※ブログ主コメント:面白い考察なので「やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)」様から転載
https://visco110.hatenablog.com/entry/2020/11/26/172051
・死のカメ、不死のウサギ
2020-11-26
※死については、専用の図書館が出来るほどすでに多くのことが語られているが、結局のところ、わたしたちは死について、とりわけ自らの死についてすっきり腑に落ちることはないであろう。むしろどれだけ思索し、研究し、あるいは表現しても依然として死は不可解なものであり続けるからこそ、これまでもこれからも、千言万語が費やされてゆくのだと云うべきか。
そんなわけで、この一文の目的もささやかなものである。とても死についての言説史に小石の一つでも積み上げよう、などという大それたものではない。ただ、死の「わけのわからなさ」について――それは昔の人にとってもやはり「わけのわからない」ものであったから――彼らの戸惑い、混乱、不条理にたいする諦念、そうした態度の痕跡を共感をもって眺めてみたい。それが今回のテーマである。
さてこのようなことを考えるきっかけとなったのは、エリアーデの「死の神話学――序説」という講演録(『オカルティズム・魔術・文化流行』所収)のなかに、次のような話を見つけたからである。
神は祖先のもとに、彼らは不死であろうという伝言をもたせてカメレオンを遣わし、彼らは死ぬであろうという伝言をもたせて蜥蜴を遣わした。ところがカメレオンは途中で休んだため、蜥蜴が先に着いてしまった。蜥蜴がその伝言を申し渡した後、死が世界に入り込んだという。
この【二人の使者】または【間違えた使者】と呼ばれるタイプの説話は、アフリカに多く見られるという。
これについてエリアーデは、次のような寸評を加えている。
死の不条理性について、これほど適切な説明はほとんど見あたらない。まるでフランスの実存主義者の著作を読んでいるかのような印象を受ける。実際、存在から非存在への移行は絶望的に不可解なものであるだけに、ばかばかしい「説明」が、ばかばかしく不条理であるがゆえに、むしろ説得力をもつのである。もちろんこのような神話は、注意深く練り上げられた「言葉」の神学を前提している。すなわち、神がその決定を変更できなかったのは、言葉はいったん口に出されたら実在を創造する、という単純な理由からであった。
死が不条理であるからこそ、かえって「カメレオンと蜥蜴」のような荒唐無稽な説明が説得力を持つ、というのである。
とりわけ怠け者(?)のカメレオンが休んでしまったということの軽さと、そのせいで人間が死ぬ運命となったという結果の重大さとのアンバランスが、聞く者を意気消沈させるところがある。これは、我々の命など天上界の出来事(=宇宙の摂理)からしてみればその程度のものなのだ、という教えなのかも知れない。だがそれにしても残念すぎる。
わたしも、わたしの愛する者たちもみな死んでゆくのはひとえに、昔むかし、一匹のカメレオンが道中で居眠りをしたためなのだ……おや、道中で居眠りだって?
何か思い出しはしないだろうか。我々はこれと非常によく似た話を知っている。ばかりでなく、子供の頃から深く馴染んでいるはずだ。
勘の鋭い読者はもうお気づきであろう。それはこんな話だ。
亀と兎が足の速さのことで言い争い、勝負の日時と場所を決めて別れた。さて、兎は生まれつき足が速いので、真剣に走らず、道から逸れて眠りこんだが、亀は自分の遅いのを知っているので、弛まず走り続け、兎が横になっている所も通り過ぎて、勝利のゴールに到達した。
素質も磨かなければ努力に負けることが多い、ということをこの話は解き明かしている。
ご存じイソップ寓話の「ウサギとカメ」である。
『イソップ寓話集』は、前630年頃の生まれである寓話作家イソップ(アイソポス)の著作とされている。だが彼の実在について語る資料は、まったくないわけではないもののきわめて乏しい。歴史家のおおかたの認識としては、イソップは実在したものの『イソップ寓話集』が彼一人の手による著作だとは見做し難いとされている。むしろ『イソップ寓話集』は、何世紀にもわたってさまざまな人が集積したものであるという見方が強い。
ちょうど、一休さんやディオゲネスが実在してはいるものの、さまざまな説話や伝説が彼らの名を冠して集まってきたように。歴史上にはそのような、後世の人によって膨大な尾ひれがつく人物が時々いる。思うにイソップもそのような人物の一人だったのだろう。
そして『イソップ寓話集』の類話は、古代オリエント世界やエジプト、インドはもとより全世界に広範に見られ、「そのような寓話の発生や伝播を考える場合には、寓話というジャンルの枠を外して、四、五千年にわたる全世界の口承文芸の広がりの中で考えねばならない」(中務哲郎)という。
