・韓国で今「女性徴兵論」が流行る理由(Newsweek 日本語版 2021年6月28日)

金 明中

※韓国には現在約60万人の軍人がおり、軍人の大部分は徴兵制に依存している。1953年に韓国戦争が休戦してから北朝鮮と対峙している韓国では、男性の兵役義務が憲法で定められ、すべての成人男性は、一定期間軍隊に所属し国防の義務を遂行しなければならない。つまり、韓国の男性は、満18歳で徴兵検査の対象者となり、19歳になる年に兵役判定(軍隊に行くか行かないか、どこで兵役の義務を遂行するか等の判定)検査を受ける。

検査は、心理検査と身体検査が行われ、検査結果に資格、職業、専攻、経歴、免許等の項目を反映してから最終等級(1級~7級)を決める。判定の結果が1~3級の場合は「現役(現役兵)」として、4級の場合は「補充役(社会服務要員、公衆保健医師、産業機能要員等」として服務する。一方、5級は「戦時勤労役(有事時に出動し、軍事支援業務を担当)」、6級は「兵役免除」、7級は「再検査対象」となる。

兵役の期間は1953年の36カ月から段階的に減り、現在は18~21カ月まで短縮された。月給(兵長※基準)も1970年の900ウォンから2021年には60万8500ウォン(約66,700円、兵役は義務なので最低賃金を下回る。参考までに2021年の最低賃金は1時間8,720ウォンで、月209時間基準で182万2480ウォン(約17万8790円))に大きく引き上げられた。兵役の期間も短くなり、給料水準も改善される等服務環境は大きく改善されたものの、若者は兵役を嫌がる。

※伍長の下、上等兵の上に位置する軍隊の階級

若者が兵役を嫌がる理由は、厳しい訓練、体罰、命令・服従等の縦社会への抵抗感、時間や行動の制限、学業が中断され就職が遅れるという不安感、集団生活や軍隊施設への不慣れ、軍隊にいる間に恋人が変心する可能性が高いなど様々だ。親たちも子どもの兵役期間中に戦争でも起きるのではないか、事故により怪我でもするのではないかという心配で除隊するまで不安でたまらない。

特に兵役中の若者の最大の懸念は兵役の義務を終えた後の進路、つまり「就職」のことである。昔は、6級以下の公務員採用試験で、2年以上兵役の義務を果たした人には得点の5%、2年未満の兵役の義務を果たした人には3%を加算する「軍加算点制度」が実施(1961年から)されていた。しかしながら、この制度は兵役の義務がない女性に対する差別につながるとして論議を呼び、1999年に憲法裁判所で違憲と決定されてから廃止された。

その後、女性の学歴上昇と男女平等を目指す機運の高まり、そして「積極的雇用改善措置」等女性の労働市場参加を支援する制度の実施等により、女性の労働市場参加は増え続ける一方、兵役の義務を終えた20代男性を含めた若い男性の就職は益々厳しくなっている。


・韓国兵役残酷物語、ここは人であることを捨てる場所 韓国人が語る、日本人は兵役のない国に生まれたことを感謝すべき(JB Press 2021年2月7日)

朴 車運:ジャーナリスト

※韓国は現在、世界唯一の分断国家だ。朝鮮戦争後の1953年から北朝鮮と対立しており、正常な韓国人男性は一定期間、軍隊に入隊して服務しなければならない。韓国の兵役は憲法に明示された国民の4大義務の一つで、男性だけに課され、社会的な不正も多い。

現在、韓国の兵役は、陸軍18カ月、海軍20カ月(海兵隊18カ月)、空軍21カ月で、代替服務対象者は6カ月から36カ月となっている。陸軍を除く海軍と海兵隊、空軍は志願制で、1年6カ月以上収監された受刑者は除外される。

服務を終えた後も韓国人男性の兵役は続く。除隊後8年間は予備軍として1年に1度の軍事訓練を受けなければならず、その後も40歳まで民防衛隊に組み込まれて、災害への備えや戦争時の地域防衛任務を担う。民防衛隊ははじめの4年は1年間に4時間、以後40歳まで年1時間の教育が義務付けられる。

筆者の軍服務は1990年代末に始まった。陸軍に26カ月間服務し、多様な経験をした。筆者が軍に服務したのは、金大中(キム・デジュン)大統領の時代で北朝鮮との関係が急速によくなった時である。むろん、表面的にそう見えただけで、実際の韓半島の緊張状態に大きな変わりはなかった。現在の状況はかなり異なるだろうが、軍隊内の人権問題とほぼ無報酬に近い若者の時間の浪費は依然として変わらない。

筆者は20歳で入営令状を受けたが、一度延期した後、21歳で陸軍に入隊した。韓国の男性にとって軍隊は一種の通過儀礼といえる。良く言えば、団体生活を通して忍耐と社会生活を学ぶ場所だが、悪く言えば、自由が制限されたあらゆる不正に満ちた場所である。

事実、この期間は、不完全な補償だけが提供される国家の奴隷として時間を過ごす。以前の韓国では、軍隊を正常に終えた人は公務員試験を受ける際に若干の加算点が与えられ、将校や副士官として軍服務を終えると企業の入社試験で優遇されたが、2000年代以降は加算点や優遇制度はほとんどなくなった。女性団体の抗議のためだ。

韓国陸軍の徴兵は、大きく2つに分けられる。論山(ノンサン)にある陸軍訓練所への入隊と各地域の補充隊(江原道春川と京畿道議政府、その他後方地域)を経て師団が運営する新兵教育隊への入隊だ。

韓国陸軍の補充隊に入隊した後に起きたこと

筆者は、現在は解体された議政府の306補充隊に入隊した後、最前方師団の訓練所に移動し、6週間の軍事訓練を受けた。

補充隊をはじめ韓国の軍部隊近くの食堂は、まずい料理とぼったくりで知られている(多少はマシになってはいるが、今も状況は大して変わっていない)。

軍部隊近くの食堂は、入隊前に家族とともにする最初で最後の食事の場所と言われているが、話にならないほどまずい。食堂の経営者が入隊者の家族と二度と会うことはないから、何を出そうが関係ないのだろう。

また、補充隊の入り口には様々な品物を売る屋台がある。屋台には時計や手帳などが並んでいるが、時計を除くすべてのものは入隊と同時に返却しなければならない。そんなことはつゆ知らず、屋台で買い込む若者は後を絶たない。筆者もそのひとりである。入り口そばには簡易理髪所もあるが、入隊すれば髪は部隊で切ることができる。もう、ぼったくりの嵐である。

入営時間になると同行した家族と別れる。それまで親切だった基幹兵は、家族が見えなくなると、悪口雑言の限りを尽くし、殴打することすらある。基幹兵は人員を統率する現役軍人で、入営者の数カ月後の姿でもある。

筆者が入隊した時の入隊式の風景。後ろで日傘を差しているのは父兄

補充隊の入営者は「壮丁」と呼ばれ、軍人ではなく、多くが数字で呼ばれる。補充隊の滞在期間は約3日。身体検査、特技分類、簡単な適性検査、精神教育、官等姓名暗記、簡単な制式訓練などが行われ、欠格事由で家に戻る人もいる。また、この時に軍服が支給され、入隊する時に着ていた服と所持品は箱に詰めて家に送る。

