・陰謀論の研究、日本を牛耳る田布施システムとは(NEWSポストセブン 2017年1月6日)

※日本の政治はどこで決められているのか?

今、インターネットを中心に陰謀論は過去最高の盛り上がりをみせている。たとえば、この国の政(まつりごと)はどこで決められているか、というテーマがよく話題になっている。永田町か、霞が関か。

否、田布施(たぶせ)である──そう“一部の人たち”は答えることだろう。

田布施とは、山口県の人口約1万6000人の町。安倍晋三首相の祖父・岸信介や大叔父・佐藤栄作の両元首相らを輩出した土地だが、「この小さな町が日本を支配する」という説がまことしやかに囁かれている。『陰謀論の正体!』の著者・田中聡氏が解説する。

「明治維新後、田布施近隣出身の伊藤博文、木戸孝允、松岡洋右らが政府の要人となり、日本を牛耳っているという説で、『田布施システム』と総称されます。

この説の基盤になっているのが『明治天皇替え玉説』で、明治天皇の即位の裏には、幕末に伊藤博文らによって孝明天皇が暗殺され、当時の周防国熊毛郡田布施村に住んでいた大室寅之祐という人物が替え玉になり明治天皇として即位したという話です。この田布施システムによって、現在の安倍首相も政権を維持しているというものです」

田布施システムが注目を集めたのは、昨夏の参院選だった。東京都選挙区から無所属で出馬し、ラップを駆使して演説を行なう「選挙フェス」で若者を中心に25万7036票を獲得した三宅洋平氏が、この田布施システムに言及したのだ。

三宅氏は落選したものの、25万人もの有権者が田布施システムを唱える候補者を支持する結果となった。

※週刊ポスト2017年1月13・20日号


・日本を支配する町? 「田布施システム」の謎を安田浩一が解き明かす(現代ismedia 2018年9月8日・15日)

安田浩一

ネット界隈でしきりに取りざたされる噂や陰謀論──その真相にジャーナリストの安田浩一が本気で挑む。題して「安田浩一ミステリー調査班(通称YMR)」。

テーマは「田布施(たぶせ)システム」だ。

山口県の小さな町が、日本を代表する政財官界の大物を次々と輩出、我が国を影で操っているという「噂」の真偽とは?

なぜ、このような噂がネットを駆け巡るようになっていったのか?


※不思議な噂

駅前の旅館で荷を解いた。創業110年の古宿。

かつては"富山の薬売り"など行商人の常宿だったらしいが、その日の客は私一人である。

若旦那に訊ねた。

この町には何か不思議な力があるのでしょうか──。

「うーん」。唐突な問いかけに、若旦那は腕組みして考える。

「まあ、閉鎖的な雰囲気を感じるかもしれませんが、いたって普通の田舎町だと思いますよ。いろいろとウワサされていることは知っていますが……」

一瞬見せた含み笑いが、私の目的を言い当てているようにも思えた。

なにせここは特別な町なのだから。

駅前ではあるが喧騒とは無縁だ。ぽつりぽつりと商店が点在するも、人影はほとんど見ることができない。

朝夕を除けば、駅に停まる列車も上下線でそれぞれ1時間に1本か2本。

時間がゆっくり流れている。

でも、音のない町だなあ、「普通」以上に。

それが第一印象だった。



(上)田布施の農村風景


日本を支配する町

山口県・田布施(たぶせ)町。県南東部、瀬戸内海に突出した室津半島の付け根部分に位置する人口約1万5000人の小さな町だ。

この町で私は「天皇の末裔」に会った。末裔は静かに暮らしていた。そして嘆いた。そのせつない息遣いはいまでも私の耳奥に残っているのだが、その話は後に詳述する。

「田布施システム」──いつのころからか、日本の権力構造を表すキーワードだとして、ネットを中心に流布されるようになった言葉だ。

ネットに疎い私でも知っているのは、いまやオフラインの日常語として定着しているからでもあろう。

一種の陰謀論である。例えば、以下のような。

・幕末に、天皇と田布施出身の若者が入れ替わった。それ以来、田布施の出身者や関係者によって日本は支配されている。

・実際、田布施とその周辺の町は日本の首相を数多く輩出している。

・田布施の背後にはユダヤ資本が存在する。

・朝鮮人の日本支配にも田布施は関わっている。

そう、日本を動かしているのは永田町でも霞が関でもなく、その場所さえ大半の日本人は知らない、田布施という名の田舎町だった、そして、その田布施の意向で日本が歴史を刻んできた──という話なのである。

