・「同和のドン」はいかにして誕生したか…話題騒然の「上田藤兵衞」本に登場する暴力団幹部の実名を明かす《人権と暴力の戦後史》

※二束三文の田畑を20〜30倍の値で売りさばく
上田藤兵衞が「同和のドン」へと成り上がるまでの過程は、一筋縄ではいかない。任侠界の住人、自民党の政治家、右翼活動家など多彩な面々が蠢く中、上田藤兵衞は立志伝中の人物として次第に名を馳せていく。



(上)元自民党幹事長・野中広務氏と映る上田氏


京都・山科の被差別部落に生まれた上田は、500坪もの敷地にある自宅で裕福な暮らしを送っていた。ところが中学生時代、家業の倒産によって上田家は500坪から四畳半一間の貧乏生活へと転落する。

〈倒産で家庭は崩壊していた。その鬱屈を外で発散し、暴れ者になっていた10代後半の上田にとって救いだったのは、隣家で事業を営む林成夫(なるお)の存在だった。
(略)

「私より20歳ぐらい年上で、『タカちゃん(36歳で藤兵衞を継ぐまでは高雄)』と呼んで可愛がってくれました。高校を辞めて、ぶらぶらしていた私に、仕事のたいへんさと楽しさを教えてくれました」(上田)
(略)
高校退学の後、林商事に出入りするようになっていた上田は、林社長の「土地マジック」を何度も見せつけられ驚嘆したという。

「16歳のときでした。私の先輩が、女と駆け落ちするというので、田畑の権利書と実印を持ってきて、『売ってくれ』という。私が、林商事に出入りしているのを知っていたからです。林社長にその話をしたら、『タカちゃん、いっぺん返しとき』と言う。ところが、また持ってきよった。社長は『じゃ、任しとき』と言う。親の同意書を取らせたうえで、農業委員会に工作して地目を変更し、宅地にして売却したんです。タダみたいな田畑が、瞬時にして20倍、30倍で、右から左に売れる。凄いマジックやね。16歳の子供にしたら考えられない配当ももらったし、『世の中、おもしろいもんやな』と、つくづく思うたんです」〉(『同和のドン』96〜99ページ)

この林成夫なる兄貴分との出会いによって、のちに上田藤兵衞はヤクザを刺し殺し、刑務所に服役することになるのだが――。


ヤクザ500人VS朝鮮人700人の大乱闘

〈狭い盆地の山科に、当時は約500人ものヤクザがひしめいていたという。第1章でプリンスホテル事件の決着をつけた高坂貞夫【※連載第1回前篇参照】も、この地で篠原会系高坂組を率いていた。高坂と親しい山本英造は同じ篠原会系列の幹部で、上田家の近くで「山菊」という仕出し屋を経営し、そこで賭場も開いていた。

林社長は権利関係が複雑な駅前で不動産開発を手掛け、麻雀店を経営し、パチンコの景品買いに至るまで事業を幅広く展開し、トラブルも絶えなかった。そのため処理係が必要だった。いわゆる「ケツ持ち」である。

林はそれを「女親分」として知られた山崎キミに頼った。山崎は、1960年10月、二代目中島会会長を襲名した図越利一の実姉である。図越は、襲名の翌月、中島会を中核に、中川組、篠原会、北新会、いろは会、寺村組、宮川会、二代目吉村組などを糾合し、中島連合会を組織して会長に就き、文字通り、「京都一の親分」となった。〉(『同和のドン』99〜100ページ)


二代目中島会会長・図越利一は、京都府警七条署VS在日朝鮮人の肉弾戦に兵隊を送りこみ、七条署に助太刀する。深作欣二や笠原和夫が銀幕で活写した任侠界の活劇は、絵空事のフィクションではなかったのだ。

〈戦勝国、中立国のいずれにも属さず、戦時中には日本の統治下にあった韓国、台湾人など「第三国人」と呼ばれる人々のなかには、終戦直後、敗戦国日本に、それまでの憤懣(ふんまん)をぶつけるように乱暴狼藉を働く者がいた。取り締まるべきは警察だが、まだ装備人員とも揃っていない。彼らは、トラックなどで大挙して警察に押しかけ、逮捕された仲間を強引に連れ去るようなこともやってのけた。

