・スペイン風邪はアメリカが行った人類削減計画であった(ライフワークMAQIA 2015年10月18日)

https://tenshoku-maquia.com/lifework/1065.html

※人類最大の感染者数を出したスペイン風邪とは?

スペイン風邪の病原菌インフルエンザウィルスは、自己増殖を行うための遺伝子を組み込んだ生物テロだった。アメリカが細菌兵器として開発したウィルスで、1914年の第一次世界大戦の際にも使われました。

人類が経験した最大の感染症は、1918年から3年間にわたって6億人の感染者を出したスペイン風邪がパンデミック(世界的大流行)と呼ばれる最初の大規模感染です。当時の世界総人口が18億人なので、全世界では33%が感染したことになり、そのうちの死亡者は5000万人とも1億人とも言われています。

日本では当時の人口5,500万人のうち、約半数の2,500万人が感染を起こして48万人が死亡しています。患者は全て隔離されたため、実数の把握は困難になっています。

この「スペイン風邪」と呼ばれている感染症の発生源となったのは、アメリカです。第一次世界大戦の最中でもあり、アメリカで起きたインフルエンザの大流行は報道されませんでした。当時、中立的立場のスペインが世界に向けて情報発信を行ったため、現在でもスペイン風邪と呼ばれています。

アメリカで感染拡大した理由

1918年3月にアメリカで最初の感染が起こり、感染力の強さが影響して全米に感染者が広がります。

(ブログ主コメント:スペイン風邪の起源については諸説あり。アメリカ合衆国は複数の研究者によってスペイン風邪の起源と考えられている。歴史学者アルフレッド・クロスビーは1918年パンデミックがアメリカのカンザス州に起源を持つと述べている。同様に、ジョン・M・バリーはカンザス州のハスケル郡で1918年3月に発生した病気の流行がスペイン風邪の起源であるとしている。

「発生源は、1918年3月のアメリカ合衆国カンザス州の小都市「ハスケル」が初の流行地域である。同州には当時、全米で2番目に大きいアメリカ陸軍基地(常時5万6千人の兵士が常駐)である「キャンプ・ファンストン」があり、ハスケルの一部の住民の出入りがあった。このキャンプ・ファンストンがインフルエンザウイルスの温床となり、アメリカ内外にインフルエンザ禍を拡大させた。最初の発症例は3月18日に同基地で確認され、その2週間後には、ジョージア州の「キャンプ・フォレスト」と「キャンプ・グリーンリーフ」でも集団感染が発生した。以後は、ひと春で、全米の36の主要駐屯地の内24か所で集団感染が確認された。さらには軍事施設に隣接する34都市でも犠牲者が急増した。しかし、当時は何一つ分かっていなかった。」)

8~9月にかけて死亡者が急増したため、アスピリン(鎮痛剤)の服用が海軍や陸軍、国民に推奨されたとのこと。通常の量ではなく、中毒量の4gに対し、8g~32gという過剰投与をしたようです。この頃に死亡者の急増が起きています。

インフルエンザに罹っている時にアスピリンを服用すると、ライ症候群や、肝障害、腎障害、脳障害などを起こします。アメリカ人はアスピリンが好きな民族で、血栓防止や尿酸排出などの作用があるので、痛みがなくてもアスピリンを愛用しています。

インフルエンザで呼吸が苦しい時にアスピリンを服用すると、肺水腫や重症肺炎によって死亡します。そして、アメリカ発のインフルエンザの死因はほとんどが肺炎なので、最悪の鎮痛剤を飲ませたことになります。

そしてアメリカは「医療先進国ではアスピリンで症状改善に成功している」と嘘の情報で販売促進のPRを行い、製薬会社はアスピリンの増産を始める。当時は武田薬品が独占販売権を持っていましたが、宣戦布告により独占販売は無効になるという経緯もあります。

インフルエンザの予防接種として、アメリカでは4,600万人に対して強制的にワクチンを接種したということですが、その注射液にはワクチンではなく、25種類の病原体が含まれていました。ワクチン接種を受けた者は何種類もの感染症を起こして翌日には死亡します。それを見た者はワクチン接種を拒むのが当然です。ワクチン接種を受けなかった者は誰も感染症を起こさず、死亡率もゼロに近いと言われています。

強制的に行われた25種類の病原菌接種

米軍兵士は、ヨーロッパの風土病対策として25種類の病原菌を接種されてフランスに送り込まれます。(中立的立場のスペインには上陸しません)そして、5~6月の間にヨーロッパで蔓延を始めます。

感染症が戦場のヨーロッパに広がると、インフルエンザとは関係のない黒死病(ペスト)や、チフス、ジフテリア・肺炎球菌、天然痘が流行を始めます。ポリオに感染して小児麻痺になった兵士も多く、明らかに不自然な症状だったと当時の医師が証言しています。

5月~6月といえば、インフルエンザは流行しない時期です。その頃にインフルエンザとペスト、ジフテリアに感染したり、インフルエンザと肺炎球菌の最悪の組み合わせに感染したままという兵士もいます。ヨーロッパに進軍したのはいいものの、ふらふらと咳をしながらうろついたのか定かではありませんが、米兵が感染を拡大させた結果になっています。

