・プーチンの異常なウクライナ「執着」の源...1000年に及ぶ歴史から完全解説(NewsWeek日本語版 2022年3月10日)
クリスタプス・アンドレイソンズ(ジャーナリスト、在ラトビア)

(上)東方正教会を国教としたキエフ大公のウラジーミル1世
※<ウクライナとロシアの対立の原因は、文化や宗教をめぐって起こったキエフ大公国にまでさかのぼるあまりにも古い軋轢にある>
ウクライナの危機については、経済や安全保障の観点からさまざまな解説がなされている。だが、それだけでは事の本質が見えてこない。ロシアとウクライナの紛争に関しては、文化的、歴史的、宗教的な背景を知ることが重要だ。
それは「ロシア」とは、「ロシア人」とは何なのかという問いにさかのぼる作業。そして古い「神話」をめぐって、その正しさはわが方にあると、どちらが主張できるのかという点に集約される。
昨年7月12日、ロシア政府の公式ウェブサイトに、ウラジーミル・プーチン大統領による「ロシア人とウクライナ人の歴史的な一体性について」という論文が掲載された。プーチンをはじめとして多くのロシア人の考えを形成する歴史的な視点を知る上で、重要な資料だ。
まず、プーチンや多くのロシア人は、ロシア人とウクライナ人を同一の民族と見なしている。ロシア人は「大ロシア人」、ウクライナ人は「小ロシア人」と呼ばれる。ベラルーシについても同様で、国名は「白ロシア人」を意味する語に由来する。
1547年にイワン4世が戴冠したとき、公式の呼び名は「全ロシアのツァーリ(皇帝)」だった。「全ロシア」とは、キエフ大公国の後継国や諸公国を指している。

キエフ大公国は、9世紀のバイキングを祖とするリューリク朝の治世下にあった。リューリク朝はノブゴロドで発祥し、その後882年にキエフに遷都。キエフはリューリク朝の諸公国の大首都となった。この頃のモスクワは僻地で、初めて文書に記されたのは1147年だった。
キエフ大公国を祖とする3カ国
ロシアとウクライナ、ベラルーシの関係が他の旧ソ連諸国とのそれと大きく異なるのは、起源とする国が同じだという点だ。
この3国は、いずれもキエフ大公国を文化的・政治的な祖としている。プーチン自身もこの考えを信奉しており、自身の論文にこう書いた。
「キエフの君主は、古代ルス(ロシア)において支配的な地位にあった。これは9世紀後半からの慣例である。『原初年代記』には、オレグ公がキエフについて語った『ロシアの全ての都市の母になれ』という言葉が残されている」
プーチンも示しているが、ロシアとウクライナの密接な関係を示す説の裏付けの大半は宗教に絡んでいる。始まりは、988年に東方正教会を国教としたことで知られるキエフ大公のウラジーミル1世だ。
ウラジーミル1世が正教に改宗し、ビザンティン帝国(東ローマ帝国)の皇女を妃に迎えたことで、この帝国にさかのぼる正統性の系譜が始まることになる。
1113〜25年にキエフを統治したウラジーミル2世モノマフは、「全ルスのアルコン(支配者)」という「ギリシャ式」の呼称を好んだ。モノマフの名は、ビザンティン帝国皇帝コンスタンティノス9世モノマコスにつながる系譜に由来する。
ビザンティン帝国は、正教会のトップを務める総主教による戴冠が行われた皇帝を擁し、諸国の王やアルコンの上に立つ存在だった。
だがこの秩序は、東方からの征服者に揺るがされる。まずモンゴル人の侵入を受けたキエフ大公国がいくつもの属国に分割され、さらに1453年にオスマン帝国によってコンスタンティノープルが陥落。栄華を誇ったキエフは荒廃した。ロシアの王たちの上に君臨していたビザンティン帝国の皇帝もいなくなった。
15世紀後半にモンゴル勢が弱体化し始めると、当時は「ロシア」と呼ばれていた旧キエフ大公国の一部が正統性を取り戻そうとした。しかし西部地域では、現在のウクライナ西部の大半がポーランドに併合され、ベラルーシがリトアニアに吸収されるなど、さまざまな脅威にさらされていた。
かつてキエフ大公国の中心地だったウクライナがその名を得たのは、この頃だった。ウクライナと呼ばれるようになった根拠については、主に2つの説がある。
