・岸田文雄と写真におさまり、山口組五代目とも盟友だった「同和のドン」上田藤兵衞が初めて口を開いた(現代ビジネス 2023年2月7日)

伊藤 博敏 ジャーナリスト

※永田町(政界)、霞が関(官界)、経済界、任侠界を縦横無尽に飛び回る部落解放運動家──通称「同和のドン」と呼ばれるフィクサーがいる。1945年生まれ。現在も存命の上田藤兵衞(うえだ・とうべえ)氏(「自由同和会」創立メンバー)だ。

いよいよ2月9日に、骨太ノンフィクション『同和のドン 上田藤兵衞 「人権」と「暴力」の戦後史』が発売される。ジャーナリスト伊藤博敏氏が、上田氏の激しく蠱惑的なパーソナルヒストリーに迫る。

350ページ超えの重厚な本書には、自民党の歴代総理大臣経験者や経済人、広域暴力団の親分衆の実名がこれでもかと躍る。マスメディアでは報じられないアンダーグラウンドな戦後日本史に、読者は瞠目するはずだ。(以下、文中敬称略)。




※品川プリンスホテルに集結した数百人の反社会的勢力

京都で同和運動に従事していた上田藤兵衞が、なぜ「同和のドン」と恐れられるまで力を伸ばしたのだろう。決定的な分岐点となったのが、1983年10月に勃発した「品川プリンスホテル事件」だ。

「全日本同和会」京都府連合会で青年部長を務めていた上田藤兵衞は、先輩の高谷泰三(「全日本同和会」洛南支部長)から「兄が鎌倉の霊園事業から追い出された」と窮状を聞かされる。高谷の兄が購入したガンダーラの石仏が贋物であり、使途不明金もあるというのが表向きの理由だ。

鎌倉の生臭坊主のもとへ抗議に乗りこむと、「地上げの帝王」早坂太吉から電話がかかってきて、品川のプリンスホテルに呼び出された。

〈改札口を出た瞬間、素人ではない異様な集団に監視されていた。

「すぐに目についたのがモヒカン刈りの男。私らに、ねめつけるような視線を送ってくる。関西ではそんな風体の人間はいてへん。他にも明らかに半グレ風なのが、あちこちにいて監視してる。改札を出た瞬間、それがわかりました。信号を渡ると、もっと壮絶な風景が拡がっていて、ホテルの入り口まで100メートルぐらいでしょうか、左右に分かれて数百人の恐いのが、ズラーッと並んで立っとる。ヤクザの襲名披露や放免祝いのときのような光景です。

それを見た瞬間、私以外の人間は、『これはアカン。やめとこ!』と、震え上がっとる。私も震えとるんやけど、高谷に『こっちが被害者なんやから。話するだけはしような』といい、『俺についてきてくれ』と、後ろは振り返らずに進んでいった。そら、ヤバいとは思いましたよ。でも、白昼ですよ。まして一流ホテル。だけど、ロビーに入ったら早坂ともうひとりがいて、机を前に置いて座っている。周りをガタイのいいのが取り囲み、ロビーを占拠している格好です」〉(『同和のドン』21〜22ページ)


「伝説のヤクザ」住吉会最高顧問・浜本政吉

異様な雰囲気に包まれた品プリに乗りこむと、そこには「地上げの帝王」早坂太吉だけでなく、「エセ同和」として知られる尾崎清光という人物がいた。

「返事もらいにきたんやけど、これなんですか……」と上田藤兵衞が文句をつけると、尾崎から「なに〜、このどチンピラが!」と怒鳴られた。テーブルを飛び越えて上田が先制攻撃を仕掛けるも、そこで上田の記憶は途切れる。上田が目覚めた場所はリムジンの中。ロープで体を簀巻(すま)きにされていた。

〈「早坂の声で目が覚めました。自動車電話でいろいろな話をしとる。反撃の機会はないかと考えている間に、誰かの電話で車中の雰囲気が変わった。早坂が、『ハイ! ハイ!』とかしこまって返事をしとる。それが浜本政吉さんでした」〉(『同和のドン』24ページ)

