・星間分子雲

山本 智(物理学専攻 教授)

https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/story/newsletter/keywords/32/04.html#:~:text=%E6%98%9F%E3%81%A8%E6%98%9F%E3%81%AE%E9%96%93,%E9%96%93%E5%88%86%E5%AD%90%E9%9B%B2%E3%81%A8%E3%82%88%E3%81%B6%E3%80%82

※星と星の間には,ガス(星間ガス)と固体微粒子(星間塵)からなる星間雲がところどころに存在する。 星間雲の中で最も密度が高く,水素が主に水素分子として存在するものを星間分子雲とよぶ。高いと言っても水素分子の個数密度は 102 – 106 cm–3 程度で,常温大気圧での個数密度 2.7×1019 cm–3 よりも著しく低い。 しかし,大きさは0.01 – 1光年,質量は太陽の質量の数10倍から数1000倍以上に達する。銀河系を見渡すと,質量が太陽質量の10万倍程度に達する巨大分子雲も数多く存在し,それらの総質量は銀河系の星の総質量の約1%程度を占める。 星間分子雲は数10万年から数100万年の時間をかけてゆっくりと自己重力で収縮して,新しい恒星と惑星系のもとになる原始星と原始惑星系円盤を生み出す。 われわれの太陽系も,46億年の昔に,そのようにして星間分子雲から生まれたのである。

星間分子雲の温度は10 – 100 K(–263℃から–173℃)程度なので,マイクロ波領域から遠赤外線領域の放射を観測して調べる。 星間分子雲には水素分子以外にも一酸化炭素,水,アンモニア,ホルムアルデヒドなどのさまざまな分子(星間分子)と星間塵が含まれている。 星間分子雲は,主にこれらの星間分子の回転スペクトル線や星間塵の熱輻射を電波望遠鏡や赤外線望遠鏡で観測することによって研究されている。 その結果,星間分子雲から太陽程度の質量をもつ原始星が誕生する過程については,詳細な理解が進みつつある。

星間分子雲には,エチルアルコールやギ酸メチルなどの比較的大きな有機分子まで,微量ではあるが存在していることがわかっている。 また,炭素が直線上につながった炭素鎖分子も特徴的に見られる。 星間分子雲の中心部では,含まれている星間塵のおかげで外部からの紫外線が遮断されるため,分子が壊されることなく成長できるのである。 無味乾燥とも思える星間空間でも,分子の豊かな世界が広がっている。著者の研究室では,星間分子雲における星・惑星系形成とそれに伴う分子進化を観測的に調べ,太陽系物質との関係を探っている。 星間分子雲は物理学,天文学,地球惑星科学,化学にまたがる研究対象であり,本研究科では他にもさまざまな関連研究が行われている。



以下「In Deep」様から転載

https://indeep.jp/all-ingredients-for-life-found/

・炭素質隕石から遺伝子の主要核酸塩基 5 種すべてを検出 ~地球上での生命の起源・遺伝機能の前生物的な発現に迫る~

北海道大学低温科学研究所の大場康弘准教授、海洋研究開発機構の高野淑識上席研究員、九州大学大学院理学研究院の奈良岡浩教授、東北大学大学院理学研究科の古川善博准教授らの研究グループは、最古の太陽系物質である炭素質隕石から、全ての生物の DNA・RNA に含まれる核酸塩基 5 種(ウラシル、シトシン、チミン、アデニン、グアニン)すべての同時検出に世界で初めて成功しました。

生命誕生前の原始地球上でどのように最初の生命が誕生したのか、という科学における究極の謎について、炭素質隕石や彗星など地球外物質によって供給された有機化合物がその材料となったという説が提唱されています。

しかし,生命の遺伝機能を担う DNA や RNA の構成成分、核酸塩基については、地球外物質からの検出例が少なく、地球上での初生的な遺伝物質の分子情報や生成機構を含め複素環分子 (※ 核酸塩基のように窒素原子が環状化合物の基本骨格の一部を構成する有機化合物のこと)の多様性に関する基礎情報は断片的な記載にとどまっていました。

本研究では,独自に開発した高精度な核酸塩基分析手法を駆使して、マーチソン隕石やタギッシュレイク隕石など 3 種の炭素質隕石から前生物的な遺伝子の候補となる核酸塩基 5 種すべてを含む 18 種類の核酸塩基類を網羅的に検出することに世界で初めて成功しました。

それら核酸塩基の種類や存在量の分析により、少なくともその一部は太陽系形成前の星間分子雲という環境で生成した可能性が示されました。本成果によって、生命誕生前にも多様な核酸塩基類が地球上に供給されていたことが強く示唆され、始原的な分子進化における最初の遺伝機能発現の過程を読み解く鍵になると期待されています。



・もし本当なら…「地球で最初の生命は、進化では誕生できない」…進化論で生じた「すこぶる当然の疑問」(現代ビジネス 2024年4月16日)

小林 憲正

※「地球最初の生命はRNAワールドから生まれた」

圧倒的人気を誇るこのシナリオには、困った問題があります。生命が存在しない原始の地球でRNAの材料が正しくつながり「完成品」となる確率は、かぎりなくゼロに近いのです。ならば、生命はなぜできたのでしょうか?

この難題を「神の仕業」とせず合理的に考えるために、著者が提唱するのが「生命起源」のセカンド・オピニオン。そのスリリングな解釈をわかりやすくまとめたのが、アストロバイオロジーの第一人者として知られる小林憲正氏の『生命と非生命のあいだ』です。今回から数回にわたって、本書から読みどころをご紹介していきます。

今回は考察の原点となるダーウィンの進化論と、その後の「生命はどこから生まれたか」議論の変遷を見ていきます。

*本記事は、『生命と非生命のあいだ 地球で「奇跡」は起きたのか』(ブルーバックス)を再構成・再編集したものです。


※ダーウィンのオリジナル概念ではなかった「進化」

1859年、チャールズ・ダーウィン(1809〜1882)は、ジョン・マレー出版社から『自然選択という手段、または生存闘争の中で好ましいとされる種が保存されることによる種の起原について』という長いタイトルの本を出版しました。これが、今日の生物進化学の基礎を築いた、『種の起源』という名で知られている著作の正式な書名です(「起“源”」ではなく「起“原”」と訳されました)。

実は「進化」という概念自体は、ダーウィン以前にもありました。たとえば、彼の祖父のエラズマス・ダーウィン(1731〜1802)は、生物学に進化(evolution)という言葉を持ちこんでいました。また、フランスの博物学者ジャン=バティスト・ラマルク(1744〜1829)は、キリンの首は高いところの葉を食べようとして伸びた、といった「用不用説」と呼ばれる考え方で進化を説明しようとしていました。