医師の感染により、医療体制が崩壊する

そして第二波では1918年の秋から冬にかけて、アウトプレイクという突然変異を起こしたウィルスが世界中に撒かれる事になります。

突然変異の結果、感染力が30倍にも増したインフルエンザウィルスが一気に世界中に広がります。医療従事者が最初にワクチン接種を受けて3割が死亡したため、医療体制の崩壊により感染拡大に拍車がかかったと言えます。

25種類程の、どのウィルスが流行したのか不明ですが、インフルエンザの患者が天然痘などを合併症として発症することも考えられます。合併症により治療不可能な状態になったり、ウィルスによっては当然ながら隔離もあり得ます。スペイン風邪とは秋から冬に起きやすい感染症の全てを意味します。

主な病原体は鳥インフルエンザ

インフルエンザのタイプとしてはH1N1亜型で、鳥インフルエンザの突然変異によるヒトからヒトへの感染なので、誰も抗体を持っていないというのも流行の原因になったようです。

日本では1919年の春から秋にかけて、再び世界的な流行を見せた第三波の影響が最も大きかったと言われ、主な病原体の鳥インフルエンザが突然変異を起こしたものが原因になり、肺炎と免疫機能の低下による死亡者が多かったと最近になって予測されています。

このウィルス拡大が原因で第一次世界大戦は終結したとも言えそうです。そして、戦死者と病死者の区別が曖昧になった結果、感染者と死亡者の把握が難しくなりました。

日本兵が帰国するとコレラやジフテリア、天然痘まで持ち帰ったとのこと。第一次世界大戦の終結と同時に日本の感染拡大に拍車をかけたようです。

スペイン風邪はアメリカ政府が自国民に対するテロ行為だけでなく、製薬会社の利益を誘導する世界的な感染だったようです。ワクチン接種と、ワクチン接種による副反応に対する薬、抗ウィルス薬、症状を抑える薬によって人を殺すというのはこの頃から始まっていたようです。




※ブログ主コメント:しかし以下のような意見もあります。スペイン風邪アスピリン主因説は、ホメオパシーの文献が根拠(ネタ元)のようです。

・スペイン風邪とホメオパシー(また浜六郎氏と「やっばり危ないタミフル」)

2008/03/13

http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/200803.html

※また津田さんに怒られそうなのだけど、スペイン風邪の問題について、僕の考えを整理させてください。

浜六郎氏の『やっぱり危ないタミフル』の中にほんのちょっとだけ書かれている内容です。ページ数にすればほんの数ページです。だから、津田さんは「瑣末事」とおっしゃるかもしれません。なぜ本論を議論しないのかと言われるでしょう。

しかし、このスペイン風邪に関する記述は、この本全体の信頼性を大きく損なうものだと僕は考えます。なぜなら、この部分は極めて怪しいデータに基づく粗雑な解析から、非常に強い主張をしているからです。ここがこの怪しさで、「他の部分は信頼せよ」と言われてもかなり困る気がします。少なくとも僕は困ります。

浜氏は「パンデミック恐れるに足らず」と主張されており、その根拠として「第一に、スペイン風邪における死亡の最大の原因が、おそらく強力な解熱剤のアスピリンであったということだ」が挙げられています(p.231)。つまり、「スペイン風邪アスピリン主因説」はパンデミック問題の鍵を握るわけです。

スペイン風邪の死因としてアスピリンが考えられるということについては、それ以前にも「実際はアスピリンそのものが感染症を重症化させ、戦争で心身ともに疲弊していた多くの人を死に追いやったのだ」(p.99)といった記述があります。これはアメリカを念頭に置いているので「戦争」という言葉が使われています。スペイン風邪では、日本でもたくさんの死者が出ているのですが、それについては本の中で触れられていないと思います。

では、スペイン風邪の最大の死因がアスピリンだという根拠はどこにあるのかですが、それについては「興味深い文献を教えてもらった。スペイン風邪の時期、解熱剤などに頼らない治療をした医師50人の経験をまとめた1921年の論文である」(p.75)として、

Dewey, W.A., Journal of American Institute of Homeopathy, May 1921, p.1038-1043

が挙げられています。ほかのページもいろいろ見たのだけど、根拠として挙げられている文献はこれだけだと思います。しかし、よりによってこれはホメオパシーの論文です。興味深いというより、興味深すぎます。

この論文そのものは入手が困難なのですが、ホメオパシー界では有名な文献らしく、そこからの抜粋を含む記事はインターネットで見つかります(抜粋ではなく、全文のようです。下のFooBarさんのコメント参照)。たとえば

http://www.homeopathy-info.co.uk/homeopathy-resources/flu.php

読めばわかるように、たしかに浜氏の言うとおり、「異句同音にアスピリンの危険性を指摘している」のですが、ホメオパシーなら当然です。浜氏はこの論文中の数値を用いてオッズ比を求め、「死亡の85-97%がアスピリンのせいであったと推計できる」と結論しています。僕の理解が間違っていなければ、要するにそれがすべてです。間違っていれば、ご指摘ください。

上述のように「解熱剤などに頼らない治療をした医師」と書かれていたり、「この時期に、すでにアスピリンの危険性を察知した医師は多数いたようだ」などと書かれていたりするので、「当時も偉い医者がいたのだなあ」という気にさせられますが、これが実はホメオパスのことだといわれれば、だいぶ印象は違うのではないでしょうか。「解熱剤などに頼らない治療」をするのはホメオパスなら当然です。あらゆる薬を使わないのですから。彼らが使ったのはホメオパシーのレメディです。どんなレメディを使ったかは引用文献にきちんと書いてあります。