浜本政吉とは広域暴力団・住吉会の最高顧問、「伝説のヤクザ」と恐れられる男だ。

〈車を走らせていた早坂にかかってきた浜本の電話は、「至急、赤坂のハマ・エンタープライズに連れてこい!」というものだった。上田が続ける。

「電話でガラッと雰囲気が変わり、いきなりUターンしました。で、ロープも解かれて、浜本さんのところに連れていかれた。浜本さんがネクタイを締めながらやってきて、『てめぇら、東京へ来て何やってんだよ!』と、怒鳴られた。『これから(永田町のキャピトル)東急ホテルに行って、話つけんだよ』と言う。急かされて、何が何やらわからないまま、若い衆に送られてホテルに行った」〉(『同和のドン』27ページ)


会津小鉄会・高坂貞夫からかかってきた直電

住吉会の最高顧問・浜本政吉の水先案内によってキャピトル東急ホテルに出向くと、京都をシマとする広域暴力団・会津小鉄会幹部の高坂貞夫から電話がかかってきた。上田藤兵衞と高坂貞夫はお互いが親の代から親交があり、遠戚でもあった。

〈「高坂さんは家が近所で、子供の頃から知っていて、『高坂のおっさん』と呼んでいました。その人が『なんもいわんとワシに任せてくれ』『手打ちだけでもしてくれ』と言う。そう言われてもね。『ワシの問題違うんやから、高谷の問題なんやから、ちゃんとハッキリさせなあかん』と、そこは言うた。でも、結局、尾崎の事務所で手打ちをすることになった」〉(『同和のドン』28ページ)

高坂貞夫が調停役を買って出たおかげで、「品川プリンスホテル事件」の手打ち式がなされる。「エセ同和」尾崎清光から袋叩きにされ、簀巻きにまでされたのは実に腹立たしかったものの、上田藤兵衞は手打ち式の提案を呑んだ。

この事件をきっかけとして、京都同和団体の支部幹部に過ぎなかった上田が、東西の広域暴力団に「触るとうるさい」と認知される存在になったのだ。



(上)安倍晋三元首相と写る上田氏


役所に乗りこみ恫喝する「エセ同和」の手口

上田藤兵衞が尾崎清光というゴロツキから暴行を受け、ロープで簀巻(すま)きにされて拉致されたエピソードを先ほどご紹介した。「エセ同和」と揶揄された尾崎とは、いったいどういう素行の人物だったのだろう。

〈全日本同和会を経て日本同和清光会を立ち上げた尾崎には、運動への思いも被差別部落民への思いも、同和行政への不満もない。尾崎がやっていたのは、同和の名を利用した恐喝行為、それ以上でも以下でもなかった。夜は一晩で何百万円ものカネを高級クラブに投じ、シティホテルの部屋を借り切り、好みの若いホステスを「お持ち返り」。宝飾類や高級時計を身につけ、「歩く3億円」と揶揄される私生活は、俗なバブル紳士と同じで、特に論じる必要はない。

指摘すべきは、尾崎がカネを手にする手口である。ここには、同和利権を生む「怯(ひる)む行政」の原型がある。

尾崎に付き合わされ、“恐喝”の現場に立ち会った弁護士の小林霊光は、「ワンパターンではあるが、人間の最も弱いところをつくのが尾崎の手口だった」と振り返る。

「『先生、ちょっと付き合ってくれよ』と頼まれて、何回か一緒に役所に行ったことがあるよ。あの野郎は、建設省(現国土交通省)や厚生省(現厚生労働省)など許認可関係の局長の所に、案内なしでズカズカと入っていっちゃうんだ。それで、局長に命じて、『オイ! どこそこの誰に電話しろ』という。相手が出ると、怒鳴りまくる。『このポンコツ野郎! いつ出来んだ。早く出せ!』といった調子だよ。局長室からの電話じゃ逃げられないからな。それで市街化調整区域なんかを外させる。一挙に地価が5倍、10倍になるという寸法さ」