ばかばかしい。ばかばかしいだけではなく、そこには差別と偏見に満ちた醜悪な視線も垣間見える以上、捨て置けない。宇宙人や雪男の話と違って少しも笑えない。

特定の民族を、まるでブラックボックスを紐解くカギのように位置づけるのは、マイノリティの"特権"をあげつらうネトウヨ的発想だ。

だが、「田布施システム」の存在を信じるのは必ずしもネトウヨとは限らない。

たとえば音楽家・政治活動家の三宅洋平が、かつて出馬した2016年の参議院選挙で、大真面目に「田布施システム」の存在に言及したのはよく知られた話だ(後に事実を検証できなかったとして謝罪)。

右派の一部は「朝鮮人支配」の証拠として、逆に、左派の一部は「自民党独裁」の象徴として、ともに田舎町の存在を位置づけているのである。


明治天皇の”替え玉”として

この陰謀論には"元ネタ"がある。

1997年に発行された『裏切られた三人の天皇』(鹿島昇著、新国民社)、2007年に発行された『日本のいちばん醜い日』(鬼塚英昭著、成甲書房)など、いずれも明治維新の「謎」に言及した書籍だ。



両書が共通して採用するのは「明治天皇すり替え説」である。

幕末、伊藤博文らによって孝明天皇が暗殺され、田布施村(当時)出身の奇兵隊士・大室寅之祐(おおむろ・とらのすけ)なる人物が"替え玉"として明治天皇に即位した。

孝明天皇暗殺は長州藩の影響力を未来永劫、保持することが目的だった(公武合体派の孝明天皇は長州閥を快く思っていなかったとされる)。

大室寅之祐が天皇に即位した結果、田布施出身者が日本を動かすようになった──というストーリーだ。

近代日本の起源たる明治維新に、隠蔽されたドラマがあるとの主張は、他にもさまざまな物語を生み出していく。

明治以降、国家権力はロスチャイルド家をはじめとするユダヤ金融資本とも結託し、田布施人脈を駆使しながら日本の針路をコントロールした。

要するに「田布施マフィア」による日本支配だ。

しかも田布施出身者の多くは朝鮮半島にルーツを持つ人間であるとして、さらに話は面妖な趣を放っていくのである。

ちなみに鹿島昇は本業が弁護士、鬼塚英昭は竹細工職人の傍ら近現代史の研究に取り組んだノンフィクション作家だ。

ともに在野の歴史家として一部に根強いファンを持つ。

鹿島は01年に、鬼塚は16年に、それぞれ鬼籍に入っている。

なお、ふたりの著作に「田布施システム」なる文言は一切使われていない。

これは両書に影響を受けたネットユーザーによる造語である。

引用、援用、コピーが重ねられ、いまでは原典を離れて「原発利権」や「TPP」までもが田布施システムの落とし子に位置づけられるようになった。

いわゆる"トンデモ論"の類として一蹴したくもなるのだが、流布される陰謀論がときにそれなりの説得力を持ってしまうのは、随所に否定できない「事実」をちりばめることで、全体を「真実」に底上げしているからでもある。


安倍総理も「田布施」関係者?

たとえば、田布施のような小さな町から、たしかに二人の総理大臣が輩出されている。

岸信介と佐藤栄作だ。

しかも現首相の安倍晋三(岸信介の孫)もそこに連なる系譜ということであれば、なにやら目に見えない力が働いているかのように思えなくもない。

さらにネット上では難波大助(テロリスト)、宮本顕治(日本共産党元委員長)、松岡洋右(外交官)、鮎川義介(日産コンツェルン創業者)、河上肇(マルクス主義学者)なども"田布施人脈"として名が連ねられている。

