ツイートまとめ テーマ:「右目」と「左目」のシンボルの考察。「右目」と「左目」の両建構造。「コルナサイン」の分析。シンボリズムを破る方法についての理論的考察。
https://kokuhiken.exblog.jp/31790711/
〇随分前のツイートだが、反響があった。裏権力の結社員連中は秘密を隠そうとする一方でシンボルやサインなどで存在を誇示しようとするアンビバレンツな奇癖を持っている。特に「目」のシンボルを多用する。芸能人など著名人はSNSに自らの片目を隠して写真をアップする事が多い。
「気味の悪い目玉だらけの電通の床。「結社」をアピールし過ぎだ。国際秘密力の走狗はシンボルで自己顕示する。裏権力連中は基本的にオカルトかぶれ。マスコミを支配し日本人に対して心理戦を仕掛ける事は魔術を仕掛けているに等しい。攘夷あるのみだ。」

〇注意深く観察すれば「片目」のシンボルが異常に多い事に気づくはずである。ドル札の裏面、企業のロゴ、片目を隠して写真に写る著名人、ミュージックビデオなど。あらゆる所に見つかる。何故「片目」なのかは決して説明されない。裏権力・結社のメンバーやその関係者である事を示す符牒だと見ている。
〇古代エジプトの神話でホルス神の左目を「ウジャトの目」、右目を「ラーの目」と言う。西洋文明は古代地中海・オリエント文明を源流とするが、その中でもエジプトは重要な一角であり多大な影響を受けている。よって「片目」のシンボルもここから来ていると思われる。そこに如何なる意味を込めているか。
〇ホルスの左目である「ウジャトの目」はホルスの元を離れた後にエジプト全土を旅して見聞を深め、後にトート神に癒されてホルスの元に戻ったとされる。この神話からウジャトの目は「知恵」の象徴とされる。一方の右目の「ラーの目」は文字通り太陽神ラーの象徴であり「権威」を示すものと推測される。
〇「符牒」とは何か。「大辞林」によると、「① 意味をもたせた文字や図形。記号。符号。 ② 仲間だけに通用する言葉や印。合言葉。」。シンボルやサインはまさに裏権力関係者である事を示す符牒として用いられているのではないか。https://kotobank.jp/word/符丁・符帳・符牒-373879
〇西洋の結社員が用いる「片目」のシンボルは確かに古代エジプトが元ネタと思われるが、古代エジプト人と西洋の結社員では込める意図やニュアンスが異なる可能性もある。そこは慎重に見極めるべきであろう。ここで役に立つのが記号分析の手法である。記号の「能記」と「所記」の区別と相互の関係の吟味。
〇シンボルやサインも記号の一種なので必ず「能記」と「所記」から成る。「片目のシンボル」で言うと、「右目」「左目」の形が「能記」、そこに込められた意味や意図が「所記」である。「右目か左目か」という造形の違いは能記、右目と左目にそれぞれ如何なる意味(「知恵」の象徴等)があるかは所記。
〇記号は主客連関態である。主観的要素と客観的要素が協働して機能するという意味である。記号の能記面は客観的な造形を持っているが、そこに如何なる意味を込めるかはその記号を用いる者の主観に依存する。故に記号の能記だけを眺めるのではなく、その記号を用いる者の意図を含め総合的に解析すべき。
〇「片目のシンボル」だと、ネタ元と思われるエジプト神話を知るだけで事足れりとせずに、秘密結社員らが如何なる意図でそのシンボルを用い、それに如何なる意味を込めているかを解析する。その為には単にシンボルだけでなく、裏権力・結社員らの思想と行動、企みの総体、「文脈」を勘案する必要がある。
〇記号分析の方法論に関する考えは以下の記事にまとめてある。参考まで。
【陰謀追及の記号学①】https://kokuhiken.exblog.jp/31659589/
【陰謀追及の記号学②】https://kokuhiken.exblog.jp/31724915/
〇「能記」「所記」という語について。これらは元々は小林英夫という言語学者がソシュール言語学の「シニフィアン」(言語の表現面。第一義的には「音声」)、「シニフィエ」(言語の内容面。概念・観念)の訳語として作ったものだそうである。能記と所記で「表すもの」と「表されるもの」を示している。
〇だが、前にも書いたように、吾人は「能記」「所記」をソシュール言語学的な厳密な意味では使っていない。能記はほぼ同じだが、所記の方は「言葉の内容面=概念・観念」だけでなく実質・実態・実物の意味も含めている。この点は儒学の「名・実」の「実」、唯識の「名・義」の「義」に近い意味である。
〇「能記」「所記」という語に関する個人的な用法、考え方については以下の記事で説明してある。
https://kokuhiken.exblog.jp/31724915/
〇「ラーの目」を源流とする「右目」が「権威・権力」を表すとしたら「左目」は「反権威・反権力」を表すのではという鋭いご指摘。右目と左目の両建である。裏権力は「権威・権力」だけでなく「反権威・反権力」をも用いる事に注意する必要がある。例えば一神教に対してグノーシス主義や啓蒙主義がある。
〇左目である「ウジャトの目(ウアジェトの目)」は「知恵」の象徴とされる。知識、知性、理性、啓蒙などもこれに類する。これらは権威を破壊する事にも用いられ得るので確かに「反権威・反権力」と符合する面がある。故に左目は啓蒙主義などのシンボルになり得る。「啓蒙の光」「理性の光」云々である。
〇裏権力は「権威・権力」と「反権威・反権力」の両方を使いこなす。「権威・権力」によって人々を従わせ、「反権威・反権力」で既存の秩序を破壊する。そして「新秩序」を作ろうとする。NWO戦略とは「権威・権力」と「反権威・反権力」の弁証法的運動である。いずれをも駆使し、NWOに誘導しようとする。
〇盲目的な権威主義は論外だが、単純な反権威主義にも両建の罠が仕掛けられている可能性がある。「カイカク」派を見るべし。また「反権威を掲げる権威主義」というものもある。過去の革命運動の歴史を見ると明らかであろう。一面的な見方では裏権力の両建戦術に嵌められる。本体を見極め、破両建する。
〇明治以来の進歩主義に付け込み既成秩序の打破を叫ぶ「カイカク」派の手口は先述の「左目」的なやり方と言える(例えば都構想推進派など)。その一方で秩序破壊の後に作ろうとする体制は極めて専制的であり、その局面では「権威」を用いる。このように裏権力の手口は常に「右目」「左目」の両建である。
〇権威を掲げて反権威主義を鎮圧すればよいとする右派的発想も、反権威を掲げて権威や秩序を破壊すればよいとする左派的発想も、偏りがあり、複雑怪奇な両建戦術に対抗する事は出来ない。前者は英国系フリーメイソン、後者は仏蘭西系フリーメイソンの範疇に取り込まれる。左右両建の実質はこれである。
〇「右目」「左目」とは、このように裏権力派閥の中でも権威主義的な一派と反権威主義的な一派の思想をそれぞれ象徴しているのではないか?というのが一つの仮説である。実際、「片目」は基督教でもフリーメイソンでも用いられてきた。地下に潜行したサバタイ派・フランキストも用いるという説もある。
〇諸説紛々だが、とにかく裏権力及びその走狗が「片目」のシンボルを多用している事だけは確かである。そうでなければ世の中にこれ程「片目」のシンボルが氾濫するはずがない。SDGsなどいつの間にか世に喧伝されているものが多い。「片目」のシンボルは特に何の説明もなく、方々に氾濫せしめられている。
〇仏蘭西の風刺画関連事件も左目と右目の抗争とみる事が出来る。大東社国家・仏蘭西は啓蒙主義を国是とする。その一方で一神教徒であるイスラム教徒の移民を大量に入れる。ここに啓蒙主義と一神教の衝突が引き起こされる。風刺画の事件はその表れと見る事が出来る(偽旗やマッチポンプの可能性も含む)。
