・「島のケルト」は「大陸のケルト」とは別モノだった。というかケルトじゃなかったという話
https://55096962.at.webry.info/201705/article_21.html
※歴史上の民族としての「ケルト」と、近代に作り出された「ケルト的なもの」の間には、深い溝がある。多くの人が持っているイメージは商業的な、そして近代のナショナリズムが生み出した「ケルト的な」幻想に過ぎない。
――という話はわりと昔から言われていたのだが、最近の研究を久し振りに読み返してみたら、まさかの展開になっていた。
「そもそも島のケルトはケルトじゃない」
「中世以降のケルトは自称してるだけだった」
なんとアイルランドもウェールズも「ケルトを自称する別の何か」でケルト人の子孫じゃなかったのだ。
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【旧来説】
・ケルト人はローマに大陸から追い払われて島の片隅にしか残らなかった
・ケルト人が移住していったから製鉄技術が広まった
・「島のケルト」と「大陸のケルト」は少し違うものとして扱われる
このあたりは知ってる人も多いだろうし、いま日本で出版されている多くの本はこれを書いていると思う。
だが、この「少し違う」の部分をつっこんで調べてみたら、ここ10年くらいで物凄い勢いで説が書き換えられていた。
【最近の研究】
(1)ハルシュタット文化やラ・テーヌ文化(ケルト人の文化とされる)の伝播に人の入れ替わりは存在せず移住を伴わない
(2)ケルト人が製鉄技術を広めたことになっていたが、製鉄の伝播とケルト人の分布は合ってない。とりあえずブルターニュとブリテン島への製鉄技術の伝播はケルト人の文化の伝播と時期がずれている
(3)遺伝子調査してみたら大陸側のケルト人が島に渡った痕跡が無かった
(4)「ケルト語圏」と「ケルト人」の行動範囲が一部しか重ならない
↓ ↓ ↓
「ケルト人」が住んだのは大陸側のみ。
つまり「島のケルト」は存在しなかった
後に書くように「ケルト語圏」と実際のケルト人の居住範囲が別モノなので、そもそも「ケルト」という言葉で呼ぶのが相応しいかまで議論される羽目になっている。
少なくとも、かつて「大陸のケルト」「島のケルト」と呼ばれていた呼び方が正しくないことは確定している。「大陸のケルト」をケルトと呼ぶなら、民族の違う島側は、影響は受けているかもしれないが"別の何か"なのだ。
【前提条件】
■古代ケルト/歴史ケルト【本来のケルト】 紀元前5世紀~紀元後1世紀
■中世ケルト/復興ケルト【自称ケルト】 16世紀~
"ケルト"は、ローマが記録した呼称にあるケルタエ(またはケルトイ)が元になった名称だ。ケルタエとガリアが同一または関連するものとして記述されているため、多くの場合、ケルトとガリアは同じものとして扱われる。ローマの記録するケルト人は、紀元前5世紀頃から紀元後1世紀にかけて存在し、その後はローマと同化して歴史記録としては消滅する。
そのため、確実に"ケルト"と言える存在(ケルトと呼ぶのが妥当という意味でも)がいるのは紀元前5世紀~紀元後1世紀のみ。それ以前の実体は不明で、果たしてケルトという自称があったのか、どのくらいの範囲に住んでいたのかは良く分かっていない。また、記録から消えた以降はエトルリア人などと同じくローマ人の一部になってしまう。
これに対して、現在ケルトと言われているものは、中世(16世紀)以降に自称し始めた中世ケルトであり、古代のケルトとは実は関係があるかどうか不明なままなし崩しに許容され続けてきた。(!) 「幻の民ケルト人」というイメージを作り上げ、アイルランドなどが「われわれは追われたケルト人の生き残りだ」と自称し始めたのが中世以降のケルトだが、伝統は断絶しており、実は古代から繋がっている証拠はなかった。
そして近年の考古学調査や遺伝子調査などの蓄積により「ほぼ無関係じゃんこれ…」と判明してきたのが、今回の話の発端となっている。
【概要】
まず一つの大きなポイントが、「文化や言語が広まるのに人の入れ替わりは発生する必要がない」という点である。
ラ・テーヌ文化はケルト人の文化、という看板を背負っているが、この文化が広まった地域の人骨を調べてみたら、広まる前と後で特徴に差異が無い。つまり、文化は齎されたが人が入れ替わったわけではない。支配者か入れ替わっただけとか、より優れた文化が伝播してきたので受け入れたとかいうパターンである。
また、かつては ケルト語圏=かつてケルト人の住んだ地域 という認識だったが、実際にケルト人が住んだ証拠があるのは大陸側のみで、島側にはない。文化や言語は、無関係な近隣にも伝播していくものだからである。
これは例えば、「日本に中国から多くの文化が伝わってきたけど中国人が移住してきたわけではない」「同じ漢字や似た単語を使用していても血縁関係としては遠い」ということと同じである。中国を大陸ケルト、日本を島のケルトとして考えてみてほしい。日本には中国を参考にして作られた遺跡や文化が沢山ある。…が、実際は別モノとして扱うのが妥当なものである。
確実なケルト人の居住と移動は、下図の様になる。

イタリアに侵入してローマに「あのクソ蛮族がああ!」とか言われたり、アナトリアに行ってガラティア人になったりした連中がケルト人。見てわかるとおり、島側は全然関係ない。この分布図は、たとえばケルト人にとって重要だったと思われるエポナ女神の像の出土地域と重なっていたりするのだが、島からはそれが出てこない。(今知られている"ケルト神話"、いわゆる島ケルトにもエポナ女神は出てこない。)
そしてその後、遺伝子調査でも「ケルト人は島に渡ってない」ということが証明されてしまうのである…。
では「ブリテン島のケルト」とか「アイルランドのケルト」と言われていたものや、ケルト語とは何なのか。
「文化や言語が広まるのに人の入れ替わりは発生する必要がない」、この重要ポイントを再度強調する。つまり人が移動しなくても、言語や文化だけ伝わる可能性があるのだ。
まだ明確な結論は出ていないが、現時点での推測として以下のようなルートが考えられる。
・【史実/証拠あり】ブリテン島とガリアの間には親密な関係があり、交易も盛んだった(少数の移住者はあった可能性あり)
・【ほぼ確定】ブリテン島側が大陸ケルトの文化を受容する
・【推測】ケルト人ではない人々がケルトの文化に類似したものを持ってブリテン島からアイルランドへ移住
・【推測】人口密度の低かったアイルランドにケルト文化の一部が入る
↓
今に至る
これは、ブリテン島には少数ながらケルト由来と思われる遺伝子が見られ、現在アイルランドのある島のほうにはほぼ皆無であるという事実から導き出される。おそらく、似た言葉の残るウェールズあたりからの移住者がアイルランドに渡ったのだろうと推測される。
ちなみに現在のアイルランド人の大半は遺伝子的に見ると、ケルト人が登場するはるか以前に農耕技術の伝播とともにイベリア半島から渡った人たちの子孫と判明している。
ブリテン島と大陸(現在のフランスあたり)の間で盛んに交易が行われていたことは考古学的な証拠から確かなようなので、その中で一部の文化や少数の渡来人があったことは予想される。ただ、従来考えられていた、大量の移民があり、島の人口や言語が置き換わったという説は、現在では完全に否定される結果となっている。「ケルト語」と言われているものも、ケルト人がもたらした言語ではなく、元々ブリテン島やアイルランドで話されていた言語だろうと考えられている。
文化の一部でも敬称していればそれはもうケルトなんじゃないの? と考える人もいるだろうが、残念ながら、そのケルト文化はそのまま千年後まで継承されるものではなかった。というのも冒頭で述べたように、ローマが来なかったアイルランドでさえ、「ケルト」と言われていた文化はごく最近になって「復興」されたものだからである。文化は完全に断絶されており、過去にどんなものがあったのかほぼ証拠が無いままケルトを名乗り続けてきた。その結果として、実際は紀元前3,000年くらいの遺跡だった巨石群をケルト文化のものと誤認してしまったりしていたのだ。