それゆえ、「ウサギとカメ」が「カメレオンと蜥蜴」と同じ【二人の使者】あるいは【間違えた使者】型の説話であった可能性は充分に考えられるのである。
さてそのように考えた場合、もともとはウサギとカメも、神による「不死」と「死」のメッセージを託されていたのではないだろうか? そしてその部分が、イソップに収録された時にはすでに脱落してしまったのではないだろうか。ちなみに一部分の脱落というのは、民話の伝播過程ではよくある話である。
したがって、この話の真のメッセージは「素質も磨かなければ努力に負ける」などという世俗的・良識的なものではなく「我々はなぜ死ぬのか、それはウサギが途中で寝たからである」ということなのではないか。それはエリアーデが「カメレオンと蜥蜴」について述べていたように、死があまりに不条理でわけがわからないために、死の起源もまた不条理な出来事によるものとしたほうが逆説的に説得力を持つという、あの論理に従ったものではなかったのか。
ウサギは、いわば人々の死にゆく運命にたいする怨嗟を一身に集めるブラックホール的存在だと言える。なぜお前はそこで寝たのかと問い詰めたい。小一時間問い詰めたい。しかしウサギにしてみれば因果が逆である。つまり過ちがあったから人が死ぬようになったのではなく、人間が死ぬ理由を捜した結果、ウサギが居眠りした(過去に過ちがあった)からに違いないということになったのだ。
「そんなこと言われたってねえ、神からの伝言に何が書かれているか知ってたわけじゃないし、あっしが調子こいて居眠りする性格だってことも、神はわかっていたわけでしょう? もしかしたら神にもわかっていなかったかも知れないけれど。いずれにせよ、それが運命ってやつですよ。運命は不条理なものなんです。人類は運が悪かったんですよ。とりあえずビッグバンからやり直せ。たぶんやり直しても無駄だけど」
https://visco110.hatenablog.com/entry/2020/11/26/172051
・死のカメ、不死のウサギ
2020-11-26
※死については、専用の図書館が出来るほどすでに多くのことが語られているが、結局のところ、わたしたちは死について、とりわけ自らの死についてすっきり腑に落ちることはないであろう。むしろどれだけ思索し、研究し、あるいは表現しても依然として死は不可解なものであり続けるからこそ、これまでもこれからも、千言万語が費やされてゆくのだと云うべきか。
そんなわけで、この一文の目的もささやかなものである。とても死についての言説史に小石の一つでも積み上げよう、などという大それたものではない。ただ、死の「わけのわからなさ」について――それは昔の人にとってもやはり「わけのわからない」ものであったから――彼らの戸惑い、混乱、不条理にたいする諦念、そうした態度の痕跡を共感をもって眺めてみたい。それが今回のテーマである。
さてこのようなことを考えるきっかけとなったのは、エリアーデの「死の神話学――序説」という講演録(『オカルティズム・魔術・文化流行』所収)のなかに、次のような話を見つけたからである。
神は祖先のもとに、彼らは不死であろうという伝言をもたせてカメレオンを遣わし、彼らは死ぬであろうという伝言をもたせて蜥蜴を遣わした。ところがカメレオンは途中で休んだため、蜥蜴が先に着いてしまった。蜥蜴がその伝言を申し渡した後、死が世界に入り込んだという。
この【二人の使者】または【間違えた使者】と呼ばれるタイプの説話は、アフリカに多く見られるという。
これについてエリアーデは、次のような寸評を加えている。
死の不条理性について、これほど適切な説明はほとんど見あたらない。まるでフランスの実存主義者の著作を読んでいるかのような印象を受ける。実際、存在から非存在への移行は絶望的に不可解なものであるだけに、ばかばかしい「説明」が、ばかばかしく不条理であるがゆえに、むしろ説得力をもつのである。もちろんこのような神話は、注意深く練り上げられた「言葉」の神学を前提している。すなわち、神がその決定を変更できなかったのは、言葉はいったん口に出されたら実在を創造する、という単純な理由からであった。
死が不条理であるからこそ、かえって「カメレオンと蜥蜴」のような荒唐無稽な説明が説得力を持つ、というのである。
とりわけ怠け者(?)のカメレオンが休んでしまったということの軽さと、そのせいで人間が死ぬ運命となったという結果の重大さとのアンバランスが、聞く者を意気消沈させるところがある。これは、我々の命など天上界の出来事(=宇宙の摂理)からしてみればその程度のものなのだ、という教えなのかも知れない。だがそれにしても残念すぎる。
わたしも、わたしの愛する者たちもみな死んでゆくのはひとえに、昔むかし、一匹のカメレオンが道中で居眠りをしたためなのだ……おや、道中で居眠りだって?