〇これまで述べてきた事はあくまでも仮説の一つに過ぎない。「右目を強調する者が必ず権威主義的であり、左目を強調する者が必ず反権威主義的であって、例外はない」とは現時点では断言できない。著名人らの片目アピールにどこまで意識的な左右の法則性があるかはもっと詰めて検証していく必要がある。
〇芸能人や政治家、王族などの世界中の有名人がよくやっている「人差し指と小指を立て、親指と中指と薬指はたたむ」ハンドサインは「コルナ」と言う。これも「能記」と「所記」から成る記号の一種である。「能記」を「手」という身体の部位で表現している訳である。
【コルナ】https://ja.wikipedia.org/wiki/コルナ
〇古代ギリシャにまで遡るとされ、元々はイタリアの風習だそうである。だが、1960年代のニューエイジの一角である悪魔教会のアントン・ラヴェイが採用して以降は「悪魔のサイン」という所記が付け加えられた。世界中の有名人がイタリアの風習をやる必然性はないので後者の意味の可能性が高いと思われる。
〇「コルナ」の能記は「人差し指と小指を立て、親指と中指と薬指はたたむ」だが、「所記」は「魔除けや侮辱の意味があるイタリアの風習」や「サタンのシンボル」がある。有名人の多くが何故か「コルナ」をやる。その意味は?後者の可能性が高いだろう。イタリアの風習が身に付く必然性がないからである。
〇という訳で、「コルナ」をやる世界中の有名人が、「悪魔主義者」「サタニスト」「悪魔崇拝者」であるとの指摘は合理的な推測である。「陰謀論」と決めつける方が根拠がない。有名人が「コルナ」をやるのは否定できない事実だし、何故彼らが「コルナ」をやるのかについて合理的な説明がないからである。
〇サタニズム=悪魔主義には、有神論的サタニズムと無神論的サタニズムの二種類がある。ラヴェイは後者だったが、「コルナ」サインをやる有名人らがいずれかは分からない。生贄儀式やオカルティズムを好むタイプは前者の可能性高いと見る。ちなみに剽窃魔の米国のサタニストを崇める某グループも前者(笑)
〇メディアなどは「陰謀論」云々と言うが、「何故世界中の有名人が同じハンドサインをやるのか」については何ら合理的な説明がない。同じハンドサインをやる理由として「思想が共有されているから」という説明は何ら論理の飛躍は無く、合理的な推測の範囲である。これを「陰謀論」と呼ぶ方がおかしい。
〇1960年代にサタン教会のアントン・ラヴェイが「コルナ」を「サタン」のシンボル・サインとして採用しているので、前述の「(有名人らによって)共有されている思想」として「サタニズム」などを想定するのは自然である。「欧米のエリートは悪魔主義者」であるという推測は決して誇大妄想の類ではない。
〇有名人がよくやるサインは「コルナ」以外だと「片目」のポーズも有名である。片目を隠したり、強調したりするポーズである。具体的には「片目を覆う」「片目を指で囲む」などがある。これも何故か有名人らがSNSなどでよくやっているが、合理的説明はない。「右目か左目か」という点もポイントだろう。
〇ハンドサインの類は特定の者にしか分からない「業界用語」の如きものと捉えると、分かり易いのではなかろうか。「符牒」とも言う。フリーメイソンなど秘密結社では独特の符牒がある事が知られている。「コルナ」や「片目」は「符牒」の類だと見る。「忠誠」の表明、仲間内での意思疎通等が想定出来る。
〇イッパシの「業界人」振りたいが為に「業界用語」(「ザギンでシースー」の類笑)を使いたがるのと同じで、「コルナ」や「片目」をやって「イッパシの裏権力メンバー」とアピールするという事ではあるまいか?「喜んで裏権力に魂を売るし、尻尾振りまっせ」が、あのサインの「所記」なのやもしれぬ。
〇「隠したいけど、アピールしたい」というアンビバレンツ(両義的)な自己顕示欲が、裏権力メンバーの特徴である。陰謀をやるなら完全に隠蔽して一切のシンボルを使わないのが合理的と思われるが、彼らは自己顕示欲を抑え切れずに必ず何らかのアピールをする。指摘されると「陰謀論」と言って否定する。
〇裏権力メンバー又はその走狗は「相互に矛盾する思想を同時に信じる事ができる」という「ダブルシンク(二重思考)」なる「特技」を持ってるようだが、「隠したいけど、アピールしたい」もこれに類するやもしれぬ。※ダブルシンクの例。「愛国」を唱えながら「世界連邦(国家の廃絶)」を推進する..等。
〇「ダブルシンク」と「ダブルバインド」は異なる。ダブルバインド(二重拘束)とは、矛盾する命令を与えられた時に生じる精神的な葛藤状態を指す。この状態は暗示に脆弱となるらしい。その点ダブルシンクには「葛藤」がなく、暗示についてはむしろ「完全にかかっている」状態と言ってよいかもしれない。
〇「両建」もそうだが、裏権力の謀略手法は全て「二つに分ける」二元論を基本としていると分析する。「分割して支配せよ」戦略も然り。物事を言語的に認識するとは、「二つに分ける=分節化する=概念的に認識する」事だが、この性質をフルに悪用したものが、裏権力の陰謀理論の根本原理だと見ている。
〇「二つに分ける」とは何かを真っ二つに斬る事に似ている。言葉が持つ「分節化」とはそういう作用だと見る。「斬る」の反対は「斬らない」。謂わば「無刀」である。だが、刀の探求あってこそ「無刀の極意」があるように、言葉を考察・分析し尽してこそ言葉の性質と限界が見極められるのではなかろうか。
〇裏権力の謀略手法は全て「二つに分ける」二元論を基本とすると書いたが、彼らの発想では、二つに斬るか、斬った上で「一つ」にしようという発想しかない。前者が「両建」であり、後者が「ワンワールド」である。彼らには端から「斬らない」という発想はない。言葉に於ける「無刀」は「無分別」である。
〇言葉は「斬る」作用があるので、言葉を発すれば争いも起き得る。昔から「口は禍の元」という通り。だが、刃物を正しく使えば料理などが作れるように、言葉も正しく使うと人の役に立つ。「二つに分ける」も然り。物事の認識に資する一方、「斬る」に執着すると「両建」のような狡猾な術策にまで至る。
〇「両建」「分割支配」など何事も「二つに分ける」事を基本とする裏権力の陰謀理論は、言葉・概念の「斬る」作用をとことん悪用したものと言えよう。彼らには「斬らない」はない。「斬る」(両建。正反合の「正」「反」)か、「斬った上で一つにする」(ワンワールド。正反合の「合」)かだけである。
〇「「斬る」に執着する」結果生じるのが「実体論」だと言える。言葉で分節化した対象を実体視する事で生じる。「二つに分ける(斬る)」作用と「実体論」は不可分の関係である。前者がなければ後者は成り立たないからである。言葉の作用が停止すれば実体論も成立しない。かくして二元論と実体論は密接。
〇「分断に気をつけよ」とはよく言われる事だが、「分断」の危険はそもそも言葉自体に胚胎している。「二つに分ける」という「斬る」作用を持っている以上、言葉を発すればそこに「分断」の危険はある。それを最大限に利用するのが「両建」「分断支配」。言葉から成る「意見」の違いを利用するのである。
〇言葉を発すれば、別に争う気は無くても、それを気に入る人と気に入らない人が出てくるであろう。よかれと思っての発言でも曲解されて悪意を向けられる事もある。これは言葉が持つ不可避的危険だと考える。そこに付け込んで最大限に利用して相互に争わせるのが「両建」「分断支配」の罠だと分析する。
〇言葉は事物を区別する作用がある。次に区別した事物に対して「良い」「悪い」等の価値判断が働く。「良い」と思えば「好き」、「悪い」と思えば「嫌い」の感情が働くという機制。
〇この認識論的な機制(メカニズム)を仮に「分別」の作用と呼ぶ事にする。この「分別」の作用はある程度まで自然な事である。これがあるから文化・文明も成り立つし国家・社会も維持される。だが、この「分別」の作用を過剰に煽って争いを惹起・拡大して混乱状態にまで陥らせるのが「両建」の罠である。