というわけで現時点の結論として、
島のケルトは中世になってからケルトを名乗り初めた別モノだった
= 歴史上実在した元々の「ケルト」とは関係ないので、ケルトとは呼べない。
なまじ共通する点があったために、千年の断絶があっても「まぁ繋がってるんだろうなぁ」という感じで有耶無耶にされていたものが、考古学的名証拠の累積や遺伝子解析などの新技術の投入によって別モノだったことが明らかにされてしまった。これもまた、科学の発展の生み出した切ない現実の一つである。
20年くらい前の本を見ると、島のケルトは大陸から移住したもので、のちにローマが征服しに来たためブリテン島の端っこやローマの来なかったアイルランドといった隅っこにだけ残った、ということになっている。また、アイルランドこそケルト文化が残った最後の砦というような書かれ方をしている。
現在、これらは全て誤りであったことが確実となり、数十年前の本が全く役に立たない状況となっているが、日本でケルトの本を多数出版している先生たちが旧説側の立場なので、日本で最近の研究をベースにした一般向けの本はなかなか出てこないような気がしている…。
何くわぬ顔で最近の研究を無視して既存路線で売り出したほうが商売の上では"楽"、というのはあるだろう。
そして、学術書はともかくファンタジー関連の本などは、いまさらアイルランド=ケルトのイメージを捨てられなくて、旧説のまま新たに出版され続けるとも考えられる。
…しかし、実際の説はどんどん書き換わっていくのだ。
* 昔から考古学の世界では「鉄の伝播とケルト人の移住の証拠が一致しねぇんすけど…」とか「ブリテン島にケルト人の集落が出来た証拠ないんですけど…」とかいうのは言われていた。近年そこに他のジャンルからの証拠が加わって、やっぱり全然違うんじゃーん! という話になってきたのだと思われる。
・「島のケルトは実はケルトじゃなかった」から派生する諸問題~"ケルト神話"がケルト神話じゃなくなります
https://55096962.at.webry.info/201705/article_23.html
※悲しいけれどこれ現実なのよね…
ちなみに「文化だけでもケルトなら、ケルト人の子孫じゃなくてもケルト名乗っていいじゃん」という反応もいただいたのだが、残念ながら「ケルトを名乗ってるだけでケルト要素がほとんどない別の文化でした」という話なので、その路線でもダメだったりする。
A.民族としてのケルト人の子孫の文化を「ケルト」と呼んでいいのでは
→子孫じゃなかったことが証明されてしまった
B.他民族でもケルト文化を受け継いでいるなら「ケルト」と呼んでいいのでは
→明らかに文化が断絶しており類似点が少ない。神話の場合メジャーな神格すら一致してない
C.言語として同じ「ケルト語圏」なのだからケルトという括りでいいのでは
→Pケルト・Qケルトの差異の大きさからケルト人が歴史上に登場する以前からアイルランドやブリテン島で話されていた言葉の可能性が高い。そもそもケルト人と呼ばれた民族が使っていたのは本当に、今言われる「ケルト語」だったのかどうかが議論となっている
↓↓
「じゃあ何をもって”ケルト”と呼ぶのか?」という議論に。
そして今では「そもそも島のケルトと呼ばれていたものをケルトと呼ぶこと自体に無理がある」という方向になってきている。<今ココ>
この視点に立ってみてみると、もはやケルトという看板の下に纏めるのは不適切だと思われる事象が多々ある。
神話伝承の差異などは昔から言われていたが、それ以外にも、今までなんとなく同一視されていたものも、実は違ってるんじゃないかということが言われ始めている。
例えばケルトの代名詞的な用語である「ドルイド」だが、本来の「大陸のケルト」でのドルイドは、ギリシャ哲学の系譜を汲む、医学や天文学などにも通じたインテリ集団のことだという。イメージ的には、東地中海世界でいうところのグノーシス派の神学者に近い。
その”本物”のドルイドが消滅してから何百年も経ってから、島の異教徒たちの中で異教の神官や巫女に対しても「ドルイド」という名称が使われるが、実際は似ても似つかない存在であり、しかも彼ら彼女ら自身がドルイドと自称した証拠すら見つからないと指摘されるに至り、今では「同じ名称を充てただけで実は別モノ」と考えられるようになってきている。つまり、大陸のドルイドが零落して知識を失った姿が島のドルイド、という説明が間違っていたのだ。
この問題は、大陸のケルト=中国文化 島のケルト=日本文化 と置き換えると理解しやすい。
中国が唐のあたりで消滅、日本も鎌倉で文化が断絶したと仮定しよう。
何百年も過ぎた江戸時代、ふと「あれ俺たちって何て民族なんだろう」とか考えたときに見つけたのが平城京の遺跡や漢字で書かれた木簡だったとしたらどうなるか。中国の都にそっくりなものがあり、同じ文字を使っている。ということはもしかして、この国は中華帝国が滅びるときに渡って来た人々によって作られたのか! と思い込む。
だが、同じ漢字を使っていながら用語の意味が違ってたり、同じ役職名を使っているのに内容が違ってたり、宗教やその他の文化もなんとなく違う。なぜなのかが説明出来ないまま時が過ぎる。
そこで最近の新しい技術で調べてみたところ、まとまった渡来人は弥生時代にコメと一緒に来た人々だけで文化の断絶した前後には人の移住は見当たらず、大きく遺伝子が違うことが判ってきて、もはやイコールでは結べないことが判ってくる。
――この状態にあるのが今の「島のケルト」こと、アイルランドや、ブリテン島のウェールズなどの"ケルト"語圏なのだ。
日本の場合は文化が断絶することがなかったため、平安以前の文化が中国文化と似ているのは日本から使者を出して文化を輸入していたからだと"記憶"し続けることが出来た。また中国で唐が滅びたあとも、唐の文化様式をベースに、そこから独自の文化を生み出すことが出来たことを認識できた。しかし、もしどこかで記憶が途切れてしまっていたら、失われた記憶は取り戻されることなく、「島のケルト」と同じような勘違いが発生していたかもしれない。
現在のところ、歴史上ケルトと呼ばれた「大陸のケルト」のほうだけがケルトの名を冠するべきものであり、「島のケルト」は一部ケルト文化も受け継いでいるものの実際は土着文化をベースにして発展した、別の文化という扱いになりつつある。(なりつつある、というのは、証拠が積みあがるにつれて学者さんの意見が変わるからである。10年くらい前までは、「大陸と島の間に血縁関係は薄い」くらいまででお茶を濁す人が多かった。)
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ここからが本題
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さて、このような前提を前にして重大なことを考えねばならない。
「大陸のケルトと島のケルトは別」「っていうか島側はケルトと呼ぶのが妥当ではない」…
これによる影響範囲を考えてみたい。主にうちのサイトで修正しないといけない点を踏まえて。
■ケルト神話をケルト神話と呼べなくなる
ぶっちゃけ「大陸のケルト」と「島のケルト」で神話が一致しない、という話は数十年前にはもう言われていた。ただ、何故なのかあまりツッコんで検証されないまま、別モノかもしれないという疑いをかけられながらも、文字記録の豊富な島のほうが「ケルト神話」の看板を大きく掲げてきただけだ。
しかし「島のケルト」が本来のケルトとあまり関係なかったことがわかってくると、スッキリと説明できる理由が見つかったことになる。似ている部分はインド・ヨーロッパ語族に共通の神格と人類普遍の神話だけで、本来は別モノだったのだと。似てた部分以外は、島独自の神話・神格だったのだ… どおりでエポナとか島側にいないわけだよな?!
