・上田藤兵衞が語る「山口組五代目・渡辺芳則」との出会いが壮絶すぎた《接点は神戸刑務所だった》

※「1500人のヤクザが潰しに来る」という怪情報

第2回後篇《総理大臣・佐藤栄作肝いりで設立された部落解放団体「全日本同和会」草創期の記憶》の最後でも述べたが、上田藤兵衞が「同和のドン」と呼ばれるゆえんは、あの五代目山口組組長・渡辺芳則とツーカーの関係であることに尽きる。

自民党系の同和団体「全日本同和会」が結成されたのは、60年安保闘争真っ盛りの1960年のことだ。「全日本同和会」から離脱した上田は、1986年に別の同和団体「全国自由同和会」(現「自由同和会」)を立ち上げる。

設立の準備が進むにつれて、メンバーの自宅や事務所にチャカ(拳銃)が撃ちこまれるようになった。任侠界の住人によって、露骨な団体潰しが始まったのだ。

〈結成大会前夜の様子を上田が回想する。

「全日本同和会の県連幹部のなかには、暴力団と密接な関係を持つ人が少なくなかった。兄が暴力団の組長で弟が同和会の県連幹部、といったのはザラです。

全国自由同和会の設立気運が高まったのは’85年やけど、’86年に入ると新団体メンバーの自宅や事務所へのガラス割り、ドア撃ち(拳銃を発射することによる威嚇)が頻発するようになった。その極めつきとして、山口組の直参(直系組長)で、大阪市内最大級の勢力を誇る組織が1500人を動員し、大会を潰しに掛かるという情報が入ったんです」

上田が頼ったのは、山口組若頭として直参をまとめる立場の渡辺だった。渡辺にこう申し入れたという。

「全国自由同和会は、ただの分派活動とは違うんです。自民党が政府と一体となって後押ししている。機動隊も500人が動員されています。ヤクザの抗争と違うので、そんなところを潰しにかかると、逆に山口組にとってもいいことない。それを(襲撃を準備している組織の組長に)伝えてほしい」〉(『同和のドン』133〜134ページ)

渡辺芳則に仲介を頼むと、「全国自由同和会」結成大会前夜、上田藤兵衞に直接電話がかかってきた。渡辺はこう言ったそうだ。

「話はついた。心配なく(結成大会を)開催せいや」(『同和のドン』133ページ)


刑務所の「同窓生」

上田藤兵衞と渡辺芳則は、塀の中で知己を得た。二人は神戸刑務所の“同窓生”なのだ。

〈収容人数2000人の大規模刑務所だった。第一から第四までの4つの工場棟があり、木工、印刷、洋裁、金属、革工、自動車整備などを行う。懲役6年の上田は、渡辺より早く入って、渡辺より4ヵ月遅れの’81年10月に出所した。

「神戸刑務所には、約10人の職業訓練生という特別枠の受刑者がいて、私はそれに選抜されていました。(浪速)少年院のときもそうやったけど、先生(刑務官)の仕事(入所者の管理)を手伝う分、自由が利く。特待生みたいなもんで、なんでか選ばれるんやね。IQが高いんかな(笑)」(上田)

「特別枠」という特権を生かして、上田は渡辺と同じ工場に配属されるように工作した。後に山口組五代目となった渡辺は、精悍な面構えの写真が実話誌などを飾るようになり、その容姿はよく知られている。


身長は170センチに満たないが、体重は80キロ近く、肩幅が広く胸板の厚いガッシリした体躯である。ボディビルで体を鍛え、ゴルフ、水上バイク、登山とスポーツ好きで、歴史書も好むという。だが、基本的に直参以上の幹部にマスコミとの接触を禁じている山口組は、幹部らの肉声や人柄が世間に伝わることはない。〉(『同和のドン』135〜136ページ)

『同和のドン』には、“同窓生”でしか知りえない渡辺芳則の人品骨柄が記されている。

〈渡辺芳則とはどんな人物だったのか。

「フランクで飾らない人。その第一印象は、最後まで変わらなかった。刑務所のなかには、渡辺さんより大物の組長は何人かいた。みんな格好つけて大物ぶって、胸をそらして歩きよる。でも、話してみると中身がない。渡辺さんは、まだ山口組の直参にはなってなかったけど二次団体の若頭で、すでに山健組には5000人からの組員がいた。それを率いているんやからモノが違う。刑務官も一目置きよったね」