〇「分別」の作用が完全に停止した「無分別」は文字通りの「思考停止」である。「無分別」だと言葉が働かないので争いは起きない。その代わり発展性もない。一方、「分別」の作用が過剰過ぎると争いが収まらない。中庸を失さずに、「分別」に執着せずして「分別」を用いるのが適正・中正な道だと考える。
〇「分別」の限界を知りつつ執着せずに「分別」を用いる事も「無分別」と呼んでよいと思う。具体的には「分別」を絶対視する実体論的思考や形而上学的思考、観念・概念の実体視に陥らずに思考する事である。文字通り完全に思考停止した状態は「思考誘導」への守りは完璧だが、攻めに転じる事ができない。
〇よく「分節化」と書いているが、「分節化」の「分節」は「分割」「分断」とは異なる。分割や分断が物事を完全に切り分ける事なのに対して、分節は「節目」を入れつつも繋がりは切れてない状態である。例えば、腕と胴体・手と腕などは骨と骨の繋目(関節)を通じて節目により分かれつつ繋がっている。
〇「言葉には斬る作用がある」と書いたが、「分節化」は「斬る」のは言葉・概念上だけで実際には「斬れてない」という事態を示す的確な表現と言える。「言葉による分節化」は、この表現自体が言葉の相対性を示している。この性質を忘却して、本当に「斬る」「斬れている」と見る思考が「実体論」である。
〇「言葉には斬る作用がある」は実は比喩的表現であり、「斬る」とは意識・言葉・概念の上で区別化している事態に過ぎず、物事を完全に切り分ける「分割」「分断」ではなく、あくまで「分節」に過ぎない。言葉の分節化作用を自覚せず言葉に執着し過ぎると、「斬れている」と錯覚する実体論的思考に陥る。
〇言葉による「分節化」は現実に事物を斬る(斬り取る)のではなく、事物の間に(意識・概念の上で)筋目を入れる事である。この両者を混同して、言葉通りに世界が「斬れている」と見なすのが、実体論的思考である。換言すると「言葉の実体視」である。西洋近代の要素還元主義などはこれの典型である。
〇「節を分ける」と書いて「分節」。節を分けるだけで断ち切る訳ではない。骨と骨が関節を介して繋がっているように、「分節」は関係が切れている「分割」「分断」とは異なる。「分節」ならざる「分割」「分断」は要素還元主義などの「二つに分けて組み立てる」という西洋近代知のあり方そのものである。
〇意識・概念の上で(認識世界を)「完全に斬った」又は「完全に斬れている」と思って言葉を使うのが実体論的思考なのに対し、言葉は(認識世界を)「分節化」しているに過ぎないと自覚しつつ執着せずに「斬らずに(実体論に陥らずに)」言葉を用いる思考は仮に「無分別的思考」と呼ぶ事も出来ると思う。
〇「分割・分断に非ず分節である」という捉え方は、「分割」「分断」を過剰に煽る事でなされる「両建」「分割統治」「分断支配」を打ち破る思考方法になり得ると考える。言葉無くして思考は成立しないが、言葉の相対性を自覚しつつ言葉を用いれば、言葉の作用を悪用した「両建」の罠を回避できると思う。
〇「言葉による分節化は」は、事物を斬るのではなく、(意識・概念の上で)事物の間に筋目を入れる事に過ぎない。
完全に「斬る」「斬れている」と思い込むと、「事物はそれ自体で存在する」という思念が生じ、これが「実体論」になる。要素還元主義や主客二元論等を基本とする西洋近代知はこれである。
〇「斬る」と物事の区別が生じる。区別が生じると「良い」「悪い」などの価値判断が生じる。価値判断が生じると「好き」「嫌い」という感情が生じる。「好き」は「欲」に、「嫌い」は怒りになる。これが増長すると執着となって自他を苦しめるに至る。だが、「斬らない」ならばこの一切の過程が生じない。
〇と、言うのは簡単だが、言葉による区別、良い・悪いの価値判断、好き・嫌いの感情、欲や怒り等々は人間にとって不可避なものと言える。それによって文化・文明も成り立ち、人間悪も生じる。過剰に煽られて「両建」に付け込まれないように注視しつつ、執着をし過ぎずに言葉を用いるほかはないだろう。
〇西洋文明の根本的部分にある「ロゴスは神である」という言語観は、先述の表現で言うと、言葉で完全に「斬る」「斬れている」と見なす発想である。この言語観では、言葉は意識・概念上での「分節化」ではなく、言葉(特に名詞)の違いは事物の区別そのものと同一視される。これが実体論的思考である。
〇形而上学的独断を絶対視する者・イデオロギー的裁断に執着する者などは皆「ロゴス(言葉・論理・理念等々)は神」と見なしている者と言えない事も無い。「ロゴスは神」と言う程言葉を実体視すると、「ロゴス」たる言葉を吟味したり、その限界や性質、相対性を分析・考察する道が端から閉ざされている。
〇自称グノーシス主義者みたいな輩による「基督教批判」は、かかる西洋文明の大枠内からする表層的な「批判」に過ぎない。彼らもまた形而上学的独断を絶対視し執着している。挙句にはサタニストにまでなる。「思考の大枠を吟味し批判する」という発想がないと、こういう風に用意に両建に絡めとられる。
〇自称グノみたいな連中は、「猶太教・基督教批判」の真似はするが、根本には触れない。彼らもまた同じ前提に立脚している事を無意識の内に自覚し恐れているのかもしれない。「言葉で斬って、二元論に陥り、両建に嵌められる」というコースを回避しない限りは、何をやっても絡めとられる可能性が高い。
〇先述の実体論的思考では、実は「(言葉で認識世界を)斬った」という意識すらなく「初めから斬れている」と思っているというのが正確であろう。つまり「斬れている=独存している事物」をそのまま認識したと考える。経験可能な事物なら大して問題はないと思うが、形而上学的対象とかだと危うくなる。
〇何故特に形而上学的な対象だと「言葉通りに事物が独存している」と思い込むと「危うい」のかと言うと、確かめようがない「存在」や世界観を絶対視して排他独善的になりかねないからである。そういうものは論理的に「否定」も「肯定」もできない。「信じる」「信じない」の話にしかならないのである。
〇“コロナ後”イデオローグとしてメディアで持てはやされるユヴァル・ノア・ハラリは「フィクションがあるから人類は地球の支配者になれた」という趣旨の“人類史”的観点から「全ての人を一つに結び付ける新たなフィクションが必要である」みたいな主張をしている。これもワンワールド誘導としか思えない。
〇「フィクション」は表象作用の産物。人間の表象には国や民族、文化などが強く影響するので、「全人類が共有するフィクション」などは文字通り「虚構」であろう。「貨幣」を人類共通のフィクションの代表例とするが、「世界統一通貨」は存在しない。それを作らんとする企みにとっても好都合な説だろう。
〇「表象で全人類を結びつける」事などできないと考える。僅かでも表象や概念的思考が動くと認識世界に亀裂が入り(分節化し)、二元相対の世界が成立する。東洋ではこれを「分別」と言う。逆に、表象も概念的思考も未発の状態及び表象や概念的思考の限界を弁えて執着していない状態を「無分別」と言う。
〇「フィクション」で「全人類を結びつける」という発想自体に争いの種が胚胎していると考える。表象や概念は物事を「二つに分ける」作用なので少しでも表象や概念の作用が生じれば二元相対化は不可避である。その事を自覚しているか否かであろう。自覚した上で表象や概念を用いる分には問題がないが、
〇自覚せずに「表象で全人類を結びつけ」ようとするのは危険である。「一」を志向する事自体が「二」を包含する。即ちワンワールド志向自体が争いや暴力を生み出す。下手な考え休むに似たり。表象や概念謂わば「知」の限界を自覚し少し謙虚になれば「ワンワールド」などという傲慢な発想は出てこない。