補充隊の「壮丁」は軍人でも民間人でもない。訓練所で個人記録カードを作成すると軍人の身分になるが、補充隊は各訓練所に送る人員を分類する。運が良ければ後方の穏やかな所で勤務できるが、補充隊の入隊者はほとんどが江原道と京畿道の最前方戦線に送られる。

補充隊は人間としてすべてのものが剥奪される空間だ。

汗と体臭が入り交じった蒸し部屋で寝た日

個人の自由はなく、トイレに行く時も担当基幹兵に報告し、戦友組と呼ばれる3人が一緒に移動しなければならない。団体でタバコを吸う時間も制限され、20-30名が内務班または生活館と呼ばれる一室に押し込まれて一緒に生活する。自由時間は一切なく、決められた食事時間と朝6時起床、夜10時就寝時間を必ず守らなければならず、朝夕に人数を確認する。全国から集まった血気盛んな若い男性たちは、最小限の自由も与えられず、大小の争いが生じることも多い。

補充隊の食事は最悪だ。筆者は2日間、ほとんど食事をしなかった。蒸したご飯の独特の匂いと貧弱極まりないおかずは、人が食べられる食べ物とは思えないほどだったからだ。食堂の環境も外部の食堂とは比較にならないほど劣悪で、残飯を捨てる空間は悪臭が立ち込めている。おやつや買い食いもまったくできない。飢え死にする人がいない社会で育った人が、飢えをしのぐ特別な経験ができる場所である。



こちらは寝室。基本的にみんなで雑魚寝

筆者は暑い盛りの8月に入隊したが、冬に入隊した人々は寒さも加わり、悲しくさえなるという。もちろん夏も大変だ。20-30人が一緒に生活する内務班は2つの小さい扇風機があるだけだ。夜は汗の臭いと人の体臭が入り混じった蒸し部屋で、服を自由に脱ぐことはできず、外に出て風に当たることもできない。

もちろん、シャワーや入浴もできず、朝と夜に顔と手足を簡単に洗うだけだ。わずか数日前、あるいは数時間前の生活とは比較にならないほど息苦しいが、解決策はない。今は以前と比べてかなりよくなったとはいえ、人生で最も血気盛んな時間に一挙手一投足すべてを統制され、社会の一番どん底に落ちる現実を受け入れることなど決して簡単ではない。

これは韓国の平凡な一般的な男性たちの話だ。政界や社会高位層などは兵役を避ける方法が多々あり、不正の温床となっている。そのため韓国で兵役は「庶民たちの荷物」と呼ばれており、韓国社会で兵役不正は毎年、社会問題として登場する。

人生最悪の補充隊を卒業してもまだ3日

3日間の“入営手続き”が終わると新兵教育隊と呼ばれる各訓練所に移動する。補充隊に一度に入隊する人員は約3000人(1990年代基準で現在とは異なる)。これらの人員は新兵教育隊がある師団に移動する。最終日は、内務班別に行くべき新兵教育隊が発表され、2年2カ月間勤務する地域が決まる。運転兵、整備兵、行政兵(軍に入隊した人員を管理する兵士)など特技がある人間は、新兵教育隊の6週間の訓練を終えた後、各特技学校で教育を受けて配置される。

補充隊を離れる時は疲れから解放される気がするが、2年2カ月のうちのわずか3日しか経っていないという事実に気がつくと、猛烈な挫折感が押し寄せてくる

性欲処理どころではない韓国・軍隊生活の現実 威圧的な雰囲気の訓練所生活

これまでの人生中で最もわびしく、長く感じた議政府補充隊を離れて、6週間の基礎軍事訓練を受ける新兵教育隊の訓練所に到着した。なお、補充隊は現在廃止されている。到着した訓練所は最前線だった。

訓練所の練兵場にバスが着くと赤い八角帽子を深く被った下士官たちが待っていた。威圧的で険悪な雰囲気が感じられた。彼らは大声を上げながら、尊重しているとは思えない威圧的な態度でバスから降りる我々を迎えたのだった。 補充隊で支給された軍服と軍靴がサマになっている人はほとんどいなかった。

ぎこちなく不自然だった我々は、下士官の指示に従うほかなかった。1990年代末のことである。いまは状況がかなり違うが、初めて経験する威圧的な雰囲気は変わっていないだろう。

「壮丁」から「訓練兵」に身分が変わる訓練所で、良い思い出を作る人は誰もいない。入所初日の雰囲気は記憶がいまだ生々しい。軍隊を経験した男性は、年を取っても入隊した日が夢に出てくるという人が多い。

訓練所の最初の手続きは人員把握と予防接種、戦友組の編成だ。入所式行事のための制式訓練も行われる。最も重要なシステムは3人が1チームの戦友組だ。 3人は訓練所で過ごす間、常に行動を共にしなければならず、トイレにも一緒に行く。互いに監視する役割だ。センスのある人と戦友組になれば、気持ちにわずかながらの余裕ができるが、そうでないと6週間、さまざまな困難に直面する。

訓練所で最初に出される夕食は戦闘食糧だ。熱湯で戻した凍結乾燥ご飯にスープをかけて食べる。それまで食べた食事の中で最悪だった。食事はもちろん戦友組と一緒である。軍の食事に適応できなかった筆者は2さじ食べてあきらめた。

飲料水は常にお湯が出る。食中毒や腹痛を防ぐ措置で、暑い盛りの8月も熱湯だった。ある程度、訓練所の生活に慣れると、食後に食器を洗いながら、こっそり水道水を飲みもしたが、下士官らはいつも見ていた。

軍隊内で流布された性欲を巡る都市伝説

銃の支給を受け、人員把握を終えて予防接種を終えると、6週間の本格的な訓練に入る。訓練所で受ける注射は予防接種ではなく性欲減退成分とだという噂があり、大半が信じた。そんな都市伝説は大韓民国国防部がマラリアの予防接種だと公式に明らかにするまで続いた。

そもそも訓練所は性欲を感じる余裕がある場所ではない。 威圧的な雰囲気で精神が混迷し、厳しい日程の中で睡眠欲と食欲を除く人間の欲望は本能とともに消え去る。 勝手に横になることはもちろんできず、一切の自由はなく、喫煙や電話、売店の使用も禁止される。 今は家族が訓練状況をリアルタイムで確認できるが、当時は、入隊後初めての手紙が来るまで、家族や親、友人に情報を伝えることなど不可能だった。

手紙を書くことができたのは訓練所に入所して2週間が経ってからだった。返事は、その次の週になる。手紙は家族や友人とやり取りできる唯一の手段で、家族や友人から初めて手紙が届いた日、筆者はトイレで密かに号泣した。もちろん、戦友組も一緒だったが、互いの心情を察して下士官たちの目を避けるように助け合った。