というわけで、いわゆる「ケルト神話」のテキスト、マビノギオンだとか来寇の書だとかは、「島」に由来する限り全てケルト由来ではなかったことになり、ほぼ全滅である。ダナーンとかクーフーリンとかマナナンとかあのへんもみんな、ケルト神話群とは呼べなくなる。改名するなら「ヒベルニア神話群」あたりだろうか。ちなみにヒベルニアとはアイルランドの古名で、考古学・歴史用語でもある。(※これについてスコットランド派とウェールズ派の人に怒られた。ケルトというでかい看板がなくなって小分けになると、各地域の神話推しの派閥争いになるということを学んだ 笑 …今後どういう方向で呼ばれるかは分からないのでこれは仮ってことで。)
ケルト幻想は無くなるかもしれないが、「幻想の島ヒベルニア」あたりならなんかイイ感じに似たようなファンタジー風味は作れそうな気がするので、元ケルトクラスタの皆さんには気を落とさすに新たな伝統を作り上げていただきたい。
■アーサー王伝説もケルト起源じゃなくなる
今までケルト神話の影響を受けているといわれていたが、その「ケルト神話」の部分が実はケルトじゃなかったという話が前提となるため、ブリテン島で生まれた土着の伝説みたいな扱いになると思う。ただしアーサー王伝説の特徴は、「時代ごとに変化し続ける」というところにある。今知られているアーサー王伝説は、ブリテン島で発生したあとフランスに渡って騎士物語要素を盛り込まれたり、キリスト教要素を足されたり、日本に来てエロゲ要素を入れられたりしたものなので、まぁ別にケルトと無関係になっても大して痛くないかもしれない。
…世の中のアーサー王サイト管理人は軒並み死亡するけれど。
■妖精とか、島のいわゆる「ケルト文様」とかもケルトじゃなくなる
妖精に該当する存在は世界中のどこにでも普遍的に存在するので、ケルト由来でなくても問題ない。アイルランドやウェールズに伝わる「妖精」はケルト関係なく昔からいる土着の存在である。ていうか妖精だけならゲルマン人にも似たような存在の信仰は多数ある。
ケルト文様と言われているものにしても、実は明確にケルト由来という証拠が出せないまま今に至っていた。そもそもケルト人が歴史から姿を消してから、ケルト様式と呼ばれるものが島に登場するまで500年以上の時間差があるのだ。ケルズの書もタラ・ブローチも8世紀。ボイン峡谷の遺跡とかだと考古学資料からケルトと全然時代違うじゃんっていうのはだいぶ昔から言われているのでそもそも無関係である。
だから、ケルト文様は、最大限に関係を見出すにしてもケルト文化の一部を引き継ぎつつ独自に作った様式と言うべきでは無いかと思う。それこそ冒頭で例に挙げた中国(唐)の文化と日本文化の類似のような関係で。
ケルト様式と呼ばれていたものとゲルマン人の装飾との類似は昔から指摘されていたりするので、ケルトという枠組みを取り払って西ヨーロッパ共通の文化をベースに発展したものと説明したほうが、実は説明としてはすっきりしそうな気がする。
…ケルト美術で出版されていた本が全部書き直しが必要になり、美術史も修正が必要、ってことですね意外と影響範囲広いなあ。。
【総括】…結局、「島のケルト」とは何だったのか
今のところ学者さんたちの間でも意見は揺らいでいるが、かつて「島のケルト」と呼ばれていた、ブリテン島周辺および現在のアイルランドの文化について、大陸側の本来の「ケルト」との関連性は次々と打ち消され、現在ではほぼ無関係というところまで来ている。
では「島のケルト」とは一体なんなのか、というと、…単純な話である。
「ブリテン島文化」とか、先に挙げた「ヒベルニア文化」とか呼びかえればいいだけなのだ。
ケルト人が島の住人と入れ替わったのでないならば、そこに発展した文化は昔からいる土着民族のものとなる。
ちなみにフランスのブルターニュやブリテン島、アイルランドなどに残っている巨石文化、いわゆるストーンヘンジやメンヒル、ドルメンなどは、かつてケルト人の文化と勘違いされていた時期もあったが、考古学的名調査から新石器時代末の3000-2000年あたりに作られたことが判っている。それらを作った人々が何者だったのか長らく謎とされてきたのだが、遺伝子調査で住民は昔から変わっていなかったことが結論づけられた今となっては、「今そこに住んでる人たちが昔作ったもの」と言ってよさそうだ。
文化的な変遷は色々あったし宗教も変わったけど、今住んでる人たちが巨石文化の担い手の子孫だったってことだよ…。
というわけで、ケルトという看板を外しさえすれば、今までの研究まで全部ひっくり返るわけではなさそうだ。めっちゃ修正入るけど。いま島にある文化が土着のものであり、確かにそこに存在することまでは否定されない。妖精物語も神話も、大昔からそこに住む自分たちのものだったのだと、胸を張ればいいだけのことである。アイルランドさん受け入れられ無さそうだけど。
ただ、大陸から追われて移住した幻の民族は、文字通り幻だった。
存在しなかった「島のケルト」に翻弄された人々は、数百年見ていた夢からようやく醒めた、ということになるかもしれない。
・ケルト美術って言われてたものもケルトじゃない→ヴァイキング美術「貴方と…ひとつに…なりたい…」
https://55096962.at.webry.info/201706/article_16.html
※皆たぶんうっすら思ってたと思うんだ、「ケルト美術とヴァイキング美術ってなんか似てるな」って。今までのケルト本だと、ケルトの影響がヴァイキングに伝わったとか、ヴァイキングが移住してきて以降ケルト美術がヴァイキングに似るようになったとか書いてあるんだけど、今となっては、それ、ただの言い訳でした。
皆のイメージしてる「ケルト美術」=
ヴァイキングの来寇以降= 土着美術+ヴァイキング様式
何しろ島にケルト人来てなかったことが証明されてしまったんで。アイルランドについてはケルト文化が到来した証拠すら薄いっていうのが今の説。ケルトとの関連性で語られてた渦巻き模様もケルト関係なく昔からアイルランドとかで使われてたし…。そんでもって調べてみたらヴァイキング来る以前のケルト美術が島で発達してた証拠もほぼ見当たらなかったんだな。
というわけで、"ケルト美術"はケルトの看板を取っ払って、ヴァイキング美術とあわせて「西ヨーロッパ様式」とかの括りにすると、今までモヤっとしてたところが一気に解決するよ! というお話。
【参考】
以下はいずれも「ヴァイキングの」美術品です。めっちゃケルトと似てるんですけど? と思ったのなら大正解です。そう、めっちゃ似てる。「お互いに影響しあってたから似てるのは当然で、そもそも分けて考えるのは間違いなのでは」ということ、もう一歩進めて「そもそも"ケルトの伝統"なんて最初から存在せず、島の"ケルト様式"はヴァイキング美術と出合って初めて誕生したのでは?」 というのが言いたい内容です。



【前置き】
今までもその界隈の人たちは、「島のケルトって大陸との繋がりが薄い」「しかも年々繋がりが薄くなってきてる」ってことは知ってたわけです。が、色々言い訳してお茶を濁すか遠回りな感じで表現してました。空気読まない中の人が単刀直入にズバっと書いちゃっただけで、ケルトと名乗れなくなるのは時間の問題だったと思いますよ…だって現状もう、「今までそう呼んでたから」くらいしか名乗る根拠が残ってないんですもの。
というわけで、ここで確定している事項をもういちどおさらい。
A-1 ブリテン島にケルト人が渡った痕跡がほぼなく、移住者がいたとしても少数と考えられる
A-2 大陸側と交易はしてたので文化の一部は伝来している可能性がある
B-1 アイルランドには、そもそもケルト文化が伝来した明確な証拠がない(考古学)
B-2 大陸からケルト人の移住した証拠が出てこない(遺伝学)
B-3 かなり早い段階でブリテン島と関係が断絶していた可能性がありアイルランドの言葉=農耕と一緒に伝えられた前3,000年くらいの言語と思われる/ケルト人の言葉とは遠い…? (言語学)
確定している事項と書きましたが、それは事実としての話であり、学説としての決着とは異なります。
とりあえず今の方向として指し示されているのは、
「大陸から島にケルト人が移住してきた/ケルト文化が到来したという説はもはや支持できない」
という一つの解です。
何か一つの大きな発見があって唐突に出てきた説ではなく、年々証拠が積み重ねられて段階的に確かさを増してきた話なので、今後も一気に覆されることはないと考えられます。今のところケルトと名乗れそうな根拠は「ケルト語圏だから」くらいしか残ってないんですが、ケルト語内でも差異があるわけで、そもそも大陸ケルトと島ケルトの言語って差異がでかすぎて相互疎通不可じゃねえ? 纏められないよねこれ? とかいう話になってくると、もはやケルトの看板は不適切ではという話になるのもしょうがないのです。
【本題】
というわけで本題の"ケルト美術"の話に戻ります。
「大陸のケルト」と言われている本来のケルト、歴史ケルトには、多数の美術品が存在します。代表的な文化は「ラ・テーヌ文化」と呼ばれるもので、ドイツやフランス、オーストリアなどから出土品があります。時代は前5世紀~後1世紀あたり。この時代は「ケルト」という民族名称と文化がだいたい一致しており、通常、ラ・テーヌ文化の伝播はケルト人の移動と重なって見られます。(一部合わないところもありますが…)
ちなみにこの時代、ゲルマン人はケルト人の隣人として存在しており、文化交流もあったと考えられます。

さて島側、ブリテン島とアイルランドの状況を見てみると…
「ケルト十字」と呼ばれるものが出現するのが7世紀以降。ケルズの書などの美しい写本やタラ・ブローチは8世紀以降で、概ね7世紀後半以降に「島のケルト」のケルト美術の主要なところが出てくるとわかります。
ということは、大陸でラ・テーヌ文化が途切れたあと、なんか5-600年ほど不可解な空白期間があるわけですね? 不思議ですよね。でもケルト本には何も書いてないんですよ。良くわかんないけど「大陸」と「島」が繋がってることになってて、美術史としても継承されたことになってる。
そしてこんな感じの記述が成されている。
"スカンジナヴィアからヴァイキングが最初にブリテン島に到来したのは、『アングロ=サクソン年代記』によれば787年のことだった。その後まもなく、有名な793年のリンディスファーン修道院への襲撃があり、さらに806年、『ケルズの書』に着手した頃のアイオナの修道院が襲われて60人以上の修道士が殺戮された。
<中略>
中世ケルト文化の黄金時代は、このヴァイキングの侵入によって絶たれることとになる。
しかしながら、それは中世ケルト文化のいっさいが消え去ったということではなかった。ダブリンやヨークにヴァイキングが住み着くようになって、土着の人間と交わり、貨幣をもたらし、町をつくりあげていったように、その社会的な"結婚"は美術様式においても起こった。「ケルト=ヴァイキング様式」として、11-12世紀に最後の中世ケルト美術を花開かせたのだ。
元々あったケルトの伝統をヴァイキングの到来が壊して、ヴァイキング様式と混じってしまったのだという論旨です。
…が、「黄金時代」と言われている中世ケルト美術は、ほとんど証拠がありません。今残ってる証拠品からして、ヴァイキングがやってきて交じり合ってからが、いわゆる「ケルト美術」の本番のように見える。
実際のところ、ヴァイキングの到来は787年が最初ではありません。記録として残っている最初がそこというだけで、それ以前の時代から既にちょこちょこ来てたことは、今では考古学的な証拠があります。ていうか相手のことをよく知ってたから襲撃できたわけです。
そして、ブリテン島とアイルランドで多少時差はあるにせよ、最初に北欧人(のちにヴァイキングになる人々)がやってきたと考えられるのが7世紀くらいからなんですよ…。
ということは、そもそも「中世ケルト文化の黄金時代」と言われているものは最初からヴァイキングとの交流によって相互に作られたものではないんでしょうか。移住者が増えるとその影響がより強まった(それがケルト=ヴァイキング様式)というだけで。
ちなみにヴァイキング史側から見たヴァイキング美術の歴史は、こんな感じになってるんです。
なんとヴァイキング美術側も、ケルト美術が躍進を遂げたのとほぼ同じ時代にオーセベルグ・ブロワ様式というケルト美術とよく似た様式を編み出してるんですね。

言いたいことなんとなく判ってもらえましたでしょうか。
というわけでもう一度、最初に書いたことを繰り返します。
「そもそも"ケルトの伝統"なんて最初から存在せず、島の"ケルト様式"はヴァイキング美術と出合って初めて誕生したのでは?」
少なくとも「ケルト美術」「ヴァイキング美術」って分ける意味あんま無いよね?
