員となっていった。族議員となることは、政治家のステップアップには欠かせない。ここで行政と業界に睨(にら)みを利かせられる存在となってから、さらに業界の範囲を広げ、有力政治家となっていく――これが中選挙区時代の自民党政治家のセオリーだった。
(略)
京都選出の有力政治家として、京都駅近くの八条に事務所を設け、やがて野中事務所は「八条口」と呼ばれるようになった。そこには公共工事のあらゆる情報が入ってくる。その情報を求め、場合によっては口利きを期待した関西のゼネコン幹部や京都の建設業者が日参するようになった。だが、’94年6月に自治相となる前の一時期、野中がこう切れたことがあるという。
「やってられへん。(事務所の秘書に)おい、いっさい、(談合から)手を引け。(公共)工事には触らんとけ!」〉(『同和のドン』239〜240ページ)
「藤兵衞さん出番です!」
典型的な建設族議員だった野中広務は嫌気がさし、事務所にやってくる建設業者のねちっこいロビイングをいきなり排除してしまった。ここで登場するのがフィクサー上田藤兵衞だ。
〈上田がこう振り返る。
「野中先生の名前を使って工事の受注を仕掛けたり、野中事務所の名刺で利権漁りをする者がいたりして、もうイヤになったみたいです。
当然(土木・建設の)現場は混乱します。ゼネコン関係者などが20人ぐらい集まって打開策を話し合った。といっても、野中先生に翻意してもらうしかない。『藤兵衞さん出番です!』とか言われておだてられ、私が先生に会うことになりました」
ゼネコンや地元建設業者では露骨な陳情になり、野中がますますヘソを曲げる可能性がある。野中は、有力政治家として公共工事の調整作業を続けることに疲れていたようだ。だから業者に会いたがらない。そこで直接、事業をしているわけではない上田に白羽の矢が立ったということだろう。
「永田町・議員会館近くのホテルにみんなが集まりました。意見をまとめ、改善点はなにか、先生への要望はなにか、など5項目ぐらいをまとめて紙にして、議員会館の先生の部屋に向かったんですわ。『藤兵衞さん、きてもろたら困る。あまりに(建設業者の)行儀が悪いし、ワシ、体がもたへん』と、先生は言いはった」
上田は、こう返した。
「先生、引くのはいいけど、現場が混乱しとる。どうしたらいいんや」
以降、談合が成立しないような面倒な案件は「八条口」には持ち込まず、「野中先生に迷惑をかけない形」での調整は続き、上田が「八条口」に行く回数は増えた。〉(『同和のドン』240〜241ページ)
上田は、京都では信じられない水先案内人さえつとめている。それについては記事のつづき《京都の同和地区再開発に現れた米国「CIA」は「同和のドン」に名刺を差し出した《戦後史の弩級証言》》に続こう。
・京都の同和地区再開発に現れた米国「CIA」は「同和のドン」に名刺を差し出した《戦後史の弩級証言》(現代ビジネス 2023年2月12日)
※1985年に設立された崇仁協議会のトップ
JR京都駅の東に位置する崇仁地区は、南北に河原町通が、東西に塩小路通が貫いており、京阪七条駅にも近い交通至便の土地である。面積は約27万4000メートルと広大だ。
2019年時点の人口は約1300人。寂れる一方だったこの街は、2023年に京都市立芸術大学が移転する計画が立ち上がり、いま工事が急ピッチで進み、大きく変わろうとしている。
崇仁地区には、被差別部落の住民によって設立された日本で唯一の銀行である柳原銀行(1927年に倒産)の建物が、京都市登録有形文化財に指定されて残されており、この地区の歴史・文化・生活を伝える「柳原銀行記念資料館」となっている。
同館が伝えるところでは、室町時代(16世紀前半)に六条河原が処刑場となり、河原者が刑務を行っていたところから崇仁地区の歴史は始まる。やがて皮革産業などを起こしながら人口を増やしていった。差別小説として糾弾を受けた雑誌『オール・ロマンス』に掲載された「特殊部落」の舞台となったことが証明するように、住環境は悪く、世帯収入は少なかった。
’69年から始まった同和対策事業で市営住宅などが建設されて住環境は整ったものの、地区外の差別意識は変わらず、昭和50年代に入って、「成長から完全に取り残された街」となっていた。
地区の一部の材木町を中心に、再開発計画が立ち上がったのは、昭和50年代後半に入ってからのことだ。準備会を経て、1985(昭和60)年、崇仁協議会が設立された。この協議会の初代会長に就いたのが、全日本同和会京都府連合会副会長で洛南支部長の高谷泰三だった。高谷とは、上田藤兵衞が「プリンスホテル事件」(連載第1回参照)で襲撃されたときに現場に居合わせた人物だ。
総務庁キャリアからの依頼
高谷泰三は、経済成長から取り残されてきた被差別部落・崇仁地区を、再開発によって豊かな場所にしようと構想する。だがその試みは、ドルをふんだんに握るアメリカ資本の横やりによって頓挫した。そこで上田藤兵衞の出番だ。
〈崇仁協議会の地上げ資金は、サラ金「武富士」から出ていた。潤沢な資金を利用した地上げが行われた。そのため資金を巡って暴力団組員らによる複数の射殺事件が発生した。さらに不動産業者に対する銃撃・襲撃事件も起きたため、「崇仁・材木町」は「魔窟」と呼ばれ、同和地区再開発に悪いイメージを与えてしまった。
驚くべきことに、この複雑な地に、同和問題の複雑さを知らない米資本が国策として乗り出し、しかも上田が「水先案内人」を依頼されるという希有な出来事があった。
「1988年に同和問題を所管する総務庁のキャリア官僚から、依頼がありました。行くと大会議室が用意されていて、外国人が30人ぐらいいたでしょうか。『崇仁地区の再開発をしたい。ついては解放同盟を含めた運動体をまとめてほしい』というのです。名刺は、全員、関空ターミナルを受注したベクテルのものでした。ただもう一枚、名刺を持っている人もいて、それはCIA(米中央情報局)の名刺でした」
