・ペストに怯えた中世の人々が採った仰天の対策(東洋経済ONLINE 2021年1月26日)

※中世ヨーロッパにおいては驚愕ともいえる疫病対策が行われていました。

ペストを防ぐためにお風呂を避けた?

中世ヨーロッパの人々が採った、驚愕の疫病対策とは?

今なら「不潔さ」がいちばんよくないとわかるが…… 。

黒死病の流行で、人々が忌み嫌ったのは「魔女」でも「ネズミ」でもない。

そもそも、腺ペスト(訳注:14世紀にヨーロッパで猛威をふるった伝染病。皮膚が黒くなって死んでいくことから「黒死病」と呼ばれた)の原因がネズミであると判明したのは、1898年のことだ。

流行直後に、人々が徹底的に避け始めたのは水(または湯)に触ることだった。

中世のヨーロッパには、「終わりなき腐敗の時代」という悪名もついたほど、汚(けが)れたイメージがある。

だが、実は、当時のどこの都市や町にもかならず大衆浴場があった。

温水と湯気ばかりでなく、食べ物やワインや、「その他のサービス」まで提供する豪勢な浴場もあったという。

こうした浴場は恋人たちの密会に最適な場所となり、ほとんど高級娼館と呼べるような施設へと変貌したものもあった。

こうして、ほぼ400年間は、湯につかることも全身を洗うことも、こっそりとだろうが大っぴらにだろうが、人間としてごく普通のことであり、また望ましいことでもあるとみなされていた。

この習慣を変えたのが、黒死病である。

1347年から1350年にかけて、2500万人(ヨーロッパの総人口の3割)もの命を奪った伝染病だ。当初は、発生源も感染経路もわからなかった。

ところが1348年、パリ大学の医学研究グループの1つが、黒死病の原因に関する公式見解を発表。

「原因は大気中の有害物質にあり、それが鼻や口や、そして皮膚の毛穴から体内に侵入する」と。

突如として、風呂につかるのは自殺行為とみなされるようになる。なんとしても、水に入ることは避けなければならない。浴場は即時閉鎖。

その後の300年間、ヨーロッパ中のほぼすべての住民が入浴を完全にやめてしまった。

この新しい理論から導き出された予防策は、できるだけ毛穴をふさぐということになる。そんなわけで、それまで風呂で洗い流していた体内からの排出物は、保護膜として働く重要なものに変わった。

厚い膜ないし層ができれば、それだけ有害物質の皮膚からの侵入を防ぐことができるという理屈である。

油脂、パウダー、香料などが体臭を抑えるために使われ、髪もよほどの場合にしか洗わず、ほとんどブラシをかけてパウダーをはたくだけだった。結果、階層や職種に関係なく、あらゆる人々の頭と体がシラミやノミだらけになっていた。

そして、各国の君主も皆、臣民以上に不潔だった。

16~17世紀イングランド国王ジェームズ1世は、生まれてこのかた手の指しか洗ったことがないと公言し、17世紀フランス国王ルイ13世にいたっては、さも自慢げに「脇の下のにおいが自分でわかるぞ」と語ったという。

狂気の沙汰は、ここで終わらなかった。

水の代わりに使われるようになった「魔法の洗浄剤」とはいったい何だったか、想像できるだろうか?

アルコール入りのスプレー? 軟膏? ――いいや、正解はなんと「麻」。

17世紀初めから18世紀末まで、人々は麻を使って体を「清めた」という。

清潔な麻には不思議な力があって、それを身につけてさえいれば、体についている泥や汗をすべて吸い取ってくれる――ちょうど、植物が土から養分を吸い取るように――と考えられていたのだ。