こうなると思想の左右を問わず、幅広く”システム”が機能しているようにも感じられるが、実際は、ここに名を挙げた者のなかに田布施出身者はいない。

宮本、難波、松岡は光市出身、鮎川は山口市、河上は岩国市の出身だ。

これをもってしても「田布施システム」が相当に乱暴な陰謀論であることは明確だろう。

歴史家の多くも「明治天皇すり替え説」を否定している。

だが昨今、またぞろ田布施が注目されてきた。

8月26日、安倍首相は自民党総裁選への出馬表明を鹿児島市内でおこなったが、その際、「しっかり薩摩と長州で力を合わせ、新たな時代を切り開いていきたい」と語った。

陰謀論者は色めき立つ。総理が「長州」を口にしたのは、やはり田布施を意識したメッセージなのだ──と。


郷土資料館の見解

町の中を車でまわった。

駅前を少し離れれば長閑な里山の風景が広がる。町の大半は山林と田畑だ。

二人も宰相を輩出していながら、利益誘導はそれほどなかったのだろう。道路も公共施設も、いたって地味だ。

ましてやユダヤ金融資本の影は一片すら視界に飛び込むことはなく、同分野で目立つのは地元の農協資本くらいのものである。

少なくとも外形上、日本を動かす巨大なシステムを確認することはできない。

商店主に、農作業中の人に、「田布施システム」について尋ねてみても、多くの場合、ちょっと考え込み、曖昧に笑い、そして最後に「面白い話やねえ」と気のない言葉が返ってくるだけだ。

町の郷土資料館でも、私を案内してくれた担当者は同じような反応を見せた。

「孝明天皇が若くして(35歳)亡くなった、ということで、いろいろな憶測が生まれることになった、としか言いようがないですよねえ。それ以上はなんとも」

郷土資料館には時折、県外から「田布施システム」について知りたいという者が訪ねてくるという。もちろん同館に、それに関する資料はない。



(上)田布施郷土資料館で開催されていた「佐藤兄弟展」

「まあ、まともに取り合う話ではないと思いますし……」

対応には苦慮しているようだった。


「そんなもの、あるわけがない」

では、町としては「田布施システム」をどう考えているのか。役場を訪ねた。

応対してくれたのは総務企画課係長の井上信哉さん。

──「田布施システム」って知ってますか?

井上さんもまた、曖昧に頷く。そして困惑の表情を浮かべる。

「どうお答えしてよいのか、わからないのですよ。ええ、困惑するしかありません」

井上さんによれば、ごくごくたまに、田布施システムについて聞きたいという問い合わせがあるという。

そのたびに「本町としてはわかりかねます」と繰り返してきた。

そりゃあ、そうだろう。観光資源として利用できるような話でもない。

たとえば同じ山口県内の長門市などは、中国の楊貴妃が難を逃れて小舟に乗り、長門に漂着したという伝説を積極的に町おこしの材料として用いているが、「田布施システム」には、そこまでのロマンがない。

いや、政治や皇室が絡む以上、どうしても話が生々しくなる。

「むしろ、そんなデマを町として放置してもよいのかという、お叱りの声も町内からいただいているくらいです」

当然、ユダヤ資本だの朝鮮人支配などについては、苦笑するしかないという。

ちなみに田布施の外国人登録者数は非公表ではあるが、「およそ60人程度」だという。

そのほとんどは中国やベトナムからの技能実習生。在日コリアンもごく少数で、「支配」に必要な人数には程遠い。

「高齢化と過疎化に対してどのように取り組むべきか。多くの地方都市同様、私たちもそのことで頭がいっぱいです」と井上さんは深刻な表情を見せる。

言外に「そんなシステムがあるのならば、なんとかしてくれよ」という嘆きが込められているようにも感じた。


宗教団体が多い不思議

静かな農村でしかなかった田布施が町制に移行したのは1955年。

その2年後に同町出身の岸信介が総理大臣に就任、さらに実弟の佐藤栄作が69年に総理となる。

世間的には「総理を二人出した町」として脚光を浴びるも、それは必ずしも町の飛躍を促すものではなかったようだ。

近隣工業都市のベッドタウンとしての住宅建設、企業誘致なども一定の功を奏したが、それでもいまは高齢化に拍車がかかっている。「権力の中枢」には何のマグマも動いていない。