ベクテル――米カリフォルニア州に本社を置く総合建設業者。3兆円近い売上規模もさることながら、米政権との深い結びつきで知られる。’80年代前半のレーガン政権発足にあたっては、社長のジョージ・シュルツが国務長官に、副社長のキャスパー・ワインバーガーが国防長官に指名されていた。
中東石油国のインフラ整備に力を発揮し、湾岸戦争後のイラク復興事業を手がけるなど常に米国政府とともにある企業だ。日本でも関空だけでなく、青森県六ヶ所村の六ヶ所再処理工場、羽田空港ターミナルビル、東京湾横断道路、アジア太平洋トレードセンターなど重要インフラ関係を次々に受注している。
だが崇仁地区は、さすがに“米国の威光”が通用するほど簡単な場所ではない。ベクテルの参入は絵に描いた餅に終わった〉(『同和のドン』250〜251ページ)
山口組五代目からの電話
山口組五代目・渡辺芳則組長と上田藤兵衞の浅からぬ縁については、本連載で繰り返し述べてきたところだ。ややこしい頼み事をされ、困惑する渡辺芳則組長から上田に直電がかかってきたことがあった。『同和のドン』には、その直電の内容が赤裸々に記されている。
〈「おい、藤兵衞よ。『親分の名前を出さんことにはアカン。日本が大変なことになる。国を救ってくれ』とか言うのやけど、そんな話さっぱりわからん。普段は、獅子身中の虫みたいな扱いを受けて叩かれてばっかりや。本当に、これをやって、社会が認めてくれるんか?」
山口組五代目の渡辺芳則から、怒り半分、困惑半分の、そんな電話が上田の携帯にかかってきたのは、1997年2月下旬だった。受けたのは京都・祇園四条の南座前の路上である。1時間も続いたという相談の内容は、次のようなものだった。
「談合のドン」と呼ばれる平島栄・西松建設相談役が、関西談合の実態を公正取引委員会に告発した。それを撤回させようと、自薦他薦のさまざまな勢力がゼネコンの意向で動いているが、多すぎて収拾がつかない。「ここは山口組組長の意向を示してもらって、交通整理をするしかない」というゼネコン筋からの申し入れがあるが、それは正しいのか――。
平島の告発は、ゼネコン業界のみならず、そこに支えられた政界や、業界と政界をつなぐ官界にも衝撃を与えた。
(略)
崇仁再開発でのベクテル体験以降、米国の対日圧力が年々高まっているのは上田も実感していた。ゼネコン談合の表面化は、米国の攻勢をさらに強めることになろう。上田は渡辺に「どう対応すべきか。政治家などの意見を聞いてみます」と断って電話を切った。相談相手は野中である。
野中は、日米摩擦、貿易協議の難しさを語りつつ、言葉を選びながらこう述べた。
「日本がひっくり返ってしまう。(平島の告発を)なんとかならんか」
上田は、談合告発が持つ意味と、それが公になったときのインパクト、日米に与える影響などを渡辺に伝えた。〉(『同和のドン』251〜252ページ)
1997年3月11日、平島は突如として告発を撤回。「告発は新しい談合組織を公正取引委員会に調べてもらうための方便」だったと苦しい“言い訳”をした。
いったい撤回までに何があったのか? 上田はどう動いたのか? 後篇ではその真相が明かされる。
・26年前「談合のドン」の告発はなぜ握りつぶされたか…山口組五代目と上田藤兵衞の連携の真相が明かされる《同和のドン秘録》
※土木談合のすべてを仕切っていたドン
「談合のドン」と呼ばれる平島栄・西松建設相談役が、関西談合の実態を公正取引委員会に告発したのは1997年2月19日のことだった。その直後、山口組五代目・渡辺芳則から上田藤兵衞のもとに電話がある。だが、その後、告発は撤回された──。
前篇「京都最大の同和地区再開発に現れた米国「CIA」は「同和のドン」に名刺を差し出した《戦後史の弩級証言》」に引き続き、闇に消えた戦後史の真相が明かされる。
〈そもそも平島栄とは何者か──。
平島は旧制商業高校を卒業後、戦中の1942年、大林組に入社する。出征し、’48年に復員すると会社に戻り、土木営業畑を歩んだ。談合担当を「業務屋」と呼ぶが、平島は’60年代には業務屋となる。他の会社の業務屋が転勤や担当替えで外れていくのに、平島は居心地がいいのか居座った。やがて平島は「ドン」となった。
土木談合の世界を仕切ることになった平島は、組織の名を「土木栄会」「清和クラブ」「ディー・エス・ケイ(DSK)」と変えていくが、「平島が仕切る談合組織」という実態は変わらない。「ドン」となる条件は、過去の経緯(受注の際の貸し借り)を知り、メンバーに不満が出ないように公平に割り振り、口が堅く、抜群の記憶力で証拠を残さない、などがあるが、そのすべての条件を平島は満たしていた。
大林組で常務になっても業務屋を続け、他社のメンバーとは親子ほどの年齢差があるので誰も逆らえない。だが、大林組内での専横が目立つようになったとして切られ、’93年、西松建設に移籍して仕切り役を継続した。
関西では政治家も官僚も口を出せない世界を築いた平島にとって、最大のプロジェクトが関西国際空港だった。1984年10月、関西国際空港株式会社が発足し、初代社長に元運輸官僚の竹内良夫が就くやいなや、平島は10名ほどのゼネコン役員を引き連れ、竹内の元でこう切り出したという。
「関西のことですから、こちらで仕切らせてもらいます」
無礼な申し出を竹内は一蹴した。だが、怒った平島らは大挙して上京し、金丸信、安倍晋太郎、藤尾正行らに陳情する。「平島が口を利けば、パーティー券が数千枚は捌ける」という実力者の怒りを、大物政治家も無視はできない。「おい、どうなってるんだ。地元の声を聞いてやってくれ」と竹内のもとに連絡が入り、業者の仕切りは平島に委ねられた。
「おっさん、もうあかんで」
その行き過ぎが告発され、公正取引委員会が動いたこともある。平島が会長を務める海上埋立土砂建設協会では、納入する空港用土砂の出荷量と価格を取り決めていた。1989年9月、公取委が排除勧告を出し、課徴金を科した。だが、平島の地位は揺るがなかった。