何か思い出しはしないだろうか。我々はこれと非常によく似た話を知っている。ばかりでなく、子供の頃から深く馴染んでいるはずだ。
勘の鋭い読者はもうお気づきであろう。それはこんな話だ。
亀と兎が足の速さのことで言い争い、勝負の日時と場所を決めて別れた。さて、兎は生まれつき足が速いので、真剣に走らず、道から逸れて眠りこんだが、亀は自分の遅いのを知っているので、弛まず走り続け、兎が横になっている所も通り過ぎて、勝利のゴールに到達した。
素質も磨かなければ努力に負けることが多い、ということをこの話は解き明かしている。
ご存じイソップ寓話の「ウサギとカメ」である。
『イソップ寓話集』は、前630年頃の生まれである寓話作家イソップ(アイソポス)の著作とされている。だが彼の実在について語る資料は、まったくないわけではないもののきわめて乏しい。歴史家のおおかたの認識としては、イソップは実在したものの『イソップ寓話集』が彼一人の手による著作だとは見做し難いとされている。むしろ『イソップ寓話集』は、何世紀にもわたってさまざまな人が集積したものであるという見方が強い。
ちょうど、一休さんやディオゲネスが実在してはいるものの、さまざまな説話や伝説が彼らの名を冠して集まってきたように。歴史上にはそのような、後世の人によって膨大な尾ひれがつく人物が時々いる。思うにイソップもそのような人物の一人だったのだろう。
そして『イソップ寓話集』の類話は、古代オリエント世界やエジプト、インドはもとより全世界に広範に見られ、「そのような寓話の発生や伝播を考える場合には、寓話というジャンルの枠を外して、四、五千年にわたる全世界の口承文芸の広がりの中で考えねばならない」(中務哲郎)という。
それゆえ、「ウサギとカメ」が「カメレオンと蜥蜴」と同じ【二人の使者】あるいは【間違えた使者】型の説話であった可能性は充分に考えられるのである。
さてそのように考えた場合、もともとはウサギとカメも、神による「不死」と「死」のメッセージを託されていたのではないだろうか? そしてその部分が、イソップに収録された時にはすでに脱落してしまったのではないだろうか。ちなみに一部分の脱落というのは、民話の伝播過程ではよくある話である。
したがって、この話の真のメッセージは「素質も磨かなければ努力に負ける」などという世俗的・良識的なものではなく「我々はなぜ死ぬのか、それはウサギが途中で寝たからである」ということなのではないか。それはエリアーデが「カメレオンと蜥蜴」について述べていたように、死があまりに不条理でわけがわからないために、死の起源もまた不条理な出来事によるものとしたほうが逆説的に説得力を持つという、あの論理に従ったものではなかったのか。
ウサギは、いわば人々の死にゆく運命にたいする怨嗟を一身に集めるブラックホール的存在だと言える。なぜお前はそこで寝たのかと問い詰めたい。小一時間問い詰めたい。しかしウサギにしてみれば因果が逆である。つまり過ちがあったから人が死ぬようになったのではなく、人間が死ぬ理由を捜した結果、ウサギが居眠りした(過去に過ちがあった)からに違いないということになったのだ。
「そんなこと言われたってねえ、神からの伝言に何が書かれているか知ってたわけじゃないし、あっしが調子こいて居眠りする性格だってことも、神はわかっていたわけでしょう? もしかしたら神にもわかっていなかったかも知れないけれど。いずれにせよ、それが運命ってやつですよ。運命は不条理なものなんです。人類は運が悪かったんですよ。とりあえずビッグバンからやり直せ。たぶんやり直しても無駄だけど」