これお互い影響しあって相互発展した「西ヨーロッパ美術」って括りで研究しないとダメじゃね?
昔から区別つかないだの似すぎてるだの散々言われてましたが、両者が同根だとすると当たり前だろって話です。むしろなぜ今まで別扱いにしてた。同じ美術様式がスカンジナヴィアとブリテン島・アイルランドの両方に広まって、それぞれ独自にアレンジされてただけだって考えると、めちゃくちゃスッキリするんですよ。いいわけじみた苦しい説明をする必要も全く無くなる。ケルト美術がヴァイキング様式に影響を与えたのかその逆なのか、なんて議論も不要になる。なんだ! 今までのケルト本でなんか微妙に腑に落ちなかったところがほぼ解決しちゃうじゃないか!!
あまりにもスッキリしすぎる説明は逆に怪しくなりますが、美術の場合は見た目が似すぎてるのに他人のように振舞ってるのが不自然だったと思う。(ていうかケルト本は美術の独自性を強調しようとして言い訳っぽい書き方になってるような…)
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北欧クラスタは多分これでもオッケーだと思うんですよ。昔から「ゴネストロップの大釜ってデンマークじゃん…」「ケルトとゲルマン分ける意味ないよね」とかいう意見があったから(笑)
・ケルト人は島に移住してませんでした、アイルランドに至ってはケルト文化が到来した証拠もほぼ無く、島の美術様式を無条件に「ケルト人の文化」とは主張出来なくなりました
・最初はケルトの影響を受けていたのだとしても、ほぼ空白の期間が500年ほど挟まっているので「中世ケルト美術」の頃には別モノになってます。
・ヴァイキングたちはケルト人の隣人だった期間が長いため、むしろそっちのほうが"ケルト美術"の正当な後継者の可能性も…
美術様式に関しては、言語は無関係となります。「ケルト語圏だから」でケルト美術と名乗るのは無理すぎる。(そんなのが通るなら、ギリシャ語圏の美術は全部ギリシャになっちゃう。例えばアナトリアのギリシャ語イスラム教徒の美術とか…。アラビア語圏だからって中央アジアもイスラム美術にしちゃうとか。普通は言語だけじゃなく中身を見る)
看板を外さなければ先に進めないのなら、そうするしかない。
そろそろパラダイムシフトの季節だと思うんですよ。
・ケルト人はほんとにケルト語を話していたのか…「ケルト語」の名前の由来を見たらそうじゃなかった件
https://55096962.at.webry.info/201712/article_16.html
前々から気になっている、「ケルト人はほんとに、現代でいうところの”ケルト語”を話していたのか」という話のつづき。
前段
現代一般人が持っている「ケルト」のイメージって、アイルランドとかスコットランドとか、コーンウォールとかウェールズとか、あとフランスでブルターニュとか ”ヨーロッパの端っこに追いやられた人々” のイメージだと思う。アイルランドやブリテン島の端っこの人々と、海を隔てたブルターニュの人々との言語は類似している。これはローマに追いやられた人々が大陸から島に渡っていく過程で昔の言語が残された場所だ…という感じでイメージされている。
が、そもそも現在「ケルト語系」と言われているものがケルト人の言語だった根拠がよくわからん のである。
そして調べてみた結果見えてきたのは、「実は根拠なんてなかった」という事実だった…。
・最初にブルターニュをケルト人の末裔と定義した
・ブルターニュ語をケルト語と関連づけた
・そこからブリトン語など島の言語もケルト語系と見なした
以下は「ケルト」という用語の現代的な用法に関する記述の部分。
”この現代の用法はフランス語から始まり、古代ガリア人の末裔と思われているブルターニュの言語や民族を指すものであったが、言語上の類縁関係が認識されて、コーンウォール人とウェールズ人に、そしてまたアイルランド人、マン島人、スコットランドのゲール人に拡大された。こうして<ケルト語>はアーリア語族のひとつの大きな語派を指す名称になり、ケルトという名称は、いずれかのケルト系言語を話す者(あるいはかつて話していた者の子孫)に対して用いられるようになった。
「ケルト復興」中央大学出版会
”
まず最初の時点で根拠ないまま、結論にあわせて現状を整理してしまっているので、まあそりゃ後々の話がおかしくなりますよね、って感じで。。
最初に「ケルト語」の名前が使われたのがブルターニュ語に対してだった、ということを知ると、いろいろと謎が解けた。ケルト人がブリテン島に移住したという説はどこから出てきたのかということ。
ブルターニュの言語がブリトン語、つまりブリテン島の古い言語と似ているのは、ブリテン島からのまとまった移住者があったから、である。なので前提を説明するために、まず「ケルト人が島に渡った」という説を作る必要があった。ブルターニュ語がケルト語の子孫であるために、ケルト人がフランス→イギリス→フランス(ブルターニュ地方)と往復したことにしなければならなかったのである。
つまりこれ、事実に即して作られた仮説ではなく、最初に結論を決めた上で結論を説明するためにこじつけられた説だったのだ。あかんやつだ。
しかし実際のところ、ケルト人がブリテン島にまとまって移住したという証拠は出てこなかった。
かつては移住があったと信じられていたのだが、現在では、「少数の移住や文化の伝播はあったが、まとまった人数の移住はなかった」と結論づけられている。(※大きな根拠の一つがDNAの解析である)
ブリテン島の言語はケルト関係ないブリテン島独自の土着言語なので、それを受け継いだブルターニュの言語もケルト関係ないだろう。もっとも、インド=ヨーロッパ語族の中に入ること自体は問題なさそうなので、その一番大きな括りであれば関係することにはなるはずだが…。
というわけでなので、今言われてる「ケルト語族」と、歴史上実在した「ケルト人」の間はほぼ無関係ジャン、と言う話になってしまった。考古学はまだいいとして、言語学・神話学・民俗学あたりはいちど「ケルト」と「ケルト的なもの」、言い換えれば「歴史上実在したもの」と「後世に信じられるようになったもの」の整理をしなおしたほうがいいかもしれない。
結論として: 近代に名乗られ始めた「復興ケルト」は、ケルト語という意味でも古来の(本来の)ケルトとは内容が違う。
https://55096962.at.webry.info/201705/article_21.html
※歴史上の民族としての「ケルト」と、近代に作り出された「ケルト的なもの」の間には、深い溝がある。多くの人が持っているイメージは商業的な、そして近代のナショナリズムが生み出した「ケルト的な」幻想に過ぎない。
――という話はわりと昔から言われていたのだが、最近の研究を久し振りに読み返してみたら、まさかの展開になっていた。
「そもそも島のケルトはケルトじゃない」
「中世以降のケルトは自称してるだけだった」
なんとアイルランドもウェールズも「ケルトを自称する別の何か」でケルト人の子孫じゃなかったのだ。
********************************
【旧来説】
・ケルト人はローマに大陸から追い払われて島の片隅にしか残らなかった
・ケルト人が移住していったから製鉄技術が広まった
・「島のケルト」と「大陸のケルト」は少し違うものとして扱われる
