・日本人がプーチンに抱いていた6つの大きな誤解 今起こっていることとも見事に結びついてしまう(東洋経済オンライン 2022年3月23日)

印南 敦史

彼は親日家でもなければ反中でもなく、ナショナリストでも弱者の味方でもなく、独裁者であって暴力は常套手段だ
 
※通常の感覚の持ち主であれば、独裁者の考えていることはあまり理解できないはずだ。それに、少なくともこの国に暮らす私たちにとって、そういった人間がもたらす影響は直接的に実感しづらくもある。少なくとも、数週間前まではそうだったのではないか。

しかし状況は変わってしまった。

核兵器の脅威が、ここまで身近なものになるとは思いもしなかった──そう感じている方は、決して少なくあるまい。ウラジーミル・プーチンという独裁者が行っていること、これから行うかもしれないことには、残念ながらそれほどのインパクトがあるのだ。

だから私たちはいま、「なぜこんなことになったのか?」を知りたいと感じているわけだが、なにしろ相手は理解の及ばない人格の持ち主だ。では、どうしたらプーチン氏の頭の中を探ることができるのだろう? それは非常に難しいことでもあるが、なんらかのヒントになりそうな媒体も存在する。

たとえばその1つが、『プーチン幻想 「ロシアの正体」と日本の危機』(グレンコ・アンドリー著、PHP新書)だ。ウクライナ人である著者はここで、日本人の大多数が知らないプーチン氏の本性、そしてロシアの正体を明かしているのである。

日本人のロシア幻想、プーチン幻想を解く

ロシアやロシア人の本質を最もよく理解し、ロシアとの付き合い方について最も的確なアドバイスを与えられるのはウクライナ人です。なぜなら、ロシアとウクライナの関わりは日中の関わりよりもっと深いからです。ウクライナ人のほとんどはロシア語が分かります。だから多くの日本人に見えないもの、感じられないものが、ウクライナ人には分かります。

そこで、私は本書でウクライナ人として持っている知識や自然の感覚から、日本人のロシア幻想、プーチン幻想を解きたいと思います。(「はじめに」より)

著者によれば、ここで明かされている程度のロシアに関する理解は、ウクライナの一般人にとっては常識なのだそうだ。少なくとも、ここに書かれたロシアの本質を知らなければ、日本人はロシアやプーチン氏とのつきあい方を誤ってしまい、ひどい目に遭う恐れがあるともいう。

「そんな大げさな」と思われるかもしれないが、読んでみた限り著者の視点は客観的であり、過度な偏りはなさそうだ。だからこそ、認めたくない現実を突きつけられてしまうことにもなるわけだが。

しかしそれは、こうなってしまったいまだからこそ、知っておかなければならないことでもある。

ところで、「日本人はプーチン氏について誤解している」と指摘する著者は、ここで6つの“誤解”を挙げている。それぞれを確認してみよう。


① プーチンは親日?

「プーチンは日本の柔道を習っており、それを通して日本の伝統文化に理解を持っている。日本の明治維新に憧れてロシアの近代化を目指してもいるので、日本と友好な関係を築きたいに違いない」というような考え方(イメージ)に対して、著者は「プーチンはまったく親日ではない」と断言している。

ソ連の非をいっさい認めない

プーチンはソ連時代の歴史認識を持っており、第二次世界大戦に勝ったソ連の認識において、日本は恒久的な敗戦国である。プーチン自身が言っているように、ソ連崩壊は彼らロシア人にとって最大の悲劇である。したがって、ソ連の復活は政治指導者としての最大目的の一つである。第二次世界大戦における勝利がプーチンにとって正当性の源である以上、彼はソ連に少しでも非があったことを認めることができない。したがって、ソ連が日本に対して犯したすべての蛮行はプーチンの認識では「正当」となる。(177〜178ページより)

もちろん北方領土を日本に返す気もさらさらなく、それどころか北方領土を交渉材料として利用することにより、日本から利益を引き出すことをたくらんでいるのだという。したがって、日本をだまして金や技術を引き出すことを「親日」と呼ぶのは「お花畑」思考でしかないというわけだ。


② プーチンは反中?

反中どころか、プーチンはロシアの歴史上、最も親中の指導者。しかもプーチンの支配体制が続くなか、ロシアの対中依存度は高まる一方だという。

プーチンは自分の手でロシアを中国の勢力圏、つまり中華秩序の一員にしたといってよい。ロシア経済を中国に向かわせ、中国のロシア進出を容認したのもプーチンである。プーチンの政策の結果、膨大な数の中国人がロシアに移住し、中国企業はロシアの土地を大量に租借している。プーチンが完全に支配しているロシアのテレビでは中国がつねにべた褒めされ、親プーチンの言論人は中国の凄さと中露友好はいかに盤石かという点をつねに強調している。(178ページより)

プーチンは中国の頼みごとに無条件で応じており、中露の親密な軍事同盟、経済同盟はすでにできあがっている。注目すべきは、プーチンの価値観が中国共産党のそれと似ており、欧米の価値観とは決して相いれない点だ。むしろアメリカへの憎しみが、中露を地政学的な同盟国にしている。アメリカと対立するうえで中国の支援は必要なので、プーチンは中国に頭が上がらないのである。


③ プーチンは保守主義者?

プーチンは自国民を大量に殺すことによって権力を握った。プーチンの都合によって一般人や反体制派の政治家やジャーナリストはいつでも殺される。プーチンはロシアにおいて独裁的な恐怖体制を築き上げ、テレビ・プロパガンダによってロシア人の脳をコントロールしている。また、プーチンは全く不要な戦争を四回も起こして自他の国民を何万人も殺し、対米、対西洋の憎しみを煽動している。(179ページより)

こういった振る舞いが、安定的な発展を理想とする保守主義と関係あるはずがない。それどころかプーチン氏の内外政策は、共産圏独裁者の振る舞いそのものなのだ。


④プーチンはナショナリスト?