ダーウィンは初め、医者である父のあとを継ぐためエジンバラ大学に進学しましたが、医学には向かずに退学し、牧師になるべくケンブリッジ大学に進みました。そして卒業後、恩師から、船で世界を一周する旅に誘われました。これが彼の人生を変える旅となりました。

1831〜1836年、ダーウィンを乗せたビーグル号は世界のさまざまな土地に立ち寄りましたが、とりわけ1835年に訪れたガラパゴス諸島での観察が、のちに彼が発表する進化論のベースになりました。

その頃のヨーロッパでは、キリスト教の教えにもとづく「デザイン論」が優勢でした。地球上のさまざまな生物たちは、創造主である神によって、うまく生きられるようにデザインされたとするものです。これは、前述したアリストテレス哲学とキリスト教の教義とが融合した結果、広まった考え方でした。

しかし、ダーウィンはビーグル号での航海で得たさまざまな標本や、観察の経験をもとにデザイン論を捨て、新たに自然選択にもとづく進化論を構築していきました。

その作業には長い年月がかかりましたが、1858年、イギリスの博物学者アルフレッド・ラッセル・ウォレス(1823〜1913)からの手紙で、彼が似たような考えを持っていることを知って発表を急ぎ、その年にリンネ学会において自身の論文とウォレスの論文を並べて発表し、翌1859年に、いわゆる『種の起原』の出版にこぎつけたのです。

『種の起原』は、世界は神が創造したとする創造説と進化論との間で大論争を引き起こしましたが、“ダーウィンの番犬”と呼ばれたトマス・ヘンリー・ハクスリー(1825〜1895)の援護もあり、進化論が徐々に認知されていきました。



【写真】チャールズ・ダーウィン(上)、アルフレッド・ラッセル・ウォレス(下左)、トーマス・ヘンリー・ハクスリー(下右) 


ダーウィンの進化論が生んだ「新たな問題」

すると、新たな問題が生じました。進化論では、ある生物種は別の生物種から進化することにより誕生します。これをずっと過去に遡っていくと、最初の生物にたどり着きます。では、その生物はどのようにして誕生したのでしょうか?

この問題に対して、ダーウィンは1871年に、友人の植物学者ジョセフ・ダルトン・フッカー(1817〜1911)宛ての手紙の中で、こう書いています。

「もし(ああ、何とありそうもない「もし」なのでしょう)さまざまな種類のアンモニアやリン酸塩が溶けた温かい小さな池に、光や熱や電気などが加えられたとしたら、タンパク質分子が化学的に合成され、より複雑なものへと変化したでしょう。今日ではそのような物質はすぐに食べ尽くされてしまうでしょうが、生命が誕生する前では、そうはならなかったでしょう」



【写真】イギリスの植物学者で、公私にわたってダーウィンと親交のあった、サー・ジョセフ・ダルトン・フッカー

今日の目から見てもなかなかいい線をいっているように見えますが、その後、ダーウィンはこの考えをさらに進めてはいないようです。ここに「生命はどのようにして誕生したのか」、つまり「生命の起源」という科学上の新たな問いが誕生したのです。


「パンスペルミア説」の登場

最初の生命は生物進化によっては誕生できないので、自然発生したと考えるしかありません。しかし、自然発生は、パストゥールの有名な「白鳥の首フラスコ」(空気は入るけれど微生物は入らないようにすに考案した実験装置)」を使った実験によって、否定されています。地球上では生命の自然発生ができないのならば、生命は地球外から持ちこまれたのではないか?

このように生命の起源を地球外に求めようと考える科学者たちが現れました。その中には大物科学者も含まれていて、熱力学第二法則で知られる英国の物理学者ウィリアム・トムソン(ケルヴィン卿、1824〜1907)もその一人でした。トムソンは1871年に英国協会で「生命の種が隕石によってもたらされた」という考えを述べています。



【写真】ウィリアム・トムソン(初代ケルヴィン男爵・左)と、スウェーデンの物理化学者スヴァンテ・アレニウス(右) 

20世紀が始まってまもない1903年、スウェーデンの物理化学者スヴァンテ・アレニウス(1859〜1927)は、『Die Umschau』という雑誌に「宇宙における生命の分布」という論文を発表しました。そこで彼は、宇宙空間には生命の種(sperma)があまねく(pan)存在しており、それらが光の圧力によって移動して地球にたどり着き、地球生命のもとになったと述べて、「パンスペルミア」という言葉を用いました。

アレニウスは高校の教科書にも名前が載るほど有名な物理化学者であり、同じ年にノーベル化学賞を受賞しています。今日でもパンスペルミアというと必ずアレニウスの名前が引用されるなど、生命の地球外起源説の代表とされています。

パンスペルミア説への批判としては、まず、生命の種が過酷な宇宙空間で長時間生きつづけるのが困難と考えられることがあります。しかし現在では、生物の惑星間移動の可能性が実験などで検証されていて、この点からはパンスペルミアは一概に否定できなくなりました。

第二の批判は、その宇宙から来た「生命の種」がどのようにしてつくられたかについては、何も答えていないことです。つまり、問題を先送りしているにすぎないというわけです。こちらは「生命の起源」を議論するうえでは致命的といえますね。



・「生命は自然に発生する!」ありえないとされた説が息を吹き返して提唱された「生命の一歩手前」の衝撃の姿(現代ビジネス 2024年4月16日)

小林 憲正

前回に引き続き「生命はどこから生まれたか」という議論の変遷を見ていきます。進化論によって始まった「生命起源」の探求は、どのように深まっていくのでしょうか。なんと、議論は地球外に目が向けられていきます!

※オパーリンの『生命の起原』

1917年、ロシアでは十月革命が起こり、ソヴィエト連邦が誕生しました。この年にモスクワ大学を卒業したアレクサンドル・イヴァノヴィッチ・オパーリン(1894〜1980)は、大学に残って生化学の研究を続けていました。



【写真】アレクサンドル・イヴァノヴィッチ・オパーリン

1922年、オパーリンは、ロシア植物学会モスクワ支部で、生命の起源に関する発表を行います。そして1924年には、その内容をまとめた70ページほどの小冊子『生命の起原』を発表しました(やはり「起源」ではなく「起原」と訳されています)。その後、オパーリンは生命の起源についての本を何冊も書いていますので、それらと区別して、1924年版を「小冊子」とよびます。

この小冊子でオパーリンはまず、アリストテレスからニーダムに至る自然発生の考えが、パストゥールによって否定されたことにより、「生命がいかに地球上で生じたか」という問題が生じたことを述べています。

