・「地球平面説」が笑いごとではない理由(NewsWeek 2019年7月3日)

リー・マッキンタイヤ(ボストン大学哲学・科学史センター研究員)

※<科学否定論の拡大を嘆く筆者が「地球平面説」信者の会議で試した科学を守るための方法とは>

科学関連の信じられないようなニュースが、連日メディアをにぎわせている。

極め付きは、「地球は平面だ」と主張する「フラットアース論者」が増えていることだろう。

このように科学を軽視あるいは否定する風潮に危機感を覚えた。

もはや科学の世界の問題は、学術的な領域にとどまらなくなった。私たち科学者自身が、もっと科学を守るための活動に関与していかないと、科学は否定論者たちによって、いいように葬られてしまいかねない。

とはいえ、この「ポスト真実」の時代に、科学や証拠を否定する人たちをどうすれば説得できるかは、まだよく分かっていない。科学者は証拠を示すことで自説を唱えるが、そのデータが受け入れられなかったり、整合性を疑われたりすると、「もう結構」と腹を立て、それ以上相手と関わるのをやめてしまうことが多い。

その気持ちは分からなくもないが、科学否定論者を「論理的な話が通じない人たち」と切り捨ててしまうのは危険だと、私は思う。もっとまずいのは、「~について100%の意見の一致はあるのか」といった否定論者の追及に、証拠を振りかざして反論しようとすることだ。そんな対応は、「どんな仮説も、証拠がない限り机上の空論にすぎない」という、最も有害な考え方を勢いづかせるだけだ。

むしろ科学者は、証拠や確実性や論理を語るのをやめて、科学的な価値観の説明をするべきだ。科学の最大の特徴は、方法ではなく態度にある。つまり、証拠を重視して、新たな証拠が見つかったら自説を自主的に修正する態度だ。その姿勢こそが、科学者と科学否定論者の最大の違いと言っていい。

18年11月、私はコロラド州デンバーで開かれた「フラットアース国際会議(FEIC)」に参加して、このセオリーを自ら実践してみることにした。FEICは、地球は平面だと信じる人たちが年に1度集まるド派手なイベントだ。講演者がマルチメディアを駆使して、「私たちはグローバリスト(地球は丸いと主張する人々)に何千年もだまされてきた」と言うと、約600人の聴衆から拍手喝采が起こった。

FEICは、科学否定論者全般の考え方を理解し、対抗方法を見つけるいい機会になりそうだ。

キリスト教原理主義と陰謀論

まず、はっきりさせておくべきなのは、フラットアース論者は大真面目だということだ。当然だろう。21世紀の今、「地球は平面だ」などと言えば嘲笑される可能性があることは、本人たちも覚悟の上だ。また、ほとんどのフラットアース論者は、以前は地球は丸いと思っていた。だがある日、「真実に目が覚め」て、自分をだまそうとする世界的な陰謀に気が付いたと言う。その口ぶりは、まるで宗教的な経験を語っているかのようだ。

とはいえ、「地球は平面だ」と言った瞬間に多くの疑問が生じる。具体的にどんな形状なのか(円盤状で「南極山脈」が周縁に広がっている)、誰がその「真実」を隠しているのか(政府、NASA、パイロット......)などだ。

私はFEICに2日間参加し、「科学的方法によるフラットアース論」「NASAその他の宇宙に関する嘘の数々」といったセミナーに出席した。

1日目は黙って彼らの主張を聞いた。参加者のバッジを着け、ひたすらメモを取るのみ。そして2日目にようやく口を開き、言うべきことを言った。

やりとりを重ねるうちに見えてきた。フラットアース説はキリスト教原理主義と陰謀論の奇妙なミックスで、一部の人々にとってそれは信仰のようなものなのだ。

プレゼンはほぼ全て地球は丸いという説の「虚偽性」を裏付けるか、平面説の正しさを示す「科学的な証拠」を並べ立てるもので、突っ込みどころだらけのご都合主義的な議論に終始した。

まともに反論してもダメだと思った。どんな証拠を突き付けても、彼らは聞く耳を持たない。いわくNASAの衛星画像は捏造だ、回転する球体の上に海なんかあるわけがない......。

そこで違う戦術を取ることにした。証拠について議論するのではなく、彼らの論理展開の弱点を突くのだ。

陰謀論者は懐疑派を気取っているが、実はとてもだまされやすい人たちだ。証拠に対する彼らの態度はダブルスターンダードそのもの。自分たちが信じたくないことを示す証拠はどんなに確かな証拠でも不十分とされ、信じたいことを示す証拠はどんなにあやふやでも確証となる。「科学的な態度」はこれとは正反対だ。自説に固執せず、新たな証拠が出てくれば、検証し直す。