プーチンにとって、ロシア民族の運命は二の次の問題である。自分の利益のために、プーチンはロシア人が何人死んでも構わない。プーチンにとって重要なのは自らの権力と自分および側近の利益であり、ロシア民族の繁栄ではない。(180ページより)

プーチン体制と中国共産党は完全な互恵関係
 
本書でも克明に解説されているが、実際にプーチンはロシアの主権を次第に中国へ譲っており、中国によるロシア属国化を積極的に進めているようだ。中国のロシアに対する影響力が強くなればなるほど、プーチン体制の立場は盤石になるからである。

もちろん“ロシアの中国化”を積極的に推進するプーチンは、中国にとっても非常に都合のよいロシアの指導者だということになる。つまりプーチン体制と中国共産党は、完全な互恵関係にあるのだ。結果、将来的にロシア民族とロシア国家の存亡が危うくなったとしてもプーチンにとっては大きな問題にはならない。したがって、プーチンはナショナリストではないということになるのである。


⑤プーチンは国際金融資本と戦う勇者?

そもそも国際金融資本は、1つのまとまった意思のある主体ではなく、多くの資本家の寄せ集めだ。そして資本家にはそれぞれの利益があるのだから、すべての資本家に統一された意思などあるはずもない。そういう意味で、「プーチンは国家金融資本と戦っている勇者だ」という表現はおかしいのだと著者はいう。

そのうえ、プーチンがオリガルヒを追放し、富をロシア国家に戻した、という話も嘘である。プーチンは自分に楯突いたオリガルヒのみを追放し、従ったオリガルヒは優遇した。むしろプーチン時代のオリガルヒはプーチン政権以前のオリガルヒより何十倍もの財産を持っており、プーチンが権力を取ってからのほうがオリガルヒによるロシアの富の独占は遥かに進んでいる。(180ページより)

最も多くの財産を独占しているのはプーチン本人
 
そんな体制だからこそ、億万長者になっているのはプーチンの幼なじみや元部下など側近ばかり。当然ながら最も多くの財産を独占しているのはプーチン本人なので、オリガルヒを追放した弱者の味方=国家金融資本と戦う勇者であるはずがないのだ。


⑥プーチンは本当にやむをえない場合にしか暴力を使わない?

プーチンの出身組織であるKGBにおいて、暴力を振るうことと、人を殺すことはやむをえない最後の手段ではなく、最初から使われる通常手段である。実際にプーチンが権力を取ってから、彼は平気で大量に人を殺している。強調するが、一人や二人ではない。暗殺命令では数十人、謀略では数百人、プーチンが起こした戦争では数万人が殺されている。(181ページより)

そんな暴力が「やむをえない」のだという主張は決して成り立たず、最初から人を殺すつもりで実行した犯罪以外のなにものでもない。しかし彼にとっては権力の維持や利益追求だけが目的であり、それ以外は手段にすぎないのだ。

 “6つの誤解”に対する著者の見解は、プーチン氏の実像を見事に言い当てている。恐ろしいのは、それらがいま起こっていることとも見事に結びついてしまうことだ。

はたしてこれから、彼はどう進もうとしているのか。私たち自身の未来のためにも、直視し続けて行かねばならない。

※ブログ主コメント:上記の記述の一部は鵜呑みにはできないが、思い込みは厳禁である。



・いよいよ自壊が始まったプーチンのロシア帝国(JB press 2022年3月31日)

杉浦 敏広
 
※本稿では、旧ソ連邦・新生ロシア連邦における治安・情報機関の変遷とプーチン人物像を概観し、プーチン・ロシアの近未来を考察したいと思います。

第1部:旧ソ連邦・新生ロシア連邦の情報機関
 
プーチン大統領がKGB出身であることは秘密でも何でもありません。本人が公表しています。

本稿では、旧ソ連邦と新生ロシア連邦における情報機関の変遷を概観したいと思います。


1917年10月革命前夜

最初にKGB誕生の時代背景を概観します。当時のロシアは文字通り波乱万丈の歴史であり、興味が尽きません。

一発の銃声が引き金となり、1914年7月に第1次世界大戦が勃発しました。

帝政ロシアでは怪僧ラスプーチンが暗殺され、ロシアは大混乱。1917年3月12日(*旧暦2月27日)の「2月革命」によりニコライ3世は退位、ケレンスキー臨時政府が成立しました。

レーニンはかの有名な封印列車で亡命先のチューリッヒから敵国ドイツを通過(*「敵の敵は味方」)、サンクトペテルブルクに凱旋。

同年11月7日(*旧暦10月25日)、日本海海戦に参戦した巡洋艦オーロラ号の冬宮(*エルミタージュ)砲撃を合図に水兵が冬宮に突入、ケレンスキー内閣崩壊。

この「10月革命」によりレーニンを首班とするソビエト政権が樹立、ここにボルシェビキ(多数派)政権が誕生しました。

一方、ロシア国内では赤軍と白軍の内戦が勃発。この機に乗じ、日本軍はウラジオストックに上陸。

トルコ軍は黒海のバツーミ(*帝政ロシアのバクー原油輸出港)を制圧、ドイツ軍はウクライナ全土とクリミア半島を占領。

その後ボルシェビキ党は分裂し、かの有名なクローンシュタットの反乱が勃発。10月革命に参加した水兵が、10月革命の指導者に反旗を翻しました。

この頃から赤色テロが始まり、ポーランド人フェリックス・ジェルジンスキーを初代長官とする秘密警察(GPU)が誕生。

この秘密警察組織はその後何回か名称を変更して、ソ連国家保安委員会、現在の対外諜報庁(S.ナルィシュキン長官/旧KGB第1総局)や連邦保安庁(A.ボルトニコフ長官/同第2総局)と名前を変えながらも連綿と続くことになります。