ただし──と井上さんが続けた。

「こんな小さな町でありながら、宗教団体が多いんですよね。そこに何らかの意味を感じると話す人も少なくありません」

田布施に本部を抱えている宗教団体は、天照皇大神宮教(てんしょうこうたいじんぐうきょう)と神道天行居(しんどうてんこうきょ)の2団体。

さらに金光教も町内に西日本最大規模と言われる施設を持っている。

なかでも天照皇大神宮教は信者約50万人を抱え、その名は海外でも知られた存在だ。

いや、戦後まもなくに「踊る宗教」として注目されたといえば、はたと膝を打つ人も少なくないだろう。

開祖の北村サヨは隣町の柳井で生まれたが、結婚を機に田布施へ移り、同地で天照皇大神宮教を立ち上げた。

「本町に"神がかった"イメージを持たれることが多い理由の一つかもしれません」(井上さん)

ところで北村サヨの孫にあたるのが、自民党の北村経夫参院議員だ。

一応"田布施人脈"ということにもなるのだろうが、1年生議員でもあるせいか、全国的な知名度は高くない。

さらに現代における田布施出身の有名人として町民の多くが名を挙げたのは、タレントの松村邦洋だった。

松村が成功者であることに異存はない。

しかし、皇室をも自在に操る「田布施システム」が存在するならば、芸能界で活躍するのが松村ひとりというのも、ちと寂しい。


「天皇の末裔」に会いに行く

そうした思いを抱えて町内での取材を続けながら、やはり、どうしても会わなくてはならない人物のところに向かおうと決めていた。

天皇の末裔。

いや、正確にいえば、明治天皇に成り代わった大室寅之祐の子孫である。

事前の調査で、その人物が町内に住んでいることは、わかっていた。

だが、町内の関係者から「会うのは難しいだろう」とも言われていた。

一部の歴史マニア(あるいは陰謀マニア)が、どこでどう調べたのか、大室の子孫の自宅を訪ねることが頻発し、それが嫌ですっかり当人は引きこもってしまったというのだ。

大室家と親しい町民の一人が打ち明けた。

「本人はもう、天皇が云々といった話には付き合いたくないと口を閉ざしています」

それを聞いて少しばかり躊躇したのは事実である。

嫌がっているというのは、本人にとってはけっして愉快な話ではないからだろう。

当然だ。

「天皇の末裔」だと祭り上げられようが、陰謀論の主役に連なる家系だと指摘されようが、いずれにせよ、いまさら何かが変わるわけでもない。

それでも──私はハンドルを切った。

町の中心部を抜け、川を渡り、里山を抜ける。

大室家に向かった。


「明治天皇の末裔」が背負ってきた苦悩

天皇の末裔

大室天皇──近所の人からは、そう呼ばれていたという。

1996年に92歳で亡くなった大室近佑(おおむろ・ちかすけ)さんのことだ。

明治天皇にすり替わったとされる大室寅之祐の弟の孫。

つまり、近佑さんにとって寅之祐は大叔父にあたる。

実はこの近佑さんの存在もまた、「田布施システム」を信じる一部の人に、いくばくかの"根拠"を与えていた。

大室家に向かう間、私が思い浮かべていたのは、町の人によって語られる、存命中の近佑さんの姿だった。

「変わった人じゃった」。町の古老はそう述懐した。

「長いあごひげが特徴の、仙人みたいな風貌でしたな。町の中に出てきては『わしゃ、天皇じゃ!』と叫んでいたこともあった」

そう、「天皇の末裔」であることを町内で訴えていたばかりか、自らが天皇であるのだと叫んでいた。

少なくとも町内でまともに取り合う人はいない。

露骨に嫌な顔をする人がいた。

避けて通る人がいた。

遠くからニヤニヤ笑いながら見ている人がいた。

多くの人は無視してやり過ごした。

「だから、本人としてはますます腹立たしく思うわけだ。

天皇じゃ、天皇じゃ言うても、見向きもされんわけだから、怒りっぽくもなってなあ……」

怒鳴られた人も少なくないという。



(上)田布施の農村風景


「悪人ではありません」

「大室天皇」の偏屈ぶりは町中に知れ渡っていた。

近佑さんと親交のあった人の中には、少しばかりの同情を寄せる人もいる。

これまた別の古老の話。

「(近佑さんは)普段はひとのいいお百姓さん。少しばかり頑固なところがあるだけですよ。

ご本人は、本当に自分が天皇の末裔だと信じていただけで、誰かをだますために天皇を名乗っていたわけじゃない。

それを頭から否定されることが多いから、悲しかったんじゃろうねえ。

変人ではあったかもしれんが、悪人ではありません」

自らが天皇の末裔であることを信じ、周囲との衝突を繰り返し、地域から浮いた存在となった近佑さん。

「悲しい」エネルギーを発散させながら、世間の無理解と闘っていたのだろう。


引き裂かれた家族の物語

そのエネルギーに惹かれ、完全に理解を寄せた数少ない人々のひとりが、前述した鹿島昇(弁護士で『裏切られた三人の天皇』著者)だった。

鹿島は同書のなかで次のように書いている。

<筆者はかつて田布施町の地に大室家を訪れて、ご当主の近佑氏から事の次第を詳細に説明された。

「明治天皇は私の祖父の兄で、十六歳のとき維新直前に長州藩主に呼び出され、『マンジュウをつくりに行ってくる』といって出かけたが、京都に上って即位し、以後帰らなかった。

