・「風呂ナシ物件が若者に人気」報道の先にある「恐ろしい地獄絵図」 自己責任化・個人化がさらに進む(現代ビジネス 2023年2月12日)
真鍋 厚
※「若者に風呂なし物件が人気」は本当か?
最近「若者に風呂なし物件が人気」といった趣旨の報道が物議を醸しました。
ほぼ同時期に複数のメディアが似たような記事を発信したことが直接のきっかけですが、若者の貧困問題が根っこにあるにもかかわらず、それを考慮しないで1つの文化、ファッションのように片付けていることに対する非難や疑問の声が、それこそ若者を中心に湧き起こりました。昨年末に海外メディアが、日本で「三畳一間」の狭小物件のニーズが高まっていると指摘したことなどもこれに影響しているようです。
筆者はアメリカ発のミニマリズムが日本において生存主義(サバイバリズム)の色彩を強めていることについて、これまでさまざまな媒体で語ったり、書いたりしてきました。モノを極限まで減らすことや、住空間をコンパクトにするミニマリズム、シンプルライフの流行が、先行きが不透明で転落のリスクに脅かされた過酷な時代状況と無縁ではないことが浮かび上がってきたからです。
「風呂なし物件」や狭小物件が一部の若者たちから歓迎されているという情報は、例えそれがデータとして正しいものであったとしても、「そもそも経済的な問題が背後にあるのではないか」といった憶測が多くの人々から寄せられたことから分かるように、選択肢が限られた中での前向きな適応に過ぎない可能性を見過ごしかねません。この視点を欠いていたことがニュースサイトのコメント欄やSNSでの猛批判を招いたのです。
ミニマリズムの源流
そもそもの話をすると、ミニマリズムは、所有物を減らすことで幸福度を上げる自己啓発として、アメリカのエリート層の消費文化に対する反動から始まりました。
有名なミニマリストユニット「The Minimalists」のジョシュア・フィールズ・ミルバーンが象徴的です。
ミニマリストになる前の彼は年収数十万ドルのビジネスマンでした。大きな家と高級車、多数のブランド品に囲まれた誰もが羨む生活を送っていました。けれども、精神的には貧しく不幸だったと回想しています(*1)。
物質主義による幸福の実現は、過剰な消費で満足を得るために、過重な労働でお金を稼がなければならないという悪循環によって成り立っていたからです。これでは多額の負債や、過労とストレスによって心身が蝕まれてしまいます。そのような反省を踏まえて、モノの消費によるステータスの向上、際限のない物欲から自由になる手段として、ミニマリズムが提唱されたのです。
ミニマリズムは、本質的には「足るを知る」ことが重要とされ、「個人の適量」を見極めることが推奨されています。余計なモノは処分し、本当に必要なモノだけを残します。よく行なわれているのが衣類や生活用品、調度品の数の制限です。一般的に誤解されやすいのですが、持ち家の有無やその大きさ、自動車の有無、あるいは子どもが何人いるかといった事柄は、元来ミニマリズムとはまったく関係がありません。
このようなルーツがあるミニマリズムなのですが、2014年以降、日本に本格的に入って来ると、低成長時代であったことも影響して、節約や節制といった生活防衛的な側面がプラスされるようになりました。
もちろん、本家本元の精神を受け継ぐ人々は一定数いましたし、反消費主義的な傾向も浸透してはいましたが、最近のトレンドを見ると、支出を抑えてお金を貯めやすくすることを目的とする人々が増えています。ミニマリストのインフルエンサーの側でも、モノの減らし方だけでなく、投資や資産運用とセットで情報発信する例が目立つようになってきています。
つまり、もともと反消費主義的な運動として始まったミニマリズムが、生存競争の舞台と化した世界を生き抜くためのマニュアルとなったのです。大量生産・大量消費を推進する資本主義に支えられた社会システムの変革を目指すことが根底にあったはずなのですが、そのような社会の変革を志向するどころか自己の変革にシフトしたのです。
フレキシビリティ(変化に対する柔軟性)とモビリティ(動きやすさ)を要求するグローバル資本主義のルールに順応しないと損をするからです。筆者は、このような動きを「社会課題の自己啓発的解決」と捉えています。