上田が渡辺と同じ工場にいたのは1年ぐらい。二人は製造ラインが問題なく流れるかどうかを監視する検査係のようなものだったという。特別なことを話すわけではないのに、話せばすぐに時間が経ち、会話がストレス解消になったというから、気が合ったのだろう。〉(『同和のドン』136〜137ページ)


渡辺芳則のはなむけの言葉

神戸刑務所からシャバに出てくると、母・摩耶子の勧めによって上田は「高雄」という名前を改名した。江戸創業の材木商「若藤」(わかとう)の初代・若狭屋藤兵衞の名前を襲名することにしたのだ。

名を改め、シャバで再スタートを切ろうとしていた上田藤兵衞に、任侠の世界からお座敷がかかる。山口組最大組織である山健組の組長となった渡辺芳則から、直接スカウトされたのだ。

〈山健組を継ぐまでに山口組最大の5000人組織にしたのは渡辺の手腕だった。巨大化の理由は、配下が多くなればひとりひとりの負担は少なくなり、組織のために体を張った組員の面倒を手厚くできるというものだった。渡辺は10人、20人と仲間を糾合できる上田にも、山健入りを期待していただろう。

だが上田は「藤兵衞襲名の理由と母の思い」を説明し、「暴力団とは別の世界で生きていきたい」と渡辺に伝えた。「そうか。その世界で男になれよ」と渡辺は答えたという。

人生の後半生を、どの世界で生きていくかを考え抜き、上田が出した答えが同和運動だった。〉(『同和のドン』138ページ)

記事の後篇《【独自】安倍元首相と写真に映る現役「同和のドン」の評伝で永田町騒然…「全国自由同和会」の結成時、幹部が挨拶した暴力団トップの秘話が凄い》では、その全国自由同和会(現・自由同和会)の結成メンバーとなった上田の行動に焦点を当てよう。


・安倍元首相と写真に写る現役「同和のドン」の評伝で永田町騒然…「全国自由同和会」の結成時、幹部が挨拶した暴力団トップの秘話が凄い(現代ビジネス 2023年2月9日)

写真は2022年6月、亡くなる1ヵ月前の安倍総理とともに写る上田氏だ。



(上)自民党政経文化懇談会(2022年6月)で、安倍晋三元首相とともに

※会津小鉄会の四代目・高山登久太郎への挨拶

連載の前篇《上田藤兵衞が語る「山口組五代目・渡辺芳則」との出会いが壮絶すぎた《接点は神戸刑務所だった》》で、上田藤兵衞が「全日本同和会」の運動から離れ、新たな同和団体を結成した経緯に触れた。

各地に散在する「全日本同和会」の地方組織は、地元の大物ヤクザと紐づいてツーカーの間柄だ。新団体を立ち上げるからには、それぞれのヤクザの親分への挨拶と入念な根回しが必要だった。

記事の前篇《上田藤兵衞が語る「山口組五代目・渡辺芳則」との出会いが壮絶すぎた《接点は神戸刑務所だった》》もお読み下さい。
〈(上田藤兵衞は)新団体設立に動くのだが、そうたやすい問題ではなかった。全日本同和会は、暴力団も含めた圧倒的な力を持っていたからだ。

「1986年というたら、バブル経済が真っ盛りで、暴力団がまだまだ“認知”された存在として、政治経済に根を張っていた時代です。全日本同和会の各県連にも顧問の形で地元ヤクザが関わっていた。京都府連合会も会津小鉄会の高山登久太郎(四代目会長)、図越利次(五代目会長=利一・三代目会長の実子)といった大物が顧問でいて、その了解をもらわなならん。組織をつくりました、明日からスタートです、という単純な話じゃない」(上田)

(略)
結局「我々が出ていって、新しい組織を勝手につくる」という形ならいいのではないか、という話になった。決意が揺るがないように全員が連判状に押印した。細々とした作業は、上田に一任されたという。


その作業のなかに暴力団対応もあった。

「全日本同和会での4年間の活動を通じて感じたのは、暴力団とは『相互不可侵』の関係をつくらなあかんということです。地方の県連幹部のなかには、暴力団とズブズブの関係となっている人がいて、それが不祥事につながる。また、そうした体質が、『同和はカネになる』といってエセ同和を呼び寄せる。当時、全国には300とも400ともいわれるエセ同和団体があって、国民から呆れられていました」(上田)〉(『同和のドン』164〜166ページ)


「日本青年社」初代会長が発した一言

〈同和運動に暴力団が侵食している状態で、いきなり関係を遮断できるものではない。上田はまず、「全日本同和会から離れます」と、高山登久太郎会長に伝えて了解を取った。そのうえでこう説明し、理解を得たという。