〇シンボルは表象や概念と不可分なので、「分別」は「シンボルが成立する領域」、「無分別」は「シンボルが成立しない領域」だと言える。シンボルが担う「意味」と不可分の表象や概念がないとシンボリズムも成り立たない。この辺が根本的なシンボリズム批判の鍵だと思う。
「「表象で全人類を結びつける」事などできないと考える。僅かでも表象や概念的思考が動くと認識世界に亀裂が入り(分節化し)、二元相対の世界が成立する。東洋ではこれを「分別」と言う。逆に、表象も概念的思考も未発の状態及び表象や概念的思考の限界を弁えて執着していない状態を「無分別」と言う。」
〇「それに何の意味があるの?」という質問はシンボリズムが機能する領域でのみ出てくる。何らかの「意味」(思想や主張も含む)を表すのが「シンボル」の機能だからである。全てのシンボルが停止し「意味」が成立しない領域を設定する事はシンボリズムを根本的に批判する有効な方法になるかもしれない。
〇「全てのシンボルが停止し「意味」が成立しない領域」とは、例えば東洋で古来より伝わる「無分別」とか「未発の中」などである。「無分別」や「未発の中」を現実の状態として実行するのは至難の業だが、「現実を批判する為の設定」、シンボルが既発の状態を批判的に考察する立脚点と捉えると納得する。
〇よく言われる「二元論」の根底にあるのが「分別」(言葉・概念で二つに分ける事=分節化)である。二元論の問題はよく指摘されるが、原基的な場面に遡ると結局は「分別」の絶対視だと言える。概念で二項(Aと非A)に切り分けるまでは問題ないが、二項のそれぞれに執着して絶対視すると二元論が成立する。
〇二元論の元にあるのは「分別」。概念「A」を立てると同時に「非A」も成立する。概念「A」を立てる事は認識の世界を「A」と「非A」に「分ける」事である。ここまでは人間の概念的思考に不可避的な過程である。次の段階で「A」に執着し絶対視すると「A」が実体視されて「A」と「非A」の二元論が生じる。
〇「分別」は「判断」と換言可能。概念「A」は「これはAである」という判断の形式でも表せる。判断を絶対視する事が二元論に繋がると分かる。例えば特定の世界観(「○○は××だ」という「判断」の積み重ねで成り立つ)を絶対視すると二元論に陥る。例え「一元論」でも執着し絶対視すると二元論的になる。
〇「一元論」という判断を絶対視すると「一元論と一元論以外」の二元化が絶対視されてくるので二元論的になる。例えば、「善」という概念を実体視する程「善以外」即ち「悪」も実体視されてきて善悪二元論の成立に至る。「一」に執着すると「二」(対立)に帰結する。ワンワールドがまさにそれである。
〇「一」なる世界に執着すればする程「多」なる世界が許せなくなる。そして「一」なる世界を実現する為に「多」なる世界を破壊しようとする衝動が生じる。このように「一」に執着する程「一以外」も強烈に意識され「否定」の方向で執着するようになる。だからワンワールド主義者は固有の国や文化を憎む。
〇「世界は一つ」という事自体が一つの「判断」である。判断は「二つに分ける」作用なので「世界は一つ」と言う事で実際には「二つ」に分けている。そうしたくなければ黙っていればよい。だが、黙っていれば世界を「我が物」に出来ない。故に二元相対の争いを引き起こして「世界を一つ」にしようとする。
〇「一つの世界」「国境なき世界」などと言いつつ争いを起すのがワンワールド主義者である。「一つの世界」「国境なき世界」という判断に執着すれば、固有の国や文化が邪魔になるのは必定。あらゆる手を使って破壊しようとする。「一つの世界」を叫ぶ連中こそが争いを引き起こし、世の中を破壊している。
〇第一主義の台頭は(例え両建だとしても)グローバリズムが世界中の民衆の生活を破壊してきた事への反作用でしかない。原因と結果を転倒している。人の領域を土足で踏み荒らすワンワールド衝動こそが争いを生み出す根本原因である。
〇ジャイアンの有名な台詞「俺の物は俺の物。お前の物も俺の物。」がワンワールドの精神である。「国境がない」とは人の領域を侵して「お前の物も俺の物」とする事であり、「ワンワールド」は「全世界が俺の物」とする事である。そんな横暴に対して反発が起きるのは当然。ワンワールド衝動が争いの元凶。
〇「分別」は「執着」に結び付く傾向がある。何かを分別すれば、それに対する執着が生じる。分別を絶対視する程強い執着が生じる。「ワンワールド」に執着すると、文字通り「全世界を我が物にする」というとんでもない執着になる。例えば「アフターコロナ」なる分別で好き勝手に世界を改造しようとする。
〇「○○主義が世界を救う」みたいな物言いには注意が必要である。「主義」は全て「分別」のさかしらにて拵えられたもの。人間の物の考え方の一つとして参考程度にはなっても、概念的思考=分別の限界を弁えずに無制限に「世界」や「人類」の総体を包括的に「救う」などと僭称する裏には支配欲が見える。
〇裏権力の各種思想ツールは皆その類である。「概念的思考=分別の限界を弁えずに無制限に「世界」や「人類」の総体を包括的に「救う」などと僭称する」主義・思想が取り揃っている。次々に新手が出てきて、「今からは○○の時代」みたいな断定的結論を押し付ける。所詮は「分別」のさかしらに過ぎない。
〇「分別」の反対の「無分別」も言葉として強く意識すると「分別」になる。概念的思考に限界があるからと言って概念的思考を無理に無くしてしまおうと執着する事もまた「分別」だろう。概念的思考の限界を弁えつつ絶対視せず執着せず自然に用いるのがよいと思う。それも「無分別」と言えるかもしれない。
〇「知識」の考察。「知識」は「○○は××である」という「判断」を記憶として定着させたものと捉える。つまり「知識」も「分別=判断」の産物。知識は大事だが、知識の絶対視は主義・思想の絶対視と同じ結果に。例えば「知識」を絶対視する自称グノーシス主義者は一神教原理主義者と同じ振る舞いをする。
〇「知識」は過去の「判断」の「残りかす」みたいな所がある。「かす」は語弊があるが、ある状況に於ける動態的な「判断」を記憶として固定化させたものである事に変わりはない。故に「知識」を絶対視する事は出来ない。知識を無視・軽視するのも絶対視するのも「今・此処」に於ける思考の枷になり得る。
〇「知識至上主義」的な自称グノ主義者みたいな連中が「知識」にのぼせ上がってしまい、肝心の独立的思考が働かなくなっているのは格好の実例である。知識は大事だが、絶対視し執着するとかえって思考を縛る結果になる。「知識」「グノーシス」にのぼせ上がると逆に「あ○ま悪いひと」になる恐れがあり。
〇仏蘭西革命も「知識の絶対視は主義・思想の絶対視と同じ結果に」の実例だろう。仏蘭西革命時の大東社系の革命主義者・啓蒙主義者らは「理性」「知性」「知識」を崇拝する徒輩だったが、その為した所は彼らが批判対象としたカトリック絶対主義の異端審問や魔女狩りと同様の排他的独善的な蛮行であった。
〇批判や疑問を頭ごなしに封殺する自称リベラルらの態度も然り。会話の成立しなさ具合はほぼカルトと同じである。「私は合理的で科学的で理性的です」みたいな事を大真面目に言ったりする。主にこういう類の連中が「コロナ」や「PCR検査」に関する疑問の提示に「陰謀論」と連呼して火消しを行っている。
〇「科学主義的」と「科学的」は異なる。自称リベラルは「科学主義的」ではあるが、「科学的」ではない。事象を検証し考察する批判的な思考を行なう事が「科学的」な態度だと考える。その為にはまずは疑問を持つ事が大事である。その「疑問」に嘲笑を浴びせて封殺するのが「科学主義」者の態度である。
〇自称グノーシス主義者はフリーメイソンで言うと英国系だが、科学主義的な自称リベラルは仏蘭西系に分類出来る。要するに仏蘭西革命時に暴れまわった大東社系の革命主義者・啓蒙主義者の流れ。彼らの問答無用という口吻は独裁や粛清を彷彿とさせる。実際彼らは強権発動に抵抗がなく自粛強行に賛同する。