これは筆者だけではない。組職暴力団のメンバーだったと虚勢を張った同期や有名女性芸能人の恋人だったと虚言を吐いた同期もいたが、みな同じだった。現実を知る下士官が、見過ごす例もあった。

訓練所では一つの兵舎に40~50人が一緒に生活をする。互いに知らない者同士、はじめのうちはよそよそしいが、割と早く親しくなる。 下士官の威圧的な態度に反抗しようという者もいたが言葉だけである。

軍隊もやはり人が暮らす社会である。自然に気の合う仲間ができるし、それなりの階層が形成される。

訓練所の1日はとても厳しい。朝6時から夜10時まで、絶えず体を動かさなければならない。 昼はさまざまな教育訓練が行われ、夜には精神教育が行われる。夜の勤務は基幹兵と一緒である。現在、文在寅政府は北朝鮮に関する内容を隠蔽して美化するが、韓国軍隊の存在理由は北朝鮮だ。訓練所では対敵観教育が最も多く進められる。 辛い軍人生活を送るのは北朝鮮のせいだという認識が強く植えつけられ、北朝鮮に対する敵がい心に変わりもする。

6週間の訓練内容は、制式訓練、体力鍛錬、射撃、手榴弾投擲、敵軍装備の識別、各個戦闘、化学兵器、精神教育、行軍、見学などさまざまだ。 毎朝、起床とともに人員を把握して1km程度を走る。平地はあまりない。すべての訓顕を下士官が評価し、一定点数以下だと落第して、次に入所する訓練兵と残りの教育を履修しなければならない。

なぜ文在寅政権は自国の徴用を問題視しないのか?

他の時間には軍歌を覚え、制式訓練を行い、夕食後には戦闘靴を磨いて掃除をする。訓練所では、毎日シャワーを浴びることができたが、個人に与えられる時間はたったの5分で、戦友組と一緒に過ごす。ひと言で言うと、訓練所は隙間時間を許さない場所だ。 すべてタイムテーブルに従って行動し、最小限の人権しかない。食べて寝て命があるだけで、個人の自由は徹底的に制限される。

文在寅政府は、旧日本軍の強制徴用を問題視するが、なぜ自国の強制徴兵を問題視しないのか。筆者はいつも疑問に感じている。

ロス暴動の略奪を防いだ韓国人に見る兵役体験の凄み… 自殺者続出の射撃訓練と手榴弾投擲訓練

訓練所にある程度慣れた頃、射撃、手榴弾の投擲、各個戦闘、行軍などの訓練が行われる。手榴弾投擲は軍服務期間中、ただ一度の機会である。手榴弾投擲は危険なため、本人が望まない時など例外的に外される可能性があった。一度のミスが大惨事につながりかねず、実際、事故が多かったのだ。

射撃は唯一、下士官や教官による殴打が許される訓練だった。訓練所では訓練兵を殴ったり、暴言を吐いたりできない決まりになっているが、射撃場は危険を伴うため、厳しい指導が認められていた。現に、射撃場は最も人命に関わる事故が多く発生する場所で、訓練中の自殺が最も多い場所でもある。

射撃場では様々な規則に従って行動しなければならない。単に銃を撃つだけではなく、PRI と呼ばれる射撃予行動作を絶えず繰り返さなければならない。 銃口は常に空に向け、弾丸の数も徹底的に確認する。40発程度を射撃するが、一定の点数に達しなければ点数を満たすまで繰り返す。

韓国人男性の80%以上が銃を撃つことができるといわれるほど、軍隊で最も重要な訓練だ。 1992年、米ロサンゼルスで黒人暴動が起きた時、コリアンタウンを守り抜いた人々の大半が韓国で兵役を終えた人々だったことを見れば、韓国の軍組織が想像以上に体系的だとわかるだろう。

銃器の扱いに慣れたコリアンタウンの韓国人は軍服務の経験をもとに、自主的に区域別自警団を組織化。コリアンタウンの治安を維持し、黒人による略奪を阻止した。この時、黒人暴徒も銃器で武装していたが、彼らはあくまでも一定の規則なしに銃を撃つ威嚇射撃である。

それに対して、兵役を終えた韓国人で構成された自警団は目標物を設定して正確に撃つ照準射撃だ。軍隊でしっかり教育を受けた韓国人はいわゆる拳銃ではなく、殺傷のためのアサルトライフルを扱った経験から、目標に向かって正確かつ組織的に行動した。このことが在米韓国人放送局のメディアで報じられると、暴徒らはコリアタウンの襲撃をやめたという。

「地獄の行軍」を終えた後の体の変調

同じような例に、1980年の韓国の光州事件がある。韓国軍の最精鋭と呼ばれる空挺部隊と対峙した市民軍は大半が兵役を終えた人たちだった。市民軍は武器庫を奪い、警察署を襲撃、また装甲車と対空火器を確保して戦った。

市民軍は全羅南道庁にTNT火薬を設置して戒厳軍と対峙するなど組織的に行動、あまりの手際の良さに、市民軍に北朝鮮軍の専門人材が投入されたという疑惑が提起されたほどだ。いずれにせよ兵役を終えた韓国予備軍の組織的な活動と兵器の運用は、言うまでもなく軍隊で学んだものだ。

行軍は計2回行われる。一度は単独軍装と呼ばれ、銃、防弾ヘルメット、弾帯、水筒などの装備で約20kmを行軍する。訓練所の最後の6週目には、銃、防弾ヘルメット、弾帯、水筒、野戦シャベル、半合などの野戦リュックをぎっしり詰めた完全軍装で45kmを11時間以上かけて歩く2回目の行軍がある。完全軍装の重さは約30kgを超え、途中で疲れた仲間の銃やリュックサックを持つこともある。

一緒に入隊した訓練兵が行軍を完了すると、訓練所のすべての課程が終了する。行軍コースは訓練所によって異なるが、筆者は南北境界線の板門店一帯と第3地下トンネル、都羅展望台がある都羅観測所一帯を12時間近く歩いた。北朝鮮と対峙している状況を間近で見た時は万感が交錯した。

北朝鮮軍が立てた宣伝用電光板を見て、絶えず体制宣伝の対南放送を聞きながらの行軍だった。歩いても歩いても目標地点は見えなかった。夜明け頃、遠くに訓練所の明かりが見えた時、「もう家だ」と感じて安堵した。皮肉にも数カ月後、筆者は行軍の時に聞いた北朝鮮軍による対南放送で筆者の名前を聞くことになる。

韓国で女性旅行者が40kgのリュックサックを背負い、毎日、半日以上歩いて世界中を旅行したという書籍が人気を集めたことがある。だが、行軍の経験がある韓国人男性はその話を疑った。「軍隊時代、行軍で30kg以上のリュックサックを背負って半日ほど平地を歩くと足の裏に大きな水ぶくれができた。女性が毎日あんなふうに歩けるはずがない」と。

実際、あるテレビ番組で女性旅行者と似た体格の女性が25kgのリュックサックを背負って移動する実験が行われたが、半日どころかまともに立っているすら難しいことが判明した。がっしりした男性でも行軍を終えると、足の裏やかかとは水ぶくれだらけで、戦闘靴を履けないことすらある。 肩と腰には当然、無理がくる。