指摘しておきたいのですが、この文献は決して「アスピリンの使用と不使用を比較する」ものではありません。「通常医療に比べてホメオパシーがいかにすぐれているか」を示すための論文です。当然、「ホメオパシーが優れている」という証言しか掲載されていません。数値が出ているものもそうです(原論文がないので、違う証言も出ているのかもしれませんが、あまりありそうにない)。明らかにホメオパシー寄りにバイアスのかかったデータしかないわけですから、それをもとにオッズ比をどれほどまじめに計算しようと、信頼できる結果が得られるはずがないんですよ。ほかにデータがないのはわかりますが、このデータはたぶん「ないのと一緒」です。

この時期、アスピリンが盛んに用いられたことは事実です。アメリカはアスピリン・エイジに向かうところだし、日本でも薬局で容易に手にはいったようです。アスピリンとライ症候群の関係は明らかになっていますから、先進国ではアスピリンが死亡率を上げたのではないかという推測自体はありうるのだと思います(スペイン風邪の死者はライ症候群の症状ではないはずですが)。それ自体がまずいわけではないはずです。

しかし、「死亡の85-97%がアスピリン」とか、最大の死因はアスピリンだから、アスピリンさえ使わなければたいした数の死者は出なかったはずというような強い主張をするには、いくらなんでもデータの由来が無茶でしょう。ちなみに、PubMedをざっと見た限りでは、アスピリン主因説を主張する論文は見つかりませんでした。

翻って、スペイン風邪ウィルスを再生してマカクに感染させた実験があり、少なくともマカクに対してはサイトカイン・ストームを起こすことが実証されています(下でちがやまるさんから、サイトカイン・ストームとまでは言い切らないほうがいい旨の指摘がありました)。

http://www.jst.go.jp/pr/announce/20070118/index.html

これはスペイン風邪が通常のインフルエンザと違い強い致死性を持つことについてのかなり強力な証拠だと思います。

アスピリン主因説を唱えるなら、最低限、このマカクの実験をどう考えるかについてのコメントは必要ではないでしょうか。僕の読み落としでなければ、この実験については触れられていないと思います。違っていればご指摘ください。ホメオパシーの論文を重視するくらいなら、この実験を重視すべきでしょう。

最後にひとつ重要な点を。たしかにライ症候群があるので、インフルエンザにアスピリンを処方すべきではありません。それはそうです。

しかし、「この時期に、すでにアスピリンの危険性を察知した医師は多数いたようだ」と書くことによって、あたかもホメオパスが先見の明に富んだ医師たちであるかのように思わせるのは非常にまずい。彼らは先見の明をもって「アスピリンの危険性を察知」していたのではなく、ホメオパスだからあらゆる薬を否定していたのです。それがたまたま正しかったとしても、ホメオパシーの肩を持つ理由にはならないでしょう。

結果的に、浜氏はホメオパシーの肩を持ったことになります。これには、正直、途方に暮れています。ちなみに浜氏の本にはどこにも「ホメオパシー」と日本語では書かれていません。雑誌のタイトルにHomeopathyという単語が含まれることに気づかなければ(普通はそこはスルーでしょう)、読者もまさかホメオパシーだなんて思わないでしょう。意図的に隠したなら非難されるべきだし、ホメオパシーのなんたるかを知らなかったのなら軽率です。

前にも書いたように、

http://npojip.org/newspaper/asahi/20011229.htm

はインフルエンザについて冷静に書いたよい記事だと思うんです。僕はタミフル事件が起きるまで浜氏の文章をまじめに読んだことがなかったので、極論を言う人なのだと思い込んでいました。ところが、津田さんや多くのかたが高く評価しているのを見て、よくわからなくなったわけです。だけど、この2001年の記事を読むと、バランスの取れた書き方だと思います。それがどうしてこういうことになったのか、理解しがたいです。

余談ですが、今回「日本を襲ったスペイン・インフルエンザ 人類とウイルスの第一次世界戦争」(速水融)という本を読みました。ものすごい労作です。スペイン・インフルエンザが日本でどれほどの猛威を奮ったか、今まであまり語られてこなかった事実を掘り起こしてまとめています。ぜひお読みください。

[追記]

浜氏がホメオパシーを知っていたかどうかについて、上にはかなり穏便に書きましたが、正直なところ、僕は浜氏がホメオパシーのことを知らなかったとは考えていません。NATROMさんがはてなブックマークでそう推測しておられたので、きちんと書きます。

理由は、問題の文献にGelsemiumやBelladonnaやBryoniaが使われたことが明記されているからです。もしホメオパシーがなんであるかを知らなかったとすれば、この文献はアスピリンの代わりにアルカロイド系の生薬を使った事例の集まりとして読むべきで、疫学としてはアスピリン使用・不使用ではなく、アスピリンvs.アルカロイドで効果を比較することになったはずです(アスピリンを使用した群とアルカロイドを使用した群はあっても、どちらも使用しなかった群がない)。これをアスピリン使用・不使用の比較と読めるのは、「ホメオパシーなんだから、薬効成分は含まれないはず」ということを知っているからとしか考えられません。