https://kokuhiken.exblog.jp/31790711/
〇随分前のツイートだが、反響があった。裏権力の結社員連中は秘密を隠そうとする一方でシンボルやサインなどで存在を誇示しようとするアンビバレンツな奇癖を持っている。特に「目」のシンボルを多用する。芸能人など著名人はSNSに自らの片目を隠して写真をアップする事が多い。
「気味の悪い目玉だらけの電通の床。「結社」をアピールし過ぎだ。国際秘密力の走狗はシンボルで自己顕示する。裏権力連中は基本的にオカルトかぶれ。マスコミを支配し日本人に対して心理戦を仕掛ける事は魔術を仕掛けているに等しい。攘夷あるのみだ。」

〇注意深く観察すれば「片目」のシンボルが異常に多い事に気づくはずである。ドル札の裏面、企業のロゴ、片目を隠して写真に写る著名人、ミュージックビデオなど。あらゆる所に見つかる。何故「片目」なのかは決して説明されない。裏権力・結社のメンバーやその関係者である事を示す符牒だと見ている。
〇古代エジプトの神話でホルス神の左目を「ウジャトの目」、右目を「ラーの目」と言う。西洋文明は古代地中海・オリエント文明を源流とするが、その中でもエジプトは重要な一角であり多大な影響を受けている。よって「片目」のシンボルもここから来ていると思われる。そこに如何なる意味を込めているか。
〇ホルスの左目である「ウジャトの目」はホルスの元を離れた後にエジプト全土を旅して見聞を深め、後にトート神に癒されてホルスの元に戻ったとされる。この神話からウジャトの目は「知恵」の象徴とされる。一方の右目の「ラーの目」は文字通り太陽神ラーの象徴であり「権威」を示すものと推測される。
〇「符牒」とは何か。「大辞林」によると、「① 意味をもたせた文字や図形。記号。符号。 ② 仲間だけに通用する言葉や印。合言葉。」。シンボルやサインはまさに裏権力関係者である事を示す符牒として用いられているのではないか。https://kotobank.jp/word/符丁・符帳・符牒-373879
〇西洋の結社員が用いる「片目」のシンボルは確かに古代エジプトが元ネタと思われるが、古代エジプト人と西洋の結社員では込める意図やニュアンスが異なる可能性もある。そこは慎重に見極めるべきであろう。ここで役に立つのが記号分析の手法である。記号の「能記」と「所記」の区別と相互の関係の吟味。
〇シンボルやサインも記号の一種なので必ず「能記」と「所記」から成る。「片目のシンボル」で言うと、「右目」「左目」の形が「能記」、そこに込められた意味や意図が「所記」である。「右目か左目か」という造形の違いは能記、右目と左目にそれぞれ如何なる意味(「知恵」の象徴等)があるかは所記。
〇記号は主客連関態である。主観的要素と客観的要素が協働して機能するという意味である。記号の能記面は客観的な造形を持っているが、そこに如何なる意味を込めるかはその記号を用いる者の主観に依存する。故に記号の能記だけを眺めるのではなく、その記号を用いる者の意図を含め総合的に解析すべき。
〇「片目のシンボル」だと、ネタ元と思われるエジプト神話を知るだけで事足れりとせずに、秘密結社員らが如何なる意図でそのシンボルを用い、それに如何なる意味を込めているかを解析する。その為には単にシンボルだけでなく、裏権力・結社員らの思想と行動、企みの総体、「文脈」を勘案する必要がある。
〇記号分析の方法論に関する考えは以下の記事にまとめてある。参考まで。
【陰謀追及の記号学①】https://kokuhiken.exblog.jp/31659589/
【陰謀追及の記号学②】https://kokuhiken.exblog.jp/31724915/
〇「能記」「所記」という語について。これらは元々は小林英夫という言語学者がソシュール言語学の「シニフィアン」(言語の表現面。第一義的には「音声」)、「シニフィエ」(言語の内容面。概念・観念)の訳語として作ったものだそうである。能記と所記で「表すもの」と「表されるもの」を示している。
〇だが、前にも書いたように、吾人は「能記」「所記」をソシュール言語学的な厳密な意味では使っていない。能記はほぼ同じだが、所記の方は「言葉の内容面=概念・観念」だけでなく実質・実態・実物の意味も含めている。この点は儒学の「名・実」の「実」、唯識の「名・義」の「義」に近い意味である。
〇「能記」「所記」という語に関する個人的な用法、考え方については以下の記事で説明してある。
https://kokuhiken.exblog.jp/31724915/
〇「ラーの目」を源流とする「右目」が「権威・権力」を表すとしたら「左目」は「反権威・反権力」を表すのではという鋭いご指摘。右目と左目の両建である。裏権力は「権威・権力」だけでなく「反権威・反権力」をも用いる事に注意する必要がある。例えば一神教に対してグノーシス主義や啓蒙主義がある。
〇左目である「ウジャトの目(ウアジェトの目)」は「知恵」の象徴とされる。知識、知性、理性、啓蒙などもこれに類する。これらは権威を破壊する事にも用いられ得るので確かに「反権威・反権力」と符合する面がある。故に左目は啓蒙主義などのシンボルになり得る。「啓蒙の光」「理性の光」云々である。
〇裏権力は「権威・権力」と「反権威・反権力」の両方を使いこなす。「権威・権力」によって人々を従わせ、「反権威・反権力」で既存の秩序を破壊する。そして「新秩序」を作ろうとする。NWO戦略とは「権威・権力」と「反権威・反権力」の弁証法的運動である。いずれをも駆使し、NWOに誘導しようとする。
〇盲目的な権威主義は論外だが、単純な反権威主義にも両建の罠が仕掛けられている可能性がある。「カイカク」派を見るべし。また「反権威を掲げる権威主義」というものもある。過去の革命運動の歴史を見ると明らかであろう。一面的な見方では裏権力の両建戦術に嵌められる。本体を見極め、破両建する。
〇明治以来の進歩主義に付け込み既成秩序の打破を叫ぶ「カイカク」派の手口は先述の「左目」的なやり方と言える(例えば都構想推進派など)。その一方で秩序破壊の後に作ろうとする体制は極めて専制的であり、その局面では「権威」を用いる。このように裏権力の手口は常に「右目」「左目」の両建である。
〇権威を掲げて反権威主義を鎮圧すればよいとする右派的発想も、反権威を掲げて権威や秩序を破壊すればよいとする左派的発想も、偏りがあり、複雑怪奇な両建戦術に対抗する事は出来ない。前者は英国系フリーメイソン、後者は仏蘭西系フリーメイソンの範疇に取り込まれる。左右両建の実質はこれである。
〇「右目」「左目」とは、このように裏権力派閥の中でも権威主義的な一派と反権威主義的な一派の思想をそれぞれ象徴しているのではないか?というのが一つの仮説である。実際、「片目」は基督教でもフリーメイソンでも用いられてきた。地下に潜行したサバタイ派・フランキストも用いるという説もある。
〇諸説紛々だが、とにかく裏権力及びその走狗が「片目」のシンボルを多用している事だけは確かである。そうでなければ世の中にこれ程「片目」のシンボルが氾濫するはずがない。SDGsなどいつの間にか世に喧伝されているものが多い。「片目」のシンボルは特に何の説明もなく、方々に氾濫せしめられている。
〇仏蘭西の風刺画関連事件も左目と右目の抗争とみる事が出来る。大東社国家・仏蘭西は啓蒙主義を国是とする。その一方で一神教徒であるイスラム教徒の移民を大量に入れる。ここに啓蒙主義と一神教の衝突が引き起こされる。風刺画の事件はその表れと見る事が出来る(偽旗やマッチポンプの可能性も含む)。