小林はこう証言する。白昼堂々の恐喝行為がどうして許されるのか。なによりキャリアの局長クラスが、なぜ尾崎の訪問を許すのか。

「許すも許さないも、奥さんを完全に落とすのさ。旦那が出掛けている日中の午前中なんかに、奥さんに電話する。『尾崎といいます。いつも旦那さんにはお世話になってます』と、丁寧に話し始める。すると、仕事関係だと思って相手も聞くわな。その後、『ところで、オタクのお嬢さんはかわいいですね。○○小学校に通って、今、何年生。ただ、通学路のあのあたりは車の往来がひどいから気をつけた方がいいですよ』とかね。そりゃ、相手はびびるよ。個人情報をすべて掴まれている、しかも子供。旦那が帰ると、『アナタ、なんとかしてよ!』となる。そんな単純で、汚く、でも効果的な手口だった」〉(『同和のドン』37〜38ページ)



(上)野中広務、古賀誠両氏と写る上田氏


サイレンサー付きの拳銃で暗殺

なお「プリンスホテル事件」から3ヵ月後の1984年1月、尾崎清光はヤクザ映画さながらの襲撃を受けてこの世を去った。

〈糖尿病治療のために入院していた東京女子医科大学病院5階の特別室で、側近が運んできた500万円を数えている最中、カーキ色の作業着を着てハンチングを被った3人の男が乱入した。尾崎と側近をカベに向かって立たせると、サイレンサー付きの拳銃で尾崎を撃ち、倒れた尾崎の背中に、ひとりが馬乗りとなってトドメのナイフを突き刺した。男たちは散らばったカネには目もくれず退散。その間約20秒のプロの手口だったという。〉(『同和のドン』23〜24ページ)

捜査は迷宮入りし、時効を迎えてもなお犯人は見つかっていない。

記事後篇《自由同和会の京都トップ・上田藤兵衞の告白本が戦後史を書き換えてヤバすぎる件…イトマン事件とを引き起こした闇社会の住人たち》に続きます。



(上)岸田文雄首相と上田氏


・自由同和会の京都トップ・上田藤兵衞の告白本が戦後史を書き換えてヤバすぎる件…イトマン事件とを引き起こした闇社会の住人たち


※東京佐川急便事件につながる点と線

前回の連載《【独自】岸田文雄と写真におさまり、山口組五代目とも盟友だった「同和のドン」上田藤兵衞が初めて口を開いた》で、上田藤兵衞が尾崎清光というゴロツキから暴行を受け、ロープで簀巻(すま)きにされて拉致されたエピソードをご紹介した。

「エセ同和」尾崎清光と「地上げの帝王」早坂太吉、そして住吉会最高顧問の浜本政吉が蠢く「プリンスホテル事件」が、イトマン事件や東京佐川急便事件、そして山一抗争につながるとは、当時は誰も知る由もなかった──。

〈1982年10月、東京・虎ノ門にある建て替え前のホテルオークラ5階の和風レストラン「山里」に6人の男たちが集まった。ある物件の売却話が大筋でまとまり、固い話は抜きのなごやかな昼食会だった。

メンバーは、右翼団体主宰者の豊田一夫、平和相互銀行監査役の伊坂重昭、伊坂の社外秘書役的役割の対馬邦雄、会津小鉄会幹部の高坂貞夫、大阪市に本社を置く不動産業・広洋社長の岸広文、および岸の関係者。

ある物件とは、神戸市北区八多町(はたちょう)屏風にある土地のこと。後に事件化し、「屏風の土地」と呼ばれた。平和相銀の子会社・太平洋クラブがゴルフ場用地として取得していたものの、開発のメドがつかないため、売却先を探していた。

伊坂の意を受けた対馬は、こうした難しい物件(土地は市街化調整区域内)の処理に長けた豊田に相談し、豊田は面識のある京都の高坂に依頼した。その高坂が連れてきた買い手が岸である。

話はトントン拍子に進み、昼食会を経て、11月に契約が交わされる。太平洋クラブから広洋と、その関係のサン・グリーン(尼崎市)への売却価格は約60億円だった。この売買に際し、平和相銀が売却代金をはるかに上回る約116億円を融資していたとして、東京地検特捜部は’86年7月、平和相銀の伊坂ら「4人組」と呼ばれていた経営陣を逮捕した。〉(『同和のドン』40〜41ページ)