警察に協力してそれに立ち向かったのは、神戸・山口組、新宿・関東尾津組など全国各地の任侠組織だった。京都で、図越が配下を率いて戦ったのが七条署事件である。終戦翌年の’46年1月、七条署署長の意を受けて図越の家にやってきた旧知の警部補が、「親父さん、助けてほしいんですわ」と、頭を下げた。

京都駅構内でヤミ米の買い出し犯の朝鮮人の男を現行犯逮捕しようとしたところ、男は朝鮮人連盟京都府本部出張所に逃げ込んだ。これが七条署と朝鮮人連盟との騒動に発展した。1月24日、朝鮮人連盟は七条署に大挙して押し寄せ、責任を追及すると通告。人数的にとても太刀打ちできないと、図越に助っ人を願い出たのだった。

「やりまひょ。わしらも、あれらにはハラをすえかねとりますさかい」

こう返事をした図越は、配下に助っ人を含めて約500人を組織。相手の朝鮮人連盟は700人体制だった。七条署前でぶつかり、互いに日本刀、木刀、♯鳶口(とびぐち)、丸太ん棒などで激しく戦った。進駐軍のMP(米国陸軍の憲兵)が登場し、ようやく混乱は収まったものの、死傷者多数。七条署事件は、終戦直後の警察の無力と、暴力団の「それなりの役割」を世に示した。〉(『同和のドン』100〜101ページ)


高山登久太郎から可愛がられた少年時代

1960年代前半、三代目・田岡一雄組長が率いる山口組は任侠稼業だけでなく、土建業や港湾荷役業など正業でもおおいに伸長する。「山口組興行部」(のちに「神戸芸能社」と改称)は美空ひばりや「バタヤン」(田端義夫)を売り出した。さらに田岡組長自身が日本プロレス協会副会長を務め、力道山が一世を風靡する。



(上)旧大石内蔵助邸部材を使った上田家の玄関


青春時代の上田藤兵衞にとって、ヤクザはすぐ隣で棲息する身近な住人だった。

〈暴力団のせめぎ合いが活発だった’60年代前半、高校に行かなかった上田は、山科盆地の駅前の一角を根城にしていた林商事の手伝いをしながら、仲間を5人、10人と集め、暴れ回っていた。上田が回想する。

「林社長は図越親分や山崎キミさんのところに出入りして挨拶していましたが、私が一緒についていくことはありませんでした。高山(登久太郎〈とくたろう〉・会津小鉄会四代目)さんは、万和建設という砂利採取・運搬などの会社を経営していたので、よく林商事に来て、『社長、仕事ないか?』と、気さくに営業していました。私にも気軽に声をかけてくれましたが、足袋をはいてマツダの三輪自動車に乗っていた姿を思い出します」

賭場は勢いを失っていた。代わってパチンコが流行り、その景品買いは暴力団のシノギ(稼ぎ)だった。売防法後も旧遊郭では売春が行われ、競馬、競輪、競艇のノミ屋など非合法部門を担うのも暴力団だった。そうした暴力団と近い環境にいた上田は、高坂貞夫、山本英造、高山登久太郎など、ひとまわり以上年上のヤクザ者に可愛がられた。〉(『同和のドン』106〜107ページ)

上田自身は現役の組員ではなかったものの、傷害や暴行事件が積み重なるにつれて、とうとう浪速少年院にブチこまれてしまう。1964年、19歳のときのことであった。満期でネンショーから出院すると、上田藤兵衞はヤクザの事務所に呼び出された。

〈ある中島連合会系組織が、上田を下京区の事務所に呼び出した。この組には、少年院に入る前、暴力団とはどんなところかと、少し顔を出したことがあった。

「1ヵ月ぐらいでしたが、暴力団の生態に触れて、『こんなところおるもんやない』と思うとったんです。都合良く、人を使おうと思うとる集団です。その後少年院に行っとる間、連絡があるわけでもなし、もう縁は切れたと思うとった。

呼び出されて事務所に行くと、『盃事』の準備をしていて、『親分と盃をせぇ』というわけです。『俺はヤクザに興味はない』と、言った。『なんやと!』と、よってたかってボコボコです。メガネの鼻パッドいうんですか、鼻にあたるやつ。あそこが眉間にめり込んで血が噴き出した。『それで終わりかい!』と、強がりをいうて。また殴られて放り出された」〉(『同和のドン』108ページ)