自己防衛のための思想だった
つまり、近年加速する生活不安や、報酬や雇用の不安定化といった諸問題について、社会に異議を申し立てたりすることなく、自己のライフスタイルを改善することで乗り越えようとする思想傾向です。
冒頭の「風呂なし物件」の記事の中には、「経済的な困窮を理由とする人は少ない」という不動産業者のコメントを紹介するような報道も見受けられましたが、「家賃などの固定費を抑えて、娯楽費や貯蓄に回す」という発想そのものが、「通常の固定費を支払うと娯楽費や貯蓄に回せない」現実を物語ってしまっています。
これは上向きにならない経済状態に対する合理的な対処といえます。そのため、当人も「風呂なし」で得られる利点を探し出すでしょうし、それを強みに変えるロジックで補強しようと試みる面もあるでしょう。確かに、都心の駅近物件に住めるだけでなく、バスタブの掃除が不要になりますし、銭湯での近隣住民とのコミュニケーションは多様な発見をもたらしてくれるかもしれません。
しかし、そこには社会そのものが沈没していることに対する危機意識、またそれを問題とすら認識していない政治に対する怒りや不信感がほとんど見当たりません。当然、少なからず例外はありますが、この種の社会課題の真の困難さは、現実の変わらなさを乗り越えるために自らの状況を前向きに解釈し、認知そのものをポジティブにすることで、主体性を取り戻そうとする心理的な適応の側面があることです。
マインドフルネスが抱える問題点
とはいえ、個々のライフスタイルを頭ごなしに否定したり、自己啓発的な解決法を持ち上げる不動産業者を叩いたりしても、意味がないばかりかより重大な論点を見逃してしまいます。それは先の自己変革の精神に特徴的な「自分の力だけでどうにかしなければならない」という自己責任論によって、究極的には、個人の幸福感がまるで社会的条件とは無関係なものとしてまかり通ってしまうことです。
結果として、社会における矛盾は放置され、自己防衛へと傾倒していきます。似たような構図が、アメリカを中心に多くの企業で導入されているマインドフルネスをめぐる問題に見られます。マインドフルネスとは、今この瞬間の心身の状態について、評価や判断を加えずに注意を払う瞑想法で、ストレスの軽減や集中力の強化につながるとされています。
経営学者で禅僧でもあるロナルド・パーサーは、マインドフルネスが従業員個人のストレス対処能力を向上させる一方で、職場環境や組織文化の問題を覆い隠すものとしても機能し得ると指摘しています(*2)。なぜなら、「不満と苦痛の根本的な原因が私たちの頭の中にある」と教えるからです。これを企業が悪用すると以下のようになります。
仕事で強いストレスを感じるのは従業員のストレス耐性が低いことが原因であるとして、企業は従業員にマインドフルネスの実践を指示します。それによって実際にストレスが低減されると、リーダーや業務管理、経営方針に難があっても、従業員が「個人レベル」で解消してくれるのですから、既存の体制はむしろ補完・強化されてしまうという寸法です。
パーサーは、「マインドフルネスは、ポジティブ心理学や広範な幸福産業のように、ストレスを非政治化し、個人化した」と主張し、健康やメンタルヘルスの自己責任化を後押ししかねないと警鐘を鳴らしています。
企業だけでなく、個人も加速度的に混迷を深める世界で、自らの心身を効率良く高めようとする動機に事欠きません。そこには「私は私のストレスを軽減したい。私は私の集中力を強化したい。生産性とパフォーマンスを向上させたい。マインドフルネスに投資するのは、高額の配当を期待して株式に投資するようなものだ」という思考があります(同上)。
「すべては心の持ちよう」に
国家にしても、企業にしても、物価や賃金といった短期的なものから福祉政策やエコロジーといった中長期的なものに至るまで、わたしたちが自発的に「個人レベル」の問題として取り扱い、淡々と処理してくれたほうがコストは低く抑えられます。
アメリカでは、貧困層向けにマインドフルネスプログラムの実装が行なわれているという笑えない話があるぐらいです。下手をすれば、どんな悲惨な出来事に見舞われても「すべては心の持ちよう」となりかねません。