なお、ライバルのGRU(赤軍参謀本部情報総局)はトロツキーにより1918年に創設された軍の諜報機関であり、『日本、北進せず』で有名なゾルゲはGRUのスパイです。


ソ連国家保安委員会/過去と現状

ここでソ連邦時代末期(1991年当時)の国家保安委員会を概観します。

●KGB議長:V.クリュチュコフ議長

●主要組織 :第1総局~第9局+国境警備隊(*兵力約30万人)(*第1総局=対外諜報/第2総局=国内防諜/第5総局=反体制派監視/第9局=クレムリン警備隊)

ちなみに、1975年レニングラード大学法学部国際学科を卒業した若きV.プーチンはKGBに入局。ドイツ語能力を買われ、第1総局第4課(欧州担当)に配属。西独・オーストリア担当となり、ジーメンス社を標的としました。

この組織は国境警備隊という軍事組織以外、アルファ・ビンペル・カスカードなどの特殊部隊を有していましたが、当時これらの組織はほとんど知られていませんでした。

モスクワにて1991年8月19日クーデター未遂事件発生の際、V.クリュチュコフ議長はアルファ部隊の指揮官カルプヒン将軍に出動を命令、エリツィン・ロシア共和国大統領逮捕を指示しました。

しかしこの時、アルファ部隊は抗命。エリツィン大統領は逮捕を免れ、最高会議ビルに籠城。

歴史に「もしも」は禁句ですが、もしもこの時エリツィンが逮捕されていればソ連邦は崩壊せず、現在のプーチン大統領も登場しなかったことでしょう。

このソ連邦クーデター未遂事件後、強大になりすぎたソ連国家保安委員会をエリツィン共和国大統領は5つの部局(対外諜報庁・連邦保安庁・国境警備隊・連邦通信庁・大統領警護庁)に分割しました。

それから2年後の1993年10月4日、エリツィン新生ロシア連邦初代大統領はアルファ部隊に出動を命令。2年前には最高会議ビルに一緒に籠城した、ルツコイ副大統領とハズブラートフ最高会議議長逮捕を命令。

これを歴史の皮肉と言わずして、何と言えましょうか。


治安・情報機関の機構改革(2003年3月)

5分割されたこれらの情報・治安関係機関は2003年3月11日付けプーチン大統領令により、再度大幅に解体・統合されることになりました。参考までに、新組織の概要は以下のとおりです。

●国家麻薬・薬物流通取締り監視委員会(*V.チェルケソフ長官/定数4万人)新設。

●国境警備隊(21万人):⇒連邦保安庁に統合

●連邦通信庁(53400人):⇒解体され、連邦保安庁と国防軍傘下に統合。

●税務警察(5.3万人):⇒解体され、2万人を内務省、3.3万人を国家麻薬監視委員会に統合。

●内務省:⇒内務省麻薬対策局(人員7千人)を国家麻薬監視委員会に統合。

新設の国家麻薬監視委員会議長には、プーチン側近のKGB同僚(*第5総局勤務)V.チェルケソフ前北西管区大統領代表が任命されました。

この人事により、プーチン側近のシロビキ(力の省庁/情報・軍・治安関係者)三羽烏、S.イワノフ国防相・N.パートゥルシェフ連邦保安庁長官・V.チェルケソフ長官が軍・情報・治安機関を掌握したことになります。


治安・情報機関の機構改革/シロビキ幹部の大異動(2016年)

その後、プーチン大統領周辺では2016年に入り、シロビキ幹部の大規模な人事異動がありました。

2016年に入ってからの主要人事は以下のとおりです(SPB=大統領警備局)。

2016年2月:SPB出身のA.ジューミン国防次官(43歳)がトゥーラ州知事代行に就任。

2016年4月:SPB出身のロシア内務省国内軍V.ゾロトフ総司令官が、4月に新設されたロシア国家親衛隊の総司令官(閣僚待遇)に就任。

2016年5月:Ye. ムーロフ連邦警護庁長官(70歳)からの辞職願を受理して、解職。

2016年8月:プーチン大統領の盟友S.イワノフ大統領府長官(63歳)が辞任して、知日派のA.ヴァイノ大統領府副長官(44歳)が長官に昇格。

 
では、上記一連の人事異動が何を意味するのか、プーチン大統領は何を求めていたのか考察します。

2016年の人事異動の特徴は、従来“影の存在”であったプーチン大統領の副官が“表の舞台”に登場してきたことです。

表の舞台で政治経験を積ませた上で、これらの若手人材の中から後継候補者を選定するプーチン大統領の意図が透けて見えてきます。

当時のプーチン大統領が求めていたもの。それは、プーチン大統領周辺のシロビキ間の力の均衡を回復することでした。

強大になりすぎたFSB(連邦保安庁)やSVR(対外諜報庁)勢力に拮抗する新たな勢力を台頭させることにより、プーチン政権の安定化を図るものであったと筆者は推測します。

A.ジューミン氏は大統領の身辺警護を担当する連邦警護庁出身であり、2012年より警護庁副長官、2014年から国軍参謀本部情報総局(GRU)副長官。2015年中将に昇進、同年12月国防次官に就任。

プーチン大統領側近グループの一人で、プーチン大統領のアイスホッケー仲間です。

プーチン大統領もプレイする「夜のアイスホッケー・リーグ」ではゴールキーパーのポジションを務めています。出身地はクルスク、43歳、既婚。

プーチン大統領にとり命の恩人であり、2014年2月にはウクライナのヤヌコビッチ大統領クリミア半島救出作戦の指揮を執り、クリミア半島併合作戦の総指揮官とも噂されています。

現政権幹部の信任も厚く、彼に欠けているものは政治手腕のみ。

そこで2016年、プーチン大統領は彼に政治家としての修業の場を与え、大統領後継者として育成するとの見方が有力でした。

プーチン大統領は2016年4月5日、国家親衛隊新設構想と、連邦麻薬流通取締庁(FSKN)と連邦移民庁(FMS)を廃止して全権限を内務省に移管する構想を発表。FSKNの V.イワノフ長官(66歳)はKGB時代のプーチンの上司にあたります。
 
