・日本人はなぜ「円安貧乏」になったのか(JB press 2021年10月29日)
(池田 信夫:経済学者、アゴラ研究所代表取締役所長)
※為替レートが1ドル=114円前後と、5年ぶりの円安になっている。10月28日の金融決定会合の後の記者会見で、日銀の黒田総裁は「悪い円安とは思っていない」とコメントしたが、これは日本人が世界の中で貧しくなったことを意味する。
通貨の実力(購買力)の指標としてよく使われる「ビッグマック」の価格は、アメリカでは5.65ドルだが、日本では390円。購買力は1ドル=69円だから、114円の為替レートはその60%しかない。これが多くの人が「貧乏になった」と感じる原因だが、なぜこんなことになったのか。
企業は史上最高益だが労働者は貧しくなった
その直接の原因は、安倍政権の円安誘導である。2013年に日銀の黒田総裁が「量的・質的緩和」を宣言したころから大幅な円安・ドル高になり、円は1ドル=80円前後から120円前後になった。
これが黒田総裁のねらいだった。政府が特定の為替レートに外為市場を誘導することはタブーとされているので、2%のインフレ目標を設定し、円の価値を下げて円安・ドル高に誘導しようというのが彼の目的だった。これは多くの日銀関係者が認めている。
ところがインフレ目標は失敗したのに、円安は実現した。国民のほとんどはインフレ目標なんか知らないが、投機筋は知っているからだ。外為市場で動く資金の99%は為替投機だから、中央銀行が物価を操作することはできないが、資産市場を操作することはできるのだ。
その結果、日本人は実力の6割の価値しかない円で買い物をしなければならない。だから輸入品の価格は実力の1.6倍の価格になるのでインフレになるはずだが、そうならないのはなぜだろうか。
その原因は、物価が上がる代わりに賃金が下がったからだ。図1のように、購買力平価でみると、この30年でOECD諸国の年収は1.5倍になったが、日本はほとんど変わっていない。だがこの間に日本の物価もほとんど上がっていないので、賃金単位でみると日本の物価は世界水準と変わらない。

(上)図1 主要国の年収(日本経済新聞より)© JBpress 提供 図1 主要国の年収(日本経済新聞より)
このように企業が儲かる一方で、労働者は貧しくなった。これを安倍政権はインフレで解決しようとしたが、逆に格差は拡大してしまった。それを岸田政権は「新しい資本主義」で解決するというが、具体策は何もない。その原因がわからないからだ。
黒田総裁の見逃したグローバル化
この傾向を中央銀行の通貨供給量で決まるデフレと考えたことが、安倍首相と黒田総裁の間違いだった。物価が上がらないのは賃金が上がらないからで、その原因は国内の雇用が減っているからだ。
日本の完全失業率は3%以下と世界的にみても低いが、その原因は高齢者や主婦の雇用が増えて非正規労働者が増えたからで、総労働時間は減り続けている。それが年収(時給×労働時間)の減った原因である。
企業業績が史上最高益を更新しているのに、国内の雇用が減る原因は、海外生産が増えているからだ。図2のように、昔は経常収支の黒字は貿易収支(輸出代金)だったが、2010年代にはほとんどが所得収支(海外法人の利益)になった。

(上)図2 日本の国際収支(単位:億円、日本銀行調べ)© JBpress 提供 図2 日本の国際収支(単位:億円、日本銀行調べ)
2010年代まで日本は「貿易立国」であり、貿易黒字で国内の投資不足を埋めていたが、2009年の円高を契機に、海外生産に移行した。それによって貿易赤字になったため、黒田総裁は円安誘導で貿易黒字にしようとしたのだが、企業は戻ってこなかった。
しかし経常収支の黒字は続いた。それは貿易収支が所得収支に置き換わったからだ。所得収支の最大の部分は海外法人の利益である。つまり従来は国内で生産していた商品を海外法人で生産して利益計上するようになったのだ。
これは企業会計の原則では当たり前だが、昔はそうではなかった。2009年以降の円高で、輸出企業は拠点を海外に移したが、日本のマスコミは単体の利益を報道したので、海外法人で生産した商品を輸入して、国内でラベルだけつけて売るといった方法で、悪化した本社の決算を「お化粧」していた。
これを国内に戻そうというのが、黒田総裁の円安誘導のねらいだった。そのねらい通り、ドルは急上昇し、円は30%も減価したが、グローバル企業は戻ってこなかった。これが黒田総裁の最大の誤算だった。
インフレで格差はさらに拡大する