こうして上田藤兵衞は、ヤクザのサカズキを突き返してカタギにとどまったのだ。第2回の後篇《【話題沸騰・同和のドン】総理大臣・佐藤栄作肝いりで設立された部落解放団体「全日本同和会」草創期の記憶《戦後史の死角がここにある》》に移ろう。


・総理大臣・佐藤栄作肝いりで設立された部落解放団体「全日本同和会」草創期の記憶《戦後史の死角がここにある》(現代ビジネス 2023年2月8日)

※秋田犬に刺身包丁で報復

記事の前篇《「同和のドン」はいかにして誕生したか…話題騒然の「上田藤兵衞」本に登場する暴力団幹部の実名を明かす》に引き続き、上田藤兵衞が有名になる前の前半生を紹介しよう。

上田藤兵衞が身を置いた部落解放団体「全日本同和会」は、1960年5月に佐藤栄作首相の肝煎りで設立された。佐藤首相から口説かれ、初代会長を引き受けたのは柳井政雄だ。柳井は山口県の被差別部落に生まれ、かつて任侠の世界に身を置いていた。

〈柳井政雄は1908(明治41)年、山口県吉敷郡に生まれた。父は牛馬商を営んでおり、政雄は四男だったこともあり、高等小学校を中退すると、兄を頼って京都に出て、料理屋で住み込みの小僧となる。

京都では、早くも「無頼の萌芽」を見せている。世話をしていたシェパードが、向かいの洋品店で飼っている秋田犬とケンカになった。シェパードが噛まれて深い傷を負うと、店に飛び込み刺身包丁を握りしめ、秋田犬に“報復”した。


店には居づらくなり、かといって家には帰れない。体ひとつあれば働ける山口県の宇部炭鉱に流れ、そこで働くようになる。気の荒い炭鉱に無頼の血が合ったのか、やがて暴力団の世界に入り、背中に桜吹雪の入れ墨を入れて配下を率いるようになった。小月(おづき)競馬場(下関市)に乗り込み、抗争相手の馬を日本刀で叩き切ったときは、地元紙に大きく報じられたという。
(略)

24歳で出所する際、30台もの車の出迎えを受けながら、「ごくろうさん。俺は、今日限り、足を洗う」と宣言して山口市に戻った。1932(昭和7)年のことである。
(略)
1946年10月、山口市小郡大正町に金物、日用雑貨などを商う小郡商事をオープンする。同社の繊維・洋服部門を任せたのは、戦地から戻ってきた弟だった。〉(『同和のドン』114〜115ページ)


ゴロツキの不良を束ねる人材派遣業

柳井政雄が、後に首相となる佐藤栄作氏の肝煎りで「全日本同和会」を立ち上げたころ、上田藤兵衞はまだ本格的に部落解放運動にのめりこんではいなかった。生活は荒れ果てていた。

〈「20歳で少年院を出て、最初にやったのは人材派遣です。昔、ウチの会社(若藤)に出入りしていた建設会社の社長さんが、市内で住宅開発をやっていて、そこにぶらぶらしている不良を20人ほど送り込みました。人夫出しです。

その頃は、山科では少しは知られた存在で、周りにいろんな連中が集まってきた。それらにまとめて仕事を与える。カネ儲けになるし仲間も食えるし、一緒に遊べる。でも、周りが放っとかない。『あいつら生意気や』というんで、他の不良グループや暴力団とケンカになることもありました」


仲間同士のイザコザも絶えない。また、許しがたい罪を犯す人間もいた。上田グループの新入りが、女性を輪姦した事件があった。女性の親に対処を求められた際は、本人に言い含めたうえで処罰のリンチ。それでコトを収めるつもりだったが、その男が警察に被害届を出したため、「体を躱(かわ)す(山科を出る)」ことを余儀なくされた。そうした生活に疲れていたこともあろう。上田はしばらく東京に居を定めることにした。

「京都におられんようになったんは事実やけど、環境を変えたいというのもあったし、東京で一旗あげたいという思いもあった。仕事はなんぼでもある。

まともに経歴なんか聞かない時代です。百科事典のセールスをやりつつ、水道管工事の現場にも出ました。結構、稼いだんですよ。人と話をするのは好きやし、肉体労働も苦にならなかった。