〇これまで述べてきた事はあくまでも仮説の一つに過ぎない。「右目を強調する者が必ず権威主義的であり、左目を強調する者が必ず反権威主義的であって、例外はない」とは現時点では断言できない。著名人らの片目アピールにどこまで意識的な左右の法則性があるかはもっと詰めて検証していく必要がある。
〇芸能人や政治家、王族などの世界中の有名人がよくやっている「人差し指と小指を立て、親指と中指と薬指はたたむ」ハンドサインは「コルナ」と言う。これも「能記」と「所記」から成る記号の一種である。「能記」を「手」という身体の部位で表現している訳である。
【コルナ】https://ja.wikipedia.org/wiki/コルナ
〇古代ギリシャにまで遡るとされ、元々はイタリアの風習だそうである。だが、1960年代のニューエイジの一角である悪魔教会のアントン・ラヴェイが採用して以降は「悪魔のサイン」という所記が付け加えられた。世界中の有名人がイタリアの風習をやる必然性はないので後者の意味の可能性が高いと思われる。
〇「コルナ」の能記は「人差し指と小指を立て、親指と中指と薬指はたたむ」だが、「所記」は「魔除けや侮辱の意味があるイタリアの風習」や「サタンのシンボル」がある。有名人の多くが何故か「コルナ」をやる。その意味は?後者の可能性が高いだろう。イタリアの風習が身に付く必然性がないからである。
〇という訳で、「コルナ」をやる世界中の有名人が、「悪魔主義者」「サタニスト」「悪魔崇拝者」であるとの指摘は合理的な推測である。「陰謀論」と決めつける方が根拠がない。有名人が「コルナ」をやるのは否定できない事実だし、何故彼らが「コルナ」をやるのかについて合理的な説明がないからである。
〇サタニズム=悪魔主義には、有神論的サタニズムと無神論的サタニズムの二種類がある。ラヴェイは後者だったが、「コルナ」サインをやる有名人らがいずれかは分からない。生贄儀式やオカルティズムを好むタイプは前者の可能性高いと見る。ちなみに剽窃魔の米国のサタニストを崇める某グループも前者(笑)
〇メディアなどは「陰謀論」云々と言うが、「何故世界中の有名人が同じハンドサインをやるのか」については何ら合理的な説明がない。同じハンドサインをやる理由として「思想が共有されているから」という説明は何ら論理の飛躍は無く、合理的な推測の範囲である。これを「陰謀論」と呼ぶ方がおかしい。
〇1960年代にサタン教会のアントン・ラヴェイが「コルナ」を「サタン」のシンボル・サインとして採用しているので、前述の「(有名人らによって)共有されている思想」として「サタニズム」などを想定するのは自然である。「欧米のエリートは悪魔主義者」であるという推測は決して誇大妄想の類ではない。
〇有名人がよくやるサインは「コルナ」以外だと「片目」のポーズも有名である。片目を隠したり、強調したりするポーズである。具体的には「片目を覆う」「片目を指で囲む」などがある。これも何故か有名人らがSNSなどでよくやっているが、合理的説明はない。「右目か左目か」という点もポイントだろう。
〇ハンドサインの類は特定の者にしか分からない「業界用語」の如きものと捉えると、分かり易いのではなかろうか。「符牒」とも言う。フリーメイソンなど秘密結社では独特の符牒がある事が知られている。「コルナ」や「片目」は「符牒」の類だと見る。「忠誠」の表明、仲間内での意思疎通等が想定出来る。
〇イッパシの「業界人」振りたいが為に「業界用語」(「ザギンでシースー」の類笑)を使いたがるのと同じで、「コルナ」や「片目」をやって「イッパシの裏権力メンバー」とアピールするという事ではあるまいか?「喜んで裏権力に魂を売るし、尻尾振りまっせ」が、あのサインの「所記」なのやもしれぬ。
〇「隠したいけど、アピールしたい」というアンビバレンツ(両義的)な自己顕示欲が、裏権力メンバーの特徴である。陰謀をやるなら完全に隠蔽して一切のシンボルを使わないのが合理的と思われるが、彼らは自己顕示欲を抑え切れずに必ず何らかのアピールをする。指摘されると「陰謀論」と言って否定する。
〇裏権力メンバー又はその走狗は「相互に矛盾する思想を同時に信じる事ができる」という「ダブルシンク(二重思考)」なる「特技」を持ってるようだが、「隠したいけど、アピールしたい」もこれに類するやもしれぬ。※ダブルシンクの例。「愛国」を唱えながら「世界連邦(国家の廃絶)」を推進する..等。
〇「ダブルシンク」と「ダブルバインド」は異なる。ダブルバインド(二重拘束)とは、矛盾する命令を与えられた時に生じる精神的な葛藤状態を指す。この状態は暗示に脆弱となるらしい。その点ダブルシンクには「葛藤」がなく、暗示についてはむしろ「完全にかかっている」状態と言ってよいかもしれない。
〇「両建」もそうだが、裏権力の謀略手法は全て「二つに分ける」二元論を基本としていると分析する。「分割して支配せよ」戦略も然り。物事を言語的に認識するとは、「二つに分ける=分節化する=概念的に認識する」事だが、この性質をフルに悪用したものが、裏権力の陰謀理論の根本原理だと見ている。
〇「二つに分ける」とは何かを真っ二つに斬る事に似ている。言葉が持つ「分節化」とはそういう作用だと見る。「斬る」の反対は「斬らない」。謂わば「無刀」である。だが、刀の探求あってこそ「無刀の極意」があるように、言葉を考察・分析し尽してこそ言葉の性質と限界が見極められるのではなかろうか。
〇裏権力の謀略手法は全て「二つに分ける」二元論を基本とすると書いたが、彼らの発想では、二つに斬るか、斬った上で「一つ」にしようという発想しかない。前者が「両建」であり、後者が「ワンワールド」である。彼らには端から「斬らない」という発想はない。言葉に於ける「無刀」は「無分別」である。
〇言葉は「斬る」作用があるので、言葉を発すれば争いも起き得る。昔から「口は禍の元」という通り。だが、刃物を正しく使えば料理などが作れるように、言葉も正しく使うと人の役に立つ。「二つに分ける」も然り。物事の認識に資する一方、「斬る」に執着すると「両建」のような狡猾な術策にまで至る。
〇「両建」「分割支配」など何事も「二つに分ける」事を基本とする裏権力の陰謀理論は、言葉・概念の「斬る」作用をとことん悪用したものと言えよう。彼らには「斬らない」はない。「斬る」(両建。正反合の「正」「反」)か、「斬った上で一つにする」(ワンワールド。正反合の「合」)かだけである。
〇「「斬る」に執着する」結果生じるのが「実体論」だと言える。言葉で分節化した対象を実体視する事で生じる。「二つに分ける(斬る)」作用と「実体論」は不可分の関係である。前者がなければ後者は成り立たないからである。言葉の作用が停止すれば実体論も成立しない。かくして二元論と実体論は密接。
〇「分断に気をつけよ」とはよく言われる事だが、「分断」の危険はそもそも言葉自体に胚胎している。「二つに分ける」という「斬る」作用を持っている以上、言葉を発すればそこに「分断」の危険はある。それを最大限に利用するのが「両建」「分断支配」。言葉から成る「意見」の違いを利用するのである。
〇言葉を発すれば、別に争う気は無くても、それを気に入る人と気に入らない人が出てくるであろう。よかれと思っての発言でも曲解されて悪意を向けられる事もある。これは言葉が持つ不可避的危険だと考える。そこに付け込んで最大限に利用して相互に争わせるのが「両建」「分断支配」の罠だと分析する。
〇言葉は事物を区別する作用がある。次に区別した事物に対して「良い」「悪い」等の価値判断が働く。「良い」と思えば「好き」、「悪い」と思えば「嫌い」の感情が働くという機制。
〇この認識論的な機制(メカニズム)を仮に「分別」の作用と呼ぶ事にする。この「分別」の作用はある程度まで自然な事である。これがあるから文化・文明も成り立つし国家・社会も維持される。だが、この「分別」の作用を過剰に煽って争いを惹起・拡大して混乱状態にまで陥らせるのが「両建」の罠である。