国家親衛隊は従来の内務省国内軍を母体として創設され、特別任務機動隊オモン(OMON)や特殊即応部隊ソーブル(SOBR)、国営警備会社オフラーナなどを吸収し、国内治安や対テロなどを目的とする強大な治安軍隊が誕生することになりました。

国家親衛隊総司令官には大統領令により、V. ゾロトフ内務省第1次官兼国内軍総司令官が就任。ゾロトフ氏は閣僚待遇となり、国家安全保障会議メンバーにも選出されました。

換言すれば、2016年の機構改革により、旧ソ連邦時代の国家保安委員会の後継機関たる対外諜報庁や連邦保安庁に拮抗する、新たな武力機関が創設されたことになりました。


プーチン大統領周辺人事/大統領警護隊の地位向上(2022年)

ロシア・プーチン大統領周辺の側近事情が今、大きく揺れ動いています。

現在何が起こっているのか結論から先に申せば、プーチン大統領周辺の力の均衡が、旧KGB第1総局(対外諜報/現SVR=対外諜報庁)と第2総局(国内保安/現FSB=連邦保安庁)重視政策から、旧KGB第9局(要人警護/現FSO=連邦警護庁)人脈重用に移りつつあります。

連邦警護庁は米国で言えば大統領を警護するシークレットサービスですから、これはプーチン大統領が暗殺を恐れていることを示唆しています。

すなわち、プーチン大統領は旧第9局人脈を登用し始め、SVR/FSB人脈のロシア政府内の要職や知事職を徐々にFSO とその傘下のSPB(大統領警護局)人脈が占めるようになりました。

上記より今後、FSB やSVRの相対的地位低下が予見されます。

換言すれば、連邦警護庁と対外諜報庁や連邦保安庁の間で対立が表面化することも予見されます。

付言すれば、プーチン大統領が政府要人と会う場面では5メートル以上離れた席で会談していますが、これはコロナ感染を恐れているのではなく、暗殺を恐れている証左です。

小型拳銃であれば、5メートルも離れていればまず命中しませんので。


第2部 プーチン大統領の人物像

プーチン大統領誕生(2000年3月現在)

V.プーチン氏は1975年、レニングラード大学法学部卒業後、国家保安委員会第1総局第4課(西欧担当)に入局。KGBには計9局あり、第1総局は対外諜報を専門とする最重要部局でした。

プーチンKGB少佐は1980年代後半の5年間、東独ドレスデンに勤務。ベルリンの壁崩壊も経験しています。

得意のドイツ語を生かし、西独スパイ網の管理官(ケース・オフィサー)となり、ライプチッヒや東ベルリンにも一時勤務。

プーチン少佐は1987年11月21日、「ドイツ(東独)・ソ連邦友好黄金勲章」を授与されました。

彼は後に、「ドレスデン駐在時代が一番幸福であった」と述懐しています。

プーチン少佐はドレスデン駐在中、中佐に昇進。1990年に東独勤務終了後、帰任して辞職。同氏はKGB予備役大佐として1990年に予備役編入。

その後、レニングラード大学にて学生の監視、サプチャク市長の側近として、サンクトペテルブルク副市長などを務めました。

プーチン氏は1998年7月に連邦保安局長官として、ジェルジンスキー広場に建つ懐かしのルビアンカのKGB建物に戻ると、KGB幹部を前にしての第一声が「生まれ故郷の懐かしい両親の家に戻ってきたようだ」。

これがプーチン長官開口一番の心情吐露。すなわち、彼は生粋のKGBマンと言えましょう。

プーチン首相兼大統領代行は2000年3月の大統領選挙で当選。同年5月、新大統領に就任しました(当時47歳)。

プーチン首相の大統領就任後、プーチン氏の人物像に関する記事はマスコミに登場しなくなり、プーチン大統領の個人情報や家族情報が載るとそのマスコミが閉鎖される事例も出てきました。

しかし大統領選挙中はプーチン候補に関する記事が数多く掲載されており、当時サハリン駐在中の筆者はそのような記事を収集・分析しておりました。

今回は記事の一つを紹介します。現在のロシアでは掲載不可能な記事ですが、当時は堂々と掲載されており、その意味では今では貴重な情報になりましょう。

モスクワの週刊新聞紙「ベルシア」2000年#2はプーチン特集でした。

一面トップ記事として、東独シュタージ(秘密警察)の制服を着たプーチン少佐の写真を掲載。ドイツ語のフラクトゥーラ(飾り文字)で“Das ist Putin”(これがプーチンだ)と大書しています。

ただし、飾り文字を使用したのはヒトラーを連想させようとしたものと推測しますが、これは間違い。ヒトラーは飾り文字を廃止しました。

当時インターネット上で発表されていたプーチン首相の経歴は1975年から1990年まで空白でしたが、「ベルシア」#2はこの空白を埋める貴重な資料でした。


プーチン大統領代行の人物像(2000年1月現在)

プーチン首相は2000年3月の大統領選挙で当選。生粋のKGB機関員の大統領就任はソ連・露の歴史上初めてのことになりました。

旧ソ連邦ではL.ブレジネフ亡き後、Yu.アンドロポフKGB議長が書記長に就任しましたが、彼は元々外交官です。

1956年のハンガリー動乱の際、当時のソ連駐ハンガリー大使がアンドロポフであり、ソ連軍介入を要請した人物です。

アンドロポフ書記長就任にあたり、イメージ・アップのため、西側諸国に対し「彼は英語が得意であり、こよなくジャズを愛する」という偽情報を流したのもKGBです。

プーチン新大統領就任にあたり、「彼は信頼がおけ、首尾一貫しており、決断力がある。勤務以外ではゲーテとシラーをこよなく愛する、筋金入りの愛国者」との人物像が流れました。

この人物像を流した人物こそ東独シュタージのプーチン相棒M.ヴァルニッヒにて、彼は現在、ノルト・ストリーム②社の社長です。

プーチン大統領代行誕生後の2000年1月、露マスコミには、大統領代行が唱える「強いロシア」と表裏一体を成すロシア国益論が台頭しました。

ロシア史を習った人は、「第三ローマ」論を聞かれたことがあると思います。当時、筆者は久しぶりにこの言葉を聞いた時、我が耳を疑いました。聞き間違えたのかと思ったのです。