次にパンスペルミア説を紹介し、その可能性は否定できないとしていますが、パンスペルミアは「地球生命の起源の問題には答えるが、生命の起源一般の問題にはまったく答えていない」(アン・シングの英訳を和訳:以下同様)とも指摘しています。

次に彼は、「生物界と無生物界」の違いを考察します。以前は、生物を構成する物質である有機物と、それ以外の無機物には本質的な違いがあると考えられていました。しかし1828年にフリードリッヒ・ヴェーラー(1800〜1882)が、シアン酸アンモニウム(無機物)から尿素(有機物)を合成したことにより、両者の間に生気などの神秘的なものは関わっておらず、「同じ物理化学法則に従っている」ことがわかりました。

では、生物と無生物の違いはどこから来るのでしょうか。これについてオパーリンは、生物にあって無生物にないものとして、「特別な形態あるいは構造」と、「自分自身をつくりだす代謝能力と、刺激に対応する能力」を考えました。そして特別な構造として「コロイド」に注目しました。


生命に直結するコロイド

牛乳は、水の中にタンパク質のような比較的大きい(しかし肉眼では見えない)粒子が分散していますが、このような状態のものをコロイドといいます。彼はコロイドが細胞の原形質をつくるものであり、生命に直結すると考えたのです。

コロイドについては1861年、スコットランドの化学者トーマス・グレアム(1805〜1869)が化学物質を晶質とコロイドに分類し、後者を扱う領域として「コロイド化学」を創始しています。

もしもコロイドが生命につながったとすれば、地球で最初のコロイドはどのようにしてできたのでしょうか。オパーリンは、原始地球上にはメタンなどの炭化水素とシアンが多くあり、これらが原料となってさまざまな有機物ができたと考えました。

当初、隕石の激しい衝突によって高温となり、灼熱状態だった地球の温度が下がると、生成した有機物どうしが反応して、複雑な有機物の混合物ができます。これらの中には、炭水化物やタンパク質の性質を持ったものもあったでしょう。それらの有機物がコロイドとなり、そうしたコロイド液の中に、生命のもととなるような沈殿やゲルが生じたりしたのであろうとオパーリンは考えたのです。

「ゲルが沈殿したり、最初の凝塊が生じたりした瞬間、生命の自発的な発生の極めて重要な段階となった」

とオパーリンは述べています。


ホールデンの「生命の起原」

オパーリンの小冊子刊行から5年後の1929年、イギリスの生物学者J・B・S・ホールデン(1892〜1964)が、『ラショナリスト・アニュアル』という雑誌に、オパーリンと同じ「生命の起原」というタイトルの論文を発表しました。

オパーリンの小冊子はロシア語で書かれていたので、西側の科学者には知られていませんでしたが、ホールデンもオパーリンとは別に、生命起源の問題に立ち向かっていたのです。

ホールデンの論文はオパーリンの小冊子の5分の1ほどの短いものでしたが、まず自然発生説から書きはじめ、原始地球でどのように有機物が生成し、そこからどのように生命の誕生に至ったかについて述べているところは、オパーリンの小冊子とよく似ています。

とはいえ、ホールデンとオパーリンの考えには、いくつかの相違点もありました。

オパーリンは原始地球で生成した有機物の材料として、炭化水素とシアンを考えました。一方、ホールデンは二酸化炭素・アンモニア・水を含む大気と、そこに降り注ぐ紫外線により有機物が生成したと考えました。

また、そのような有機物を溶かし込んだ海を「熱くて希薄なスープ」と呼びました。この「スープ」という命名は、生命誕生前の有機物を含む海や湖の呼称として今日までも定着していて、生命の起源の研究者は図「ホールデンと原始スープ」で挙げたような缶詰のスライドを使うのが大好きです。



【写真・イラスト】ホールデンと原始スープ(右)

なお、生命の起源研究の先駆となった二人、オパーリンとホールデンが出会うのは、1963年の国際生命の起源会議まで待たねばなりませんでした。

   *      *      *   

ほぼ同じ時に「生命の起源」について探究していた二人の研究者。二人の投げかけた問いはどのように進展していくのでしょうか。

近代における生命論の変遷を、さらに見ていきましょう。19世紀に「進化論」が種の起源のさらにその先の「生命の始まり」という問題を生みましたが、徐々に明らかされてくる「遺伝のしくみ」も、生命起源の問題に大きく影響していきます。



・だってそれ、結局「神様のやったこと」にしてないか…? 量子力学で「高名な物理学者」の言葉に噛みついた「生化学者のこだわり」(現代ビジネス 2024年4月16日)

小林 憲正

ダーウィンの進化論がきっかけになって始まった「生命の起源」に対する探究は、地球外に起源を求めた「パンスペルミア説」が登場しました。さらに、「遺伝のしくみ」が徐々に明らかになるにしたがって、大きく変容する生命の起源をめぐる議論を追っていきます。

※コアセルベートと「化学進化」

1935年、モスクワにソ連科学アカデミー・バッハ記念生化学研究所が設立されると、オパーリンはその副所長に就任し、植物の加工などについての実務的な研究を行う傍ら、生命の起源の考察も進めていきました。そして1936年には、前著の小冊子『生命の起原』を大幅に拡張した『地球上の生命の起源』を発表します。

少しくわしい人は、オパーリンというと「コアセルベート」を連想し、それについて書かれたのは1924年の『生命の起原』であるという印象を持っているかもしれませんが、コアセルベートが登場するのは、この1936年版が初めてです。というのは、オランダの化学者H・G・ブンゲンブルク・デ・ヨングが「コアセルベート」という命名をしたのが1929年だからです。

前述のようにオパーリンは、コロイド溶液を生命のもとと考えていました。しかし、この溶液は、他の物質を加えるなどすることにより、コロイドが高濃度に集まった部分と低濃度の部分の2つに分離することがあります。これをコアセルベーションといいます。そして高濃度に集まった部分は、多くの場合、球状になります。これがコアセルベートです。



【写真】コアセルベート

コアセルベートは単なるコロイド溶液が「境界」を持ったことで、原始的な細胞のモデルとみなせます。オパーリンは、アラビアゴムとゼラチンの薄い水溶液に酸を加えたときにコアセルベートができることを例としてとりあげて、生命の起源について、自身のコロイド説をさらに進めた仮説としてコアセルベート説を唱えたのです。

その後もオパーリンは、生命の起源に関する著作の出版や改訂を続けていきました。日本でもそのいくつかが邦訳され、 1955年には初来日したことなどから、日本では「生命の起源」といえばオパーリン、といったイメージさえできました。

なお、オパーリンが考えた「生命は物質の進化によって誕生した」というシナリオは、いまでは「化学進化説」または「オパーリン仮説」として知られています。ただし欧米では、英国人ホールデンの寄与も忘れてもらっては困るということで「オパーリン・ホールデン仮説」とよばれることが多いようです。