軍隊生活で初めて支給されたタバコの味

この行軍では、50分歩き、10分休憩するという決まりがある。休憩なしにそのまま歩いた方がもっと楽ではないかと感じるが、50分行軍、10分休憩は徹底的に守られる。 行軍は最も辛い訓練で、後遺症も大きい。

そして、行軍を無事に終えると、二等兵の階級章が授与される。正式な軍人に分類され、実務配置を待つ。

訓練所生活で記憶に残っていることの一つに、最初の月給がある。当時、訓練兵の月給は二等兵と同じ9600ウォンだった。 訓練所生活2週目で、月給の他にタバコと被服が支給された。完全禁煙の後、3週目に吸ったタバコの味は、世界中のどんなものとも比べ物にならないほど美味しかった。月給は軍隊生活では途方もなく不足する額で、一定金額の小遣いを家から送金してもらう人が多い。

軍人の身分になると、訓練所を退所して実務部隊に移動する。訓練所の退所式は男性にとっては特別で、苦労を共にした同期たちと互いの連絡先を交換し、必ず会おうと約束する。入隊後の100日が過ぎた後の初休暇の時に「どこかで会おう」と約束を交わし、釜山出身者は「釜山に来たらフルコースでもてなす」と豪語するが、これら退所式の約束が実現したことは一度もない。訓練所で会った同期と会ったことがないし、連絡を取ったことすら一度もない。

筆者は後半の教育を終えた12月中旬、ソウル付近の工兵隊に配置された。

全羅道の被害意識を利用して政権を獲得した文在寅他… 理不尽な全羅南道カルテルに見る縮図

筆者が後半の教育を終えて実務部隊に配置されたのは、天候が厳しい12月中旬だった。当時、最初の休暇は入隊後100日が経過した後で4泊5日。 現在は携帯電話の使用や外出・外泊、休暇は自由だが、1990年代はそうではなかった。

実務部隊に配置された私は一番下だった。上は先任兵で埋め尽くされ、筆者より先に到着した同期も何人かいたが、彼らと話をしたり、親しくなったりする機会はほとんどなかった。一般に同月に入隊した人たちのことを同期と呼んでいる。

二等兵は忙しい。午前6時に起床し、真っ先に寝具の整理を終えなければならず、少しでも休んだり、じっとしたりする姿を見せてはならなかった。先任兵らと電話やPX(売店)に行くこともたまにあったが、二等兵は一人で行動することはできない。 電話をかけるときは先任兵と一緒に行かなければならないし、1人で売店に行くことも、まして自由時間を楽しむことなどまったくできなかった。二等兵は先任兵の顔色をうかがいながら生きてなければならない階級なのだ。

朝食は分隊別で、二等兵は最後に入場するが、一番先に食べ終えて先任兵を待たなければならず、午前の勤務でもいつも顔色をうかがっていた。当時、気楽にタバコを吸い、気兼ねなく彼女に電話をかけられないことが最も切実な悩みだった。

午前と午後、特技別に任務が与えられる。一般歩兵は戦闘訓練と各種部隊の作業を行い、運転兵は輸送部で車を点検し、また運行に投入される。行政兵は事務室で勤務する。午後5時30分になると兵舎に戻って夕食を食べる。夕食後から8時半までは自由時間だったが、二等兵は違っていた。靴を片付け、寝床には入らずに常に待機する。夜は不寝番と警戒勤務が1時間ごとに回ってくる。

毎週、水曜日は午前のみの勤務で、午後は戦闘体育に充てられる。戦闘体育と言っても中身は主にサッカーで、ボールの位置と関係なく走り回らなければならない。土曜日も勤務は午前だけで、午後には面会や外泊を申し込むことができるし、日曜日は宗教行事に参加するか、面会やサッカーをしながら時間を過ごす。

二等兵の外泊は先任兵の許可が必要で、外泊したいと言えるような雰囲気ではない。外泊といっても週末の1泊2日を部隊の外で過ごせるだけで、軍部隊の近くを離れることはできないし、ほとんど先任兵らに割り当てられる。

横暴が甚だしかった全羅南道出身者

1990年代後半は、軍隊内の殴打や暴行など過酷な行為は公式的には禁止されていた。しかし、二等兵や一等兵に対する殴打や暴行は密かに行われていた。中でも輸送部や戦闘工兵、装備課、戦車や自走砲など大きな装備を扱う機甲部隊や、危険物を扱う部隊、儀仗隊や捜索隊、特攻隊といった少数の特殊部隊では、頻繁に発生した。 軍規が強い兵科は、事故予防や緊張感、軍規を維持するためと理由付けた。

二等兵の時は、よく眠れなかったことが最も大変だった。二等兵は一等兵5号俸が管理する。通常、入隊後から1年程度経過し、上等兵への進級を目前に控えた兵である。その一等兵5号俸は部隊内の序列や一週間分の食事の献立、軍歌などを二等兵に暗記させ、確認する。彼らは主に夜に二等兵を起こしてトイレなどで確認させるが、過酷な行為が伴う場合が多い。

特に筆者のようなソウル出身者は地方出身者のいじめにあった。軍隊では出身地域ごとに集団が形成され、木浦や光州を中心とする全羅南道出身の先任兵の横暴が酷かった。軍隊生活の間、3回ほど殴られたが、そのうち1回はとても理不尽な理由だった。

実務部隊に到着した夜、光州出身の先任兵が筆者らをトイレに呼んで故郷を尋ねた。「ソウル」と答えると筆者と同期を殴打した。「ソウルのやつらのせいで我々 (全羅南道の人々) はまだ貧しい」と言いながら。

軍部隊には全羅南道出身者のカルテルが形成されていたことを後で知った。出身地が近い人々が集まって互いを気遣い、他の地域出身を排斥する例が多かった。

これはいまでも韓国社会でよく目にする光景だ。投票率や民主党・親北親中進歩政党など特定政党の支持を見ればよくわかる。金大中、盧武鉉、文在寅は全羅道の被害意識を利用し、支持率を高めて政権を獲得したことで知られている。

筆者の軍服務は、その金大中政権の時で、軍隊の要職を全羅道出身者が占めていた時代である。また、慶尚道出身者との摩擦が多く、地域感情を煽りもした。

新兵に全羅南道出身がいればすべてがうまく処理されるが、それが先任兵なら大変な苦労をするという俗説がある。また、韓国で蔓延する地域感情は大半が軍隊から始まるという点も無視できない。 筆者は、直接的な殴打はそれほど多くはなかったが、さまざまな過酷行為で、軍服務後、全羅南道出身者に対するトラウマが生じた。 全羅南道方言特有の荒いイントネーションとふてぶてしさは今でも深く記憶に残っている。

韓国の軍隊は韓国社会の縮図といわれている。良い人もいるし、悪い人もいるが、自分の利益のためには兵士が受ける被害を何とも思わない人もいる。さらに韓国の軍隊は現代版奴隷制と呼ばれたりもする。