平島は野中にも相対している。平島のDSKには大阪に本支社を置く約120社が参加しており、ここの網をくぐることなく工事を受注することはできない。 ’90年1月、京都市で地下鉄東西線の工事が始まるとき、京都の大物政治家で談合にも通じた野中を平島も無視できなかった。平島は、’89年秋に野中のもとに挨拶に出向くが、「こちらで仕切らせてもらいます」と、そこは高飛車だったという。
関空、地下鉄、高速道路……。ビッグプロジェクトはすべて自分の前を通る快感に、いつしかタガが外れたのだろうか。平島は「ドン」の要件である公平さを失い、西松建設に有利なように取り計らうようになった。それどころか、他社の社長のクビまで飛ばしてしまった。神戸港の震災復興事業で見積り通りに落札した佐伯建設工業が「談合破りを行った」として、’96年、平島と側近たちが社長を大阪に呼んで責め立て、退任に追い込んだのだ。
「平島のおっさん、もうあかんで」
’97年1月、主要25社の談合担当者が大阪市内のホテルに集まって、平島抜きの新談合組織を立ち上げた。察知した平島は反撃に出るが果たせず、2月19日、公取委に自ら告発した。大手ゼネコンを含む155社が、談合による落札業者や受注価格等を決めていたとされる証拠(工事一覧表、担当者の氏名・役職、談合メモ)を持ち込んだのである。
超弩級の資料である。それにすべてを握る「ドン」の証言付きだ。それだけに、建設業界も官界も政界も揺らいだ。
建設省は、一連の問題が報道された3月中旬から、平島や大手ゼネコンなど約40社の幹部を呼び、事情聴取を進めた。反平島で集まった25社の新談合組織についても調べを進めた。
しかし3月11日に平島が告発を撤回。4月11日、亀井静香建設相は、記者会見で調査結果を発表し、「指摘されたような談合の事実は確認できなかった」とした。告発者である平島自身が「(提出した)受注工事一覧表に基づく公共土木工事の談合は、事実ではない」と、述べたのだからどうしようもない。だが、調査が“お手盛り”であったのも事実だろう。〉(『同和のドン』251〜252ページ)
「闇からの使者」とは何か
「談合のドン」平島栄の告発を受け、野中広務はどうやって根回しを繰り広げ、秘密裏に握り潰したのだろう。その裏には、山口組五代目・渡辺芳則組長と上田藤兵衞の巧みな連携プレイがあった。
〈平島は、’97年6月に西松建設を退任した。その後も「必要悪としての談合」について語ることはあっても、告発を撤回した理由を明かすことはなかった。ただ、「闇の世界から使者がやってきた」と漏らしたことはある。〉(『同和のドン』253ページ)
〈平島が証言を覆した「闇からの使者」とは何か。
こうした業界を揺るがすトラブルの際、業界の側に立って、自薦他薦のフィクサー、事件屋、仕事師が、「私が間に入りましょう」と、登場してくる。平島を説得できた場合の貢献度は高く、できなくとも当たり前。平島に対しても、いろんな形のアプローチが続いた。渡辺五代目への依頼は、北陸地区の山口組最高幹部によるものだった。当時はまだ談合システムのもと、捌き(地元調整)を行う暴力団とゼネコン・土建業者が密接に結びついており、この最高幹部はそうした業界に顔が広かった。
そこでゼネコンサイドの相談を受けた最高幹部は、「日本最大の暴力団組織の組長が、その“意向”を示すことで他を引かせよう」という作戦を立てた。確かに渡辺がクビを縦に振れば、それは「山口組の決定事項」となる。それに逆らう勢力はなかろう。
「そうすることに何の意味があるのか」という屈託を持った渡辺だが、国家的観点から対処を求めた上田の助言やゼネコン業界の真摯な申し入れもあり、「五代目の意向」を示した。その結果が、平島の告発取り下げだった。具体的な“手打ち”に至る交渉は、上田も知らされていないし、平島も亡くなるまで口にすることはなかった。〉(『同和のドン』256ページ)
暴力団対策法や暴力団排除条例が制定され、社会からヤクザが厳しく締め出されるようになった今となると、隔世の感があるドキュメントだ。だがかつては、ヤクザが「社会の必要悪」として有機的に機能する局面があった。
話が通らず、社会が目詰まりを起こしている場所にヤクザが手を突っこみ、目詰まりを除去する。その際、表社会と闇社会の潤滑油、接着剤として働いたのが上田藤兵衞という男だったのだ──。連載は【弩級証言】山口組五代目のトップシークレット「肝臓癌」治療が、「同和のドン」に相談された理由《手術は「怪僧」が仕切った》に続きます。
※解放運動の利権化
連載の前回《安倍元首相と写真に写る現役「同和のドン」の評伝で永田町騒然…「全国自由同和会」の結成時、幹部が挨拶した暴力団トップの秘話が凄い》に引き続き、上田の生涯を駆け足で紹介しよう。
上田藤兵衞を「同和のドン」たらしめたキーパーソンの一人は、小渕恵三内閣で官房長官を務めた大物政治家・野中広務だ。野中は、上田とツーカーの仲を築く。
〈全国の副会長、京都の会長として自民党系同和運動を進めてきた上田は、中央では自治大臣など要職を歴任した野中広務を始めとした政治家、あるいは総務庁を中心とした官僚に人脈を築き、京都でも市議、府議、歴代の市長、府知事との交流を欠かさず、パイプを年々太くしてきた。〉(『同和のドン』182ページ)
1987年当時、自民党系の全国自由同和会、社会党系の部落解放同盟、共産党系の全国部落解放運動連合会(全解連)という三種類の同和団体が別々に活動していた。部落解放同盟と全解連の対立は激しかった。なにしろ部落解放同盟は全解連を「差別者集団」と罵り、全解連は部落解放同盟を「利権暴力集団」と呼んでいたのだ。
部落解放同盟の「利権」がやり玉に挙げられるのには理由があった。1968年1月、高木文雄・大阪国税局長(後の国鉄総裁)が「同和事業については課税対象としない」と確約する。
〈部落解放同盟傘下企業の税務申告はフリーパスで認めるということであり、その後’70年2月に、国税庁長官が「同和地区納税者に対して実情に即した課税を行うように」と通達を出した(略)