また明治10年に軍艦で家の水場(※筆者注:海岸のこと)近くにやってきて、艦上から姿を見せ、『ソクサイ(※「息災」)かあ』と叫んだ』という。

明治天皇はアンコをつくる職人として呼び出されたというのであるが、このような苦難の半生が、のちに国家の進路を定めるときに、エンジンを逆噴射させたのではないか>

鹿島が述べるところの「逆噴射」とは、その後に続く「天皇親政」の国家建設であり、戦争へと続く道のりのことだった。

鹿島はあくまでもリベラルの立場から大室天皇説に傾き、「田布施システム」の足場を固めた。

一方、近佑さんは、おそらく親に聞かされたであろう大叔父の物語を、ずっと信じていた。

軍艦から「ソクサイかあ」と手を振る大室寅之佑の姿を、幾度も想像していたに違いない。

マンジュウをつくりに出かけたら、天皇に祭り上げられてしまった大叔父。

悲劇とも喜劇ともつかぬ話は、近佑さんにとっては、連綿と引き継がれた「家族の物語」でもあった。


すり替え説を信じた郷土史家

鹿島氏以外にも、近佑さんを天皇の末裔だと信じ込む人がいた。

隣町の柳井市に住む郷土史家・松重正さんである。

松重さんは何度も大室家に通い、近佑さんから「秘話」を聞き出し、信じ込み、地域では数少ない「明治天皇すり替え説」支持者となった。

鹿島が「すり替え説」に基づいた本を書き上げることができたのは、地元の地理や歴史に詳しい松重さんの助けがあったからだ。

その松重さんも、2017年10月に92歳で亡くなっている。

ようやく探し当てた松重さんの長男(60歳)は、「親父が"大室天皇"を信頼していたことは事実です」と言葉少なに語った。

松重さんは若いころ(戦後まもなく)は日本共産党の活動家で、県委員会の幹部まで務めたという。

しかし党内抗争に巻き込まれて離党。

その後は自民党員となり、保守系政治家として柳井の市議などを務めたという。

「そうした経歴を持つだけに、権力を支えるものは何か、といったことを常に考えていました。

私にはよくわかりませんが、正史には存在しない"何か"を親父は"発見"してしまったのでしょう」

そう述べて、やはり困った顔を見せるのだった。

松重さんが「発見」したのは、近代日本の夜明け前に、深い闇が仕掛けられたこと、そして大室天皇の存在だったのだろう。


「いまさら私に何ができるでしょうか」

田畑に囲まれた山の麓に大室家はあった。

家の前には「大室遺跡」と記された案内碑が建っている。

近所の人によると、近佑さんが存命中、弥生時代の土器がこの場所から発見されたのだという。

大室家の敷地内ということから、「大室遺跡」と名付けられた。



(上)大室家の敷地内にある遺跡

家の敷地から土器が出てくることじたい、大室家の神秘性を思わせるには十分な話だ。

私は玄関の前に立ち、ドアを叩いた。

男性が顔を見せた。

「大室天皇」こと大室近佑さんの次男だ。仮にAさんとしておこう。

Aさんは69歳。線の細い、おとなしそうな男性だった。

来意を告げると、Aさんは視線を下に落とした。

「その話はしたくないんですよ」

ぽつりと漏らす。会いたくない人に会ってしまったときに誰もが見せる、嫌悪と諦めの表情が浮かんでいた。

そうですよね──さんざん言葉を探しあぐねて、私もそう返すしかない。

沈黙。静寂。鳥の声しか聞こえない。

Aさんは、心優しい人だった。

遠方から訪ねてきた私への気遣いなのだろう。ため息と一緒に、ゆっくり口を開いた。

「これまでにもいろいろな人が訪ねてきました」

視線を落としたまま、Aさんは続ける。

「歴史家や研究者、作家。そして、よくわからない人たち。

いずれにせよ、いまさら私に何ができるというのでしょう。

どんな答えをすればよいのでしょう」



冷たい視線 残酷な言葉

天皇の末裔かと問われ、「はい」と頷けば人は喜ぶのか。

それとも冷笑するのか、怒り出すのか。

逆の答えをすればどうなのか。