待ちに待った4泊5日の休暇でやったこと

さて、待ちに待った最初の休暇がやってきた。先任兵たちは、休暇の数日前から後任兵の休暇の諸々を準備する。外出着にアイロンをかけ、軍靴のつやを出す。休暇で必要なもの、交通、上司に休暇届を出す方法、復帰時間などを几帳面に取りまとめる。

筆者は幸運にもクリスマスの前日に最初の休暇を取ることができた。 100日ぶりに家に帰り、彼女にも会った。人生で最も短く感じた4泊5日を過ごして復帰する時、先任兵たちに頼まれた品物を準備した。

女性用ナプキンとコーヒーミックス、宝くじ数枚、成人雑誌数冊で、いずれも軍隊ではとても大切に使われている。最初の休暇は鮮明に記憶している。母親が作ってくれた食事は軍隊とは比べ物にならないほど美味しかったが、2日間腹痛に悩まされた。復帰日は脱走したいと思うほどだった。

復帰は午後8時までで、休暇復帰申告を終え、休暇に行く時に返却した銃や軍装などを受け取って手続きが終了する。

1回目の休暇後に復帰すると、先任兵らは歓迎してくれる。軍人として少しは認められている感じがしたが、二等兵の生活は何も変わらない。 依然として昼夜を問わず、全羅南道出身の先任兵から様々ないじめを受け、一週間分の献立を覚え、走り回らなければならなかった。 休暇復帰後しばらくするとかなりの後任兵が入隊したが、彼らや筆者の境遇は一等兵に進級するまで大して変わらなかった。

南北非武装地帯に投入された元軍人が語る任務の中身… 韓国軍の兵士はDMZで何をしているか

映画「JSA」や「愛の不時着」では、板門店にある共同警備区域(JSA)において韓国と北朝鮮の軍人が交流する姿が描かれるが、これは創作に過ぎない。南北の非武装地帯(DMZ)と隣接しているJSAで、韓国人と北朝鮮人が交流することはない。

軍隊を経験した人たちにも、JSAとDMZの実態はほとんど知られていない。北朝鮮と対峙する特殊性から勤務する人が限られるからだ。

1999年はいろいろな事件があった。金大中元大統領が太陽政策を行い、ノーベル平和賞を受ける準備を進めていた。軍隊でも太陽政策に関する教育があり、特に3大原則の「北朝鮮の武力挑発を許さない」について集中的な教育がなされた。同年、第1延坪海戦が発生して北朝鮮軍の銃撃で韓国軍人の命が奪われたため軍隊内の雰囲気は険悪だったが、交戦規則の改正で反撃できなかった。

筆者は、一等兵に進級して部隊生活に慣れた頃、ガールフレンドからの別れの知らせと1枚の派遣命令書を受け取った。筆者が所属した工兵部隊はその特性から多くの部隊員が外部に派遣されていた。転入後すぐに派遣され、除隊前日に帰隊する人もいる。

筆者が受けた派遣命令は複雑だった。まずは部隊を離れて、京畿道の某所にある教育隊で6週間の教育を受けなければならなかった。悪辣な全羅南道出身の先任兵から解放される喜びと、慣れたところを離れる残念な気持ちが交錯した。

14泊15日の一等兵長期休暇から復帰した数日後、部隊を離れて京畿道某所にある特殊戦学校に到着した。空輸隊や捜索隊、海外から来た軍人など、1%未満の特殊兵科を持つ軍人たちが訓練を受ける場所だった。

到着後は3日間にわたって厳しい身元照会とIQ検査、人格検査、身体検査、体力測定を受けた。身元照会は一週間ほどかかった。

さらに、爆破、危険物取扱法、いろいろな種類の地雷解体と組み立て、応急措置、射撃、遊撃、精神教育、交戦規則、読図法、基礎工数、生存訓練などさまざまな教育を受けた。ちなみに、生存訓練とは、食べ物がない状況で野生動物や野生植物を採集したり、身を隠すシェルターを作ったり、雨水を蒸留して飲み水を作ったという文字通りの生存訓練だ。ここでは階級や名前は使用しない。筆者だけでなく、一緒に教育を受けた人間も同じだった。

DMZ勤務の初日に起きたこと

まずは個人装具が支給される。部隊で使用したものとは異なる弾倉帯とポケット付きの防弾チョッキが支給され、防弾ヘルメットも部隊のものとは形が違っていた。

4キロを超える防弾チョッキを着て、銃を担ぎ、補給品を満たした重さ約40キロの戦闘リュックを背負った状態で険しい山道4キロを朝と夕方の1日2回、毎日、走った。教官の気分次第で防毒マスクまで着用させられた。

日課が終わると、誰も関与してこない。筆者をいじめた全羅南道出身の先任兵はいなかったし、売店や公衆電話も自由に使うことができた。訓練期間中に脱落する人もいたが、筆者は無事に訓練を終えて次の勤務地に向かった。

新しい勤務地が近づくにつれて、見慣れた風景が広がった。勤務地はDMZだった。数カ月前に訓練所の行軍で休憩を取った都羅観測所を過ぎ、中立国監督委員会を経てJSA付近に到着した。太陽政策の一環で、都羅山駅の建設とDMZ内に埋設された未確認地雷の除去、捜索路の変更などが進んでいた。

重機を利用して探し出した地雷を爆破し、危険地域ではEOD(爆発物処理班)が爆発物を処理していた。筆者はDMZにおける未確認地雷の探索と捜索隊が利用する新たな捜索路の整備に投入された。

DMZの初日は今でも忘れられない。我々が到着すると、北朝鮮の対南放送が始まった。大した内容はなかったが、放送の最後にその日に到着した人たちの名前と階級を1人ずつ上げて「これからも仲良くしよう」と呼びかけてきたのだ。筆者の名前と階級が出た時には身の毛がよだつような思いだったが、先に勤務していた人たちは驚かなかった。皆、同じ経験をしたからだ。

最前方地域で銃撃や交戦などはなく、さまざまな心理戦と懐柔策が行われる。韓国側は主に女性グループの音楽を流し、北朝鮮側は越北を誘惑する対南放送を流すが、心理戦に騙されることなどないほど稚拙な内容だ。

韓半島を南北に分断する休戦ラインは東西約250キロ。西部戦線の京畿道圏に板門店とJSAがあるほか、長い鉄条網が張り巡らされている。勤務する軍人は昼夜を問わず鉄条網を守る。鉄条網の内側は、いかなる境界もなく、誰の土地でもない。地図には北方限界線と南方限界線だけ表示されるが、未確認地雷と観測警戒所(GP)があり、捜索隊は最前線のGPに勤務する。

国際法上、軍人はDMZ内には駐屯できない。そこで軍人を警察に変身させるトリックが考え出された。GPの捜索隊は名札と民政警察(DMZ POLICE)バッジを付け、MP(憲兵)の腕章で部隊マークを隠して活動する。地図一枚を頼りに、担当区域を巡察して警戒勤務を担う。