でも、やっぱり東京では流れ者です。本名は名乗らず、上田に原をつけて『上田原』にしたりね(笑)。用事で京都に戻るとき、大津からトンネルを抜けて山科に出ると、『ああ、俺は、何してんのやろ』『山科から逃げてどないするんや』という思いにかられた。それで、山科に戻ったんです」〉(『同和のドン』120〜121ページ)


ヤクザの動脈に突き刺さった小刀

頭山満の玄洋社に魅力を感じた上田藤兵衞は、玄洋社関西のOBに面会して「玄洋社京都」を結成しようと構想する。そんなころ、ヤクザ者との抗争に巻きこまれて刑務所にブチこまれてしまうのだ。

〈上田グループのメンバーが、飲食店でのいざこざから本チャン(現役)の暴力団に拉致されたことがある。救出のために、上田は仲間と組事務所に押しかけるが、「ヤクザの出入り」として通報され、出動した京都府警に凶器準備集合罪で逮捕された。トランクのなかに日本刀が入っていたからだ。

その後、保釈されたものの、長い公判の末、1973年の年初、上田は懲役10月の実刑判決を受け、同年8月から山科の京都刑務所で服役することになった。有罪判決は刀剣所有者の上田のみだった。他のメンバーは無罪だったから、リーダーとしての面目は果たしたことになる。

1974年5月に出所した。早朝にもかかわらず、山科の友人知人が300人も出迎えてくれ、「地元の温かさ」を実感した。〉(『同和のドン』126〜127ページ)

京都刑務所から出所すると、地元の京都・山科は不穏な空気に包まれていた。兄貴分である林成夫の縄張り(二代目中島会会長・図越利一のシマ)に他のヤクザ組織が侵入し、喫茶店や麻雀店を開き、賭場まで開帳していたのだ。兄貴分の林成夫が拉致されたと聞いた上田藤兵衞は、本職のヤクザがひしめく麻雀店に乗りこむ。

〈「(幹部に)話をしても高飛車にものをいうて、話にならんのです。あるとき、林社長が麻雀店で軟禁状態にあると聞いて、ここは俺しかおらへん。裸になって話さにゃしゃあないと思うて、住んでいた近くのアパートから麻雀店に行ったんです」

このとき、上田はヤクザ相手だからと、刃渡り5センチの小刀を腰に差していった。「なんか落ち着くものが欲しかった」というのだが、それが結果的に未必の故意での殺人罪を形成し、懲役6年の実刑判決につながった。

「麻雀屋は11時で終わるんやけど、私は10時頃から店に行って、テレビを見ていたんですわ。11時過ぎても、店を閉めようと誰もいわん。緊張感のある異様な空気のなかで、5分か10分経って、私は社長に『帰りましょう』というたんです。

『うん、うん』と、返事があったんやけど、(幹部が)バーンと、立ち上がって『コラ、どこ来てものいうとんねん!』と怒鳴った。それでこっちも、『なんじゃ!』と、怒鳴り返した。すると、配下が5人ばかりいたんですが、(幹部が)彼らに『殺してまえ!』という声と同時に、みんなで襲いかかってきたんです」

麻雀台が空間を防ぎ、いっせいに飛びかかれないのが上田に幸いした。が、木刀で殴られた上田は、思わず小刀を抜いて、幹部の懐に飛び込んだ。これが運悪く、動脈に突き刺さって血が噴き出した。みんな腰を抜かすなか「タカちゃん、後はやるから早く行け!」という林の声で我に返り、店を飛び出したという。〉(『同和のドン』126〜128ページ)

懲役6年の判決を食らった上田は、神戸刑務所にブチこまれる。ここで思わぬ出会いがあった。山口組系山健組内健竜会会長・渡辺芳則との邂逅だ。

刑務所で出会った当時、渡辺芳則はまだ三次団体の組長にすぎなかった。渡辺はその後、二代目山健組組長、山口組若頭、さらには五代目山口組組長に就任する。渡辺との邂逅は、ヤクザと同和運動の関係性にエポックメイキングな化学反応をもたらすことになる。第3回《上田藤兵衞が語る「山口組五代目・渡辺芳則」との出会い《接点は神戸刑務所だった》ではそこから明かされる。