アスピリンのことだけを論じた文献でもなければデータでもないわけです。もし、文献通りにデータを受け取るなら、結論は「ホメオパシーは通常医療よりも効く」です。実際、どうやらホメオパシー界ではこれが「ホメオパシーが感染症にも効くことを示した文献」として知られているようです(ということも今回知ったわけですが)。浜氏の解析がそういう結論になっていないのは、「ホメオパシーは効かない」ことを知っているからでしょう。

というわけで、浜氏はホメオパシーとは何であるかを知った上で、ホメオパシーという言葉を隠して、あたかも単なるアスピリン不使用のデータであるかのようにあつかったのだと推測するに足るだけの十分な理由はあると考えています。

このようにホメオパシーのデータを利用するのは、パンドラの箱を開けるようなものだと思いますが。

津田さんには「ニセ科学とは議論しないということか」と責められるのだけど、こういう考察を続ければ続けるほど、「議論は無理」という気になります。

 

以下「In Deep」様より転載

https://indeep.jp/exploding-the-spanish-flu-myth/

・スペイン風邪の誤った神話を打破する

healthfreedomdefense.org 2024/06/20

※ジョージ・オーウェル「1984年」より
過去を支配する者は未来を支配する。現在を支配する者は過去を支配する。


検索で「 1918 年のスペイン風邪」と入力するか、地元の図書館に行ってこのテーマに関する歴史的文献を調べてみると、必ずと言っていいほど次のような話が見つかる。

1918年から 1919年にかけてのスペイン風邪の大流行は、世界史上最悪のパンデミックとなり、世界中で約 5億人(人口の約 3分の1)が感染し、最大 5千万人が死亡、米国だけでも約 65万人が死亡した。インフルエンザウイルスの新しい変異体によって引き起こされたこの病気は、第一次世界大戦中の軍隊の移動によって部分的に広まった。

ワクチンや有効な治療法がないまま、パンデミックは大規模な社会的混乱を引き起こした。学校、劇場、教会、企業は閉鎖を余儀なくされ、市民はマスクの着用を命じられ、間に合わせの遺体安置所に遺体が積み上げられた。1920年初頭にウイルスの致命的な蔓延は終わった。


標準的な文献に見られる、このような従来の説明は、おざなりで画一的であり、この壊滅的な歴史的出来事の原因要因の法医学的分析が欠けている。

不適切に名付けられた「スペイン風邪」という名称の不滅の歴史は、ダモクレスの剣のように、あらゆる政府の健康政策対応の正当化として今でも頻繁に利用されている。「〇〇をしなければ、スペイン風邪の恐怖が再び起こるかもしれない」 というように。

疑わしい病原体が世界中に広がり、大量死を引き起こしたという話は、何世代にもわたって繰り返されることで大衆の心理に深く根付いており、公式の説明には数多くの不可解な異常点があるにもかかわらず、今では批判されることなく人々に受け入れられている。

先入観を捨てて見ると、この壊滅的な健康被害が何らかのスーパーウイルスによって引き起こされたという話全体は、かなり不合理に思える。

第一次世界大戦によってもたらされた荒廃という文脈で、存在意義を模索する新興の製薬/化学産業を背景に見ると、この重大な人類の大惨事は、感染症の標準的な前提に反する論理的一貫性を生み出す。

世界で最も裕福な人々によって集められたこの急速に拡大した科学および医療産業は、社会的要因と健康や病気の関係を調査する研究と真っ向から対立していた。

その代わりに、資源は化学、病理学、細菌学、生理学、薬理学にのみ集中され、精神、感情、社会、経済、および物理的環境が病気や健康に与える影響は無視されていた。


第一次世界大戦の状況

イギリス軍のリーハム大尉の言葉

塹壕は恐ろしい光景だった。死体は片側に横たわり、6フィートの高さで重なっていた。その時、私は、太陽に熱せられた温かい人間の血の蒸気の独特の不快な臭いが鼻から抜けることはないだろうと思った。

むしろガスの臭いを 100回嗅いだ方がましだった。あのかすかな吐き気を催すようなひどい臭いで、私は何度も完全に意識を失いそうになったが、それは決して言葉では表現できない。

第一次世界大戦の戦闘は 1914年7月から 1918年11月まで続き、ヨーロッパ、中東、アフリカ、太平洋、アジアの一部で発生し、歴史上最も多くの死者を出した戦争の 1つとなった。

第一次世界大戦の数々の際立った残酷な特徴により、日常生活の状況は、死、破壊、蔓延する病気が何百万もの人々、特に激しい戦闘に巻き込まれた若者たちの生活の常態となる環境へと変化した。

第一次世界大戦の特徴は、馬、ラバ、ラクダなどの動物が大量に使用されたことだ。これほど多くの動物を戦場に送り込むには、物流と大量輸送の巨大なプロジェクトが必要だった。

米国だけでも、換気の悪い船で約 100万頭の動物を大西洋を越えて輸送した。これらの動物は湿度の高い環境で長距離を移動し、栄養失調に陥った。長距離の海上輸送の厳しさと欠乏により、多くの動物が死んでしまった。輸送中の動物の死は「海上インフルエンザ (shipping flu)」として知られるようになった。