これが私の強みになる。

彼らに「証拠を見せろ」と迫れば、彼らは喜んで差し出すだろう。逆に「これが私の証拠だ」と突き付けても、却下されるだけだ。そうではなく、彼らに聞いてみることにした。どんな証拠があれば、自分の間違いを認めるのか、と。この質問は彼らの意表を突いたようだった。

彼らを無視できない理由

手始めに壇上から降りてきた白衣姿の発表者に話し掛けた。どんな証拠があれば、地球は丸いと認めるか、と。

「確かな証拠だ」

確かな証拠とはどんな証拠かと聞くと、例えば自分がプレゼンで見せた写真だと言う。それはある「研究者」がミシガン湖上から撮った写真で、約96キロ離れたシカゴ都心の高層ビル群が写っていた。地球が丸いなら、ビルは水平線の向こうに隠れて見えないはずだ。

「ちょっと待って」と、私は言った。「あなたはNASAの写真はどれも加工されていると言いましたね。でも、この写真は加工されていないと?」

「そうだ。撮影者は私の知り合いだ。それに私も、都心から約74キロ離れたミシガン湖上に船で出て確かめてみた」

フラットアース論者も数学はできるらしい。彼のプレゼン中に急いで計算してみたが、ビルが見えなくなるには少なくとも約72キロ離れなければならない。とすれば、彼は正しい?

違う。「上位蜃気楼効果」という現象があるからだ。地表近くの気温が上空よりも低い気温の逆転現象があるときには遠くの物体の光が屈折し、水平線に隠れて見えないはずの物が見えることがある。そう言うと、彼は笑った。

「プレゼンでも論証したが、(上位蜃気楼なんて)でっち上げだよ」
「論証はしていなかった。ただ、信じないと言っただけでしょう」
「ああ、信じられないね」

彼のファンが私たちを取り囲み、彼は私との会話を切り上げようとした。だが、もう1つ聞きたいことがあった。

「じゃあ、なぜ160キロ先まで行かなかったのですか」
「えっ?」
「160キロ先ですよ。そこまで離れたら、蜃気楼も見えなくなるはずだ。それでも見えたら、あなたが正しいことを決定的に証明できる」
「船長がそこまで出たがらなかった」

今度は私が失笑する番だった。

「これを実証するために全てを懸けてきたあなたが、もう少しで決定的証拠が手に入るのに、諦めた、と?」

彼は首を振って、ほかの人と話をし始めた。

結局、私はこの会場で誰の考え方も変えることができなかった。それでも、私はある重要なことを実践した。対話を行ったのだ。

研究によると、データは人の考えを変えられない。人は、信頼できる人との対話を通じて考えを変える。私が信頼してもらえたと言うつもりはないが、時間を割いて多くの人と言葉を交わすことで、ある程度の信憑性を感じてもらえた自信はある。

科学否定論者を問答無用に切り捨てるのは賢明でない。それでは不信感が拡大し、ますます亀裂が深まるだけだ。科学者も一般の人たちも、もっと科学否定論者と対話したほうがいい。

科学否定論者は、放置するにはあまりに危険な存在だ。地球が平面だと主張する人たちは、一見すると人畜無害に思えるかもしれないが、新しいメンバーを引き込む方法を学ぶための研修会を開いたりもしている。

自分たちの主張を子供たちに広めることにも熱心だ。ある人は、娘が学校で平面説を紹介したところ教師から発言を遮られたと不満を述べた。すると、それを聞いた研修会の講師は、教師がそばにいない遊び場で友達に話せばいいと助言した。

いまフラットアース運動は急速に拡大している。近年はアメリカの多くの都市でこの考え方を信奉する人たちの会合が開かれているし、プロバスケットボール選手のカイリー・アービングのように、地球が平面だと信じていると公言する有名人も現れている(アービングはのちに撤回)。

研究のプロセスについて語れ

科学否定論と戦うために科学者にできるのは、確率に基づいて物事を考えることの重要性をもっと語ることだ。それを通じて、科学における「証拠」に関する人々の思い込みを突き崩す必要がある。

どんなに優れた証拠があっても、科学は断言することはできない。地球が丸いことも断言はできない。科学で何が正しいとされるかは、仮説が100%確実かではなく、証拠に照らして妥当かを基準に判断される。