16世紀の概念が、プーチン大統領代行誕生と共に突然ゾンビのように蘇りました。

ビザンチン帝国の首都コンスタンチノープルは1453年に陥落。最後の皇帝コンスタンチヌス11世は首都で戦死。

その姪美貌のソフィアは、ローマ教皇の仲介により、モスクワ大公国のイワン3世に嫁ぎました。ビザンチン帝国の紋章「双頭の鷲」が、モスクワ大公国に継承されたゆえんです。

イワン3世の孫、イワン4世(1530~1884年)の渾名はイワン雷帝。恐怖政治を行い、雷帝(グローズヌィ)と称せられたが、頭脳明晰、有能な統治能力を発揮。日本では織田信長の時代です。

弱冠17歳にして「皇帝」(ツァーリ)を名乗り、カザン汗国、アストラ汗国、シビル汗国を併合して、領土を拡大。ちなみに、現在のシベリアはこのシビル汗国が語源です。

「タタールのくびき」を脱し、ビザンチン帝国の後継者としての地位を確立しつつあったイワン雷帝は自己の帝国と帝位の正当性を求め、ここでロシア正教の神学者が考え出した理論が「第三ローマ」論です。

「第一のローマ」は「ローマ帝国」そのものであり、「第二のローマ」は「ビザンチン帝国」、「第三のローマ」が「モスクワ」であるという理論を創作・展開しました。


第3部:プーチン大統領の力の源泉

ロシア産石油と天然ガス

プーチン大統領の国家エネルギー戦略

プーチン氏は大学の卒業論文にて天然資源の国家統制の重要性を強調しました。

プーチン首相は2000年5月大統領に就任。就任後の石油・ガス会社再編成の過程は、まさに国家エネルギー政策の具現化でした。

エリツィン前大統領の「弱いロシア」の時代に石油工業省は解体され、大手生産公団は二束三文で民営化され、後にオリガルヒと呼ばれる新興財閥に搾取されました。

プーチン新大統領誕生後、ロシアの石油会社は政権に忠実な上昇組と批判的な下降組に分かれ、プーチン新大統領は民営化された石油会社の国家統制を強化・再統合したのです。

ガス工業省は解体されず、コンツェルン「ガスプロム」に変貌。天然ガスの輸送方法はガスパイプライン網であり、パイプラインの分割は不可能のため、統一組織として生き残りました。

これが、現在のガスプロムです。

今では、ガスプロムは世界最大のガス会社、ロスネフチは世界最大の石油会社に成長。これらの大企業が生み出す富がプーチン大統領にとり「力の源泉」になりました。

現在の世界最大の産油国・産ガス国は米国であり、米国は石油とガスの純輸出国です。

原油の性状(比重や硫黄分含有量等)は採取される油田鉱区毎に異なり、油価に反映されます。

ロシアの代表的油種ウラル原油は、西シベリア産軽質・スウィート原油(硫黄分0.5%以下)とヴォルガ流域の重質・サワー原油(同1%以上)のブレント原油で、中質・サワー原油(同1.5%程度)です。

露ウラル原油の輸出ブランド名はREBCO(Russian Export Blend Crude Oil)で、2006年10月にNYMEX(ニューヨーク・マーカンタイル取引所)に登録されました。

ちなみに、日本が輸入しているロシア産原油はサハリン-1ソーコル(鷹)原油・サハリン-2サハリンブレンド・ESPO原油は軽質・スウィート原油で、日本はウラル原油を輸入していません。

参考までに、2019年のロシア産原油輸入シェアは5.1%、2020年3.4%、2021年3.6%でした。

2022年2月24日のロシア軍のウクライナ全面侵攻を受け急騰した油価は先週急落。

この結果、ウラル原油と他の油種との価格差が過去最高のバレル30ドルとなりました。

これは、露ウラル原油が市場から敬遠されていることを示唆しています。

米国はロシア産原油(ウラル原油)と重油を輸入しています。特に、2019年から増えました。

米国は従来、ベネズエラ産重質油を輸入していましたが、ベネズエラの大統領選挙に介入した結果、同国との外交関係が悪化。

ベネズエラ産重質油が入らなくなり、2019年から代替品としてロシア産原油(ウラル原油)と重油輸入を拡大。これが、2019年から米露エネルギー貿易が急拡大した背景です。

米EIA(エネルギー省エネルギー情報局)発表のロシア産原油・石油製品・石油(原油+石油製品)輸入シェアは以下の通りです。

この数字からも、原油なのか・石油製品なのか・石油(原油+石油製品)なのか、言葉(単語)を正確に使うことがいかに重要であることかお分かりいただけると思います。

日本の場合は上述どおり石油製品を輸入していないので、結果として「原油輸入=石油輸入」になります。この辺から原油=石油と報じているのかもしれませんが、言葉は正確に使いたいものです。