「竹下5億円、佐藤3億円、伊坂1億円」

1979年6月、平和相互銀行創業者の小宮山英蔵が死去した。すると監査役の伊坂重昭ら「4人組」は、経営陣から小宮山家を追い出し、「4人組」によって平和相互銀行を乗っ取ってしまおうとクーデターを画策する。

〈それ【※平和相互銀行「4人組」によるクーデター】を阻止しようとした小宮山家は、33%の持ち株を、旧川崎財閥の資産管理会社・川崎定徳(ていとく)の佐藤茂社長に譲渡する。その資金を提供したのが住友銀行系商事会社のイトマンだった。

同社の河村良彦社長は、住友銀行の「天皇」といわれた磯田一郎会長に引き立てられ、旧制商業高校卒ながら常務に出世、業績不振のイトマンに送り込まれて社長になっていた。「向こう傷を恐れるな」という強気の経営で知られる磯田は、103店舗を持つ平和相銀を傘下に収めることで、東京への本格進出を果たしたかった。

33%もの株を佐藤に握られて、伊坂は焦る。佐藤に会談を申し込み、何度も話し合いを重ねるが、佐藤は「小宮山家の意向を尊重したい」と、にべもない。そこに救世主として現れたのが八重洲画廊の真部(まなべ)俊生(としなり)で、伊坂にこう申し入れた。


「私が所有している金屏風(蒔絵(まきえ)時代絵巻)を40億円で買ってくれれば、佐藤さんからの株の買い戻しに協力しましょう」

そして、背広のポケットから手帳を取り出し、〈竹下5億円、佐藤3億円、伊坂1億円〉と書かれたメモ書きを見せ、こう付け加えたという。

「株はキレイ事では戻ってきません。こういうカネの処理は私がうまくやります」〉(『同和のドン』42ページ)


「竹下登の裏ガネ」を揉み消した「闇社会の守護神」

政治家への裏ガネ工作のため、芸術品の売買を装って煙幕を張る手法が興味深い。絵画の売買によって、どうやって億単位の裏ガネをこしらえるのか。『同和のドン』で明かされる、赤裸々な裏ガネ作りの手法を紹介しよう。

〈当時、絵画を利用した政治献金が、“裏献金”として流行っていた。絵画には定価がなく、売り手と買い手の合意で決まる。そこに政界に通じた画商が介在する。例えば、売り手が10億円で仕入れた絵画を買い手が20億円で買う。“浮いた”10億円を、政治家を含む関係者で分けるのである。
(中略)
当時、特捜検事として捜査した田中森一(もりかず)は、退官後、弁護士となるが、石橋産業事件という特捜案件で逮捕され、服役の後、『反転』(幻冬舎)という半ば“贖罪(しょくざい)”の自伝を著した。田中は、30万部のベストセラーとなった『反転』のなかで、内幕を赤裸々に語っている。

〈〔1986年7月の伊坂ら逮捕の後〕いつ、政界に切り込んでいくのか、現場の検事たちは期待で胸が膨らんだ。東京拘置所で取り調べを担当する検事同士で、捜査の方向がどこに向かうのか、話していた。やはり注目されていたのは「青木メモ」である。(中略)

そんなとき、ある同僚検事からこう耳打ちされたのである。

「実はこのあいだ、部長に呼ばれてね。あのメモのことは忘れろ、と言うんだ」〉

言葉通り、「竹下5億円」を捜査することはなかった。竹下とは、当時、蔵相を務めていた竹下登のこと。そして「青木メモ」とは、真部が伊坂に見せた分配メモのことで、竹下の秘書である青木伊平が作成したとされていた。4人組逮捕の1ヵ月後、検察は捜査終了を宣言。その2ヵ月後の’86年10月、平和相銀は住友銀行に吸収合併された。

田中は、〈俺たちは、まるで住銀のために捜査をしてきたみたいだな〉という同僚検事の言葉を紹介、〈かくいう私もそのひとりだ〉と打ち明けている。〉(『同和のドン』42〜44ページ)