「歴史家でもない私には、お答えできるだけの何の材料もありません。

じゃあはっきりと否定しろ、と迫る人もいますが、それにしたって、私の知識のなかには根拠と呼べるものがない」

だから、ずっと言い続けてきた。

「知りません」「わかりません」

そう答える以外に、どんな言葉があったのだろう。

集団で訪れ、矢継ぎ早に質問してくる者たちもいた。

答えろ。教えろ。何か知っているはずだ。何かひとつでも天皇に繋がる物は残っていないのか。

みなでニヤニヤ笑いながら、Aさんを取り囲んでいた。

詰問することだけが目的のような人たちだった。

一方で、「大室天皇」を信じ切っている人もいた。

いずれにせよ、誰の期待に応えることもできない。

「はっきりしていることは、ただひとつ。

私の父親は確かに『天皇』だと吹聴してまわり、そのせいで、家族は大いに苦しんだということです」

Aさんは声を絞り出すようにして、つぶやいた。

「子どものころから、いじめられてきました」

学校では、同級生たちが囃し立てた。

「天皇陛下の子だ!」「おい、皇太子!」

何を言われても黙って耐えた。

地元で就職し、社会人になっても同じだった。

子どものように露骨にからかう者はいない。

しかし、陰で話題にされているのは知っていた。

職場の離れた場所から指をさし、くすくす笑っている者たちもいた。

上司から突然、こう言われたことがある。

「大室家なんてもんは、存在してはいけないんだよ」

ニセ天皇と言いたかったのか。あるいは単なる冗談だったのか。

その真意はAさんにもわからない。

だが、そうした目で見られているのだということは、理解できた。

「いまの時代であれば、いじめ、パワハラみたいなものですよ。

でも、あの頃は笑ってすませるしかありませんでした」


「私の代で終わりにします」

Aさんは、父親の近佑さんと「天皇」について話すことを避けていた。

その話題は、自分にとっては厄災でしかないからだ。

大室家は農家だった。

父親はトマト、きゅうりなどの野菜をつくっていた。

だが、一方で大室家の歴史を研究する歴史家を任じてもいた。

歴史を紐解く作業に熱中すればするほど、本業はおろそかになる。

だからAさんの子ども時代の生活は苦しかった。

「私以上にオフクロが苦労したでしょうね。

オフクロもまた、好奇の目で見られていましたし、父親に代わって畑仕事もひとりでしなければならなかった」

だから──とAさんは続ける。

「この話は私の代で終わりにします。

信じるも信じないもない。実際、我が家には何もない。

そして、たとえば父親の話すことが仮に真実であったとして、それがどうしたというのでしょう。

何も変わりませんよ」

過ぎ去った時間は戻らない。過去を上書きすることはできない。

いじめも。冷笑も。貧しかったときの記憶も。

私が大室家から引き上げる際、Aさんは直立不動の姿勢で見送ってくれた。

バックミラーにAさんが深々と頭を下げる姿が映った。

そう、これで終わりだ。終わりにしよう。


「田布施システム」はなぜ広まったのか

報告した通り、「田布施システム」は元ネタとして鹿島昇らの著作があり、ネットユーザーによって肉付けされ、世間に流布されることとなった。

根幹となる「明治天皇すり替え」には何の根拠もないが、陰謀論としての完成度はそれほど低くはない――正直に言えばそう思う。

「明治維新」や「皇室」をブラックボックスに見立て、世の中の様々な不条理をそこに押し込めば、いかなる物語だって量産できる。

デマとはそういうものだ。だからこそ危険だ。

ポンと膝を打ち、何かがわかったと思い込んだ瞬間、私たちは誰かを勝手に悪魔に仕立て、天使にも仕立て、無自覚のうちに偏見を抱く。

偶然と必然が複雑に絡み合った歴史の営みに、人柱を捧げているのだ。

そもそも、「システム」と呼ぶことができるほどの力を田布施という小さな町が持っているのか。

総理大臣を二人、出した。