シュレーディンガーの生命観

オーストリアの物理学者エルヴィン・シュレーディンガー(1887〜1961)は、量子力学の創始者の一人として有名で、1933年にはノーベル物理学賞を受賞しました。しかしその後、生命に興味を持ち、1944年に『生命とは何か』という本を著したこともよく知られています。



【写真】エルヴィン・シュレーディンガー

彼が生命に興味を持ったきっかけとしては、20世紀前半に、「遺伝」のしくみが徐々に解き明かされてきたことがあります。19世紀に、細胞の中に「染色体」とよばれる棒状の構造体が見つかりました。20世紀に入り、トーマス・ハント・モーガン(1866〜1945)らにより、染色体に遺伝をつかさどる物質が含まれていることがわかりました。

「遺伝子」とよばれるようになったこの物質を、シュレーディンガーは、大きなタンパク質だろうと考えていました。遺伝というまさに生命と非生命を分かつ重要なものが、物理・化学で解明できる期待が高まっていました。

なお、遺伝子の本体がタンパク質でなく、核酸という別の高分子であることがわかったのは、『生命とは何か』出版と同じ1944年、米国の細菌学者オズワルド・エーブリー(1877〜1955)によってでした。


物理学者による新たな生命観の中身

シュレーディンガーは『生命とは何か』の中で、物理学者による新たな生命観を提示しました。熱力学の第二法則から、孤立した系においては、「乱雑さの度合い」をあらわす「エントロピー」が増大していきます。

たとえば、ビーカーに入った水に色のついた液体をたらすと、色のついた部分は徐々に広がり、最終的には溶液全体に均一に広がりますが、それがもとに戻ることはありません。

しかし、生物の中では生体分子や組織や器官がつくりだされていく、つまりエントロピー(乱雑さ)が減少していくように見えるのです。このことをシュレーディンガーは比喩的に「生命とは負のエントロピーを食べているもの」と言いました。



【図】熱力学の第二法則:エントロピーは増大するのみである

その後、1953年に、ロザリンド・フランクリン(1920〜1958)、ジェームズ・ワトソン(1928〜)、フランシス・クリック(1916〜2004)らの働きによって、DNAの構造が解明され、核酸(DNA)が遺伝をつかさどる物質であることがわかりました。これをきっかけに、「分子生物学」という、シュレーディンガーが期待したような物理学的手法を用いた生物学が誕生したのです。

分子生物学には多くの物理学者が参入しました。彼らは生命現象において遺伝あるいは自己複製を最重視するところが、代謝あるいは触媒作用を重視してきた生化学者と異なります。生命の起源の研究においても、この二つのアプローチは時にぶつかり、時に協力しながら、発展してきました。

シュレーディンガーは著書のなかで生命の起源について直接的には言及していませんが、最後に生命のことを「量子力学の神の手になる最も精巧な芸術作品」と表現して結んでいます。

生化学者であるオパーリンは後年の著作『生命ーーその本質、起原、発展』(1960)のなかで、シュレーディンガーの言葉は神による生命の起原を認めている、と批判しています。“化学屋”はやはり実際の物質を見せてもらわないと納得しないところが、“物理屋”と大きく違うところです。

   *      *      *   

この百数十年のあいだに、生命の起源をめぐる議論は、ご紹介したような深まりをとげてきました。次回は、現代の議論に通じる変遷と、いま私たちが「生命の起源について考えるポイント」についての解説をお届けします。



・地球上で生命ができる確率は「かぎりなくゼロ」なのに、なぜか生命は存在する「謎」…「神頼み」にしない説明は可能か(現代ビジネス 2024年4月18日)

小林 憲正

※がらくたからジャンボジェットができる確率

一般に、天文学者や物理学者の多くは、宇宙の広大さや、地球がありふれた惑星であることから、生命を宿す星は宇宙にいくらでもある、つまり、生命の誕生は宇宙での必然だと考えてきました。

一方、多くの生物学者は「地球の生物を研究する学者」です。地球には実に多種多様な生物が存在しており、それぞれの生物がタンパク質や核酸といった複雑な高分子有機物を多数使いこなして生命活動を維持しているのを見て、彼らは「こんな複雑なものはそう簡単にできるはずがない」と考えてきました。

しかし、天文学者の中にも変わり種がいます。宇宙論者として知られる英国のフレッド・ホイル(1915〜2001)も、その一人です。



【写真】フレッド・ホイル 

ロシア生まれの物理学者ジョージ・ガモフ(1904〜1968)らが1946年頃に「宇宙は大きな爆発によって始まった」とする説を提唱したとき、ホイルは、宇宙はつねに変化しない定常状態にあるという「定常宇宙論」を唱え、宇宙に「始まり」があったという考えを否定しました。

宇宙が膨張していること自体はホイルも認めていましたが、それは最初の爆発による膨張ではなく、1年間に1km²あたり水素原子1個程度の新たな物質が生成すれば、膨張という観測事実は説明できるとしました。そして、宇宙が爆発によって始まったとするガモフの説に「ビッグバン」という名前をつけて嘲笑したのです。

絵画でクロード・モネ(1840〜1926)の作品『印象・日の出』が批評家に酷評されたときに、モネらの作風が皮肉交じりに「印象派」と呼ばれるようになったのと似ていますね。

しかしその後、ビッグバン宇宙論を支持する証拠が次々と見つかり、定常宇宙論を信じる人はほとんどいなくなりました。

ホイルはその後、研究対象を「宇宙の生命」にまで拡張します。彼は、地球のような限られた時間と空間の中では、生命は誕生しえないと主張しました。生命を維持するのに欠かせないタンパク質(酵素)は、20種類のアミノ酸が多数、結合したものです。どんなに単純な微生物でも2000種くらいのタンパク質が必要で、しかも、それぞれのアミノ酸の配列には、並び方を変更できない箇所もあります。

それらを考慮したうえで、生命に必要なタンパク質が偶然にできる確率は、10の4万乗分の1になると、ホイルは試算しました。これはいってみれば、がらくた置き場の上を竜巻が通りすぎたあとに、ボーイング747、いわゆるジャンボジェットが組み上がっているようなものだとホイルは表現しました。

つまり、ホイルは天文学者でありながら、生命が誕生することはきわめて困難であり、地球上で生命が誕生することはありえない、と考えていたのです。

では、他の惑星にも生命は存在しないと考えていたのかといえばまったくの逆で、「生命は宇宙に満ち満ちている」というのがホイルの「観測結果」でした。

恒星と恒星のあいだに存在する星間分子を観測すると、220nm(ナノメートル)の紫外線吸収がみられるのですが、ホイルによれば、これはセルロースの吸収を示しているのであり、星間に微生物が存在することの証拠だというのです。