米国はロシア軍のウクライナ全面侵攻に対する経済制裁措置強化の一環として、ロシア産石油(原油+石油製品)の輸入禁止措置を発表。

ベネズエラ産重質油の代替原油たるロシア産原油(ウラル原油)と重油の代わりに、また元のベネズエラ産重質油の輸入再開交渉に入りました。

米国はメキシコやブラジルとも重質油供給拡大問題に関する交渉を開始。かくしてロシアは石油・天然ガス市場を失いつつあり、ロシア経済衰退は必至と言えましょう。

繰り返しになりますが、原油と石油は異なります。

米国のロシア産石油禁輸に関して日本では今でも原油禁輸と報じられていますが、正しくは石油禁油です。

ロシアの石油を報じるのであれば、マスコミ関係者はもう少し勉強した方がよいと思います。


エピローグ/自壊する帝国プーチン・ロシア

沈みゆく船から真っ先に鼠が逃げ出すがごとく、プーチン周辺では側近のプーチン離れが加速しています。

側近が次々と離反するプーチン政権は早晩自壊必至と言えましょう。

政権中枢からA.チュバイス大統領特別代表が辞任して、ロシアを去りました。

彼は無名のプーチンKGB予備役大佐をレニングラード市役所からクレムリンに就職の世話をした大恩人です。

彼の“ひき”がなければ、現在のプーチンは存在しません。その恩人がウクライナ戦争に反対して辞任しました。

ロシア中銀のE.ナビウーリナ総裁も辞表を提出しましたが、プーチン大統領は辞表を受け付けなかった由。

彼女は西側金融界から信頼されている、数少ないロシア高官の一人です。彼女が辞任すれば、ロシア金融界は崩壊するでしょう。

A.ドボルコビッチ元副首相も政府系スコルコボ財団総裁を辞任しました。

残る大物はA.クードリン会計検査院総裁です。彼は初期プーチン政権では財務相と副首相を務めた、ロシア金融界の大物・専門家です。ロシア石油基金を創設したのもクードリン元財務相でした。

この意味でも、彼の去就が注目されます。

今までのプーチン大統領の対米外交は上手く進展していたと筆者は考えております。後1週間我慢すれば、望み通りのものが手に入らなくとも、多くの外交成果が期待できたはずです。

象徴的な言い方をすれば、「ミンスク合意②」から7年間待ったのですから、あと7日間待つことはプーチン大統領の選択肢にあったはず。

そして、1週間後にはロシアの歴史の新しい1ページが拓かれていた可能性も十分あったと、筆者は今でも考えております。

では、なぜあと7日間我慢できなかったのでしょうか?

外交交渉が成立・合意すると困る勢力が存在したことが考えられます。そして、困る勢力とは畢竟、プーチン大統領本人だったのかもしれません。

最後に、今回のウクライナ侵攻とプーチン大統領の近未来を総括したいと思います。ただし、現在進行中の国際問題ですので、あくまでも2022年3月28日現在の暫定総括である点を明記しておきます。

筆者の推測ですが、ウクライナへのロシア軍関与は当初、「ロシアがウクライナ東部2州の親ロシア派が支配する地域を国家承認する→その国からロシアに対し、治安部隊の派遣要請を受ける→ロシア治安部隊が平和維持軍として派遣される」との限定的作戦だったと考えます。

期首目的はウクライナ限定侵攻のはずが、プーチン大統領に対してウクライナ短期制圧可能との楽観的情報のみが報告され、プーチン大統領の野望によりウクライナ全面侵攻となったと推測します。

そう考えると、すべて辻褄が合います。ウクライナ全面侵攻2日後には、ロシア国営ノーボスチ通信は、誤って予定稿の「勝利宣言」を流してしまいました。

対ウクライナ全面侵攻に踏み切ったことはプーチン大統領の誤判断であり、この戦争はロシアの戦争ではなく、“プーチンの戦争”と言わざるを得ません。

プーチン大統領が当初描いていた電撃作戦による短期決戦・ウクライナ制圧構想は挫折しました。

ロシア国内では既に厭戦気分も出ており、今後支持率低下は必至と筆者は予測します。

プーチン大統領支持率が低下するとロシア国内が流動化することも予見され、今回の軍事侵攻は「プーチン時代の終わりの始まり」を意味すると考えます。

ロシアはプーチン大統領の所有物ではなく、ロシア悠久の歴史の中で彼は一為政者にすぎません。

その一為政者がロシア国家の信用を失墜させ、ロシアの歴史に最大の汚点を残す侵略者になりました。 


・キーウ敗北軍の再構築でさらなる大打撃被るロシア軍(JB press 2022年4月13日)

渡部 悦和
 
※ロシアのウラジーミル・プーチン大統領が2月24日に開始したロシア・ウクライナ戦争(露宇戦争)は既に50日が経過しようとしている。

過去10年間、ロシア軍の近代化と戦力向上について多くのことが語られてきたため、戦争開始以前は、「ロシアは世界最大かつ最強クラスの軍隊を保有している」と広く信じられていた。

軍事力は米国には及ばないが、ウクライナのような軍事的弱小国を征服する能力はあると思われていた。

プーチンは、2日間で首都キーウを占領し、ウォロディミル・ゼレンスキー政権を打倒し、ロシアの傀儡政権を樹立し、ロシアがコントロールするウクライナの建設を夢想した模様だが、その試みは見事に失敗した。

7週間にわたるウクライナでの戦争で、ロシア軍は首都キーウを占領できず、大きな損害を出して撤退せざるを得ない状況になった。

ロシア連邦軍の評判は地に落ちている。そして今、ロシア軍はウクライナの他の地域でも劇的な成功は望み薄で手詰まり状態になりつつある。

2014年のロシアのクリミア半島併合に対する経済制裁ですらロシアの製造業、特に軍事産業に大きな影響を与え、西側諸国の部品を必要とする武器の製造を困難にした。

例えば、ロシアの最新戦車「アルマータ(T-14)」は、西側諸国の部品が入手できずに量産(当初の計画では2020年までに2300両の製造を予定していた)を断念した。