2015年、北朝鮮軍が埋設した木箱地雷が爆発し、韓国軍人が足を切断する事故があったこの時、文在寅大統領は病院を訪ねて「ジャジャ麺を食べたくないか」と言葉をかけて非難を浴びた。命がけで働いて足を切断した軍人に、ジャジャ麺を食べたくないかなど、「ショーをやるなら、しっかりやれ」という批判が相次いだ。

JSAには、大韓民国軍隊の最上級エリートが勤務する。中立国監督委員会と米軍第2師団の統制を受けていたJSAは、外国語や射撃能力、容貌、体力など、ベストな状態を維持しなければならない。警戒所(北朝鮮軍の警戒所から最も近い所は数百メートル)に詰めるほか、DMZを訪問する観光客のガイドや板門店の警戒を担当する。板門店の軍人はサングラスをかけて丁字姿勢(軍隊用語。止まれの姿勢を維持すること)で立つ。まさに映画「JSA」でイ・ビョンホンが演じた役である。

DMZにばらまかれている「足首爆弾」の威力

板門店とJSA、DMZは世界に類がない独特な地域である。韓国と北朝鮮と直接対峙し、交戦が起きると直ちに戦争につながりかねないため、互いに気をつけている。この地域の軍人は、兵卒も将校も副士官も皆実弾を装填して勤務する。独特の緊張感が張りつめるなか、互いに様子を窺っている。

DMZの捜索路には、北朝鮮軍と韓国軍の経路が重なる区間があるが、遭遇しても知らないふりをして静かに移動する。タバコを分けたり、談笑したりなど不可能だ。また、タバコや引火性物質、飲食物は携帯できない。DMZは依然として紛争地域であり、敵軍と談笑するなど保安事項に反するからだ。もし銃を撃てば、後方から砲兵砲が発射される可能性があり、直ちに戦争につながりかねない。

DMZ内の捜索路では毎時間、位置を報告しなければならない。報告を受けた位置に合わせて後方の砲兵の射撃地域も移動する。以前は、時々越北する事件が発生したという。軍生活に不満を抱いたり、大きな問題を起こしたりしたケースだが、彼らは越北後、対南放送に投入されることが多かったという。しかし、これは聞いた話で、筆者が勤めていた時代には発生しなかった。

DMZ内は未確認地雷が非常に多く、捜索路を離れると安全は保障されない。むやみに脱走などできる状況ではないのだ。M14対人地雷(別名、足首地雷)は、表面はプラスチックで金属探知機に検出されず、軽いことから雨が降ると流失する。

地雷について説明すると、映画のように踏んだり足を離さなかったりなどできない。M14対人地雷の爆発圧力は2-4キロ程度で、踏んでから0.3秒以内に爆発する。小さい地雷だが、数人を殺傷する威力があり、身体の一部が切断されるだけならとても運が良い方だ。

一方、対戦車地雷は大きく重さもあり、爆発圧力は120キロ程度で、人が踏んでも割れることはほとんどない。M14対人地雷は、いちいち箸のような形の金属の探針棒を使って探さなければならない。

DMZの勤務時には休暇や外泊は制限される。次の勤務交代までGOPやGPで外部と完全に遮断された生活を送る。売店はなく、「黄金馬車」と呼ばれる売店用貨物車がたまに立ち寄る程度で、家族や友達との連絡手段も送る日が決まっている手紙しかない。月給に危険手当と生命手当が追加され、後方勤務と比べて2-3倍ほど高い。当時の一等兵の月給は1万0600ウォンで、生命保険に加入する人もいる。

間接的に金大中のノーベル賞に貢献した筆者

筆者は約10カ月間のDMZ生活を終えた後、復帰した。この間、上等兵に進級し、全羅南道出身の先任兵は除隊した。復帰後に東ティモールへの海外派兵の機会があったが、服務期間が残り10カ月だったため、志願できなかった。

金大中元大統領がノーベル平和賞を受賞した2000年、筆者は自分の意思とは関係なく最前線で勤務し、金大中のノーベル賞に関わる結果になった。ノーベル賞の受賞理由は、北朝鮮に対する太陽政策と東ティモール派兵だと後から知った。

愛国心を強要する一方で、北朝鮮が敵になるかどうかは政権によって変わる。とりわけ進歩政権は親北朝鮮志向の人が多く、北朝鮮を同族として認める反面、軍人の存在理由や処遇についてはあまり注意を払わない。仮に、韓国軍が攻撃を受けても、進歩政権は北朝鮮の顔色を見るなど北朝鮮の報道官のように振る舞う。

現に、文在寅政権の北朝鮮に対する態度は、国を守る軍人たちに犠牲を強いるだけで、ある意味滑稽だ。さらに筆者と同様、青春を犠牲にした多くの若者はいかなる補償も得られない。

黄海の延坪島付近で発生した韓国と北朝鮮の艦艇による銃撃戦、第1次延坪海戦で、夫を失った未亡人は国家への恨みだけを残して移民した。地雷で足首を失った軍人は個人で治療費を負担して、女性団体の嘲弄の対象になりもした。女性団体は軍人を「肉の盾」と表現し、常に軍人を卑下している。

筆者は身体に多少の問題は生じながらも大きな事故はなく軍服務を終えたが、そうではない人は意外と多く、そのまま社会に放置される人たちの時間的、費用的、社会的責任を負う人は大韓民国のどこにもいない。


・「世界最強の予備役」も今は昔、北朝鮮に飼い慣らされた韓国人を憂える(JB press 2022年3月25日)

朴 車運:韓国ジャーナリスト

※ロシアのウクライナ侵攻については、全世界が憤りを覚えている。

ウクライナの状況を見ると、過去に韓国が置かれた状況が思い出される。旧ソ連と中国が支援した北朝鮮と韓国の間で起きた朝鮮戦争である。

もちろん筆者は、朝鮮戦争を直接経験したことはないが、朝鮮戦争以降、北朝鮮の挑発は韓国社会に多くの影響を及ぼした。

朝鮮戦争を契機に誕生した服務義務(徴兵義務)と体系的な組織を備えた予備軍(予備役)、民防衛委(民間防衛隊)は、現在も維持されている。今の兵役制度は比較的緩和されているが、筆者が幼かった頃は、兵役の他に、学校での軍事訓練が正式な教科として存在した。

日本の方には理解できないかもしれないが、韓国の状況は極めて特殊だ。

1945年の独立以降、韓国の情勢は常に不安定で、長期間にわたる軍事独裁統治を経て、21世紀には西洋の民主主義国家と似た構造を備えた。1960年代から1990年代中盤までの軍事独裁時代にも、韓国は民主主義国家だと言われていたが、実際は抑圧だらけであり、向かい合う北朝鮮に対して、常に備えている必要があった。

ご存知のとおり、韓国には兵役義務がある。正常な男性ならば、1年6カ月の軍隊生活を送る。除隊後も39歳までは予備役、40歳以降は地域防衛隊に属し、戦争が勃発した場合は地域の警備任務を遂行する民防衛委に所属しなければならない。10年と言われる北朝鮮の服務義務期間よりはマシだが、韓国の男性の兵役もそれなりに長い。 