そこからホイルは、微生物は宇宙を旅していて、地球をはじめ多くの惑星にたどりついて、その星の生命のもとになっているという説を主張しました。これが、以前の記事でもご紹介した「パンスペルミア説」です。

ホイルが言うには、彗星が地球に近づくと、彗星中のウイルスが地球にばらまかれて、インフルエンザがはやるのだそうです(!)。

こうしたホイルの考えは、やはり定常宇宙論にもとづいていました。不変のまま悠久の時が流れる定常宇宙では、生命が誕生するのは奇跡ではなく必然であるというのです。


「きわめて難しい」ものがなぜ「ある」のか

近年、東京大学の戸谷友則(1971〜)は、いわばホイル説の21世紀版を発表しました。ホイルの時代と比べると、生命の主人公はタンパク質から核酸に移り、宇宙論はビッグバンをさらに進めた「インフレーション宇宙論」に進化しました。

いまでは、生命が誕生するには多数のヌクレオチド(核酸を構成する単位)を結合させたリボ核酸、いわゆるRNAが必要と考えられています。そこから、生命がRNAから始まったとする「RNAワールド仮説」が唱えられているわけですが、条件を満たすRNAをつくるには、ヌクレオチドを少なくとも40個、正しい順番でつなぐ必要があります。

戸谷によれば、それが自然にできる確率を計算すると地球だけではとうてい無理で、10の40乗個ほどの恒星があれば、なんとか偶然にそのようなRNAが1つできるそうです。

銀河系には2000億個ほどの恒星があり、私たちが観測可能な宇宙(私たちから138億光年の範囲)にある銀河は2兆個ほどといわれていますので、恒星の数は4000垓(がい・4×10の23乗)個ほど、惑星も数秭(じょ・10の24乗)個ほど“しか”ありません。とするとたしかに、地球で生命が発生したのは奇跡というしかありません。

ここで戸谷は、インフレーション宇宙論ならではの宇宙の広さを考えることを提案しました。東京大学名誉教授の佐藤勝彦らが唱えたインフレーション理論によると、宇宙は138億年前に光よりも速く急激に膨張(インフレーション)したとされます。私たちには光が138億年かかる距離、つまり138億光年先までしか観測することができませんが、インフレーション理論が正しければ、その外側にも宇宙は広がっていることになります。

戸谷によると、その大きさは私たちに観測可能な宇宙の10の26乗倍以上、体積では10の78乗倍以上と考えられ、そこから計算すると、宇宙全体で、10の100乗個の恒星が存在可能になります。たしかに、それなら生命が誕生する星はごろごろあることになります。

時を隔てた二人の天文学者が唱えた説の共通点は、惑星上で生命が誕生するのはきわめて難しいということです。たしかに、タンパク質や核酸がその構成分子を正しくつながなくては生命にならないという呪縛は、簡単には解けそうもありません。

しかし、その一方ではいま、太陽系内、さらには太陽系外までも、生命探査の機運が急速に高まっていることもたしかです。その原動力となっているのは、惑星などで生命が誕生することは、それほど難しくはないと考える科学者が多数いるという事実でしょう。

このギャップを、私たちはどう埋めればいいのでしょうか。


地球で生命が誕生したことは奇跡なのか、必然なのか

さて、このたび筆者は『生命と非生命のあいだ』という本を出版しました。この本では、ホイルや戸谷が惑星上で生命が誕生するのはきわめて難しいと唱えている一方で、惑星などでの生命の発見を期待する機運が高まっている、そのギャップを埋めることができるのか、ということをテーマとして執筆しました。

この書では、まず生命とは何か、生命はいかに誕生したかについて、古代から今にいたる研究の流れを概観しています。とりわけ近年、地球外にもさまざまな有機物が存在することがわかり、そして、生命誕生のシナリオとして、「RNAワールド」が注目されています。

しかし、RNAワールドをまじめに考えると、どうしても「ホイル・戸谷問題」が浮上します。本当にRNAは地球上で誕生できたのでしょうか。筆者は、それに代わりうるモデルとして、「がらくたワールド」を提案しています。

この2つにかぎらず、これまでにさまざまな生命の起源説が唱えられてきました。では、それらのどれが正しいかを考えるには、何をどのように調べていけばいいのでしょうか。たちはだかる最大の障害は、生命誕生の現場についての情報が、現在の地球上にほとんど残されていないことです。タイムマシンがあったならば、一発で勝敗をつけられるのですが。

しかし、実はタイムマシンはあります。それは「宇宙」というタイムマシンです。生命の誕生、進化のさまざまなステップは、この宇宙のどこかに現在進行形で存在している可能性があります。

生命誕生のプロセスについては、20世紀に現れた「化学進化」という概念が主流になっています。一方で、19世紀頃より「生物進化」の議論が行われてきました。実は化学進化には誤解されている点が多く、正しい理解のためには進化の“先輩”といえる生物進化をみることが参考になるでしょう。

そして最後に、生命と非生命のあいだをどう埋めればよいかを考えます。両者はデジタル的に0と1に区分できるのでしょうか。それとも連続的につながっているのでしょうか。連続的なものには「スペクトラム」という言葉が使われることがありますが、もしかしたら生命においても「生命スペクトラム」という概念が成り立つのでしょうか。

地球で生命が誕生したことを奇跡と考えるか、それとも必然と考えるかは、人それぞれでしょう。本書がみなさんに、この問題についてより深く、より興味を持って考えていただけるための材料を提供できていれば、これ以上の喜びはありません。


・まさか…生命と非生命が「区別できない」とは…! それでも地球型生命に2つの「絶対必要な分子」があった(現代ビジネス 2024年4月23日)

※生命を定義することの難しさ

生命を定義しようとする試みは、多くの研究者によってなされてきました。いま述べたように生化学系の研究者は、生体内で反応が進行すること、ひとことでいうと「代謝」を重視することが多いようです。一方、分子生物学者は、DNAを重んじることから「自己複製」を重視する傾向があります。ほかには、オパーリンのように外界との「境界」の存在を重視する人もいます。

また、前回の記事でご説明したようにシュレーディンガーは、エントロピーという物理量から生命を定義しようとしました。

近年では、「進化」を重視するようになってきている傾向があります。米国ソーク研究所のジェラルド・ジョイス(1956〜)は、RNAの試験管内分子進化の研究で有名ですが、生命を「ダーウィン進化しうる自立した分子システム」と定義しました。これはNASAの「生命の定義」に採用されています。