このあたりは知ってる人も多いだろうし、いま日本で出版されている多くの本はこれを書いていると思う。
だが、この「少し違う」の部分をつっこんで調べてみたら、ここ10年くらいで物凄い勢いで説が書き換えられていた。
【最近の研究】
(1)ハルシュタット文化やラ・テーヌ文化(ケルト人の文化とされる)の伝播に人の入れ替わりは存在せず移住を伴わない
(2)ケルト人が製鉄技術を広めたことになっていたが、製鉄の伝播とケルト人の分布は合ってない。とりあえずブルターニュとブリテン島への製鉄技術の伝播はケルト人の文化の伝播と時期がずれている
(3)遺伝子調査してみたら大陸側のケルト人が島に渡った痕跡が無かった
(4)「ケルト語圏」と「ケルト人」の行動範囲が一部しか重ならない
↓ ↓ ↓
「ケルト人」が住んだのは大陸側のみ。
つまり「島のケルト」は存在しなかった
後に書くように「ケルト語圏」と実際のケルト人の居住範囲が別モノなので、そもそも「ケルト」という言葉で呼ぶのが相応しいかまで議論される羽目になっている。
少なくとも、かつて「大陸のケルト」「島のケルト」と呼ばれていた呼び方が正しくないことは確定している。「大陸のケルト」をケルトと呼ぶなら、民族の違う島側は、影響は受けているかもしれないが"別の何か"なのだ。
【前提条件】
■古代ケルト/歴史ケルト【本来のケルト】 紀元前5世紀~紀元後1世紀
■中世ケルト/復興ケルト【自称ケルト】 16世紀~
"ケルト"は、ローマが記録した呼称にあるケルタエ(またはケルトイ)が元になった名称だ。ケルタエとガリアが同一または関連するものとして記述されているため、多くの場合、ケルトとガリアは同じものとして扱われる。ローマの記録するケルト人は、紀元前5世紀頃から紀元後1世紀にかけて存在し、その後はローマと同化して歴史記録としては消滅する。
そのため、確実に"ケルト"と言える存在(ケルトと呼ぶのが妥当という意味でも)がいるのは紀元前5世紀~紀元後1世紀のみ。それ以前の実体は不明で、果たしてケルトという自称があったのか、どのくらいの範囲に住んでいたのかは良く分かっていない。また、記録から消えた以降はエトルリア人などと同じくローマ人の一部になってしまう。
これに対して、現在ケルトと言われているものは、中世(16世紀)以降に自称し始めた中世ケルトであり、古代のケルトとは実は関係があるかどうか不明なままなし崩しに許容され続けてきた。(!) 「幻の民ケルト人」というイメージを作り上げ、アイルランドなどが「われわれは追われたケルト人の生き残りだ」と自称し始めたのが中世以降のケルトだが、伝統は断絶しており、実は古代から繋がっている証拠はなかった。
そして近年の考古学調査や遺伝子調査などの蓄積により「ほぼ無関係じゃんこれ…」と判明してきたのが、今回の話の発端となっている。
【概要】
まず一つの大きなポイントが、「文化や言語が広まるのに人の入れ替わりは発生する必要がない」という点である。
ラ・テーヌ文化はケルト人の文化、という看板を背負っているが、この文化が広まった地域の人骨を調べてみたら、広まる前と後で特徴に差異が無い。つまり、文化は齎されたが人が入れ替わったわけではない。支配者か入れ替わっただけとか、より優れた文化が伝播してきたので受け入れたとかいうパターンである。
また、かつては ケルト語圏=かつてケルト人の住んだ地域 という認識だったが、実際にケルト人が住んだ証拠があるのは大陸側のみで、島側にはない。文化や言語は、無関係な近隣にも伝播していくものだからである。
これは例えば、「日本に中国から多くの文化が伝わってきたけど中国人が移住してきたわけではない」「同じ漢字や似た単語を使用していても血縁関係としては遠い」ということと同じである。中国を大陸ケルト、日本を島のケルトとして考えてみてほしい。日本には中国を参考にして作られた遺跡や文化が沢山ある。…が、実際は別モノとして扱うのが妥当なものである。
確実なケルト人の居住と移動は、下図の様になる。

イタリアに侵入してローマに「あのクソ蛮族がああ!」とか言われたり、アナトリアに行ってガラティア人になったりした連中がケルト人。見てわかるとおり、島側は全然関係ない。この分布図は、たとえばケルト人にとって重要だったと思われるエポナ女神の像の出土地域と重なっていたりするのだが、島からはそれが出てこない。(今知られている"ケルト神話"、いわゆる島ケルトにもエポナ女神は出てこない。)
そしてその後、遺伝子調査でも「ケルト人は島に渡ってない」ということが証明されてしまうのである…。
では「ブリテン島のケルト」とか「アイルランドのケルト」と言われていたものや、ケルト語とは何なのか。
「文化や言語が広まるのに人の入れ替わりは発生する必要がない」、この重要ポイントを再度強調する。つまり人が移動しなくても、言語や文化だけ伝わる可能性があるのだ。
まだ明確な結論は出ていないが、現時点での推測として以下のようなルートが考えられる。
・【史実/証拠あり】ブリテン島とガリアの間には親密な関係があり、交易も盛んだった(少数の移住者はあった可能性あり)
・【ほぼ確定】ブリテン島側が大陸ケルトの文化を受容する
・【推測】ケルト人ではない人々がケルトの文化に類似したものを持ってブリテン島からアイルランドへ移住
・【推測】人口密度の低かったアイルランドにケルト文化の一部が入る
↓
今に至る
これは、ブリテン島には少数ながらケルト由来と思われる遺伝子が見られ、現在アイルランドのある島のほうにはほぼ皆無であるという事実から導き出される。おそらく、似た言葉の残るウェールズあたりからの移住者がアイルランドに渡ったのだろうと推測される。
ちなみに現在のアイルランド人の大半は遺伝子的に見ると、ケルト人が登場するはるか以前に農耕技術の伝播とともにイベリア半島から渡った人たちの子孫と判明している。
ブリテン島と大陸(現在のフランスあたり)の間で盛んに交易が行われていたことは考古学的な証拠から確かなようなので、その中で一部の文化や少数の渡来人があったことは予想される。ただ、従来考えられていた、大量の移民があり、島の人口や言語が置き換わったという説は、現在では完全に否定される結果となっている。「ケルト語」と言われているものも、ケルト人がもたらした言語ではなく、元々ブリテン島やアイルランドで話されていた言語だろうと考えられている。
文化の一部でも敬称していればそれはもうケルトなんじゃないの? と考える人もいるだろうが、残念ながら、そのケルト文化はそのまま千年後まで継承されるものではなかった。というのも冒頭で述べたように、ローマが来なかったアイルランドでさえ、「ケルト」と言われていた文化はごく最近になって「復興」されたものだからである。文化は完全に断絶されており、過去にどんなものがあったのかほぼ証拠が無いままケルトを名乗り続けてきた。その結果として、実際は紀元前3,000年くらいの遺跡だった巨石群をケルト文化のものと誤認してしまったりしていたのだ。
というわけで現時点の結論として、
島のケルトは中世になってからケルトを名乗り初めた別モノだった
= 歴史上実在した元々の「ケルト」とは関係ないので、ケルトとは呼べない。
なまじ共通する点があったために、千年の断絶があっても「まぁ繋がってるんだろうなぁ」という感じで有耶無耶にされていたものが、考古学的名証拠の累積や遺伝子解析などの新技術の投入によって別モノだったことが明らかにされてしまった。これもまた、科学の発展の生み出した切ない現実の一つである。