高校の授業に軍事訓練があったかつての韓国
 
筆者のように、1980年代以前に生まれた韓国の男性は、高等学校時代から学生軍事組織に所属した。韓国には、軍服務とは別に学生の軍事組織が存在し、軍事訓練などに従事した。

この学生軍事組織に加えて、授業の中にも軍事訓練が入る。北朝鮮の侵攻に備えた教練授業である。1994年まで、韓国の高校生は1週間に2時間ずつ教練授業を受けた。

軍事訓練が必要とされた理由は、戦争が勃発した場合、高等学校から上の学校は軍組織と全く同じ編成に変更されたためだ。

高校と大学が、戦闘や自衛権行使のための軍事組織と同じ組織図になるといえば、理解が早いかもしれない。学校は、一つの軍部隊となり、学年で中隊、班は小隊になり、各学級はいくつかの分隊で構成された。

当時の男子学生は、教練服という軍服に似たユニフォームにベレー帽をかぶり、各班、ベルトを着用し(学年ごとの階級章もある)、木やプラスチックで作られた銃器を持って授業に参加した。

授業は、反共教育(国防論、戦争論、対南南侵史など)をはじめ、制式訓練(軍人基本精神の涵養と節度ある団体生活を営むために行う訓練の一種)、軍隊礼儀、銃剣術、読図法(地図読む方法)、化学兵器、火気学(武器を扱う方法)、戦術学(各個戦闘および手榴弾投下などの基本戦術)、野戦衛生および救急法、生き残り方法など、多様な事柄を習う。女子学生は、反共教育と読図法、救急法だ。

このように、教練教育は北朝鮮の南への侵略に備えた、専門的な軍事教育であり、想像以上に体系的だったことがわかるのではないか。

教練科目は、1968年に起きた北朝鮮による青瓦台襲撃未遂事件の翌年に、正式に高校必須教科に採択された。軍事訓練が廃止され、応急処置と安保教育に変わったのは1994年である。 

男性の70%が銃器を扱える韓国
 
教練は、大学生でも同じだった。

軍事独裁時期の大学では、「文武台」という教練の授業を義務的に履修しなければならなかった。教練授業を履修しなければ、強制的に入隊させられることもあった。この教練授業には、前方軍部隊の入所訓練も含まれる。

加えて、1970年代は9泊10日、1980年代は5泊6日の間、陸軍学生中央軍事学校で軍事訓練を受ける義務もあった。

ところが、1980年代に大学に入学した今の50代になると、教練授業を拒否したり、学生運動に関連して軍事教育に対する懐疑論を唱えたりする者が出始める。そして、1994年を最後に教練授業は廃止、あるいは縮小および変更された。

以上のことからわかるように、40歳以上の大韓民国の男性にとって、教練授業は軍隊並みに大きな比重を占めていた。

教練授業の最後の世代である筆者のような男性は、教練に対する良い思い出は全く持っていない。体系的な統治と抑圧のための軍事訓練だったということは後からわかったことだ。

何より教練授業の時間は、あらゆる殴打と暴力、苛酷な行為が容認されていた。教練担当の教師は正式な教師ではない予備役軍人が担当する場合が多く、その資質も非常に低かった。教練の授業は、戦争に備えるという名目こそあったが、軍事独裁政府の他に誰も好んでいなかったことは確かだ。

ただ、若い頃に受けた、ほとんど洗脳に近い軍事訓練は、年を取っても身体が覚えている。それゆえに、韓国の予備軍と民防衛委の戦闘力は、世界最強という評価を受けている。

実際に、大韓民国の男性の70%が銃器を扱える。ソウルの光化門で、タンクや装甲車の運転や、その他の特殊な武器を扱うことができる人を探すのは、思ったより容易である。

徴兵制の理由を忘れつつある韓国社会
 
本格的な学生運動が始まった1980年代、韓国の学校は、それこそ規模の小さな軍隊に違いなかった。だが、選択権がなかった高等学校を終え、ある程度の自立が保障される大学に進学すれば、社会運動に簡単に接することができる。

彼らの主張は、反米、親北、反日、民族団結が主な骨組みで、共産主義思想を信奉することが多い。もちろん、独裁政権に対する反発心で、学生運動や労働運動に身を投じるケースが多かったが、社会運動に接する過程で、なぜ軍事訓練を受けたのか、その最も根本的な理由を忘れてしまう。

1990年代まで、戦争時において学生たちまで動員可能な軍事組織を作った理由は、大韓民国憲法に明示された、北朝鮮の挑発に対応するためだ。

韓半島が2つに分断され、韓国と北朝鮮に分けられたのも、共産主義者などが起こした戦争のためだ。それによって、人命が失われた。北朝鮮は現在も、国際社会、そして韓国に対して挑発行為を止める兆しがない。

北朝鮮は、韓国の最大の敵というだけでなく、国際社会でも物議を醸す存在である。それだけに、韓国社会に体系的な軍隊が必要だということは、誰も否定できないことだ。今も募兵制が維持されている理由はそこにある。

もちろん、学生を軍事組織に引き込むことや、教練のような軍事教育が正しいということではない。ただ、韓国社会における北朝鮮との対立は敏感な問題であり、国際的な情勢にも多大な影響を及ぼす。それだけに、深刻に考える必要があるはずだ。

もっとも、今の50代が社会の主流になったことで、最大の敵、北朝鮮に対する概念が霞み始めた。

若い世代に遺伝する「反米」「反日」「親北」
 
教練授業や学生軍事訓練を、再び始めようという意味ではないが、韓国がなぜ2つの国家に分けられられたのか。北朝鮮による南への侵略、蛮行、挑発行為が続く中で暮らしているということは、決して忘れるべきではない。

残念なことに、運動圏世代と呼ばれる今の50代が、教育と文化の主導権を握ったことで、韓国は反共国家ではなくなりつつある(現実は韓半島ぐらい緊張が拮抗したところはないのだが・・・)。

彼らは絶えず駐韓米軍撤収と反米、反日、親北を前面に押し出している。これは、そのまま次世代(1990~2000年代生まれ。今の50代の子供の世代)に伝えられ、それに伴って、社会の軸や安保意識までもが、今や霞んでしまっている。

韓国の50代や左翼運動の経験者、進歩勢力は「統一あるのみ」と叫んでいるが、国防力を含む国力と経済力がない状態での統一は無意味だ。しかも、50年以上を違う体制で過ごして来た韓国と、北朝鮮の社会的システムは統合が難しい。同じ言語を使うということ以外に、どんな共通点も見出すことはできないのだ。

完全に異なる集団を同胞だと呼ぶことは理解できないし、感情に訴えて、政治的に利用することも、全く理解することはできない。

自分の主張よりトレンドに乗る韓国人
 
今回の大統領選挙を見て、情けなく感じた点が非常に多い。韓国の大統領選挙において、対北朝鮮政策は極めて重要だ。特に、共に民主党や進歩系の候補は、口を開ければ、北朝鮮の利益になるような公約を掲げているが、それが容認されるという事実が恥ずかしいことだ。