多数の歴史学者とロシア政府が支持する説では、1569年にキエフ大公国の中心地だったキエフがポーランド王国の支配下に入ると、この地域は古代スラブ語で「国境の隣」を意味するウクライナと非公式に呼ばれるようになった。ポーランド側から見れば、平原に接し、タタール人などの半遊牧民がいたためだ。
モスクワを「第3のローマ」にする
その一方、ウクライナの学者と政府は、ウクライナ語の「oukraina」と、古代スラブ語の「okraina」の意味の違いに着目する。どちらも語源は古代スラブ語で「境界」を意味する「kraj」だが、前置詞に重要な違いがある。「ou」は英語の「in」、「o」は「a b o u t 」や「around」を意味する。
つまりウクライナ語の「oukraina」は「中央に所属する土地」を意味し、キエフ大公国を取り囲む土地、あるいは直接的に従属する土地を指す。こじつけのようだが、ウクライナ人にとってはキエフ大公国の系譜への強い帰属感をもたらす説だ。
一方でロシアは、正教会における自らの位置付けと、ローマ帝国に連なる国家的・政治的な正統性の起源を唱える必要に迫られた。「第2のローマ」であるコンスタンティノープルがイスラム国家のオスマン帝国に征服されたため、モスクワが「第3のローマ」にならなくてはいけない。
ロシアの言い伝えでは「2つのローマが陥落し、第3のローマは興隆する。そして第4のローマはないだろう」とされた。
この視点はロシアの権力構造に有用だった。ロシアの総主教の支援を得て、君主による中央集権的な統治が実現し、モスクワが切望していた正統性も得られた。ロシアの統治者は、ビザンティン帝国皇帝の血を引く人間と結婚し、自分たちが帝国の継承と信じるものを正当化するため、さまざまな神話をつくり出した。
しかし、ちょっとした問題があった。ローマを支配していなければローマ皇帝とは呼ばれないように、ロシア全土を支配していなければロシア皇帝とは呼ばれない。キエフ大公国の文化的・歴史的・宗教的な重要性は、実に大きかった。だが西方の失われた領土を奪還し、一方では東方への拡大を目指すロシアの皇帝たちにとってそれは問題ではなかった。
ロシア帝国は、その文化的記憶から他の東スラブの言語を消し去ろうとした。ウクライナやベラルーシが一度も存在したことがないかのような姿勢を取ったのだ。
ロシア帝国によればウクライナ人は昔からロシア人であり、独自の歴史を持ったことがない。ウクライナ国家主義はロシアの建国神話にとって脅威であり、「全ロシア国民」をつくり出す彼らの試みにとっての脅威だった。
現代に入り、ソビエト連邦初期の理想主義者たちが違う考え方を取る。彼らはウクライナ、ベラルーシとロシアを「ソビエトの理想によって結び付いた別々の国」と考えていた。
しかしその理想主義はすぐに崩れ、ヨシフ・スターリンはウクライナつぶしに躍起になった。1932年から翌年にかけて起きたホロドモール(スターリンの政策が引き起こした人為的な大飢饉)では、何百万人ものウクライナ人が命を落とした。
学校でウクライナ語を教えることが禁止されたり、学校そのものが閉鎖されるなど、ウクライナ文化への弾圧が行われた。
ソ連が確立したい物語
スターリンの後継者となったニキータ・フルシチョフは自身もウクライナ人で、49年までウクライナ共産党の第1書記を務めていた。そのため彼は、ウクライナを徹底的に弾圧するよりも効果的な政策として、ソ連の政治体制により統合しつつ、いくらかの自治権を認めた。その一環として57年には、地域別の国民経済会議が設置された。
「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国」は、ソ連の法律と矛盾しない範囲で、またソ連の各組織の指示の下であれば独自に法律を定める権利を得た。キエフはソ連内のごく普通の首都とされ、他のソ連構成国と比べて何ら特別な配慮や特権を与えられることはなかった。東スラブの歴史におけるキエフの特別な位置付けは、ないものとされた。ソ連が確立したい物語に合わなかったからだ。

(上)16世紀のウクライナとロシアの地図
しかしプーチンのロシアにとっては、こうした歴史上のキエフの位置付けは大きな問題だ。今のロシアは、ソ連時代のような融通無碍な考え方も、ロシア帝国時代のような広大な領土も持っていない。
プーチンはロシア皇帝のようになりたがっている。将来の歴史書に「ロシアの領土を統合した偉大な人物」と書かれることが、彼の野望だ。