同じ船で輸送されていた人間の部隊も、同じストレスと不衛生な環境に苦しんでいた。

第一次世界大戦のもう一つの特徴的で過酷な特徴は塹壕戦であり、兵士たちは泥と死と絶望の世界で生活していた。塹壕の兵士たちは常に寒くて湿った環境で生活し、生き延びるために缶詰を食べ、汚れた水を飲んでいた。

塹壕自体は、弾薬箱、空の薬莢、汚れた包帯、榴散弾、骨片、戦争のさまざまな残骸が散乱する不衛生なゴミ捨て場だった。

こうした不衛生な環境で密集して戦う兵士たちは、赤痢、コレラ、腸チフスなどの病気にかかりやすかった。塹壕にいた兵士たちは、喉の痛み、風邪、インフルエンザ、シラミがはびこる衣服による「塹壕熱」やチフスに悩まされ、日常生活で疲労や傷に悩まされていた。

長期間にわたり塹壕に閉じ込められ、ほぼ絶え間ない砲撃にさらされた多くの兵士は、心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しんだ。

医療施設は前線から遠く離れており、精神衛生サポートは存在しなかったため、兵士の心身の健康はこれらの状況によって深刻な影響を受けた。戦争が人間の精神と身体に与えた壊滅的な影響は、人間の状態のあらゆる側面を即時かつ永続的に崩壊させる状況を生み出した。

1915年にはすでに兵士たちはガス攻撃の犠牲となり、西部戦線の塹壕は有毒な穴と化した。


化学戦 / ガス戦

イギリス軍の工兵、レンドン・ペインの言葉

ガス攻撃が終わり、警報解除の合図が鳴ったとき、私は新鮮な空気を吸いに外に出て何が起こっているのか見てみることにした。

川岸を眺めたとき、自分の目が信じられなかった。川岸はガス攻撃を受けた男たちの死体で完全に覆われていた。その数は 1,000人以上だったに違いない。川の下流、運河の川岸に沿ってもう少し進むと、そこも死体でいっぱいだった。

おそらく、第一次世界大戦に関連する生物および環境システムに対する圧倒的な攻撃のリストのトップに位置するのは、ヨーロッパの戦争地域ですべての軍隊によって広範に使用された、根本的に新しい化学戦とガス戦だ。

以下の抜粋は、レブンワース文書「第一次世界大戦における化学戦争:1917~1918年のアメリカの経験」からの抜粋だ。

この長文の文書は、化学戦争の広範な使用についての洞察と、その壊滅的な影響についての鮮明な説明を提供している。

ガスと化学物質は、人体への影響に応じて分類された。両陣営で最も広く使用され、最も有害で致命的な影響を及ぼしたのはマスタードガスだった。マスタードガスは、1,205,655人の非致命的な負傷と 91,198人の死亡を引き起こしたと言われている。

厳密に言えば、マスタードガスは気体ではなく液体であり、通常の周囲温度でゆっくりと蒸発する。

ガスにさらされた人たちは不快感を感じなかったが、数時間後には窒息感、ひどい灼熱感、粘膜の水疱を経験した。マスタードガスはあらゆる種類の「防護」衣服を貫通し、土壌、葉、草などの環境中に長期間にわたって驚くほど残留した。

…重砲の使用により、兵士たちは弾薬を正確に運ぶために風向きに頼る必要がなくなり、また効果を上げるために「直撃」に頼る必要もなくなった。例えば、1916年5月には、強力な肺刺激物質であるジホスゲンを充填した砲弾が使用され始めた。

…1917年7月までに、両陣営はホスゲン、ジホスゲン、ジフェニルクロロシン(ヒ素粉を混ぜた塩素粉)の 3種類の混合物を使用していた。実地試験では、ヒ素粉は原始的なマスクに使用されているあらゆる種類のフィルターを貫通したため、非常に効果的であることが証明された。

しかし、ドイツ軍に化学戦で明らかな優位性を与えたのは、マスタードガスだった。マスタードガスは爆発物と組み合わせると、広範囲に拡散し、長時間空中に留まった。

このレブンワース文書に記されているように、個人を守ろうとする試みは名ばかりで効果がなく、多数の死傷者と大量中毒を招いた。

第一次世界大戦で使用された毒ガスや有毒化学物質の総量を正確に評価することは不可能だが、ヨーロッパ大陸の大部分は 3年間にわたって大量の有毒で持続的な化合物の爆撃を受け、飽和状態になった。


奇妙な青いインフルエンザ (Blue Flu)

スペイン風邪のよく言われる症状の一つは、それ以前およびそれ以降のどのインフルエンザとも異なる、皮膚の色が奇妙な青みがかった灰色へと変色することだ。感染者の肺に液体が溜まると、皮膚が灰青色に変わることが指摘されている。

死体を検査して死因を登録する際、突然死し、唇や皮膚が青紫色に変色した犠牲者は、自動的にスペイン風邪で死亡したものとして記録された。

スペイン風邪の際のインフルエンザのもう一つの臨床的特徴は、肺に水がたまり窒息し、症状が現れてから数時間または数日以内に患者が死亡する可能性があることだった。

これらの異常な症状はインフルエンザの典型的な臨床プロファイルには当てはまらないが、第一次世界大戦中の化学戦争の説明には当てはまる。

化学攻撃の目撃証言によると、フランス兵は「目が見えなくなり、咳き込み、胸を激しく動かし、顔は醜い紫色になり、苦痛で言葉も出ないまま、よろめきながら戦場から去っていった」という。