20年くらい前の本を見ると、島のケルトは大陸から移住したもので、のちにローマが征服しに来たためブリテン島の端っこやローマの来なかったアイルランドといった隅っこにだけ残った、ということになっている。また、アイルランドこそケルト文化が残った最後の砦というような書かれ方をしている。
現在、これらは全て誤りであったことが確実となり、数十年前の本が全く役に立たない状況となっているが、日本でケルトの本を多数出版している先生たちが旧説側の立場なので、日本で最近の研究をベースにした一般向けの本はなかなか出てこないような気がしている…。
何くわぬ顔で最近の研究を無視して既存路線で売り出したほうが商売の上では"楽"、というのはあるだろう。
そして、学術書はともかくファンタジー関連の本などは、いまさらアイルランド=ケルトのイメージを捨てられなくて、旧説のまま新たに出版され続けるとも考えられる。
…しかし、実際の説はどんどん書き換わっていくのだ。
* 昔から考古学の世界では「鉄の伝播とケルト人の移住の証拠が一致しねぇんすけど…」とか「ブリテン島にケルト人の集落が出来た証拠ないんですけど…」とかいうのは言われていた。近年そこに他のジャンルからの証拠が加わって、やっぱり全然違うんじゃーん! という話になってきたのだと思われる。
・「島のケルトは実はケルトじゃなかった」から派生する諸問題~"ケルト神話"がケルト神話じゃなくなります
https://55096962.at.webry.info/201705/article_23.html
※悲しいけれどこれ現実なのよね…
ちなみに「文化だけでもケルトなら、ケルト人の子孫じゃなくてもケルト名乗っていいじゃん」という反応もいただいたのだが、残念ながら「ケルトを名乗ってるだけでケルト要素がほとんどない別の文化でした」という話なので、その路線でもダメだったりする。
A.民族としてのケルト人の子孫の文化を「ケルト」と呼んでいいのでは
→子孫じゃなかったことが証明されてしまった
B.他民族でもケルト文化を受け継いでいるなら「ケルト」と呼んでいいのでは
→明らかに文化が断絶しており類似点が少ない。神話の場合メジャーな神格すら一致してない
C.言語として同じ「ケルト語圏」なのだからケルトという括りでいいのでは
→Pケルト・Qケルトの差異の大きさからケルト人が歴史上に登場する以前からアイルランドやブリテン島で話されていた言葉の可能性が高い。そもそもケルト人と呼ばれた民族が使っていたのは本当に、今言われる「ケルト語」だったのかどうかが議論となっている
↓↓
「じゃあ何をもって”ケルト”と呼ぶのか?」という議論に。
そして今では「そもそも島のケルトと呼ばれていたものをケルトと呼ぶこと自体に無理がある」という方向になってきている。<今ココ>
この視点に立ってみてみると、もはやケルトという看板の下に纏めるのは不適切だと思われる事象が多々ある。
神話伝承の差異などは昔から言われていたが、それ以外にも、今までなんとなく同一視されていたものも、実は違ってるんじゃないかということが言われ始めている。
例えばケルトの代名詞的な用語である「ドルイド」だが、本来の「大陸のケルト」でのドルイドは、ギリシャ哲学の系譜を汲む、医学や天文学などにも通じたインテリ集団のことだという。イメージ的には、東地中海世界でいうところのグノーシス派の神学者に近い。
その”本物”のドルイドが消滅してから何百年も経ってから、島の異教徒たちの中で異教の神官や巫女に対しても「ドルイド」という名称が使われるが、実際は似ても似つかない存在であり、しかも彼ら彼女ら自身がドルイドと自称した証拠すら見つからないと指摘されるに至り、今では「同じ名称を充てただけで実は別モノ」と考えられるようになってきている。つまり、大陸のドルイドが零落して知識を失った姿が島のドルイド、という説明が間違っていたのだ。
この問題は、大陸のケルト=中国文化 島のケルト=日本文化 と置き換えると理解しやすい。
中国が唐のあたりで消滅、日本も鎌倉で文化が断絶したと仮定しよう。
何百年も過ぎた江戸時代、ふと「あれ俺たちって何て民族なんだろう」とか考えたときに見つけたのが平城京の遺跡や漢字で書かれた木簡だったとしたらどうなるか。中国の都にそっくりなものがあり、同じ文字を使っている。ということはもしかして、この国は中華帝国が滅びるときに渡って来た人々によって作られたのか! と思い込む。
だが、同じ漢字を使っていながら用語の意味が違ってたり、同じ役職名を使っているのに内容が違ってたり、宗教やその他の文化もなんとなく違う。なぜなのかが説明出来ないまま時が過ぎる。
そこで最近の新しい技術で調べてみたところ、まとまった渡来人は弥生時代にコメと一緒に来た人々だけで文化の断絶した前後には人の移住は見当たらず、大きく遺伝子が違うことが判ってきて、もはやイコールでは結べないことが判ってくる。
――この状態にあるのが今の「島のケルト」こと、アイルランドや、ブリテン島のウェールズなどの"ケルト"語圏なのだ。
日本の場合は文化が断絶することがなかったため、平安以前の文化が中国文化と似ているのは日本から使者を出して文化を輸入していたからだと"記憶"し続けることが出来た。また中国で唐が滅びたあとも、唐の文化様式をベースに、そこから独自の文化を生み出すことが出来たことを認識できた。しかし、もしどこかで記憶が途切れてしまっていたら、失われた記憶は取り戻されることなく、「島のケルト」と同じような勘違いが発生していたかもしれない。
現在のところ、歴史上ケルトと呼ばれた「大陸のケルト」のほうだけがケルトの名を冠するべきものであり、「島のケルト」は一部ケルト文化も受け継いでいるものの実際は土着文化をベースにして発展した、別の文化という扱いになりつつある。(なりつつある、というのは、証拠が積みあがるにつれて学者さんの意見が変わるからである。10年くらい前までは、「大陸と島の間に血縁関係は薄い」くらいまででお茶を濁す人が多かった。)
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ここからが本題
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さて、このような前提を前にして重大なことを考えねばならない。
「大陸のケルトと島のケルトは別」「っていうか島側はケルトと呼ぶのが妥当ではない」…
これによる影響範囲を考えてみたい。主にうちのサイトで修正しないといけない点を踏まえて。
■ケルト神話をケルト神話と呼べなくなる
ぶっちゃけ「大陸のケルト」と「島のケルト」で神話が一致しない、という話は数十年前にはもう言われていた。ただ、何故なのかあまりツッコんで検証されないまま、別モノかもしれないという疑いをかけられながらも、文字記録の豊富な島のほうが「ケルト神話」の看板を大きく掲げてきただけだ。
しかし「島のケルト」が本来のケルトとあまり関係なかったことがわかってくると、スッキリと説明できる理由が見つかったことになる。似ている部分はインド・ヨーロッパ語族に共通の神格と人類普遍の神話だけで、本来は別モノだったのだと。似てた部分以外は、島独自の神話・神格だったのだ… どおりでエポナとか島側にいないわけだよな?!