〇「分別」の作用が完全に停止した「無分別」は文字通りの「思考停止」である。「無分別」だと言葉が働かないので争いは起きない。その代わり発展性もない。一方、「分別」の作用が過剰過ぎると争いが収まらない。中庸を失さずに、「分別」に執着せずして「分別」を用いるのが適正・中正な道だと考える。
〇「分別」の限界を知りつつ執着せずに「分別」を用いる事も「無分別」と呼んでよいと思う。具体的には「分別」を絶対視する実体論的思考や形而上学的思考、観念・概念の実体視に陥らずに思考する事である。文字通り完全に思考停止した状態は「思考誘導」への守りは完璧だが、攻めに転じる事ができない。
〇よく「分節化」と書いているが、「分節化」の「分節」は「分割」「分断」とは異なる。分割や分断が物事を完全に切り分ける事なのに対して、分節は「節目」を入れつつも繋がりは切れてない状態である。例えば、腕と胴体・手と腕などは骨と骨の繋目(関節)を通じて節目により分かれつつ繋がっている。
〇「言葉には斬る作用がある」と書いたが、「分節化」は「斬る」のは言葉・概念上だけで実際には「斬れてない」という事態を示す的確な表現と言える。「言葉による分節化」は、この表現自体が言葉の相対性を示している。この性質を忘却して、本当に「斬る」「斬れている」と見る思考が「実体論」である。
〇「言葉には斬る作用がある」は実は比喩的表現であり、「斬る」とは意識・言葉・概念の上で区別化している事態に過ぎず、物事を完全に切り分ける「分割」「分断」ではなく、あくまで「分節」に過ぎない。言葉の分節化作用を自覚せず言葉に執着し過ぎると、「斬れている」と錯覚する実体論的思考に陥る。
〇言葉による「分節化」は現実に事物を斬る(斬り取る)のではなく、事物の間に(意識・概念の上で)筋目を入れる事である。この両者を混同して、言葉通りに世界が「斬れている」と見なすのが、実体論的思考である。換言すると「言葉の実体視」である。西洋近代の要素還元主義などはこれの典型である。
〇「節を分ける」と書いて「分節」。節を分けるだけで断ち切る訳ではない。骨と骨が関節を介して繋がっているように、「分節」は関係が切れている「分割」「分断」とは異なる。「分節」ならざる「分割」「分断」は要素還元主義などの「二つに分けて組み立てる」という西洋近代知のあり方そのものである。
〇意識・概念の上で(認識世界を)「完全に斬った」又は「完全に斬れている」と思って言葉を使うのが実体論的思考なのに対し、言葉は(認識世界を)「分節化」しているに過ぎないと自覚しつつ執着せずに「斬らずに(実体論に陥らずに)」言葉を用いる思考は仮に「無分別的思考」と呼ぶ事も出来ると思う。
〇「分割・分断に非ず分節である」という捉え方は、「分割」「分断」を過剰に煽る事でなされる「両建」「分割統治」「分断支配」を打ち破る思考方法になり得ると考える。言葉無くして思考は成立しないが、言葉の相対性を自覚しつつ言葉を用いれば、言葉の作用を悪用した「両建」の罠を回避できると思う。
〇「言葉による分節化は」は、事物を斬るのではなく、(意識・概念の上で)事物の間に筋目を入れる事に過ぎない。
完全に「斬る」「斬れている」と思い込むと、「事物はそれ自体で存在する」という思念が生じ、これが「実体論」になる。要素還元主義や主客二元論等を基本とする西洋近代知はこれである。
〇「斬る」と物事の区別が生じる。区別が生じると「良い」「悪い」などの価値判断が生じる。価値判断が生じると「好き」「嫌い」という感情が生じる。「好き」は「欲」に、「嫌い」は怒りになる。これが増長すると執着となって自他を苦しめるに至る。だが、「斬らない」ならばこの一切の過程が生じない。
〇と、言うのは簡単だが、言葉による区別、良い・悪いの価値判断、好き・嫌いの感情、欲や怒り等々は人間にとって不可避なものと言える。それによって文化・文明も成り立ち、人間悪も生じる。過剰に煽られて「両建」に付け込まれないように注視しつつ、執着をし過ぎずに言葉を用いるほかはないだろう。
〇西洋文明の根本的部分にある「ロゴスは神である」という言語観は、先述の表現で言うと、言葉で完全に「斬る」「斬れている」と見なす発想である。この言語観では、言葉は意識・概念上での「分節化」ではなく、言葉(特に名詞)の違いは事物の区別そのものと同一視される。これが実体論的思考である。
〇形而上学的独断を絶対視する者・イデオロギー的裁断に執着する者などは皆「ロゴス(言葉・論理・理念等々)は神」と見なしている者と言えない事も無い。「ロゴスは神」と言う程言葉を実体視すると、「ロゴス」たる言葉を吟味したり、その限界や性質、相対性を分析・考察する道が端から閉ざされている。
〇自称グノーシス主義者みたいな輩による「基督教批判」は、かかる西洋文明の大枠内からする表層的な「批判」に過ぎない。彼らもまた形而上学的独断を絶対視し執着している。挙句にはサタニストにまでなる。「思考の大枠を吟味し批判する」という発想がないと、こういう風に用意に両建に絡めとられる。
〇自称グノみたいな連中は、「猶太教・基督教批判」の真似はするが、根本には触れない。彼らもまた同じ前提に立脚している事を無意識の内に自覚し恐れているのかもしれない。「言葉で斬って、二元論に陥り、両建に嵌められる」というコースを回避しない限りは、何をやっても絡めとられる可能性が高い。
〇先述の実体論的思考では、実は「(言葉で認識世界を)斬った」という意識すらなく「初めから斬れている」と思っているというのが正確であろう。つまり「斬れている=独存している事物」をそのまま認識したと考える。経験可能な事物なら大して問題はないと思うが、形而上学的対象とかだと危うくなる。
〇何故特に形而上学的な対象だと「言葉通りに事物が独存している」と思い込むと「危うい」のかと言うと、確かめようがない「存在」や世界観を絶対視して排他独善的になりかねないからである。そういうものは論理的に「否定」も「肯定」もできない。「信じる」「信じない」の話にしかならないのである。
〇“コロナ後”イデオローグとしてメディアで持てはやされるユヴァル・ノア・ハラリは「フィクションがあるから人類は地球の支配者になれた」という趣旨の“人類史”的観点から「全ての人を一つに結び付ける新たなフィクションが必要である」みたいな主張をしている。これもワンワールド誘導としか思えない。
〇「フィクション」は表象作用の産物。人間の表象には国や民族、文化などが強く影響するので、「全人類が共有するフィクション」などは文字通り「虚構」であろう。「貨幣」を人類共通のフィクションの代表例とするが、「世界統一通貨」は存在しない。それを作らんとする企みにとっても好都合な説だろう。
〇「表象で全人類を結びつける」事などできないと考える。僅かでも表象や概念的思考が動くと認識世界に亀裂が入り(分節化し)、二元相対の世界が成立する。東洋ではこれを「分別」と言う。逆に、表象も概念的思考も未発の状態及び表象や概念的思考の限界を弁えて執着していない状態を「無分別」と言う。
〇「フィクション」で「全人類を結びつける」という発想自体に争いの種が胚胎していると考える。表象や概念は物事を「二つに分ける」作用なので少しでも表象や概念の作用が生じれば二元相対化は不可避である。その事を自覚しているか否かであろう。自覚した上で表象や概念を用いる分には問題がないが、
〇自覚せずに「表象で全人類を結びつけ」ようとするのは危険である。「一」を志向する事自体が「二」を包含する。即ちワンワールド志向自体が争いや暴力を生み出す。下手な考え休むに似たり。表象や概念謂わば「知」の限界を自覚し少し謙虚になれば「ワンワールド」などという傲慢な発想は出てこない。