英国軍兵士による別の報告書では、毒ガス攻撃の生存者について次のように記述している。

「顔色は青みがかった灰色で、目玉は見開いており、まぶたは半分閉じており、非常に不安で苦しそうな表情をしていた。呼吸は極めて困難で騒々しく、溺れそうになる大量の粘り気のある黄緑色の泡状の液体を吐き出そうと頻繁に努力していた。その液体を通して、ゴボゴボという音を立てながら肺に空気を吸ったり吐いたりしていた」


若くて強い人を殺し、老人を救った珍しいインフルエンザ

伝統的に「インフルエンザ」と呼ばれているこの病気は、特定のグループが罹患すると、重篤な合併症を発症するリスクが高いことが歴史的に指摘されてきた。

ほとんどの病気と同様に、重篤な合併症を発症するリスクが高いリストのトップにいるのは高齢者たちである。ところが、奇妙なことに、スペイン風邪の場合はそうではなかった。

スペイン風邪は疫学史上特異な「前例のない年齢別死亡率パターン」を示し、「若年成人の死亡リスクが異常に高く、これはインフルエンザの流行以前もそれ以降も見られなかった特徴である」と言われている。

1918年の流行の死亡率プロファイルは、多くの点で例外的だった。

過去のすべてのインフルエンザ流行では、幼児と高齢者の死亡率が高く、中間の年齢層の死亡率が低い U 型であることが示されていた。

しかし、過去のインフルエンザによる死亡率のパターンとは対照的に、スペイン風邪では特異な W 字型の死亡年齢プロファイルが見られ、15~ 24歳、25~ 34歳、35~ 44歳の年齢層で最も高い死亡率を記録した。

また注目すべきは、1918年の成人におけるインフルエンザによる男性の死亡率が女性の死亡率をはるかに上回っていたことだ。

これは、若い成人男性の死亡リスクが異常に高いという、前例のない年齢別の死亡率パターンを示しており、これはそれ以前にもそれ以降にもインフルエンザの流行では見られなかった特徴だ。

この表面上の病気に最も深刻な影響を受けた若い男性は、概して第一次世界大戦の戦闘に参加した人々だった。

「 3波のうち最初の波は、1918年初頭にフランスの兵士を襲った。しかし、インフルエンザはすぐにそこから広がり、その後の 2波はさらに毒性が強くなり、ほぼあらゆる場所で兵士と民間人を病気にした」

既知の医学史からのこれらの不気味な逸脱についての説明は、おざなりで不十分であり、スペイン風邪の年齢別の死亡率の逸脱については、以下のように説明されることが多い。

「高齢者は以前のインフルエンザ流行にさらされて免疫を獲得した可能性がある」

「高齢者の死亡率が予測より低いのは、おそらく 19世紀に当時流行していた H1または N1表面タンパク質を含む A型インフルエンザウイルスにさらされたことに起因する可能性がある」

などだ。

この死亡率の謎を説明しようとするもう一つの試みは、「健康な若年成人における二次性細菌性肺炎の頻度の不均衡な増加は、異なる宿主免疫応答に関連するウイルス毒性のさらなる発現である可能性がある」というものだ。

決定的な説明が一切提示されていないため、一部の専門家は「秋の流行の極端な毒性はこれまで説明されていない」と認めつつ、「ウイルス自体の性質とそれに伴う細菌性肺炎の両方が関係している可能性がある」と遠回しに示唆している。

2008年、国立衛生研究所(NIH)の研究者たちは、1918年から 1919年にかけていわゆる「スペイン風邪」で死亡した人々の検死結果の 92%で、細菌性肺炎が死因であったと結論付けた。

この研究では、15か国から集められた 8,398人の検死結果が調査された。肺組織の検査結果のほぼすべてで、「主な病理として、またはインフルエンザウイルス感染と関連があると現在考えられている根本的な病理学的特徴と併せて、重篤な急性細菌性肺炎の説得力のある組織学的証拠」が示され、気管支上皮の損傷も含まれていた。

こうした推測や研究、憶測が氾濫する中で無視されてきたのは、この謎のインフルエンザに最も深刻な影響を受けている集団が日々直面している大量の毒素、ストレス要因、そして絶え間ない生物学的攻撃という具体的な現実だ。

この疑惑の病気の被害者がさまざまな方法で最も暴力的な攻撃を受けていたことは明らかであったにもかかわらず、当局はこれらの病気や死亡の原因として「病原体」のみを考慮することに邁進した。


米軍のワクチン接種キャンペーン

アニー・ライリー・ヘイル「医療のブードゥー」より

第一次世界大戦の兵士たちに軍の医師が課したようなあらゆる種類のワクチン接種と予防接種の狂乱を世界はこれまで見たことがなかった。

1918年1月21日から 6月4日の間に、フレデリック L. ゲイツ博士は、米カンザス州フォートライリーにあるキャンプ・ファンストンの兵士に細菌性髄膜炎ワクチンを 3回投与した実験について報告した。

フォート・ライリーは 2万6000人の兵士を収容する巨大な施設で、兵士たちは「骨まで凍るような冬、うだるような夏、そして目がくらむような砂嵐」に不満を漏らしていた。