「税逃れ」を容認したに等しい「7項目確認事項」によって、同和事業にも同和地区にも関係がない企業が、企業連=解放同盟周辺に集まってくるようになった。解放運動の利権化である。〉(『同和のドン』148ページ)
野中広務と上田藤兵衞が撤廃した「同和控除」
野中広務は「政治生命をかけて同和団体の税優遇を是正する」と決意する。そこで野中は、自民党系の同和団体で活動する上田藤兵衞を、部落解放同盟と話をつけるためのフィクサーとして利用するのだ。
〈野中は自治大臣時代の’94年、上田を自治大臣室に呼び、上杉部落解放同盟委員長との面談を依頼する。野中は、会談の意図を次のように説明したという。
「ここらで、同和問題を発展的に解消して、人権政策に転換するために法律を一本化したいんや」
「それに、国税庁長官通達がある限り、いつまで経っても同和問題は解消せぇへん」
上田は、突然の呼び出しと法律一本化と長官通達棚上げ論に戸惑った。
「先生、うかがっていいですか。人権政策に転換したら、そこにまだ解消していない同和問題を解消するための文言は入りますか。また、長官通達を棚上げしたら、運動団体の体力が落ちますが、どうなんですか?」
野中の返事は明快だった。
「人権法に転換することが、根本的に同和問題を解消する道筋なんや。長官通達に頼らんでも、人権法は(時限立法の地対財特法と違って)恒久的な法律やから予算はつけやすい。運動体が、時限立法にしがみついてどうする。人権政策は民主主義の根幹。この法律がなくて、どこが民主主義やな!」
上田は、その勢いに圧倒され、野中の目の前から六本木の解放同盟中央本部に電話をかけた。野中の日程に合わせて、上杉との会談をセッティングしたのだ。そこには上杉の後任委員長(1996〜98年)となる上田卓三(たくみ)元代議士が同席した。
上杉は一本化も国税庁長官通達の棚上げも了承した。〉(『同和のドン』183〜184ページ)

(上)同和問題の現状を考える連絡会議で(左隣が上杉佐一郎、その隣が上田卓三)
戦闘的な糾弾闘争によって怖れられた同和団体は、「税逃れ」「同和控除」のおかげで、さまざまな果実を手にしてきた。’99年10月に自自公連立政権が誕生すると、野中広務は国税庁と各地の税務署に「税逃れ」「同和控除」の撤廃を命令する。いびつな利権構造が、野中広務&上田藤兵衞のコンビによってとうとう破壊されたのだ。
「イトマン事件」の伊藤寿永光と許永中
上田藤兵衞は、野中広務のような表社会のドンと対等に渡り合っただけではない。裏社会のドンと対峙するときにも、上田はまるでひるむことがなかった。あの許永中を前にしてもそうだ。
〈膨張戦略の山口組と違い、京都から出ることなく盆地をガッチリと固める会津小鉄会がそうであるように、バブル期に京都は「侵される古都」となっていた。その侵食した側の代表が、在日韓国人の許永中だろう。
許は、1980年代後半から’90年代前半のバブル時代に、「裏」の権力である暴力団と、「表」の権力である有力政治家の力を使い分けながら、大企業を侵食した大物仕事師だった。〉(『同和のドン』204ページ)
住友銀行出身の河村良彦社長が立ち上げた総合商社イトマンをめぐり、地上げ屋の伊藤寿永光や許永中が「イトマン事件」を引き起こす。「3000億円が闇に消えた」と言われるキナ臭い「イトマン事件」によって、河村良彦や伊藤寿永光、許永中らは大阪地検特捜部に逮捕された。
許永中が稀代の詐欺師として暗躍する前夜の時代、許は同和事業の利権に目をつけ、ゴト師としての地歩を築く──。
(第4回後篇 バブル期に「許永中に唯一対抗できた男」がやったことがヤバすぎて…山口組五代目と山段芳春の会談の真相につづく)
バブル期に「許永中に唯一対抗できた男」がやったことがヤバすぎて…山口組五代目と山段芳春の会談の真相 につづく
・バブル期に「許永中に唯一対抗できた男」がやったことがヤバすぎて…山口組五代目と山段芳春の会談の真相(現代ビジネス 2023年2月10日)
※同和事業によって築かれた基盤
自民党中枢にもヤクザにも太いパイプをもつ許永中は、政財界と闇社会に「旋風」を巻き起こす。関西で許永中に対抗できる人間は、もはや上田藤兵衞しかいなかった。
〈伊藤寿永光の許を評する造語に「空想のディズニーランドをつくる天才」というのがある。華やかなプロジェクトを次々に立ち上げ、多くの企業、人物を巻き込み、金融機関からカネを引き出し、旋風を巻き起こすが、地道な事業実態を伴わない「空想の産物」で、プロジェクトはやがて雲散霧消。カネは溶かされ、企業も人も散り散りになる。伊藤はそれを「許永中旋風」と呼んだ。
許が、最初に基盤を築くのは同和事業によってだった。
1947年生まれの許は、大学中退後、無頼の生活を経て、東京のフィクサー大谷貴義のもとで秘書を務めて、政治家と経済界と暴力団とのトライアングルを知る。20代半ばでそれを切り上げ、大阪に戻った許は、大淀建設という土建会社を支配した。
そのうえで同和とは縁もゆかりもないものの、「在日」として「差別を受けたもの同士」という理屈で、部落解放同盟西成支部の「支部長付」という肩書を得て、同対法施行後の’70年、大阪に設立された同和建設協会(同建協)の会員となる。やがて大淀地区の同和事業を独占するようになり、予算面で2〜3割高の工事を丸投げして利益を得て、電気・ガス・上下水道といった分野にも進出した。
だが、「同和系土建屋の親父」に満足する男ではなかった。彼が京都で巻き起こした旋風により、「陰の支配者」といわれた山段芳春(さんだん・よしはる)京都自治経済協議会理事長、内田和隆・KBS京都社長、白石浩子・京都新聞社会長、福本邦雄・KBS京都社長、(略)太田清蔵【※東邦生命社長】などが巻き込まれていく。
そんな彼らがこぞって頼った相手こそ、上田藤兵衞だった。