プーチンは常に自分を輝かしい指導者、そして勝利を得た征服者として見せようとしてきた。2012年の大統領選に勝利して「偉大なロシアに『ダー(賛同する)』と言った全ての人に感謝する」と涙ながらに語った言葉や、クリミア併合について議会での演説で「彼らは自らの土地に戻った」と述べて併合の歴史的重要性を強調したことなどからも、それがよく分かる。
彼の望みはソビエトのレガシーを自分の功績にすること、それと同時にかつての皇帝たちのような存在として見られることだ。そのためにはロシア帝国時代の建国神話や価値観を復活させる必要があり、だからキエフを支配下に置く必要があった。
結局「第3のローマ」となったのは、栄光を取り戻したキエフ大公国だった。ウクライナが独自路線を行き、キエフ大公国を自らのレガシーであると主張し、ロシア正教とは別の、独自の正教会を設けたことは、いずれもロシア国家の建国神話に反する。
これらの神話がロシアを、そしてロシア人であることの意味までも定義付けている。これがなければ多くのロシア人にとって、ロシアはロシアでなくなる。
建国神話が崩れればロシアが分裂する
プーチンは、社会を結び付けているこの建国神話が損なわれれば、ロシアは再び分裂すると考えている。自分がそれを許せば、自らのレガシーが台無しになることも。彼にとって、ウクライナ独自の言語、文化、歴史は、存在してはならないものだ。
一方で、ウクライナも同様の問題に直面している。ウクライナはロシアではなく自分たちこそが、キエフ大公国の真の継承国だと考えている。キエフ大公国と現代ロシアを切り離して考え、独自の歴史を示す必要があるのだ、と。
ロシアが今後も自分たちの定義するロシアとしての立場を確立したいと考える限り、そしてキエフ大公国の他の継承国がロシアの介入なしに自分たちの将来を決め、独自の言語や歴史、伝統を持ちたいと考え続ける限り、軋轢の種は残る。
経済的な問題は解決できるだろう。安全面の保障をすることも、新たな条約を結ぶことも可能だ。だが、古くからあるこれらの問題は違う。建国神話の支えを必要としない新しい考え方と、新しい正統性の基盤を備えた全く新しい動きがなければ解決できない。
第3のローマはもはや滅び去るべき時ではないか。そして、これらの古い神話を葬り去るには、決して第4のローマを築いてはならない。
・ロシアのウクライナ侵攻、原因は宗教対立!? 残酷な歴史を徹底解説!(DIAMOND ONLINE 2022年3月19日)
宮路秀作
※ロシアとウクライナの意外なつながり
ロシアのウクライナ侵攻には「宗教問題も背景の1つにある」と考えることができます。まずその前提として、宗教の基本知識、「正教会」から解説していきます。
正教会とは?
「正教」とは、いわゆる「オーソドックス」と呼ばれるもので、「正しい教え」を意味します。これはギリシャ語の「オルソドクシア」に由来する言葉です。正教会は、原始キリスト教からの連綿性があると自認しています。
原始キリスト教とは、イエスの死後、12人の弟子たち(十二使徒)がイエスの教えを広めていった頃、つまり伝道活動を始めた頃のものを指します。後に強固な共同体ができあがり、祈りなどの形式が徐々に整えられていき、さらに集会の維持・継続に必要な決まり事なども定められていきました。
この時代の十二使徒の教えを、現代までゆがめることなく伝えており、またそれを今もなお保持していることを使徒継承といいます。十二使徒の一人であるアンドレイは、黒海北部地方で伝道を行ったとされており、ドニエプル川河畔の丘陵地帯で祝福し、十字架を設けました。
その十字架を設けた場所こそが、現在のキエフだったと考えられています。ちなみに、十二使徒の一人であるピーターは、このアンドレイの弟にあたる人物です。
正教会には基本的に「1ヵ国に1つの教会組織を置くこと」という原則があります。たとえば、ロシアに置かれた正教会は「ロシア正教」と呼ぶように、国名もしくは地域名を冠した組織を形成しています。しかし、正教会にはカトリックでいうところのローマ教皇庁のような世界全体を統括する組織は存在しません。