市場は市場で、将来的に収入の増加が見込めず、明るい展望が描けないのであれば、発想を転換すれば良くなるという商品を売り込もうとしています。「ミニマリズムで理想の人生が手に入る」「自己管理と脳のトレーニングによって幸福度は上げられる」「低所得者向けのFIRE(経済的自立)がある」……まさに夢のような「自己啓発的解決」が陳列されたデパートの様相を呈しています。
かつてであれば、自らが所属する集団内において協力や知恵が期待できた時代がありましたが、今や頼れるものは自分しかなく、ライフスタイルの柔軟性、機動性こそが生存を左右します。「自己啓発的解決」が年々影響力を増しているのは、もはや人的ネットワークによる解決が乏しいからであり、社会運動に代表される政治的な働きかけにも希望が持てないからなのです。
自己変革へと向かう道
リスクの最小化の観点から、わずかなロスも発生させたくない人々は、より自己変革への依存を強めていくでしょう。そこでは他者は比較の対象であると同時に、油断のならないライバルになります。連帯の可能性はほとんど存在せず、抜け駆けに対する警戒だけがあります。
生活のダウンサイジングこそが唯一の道だと語りかける自己変革の思想は、自らの身を守ろうとするサバイバリズム(生存主義)に駆動されながら、ますます社会全体に広がっています。それは、繰り返しになりますが社会課題の自己責任化、個人化という流れと一体なのです。
今後、社会経済情勢が悪化すればするほど、どんなに厳しい状況に陥っても幸福を見いだせる技術、ネガティブな感情を消せる技術といったものがこれまで以上に求められることでしょう。
その先にあるのは、社会課題の深刻化によってさらなる自己責任化、個人化が促進され、より凄惨なものになっていくという地獄絵図です。
わたしたちはまず、すべての問題を1人で解決しなければならないという思い込みを解除しなければなりません。
*1 ジョシュア・フィールズ・ミルバーン/ライアン・ニコデマス『あるミニマリストの物語 僕が余分なものを捨て人生を取り戻すまで』吉田俊太郎訳、フィルムアート社
*2 Ronald Purser『McMindfulness: How Mindfulness Became the New Capitalist Spirituality』Repeater
真鍋 厚
※「若者に風呂なし物件が人気」は本当か?
最近「若者に風呂なし物件が人気」といった趣旨の報道が物議を醸しました。
ほぼ同時期に複数のメディアが似たような記事を発信したことが直接のきっかけですが、若者の貧困問題が根っこにあるにもかかわらず、それを考慮しないで1つの文化、ファッションのように片付けていることに対する非難や疑問の声が、それこそ若者を中心に湧き起こりました。昨年末に海外メディアが、日本で「三畳一間」の狭小物件のニーズが高まっていると指摘したことなどもこれに影響しているようです。
筆者はアメリカ発のミニマリズムが日本において生存主義(サバイバリズム)の色彩を強めていることについて、これまでさまざまな媒体で語ったり、書いたりしてきました。モノを極限まで減らすことや、住空間をコンパクトにするミニマリズム、シンプルライフの流行が、先行きが不透明で転落のリスクに脅かされた過酷な時代状況と無縁ではないことが浮かび上がってきたからです。
「風呂なし物件」や狭小物件が一部の若者たちから歓迎されているという情報は、例えそれがデータとして正しいものであったとしても、「そもそも経済的な問題が背後にあるのではないか」といった憶測が多くの人々から寄せられたことから分かるように、選択肢が限られた中での前向きな適応に過ぎない可能性を見過ごしかねません。この視点を欠いていたことがニュースサイトのコメント欄やSNSでの猛批判を招いたのです。
ミニマリズムの源流
そもそもの話をすると、ミニマリズムは、所有物を減らすことで幸福度を上げる自己啓発として、アメリカのエリート層の消費文化に対する反動から始まりました。
有名なミニマリストユニット「The Minimalists」のジョシュア・フィールズ・ミルバーンが象徴的です。
ミニマリストになる前の彼は年収数十万ドルのビジネスマンでした。大きな家と高級車、多数のブランド品に囲まれた誰もが羨む生活を送っていました。けれども、精神的には貧しく不幸だったと回想しています(*1)。