兵士たちと一緒に暮らしていた馬やラバは何千頭もいて、毎月 9トンの肥料を出していた。肥料の処分方法は、燃やして燃える肥料を強風に吹き飛ばすというものだった。

議論の余地はあるものの、「公式」筋によると、フォート・ライリーは、後にスペイン風邪と呼ばれることになる 1918年の歴史的な「インフルエンザの大流行」の発生地として最も可能性が高い場所であると考えられている。

兵士たちに投与された実験用ワクチンは、馬から採取したワクチン血清によるものだった。使用されたワクチンはロックフェラー研究所の研究室で作られたものだ。

その後すぐに、ワクチンは部門外科医によってキャンプ全体に提供される予定となった。

3月4日の朝、アメリカ陸軍のアルバート・ギッチェル二等兵が「喉の痛み、発熱、頭痛という風邪のような症状を訴えて」カンザス州フォート・ライリーの病院に入院した。そのすぐ後には、リー・W・ドレイク伍長も同じような症状を呈した。

正午までに、収容所の外科医エドワード・R・シュライナー医師は 100人以上の病人を診たが、全員が明らかに同じ病気にかかっていた。

ゲイツ博士の報告書には、注射を受けた兵士たちが直後に患った病気が記録されている。

「個々のケースを注意深く調査すると、ワクチン接種の影響を訴える男性は、接種時に軽い鼻風邪や気管支炎などを患っていたという情報が得られることが多かった」

「時には、悪寒や寒気によって反応が始まり、翌晩に発熱や熱っぽい感じを訴える男性もいた。次に多いのは、吐き気(時には嘔吐)、めまい、関節や筋肉の一般的な「痛み」で、いくつかの例では、特に首や腰の領域に局在し、首や背中のこわばりを引き起こした。注射を数回受けた後、下痢が起こった例もある」

「そのため、反応は時折、流行性髄膜炎の発症を模倣し、ワクチン接種を受けた数人の男性が疑いとして診断のために基地病院に送られた」

ロックフェラー研究所は、彼らが「治療用血清」と呼ぶ 3種類の血清(抗髄膜炎菌血清、抗肺炎球菌I型血清、抗赤痢血清(多価)を大量生産したと勝ち誇ったように発表した。

ロックフェラー研究所が指摘しているように、これらの実験的な注射の使用は米国に限ったことではなく、同研究所は米国が戦争に参戦する前に「英国、フランス、ベルギー、イタリア、その他の国々からの要請に応えるため、抗髄膜炎菌血清の調製を再開した」と自慢していた。


電磁中毒とロゼノー博士の実験

アーサー・ファーステンバーグ氏の画期的な著書「見えない虹:電気と生命の歴史」 では、電気の影響と生物との相互作用について考察している。

ファーステンバーグ氏のこの独創的な研究は、さまざまな病気や代謝障害が、私たちの生物学的システムが使用する電流に干渉する環境中のパルス状および交流電磁場への曝露に起因する可能性があることを示唆している。

19世紀後半から 20世紀初頭にかけての顕著な特徴は、都市部の大規模な電化だった。この時期に、生物がさらされる最初の迷走電流が発生し、神経衰弱などの病気が初めて現れた。

第一次世界大戦中に政府が強力な無線信号を作り出すアンテナを設置したことで加速されたこの大規模な電化計画が、当時の兵士たちに影響を与えた無数の疾病のもう一つの要因であったと主張する人たちもいる。

1918年、公衆衛生局とアメリカ海軍の研究者は、スペイン風邪の原因とその異常な伝染性と考えられていた理由を突き止めるために人体実験を実施した。

ミルトン・J・ロゼノー博士は、1919年にアメリカ医師会雑誌に掲載されたこの画期的な研究「インフルエンザの拡散様式を決定するための実験」を監督した。

実験はボストン港の検疫所であるギャロップス島で行われた。

実験は、インフルエンザの病歴のない海軍のボランティア 100人から始まった。ロゼノー博士は、1918年11月と 12月にギャロップス島で行われた実験について最初に報告した人物だ。

最初のボランティアたちは、まず 1種類のファイファー菌株(分離されたインフルエンザ)、次に数種類のファイファー菌株を、スプレーと綿棒で鼻と喉に、そして目に接種された。しかし、この処置で病気が起こらなかったため、他のボランティアたちはインフルエンザ患者の喉と鼻から分離された他の細菌の混合物を接種された。

次に、ボランティアの一部がインフルエンザ患者の血液を注射された。最後に、ボランティアのうち 13名がインフルエンザ病棟に移され、それぞれ 10名のインフルエンザ患者に接触した。

各ボランティアは各患者と握手し、至近距離で会話をし、患者が顔に向かって直接咳をすることを許可した。

しかし、これらの実験に参加したボランティアの誰もインフルエンザを発症しなかった。ロゼノー博士は明らかに困惑しており、否定的な結果から結論を導き出すことに対して警告した。