この頃、許は無敵の力を誇った。「同和」と「在日」というマイノリティに基盤を持ち、暴力団社会には西にも東にも兄弟分がいる。大阪ではフィクサー・野村周史、東京では「政界動物園の切符切り」という存在の福本邦雄を通じて、竹下登、渡辺美智雄といった大物政治家にもパイプがある。
京都でこの許に対抗できる唯一の存在が、「政」「官」「財」「暴」に人脈を持つ上田だった。〉(『同和のドン』205〜206ページ)
京都のフィクサー・山段芳春が頼った相手
前出の山段芳春(京都自治経済協議会理事長)とは、京都では名うてのフィクサーだ。〈人脈と情報の力で、市政、金融、財界、公共工事、マスコミなどのあらゆる分野を掌握した。影響力は京都に限られていたものの、京都府警OBの就職を斡旋することで警察権力とのパイプを保持していたし、終戦直後からの暴力団との付き合いは、その後も続いていた。〉(『同和のドン』209ページ)
大物ヤクザとツーカーである山段芳春の存在を、許永中はまるで怖れもしない。
〈京都に根を張り、怖いものなしの山段に、ストレートで攻め込むのが許の凄さだった。許は、イザとなれば、180センチ100キロの体をかけて凄む。肉体的言語を持つ者は、やはり強い。自伝『海峡に立つ』には、1984年春、山段がひとりでいる時間帯の午前9時45分を狙って急襲する様子が描かれている。
「誰の紹介ねんな?」と尋ねる山段に、「誰の紹介もおまへん。KBS京都の内田のことで話があってきただけですわ」と、許が答え、緊迫する。
〈「藤田〔許は夫人の藤田姓を名乗ることがあった〕はん。アンタ、ワシのことをわかって来たいうけど、チョット無茶と違うか?」
「いや、理事長。無茶は理事長さんですがな。話がつかんかったら、私はこのまま手ぶらでは帰らんだけの話です。簡単な話ですがな」
完全な脅しである。山段は間を置くようにお茶を手に取り、ゆっくりと飲んだ〉(『海峡に立つ』)
山段は、許に呑まれた。というより、自分の老練なテクニックで、味方にすればいいと思ったのかも知れない。〉(『同和のドン』210ページ)
強引な許永中に取りこまれかけた山段芳春は、上田藤兵衞に助けを求める。そこで許永中対策のために、神戸刑務所時代の“同窓生”である山口組五代目・渡辺芳則との会談を上田が取りつけたのだ。
〈山段は、「京都の枠」に収まりきらない許に不安を覚えた。牽制のために山口組五代目の力を借りようと頼ったのが、上田だった。
「山段さんの顧問弁護士で、私も親しくしている先生から電話がかかってきたんです。『すまんけど、一度、神戸(渡辺五代目)に会わしてくれへんか』ということやった。そこで私がセッティングして、先生と山段さん、それに秘書の女性を連れて行きました。神戸の山手にある、渡辺さんがよく使う天ぷら屋です。貸し切りだったんですが、私と先生と秘書は別テーブル。山段さんと渡辺さんは3時間以上、二人で話し込みました」(上田)
京都における山口組対策、許永中対策を相談したのだろう。だが、上田は話には加わらなかった。当事者になるつもりがなかったからだ。〉(『同和のドン』211ページ)
上田と親しいことが「保険」となった
前出の東邦生命社長・太田清蔵のことを、許永中は著書の中で「恩人」と称している。上田藤兵衞は、その太田清蔵とも昵懇の仲だった。
〈山科の町内に散髪屋があり、そこの娘が美容グループ「ヤマノビューティメイト」の山野彰英と結婚した。その山野が支配権を握っていたのが日本レースで、その後見人が太田だった。代理人を通じて上田に連絡があり、上田は京都ブライトンホテルで太田に会った。
シベリア開発、朝鮮半島へのトンネル掘削といったスケールの大きな話を次々に繰り出す太田に圧倒されるが、最後に持ち出した「お願い事」が、「日本レースの経営を任せたい」だった。これも断ったが、突っ走る許の防波堤、諫(いさ)め役を期待されたのだろう。
丁重に断ったものの、上田と太田の関係は継続した。上田は太田のスケールに惹かれた若手実業家が組織する「21の会」に参加し、「平安京21の会」の副会長に就いた。
太田は、「太田クリニック」と自称するほど企業再生に力を入れ、それゆえトラブルが発生することもあった。そこから逃れようと太田夫妻が、京都で正月の1週間を過ごしたことがある。上田はスケジュールを立てて、下にも置かぬもてなしをした。
内田【※和隆】、伊藤【※寿永光】といったイトマン事件の主役たちに対する対応もそうだ。一流どころで歓待し、祇園で遊ばせはするが、具体的に相談を引き受けることはない。実際のところ彼らも、上田と親しいことが「保険」になればいい。〉(『同和のドン』211〜212ページ)
おいしい話が持ちかけられようが、パクッと食いつきもしない。政財界、そして裏社会で棲息する癖だらけの住人と絶妙な距離感を保ち、許永中のような怪物とも対峙しながら、上田藤兵衞は「同和のドン」への階段を駆け上がっていくのだ――。
(第5回 政界と同和を結ぶパイプライン「野中広務事務所」を、同和のドンが訪れた日《隠語は「八条口」だった》【完売店続出の書の中身】につづく)
・政界と同和を結ぶパイプライン「野中広務事務所」を、同和のドンが訪れた日《隠語は「八条口」だった》(現代ビジネス 2023年2月11日)
※警戒心を露わに見せた野中
野中広務といえば、99年に自自公連立政権を立ち上げ、自民党の長期安定政権を樹立した重要人物だ。その大物政治家と上田藤兵衞は、長きにわたって政界と同和を結ぶパイプラインとなった。ただし野中と上田が、最初から昵懇の仲だったわけではない。野中は当初、上田の存在に警戒感を抱いていたようだ。
〈野中が有力代議士になるのに合わせて、自民党系同和団体を引っ張る上田との関係が深くなった。だが、はじめは警戒感を露わに見せた。最初の出会いは、上田がまだ全国自由同和会に加わる前、全日本同和会で青年部長だったときである。府内上下水道などのインフラを握る京都府副知事の野中に陳情に行ったが、深い人間関係を結ぶには至らなかったという。