今も韓半島は戦争状態にある(休戦中)。北には「共産主義の根っこ」と呼ばれるロシアと中国があり、その子分の北朝鮮と対立している状況で、四六時中、北朝鮮の顔色を窺いながら平和を叫ぶことぐらい、嘆かわしいこともないだろう。

さらに、何も考えず、ただ進歩的な考えを持たなければならないという一種のトレンドも問題だ。

政治と国際情勢はトレンドというにはあまりにも複雑で、理性的に対応しなければならないものだ。だが、韓国における進歩勢力に対する支持はトレンド化している。

反米を叫び、iPhoneを使い、反日運動に参加し、プレイステーションと日本製カメラに熱狂し、日本車に乗る姿が代表的だ。これは、韓国人の国民性にも起因していると思うが、自分の主張を展開することよりも、流行に従う志向の方がはるかに強いのだ。

もしあなたの家を狙う泥棒がいたら何をすべきか。泥棒を捕まえるのか、泥棒に対して平和的に解決しようと説得し、対話を試みるのか。筆者の考えは前者だ。平和は、力があってこそ維持することができる。自分の家族と財産を守るには、それ相応の準備が必要だという事実を、多くの韓国人が忘れている。それが、私は非常に残念だと思っている。


・17歳から兵役義務がある北朝鮮の兵役制度を脱北者が徹底解説(JB Press 2021年8月27日)

郭 文完:大韓フィルム映画製作社代表
 
※韓国や北朝鮮で生まれた男子は兵役の義務がある。現在、韓国の兵役は18カ月だが、北朝鮮は10年以上の軍服務が義務付けられている。人口2500万人の北朝鮮で、兵役による正規軍は119万人。まさに「兵営国家」といってよい。北朝鮮の兵役制度をみてみよう。

北朝鮮の男子は満17歳で軍に入隊する。入隊時期は高校を卒業する3月末だ。北朝鮮の学校は日本と同様に4月1日に始業し、3月末に卒業する。高校卒業を控えた冬休みの12月頃から翌年3月末頃までに、北朝鮮のすべての道、市、郡、地域で毎日、数百人から数千人の卒業予定者が軍に招聘されるのだ。入隊年齢は18歳から1973年10月に17歳に改正された。

身体検査の合格基準も以前は身長150cm以上、体重48kg以上、視力0.8以上だったが、今は身長148cm、体重43kg、視力0.4が基準である。90年代の「苦難の行軍」で子供の大幅な発育低下がみられたことから1994年に改正された。

軍服務期間も1958年の内閣決議148号で、陸軍は3年6カ月、海軍と空軍は4年と規定されたが、実際は5〜8年間服務する。1993年、金正日総書記の指示で「10年間服務年限制」が導入された後、1996年の軍服務条例の改正で、男性30歳、女性26歳に延長された。その後、2003年3月の第10期6回最高人民会議で男子は10年、女子は7年に短縮されている。

服務期間中は、年1回の定期休暇(15日)と本人の結婚や両親の死亡時などの特別休暇(10~15日)、表彰休暇(10~15日)などがあるが、まともには実施されることはない。

特殊部隊やミサイル専門兵の服務は13年間!
 
北朝鮮の軍服務期間は一般的な歩兵兵種は10年で、兵種や対象によって異なっている。権力や金がある幹部の子息の軍服務期間は、3年から長くても5年ほどだ。彼らの軍服務期間が短いのは、北朝鮮軍服務制度の大学入学特別推薦制度を利用しているためだ。

大学入学特別推薦制度は、北朝鮮の軍服務の例外として、服務している軍人の中から優秀な若者を選抜して大学に入学させるために作られた制度だ。ただ、権力や金がある幹部の子供はこの制度を利用して、3年から5年ほどの兵役の経歴を積んだ後、大学に入学する。

一方、13年の軍服務が適用される部隊もある。一般の歩兵兵種部隊の義務服務期間は10年だが、特殊技術兵種部隊は3年間追加されて、13年間、服務する。特殊技術兵種部隊の軍人たちが、習得した専門性やノウハウ、技術を10年使用しただけで除隊させるのは惜しいという当局の考えによる。特殊部隊に10年にわたって服務させ、専門性と技術力が高まった時点で除隊されると国家的レベルで損になるため、3年がさらに追加されるのだ。

13年が適用される特殊兵種は、特殊部隊や通信・サイバー専門兵、ミサイル専門兵、車両整備兵、空軍、海軍の専門兵と軍人だ。専門兵に選ばれた若者は17歳で入隊後、30歳になってやっと家に帰ることができる。
 
もっとも、入隊する若者の間で、13年の服務をしなければならない特殊技術兵種部隊を忌避する動きが起きたため、選抜方法が変化した。

通信兵科やサイバー、ミサイル関連などの専門兵種は、2年制の軍事専門学校や情報通信専門学校の卒業生を中心に選抜されるが、多くの若者はこれらの専門学校を卒業してまで13年もの間、服務することを望まない。

そのため、特殊兵種部隊の軍人は、主に新兵訓練の過程で選抜されている。北朝鮮で軍に入隊すると、普通3カ月から6カ月間の訓練を受ける。その間に、北朝鮮軍特殊兵種部隊の専門教官が射撃や運動神経などを判断し、各部隊に入隊させる新兵を選抜するわけだ。

新兵訓練所は全国各地から集められた若者が軍事訓練を受けるところで、殴打や暴行、喧嘩などさまざまな事件が発生する。暴力を振るうと訓練所の営倉(監獄)に入れられる。特殊部隊の教官たちはその中から気性が荒く、運動神経が発達した訓練生も選抜して部隊に連れて行く。

北朝鮮軍で起きた銃乱射事件の顛末

特殊兵種部隊の選抜は、ある意味、人間の本性を重視した方法と言えるかもしれない。他国の特殊部隊は、特技生として志願し、テストを受けて入隊するが、北朝鮮は新兵の実践訓練を通して選抜される。

北朝鮮の若者は、ある者は3年から5年のみ軍に服務すればよく、ある者は13年間、服務する。ほくそ笑む若者がいる一方で、泣いている者もいる。

ある若者は10年以上の長い北朝鮮軍服務の過程で最後まで終える自信がなかったため、実弾射撃訓練の時、故意に自分の太ももを撃って負傷除隊(負傷のせいでこれ以上、兵役に服せず除隊)する事態が発生した。

太ももに撃った銃傷が故意なのか、ミスによるものかどうかを上層部が判断する審査過程で、指揮官たちはそれが故意による負傷であることが分かれば、負傷した兵士は軍事裁判にかけられ収容所送りとなる。

だが、上層部にも温情を持った指揮官も存在する。先の若者の場合、彼の将来を考え、ミスによる銃傷として処理し、負傷除隊させてくれた。

一方、別の部隊は兵士による故意だということを明らかにして処罰したため、失望した兵士が銃で自分の部隊に乱射。北朝鮮軍部を衝撃に陥れたこともある。

こういった事件が頻繁に起こることはないが、大半の下っ端軍人はこれに似た悩みを持っている。いつ爆発してもおかしくない過酷な状況の中で、軍務についている。