一方、20世紀の終わりには、生命を定義すること自体の問題点も指摘されてきています。


私たちは、生命の「ごく一部」しか知らない

英国の生化学者ノーマン・ピリー(1907〜1997)は「生命という言葉の無意味さ」という論文の中で、生命と非生命は連続的なものであり、境界線を引くことはできない、としています。ノーベル化学賞を受賞したライナス・ポーリング(1901〜1994)も「生命は定義するより研究するほうがやさしい」と述べています。

なぜ、生命の定義がこれほど難しいのでしょうか。それは、私たちが1種類の生命しか知らないからです。たしかに地球上には、既知のものだけで175万種(環境省ウェブサイトより)、未知のものも考えればおそらく1億種をはるかに超える生物がいるのですが、これらはすべて、共通の祖先から進化してきたものであることがわかっています。

つまり、すべてはタンパク質と核酸(DNA、RNA)、そしてリン脂質の膜を使う生命形態であり、私たちはほかの形態の生命を知らないのです。

もし、私たちが第2、第3の生命を他の惑星あるいは地球深部などで見つけることができれば、私たちの生命に関する知識は大幅に増すことでしょう。


ガチに定義する前に「特徴」を整理してみよう

ここで、これから生命について議論していくために、とりあえず「定義」にはこだわらず、私たちの知っている地球生命の「特徴」を述べておくことにしましょう。

1. 地球生命は水と有機物に依存したものです。これが大前提です。
2. 地球生命は外界と区別する「細胞膜」を持っています。細胞膜はおもにリン脂質でつくられています。
3. 地球生命は細胞膜の中で化学反応を行います。これは「代謝」とよばれます。代謝は、酵素というタンパク質が触媒となって、コントロールされています。
4. 第四に、地球生命は「自己複製」を行うことにより、増殖します。
5. 地球生命は環境の変動に応じて「進化」(変異)します。



最後の2つ(4と5)が可能になるのは、核酸のおかげです。

以上のことから、「地球型」生命の誕生には、リン脂質、タンパク質、そして核酸が必要であることがわかります。

とりわけタンパク質と核酸は、両者がともにそろわなければ生体内でつくることができないものであり、地球生命の根源をなす分子と考えられます。そのため生命の起源研究では、タンパク質と核酸の起源が最重要課題と考えられてきたのです。


・これは「物質から生命が生まれる瞬間」かもしれない…地球生命に絶対必要なアミノ酸が、なんと「わずか数日」でできてしまった「衝撃の実験」(現代ビジネス 2024年4月26日)

※生物学の革新時代「1953年」

DNAの二重らせん構造が発見された1953年は、ほかにも生物学上の重要な発見がありました。たとえば英国の生化学者フレデリック・サンガー(1918〜2013)は、タンパク質のアミノ酸配列を調べる方法を開発し、この年に初めて、インスリンというタンパク質(膵臓でつくられるホルモン)の51個のアミノ酸の並び順(一次構造)を発表しました。

そして、米国の化学者スタンリー・ミラー(1930〜2007)によるアミノ酸の合成が発表されたのも、この年のことでした。

ミラーは1951年にカリフォルニア大学バークレー校で化学の学士を取得したあと、シカゴ大学大学院に入学しました。

彼が選んだのは、ハロルド・ユーリー(1893〜1981)の研究室でした。ユーリーは重水素の発見で1934年にノーベル化学賞を受賞し、その後、研究の興味を宇宙化学に移していました。



【写真】ハロルド・ユーリー


「初期の地球大気」2つの説

初期の地球大気について、当時は、火星大気のように二酸化炭素と窒素を主とするものだったとする説と、メタン(CH4)やアンモニア(NH3)など、水素を多く含むものを主とする(「還元性が強い」とよばれます)ものだったとする説が並立していましたが、ユーリーは後者であると考えていました。

大学院に入ってすぐに、ユーリーのセミナーに出席したミラーは、還元性の強い大気にエネルギーが加わって有機物が生成し、それが海に集められて生命が誕生したのではないか、という話に魅了されました。大学院で最初の1年は別の指導教員のもとで理論的な研究をしていましたが、その教員が他大学に移ったため、ユーリーの研究室に移りました。



【写真】スタンリー・ミラー

ここでミラーは、還元的な混合ガスから有機物をつくる実験をしたとユーリーに申し出ました。これに対してユーリーは、そのような結果のわからない研究ではなく、「隕石中のタリウムの分析」のような、確実に結果が得られる研究をするようにと説得しましたが、ミラーは引き下がりませんでした。とうとう根負けしたユーリーは、1年以内に結果が出なければテーマを変えることを条件に、ミラーに好きなように実験をさせることにしたのです。


実験室の「ミニ原始地球」

ミラーはユーリーとともに実験装置をデザインし、図「ミラーの放電実験装置」のような装置を組み立てました。左下の小さいフラスコは原始の海を模したもので、これを加熱して沸騰させると水蒸気が生じます。水蒸気は図の左側のチューブを通って上昇し、右上のフラスコでメタン・アンモニア・水素のガスと混じります。

このフラスコには電極が取りつけられていて、テスラコイルという高電圧を発生させる装置を用いて、電極から火花を飛ばします。これは火花放電とよばれ、雷を模したものです。また、右側のチューブは冷却器によって冷やされていて、水蒸気が通ると液体の水となり、放電によってメタンやアンモニアから生成したものとともに、左下のフラスコに戻ります。これは雨に相当します。



【図】ミラーの放電実験装置ミラーの放電実験装置

このようにして放電を続けたところ、2日目には、右上のフラスコにはタール状のものが付着し、左下のフラスコ中の水は黄色くなってきました。さらに放電を続けると、色はさらに濃くなりました。そこで、黄色くなった水を取り出してペーパークロマトグラフィーという方法で分析すると、グリシンなど、いくつかのアミノ酸が生成していることがわかったのです。

ミラーはユーリーの助力のもと、この結果を論文にして『サイエンス』誌に投稿しました。ユーリーは論文の共著者になりませんでした。もし、ノーベル賞受賞者である自分の名前が入っていると、自分だけが脚光を浴びると考えたためです。論文は『サイエンス』誌の1953年5月15日号に掲載されました。

この論文は多くの科学者の興味をひきました。化学進化の実験が数日でできるなんて、誰も考えていなかったからです。

次回は、この発見に沸いた科学界と、ミラーの実験によってもたらされた「光と影」を追っていきましょう。


・残念ながら、原始地球の大気に「メタンありき」は、思い込みだった…衝撃的だった「ミラーの実験」が残した「1つの功績と2つの罪」(現代ビジネス 2024年4月26日)

※アミノ酸は簡単にできる!