正教会における高位聖職者を「主教」と呼び、正教会における最高位聖職者を総主教といいます。現在のコンスタンティノープル総主教庁の総主教は、1991年よりバルトロメオ1世が勤めています。ちなみに、コンスタンティノープル総主教は「全地総主教」とも称されます。
世界全体を統括する組織は存在しないといいつつも、コンスタンティノープル総主教庁の名前を出したのは、数ある正教会の総主教庁の中で筆頭格であると、誰もが目している歴史的な背景があるからです。
正教会信者の誰もが「コンスタンティノープル総主教庁が序列でいうとトップだよね」と解釈しているということです。
ロシアとウクライナ、宗教の歴史
2018年8月31日から9月4日まで、トルコのイスタンブールにおいて「シノド」と呼ばれる正教会主教会議が開かれました。そこでコンスタンティノープル正教会総主教であるバルトロメオ1世は、ウクライナに2人のコンスタンティノープル総主教代理を派遣する決定を行います。
それまでのウクライナ正教会は、「ロシア正教会モスクワ総主教庁系」と「ウクライナ正教会キエフ総主教庁」に分かれていましたが、これを統一して、ウクライナに独立した正教会を作りたいという動きがありました。この動きはソビエト崩壊によるウクライナ独立の時からありました。
現在のウクライナに存在する正教会は、17世紀以降は「ロシア正教会の管轄下」にありました。1917年のロシア革命にさいし、「ロシア正教会」の一教区ではなく、「ウクライナ正教会」として独立すべきではないかという議論がなされ、それ以後、「ウクライナ正教会としての独立は悲願」となっていきます。
しかし、ロシア正教会はウクライナの教会独立は認めようとはしませんでした。そのため、ウクライナには大きく3つの正教会が併存します。
① ロシア正教会モスクワ総主教庁の管理下に置かれたウクライナ正教会
② ①から勝手に独立。先述の独立を悲願として活動してきたウクライナ独立教会
③ ①から勝手に独立。ウクライナ政権からの支持を得て活動してきたウクライナ正教会(キエフ総主教庁系)の3つです。
それぞれの関係性を見ていきましょう。
対立の火種
本来1つの国に1つの正教会が置かれるのが原則ですが、ウクライナは正教会が分裂状態にあるといえます。先に「勝手に」と書いたのは、どこにもその独立の正当性を認める組織が存在しないからです。
特に3つ目のキエフ総主教庁は、モスクワ総主教庁と対立する形で結成されたものです。さらにウクライナ独立教会とキエフ総主教庁は、正教会の教会法上は非合法であるため、他の正教会からは正式な聖職者とは見なされず、洗礼などの行為は有効とは見なされないとのことです。「勝手に」独立しているからです。
教会の独立は、地域を管轄する教会の承認が必要となりますが、モスクワ総主教庁の管理下に置かれたウクライナ正教会は、何度交渉しても承認しないモスクワ総主教庁を飛び越えて、コンスタンティノープル総主教庁と交渉します。先述の通り、コンスタンティノープル総主教庁はその歴史的な経緯から正教会の代表格とされていますので、第一人者と交渉しようとしたわけです。
ポロシェンコ大統領の大胆な行動
2007年にヴィクトル・ユシチェンコ大統領(当時)が交渉に当たりましたが上手くいかず、2017年にペトロ・ポロシェンコ大統領(当時)が交渉したところ条件付きで独立を承認しました。正教会にはローマ・カトリック教皇のような世界全体を統括するような組織は存在しないため、コンスタンティノープル総主教庁が独立問題に介入するということは異例中の異例でした。
その条件とは、ウクライナに存在する3つの正教会を統一させて一つにすること、これに同意することでした。
しかし、モスクワ総主教庁は自分たちが管轄しているところで、いくら代表格と見なされているからといってコンスタンティノープル総主教庁が介入するのはおかしいと強く抗議しました。抗議には管轄権を簒奪しようという意思があるのではないかという強い疑念があったわけです。
そしてウクライナの教会は、あくまでモスクワ総主教庁の分派に過ぎないとの立場を明確にし、モスクワ総主教庁管轄下のウクライナ正教会もこれに続きました。
結局2018年12月15日、聖ソフィア大聖堂にて統一公会が開かれました。公会の最中、宗教的なシンボルではないはずのウクライナ国旗を掲げた群衆が広場を埋め尽くし、当時のポロシェンコ大統領は「モスクワ総主教庁からの独立に向けて第一歩を踏み出した!」と宣言しました。ちなみに、ポロシェンコはNATO加盟を目標とした人物でもありました。