というわけで、「太陽王」と呼ばれたフランス国王ルイ14世は、入浴する代わりに、1日に3回シャツを着替えた。紳士の身分が、所有する麻シャツの枚数で決まったのだ。

18世紀の終わりに、薬湯の効能が見直されるようになると、ようやく水は社会的地位を取り戻し始める。

イングランドでは、冷水に飛び込めばほぼなにもかも治るという話で持ちきりになったという。

ちなみに現代においてもペストは根絶されておらず、アフリカや南米の国々などで感染者が確認されている(訳注:日本では1927年以降、感染の報告はない)。


※入浴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ヨーロッパ

古代ギリシャ人はきれい好きではあったが、ローマ人ほど入浴に熱心になることはなかった。文明初期には暖かいお湯に浸かることは退廃的なことだと考えていたが、紀元前4世紀頃のギリシャの都市には公共浴場が存在した。 デルフォイには大規模な温泉施設があり、プラトンの時代にはギムナシオンに浴場が併設されていた。

ローマ帝国時代には、各植民都市に公共浴場が作られた。入浴様式は蒸し風呂の他に、広い浴槽に浸かる形式もあった。217年につくられたローマのカラカラ大浴場は、2000人以上が同時に入浴できたといわれている。古代ローマの入浴は、官営病院を持たなかったローマ人の感染予防施設としても使われた。

ローマの公共浴場は時代の流れとともに、大衆化し社交場・娯楽施設としての意味が増してきた。一方で売春や飲酒蔓延、怠惰の温床にもなった。

北ヨーロッパのフィン人はサウナという公衆浴場で入浴した。古代のサウナは社会的には禊の場であり、死者は葬儀の前にサウナに入れられ、悪魔に取り憑かれたとされた者はサウナで悪魔祓いを受けた。

初期キリスト教の厳格な信者からはローマ式の入浴スタイルは退廃的で贅沢であるとされ、敬遠されるようになった。不潔さこそ聖人の要件であり、自己犠牲、敬虔な振る舞いであると信じられた。入浴するにしても服を脱ぐ事は論外であり、異教徒と同じ浴槽に入ることも考えられないことであった。

中世初期に衰退した公共浴場に代わり木製で円形のたらいが普及した。2人以上が入ることができる大きさで、経済的、労力的な理由から複数の人間が同時に入ることが常だった。入浴は贅沢の一種であり、貴族たちの間では招いた客を夜会の前に入浴させる「ドンネ・アラベール」と呼ばれる習慣が流行した。

十字軍の時代、東方からハマームの慣習が伝わり、かつての浴場跡などに公共浴場が再建された。しかし、羽目を外す者が後を絶たず、堕落や私生児が社会問題となった。教会は「公共浴場での入浴は不道徳で異教徒的」として非難し、教会の鐘によって男女の入浴時間を分けるなど積極的に介入した。一方、ムーア人の影響下にあったイベリア半島では、洗練されたハマームでの入浴習慣が続いていたが、キリスト教徒による国土回復運動によって失われた。

共同浴場は、コレラやペスト、梅毒などの伝染病の温床となり、1350年の腺ペストの流行により多くの公共浴場が閉鎖された。それ以後の共同浴場は実質的に売春宿だけとなり、16世紀には全面的に禁止されるに至った。結果、キリスト教徒の間では社交的入浴は享楽の象徴とみなされて忌み嫌われ、自宅での個人風呂が主流になっていった。

ルネサンス期のヨーロッパ(特にフランス)では「水や湯を浴びると病気になる」と信じられた。ヴェルサイユ宮殿のバスタブは建設された当初は使われていたものの、その後はマリー・アントワネットが嫁ぐまで使われなかった。王侯貴族は入浴の代わりに頻繁にシャツを着替え、香水で体臭をごまかすようになった。これがパリなどのフランスの大都市部の公衆衛生の悪化の原因の一つとなった。

18世紀、イギリスのジョン・ウェスレーによって起こされたメソジスト派の「清潔は神性に次ぐ」という主張と、「水治療法」という民間療法の流行によって公共浴場や入浴が見直される機運が高まった。コレラの大流行の反省からロンドンの上下水道が完備され、1875年にイギリスで「公衆衛生法」ができて入浴が奨励されるようになり、徐々にバスタブによる入浴が行われるようになった。さらに19世紀、イギリスでシャワーが発明される。以後、シャワーによる入浴が世界に広まった。