1953年にミラーの論文が発表されたときの話に戻りましょう。この論文は多くの科学者の興味をひきました。化学進化の実験が数日でできるなんて、誰も考えていなかったからです。

このあと、ミラーをお手本に化学進化の実験を始めるグループが続々と現れました。まず、材料については、原始地球大気は二酸化炭素を多く含むとする説と、メタンを多く含むとする説が対立していたと述べましたが、ミラーの結果を受け、多くの人がメタン派となりました。

しかし、ミラーと同じことをしても論文にはなりません。そこで、ミラーが考えた雷による放電とは別のエネルギーを考えてアミノ酸をつくろうとする実験が、1970年くらいまで続々と報告されました。

まず考えられたエネルギーは、火山の熱でした。マイアミ大学の原田馨(1927〜2010)とシドニー・フォックス(1912〜1998)は、放電の代わりに熱を使った反応装置をつくりました。とはいえ本物の溶岩の温度は約1000℃で、こんな温度で熱するとほぼすべての有機物はこわれてしまいます。しかし、大気が溶岩に触れたあと、すぐに冷やされたとしたらどうだろうか?

それを見るために原田とフォックスは、図「原田とフォックスの加熱実験」のような装置を組みました。



【図】原田とフォックスの加熱実験

大きなフラスコに入ったメタン・アンモニアと水蒸気を混ぜたガスは、右下の約1000℃に加熱した高温炉の中を通ったあと、すぐに炉から出て、左下の小さいフラスコに溜まっていきます。このときに生成物も溜まります。このようなサイクルを繰り返したあと、小さいフラスコ中の液体を分析すると、アミノ酸ができているのが見つかったのです。

この実験でわかったのは、高温の溶岩によってエネルギーがもたらされたあとは、混合ガスを急冷してやるのがミソだったということです。実はミラーの実験でも、火花の中では高温になりますが、そこから少し外れれば急冷されるところは共通しています。


太陽光を想定したカール・セーガンの実験

次に考えられたエネルギーは、太陽光です。原始地球上で最も大きいエネルギー源は、太陽でした。

太陽はスペクトル型ではG型星に分類される、宇宙でありふれた星で、核融合により巨大なエネルギーを生みつづけています。そのほとんどは可視光と赤外線で、これらは大気の分子の反応には、ほとんど寄与しません。反応に関係するのは主に紫外線ですが、そのエネルギー総量は雷や火山のエネルギーをはるかに凌駕します。

コーネル大学のカール・セーガン(1934〜1996)たちは、ミラーの実験などに使われたのと同様の混合ガスに紫外線を照射して、アミノ酸をつくろうとしました。しかし、アンモニアは紫外線を吸収しますが、メタンや水蒸気は紫外線をほとんど吸収しません。つまり、メタン・アンモニア・水だけでは、紫外線を当ててもあまり反応しないのです。

そこでセーガンたちは、紫外線を吸収する硫化水素を混合ガスに加えて、反応させてみました。その結果、やはりアミノ酸を合成することに成功したのです。


【写真】カール・セーガン

このほかのエネルギー源としては、地殻中に含まれる放射性元素から出る放射線や、隕石が衝突したときに生じる衝撃波などを模したエネルギーを同様の混合ガスにぶつけて、アミノ酸ができたという報告もありました。

なんのことはない、アミノ酸は意外にも簡単にできることがわかってきたのです。


ミラーの実験の「功罪」

ミラーの実験の意義はなんといっても、アミノ酸という生命に直結する分子が、単純なガスを混ぜて火花を飛ばすだけでできてしまうこと、つまり、化学進化が実験室で再現できることを示した点にあります。

オパーリンやホールデンが生命の起源を考えはじめた1920年代には、それが実験科学になりうるなどとは、考えられてもいませんでした。いうなればミラーの実験は、一種の「コロンブスの卵」であり、それを知った多くの科学者たちを、生命の起源研究に誘い入れました。これがミラーの最大の功績といえるでしょう。

しかし、その一方では、「罪」もありました。メタン・アンモニアを使った実験がうまくいったため、「原始地球大気にはメタン・アンモニアが多く含まれていたはずだ」という思い込みに多くの科学者がとらわれたのです。

原始大気の組成についてはミラーの実験のあともさまざまな議論が続いていたにもかかわらず、化学進化実験においては以後、およそ30年間も、メタンを多く含むガスを使うのが常道となりました。これがミラーの実験の1つ目の罪です。



【イラスト】原始大気の組成は、メタンを多く含むガスを使うのが常道となった


ミラーの実験「もう1つの罪」

その後、ミラーはユーリーとともに、さらに放電実験を続けます。彼らは化学者だったので、アミノ酸がどのような反応によってできたのかも明らかにすべきだと考えました。そこで、放電実験ではアミノ酸以外にどのようなものができているかを調べました。

その結果、放電を始めるとまず、ホルムアルデヒドと、シアン化水素という分子が増え、そのあとアミノ酸ができてくることがわかりました。このことからミラーらは、この2つの分子とアンモニアが反応して、まず、アミノアセトニトリル(NH₂CH₂CN)という分子ができたと考えました。

この分子に水(H₂O) が作用すると、CNがCOOHに変わって、グリシン(NH₂CH₂COOH)になります(図「ストレッカー合成」)。この反応は、化学者の間ではよく知られているもので、発見者の名前をとって「ストレッカー合成」と呼ばれています。火花放電では熱、光、衝撃波などが発生して化学反応が引き起こされ、非常に多種類の分子が生成するのですが、ことアミノ酸に関しては、こうした既知の化学反応式をあてはめることができると、ミラーらは主張したのです。



このため、その後のアミノ酸合成研究ではほとんどの研究者が、それが原始地球上のものであれ、宇宙であれ、まずはストレッカー合成を持ち出すようになりました。でも、ミラーの実験でアミノ酸が本当にストレッカー合成でできたのかどうかは、実はいまだに証明されていないのです。

アミノ酸合成も実際には非常に複雑な反応となることが多いにもかかわらず、単純な化学式で書き表せるという思い込みを与えたこと、これがミラーの実験がもたらした2つめの、そして最大の影の部分だと私は思います。


・20世紀の王道シナリオが「あり得ない」とひっくり返された…なんと、ミラーの「衝撃的実験」に惑星科学の進展が「再検討」を迫った(現代ビジネス 2024年4月30日)

※ニワトリが先か、タマゴが先か



「ニワトリが先か、タマゴが先か」という問題があることは、みなさんも聞いたことがあるでしょう。

実は、これはプラトンとアリストテレスの頃からあった生命の起源をめぐる論争で、ニワトリとタマゴのどちらが先にこの世に誕生したのかを問うものです。

1953年にDNAの二重らせん構造が明らかになり、分子生物学が興ると、タンパク質がなければ核酸はできない、また核酸がなければタンパク質はできないことがわかり、この問題は「タンパク質が先か、核酸が先か」という問題に置き換えられました。