1990年代から中国が世界市場に参入した。それは最初は大量の安価な労働力を供給しただけだが、豊かになると急速に成長する大市場になった。最初は中国の工場から日本に輸入した日本の企業も、中国で生産して中国で販売するようになった。その原因は、中国が大市場に成長したからだ。今ではユニクロの国内店舗数は810店だが、中国には832店ある。
円高時代には本社の決算をお化粧していたが、円安になったら、そのお化粧を落としただけだった。国内の生産拠点をアジアに移転するだけで連結の利益は上がったからだ。円安(ドル高)になると円建ての連結利益が増えるので、海外法人は日本に戻ってこない。今は単体の決算は、決算短信にも出てこない。
マスコミも連結の損益しか報道しないので、海外法人の利益も国内の利益も同じだ。人口が減少し、法人税が高く、雇用規制のうるさい国内で生産して輸出するより、成長しているアジアで生産してアジアで売ることが合理的である。
要するに国内の製造業の雇用がアジアの労働者に移転される雇用の空洞化で、日本の労働者は貧しくなったのだ。これは株主利益の立場からは合理的であり、利益が上がる大きな原因は、日本の労働者の賃金が中国に近づいたためだ。
この状況は今後も続くだろうか。まず足元の資源インフレは、今後もしばらく続くだろう。企業物価上昇率(9月)は6.3%で、これが消費者物価指数に影響するのは時間の問題である。消費者物価上昇率(9月)は0.3%だが、電気代は13%上昇しており、今後インフレが来ることは間違いない。
長期的にはどうだろうか。新興国の経常収支は2015年から赤字に転じ、中国の労働人口も減り始めた。世界的な貯蓄過剰の時代は終わり、今後は高齢化で貯蓄不足になると予想される。
GDP統計では社会保障は政府支出として計上されるので、高齢化で消費が減ると思われているが、社会保障を含めると老人の消費は生産より多いので貯蓄は減り、金利が上がってインフレになる。高度成長期から日本の製造業が蓄積してきた国内貯蓄が、社会保障で食いつぶされるのだ。
多くの人が勘違いしているが、デフレで実質賃金(名目賃金-インフレ率)は上がる。これまで日本の実質賃金がそれほど下がらなかったのは、インフレにならなかったからだが、今後インフレになると目減りするだろう。われわれの子供の世代は、デフレを嘆いていた時代はよかったと思うのではないか。
(池田 信夫:経済学者、アゴラ研究所代表取締役所長)
※為替レートが1ドル=114円前後と、5年ぶりの円安になっている。10月28日の金融決定会合の後の記者会見で、日銀の黒田総裁は「悪い円安とは思っていない」とコメントしたが、これは日本人が世界の中で貧しくなったことを意味する。
通貨の実力(購買力)の指標としてよく使われる「ビッグマック」の価格は、アメリカでは5.65ドルだが、日本では390円。購買力は1ドル=69円だから、114円の為替レートはその60%しかない。これが多くの人が「貧乏になった」と感じる原因だが、なぜこんなことになったのか。
企業は史上最高益だが労働者は貧しくなった
その直接の原因は、安倍政権の円安誘導である。2013年に日銀の黒田総裁が「量的・質的緩和」を宣言したころから大幅な円安・ドル高になり、円は1ドル=80円前後から120円前後になった。
これが黒田総裁のねらいだった。政府が特定の為替レートに外為市場を誘導することはタブーとされているので、2%のインフレ目標を設定し、円の価値を下げて円安・ドル高に誘導しようというのが彼の目的だった。これは多くの日銀関係者が認めている。
ところがインフレ目標は失敗したのに、円安は実現した。国民のほとんどはインフレ目標なんか知らないが、投機筋は知っているからだ。外為市場で動く資金の99%は為替投機だから、中央銀行が物価を操作することはできないが、資産市場を操作することはできるのだ。
その結果、日本人は実力の6割の価値しかない円で買い物をしなければならない。だから輸入品の価格は実力の1.6倍の価格になるのでインフレになるはずだが、そうならないのはなぜだろうか。
その原因は、物価が上がる代わりに賃金が下がったからだ。図1のように、購買力平価でみると、この30年でOECD諸国の年収は1.5倍になったが、日本はほとんど変わっていない。だがこの間に日本の物価もほとんど上がっていないので、賃金単位でみると日本の物価は世界水準と変わらない。

(上)図1 主要国の年収(日本経済新聞より)© JBpress 提供 図1 主要国の年収(日本経済新聞より)