というわけで、いわゆる「ケルト神話」のテキスト、マビノギオンだとか来寇の書だとかは、「島」に由来する限り全てケルト由来ではなかったことになり、ほぼ全滅である。ダナーンとかクーフーリンとかマナナンとかあのへんもみんな、ケルト神話群とは呼べなくなる。改名するなら「ヒベルニア神話群」あたりだろうか。ちなみにヒベルニアとはアイルランドの古名で、考古学・歴史用語でもある。(※これについてスコットランド派とウェールズ派の人に怒られた。ケルトというでかい看板がなくなって小分けになると、各地域の神話推しの派閥争いになるということを学んだ 笑 …今後どういう方向で呼ばれるかは分からないのでこれは仮ってことで。)
ケルト幻想は無くなるかもしれないが、「幻想の島ヒベルニア」あたりならなんかイイ感じに似たようなファンタジー風味は作れそうな気がするので、元ケルトクラスタの皆さんには気を落とさすに新たな伝統を作り上げていただきたい。
■アーサー王伝説もケルト起源じゃなくなる
今までケルト神話の影響を受けているといわれていたが、その「ケルト神話」の部分が実はケルトじゃなかったという話が前提となるため、ブリテン島で生まれた土着の伝説みたいな扱いになると思う。ただしアーサー王伝説の特徴は、「時代ごとに変化し続ける」というところにある。今知られているアーサー王伝説は、ブリテン島で発生したあとフランスに渡って騎士物語要素を盛り込まれたり、キリスト教要素を足されたり、日本に来てエロゲ要素を入れられたりしたものなので、まぁ別にケルトと無関係になっても大して痛くないかもしれない。
…世の中のアーサー王サイト管理人は軒並み死亡するけれど。
■妖精とか、島のいわゆる「ケルト文様」とかもケルトじゃなくなる
妖精に該当する存在は世界中のどこにでも普遍的に存在するので、ケルト由来でなくても問題ない。アイルランドやウェールズに伝わる「妖精」はケルト関係なく昔からいる土着の存在である。ていうか妖精だけならゲルマン人にも似たような存在の信仰は多数ある。
ケルト文様と言われているものにしても、実は明確にケルト由来という証拠が出せないまま今に至っていた。そもそもケルト人が歴史から姿を消してから、ケルト様式と呼ばれるものが島に登場するまで500年以上の時間差があるのだ。ケルズの書もタラ・ブローチも8世紀。ボイン峡谷の遺跡とかだと考古学資料からケルトと全然時代違うじゃんっていうのはだいぶ昔から言われているのでそもそも無関係である。
だから、ケルト文様は、最大限に関係を見出すにしてもケルト文化の一部を引き継ぎつつ独自に作った様式と言うべきでは無いかと思う。それこそ冒頭で例に挙げた中国(唐)の文化と日本文化の類似のような関係で。
ケルト様式と呼ばれていたものとゲルマン人の装飾との類似は昔から指摘されていたりするので、ケルトという枠組みを取り払って西ヨーロッパ共通の文化をベースに発展したものと説明したほうが、実は説明としてはすっきりしそうな気がする。
…ケルト美術で出版されていた本が全部書き直しが必要になり、美術史も修正が必要、ってことですね意外と影響範囲広いなあ。。
【総括】…結局、「島のケルト」とは何だったのか
今のところ学者さんたちの間でも意見は揺らいでいるが、かつて「島のケルト」と呼ばれていた、ブリテン島周辺および現在のアイルランドの文化について、大陸側の本来の「ケルト」との関連性は次々と打ち消され、現在ではほぼ無関係というところまで来ている。
では「島のケルト」とは一体なんなのか、というと、…単純な話である。
「ブリテン島文化」とか、先に挙げた「ヒベルニア文化」とか呼びかえればいいだけなのだ。
ケルト人が島の住人と入れ替わったのでないならば、そこに発展した文化は昔からいる土着民族のものとなる。
ちなみにフランスのブルターニュやブリテン島、アイルランドなどに残っている巨石文化、いわゆるストーンヘンジやメンヒル、ドルメンなどは、かつてケルト人の文化と勘違いされていた時期もあったが、考古学的名調査から新石器時代末の3000-2000年あたりに作られたことが判っている。それらを作った人々が何者だったのか長らく謎とされてきたのだが、遺伝子調査で住民は昔から変わっていなかったことが結論づけられた今となっては、「今そこに住んでる人たちが昔作ったもの」と言ってよさそうだ。
文化的な変遷は色々あったし宗教も変わったけど、今住んでる人たちが巨石文化の担い手の子孫だったってことだよ…。
というわけで、ケルトという看板を外しさえすれば、今までの研究まで全部ひっくり返るわけではなさそうだ。めっちゃ修正入るけど。いま島にある文化が土着のものであり、確かにそこに存在することまでは否定されない。妖精物語も神話も、大昔からそこに住む自分たちのものだったのだと、胸を張ればいいだけのことである。アイルランドさん受け入れられ無さそうだけど。
ただ、大陸から追われて移住した幻の民族は、文字通り幻だった。
存在しなかった「島のケルト」に翻弄された人々は、数百年見ていた夢からようやく醒めた、ということになるかもしれない。
・ケルト美術って言われてたものもケルトじゃない→ヴァイキング美術「貴方と…ひとつに…なりたい…」
https://55096962.at.webry.info/201706/article_16.html
※皆たぶんうっすら思ってたと思うんだ、「ケルト美術とヴァイキング美術ってなんか似てるな」って。今までのケルト本だと、ケルトの影響がヴァイキングに伝わったとか、ヴァイキングが移住してきて以降ケルト美術がヴァイキングに似るようになったとか書いてあるんだけど、今となっては、それ、ただの言い訳でした。
皆のイメージしてる「ケルト美術」=
ヴァイキングの来寇以降= 土着美術+ヴァイキング様式
何しろ島にケルト人来てなかったことが証明されてしまったんで。アイルランドについてはケルト文化が到来した証拠すら薄いっていうのが今の説。ケルトとの関連性で語られてた渦巻き模様もケルト関係なく昔からアイルランドとかで使われてたし…。そんでもって調べてみたらヴァイキング来る以前のケルト美術が島で発達してた証拠もほぼ見当たらなかったんだな。
というわけで、"ケルト美術"はケルトの看板を取っ払って、ヴァイキング美術とあわせて「西ヨーロッパ様式」とかの括りにすると、今までモヤっとしてたところが一気に解決するよ! というお話。
【参考】
以下はいずれも「ヴァイキングの」美術品です。めっちゃケルトと似てるんですけど? と思ったのなら大正解です。そう、めっちゃ似てる。「お互いに影響しあってたから似てるのは当然で、そもそも分けて考えるのは間違いなのでは」ということ、もう一歩進めて「そもそも"ケルトの伝統"なんて最初から存在せず、島の"ケルト様式"はヴァイキング美術と出合って初めて誕生したのでは?」 というのが言いたい内容です。



【前置き】
今までもその界隈の人たちは、「島のケルトって大陸との繋がりが薄い」「しかも年々繋がりが薄くなってきてる」ってことは知ってたわけです。が、色々言い訳してお茶を濁すか遠回りな感じで表現してました。空気読まない中の人が単刀直入にズバっと書いちゃっただけで、ケルトと名乗れなくなるのは時間の問題だったと思いますよ…だって現状もう、「今までそう呼んでたから」くらいしか名乗る根拠が残ってないんですもの。
というわけで、ここで確定している事項をもういちどおさらい。
A-1 ブリテン島にケルト人が渡った痕跡がほぼなく、移住者がいたとしても少数と考えられる
A-2 大陸側と交易はしてたので文化の一部は伝来している可能性がある
B-1 アイルランドには、そもそもケルト文化が伝来した明確な証拠がない(考古学)
B-2 大陸からケルト人の移住した証拠が出てこない(遺伝学)
B-3 かなり早い段階でブリテン島と関係が断絶していた可能性がありアイルランドの言葉=農耕と一緒に伝えられた前3,000年くらいの言語と思われる/ケルト人の言葉とは遠い…? (言語学)
確定している事項と書きましたが、それは事実としての話であり、学説としての決着とは異なります。
とりあえず今の方向として指し示されているのは、
「大陸から島にケルト人が移住してきた/ケルト文化が到来したという説はもはや支持できない」
という一つの解です。
何か一つの大きな発見があって唐突に出てきた説ではなく、年々証拠が積み重ねられて段階的に確かさを増してきた話なので、今後も一気に覆されることはないと考えられます。今のところケルトと名乗れそうな根拠は「ケルト語圏だから」くらいしか残ってないんですが、ケルト語内でも差異があるわけで、そもそも大陸ケルトと島ケルトの言語って差異がでかすぎて相互疎通不可じゃねえ? 纏められないよねこれ? とかいう話になってくると、もはやケルトの看板は不適切ではという話になるのもしょうがないのです。
【本題】
というわけで本題の"ケルト美術"の話に戻ります。
「大陸のケルト」と言われている本来のケルト、歴史ケルトには、多数の美術品が存在します。代表的な文化は「ラ・テーヌ文化」と呼ばれるもので、ドイツやフランス、オーストリアなどから出土品があります。時代は前5世紀~後1世紀あたり。この時代は「ケルト」という民族名称と文化がだいたい一致しており、通常、ラ・テーヌ文化の伝播はケルト人の移動と重なって見られます。(一部合わないところもありますが…)
ちなみにこの時代、ゲルマン人はケルト人の隣人として存在しており、文化交流もあったと考えられます。

さて島側、ブリテン島とアイルランドの状況を見てみると…
「ケルト十字」と呼ばれるものが出現するのが7世紀以降。ケルズの書などの美しい写本やタラ・ブローチは8世紀以降で、概ね7世紀後半以降に「島のケルト」のケルト美術の主要なところが出てくるとわかります。
ということは、大陸でラ・テーヌ文化が途切れたあと、なんか5-600年ほど不可解な空白期間があるわけですね? 不思議ですよね。でもケルト本には何も書いてないんですよ。良くわかんないけど「大陸」と「島」が繋がってることになってて、美術史としても継承されたことになってる。
そしてこんな感じの記述が成されている。
"スカンジナヴィアからヴァイキングが最初にブリテン島に到来したのは、『アングロ=サクソン年代記』によれば787年のことだった。その後まもなく、有名な793年のリンディスファーン修道院への襲撃があり、さらに806年、『ケルズの書』に着手した頃のアイオナの修道院が襲われて60人以上の修道士が殺戮された。
<中略>
中世ケルト文化の黄金時代は、このヴァイキングの侵入によって絶たれることとになる。
しかしながら、それは中世ケルト文化のいっさいが消え去ったということではなかった。ダブリンやヨークにヴァイキングが住み着くようになって、土着の人間と交わり、貨幣をもたらし、町をつくりあげていったように、その社会的な"結婚"は美術様式においても起こった。「ケルト=ヴァイキング様式」として、11-12世紀に最後の中世ケルト美術を花開かせたのだ。
元々あったケルトの伝統をヴァイキングの到来が壊して、ヴァイキング様式と混じってしまったのだという論旨です。
…が、「黄金時代」と言われている中世ケルト美術は、ほとんど証拠がありません。今残ってる証拠品からして、ヴァイキングがやってきて交じり合ってからが、いわゆる「ケルト美術」の本番のように見える。
実際のところ、ヴァイキングの到来は787年が最初ではありません。記録として残っている最初がそこというだけで、それ以前の時代から既にちょこちょこ来てたことは、今では考古学的な証拠があります。ていうか相手のことをよく知ってたから襲撃できたわけです。
そして、ブリテン島とアイルランドで多少時差はあるにせよ、最初に北欧人(のちにヴァイキングになる人々)がやってきたと考えられるのが7世紀くらいからなんですよ…。
ということは、そもそも「中世ケルト文化の黄金時代」と言われているものは最初からヴァイキングとの交流によって相互に作られたものではないんでしょうか。移住者が増えるとその影響がより強まった(それがケルト=ヴァイキング様式)というだけで。
ちなみにヴァイキング史側から見たヴァイキング美術の歴史は、こんな感じになってるんです。
なんとヴァイキング美術側も、ケルト美術が躍進を遂げたのとほぼ同じ時代にオーセベルグ・ブロワ様式というケルト美術とよく似た様式を編み出してるんですね。

言いたいことなんとなく判ってもらえましたでしょうか。
というわけでもう一度、最初に書いたことを繰り返します。
「そもそも"ケルトの伝統"なんて最初から存在せず、島の"ケルト様式"はヴァイキング美術と出合って初めて誕生したのでは?」
少なくとも「ケルト美術」「ヴァイキング美術」って分ける意味あんま無いよね?