物質主義による幸福の実現は、過剰な消費で満足を得るために、過重な労働でお金を稼がなければならないという悪循環によって成り立っていたからです。これでは多額の負債や、過労とストレスによって心身が蝕まれてしまいます。そのような反省を踏まえて、モノの消費によるステータスの向上、際限のない物欲から自由になる手段として、ミニマリズムが提唱されたのです。
ミニマリズムは、本質的には「足るを知る」ことが重要とされ、「個人の適量」を見極めることが推奨されています。余計なモノは処分し、本当に必要なモノだけを残します。よく行なわれているのが衣類や生活用品、調度品の数の制限です。一般的に誤解されやすいのですが、持ち家の有無やその大きさ、自動車の有無、あるいは子どもが何人いるかといった事柄は、元来ミニマリズムとはまったく関係がありません。
このようなルーツがあるミニマリズムなのですが、2014年以降、日本に本格的に入って来ると、低成長時代であったことも影響して、節約や節制といった生活防衛的な側面がプラスされるようになりました。
もちろん、本家本元の精神を受け継ぐ人々は一定数いましたし、反消費主義的な傾向も浸透してはいましたが、最近のトレンドを見ると、支出を抑えてお金を貯めやすくすることを目的とする人々が増えています。ミニマリストのインフルエンサーの側でも、モノの減らし方だけでなく、投資や資産運用とセットで情報発信する例が目立つようになってきています。
つまり、もともと反消費主義的な運動として始まったミニマリズムが、生存競争の舞台と化した世界を生き抜くためのマニュアルとなったのです。大量生産・大量消費を推進する資本主義に支えられた社会システムの変革を目指すことが根底にあったはずなのですが、そのような社会の変革を志向するどころか自己の変革にシフトしたのです。
フレキシビリティ(変化に対する柔軟性)とモビリティ(動きやすさ)を要求するグローバル資本主義のルールに順応しないと損をするからです。筆者は、このような動きを「社会課題の自己啓発的解決」と捉えています。
自己防衛のための思想だった
つまり、近年加速する生活不安や、報酬や雇用の不安定化といった諸問題について、社会に異議を申し立てたりすることなく、自己のライフスタイルを改善することで乗り越えようとする思想傾向です。
冒頭の「風呂なし物件」の記事の中には、「経済的な困窮を理由とする人は少ない」という不動産業者のコメントを紹介するような報道も見受けられましたが、「家賃などの固定費を抑えて、娯楽費や貯蓄に回す」という発想そのものが、「通常の固定費を支払うと娯楽費や貯蓄に回せない」現実を物語ってしまっています。
これは上向きにならない経済状態に対する合理的な対処といえます。そのため、当人も「風呂なし」で得られる利点を探し出すでしょうし、それを強みに変えるロジックで補強しようと試みる面もあるでしょう。確かに、都心の駅近物件に住めるだけでなく、バスタブの掃除が不要になりますし、銭湯での近隣住民とのコミュニケーションは多様な発見をもたらしてくれるかもしれません。
しかし、そこには社会そのものが沈没していることに対する危機意識、またそれを問題とすら認識していない政治に対する怒りや不信感がほとんど見当たりません。当然、少なからず例外はありますが、この種の社会課題の真の困難さは、現実の変わらなさを乗り越えるために自らの状況を前向きに解釈し、認知そのものをポジティブにすることで、主体性を取り戻そうとする心理的な適応の側面があることです。
マインドフルネスが抱える問題点
とはいえ、個々のライフスタイルを頭ごなしに否定したり、自己啓発的な解決法を持ち上げる不動産業者を叩いたりしても、意味がないばかりかより重大な論点を見逃してしまいます。それは先の自己変革の精神に特徴的な「自分の力だけでどうにかしなければならない」という自己責任論によって、究極的には、個人の幸福感がまるで社会的条件とは無関係なものとしてまかり通ってしまうことです。
結果として、社会における矛盾は放置され、自己防衛へと傾倒していきます。似たような構図が、アメリカを中心に多くの企業で導入されているマインドフルネスをめぐる問題に見られます。マインドフルネスとは、今この瞬間の心身の状態について、評価や判断を加えずに注意を払う瞑想法で、ストレスの軽減や集中力の強化につながるとされています。