「その後、全国自由同和会が堀内(俊夫・自民党地域改善対策特別委員会委員長)先生の根回しで立ち上がり、約束通り、我々は自民党の友好団体として認知され、全日本同和会に代わって意見聴取団体となります。
全国大会は自民党本部ホールで行われ、中央本部も自民党政務調査会の配慮で、党本部のある平河町に置かれました。堀内先生が清和会に所属していたこともあり、我々は派閥領袖の安倍晋太郎先生への報告と挨拶を欠かさんかった。野中先生にすれば、はじめは他の派閥の同和利権と思いはったかも知れません」(上田)
実際は全国自由同和会として特定派閥に肩入れすることなどなく、安倍晋太郎と並ぶ大物の竹下登・経世会会長への接触も重ね、パーティーなどでは挨拶、手紙などでの報告や陳情も欠かさなかった。
やがて竹下事務所から「京都の窓口は野中事務所で」という形で振られたことが、野中と上田の“仕切り直し”となって関係が深まっていく。〉(『同和のドン』233〜234ページ)
「手を引け。工事には触らんとけ!」
京都府議会議員を12年間、さらに京都府副知事の要職を務めるうちに、野中広務は京都の土木・建設利権を一手に仕切るようになる。というよりも、「カネと票」を押さえる建設業者と握らなければ、自民党の保守政治家として中央政界に進出することなどとてもできなかった。
〈野中は、’83年12月、2度目の衆院選に勝利し、’86年7月に3選を果たす頃には、「京都の建設業者は押さえた」と、豪語するまでになっていた。
その布石として、野中は建設の族議員となっていった。族議員となることは、政治家のステップアップには欠かせない。ここで行政と業界に睨(にら)みを利かせられる存在となってから、さらに業界の範囲を広げ、有力政治家となっていく――これが中選挙区時代の自民党政治家のセオリーだった。
(略)
京都選出の有力政治家として、京都駅近くの八条に事務所を設け、やがて野中事務所は「八条口」と呼ばれるようになった。そこには公共工事のあらゆる情報が入ってくる。その情報を求め、場合によっては口利きを期待した関西のゼネコン幹部や京都の建設業者が日参するようになった。だが、’94年6月に自治相となる前の一時期、野中がこう切れたことがあるという。
「やってられへん。(事務所の秘書に)おい、いっさい、(談合から)手を引け。(公共)工事には触らんとけ!」〉(『同和のドン』239〜240ページ)
「藤兵衞さん出番です!」
典型的な建設族議員だった野中広務は嫌気がさし、事務所にやってくる建設業者のねちっこいロビイングをいきなり排除してしまった。ここで登場するのがフィクサー上田藤兵衞だ。
〈上田がこう振り返る。
「野中先生の名前を使って工事の受注を仕掛けたり、野中事務所の名刺で利権漁りをする者がいたりして、もうイヤになったみたいです。
当然(土木・建設の)現場は混乱します。ゼネコン関係者などが20人ぐらい集まって打開策を話し合った。といっても、野中先生に翻意してもらうしかない。『藤兵衞さん出番です!』とか言われておだてられ、私が先生に会うことになりました」
ゼネコンや地元建設業者では露骨な陳情になり、野中がますますヘソを曲げる可能性がある。野中は、有力政治家として公共工事の調整作業を続けることに疲れていたようだ。だから業者に会いたがらない。そこで直接、事業をしているわけではない上田に白羽の矢が立ったということだろう。
「永田町・議員会館近くのホテルにみんなが集まりました。意見をまとめ、改善点はなにか、先生への要望はなにか、など5項目ぐらいをまとめて紙にして、議員会館の先生の部屋に向かったんですわ。『藤兵衞さん、きてもろたら困る。あまりに(建設業者の)行儀が悪いし、ワシ、体がもたへん』と、先生は言いはった」
上田は、こう返した。
「先生、引くのはいいけど、現場が混乱しとる。どうしたらいいんや」
以降、談合が成立しないような面倒な案件は「八条口」には持ち込まず、「野中先生に迷惑をかけない形」での調整は続き、上田が「八条口」に行く回数は増えた。〉(『同和のドン』240〜241ページ)
上田は、京都では信じられない水先案内人さえつとめている。それについては記事のつづき《京都の同和地区再開発に現れた米国「CIA」は「同和のドン」に名刺を差し出した《戦後史の弩級証言》》に続こう。
・京都の同和地区再開発に現れた米国「CIA」は「同和のドン」に名刺を差し出した《戦後史の弩級証言》(現代ビジネス 2023年2月12日)
※1985年に設立された崇仁協議会のトップ
JR京都駅の東に位置する崇仁地区は、南北に河原町通が、東西に塩小路通が貫いており、京阪七条駅にも近い交通至便の土地である。面積は約27万4000メートルと広大だ。
2019年時点の人口は約1300人。寂れる一方だったこの街は、2023年に京都市立芸術大学が移転する計画が立ち上がり、いま工事が急ピッチで進み、大きく変わろうとしている。
崇仁地区には、被差別部落の住民によって設立された日本で唯一の銀行である柳原銀行(1927年に倒産)の建物が、京都市登録有形文化財に指定されて残されており、この地区の歴史・文化・生活を伝える「柳原銀行記念資料館」となっている。
同館が伝えるところでは、室町時代(16世紀前半)に六条河原が処刑場となり、河原者が刑務を行っていたところから崇仁地区の歴史は始まる。やがて皮革産業などを起こしながら人口を増やしていった。差別小説として糾弾を受けた雑誌『オール・ロマンス』に掲載された「特殊部落」の舞台となったことが証明するように、住環境は悪く、世帯収入は少なかった。
’69年から始まった同和対策事業で市営住宅などが建設されて住環境は整ったものの、地区外の差別意識は変わらず、昭和50年代に入って、「成長から完全に取り残された街」となっていた。
地区の一部の材木町を中心に、再開発計画が立ち上がったのは、昭和50年代後半に入ってからのことだ。準備会を経て、1985(昭和60)年、崇仁協議会が設立された。この協議会の初代会長に就いたのが、全日本同和会京都府連合会副会長で洛南支部長の高谷泰三だった。高谷とは、上田藤兵衞が「プリンスホテル事件」(連載第1回参照)で襲撃されたときに現場に居合わせた人物だ。