これお互い影響しあって相互発展した「西ヨーロッパ美術」って括りで研究しないとダメじゃね?
昔から区別つかないだの似すぎてるだの散々言われてましたが、両者が同根だとすると当たり前だろって話です。むしろなぜ今まで別扱いにしてた。同じ美術様式がスカンジナヴィアとブリテン島・アイルランドの両方に広まって、それぞれ独自にアレンジされてただけだって考えると、めちゃくちゃスッキリするんですよ。いいわけじみた苦しい説明をする必要も全く無くなる。ケルト美術がヴァイキング様式に影響を与えたのかその逆なのか、なんて議論も不要になる。なんだ! 今までのケルト本でなんか微妙に腑に落ちなかったところがほぼ解決しちゃうじゃないか!!
あまりにもスッキリしすぎる説明は逆に怪しくなりますが、美術の場合は見た目が似すぎてるのに他人のように振舞ってるのが不自然だったと思う。(ていうかケルト本は美術の独自性を強調しようとして言い訳っぽい書き方になってるような…)
************
北欧クラスタは多分これでもオッケーだと思うんですよ。昔から「ゴネストロップの大釜ってデンマークじゃん…」「ケルトとゲルマン分ける意味ないよね」とかいう意見があったから(笑)
・ケルト人は島に移住してませんでした、アイルランドに至ってはケルト文化が到来した証拠もほぼ無く、島の美術様式を無条件に「ケルト人の文化」とは主張出来なくなりました
・最初はケルトの影響を受けていたのだとしても、ほぼ空白の期間が500年ほど挟まっているので「中世ケルト美術」の頃には別モノになってます。
・ヴァイキングたちはケルト人の隣人だった期間が長いため、むしろそっちのほうが"ケルト美術"の正当な後継者の可能性も…
美術様式に関しては、言語は無関係となります。「ケルト語圏だから」でケルト美術と名乗るのは無理すぎる。(そんなのが通るなら、ギリシャ語圏の美術は全部ギリシャになっちゃう。例えばアナトリアのギリシャ語イスラム教徒の美術とか…。アラビア語圏だからって中央アジアもイスラム美術にしちゃうとか。普通は言語だけじゃなく中身を見る)
看板を外さなければ先に進めないのなら、そうするしかない。
そろそろパラダイムシフトの季節だと思うんですよ。
・ケルト人はほんとにケルト語を話していたのか…「ケルト語」の名前の由来を見たらそうじゃなかった件
https://55096962.at.webry.info/201712/article_16.html
前々から気になっている、「ケルト人はほんとに、現代でいうところの”ケルト語”を話していたのか」という話のつづき。
前段
現代一般人が持っている「ケルト」のイメージって、アイルランドとかスコットランドとか、コーンウォールとかウェールズとか、あとフランスでブルターニュとか ”ヨーロッパの端っこに追いやられた人々” のイメージだと思う。アイルランドやブリテン島の端っこの人々と、海を隔てたブルターニュの人々との言語は類似している。これはローマに追いやられた人々が大陸から島に渡っていく過程で昔の言語が残された場所だ…という感じでイメージされている。
が、そもそも現在「ケルト語系」と言われているものがケルト人の言語だった根拠がよくわからん のである。
そして調べてみた結果見えてきたのは、「実は根拠なんてなかった」という事実だった…。
・最初にブルターニュをケルト人の末裔と定義した
・ブルターニュ語をケルト語と関連づけた
・そこからブリトン語など島の言語もケルト語系と見なした
以下は「ケルト」という用語の現代的な用法に関する記述の部分。
”この現代の用法はフランス語から始まり、古代ガリア人の末裔と思われているブルターニュの言語や民族を指すものであったが、言語上の類縁関係が認識されて、コーンウォール人とウェールズ人に、そしてまたアイルランド人、マン島人、スコットランドのゲール人に拡大された。こうして<ケルト語>はアーリア語族のひとつの大きな語派を指す名称になり、ケルトという名称は、いずれかのケルト系言語を話す者(あるいはかつて話していた者の子孫)に対して用いられるようになった。
「ケルト復興」中央大学出版会
”
まず最初の時点で根拠ないまま、結論にあわせて現状を整理してしまっているので、まあそりゃ後々の話がおかしくなりますよね、って感じで。。
最初に「ケルト語」の名前が使われたのがブルターニュ語に対してだった、ということを知ると、いろいろと謎が解けた。ケルト人がブリテン島に移住したという説はどこから出てきたのかということ。
ブルターニュの言語がブリトン語、つまりブリテン島の古い言語と似ているのは、ブリテン島からのまとまった移住者があったから、である。なので前提を説明するために、まず「ケルト人が島に渡った」という説を作る必要があった。ブルターニュ語がケルト語の子孫であるために、ケルト人がフランス→イギリス→フランス(ブルターニュ地方)と往復したことにしなければならなかったのである。
つまりこれ、事実に即して作られた仮説ではなく、最初に結論を決めた上で結論を説明するためにこじつけられた説だったのだ。あかんやつだ。
しかし実際のところ、ケルト人がブリテン島にまとまって移住したという証拠は出てこなかった。
かつては移住があったと信じられていたのだが、現在では、「少数の移住や文化の伝播はあったが、まとまった人数の移住はなかった」と結論づけられている。(※大きな根拠の一つがDNAの解析である)
ブリテン島の言語はケルト関係ないブリテン島独自の土着言語なので、それを受け継いだブルターニュの言語もケルト関係ないだろう。もっとも、インド=ヨーロッパ語族の中に入ること自体は問題なさそうなので、その一番大きな括りであれば関係することにはなるはずだが…。
というわけでなので、今言われてる「ケルト語族」と、歴史上実在した「ケルト人」の間はほぼ無関係ジャン、と言う話になってしまった。考古学はまだいいとして、言語学・神話学・民俗学あたりはいちど「ケルト」と「ケルト的なもの」、言い換えれば「歴史上実在したもの」と「後世に信じられるようになったもの」の整理をしなおしたほうがいいかもしれない。
結論として: 近代に名乗られ始めた「復興ケルト」は、ケルト語という意味でも古来の(本来の)ケルトとは内容が違う。