暗躍した稲川会二代目・石井進会長

刑務所から出所した稲川会二代目の石井進会長は、東京佐川急便の渡辺広康社長に「これからはカタギとして仕事をしたい」と申し出る。渡辺の全面的な後ろ盾によって設立された「稲川会経済部」が、日本経済を裏側から動かしていくのだ。

〈平和相銀事件の後処理に関与したのが、稲川会二代目会長・石井進である。稲川会は、住吉会と並ぶ関東の広域暴力団で、初代・稲川聖城(せいじょう)が熱海に創立、東京はもちろん神奈川、静岡方面に強い。その二代目会長の石井が平和相銀に関与したのは、川崎定徳の佐藤茂との関係によるもので、その結果、石井の事業は膨らみ、東京佐川急便事件に連動する。
(中略)
4900億円もの莫大なカネを東京佐川急便から流出させた大型経済事件の幕開けは、’84年暮れ、東京・築地の料亭での二人の男の会談だった。長身、白髪で、おだやかな表情のなかにも目に鋭さのある男は石井進。もうひとりの丸顔で髪をオールバックにした物腰の柔らかい男は、東京佐川急便の渡辺広康社長である。賭博行為等で6年間服役、出所したばかりの石井を、旧知の渡辺がねぎらう宴席だった。
(中略)
「本当にカタギの仕事をやりたいんですね」

暴力団の看板、つまり“力”を使わずに事業をするつもりなのかと聞いたのである。

「もちろんです」

石井は短くこう答えたという。

渡辺の決断は早かった。年が明けて間もない’85年2月、東京佐川の全面的な支援のもと、マスコミから後に、「稲川会経済部」と呼ばれる北祥産業が、東京都千代田区に設立された。〉(『同和のドン』46〜47ページ)


「褒め殺し」に悩める竹下登

〈東京佐川が、北祥産業を始めとする稲川会系企業に保証した資金総額は、渡辺元社長が特別背任容疑で逮捕される’92年2月までに約1000億円に達していた。稲川会系企業だけでなく、早乙女潤元常務が実権を握っていた早乙女系企業、渡辺の社外側近といわれた松沢泰生の平和堂グループ系、その他企業群も合わせて、東京佐川の融資保証額は4900億円に達していた。

野放図な融資保証は、東京佐川の「実利」でもあった。融資保証の際、最大10%のキックバックがもたらされるわけで、それが佐川急便の政界工作の原資になった。融資保証が打ち出の小槌となって、東京佐川から正常な経理感覚を奪った。〉(『同和のドン』48〜ページ)

東京佐川急便の渡辺広康社長は、バブル最盛期の1980年代終わりに「政」と「暴」をつなぐ接着剤の役割を果たした。佐川の渡辺社長が前出の石井進(稲川会二代目会長)と連携し、「竹下登・自民党総裁誕生」を脅かす右翼団体をピタリと黙らせたのだ。

〈’87年夏、5年の長きにわたった中曽根政権が交代の時期を迎え、安倍晋太郎、竹下登、宮沢喜一の「安・竹・宮」の三人が争っていた最中、竹下にとっては、まことにありがたくない“援軍”が四国から上京した。日本皇民党という右翼団体で、「竹下新総裁を実現しよう!」と、街宣車でがなり立てた。褒めて評判を落とす「褒め殺し」である。

皇民党を率いるのは稲本虎翁(とらおう)。憂慮した竹下は、収拾にあたろうとしたが誰を立ててもうまくいかない。そこに登場したのが石井だった。

金丸が渡辺に相談すると、渡辺が事業パートナーとなっていた石井を頼った。この種のモメごとでは“顔”がものをいう。

その直前、山口組と一和会の「山一抗争」の終結に力を発揮した稲川会二代目会長・石井の名は、暴力団社会に鳴り響いていた。石井の登場に、皇民党はピタリと矛を収めた。〉(『同和のドン』49ページ)

連載第2回「「同和のドン」はいかにして誕生したか…話題騒然の「上田藤兵衞」本に登場する暴力団幹部の実名を明かす《人権と暴力の戦後史》」に続きます。