ウクライナの正教会の統一を宣言したとはいえ、これはウクライナ政府が政治力をもってして成し遂げた出来事でした。
こうして誕生した新生ウクライナ正教会はコンスタンティノープル総主教庁の承認を得て誕生したため、宗教上は非合法ではないにせよ、世界の正教会からはほとんど祝福されていないという状況となっています。
宗教問題も横たわるロシアのウクライナ侵攻
「第1のローマ」とはローマ帝国、第2のローマは東ローマ帝国のことです。そしてロシアは「我こそは東ローマ帝国の後継国家である」という自認から、「第3のローマ」を自称しています。こうしたことも背景の一つとして、ウクライナやベラルーシはロシアの一部であると思っている節があります。
そして、ローマ正教会から勝手に出ていったウクライナ正教会が許せないだけでなく、聖地キエフを首都に戴いているウクライナのことを許せないという想いがあるのかもしれません。
ウクライナのゼレンスキー大統領は、ロシアのウクライナ侵攻が始まった4日後、コンスタンティノープル総主教バルトロメオ1世と電話で会談しています。改めてウクライナ正教会がロシア正教会から独立したことを確認しています。
ロシアのウクライナ侵攻には宗教問題も背景の一つとしてあると考えられるわけです。
・「ウクライナ問題とはロシアのアイデンティティ問題」ウクライナ侵攻は30年近く前から予測されていた!【橘玲の日々刻々】
2022年6月2日
https://diamond.jp/articles/-/304102
※米ロシアによるウクライナ侵攻から3カ月がたったが、いまだに戦争終結のシナリオは描けない。プーチンは当初、数日で首都キーウを占領し、ゼレンスキー大統領を逮捕したうえで傀儡政権を樹立できると考えていたとされる。これが戦略的な大失態であることが明らかになって、いまは東部のドンバス地方に兵力を集め、支配地域の拡大を狙っているようだ。
もちろん、ウクライナが国土の割譲を受け入れるはずもなく、停戦の条件は少なくとも2月24日時点の境界線まで戻すことだろう。だがこれでは、プーチンにとって、これだけの犠牲を払ってなにも得られないことになり、権力の維持が困難になるのではないか。
ロシアへの経済制裁にともなう石油・ガスなどのエネルギー資源の高騰や、世界的な穀物不足により、中東・アフリカなど脆弱な国々の政治・社会が不安定化している。ドイツやフランスは早期に落としどころを見つけたいようだが、この状況を収拾する道はまだ見えない。
両国の関係はなぜこんなにこじれてしまったのだろうか。
現在の紛争は30年ちかく前にすでに予想されていた
中井和夫氏はウクライナを含む旧ソ連圏の民族史・現代史の専門家で、1998年に刊行された『ウクライナ・ナショナリズム 独立のディレンマ』(東京大学出版会)が今回のウクライナ侵攻を受けて「緊急復刊」された。
本書は、1991年のソ連崩壊からウクライナの独立、ロシア・ベラルーシ・ロシアによるCIS(独立国家共同体)結成に至る時期に書かれたものを中心に、不安定なこの地域が今後、どうなるのかを論じている。
一読して思ったのは「ウクライナ問題とはロシアのアイデンティティ問題」であることと、現在の紛争は30年ちかく前にすでに予想されていたことだ。私は「構造的な問題はいずれ現実化する」と考えているが、これはその不幸な事例ともいえる。
本書の「おわりに」で中井氏は、「旧ソ連圏が抱えている民族問題で最も深刻なのは、ロシア連邦の外に住むロシア人の問題である」として、ウクライナには1200万人の「残留ロシア人」がいることを指摘している。そのうえでこう書いているが、現在のウクライナ侵攻を評したものだとしてもなんの不思議もない。
ロシア人の多くがソ連解体後、ロシアが不当に小さくされてしまった、大国としてのプライドが傷つけられた、と感じはじめている、彼らのナショナリズムは傷つけられたのである。「傷ついたナショナリズム」は、失われたものを、民族の誇りを取り戻そうとする。「帝国復活」を叫ぶ排外主義的保守派が選挙で躍進するのにはこのような理由があり、基盤があるのである。