アメリカ医師会雑誌の記事でロゼノー氏は次のように結論付けている。

実のところ、私たちはこの病気の原因を知っており、人から人へとどのように感染するかも十分わかっているという確信を持って、この流行に突入した。

しかし、おそらく、私たちが学んだことがあるとすれば、それはこの病気について私たちが知っていることのほとんどが、まだよくわかっていないということだろう。

サンフランシスコのエンジェル島で同時期に行われた関連研究でも、同様の、水平感染に否定的な結果が出た。

どちらの研究も、歴史上最も感染力の強い伝染病の一つと考えられていたものが、実験条件下では伝染しないという結論を出した。

ロゼノー氏の実験結果は、伝染の正統性に異議を唱えるだけでなく、スペイン風邪神話のもう一つの柱を否定するものでもある。


結論

スペイン風邪の恐怖物語は集合意識に植え付けられており、その真実性を検証する時間を持つ人はほとんどいない。

私たちの注意を引くと、その物語は常に、この世のものとは思えない致命的なウイルスによって引き起こされた終末的な健康災害として放送され、これは議論の余地のない真実として人々に受け入れられている。

周辺での議論は許されるが、それは、支配的な物語の根本的な「真実」に対する揺るぎない信念を維持しなければならないという暗黙の契約を伴う。

「それ」は実際に何人を殺したのか? 2000万人か? 5000万人か?

「それ」はどこから来たのか? 米軍基地から? フランスから? 中国から?

いったいどうやって「それ」はこんなにも広範囲かつ急速に広がったのだろうか。「それ」は列車での移動を通じて人々の間に広がったのだろうか。大規模な軍事行動によるものだったのだろうか。

この病原体の何がそれほど独特で致命的だったのだろうか。新たな致命的な特徴が強化されたのだろうか。抗原組成が特に毒性が強かったのだろうか。

こうしたタイプの質問自体は許可されており、2024年頃には非常によく見られるようになっている。

許されないのは、この世界を揺るがす歴史的出来事の核となる前提に疑問を投げかけることだ。たとえその前提があらゆる論理に反するものであってもだ。

断じて疑問視されるべきではないのは、「それ」が実際に存在したということだ。既存の秩序によって要求されているのは、他のもっともらしい説明はすべて最初から却下されることである。

私たちが考慮を許されていないことは、「この悲劇が完全に誤って伝えられてきた可能性について」だ。

では、原因が、世界中に野火のように広がった特異な病原体でなければ、これらすべての人々を殺したのは何なのだろうか。

歴史書や統計を見ると、疫病は常に、主に食糧や水の不足、劣悪な衛生状態、毒素の過剰、そして大きな社会的ストレスなどにより、人間の生物学的システムが弱体化した場所で発生したことがわかる。

この説明は、1918年の世界と「第一次世界大戦」の社会的状況を定義している。

こうした社会状況を分析すると、スペイン風邪の確立された歴史を取り巻く多くの深遠な疑問が浮かび上がる。

なぜこのインフルエンザだけが、若い健康な成人を襲い、体の弱い幼児や高齢者を襲わなかったのだろうか。

なぜこのインフルエンザだけが、人々の顔を青くし、唇を紫色にし、数時間のうちに倒れさせ、さらにはその日のうちに死に至らしめたのだろうか。

3年間にわたる毎日の爆発で、塩素ガス、ホスゲン、マスタードガス、その他 30種類以上の化学物質を含む数千トンの戦争化学物質が環境に放出され、短期的にも長期的にも生物学的崩壊と大量死につながる状況が作り出されていたと信じることは、そんなに無理なことだろうか。

化学戦争の訓練とこれらの化学物質への曝露、そして戦場に上陸する前からこれらの男性が被った曝露の結果としての被害についてはどうだろうか。

何千トンもの爆発物を使って何百万ポンドもの有毒液体や有毒ガスを全(欧州)大陸の空中に放出すると、大量の死傷者を出すような環境が作られるというのは、本当に議論の余地のある考えなのだろうか。

兵士たちが体内の有毒残留物を除去するためにどのくらいの頻度で入浴し、着替えることができたのかという基本的な質問をすることは歴史修正主義なのだろうか。

化学物質の残留物が肺や環境中に長期間残留し、必然的に致命的な結果をもたらすことを指摘するのは無謀な主張だろうか。

第一次世界大戦中、兵士、動物、物資の海上輸送の問題を考慮するのは理にかなってはいないだろうか。

当時、兵士は多くの馬やラバとともに船に詰め込まれ、非常に湿度が高く、衛生状態はひどく、栄養不足が深刻で、人間や動物の排泄物を衛生的に保管できる場所も限られていた。このような状況では、呼吸器系の問題を含む病気が確実に発生するのではないだろうか。

あるいは、何百万人もの兵士を粗雑で実験的な大量予防注射作戦に投入したことで、被験者に有害な、さらには致命的な結果をもたらした可能性があると主張するのは、本当に無理なことだろうか?

ヨーロッパ全土の物理的に荒廃した地域の社会的、経済的に荒廃した町や都市が、病気にとって完璧な条件を作り出すと主張することがそんなに空想的なことだろうか。

第一次世界大戦が終わったと同時に「世界的パンデミック」が終結し、その病気とされるものが「不思議なことに」消えたのはなぜなのかと問うことは禁じられているのだろうか。

スペイン風邪による死亡の主な原因は病原体ではなく、第一次世界大戦に関連するすべての事柄であったと主張するのは本当に不合理だろうか。

今こそ、こうした疑問を追求し、歴史についての知識を持ち、歴史を正しく理解し、この出来事の検証可能な起源と、この虚偽の物語が誰のためにあるのかを理解することが、これまで以上に重要だ。