タンパク質は、アミノ酸を正しい順番でつなぐことにより、触媒として働きますが、つなげる順番は、核酸の塩基配列により指定されます。しかし、その核酸もまた、合成されるには触媒であるタンパク質が必要です。つまり、両者がそろって初めて、生命というシステムは動きだすのです。しかし、タンパク質も核酸も複雑な高分子有機物ですので、原始地球上での化学進化の過程においては、その一方ならともかく、両者が同時にできたとは考えにくいところです。では、どちらが先にできたのでしょうか。

まず、核酸にはDNAとRNAがありますが、この2つに関してはRNAが先ということは間違いないとされています。RNAとDNAではDNAのほうが安定性が高い、つまり変化しにくいからです。最初になんらかの機能を持った核酸ができるまでは、試行錯誤が必要だったでしょうから、変化しやすいRNAのほうが適しています。

しかし、いったん機能を有するものができたあとでは、下手に変化されては困るので、より安定性の高いDNAの形で情報をしまい込むのが得策です。ということで、「ニワトリとタマゴ問題」あらため「タンパク質と核酸問題」は、「タンパク質とRNA問題」と読み替えることができます。

さらに、この問題は、先の記事〈まさか…生命と非生命が「区別できない」とは…! それでも地球型生命に2つの「絶対必要な分子」があった〉の図「地球生命の5つの特徴」にまとめた「地球生命の特徴」の中の、代謝と自己複製はどちらが先か、という問題とも考えられます。代謝はタンパク質、自己複製は核酸が担っているからです。


リボザイムの発見とRNAワールド仮説

タンパク質は触媒機能を持つので代謝はできるが、自己複製できない。核酸は自己複製できるが、触媒機能を持たない。つまりは両方ないとだめーーというところで、ニワトリとタマゴ論争はしばらく膠着状態となりましたが、その戦況を一変させるできごとが、1970年代末に起きました。

トーマス・ロバート・チェック(1947〜)は、テトラヒメナという繊毛虫のRNAを研究していたとき、ふつうはタンパク質(酵素)による触媒作用がなくては起きないような反応が、RNAだけで起きていることを見つけました。つまり、酵素の働きもしているRNAがあったのです。

チェックはこのRNAを、RNA(リボ核酸)の「リボ」と酵素(エンザイム)の「ザイム」をとって、「リボザイム」と名づけました。これとは別に、シドニー・アルトマン(1939〜2022)もRNAの触媒作用を研究していて、両者は1989年にノーベル化学賞を受賞しました。

リボザイムの発見を受けて、ウォルター・ギルバート(1932〜)は1986年に、最初の生命はRNAから始まったのではないか、という解説文を『ネイチャー』誌に載せました。

そのなかでギルバートは、誕生したばかりの生命はRNAだけを用いて代謝も自己複製も行っていたとして、そのような生命だけが生きていた世界を「RNAワールド」と名づけました。

RNAワールドの中で、やがてタンパク質をつくりだすRNAが現れれば、タンパク質のほうがRNAよりも優れた触媒作用を持っているので、RNAは触媒作用をタンパク質にまかせるようになるでしょう。このステージは、のちに「RNPワールド」(Pはタンパク質)とよばれるようになりました。

最後にRNAは、自身の持つ情報を安全に保存しておくために、DNAをつくり出します。このステージを「DNPワールド」とよびます。現在の地球の生命システムはDNPワールドです。

こうした生命進化についての考え方を「RNAワールド仮説」とよんでいます。


RNAワールドの「泣きどころ」

RNAが代謝と自己複製のどちらの機能も持っていることから、RNAワールド仮説はまたたく間に多くの生命の起源研究者、とりわけ分子生物学寄りの研究者を魅了し、現在も圧倒的な支持をとりつけています。

しかし、RNAワールドにも泣きどころがありました。それは、生命なき世界で最初のRNA分子をつくるのは、あまりにも難しいことです。

さきほどヌクレオシドの発見者として紹介したオーゲルは、原始地球上でのRNAの起源研究の第一人者でもありました。筆者は彼の生前に、何度か話をする機会がありましたが、RNAがそう簡単にできるものではないことを認識していて、彼の後継者たちがRNAの起源について楽観的に話しているのとは好対照でした。


惑星科学の進展が起こした「ちゃぶ台返し」

原始地球にメタン・アンモニアを多く含むような大気があれば、雷や紫外線をはじめとする豊富なエネルギーを用いて、アミノ酸やヌクレオチドなどの生命の材料となる有機物のモノマーは十分につくられたであろうことはわかってきました。

そこで次に、それらのモノマーから、モノマーが多数つながったポリマーはどのようにつくられるのか、原始細胞モデルはどのようなものか、タンパク質が先か核酸が先か、といった問題までもが考えられるようになってきました。そこからRNAワールド仮説も提唱されてきたわけです。

ところがここで、ちゃぶ台返しが起こったのです。

1950年代から、宇宙では探査機を用いた惑星探査が行われるようになり、その成果とともに、惑星科学が発展しました。それにともない、太陽系がどのようにしてでき、その中で惑星がどのようにして生成したかというシナリオが、20世紀前半にいわれてきたことから大幅に書き換えられました。

【イラスト】惑星科学が発展にともない、惑星生成のシナリオが大幅に書き換えられた

それは一言でいうと、静的な惑星生成論から、動的な惑星生成論へというパラダイムシフトでした。具体的には、惑星は直径10kmくらいの微惑星が激しくぶつかり合いながら誕生し、成長したと考えられるようになったのです。

その結果、諸説ありながら決着がついていなかった原始地球大気の組成についても、多くのことがわかってきました。主成分は二酸化炭素や窒素である可能性が高く、なんと、ミラーが考えたようなメタン・アンモニアを多く含む強還元型大気という説は、最もありえないと否定されてしまったのです。

これにより、ミラーやそれに続く研究者たちが考えてきたような、雷の放電や熱などのエネルギーが大気にふれてアミノ酸が大量に生成したという描像は成立しなくなりました。したがって、それに続く化学進化のシナリオも再検討を迫られることになってしまったのです。

その一方で惑星科学の進歩は、生命の起源研究に、まったく別の方向からの成果をもたらしもしました。地球外にはさまざまな有機物が存在することがわかってきたのです。そこで、これらが生命の材料になったのではないか、という考えが一気に主流となります。

地球外のどこでどのようにして有機物ができたのか、それが地球や他の惑星の生命とどのようにつながるのか、を見ていきましょう。