ロシア・ナショナリズムが強まり、帝国の復活が主張されると、すぐに問題にならざるを得ないのがロシア以外の地に「差別」を受けながら暮らしているロシア人の問題である。不当に苦しめられている在外同胞を救出せよという声がロシア・ナショナリストからあがるのは当然ともいえよう。そしてこの在外同胞救援は「イレデンティズム(本来ロシアの領土であるべき外国の領地を回収しようとする運動)」にすぐに転化する可能性が高いので、ロシア人の多く住んでいる近隣諸国との国境紛争になる可能性が充分にある。
ノーベル賞作家ソルジェニーツィンの提言はその後のロシアを予見
1990年秋、在米ロシア人作家ソルジェニーツィンがソ連の2つの新聞(合計2650万部)に『甦れ、わがロシアよ~私なりの改革への提言』を発表して大きな議論を巻き起こした。
1918年生まれのソルジェニーツィンは、スターリンを批判したとして1945年に逮捕され、強制収容所で8年の刑期を終えたあとカザフスタンに永久流刑された。フルシチョフの「雪解け」後に発表した『イワン・デニーソヴィチの一日』が国内でベストセラーになったものの、ブレジネフの時代になるとふたたび迫害され、1970年のノーベル文学賞受賞のあと、74年に国外追放された。ソ連体制下の強制収容所(グラーグ)の実態を告発した大作『収容所群島』はこの時期に書き継がれた。
ドイツ、スイスを経てアメリカに移り住んだソルジェニーツィンは、やがて西側の物質主義を批判するようになり、正教による「聖なるロシアの復活」というヴィジョンを語りはじめた。
ソルジェニーツィンの「提言」を中井氏は、「ソ連という国に未来はなく、ソ連を解体することでロシアを救わなければならない」として「帝国維持派」を批判、「ロシア建設派」を支持したものだと述べる。「植民地を失った日本が戦後発展したように、また帝政ロシア時代の領土であるポーランドとフィンランドを失ってロシアが以前より強国となったようにロシアは今非ロシアの11の民族共和国を彼らが欲しようと欲しまいとロシアから切り離さなければならない」とこの老作家は述べた。
ソルジェニーツィンの構想する「新しいロシア」の建設にとって鍵となるのは「スラヴの兄弟」たち、すなわちウクライナとベラルーシだった。「ロシア、ウクライナ、ベラルーシの全員が、キエフ・ルーシという共通の出自をもっており、キエフ・ルーシの民族がそのままモスクワ公国を創ったのだ」とするソルジェニーツィンは、「血のつながっているウクライナを切り離そうとするのは不当な要求であり、残酷な仕業である」とウクライナの兄弟たちに「同胞」として呼びかけた。ロシアとウクライナとベラルーシのスラヴ三民族で「汎ロシア連邦」を形成すべきだとしたのだ。
それに対してユーラシア主義は、「ロシアがヨーロッパとアジアからなっており、スラヴ系諸民族とトルコ系諸民族、キリスト教徒とイスラム教徒から構成されている」とする。このロシア二元論では、ロシア帝国はかつてのモンゴル帝国の再現であり、ソ連時代の公式見解では、1917年2月のボリシェヴィキ革命によって解体に瀕していたロシア帝国がふたたびユーラシアの帝国として統合されたことになっていた。
ソ連が解体の危機に瀕していた1990年前後には、大ロシア主義と小ロシア主義が対立した。小ロシア主義者は、「ロシアは周辺の諸共和国に恩恵を施しすぎている、ロシアがロシアのためにその人的・物的資源を活用すればロシアはもっと豊かな国となる。ロシアは「帝国」から普通の「ロシア」に回帰すべきである」と主張した。だがこの現実主義は、93年にはロシアの歴史的使命を唱える「大ロシア主義」へと転換していた。「ロシアは本来大国であり、小さくなりすぎた。大国としての威信を傷つけられた」と感じるナショナリズムが、帝国再建の願望や独立した周辺諸国に対する「侮蔑と怒りの感情」とともに復活したのだ。
その意味でソルジェニーツィンの提言は、汎ロシア連邦からユーラシア主義につながるその後のロシアを予見したものといえるだろう。だがここで中井氏は、ユーラシア主義が成り立つためには「ロシア人もタタール人などアジア系民族もともに「ユーラシア人」としてのアイデンティを受け入れる必要がある」と述べ、それが虚構(空理空論)であることを指摘している。