世界の軍事専門家が「なぜアルマータが戦場に登場しないのか」という疑問に対する答えがここにある。

2022年の経済制裁は、2014年のそれに比較にならないくらいに厳しい。

西側から半導体やベアリングが入手できず、最新鋭の軍事装備品が製造できないロシアはもはや軍事大国とは言えない状況になるであろう。


1 ロシアが敗北したわけ:ロシア側の要因
 
露宇戦争の初期作戦において、ウクライナ軍がロシア軍に勝利したことは明白である。

ウクライナ軍は、特にロシア軍の主攻撃であった首都キーウ正面において、ロシア軍に大打撃を与え、ロシア軍を撤退せざるを得ない状況にした。

この項では、ウクライナが強大な大国と思われたロシアとの緒戦において勝利したのはなぜかについて、ロシア側の原因に着目して記述する。

独裁者プーチンの戦争

今回の戦争に対してはその結果も含めてプーチンにすべての責任がある。

独裁者プーチンが自ら戦争の実施などの重要事項を決定した。プーチンの決定は、プーチンとプーチン以外の断絶を明らかにした。

戦争をやる気満々のプーチンと戦争に乗り気でないプーチンの側近たち、特に国防相セルゲイ・ショイグやロシア連邦軍参謀総長ワレリー・ゲラシモフの間には断絶がある。

プーチンを今まで支えてきたシロビキ(治安・国防関係者)、オリガルヒ(新興財閥)、ロシア軍がプーチンについていけない状況になっている。

20年以上にわたりロシアのトップに君臨したプーチンは裸の王様になっている。

裸の王様には正しい情報が流れない。プーチンが喜ぶ情報しか彼に届かないで、彼にとって不都合な情報は届かない状況になっていると言われている。

この状況がロシア軍を過大評価し、ウクライナ軍を過小評価するという致命的な結果を招いてしまった。

ロシア軍を過大評価しウクライナ軍を過小評価してしまった

プーチンは、ロシア軍を過大評価し、ウクライナ軍を過小評価してしまった。

その結果、戦争を始める前に行う情報見積(敵の能力や敵の可能行動に関する見積)や作戦見積(我に関する見積で、行動方針やその結論を含む)が極めて不適切なものとなり、その見積に基づいて作成される作戦計画が問題だらけになってしまった。

例えば、2日間で首都キーウを占領し、ゼレンスキー政権を排除し、傀儡政権を樹立し、ウクライナ全体を数週間で占領するなどの計画は非現実的なものになってしまった。

今回の初期の作戦では大きく分けて北、東、南方向からの攻撃を19万人の兵力で約19万人のウクライナ軍に対して実施してしまった。

通常、攻撃側は防衛側の5倍の戦力で攻撃しなければ成功しないのが原則だ。

この原則に従うと95万人の兵力が必要であるので、そもそもロシア軍の攻撃は失敗するのが必然だったのだ。

甘い見積や計画のために、食料・飲料水、弾薬、燃料などの兵站が機能しなくて大問題を引き起こしてしまった。

「素人は戦略を語り、プロは兵站を語る」という格言があるが、兵站なくして戦争の勝利はあり得ない。

この兵站の問題は深刻な問題で4月12日の時点でも解決していないし、今後とも大幅に改善することはないであろう。

その他の敗北の原因は、ウクライナ軍・ゼレンスキー政権・ウクライナ国民の頑強な抵抗や西側諸国の経済制裁に対する過小評価、情報戦の失敗、航空優勢獲得のための航空攻撃・ミサイル攻撃が不完全、ロシア軍の練度・士気の低さ、厳寒期の寒さ対策の欠如による凍傷の多発などが列挙できよう。


ロシア陸軍の中核である「大隊戦術群」の致命的な欠陥

ここで、軍事的に非常に重要な部隊編成の欠陥について記述する。

ドゥプイ研究所(TDI:The Dupuy Institute)は、トレヴァー・ドゥプイ(Trevor N. Dupuy)が設立した研究所で、軍事紛争に関連する歴史データの分析を主とした学術的研究機関だ。

TDIがツイッター(@dupuyinstitute)で、「ロシア地上軍の中核である大隊戦術群(BTG:Battalion Tactical Group)の欠陥がロシア軍の作戦失敗の大きな原因である)と本質的な主張しているので紹介する。

BTGとは、簡単に言えば、大隊規模の任務編成された諸兵科連合(combined arms)チームのことである。

第2次世界大戦以降、すべての主要な軍隊が諸兵科連合チームを採用している。

図1を見てもらいたい。BTGは増強された機械化歩兵大隊で、3個の歩兵中隊に砲兵中隊、防空小隊、通信小隊、工兵小隊、後方支援部隊などで編成され、総計で兵員700~1000人(この中で歩兵は200人)、戦車10両、装甲歩兵戦闘車40両の部隊だ。

ここで注目されるのが歩兵の数が200人と極端に少ない点である。

ロシア軍は、170個のBTGを編成したが、その中で128個のBTGが今回の戦争に参加し、37~38個が壊滅的損害を受けている。

128個中38個の損害は30%の損害であり、軍事の常識で30%の損耗を被るとその部隊は機能しなくなる。

特に主攻撃であった首都キーウを包囲し攻撃したBTGの損害は最大50%という情報もあり、この正面が攻撃をあきらめて撤退したのは当然のことであった。

図1:「大隊戦術群の編成」



ドゥプイ研究所はツイートでBTGの問題点を列挙しているが、主要な指摘は以下の通りだ。

・ ロシア軍が現在BTGを重視しているのは、利用可能な人員が不足しているためである。BTGはチェチェン紛争の際に便宜的に使用され、2013年にロシア国防省のマンパワーが少ないことへの対策として全面的に採用されたものである。

・ロシア軍のBTGとドクトリンは、マンパワーを犠牲にして、火力と機動力を重視して構築されている。

・ 西側のアナリストは、ロシアのBTGはリアルタイム(またはほぼリアルタイム)で長距離砲撃をネットワーク化することができると考えていた。例えば2014年のゼレノピリア攻撃*1のように。

(なお、ゼレノピリア攻撃とは、2014年7月11日の早朝、ロシア領土内からロシア軍によって発射されたロケット弾幕が野営していた37人のウクライナの兵士と国境警備隊員を殺害した攻撃のことだ)

・BTGは、実際にはこれが機能しないことが判明した。安全な手段で通信することさえできないし、ましてや遠距離で素早く効果的に狙いを定めて攻撃することはできない。このため、BTGの戦闘力の優位性はほとんど失われている。

・ロシアのBTGは有能な諸兵科連合戦術を実行できないように見える。第1次世界大戦以来、諸兵科連合は近代的な火力・機動戦術の基本中の基本であったから、BTGは基本的に失敗の組織である。