「(新設の全国自由同和会は)政府と密接な関係を持っている団体ゆえに、暴力団とは距離を置かねばなりません。その代わりに(在日韓国人である)高山さんの立場と思いを受けた在日差別の解消も含んだ運動にします」

東の暴力団も同じである。都市センターホテルでの会議で、上田らが京都での結成大会指名を断ったという話が、暴力団筋の事情通の間に流れたようだ。

1週間もしないうちに関東に太いパイプを持つ高坂貞夫から電話が入った。高坂は会津小鉄会傘下の三次団体組長で、1983年、上田がエセ同和の尾崎清光に簀巻きにされた際、助けてくれた山科の先輩である。

「すまんけどな、会(お)うてほしい人がおんねやけど」と言い、「その人は、東京で右翼団体を率いる小林楠扶さんや」と説明した。

尾崎との騒動の過程で住吉会・浜本政吉の知己を得た上田は、小林が右翼の世界でも任侠の世界でも大物であることは承知していた。住吉会では住吉一家小林会会長として名を馳せ、右翼運動では’61年、楠(くすのき)皇道隊を立ち上げ、’69年に同隊を日本青年社とし、’86年の段階では日本最大級の行動右翼団体となっていた。

「上京して、都内のホテルで会うたんやけど、当たり障りのない会話の後で『私らも協力しますので、よろしくお願いします』と小林さんが言わはった。

この言葉にざわついた。運動に介入してくるつもりやな、と。そこでやんわり断ったんです。『我々も考えながらやり始めたところです。今、意見をまとめているところです。今日のご主旨は理解できますので、ひとつ我々の実勢に任せてほしいんです』と小林さんに申し上げた」(上田)〉(『同和のドン』166〜167ページ)

住吉一家の大物ヤクザである小林楠扶に、上田藤兵衞はなぜここまで強く出られたのだろう。山口組若頭(組長に次ぐナンバー2の立場)まで出世していた渡辺芳則の後ろ盾があったおかげにほかならない。


山口組五代目から突き返された札束

ところで渡辺芳則本人は、上田藤兵衞という人物をどのように評価していたのだろう。『同和のドン』には、渡辺の側近だった現役のヤクザの語りが記録されている。

〈「藤兵衞さんのことを企業舎弟のようにいう人がいますが、それは違います。親分はカタギとして扱っていたし、大事にしてました。名前はいえませんが、そんな人は他にも何人かいた。藤兵衞さんには、『お前、頑張ってやれよ。何か困ったことがあったら、わしが何とかしたるから』というようなことはいうてますわ。親分はそんな人です」

こう語るのは、渡辺が二代目山健組組長時代から側近を務めた山健組系今倉組二代目の原三郎である。
(略)
「親分の時代は、『山口組組長の威光』がどこでも通る時代です。親分がクビを縦に振るだけで何億というカネが動くこともある。でも、それに簡単に手を出す人じゃない。ゼネコン内の揉め事を収めたときには『ゼネコンが、何十億とか持って来る』という話がありましたが、親分は『いらん』いうて。

でも、組のもんや企業舎弟のときは違いますよ。『おまえ、組の看板で稼いだんなら、置いていかんかい!』となる。そこは親分なりのケジメです」

渡辺の留守中、上田は何度か本家を訪れ、原に現金を預けている。しかし渡辺はそれを受け取らなかったという。

「私の記憶では二回ありますね。何かのことでお世話したんでしょう。中は見ていないんですが、数千万円でしょうか。『親分、上田さんが置いていかはった』というと、『返しとけ』と。上田さんに言うと困った顔をしはって。だから、『親分は刀剣や画に興味があるから、それにしたらどないです』と言うと、立派な刀や掛け軸の美人画を持ってきはった。二人の本当の仲は私らにはわかりませんが、招かれて京都にはよく行ってたし、気がおうたんでしょうね」〉(『同和のドン』169〜170ページ)



(上)松尾正信・全日本同和会第二代会長と(京都府本部青年部長時代)


こうして上田藤兵衞は、カタギの同和運動活動家でありながら、ヤクザのトップ・オブ・トップと五分の付き合いをしていったのだ。

さらに上田はどのようにして地歩を固めていったか。そこには政治家との連携が欠かせない。

第4回《野中広務とツーカーで「同和のドン」となった上田藤兵衞とは何者か…「同和団体の税金優遇」タブーを壊した日》につづきます。