このように企業が儲かる一方で、労働者は貧しくなった。これを安倍政権はインフレで解決しようとしたが、逆に格差は拡大してしまった。それを岸田政権は「新しい資本主義」で解決するというが、具体策は何もない。その原因がわからないからだ。
黒田総裁の見逃したグローバル化
この傾向を中央銀行の通貨供給量で決まるデフレと考えたことが、安倍首相と黒田総裁の間違いだった。物価が上がらないのは賃金が上がらないからで、その原因は国内の雇用が減っているからだ。
日本の完全失業率は3%以下と世界的にみても低いが、その原因は高齢者や主婦の雇用が増えて非正規労働者が増えたからで、総労働時間は減り続けている。それが年収(時給×労働時間)の減った原因である。
企業業績が史上最高益を更新しているのに、国内の雇用が減る原因は、海外生産が増えているからだ。図2のように、昔は経常収支の黒字は貿易収支(輸出代金)だったが、2010年代にはほとんどが所得収支(海外法人の利益)になった。

(上)図2 日本の国際収支(単位:億円、日本銀行調べ)© JBpress 提供 図2 日本の国際収支(単位:億円、日本銀行調べ)
2010年代まで日本は「貿易立国」であり、貿易黒字で国内の投資不足を埋めていたが、2009年の円高を契機に、海外生産に移行した。それによって貿易赤字になったため、黒田総裁は円安誘導で貿易黒字にしようとしたのだが、企業は戻ってこなかった。
しかし経常収支の黒字は続いた。それは貿易収支が所得収支に置き換わったからだ。所得収支の最大の部分は海外法人の利益である。つまり従来は国内で生産していた商品を海外法人で生産して利益計上するようになったのだ。
これは企業会計の原則では当たり前だが、昔はそうではなかった。2009年以降の円高で、輸出企業は拠点を海外に移したが、日本のマスコミは単体の利益を報道したので、海外法人で生産した商品を輸入して、国内でラベルだけつけて売るといった方法で、悪化した本社の決算を「お化粧」していた。
これを国内に戻そうというのが、黒田総裁の円安誘導のねらいだった。そのねらい通り、ドルは急上昇し、円は30%も減価したが、グローバル企業は戻ってこなかった。これが黒田総裁の最大の誤算だった。
インフレで格差はさらに拡大する
1990年代から中国が世界市場に参入した。それは最初は大量の安価な労働力を供給しただけだが、豊かになると急速に成長する大市場になった。最初は中国の工場から日本に輸入した日本の企業も、中国で生産して中国で販売するようになった。その原因は、中国が大市場に成長したからだ。今ではユニクロの国内店舗数は810店だが、中国には832店ある。
円高時代には本社の決算をお化粧していたが、円安になったら、そのお化粧を落としただけだった。国内の生産拠点をアジアに移転するだけで連結の利益は上がったからだ。円安(ドル高)になると円建ての連結利益が増えるので、海外法人は日本に戻ってこない。今は単体の決算は、決算短信にも出てこない。
マスコミも連結の損益しか報道しないので、海外法人の利益も国内の利益も同じだ。人口が減少し、法人税が高く、雇用規制のうるさい国内で生産して輸出するより、成長しているアジアで生産してアジアで売ることが合理的である。
要するに国内の製造業の雇用がアジアの労働者に移転される雇用の空洞化で、日本の労働者は貧しくなったのだ。これは株主利益の立場からは合理的であり、利益が上がる大きな原因は、日本の労働者の賃金が中国に近づいたためだ。
この状況は今後も続くだろうか。まず足元の資源インフレは、今後もしばらく続くだろう。企業物価上昇率(9月)は6.3%で、これが消費者物価指数に影響するのは時間の問題である。消費者物価上昇率(9月)は0.3%だが、電気代は13%上昇しており、今後インフレが来ることは間違いない。
長期的にはどうだろうか。新興国の経常収支は2015年から赤字に転じ、中国の労働人口も減り始めた。世界的な貯蓄過剰の時代は終わり、今後は高齢化で貯蓄不足になると予想される。
GDP統計では社会保障は政府支出として計上されるので、高齢化で消費が減ると思われているが、社会保障を含めると老人の消費は生産より多いので貯蓄は減り、金利が上がってインフレになる。高度成長期から日本の製造業が蓄積してきた国内貯蓄が、社会保障で食いつぶされるのだ。
多くの人が勘違いしているが、デフレで実質賃金(名目賃金-インフレ率)は上がる。これまで日本の実質賃金がそれほど下がらなかったのは、インフレにならなかったからだが、今後インフレになると目減りするだろう。われわれの子供の世代は、デフレを嘆いていた時代はよかったと思うのではないか。