総務庁キャリアからの依頼
高谷泰三は、経済成長から取り残されてきた被差別部落・崇仁地区を、再開発によって豊かな場所にしようと構想する。だがその試みは、ドルをふんだんに握るアメリカ資本の横やりによって頓挫した。そこで上田藤兵衞の出番だ。
〈崇仁協議会の地上げ資金は、サラ金「武富士」から出ていた。潤沢な資金を利用した地上げが行われた。そのため資金を巡って暴力団組員らによる複数の射殺事件が発生した。さらに不動産業者に対する銃撃・襲撃事件も起きたため、「崇仁・材木町」は「魔窟」と呼ばれ、同和地区再開発に悪いイメージを与えてしまった。
驚くべきことに、この複雑な地に、同和問題の複雑さを知らない米資本が国策として乗り出し、しかも上田が「水先案内人」を依頼されるという希有な出来事があった。
「1988年に同和問題を所管する総務庁のキャリア官僚から、依頼がありました。行くと大会議室が用意されていて、外国人が30人ぐらいいたでしょうか。『崇仁地区の再開発をしたい。ついては解放同盟を含めた運動体をまとめてほしい』というのです。名刺は、全員、関空ターミナルを受注したベクテルのものでした。ただもう一枚、名刺を持っている人もいて、それはCIA(米中央情報局)の名刺でした」
ベクテル――米カリフォルニア州に本社を置く総合建設業者。3兆円近い売上規模もさることながら、米政権との深い結びつきで知られる。’80年代前半のレーガン政権発足にあたっては、社長のジョージ・シュルツが国務長官に、副社長のキャスパー・ワインバーガーが国防長官に指名されていた。
中東石油国のインフラ整備に力を発揮し、湾岸戦争後のイラク復興事業を手がけるなど常に米国政府とともにある企業だ。日本でも関空だけでなく、青森県六ヶ所村の六ヶ所再処理工場、羽田空港ターミナルビル、東京湾横断道路、アジア太平洋トレードセンターなど重要インフラ関係を次々に受注している。
だが崇仁地区は、さすがに“米国の威光”が通用するほど簡単な場所ではない。ベクテルの参入は絵に描いた餅に終わった〉(『同和のドン』250〜251ページ)
山口組五代目からの電話
山口組五代目・渡辺芳則組長と上田藤兵衞の浅からぬ縁については、本連載で繰り返し述べてきたところだ。ややこしい頼み事をされ、困惑する渡辺芳則組長から上田に直電がかかってきたことがあった。『同和のドン』には、その直電の内容が赤裸々に記されている。
〈「おい、藤兵衞よ。『親分の名前を出さんことにはアカン。日本が大変なことになる。国を救ってくれ』とか言うのやけど、そんな話さっぱりわからん。普段は、獅子身中の虫みたいな扱いを受けて叩かれてばっかりや。本当に、これをやって、社会が認めてくれるんか?」
山口組五代目の渡辺芳則から、怒り半分、困惑半分の、そんな電話が上田の携帯にかかってきたのは、1997年2月下旬だった。受けたのは京都・祇園四条の南座前の路上である。1時間も続いたという相談の内容は、次のようなものだった。
「談合のドン」と呼ばれる平島栄・西松建設相談役が、関西談合の実態を公正取引委員会に告発した。それを撤回させようと、自薦他薦のさまざまな勢力がゼネコンの意向で動いているが、多すぎて収拾がつかない。「ここは山口組組長の意向を示してもらって、交通整理をするしかない」というゼネコン筋からの申し入れがあるが、それは正しいのか――。
平島の告発は、ゼネコン業界のみならず、そこに支えられた政界や、業界と政界をつなぐ官界にも衝撃を与えた。
(略)
崇仁再開発でのベクテル体験以降、米国の対日圧力が年々高まっているのは上田も実感していた。ゼネコン談合の表面化は、米国の攻勢をさらに強めることになろう。上田は渡辺に「どう対応すべきか。政治家などの意見を聞いてみます」と断って電話を切った。相談相手は野中である。
野中は、日米摩擦、貿易協議の難しさを語りつつ、言葉を選びながらこう述べた。
「日本がひっくり返ってしまう。(平島の告発を)なんとかならんか」
上田は、談合告発が持つ意味と、それが公になったときのインパクト、日米に与える影響などを渡辺に伝えた。〉(『同和のドン』251〜252ページ)
1997年3月11日、平島は突如として告発を撤回。「告発は新しい談合組織を公正取引委員会に調べてもらうための方便」だったと苦しい“言い訳”をした。
いったい撤回までに何があったのか? 上田はどう動いたのか? 後篇ではその真相が明かされる。
・26年前「談合のドン」の告発はなぜ握りつぶされたか…山口組五代目と上田藤兵衞の連携の真相が明かされる《同和のドン秘録》
※土木談合のすべてを仕切っていたドン
「談合のドン」と呼ばれる平島栄・西松建設相談役が、関西談合の実態を公正取引委員会に告発したのは1997年2月19日のことだった。その直後、山口組五代目・渡辺芳則から上田藤兵衞のもとに電話がある。だが、その後、告発は撤回された──。
前篇「京都最大の同和地区再開発に現れた米国「CIA」は「同和のドン」に名刺を差し出した《戦後史の弩級証言》」に引き続き、闇に消えた戦後史の真相が明かされる。
〈そもそも平島栄とは何者か──。
平島は旧制商業高校を卒業後、戦中の1942年、大林組に入社する。出征し、’48年に復員すると会社に戻り、土木営業畑を歩んだ。談合担当を「業務屋」と呼ぶが、平島は’60年代には業務屋となる。他の会社の業務屋が転勤や担当替えで外れていくのに、平島は居心地がいいのか居座った。やがて平島は「ドン」となった。
土木談合の世界を仕切ることになった平島は、組織の名を「土木栄会」「清和クラブ」「ディー・エス・ケイ(DSK)」と変えていくが、「平島が仕切る談合組織」という実態は変わらない。「ドン」となる条件は、過去の経緯(受注の際の貸し借り)を知り、メンバーに不満が出ないように公平に割り振り、口が堅く、抜群の記憶力で証拠を残さない、などがあるが、そのすべての条件を平島は満たしていた。