"結果"が出ているのはこれだけだ(しかも二人は兄弟である)。

同じ県内の萩市は8人もの宰相を輩出しているではないか。

そもそも田布施町内で「田布施システム」を信じている人など、おそらくいない。

しかし──私は初めて足を運んだ田布施に、何か独特の雰囲気を感じたのは確かだ。


そこに、かつて「王国」があった

「そう、何かあるかもしれんねえ、この町には」

生真面目な表情でそう話すのは、地元の郷土史家・林扶美夫さん(82歳)だ。

林さんは陰謀論者でもなければ、安易にデマに加担するような人ではない。

古くから「田布施地方史研究会」の代表を務め、地元に関する歴史発掘に努めてきた歴史家だ。

当然、「田布施システム」なるものは一笑に付す。

そんな林さんでも、田布施には不思議な歴史の文脈が流れているのだという。

「かつて、このあたりは熊毛王国と呼ばれていました」

天皇すり替えどころの話ではない。

王国である。

ただし、弥生時代の話だ。

「熊毛地方(田布施を含む近隣地域のこと)は、かつて瀬戸内海の要所であり、人や文化の集積地点として栄えました」

大和朝廷が完成するまで、人口が集中する地域は独自の小国家をつくった。

そのひとつが「熊毛王国」だったらしい。

町内に古墳が多いことも田布施の特徴だ。

現在、確認されている古墳の数は85基。

山口県で最古の古墳である国森古墳も田布施の町はずれにある。

また、そうした海上交通の要所という"地の利”から、大和朝廷成立後も、朝鮮半島や中国大陸とは交易の中継点として繋がりをもった。

この地に渡来人が住み着くケースも少なくなかった。

「田布施システム」を"朝鮮人支配"と結びつける説も、実はそこが根拠となっている。

実際、7世紀の「白村江の戦い」(朝鮮半島の白村江を舞台とした倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争)では、戦後、多くの朝鮮半島出身者が日本に渡り、その一部は田布施で下船し、そのまま定着したという。

「いまでも、その痕跡は町内に残っていますよ」と、林さんが教えてくれたのは、「神籠石(こうごいし)」の存在だ。

「要するに"朝鮮式山城"と呼ばれる遺跡です」

日本に渡った朝鮮半島の人々は、敵の来襲に備えて山城をつくった。

切り石を、レンガを積むように並べる手法は中国大陸由来とされ(万里の長城も同様の積み方である)、これが後に「朝鮮式山城」と呼ばれるようになった。

「つまりね」と林さんが続ける。

「遠い地域の文化が残されている。

人が行き来している。

こんな小さな町でも、歴史を紐解けば、世界と繋がっているんだよ」

林さんが「何かある」というのはそういうことだ。


神籠石が物語るもの

私は神籠石、つまりは朝鮮式山城を探すべく、町のはずれ、光市との境界にある石城山の山中に入った。

アップダウンの激しい山道を歩き、突然視界が開けたその先に、神籠石は残っていた。

確かに形状は「レンガ積み」だ。

日本の城壁で用いられる石垣(菱形の石を組み合わせた形状)とはまったくの別物だ。



(上)田布施の山中に残る朝鮮式山城

こんな山奥に、朝鮮半島の文化が生きていた。接点があった。

「朝鮮人支配」などというバカバカしい偏見の正体は、おそらくこれだろう。

「支配」なんかじゃない。

これは、異なった地域が、国が、それぞれの歩みを進めながら、どこかで繋がっていたという証拠なのだ。
 
そうした文化の交差点で、たまたまふたりの総理大臣が輩出された。

権力構造を説明するに都合の良い「天皇すり替え説」が生まれ、それを信じる人々がいた。

それだけの話だ。

「システム」を匂わせるものなど、この町には何一つ残っていない。

田布施に残るのは、歴史の営みだ。

東アジアの槌音だ。

そして、歴史をつくってきた人々の息遣いだ。

整然と積み上げられた神籠石が、そう訴えているようにも思えた。

(文中一部敬称略)