・これは、効果的な歩兵支援の欠如に大きく表れている。BTGの歩兵は、ウクライナの機械化・軽歩兵の対戦車キラーチームが、ロシア軍の装甲戦闘車(AFV)、歩兵戦闘車(IFV)、自走砲を攻撃するのを防ぐことができない。装甲部隊の防護は歩兵の主要な仕事である。

・これは歩兵部隊が有効でないためか、BTGの歩兵の数が足りないためかは不明であるが、おそらく両方であろう。

・実際、BTGは、妥当な戦闘損耗で、防御された市街地を攻撃し占領するのに必要な歩兵部隊の質と量を欠いている。

・BTGの人員構成がスリム(約1000人以下)であるため、多くの消耗を被ると戦闘力と効率性が著しく低下する。

・BTGのパフォーマンスが、ロシア軍の人員と訓練に内在する欠陥によるものか、それとも教義上のアプローチの欠陥によるものかを判断するには、徹底的な分析が必要である。しかし、ここでもまた両者に原因があると思われる。

・いずれにせよ、これらの問題は短期的には改善されそうにない。この問題を解決するためには大規模な改革が必要である。

以上のようなドゥプイ研究所の主張は妥当だと思う。ロシア軍が露宇戦争に勝てない要因が根本的なものであるならば、今後のロシア軍の苦戦は明らかであろう。


2 選択肢を失いつつあるロシア軍
 
セントアンドリュース大学(スコットランド所在)のフィリップス・オブライエン教授は、ロシア・ウクライナ戦争についてツイッターや有名雑誌への投稿など精力的に情報発信を行っている。


ロシア軍の規模は小さすぎる

キーウの戦いでの失敗後、ロシア軍は東部と南部の軍を統合し、ドンバスのウクライナ軍の包囲殲滅などの大規模な攻勢を再開しようとしている(図2を参照)。

図2:「4月11日の戦況図」



問題は、ロシア軍の作戦が、小さすぎるロシア軍に依存していることである。

東部で大規模な作戦を展開し、ウクライナの陣地を急速に突破してウクライナの主要都市を奪取するには十分な戦力と新たな戦術・戦法が必要だ。

つまり、敗北した部隊を迅速に再編成して補給し、以前の失敗から多くを学び、複雑な作戦を勝利に導く戦術・戦法を採用する必要がある。

ロシア軍は、今までこれらすべての点で失敗してきた。

ロシア軍はおそらく、東部や南部で大規模な攻撃を成功させる代わりに、作戦開始以来行ってきたように、兵力の維持に苦労し、兵站に苦しむことになる。

ある地域では少しずつ成果を上げ、別の地域では押し戻されることになるだろう。

これは、何よりもまず、ウクライナに投入されたロシア軍の規模が小さすぎるためであり、その他のロシア軍も、指導者が実際に効果を上げることができると信頼できるような兵力を有していないためである。

ロシア軍は特別に大きいというわけではなく、実際には、戦闘力の点で中型の軍隊に過ぎない。

ロシアは19万から20万人の兵士でウクライナに侵攻したが、この部隊にはロシア陸軍のまともな戦闘力を持つ部隊の約75%(170個のBTGから128個BTGが戦争に参加していると仮定)を含むと考えられていた。

これまでのところ、この75%のロシア軍最高の部隊は苦戦している。

キーウ周辺で敗れ、多くの死傷者を出した後、急遽撤退を余儀なくされ、北ウクライナには多くの破壊または放棄された装備が散乱している。

南部と東部でも、ドンバスのイジウムに向けて少しずつ前進しながら、南西部のヘルソンでは実際には後退させられており、3週間前からほとんど動きがない状態となっている。

敗戦で大きな損害を出した部隊を再使用する長期戦は難しい

もしロシア軍の状態が良ければ、プーチンはウクライナ以外に配置されている部隊を投入し、損害を出している侵攻軍を助けることができるだろう。

しかし、実際にはその逆であるように思われる。

つまり、ネオナチの傭兵(民間軍事会社の私兵「ワグネル」)などを除いて、ロシア指導部はキーウの戦いで敗れた部隊を再使用しようとしていている。

これは、通常の軍事的常識では理解できない話だ。

キーウ正面の戦いで敗北した兵士たちは6週間の戦闘を経験し、多くの仲間が殺されるのを見て、ウクライナ軍を恐れるようになっている。

兵器を整え再編成し、新たな戦場へ移動する前に、何よりもまず休息が必要なのだ。

そのためには、よく組織された軍隊でも通常数週間かかるし、ロシア軍にとっては兵站が再び大きな足かせになる可能性がある。

ロシア兵を早く悲惨な戦争に再び戻そうとすることは、プーチン指導部のパニックの表れであり、プーチン政権にとって大きなリスクとなる。

ロシア軍の兵士がウクライナへの派兵を拒否したという話はすでにある(空挺部隊のような精鋭部隊の一部も拒否している)。

再投入された部隊は、完全に崩壊状態になる可能性がある。

人間は、戦争の緊張に長く耐えることは難しいし、敗戦した軍隊はその緊張をうまく受け止められない場合が多いのだ。

これは、ロシアの兵力がウクライナ全土を占領するのに十分ではないことが原因だ。

南部と東部の一部を占領するのに十分な兵力はあるかもしれないが、その後にそれらの地域を保持しようとすると、良質な部隊が残っていない。

ロシアがより長い戦争をするためには、全く新しい軍隊を創設し、訓練し、装備を与える必要がある。

ロシアがウクライナで直面している基本的な問題は、その軍隊があまりにも小さく、ロシア政府が信頼する兵士が少なすぎて、実際に戦えないことだ。

ロシア軍は、多くの人が想像しているよりも悪い状態にある可能性が高い。

つまり、ロシア軍は今後、マリウポリの占領などの小さな戦果を得ることがあっても、プーチンが戦争開始にあたり夢見たような大戦果を得ることはなく、戦争が数年間継続する公算が高くなっている。

最後に、我々日本人は露宇戦争から多くの教訓を学び、我が国の問題だらけの安全保障体制を改善する努力をすべきであろう。