大林組で常務になっても業務屋を続け、他社のメンバーとは親子ほどの年齢差があるので誰も逆らえない。だが、大林組内での専横が目立つようになったとして切られ、’93年、西松建設に移籍して仕切り役を継続した。
関西では政治家も官僚も口を出せない世界を築いた平島にとって、最大のプロジェクトが関西国際空港だった。1984年10月、関西国際空港株式会社が発足し、初代社長に元運輸官僚の竹内良夫が就くやいなや、平島は10名ほどのゼネコン役員を引き連れ、竹内の元でこう切り出したという。
「関西のことですから、こちらで仕切らせてもらいます」
無礼な申し出を竹内は一蹴した。だが、怒った平島らは大挙して上京し、金丸信、安倍晋太郎、藤尾正行らに陳情する。「平島が口を利けば、パーティー券が数千枚は捌ける」という実力者の怒りを、大物政治家も無視はできない。「おい、どうなってるんだ。地元の声を聞いてやってくれ」と竹内のもとに連絡が入り、業者の仕切りは平島に委ねられた。
「おっさん、もうあかんで」
その行き過ぎが告発され、公正取引委員会が動いたこともある。平島が会長を務める海上埋立土砂建設協会では、納入する空港用土砂の出荷量と価格を取り決めていた。1989年9月、公取委が排除勧告を出し、課徴金を科した。だが、平島の地位は揺るがなかった。
平島は野中にも相対している。平島のDSKには大阪に本支社を置く約120社が参加しており、ここの網をくぐることなく工事を受注することはできない。 ’90年1月、京都市で地下鉄東西線の工事が始まるとき、京都の大物政治家で談合にも通じた野中を平島も無視できなかった。平島は、’89年秋に野中のもとに挨拶に出向くが、「こちらで仕切らせてもらいます」と、そこは高飛車だったという。
関空、地下鉄、高速道路……。ビッグプロジェクトはすべて自分の前を通る快感に、いつしかタガが外れたのだろうか。平島は「ドン」の要件である公平さを失い、西松建設に有利なように取り計らうようになった。それどころか、他社の社長のクビまで飛ばしてしまった。神戸港の震災復興事業で見積り通りに落札した佐伯建設工業が「談合破りを行った」として、’96年、平島と側近たちが社長を大阪に呼んで責め立て、退任に追い込んだのだ。
「平島のおっさん、もうあかんで」
’97年1月、主要25社の談合担当者が大阪市内のホテルに集まって、平島抜きの新談合組織を立ち上げた。察知した平島は反撃に出るが果たせず、2月19日、公取委に自ら告発した。大手ゼネコンを含む155社が、談合による落札業者や受注価格等を決めていたとされる証拠(工事一覧表、担当者の氏名・役職、談合メモ)を持ち込んだのである。
超弩級の資料である。それにすべてを握る「ドン」の証言付きだ。それだけに、建設業界も官界も政界も揺らいだ。
建設省は、一連の問題が報道された3月中旬から、平島や大手ゼネコンなど約40社の幹部を呼び、事情聴取を進めた。反平島で集まった25社の新談合組織についても調べを進めた。
しかし3月11日に平島が告発を撤回。4月11日、亀井静香建設相は、記者会見で調査結果を発表し、「指摘されたような談合の事実は確認できなかった」とした。告発者である平島自身が「(提出した)受注工事一覧表に基づく公共土木工事の談合は、事実ではない」と、述べたのだからどうしようもない。だが、調査が“お手盛り”であったのも事実だろう。〉(『同和のドン』251〜252ページ)
「闇からの使者」とは何か
「談合のドン」平島栄の告発を受け、野中広務はどうやって根回しを繰り広げ、秘密裏に握り潰したのだろう。その裏には、山口組五代目・渡辺芳則組長と上田藤兵衞の巧みな連携プレイがあった。
〈平島は、’97年6月に西松建設を退任した。その後も「必要悪としての談合」について語ることはあっても、告発を撤回した理由を明かすことはなかった。ただ、「闇の世界から使者がやってきた」と漏らしたことはある。〉(『同和のドン』253ページ)
〈平島が証言を覆した「闇からの使者」とは何か。
こうした業界を揺るがすトラブルの際、業界の側に立って、自薦他薦のフィクサー、事件屋、仕事師が、「私が間に入りましょう」と、登場してくる。平島を説得できた場合の貢献度は高く、できなくとも当たり前。平島に対しても、いろんな形のアプローチが続いた。渡辺五代目への依頼は、北陸地区の山口組最高幹部によるものだった。当時はまだ談合システムのもと、捌き(地元調整)を行う暴力団とゼネコン・土建業者が密接に結びついており、この最高幹部はそうした業界に顔が広かった。
そこでゼネコンサイドの相談を受けた最高幹部は、「日本最大の暴力団組織の組長が、その“意向”を示すことで他を引かせよう」という作戦を立てた。確かに渡辺がクビを縦に振れば、それは「山口組の決定事項」となる。それに逆らう勢力はなかろう。
「そうすることに何の意味があるのか」という屈託を持った渡辺だが、国家的観点から対処を求めた上田の助言やゼネコン業界の真摯な申し入れもあり、「五代目の意向」を示した。その結果が、平島の告発取り下げだった。具体的な“手打ち”に至る交渉は、上田も知らされていないし、平島も亡くなるまで口にすることはなかった。〉(『同和のドン』256ページ)
暴力団対策法や暴力団排除条例が制定され、社会からヤクザが厳しく締め出されるようになった今となると、隔世の感があるドキュメントだ。だがかつては、ヤクザが「社会の必要悪」として有機的に機能する局面があった。
話が通らず、社会が目詰まりを起こしている場所にヤクザが手を突っこみ、目詰まりを除去する。その際、表社会と闇社会の潤滑油、接着剤として働いたのが上田藤兵衞という男だったのだ──。連載は【弩級証言】山口組五代目のトップシークレット「肝臓癌」治療が、「同和のドン」に相談された理由《手術は「怪僧」が仕切った》に続きます。