〇シンボルは表象や概念と不可分なので、「分別」は「シンボルが成立する領域」、「無分別」は「シンボルが成立しない領域」だと言える。シンボルが担う「意味」と不可分の表象や概念がないとシンボリズムも成り立たない。この辺が根本的なシンボリズム批判の鍵だと思う。
「「表象で全人類を結びつける」事などできないと考える。僅かでも表象や概念的思考が動くと認識世界に亀裂が入り(分節化し)、二元相対の世界が成立する。東洋ではこれを「分別」と言う。逆に、表象も概念的思考も未発の状態及び表象や概念的思考の限界を弁えて執着していない状態を「無分別」と言う。」
〇「それに何の意味があるの?」という質問はシンボリズムが機能する領域でのみ出てくる。何らかの「意味」(思想や主張も含む)を表すのが「シンボル」の機能だからである。全てのシンボルが停止し「意味」が成立しない領域を設定する事はシンボリズムを根本的に批判する有効な方法になるかもしれない。
〇「全てのシンボルが停止し「意味」が成立しない領域」とは、例えば東洋で古来より伝わる「無分別」とか「未発の中」などである。「無分別」や「未発の中」を現実の状態として実行するのは至難の業だが、「現実を批判する為の設定」、シンボルが既発の状態を批判的に考察する立脚点と捉えると納得する。
〇よく言われる「二元論」の根底にあるのが「分別」(言葉・概念で二つに分ける事=分節化)である。二元論の問題はよく指摘されるが、原基的な場面に遡ると結局は「分別」の絶対視だと言える。概念で二項(Aと非A)に切り分けるまでは問題ないが、二項のそれぞれに執着して絶対視すると二元論が成立する。
〇二元論の元にあるのは「分別」。概念「A」を立てると同時に「非A」も成立する。概念「A」を立てる事は認識の世界を「A」と「非A」に「分ける」事である。ここまでは人間の概念的思考に不可避的な過程である。次の段階で「A」に執着し絶対視すると「A」が実体視されて「A」と「非A」の二元論が生じる。
〇「分別」は「判断」と換言可能。概念「A」は「これはAである」という判断の形式でも表せる。判断を絶対視する事が二元論に繋がると分かる。例えば特定の世界観(「○○は××だ」という「判断」の積み重ねで成り立つ)を絶対視すると二元論に陥る。例え「一元論」でも執着し絶対視すると二元論的になる。
〇「一元論」という判断を絶対視すると「一元論と一元論以外」の二元化が絶対視されてくるので二元論的になる。例えば、「善」という概念を実体視する程「善以外」即ち「悪」も実体視されてきて善悪二元論の成立に至る。「一」に執着すると「二」(対立)に帰結する。ワンワールドがまさにそれである。
〇「一」なる世界に執着すればする程「多」なる世界が許せなくなる。そして「一」なる世界を実現する為に「多」なる世界を破壊しようとする衝動が生じる。このように「一」に執着する程「一以外」も強烈に意識され「否定」の方向で執着するようになる。だからワンワールド主義者は固有の国や文化を憎む。
〇「世界は一つ」という事自体が一つの「判断」である。判断は「二つに分ける」作用なので「世界は一つ」と言う事で実際には「二つ」に分けている。そうしたくなければ黙っていればよい。だが、黙っていれば世界を「我が物」に出来ない。故に二元相対の争いを引き起こして「世界を一つ」にしようとする。
〇「一つの世界」「国境なき世界」などと言いつつ争いを起すのがワンワールド主義者である。「一つの世界」「国境なき世界」という判断に執着すれば、固有の国や文化が邪魔になるのは必定。あらゆる手を使って破壊しようとする。「一つの世界」を叫ぶ連中こそが争いを引き起こし、世の中を破壊している。
〇第一主義の台頭は(例え両建だとしても)グローバリズムが世界中の民衆の生活を破壊してきた事への反作用でしかない。原因と結果を転倒している。人の領域を土足で踏み荒らすワンワールド衝動こそが争いを生み出す根本原因である。
〇ジャイアンの有名な台詞「俺の物は俺の物。お前の物も俺の物。」がワンワールドの精神である。「国境がない」とは人の領域を侵して「お前の物も俺の物」とする事であり、「ワンワールド」は「全世界が俺の物」とする事である。そんな横暴に対して反発が起きるのは当然。ワンワールド衝動が争いの元凶。
〇「分別」は「執着」に結び付く傾向がある。何かを分別すれば、それに対する執着が生じる。分別を絶対視する程強い執着が生じる。「ワンワールド」に執着すると、文字通り「全世界を我が物にする」というとんでもない執着になる。例えば「アフターコロナ」なる分別で好き勝手に世界を改造しようとする。
〇「○○主義が世界を救う」みたいな物言いには注意が必要である。「主義」は全て「分別」のさかしらにて拵えられたもの。人間の物の考え方の一つとして参考程度にはなっても、概念的思考=分別の限界を弁えずに無制限に「世界」や「人類」の総体を包括的に「救う」などと僭称する裏には支配欲が見える。
〇裏権力の各種思想ツールは皆その類である。「概念的思考=分別の限界を弁えずに無制限に「世界」や「人類」の総体を包括的に「救う」などと僭称する」主義・思想が取り揃っている。次々に新手が出てきて、「今からは○○の時代」みたいな断定的結論を押し付ける。所詮は「分別」のさかしらに過ぎない。
〇「分別」の反対の「無分別」も言葉として強く意識すると「分別」になる。概念的思考に限界があるからと言って概念的思考を無理に無くしてしまおうと執着する事もまた「分別」だろう。概念的思考の限界を弁えつつ絶対視せず執着せず自然に用いるのがよいと思う。それも「無分別」と言えるかもしれない。
〇「知識」の考察。「知識」は「○○は××である」という「判断」を記憶として定着させたものと捉える。つまり「知識」も「分別=判断」の産物。知識は大事だが、知識の絶対視は主義・思想の絶対視と同じ結果に。例えば「知識」を絶対視する自称グノーシス主義者は一神教原理主義者と同じ振る舞いをする。
〇「知識」は過去の「判断」の「残りかす」みたいな所がある。「かす」は語弊があるが、ある状況に於ける動態的な「判断」を記憶として固定化させたものである事に変わりはない。故に「知識」を絶対視する事は出来ない。知識を無視・軽視するのも絶対視するのも「今・此処」に於ける思考の枷になり得る。
〇「知識至上主義」的な自称グノ主義者みたいな連中が「知識」にのぼせ上がってしまい、肝心の独立的思考が働かなくなっているのは格好の実例である。知識は大事だが、絶対視し執着するとかえって思考を縛る結果になる。「知識」「グノーシス」にのぼせ上がると逆に「あ○ま悪いひと」になる恐れがあり。
〇仏蘭西革命も「知識の絶対視は主義・思想の絶対視と同じ結果に」の実例だろう。仏蘭西革命時の大東社系の革命主義者・啓蒙主義者らは「理性」「知性」「知識」を崇拝する徒輩だったが、その為した所は彼らが批判対象としたカトリック絶対主義の異端審問や魔女狩りと同様の排他的独善的な蛮行であった。
〇批判や疑問を頭ごなしに封殺する自称リベラルらの態度も然り。会話の成立しなさ具合はほぼカルトと同じである。「私は合理的で科学的で理性的です」みたいな事を大真面目に言ったりする。主にこういう類の連中が「コロナ」や「PCR検査」に関する疑問の提示に「陰謀論」と連呼して火消しを行っている。
〇「科学主義的」と「科学的」は異なる。自称リベラルは「科学主義的」ではあるが、「科学的」ではない。事象を検証し考察する批判的な思考を行なう事が「科学的」な態度だと考える。その為にはまずは疑問を持つ事が大事である。その「疑問」に嘲笑を浴びせて封殺するのが「科学主義」者の態度である。
〇自称グノーシス主義者はフリーメイソンで言うと英国系だが、科学主義的な自称リベラルは仏蘭西系に分類出来る。要するに仏蘭西革命時に暴れまわった大東社系の革命主義者・啓蒙主義者の流れ。彼らの問答無用という口吻は独裁や粛清を彷彿とさせる。実際彼らは強権発動に抵抗がなく自粛強行に賛同する。