経営学者で禅僧でもあるロナルド・パーサーは、マインドフルネスが従業員個人のストレス対処能力を向上させる一方で、職場環境や組織文化の問題を覆い隠すものとしても機能し得ると指摘しています(*2)。なぜなら、「不満と苦痛の根本的な原因が私たちの頭の中にある」と教えるからです。これを企業が悪用すると以下のようになります。
仕事で強いストレスを感じるのは従業員のストレス耐性が低いことが原因であるとして、企業は従業員にマインドフルネスの実践を指示します。それによって実際にストレスが低減されると、リーダーや業務管理、経営方針に難があっても、従業員が「個人レベル」で解消してくれるのですから、既存の体制はむしろ補完・強化されてしまうという寸法です。
パーサーは、「マインドフルネスは、ポジティブ心理学や広範な幸福産業のように、ストレスを非政治化し、個人化した」と主張し、健康やメンタルヘルスの自己責任化を後押ししかねないと警鐘を鳴らしています。
企業だけでなく、個人も加速度的に混迷を深める世界で、自らの心身を効率良く高めようとする動機に事欠きません。そこには「私は私のストレスを軽減したい。私は私の集中力を強化したい。生産性とパフォーマンスを向上させたい。マインドフルネスに投資するのは、高額の配当を期待して株式に投資するようなものだ」という思考があります(同上)。
「すべては心の持ちよう」に
国家にしても、企業にしても、物価や賃金といった短期的なものから福祉政策やエコロジーといった中長期的なものに至るまで、わたしたちが自発的に「個人レベル」の問題として取り扱い、淡々と処理してくれたほうがコストは低く抑えられます。
アメリカでは、貧困層向けにマインドフルネスプログラムの実装が行なわれているという笑えない話があるぐらいです。下手をすれば、どんな悲惨な出来事に見舞われても「すべては心の持ちよう」となりかねません。
市場は市場で、将来的に収入の増加が見込めず、明るい展望が描けないのであれば、発想を転換すれば良くなるという商品を売り込もうとしています。「ミニマリズムで理想の人生が手に入る」「自己管理と脳のトレーニングによって幸福度は上げられる」「低所得者向けのFIRE(経済的自立)がある」……まさに夢のような「自己啓発的解決」が陳列されたデパートの様相を呈しています。
かつてであれば、自らが所属する集団内において協力や知恵が期待できた時代がありましたが、今や頼れるものは自分しかなく、ライフスタイルの柔軟性、機動性こそが生存を左右します。「自己啓発的解決」が年々影響力を増しているのは、もはや人的ネットワークによる解決が乏しいからであり、社会運動に代表される政治的な働きかけにも希望が持てないからなのです。
自己変革へと向かう道
リスクの最小化の観点から、わずかなロスも発生させたくない人々は、より自己変革への依存を強めていくでしょう。そこでは他者は比較の対象であると同時に、油断のならないライバルになります。連帯の可能性はほとんど存在せず、抜け駆けに対する警戒だけがあります。
生活のダウンサイジングこそが唯一の道だと語りかける自己変革の思想は、自らの身を守ろうとするサバイバリズム(生存主義)に駆動されながら、ますます社会全体に広がっています。それは、繰り返しになりますが社会課題の自己責任化、個人化という流れと一体なのです。
今後、社会経済情勢が悪化すればするほど、どんなに厳しい状況に陥っても幸福を見いだせる技術、ネガティブな感情を消せる技術といったものがこれまで以上に求められることでしょう。
その先にあるのは、社会課題の深刻化によってさらなる自己責任化、個人化が促進され、より凄惨なものになっていくという地獄絵図です。
わたしたちはまず、すべての問題を1人で解決しなければならないという思い込みを解除しなければなりません。
*1 ジョシュア・フィールズ・ミルバーン/ライアン・ニコデマス『あるミニマリストの物語 僕が余分なものを捨て人生を取り戻すまで』吉田俊太郎訳、フィルムアート社
*2 Ronald Purser『McMindfulness: How Mindfulness Became the New Capitalist Spirituality』Repeater