「証拠」が誤っている確率が100万分の1ある場合、この仮説は100%確実とは言えない。しかし、妥当な仮説だと見なすのが合理的だろう。

常に100%の確実性を示さなければならないとしたら、科学否定論者は際限なく証拠を要求し続けかねない。科学ではそのような発想をしないのだと説明すべきだ。

証拠から判断して仮説が間違っていると思える場合、科学者はそれを無視してはならない。仮説を修正するか、破棄すべきだ。それをしない研究者に科学者を名乗る資格はない。

これは単なる手法の問題というより、科学の在り方に関わる問題だ。これまで科学が(イデオロギーとは異なり)うまく機能してきた理由の1つは、(徹底した検証に耐えられれば)新しい仮説をいつでも受け入れる点にある。

科学の世界では、データの公開や査読制度、再現実験など、それを実践するための方法が共有されている。しかし、科学者以外の人たちにはそのことがあまり知られていない。だから、科学を守るためには、フラットアース論者やその他の科学否定論者と対話して、科学について知ってもらうことが何よりも重要なのだ。

といっても、テレビ討論会などで元NASAの気候変動専門家であるジェームズ・ハンセンのような権威ある科学者と陰謀論者を並べて、同じ時間を与えて発言させろというのではない。誤った主張をする人に発言の機会を与えることに懸念を抱くのは当然だ。

私が提唱したいのは、もっと多くの科学者がメディアに登場し、自分の研究成果だけでなく、科学研究のプロセスについて語ることだ。

科学の研究をしていれば、自分の仮説が間違っている可能性は常にある。科学否定論者と異なり、その可能性を徹底的に探るのが真の科学者だ。


・フラットアースの真実がここに、地球が平らと信じる者にこれを見せよ(VAIENCE 2019年12月3日)

※地球は球体。これは何千年も前から知られている事実です。1957年にソ連が打ち上げた世界初の人工衛星、スプートニク1号が「地球の周り」を回り始めてすぐに議論の余地なく認められることとなりました。

それでもなお、少数ながら、世界は平面だと熱弁する人々がいます。「フラットアースナー」と呼ばれる、この地球平面説論者たちは近年、インターネット上で目立ち始め、この現実の最も基本的な見方を疑うための種をまいているようです。

多数のフラットアースナーたちが、地球は実際には平らなのに、あたかも球体であるかのように見える理由を説明するために代替論をでっち上げることへ熱心に取り組んでいます。過去数千年にわたって人間が地球を観察して気づいたことは、地球を球体として考えれば明らかに説明がつくにもかかわらず、です。

けれども、もし、地球がなぜか本当に平らだったとしたら、私たちが現在知っている地球のような様相をしていないはずです。もっとはっきり言えば、人間は(そして、ほかのすべてのものも)疑う余地なく死に尽くしているでしょう。

米国カリフォルニア州のパサデナにあるカリフォルニア工科大学の惑星科学者デイヴィッド・スティーヴァンサンによると、宇宙物体が(球形ではなく)円盤状に形成されるためには非常に速く回転しなくてはならないということです。

しかし残念ながら、惑星は高速で回転すると、ばらばらに壊れて無数の小さな粒になってしまうと考えられています。1850年代に天文学者のジェイムズ・クラーク・マクスウェルが土星の環に関する研究において、固まった円盤の形状は宇宙空間では安定した構造ではないということを数学的に明らかにしました。

マクスウェルはこの研究で、土星の環は多数のばらばらな粒で形成されていると推測し、それは正しかったことが後に判明しました。マクスウェルの計算を使えば、なぜ銀河の中を円盤状の惑星規模の物体が浮かびながら回っていないのかを説明することができます。

地球をものすごく高速で回転させることなく、平らにするためには、魔術か、おそらく、惑星サイズのホットサンドメーカーが必要となるでしょう。いずれにしても、ぺちゃんこにつぶした地球はつぶれたままではありません。

数時間のうちに地球は押し返すようにして回転楕円体に戻ってしまいます。重力はすべての面を同じように中心に引く力なので、惑星は球体なのです。(正確には、球体に近い形です。自転の速度によっては、重力の反対方向に働く力が勝って、赤道のあたりが少しふくらむ場合があります)重力の現実的条件のもとでは、固まって安定した円盤状の地球は存在し得ないということをマクスウェルの数式が示しています。

では、重力がないとしたら、どうでしょうか。重力がなかったら、たちまち、私たちは地球について理解することができなくなります。

大気?ないはずです。大気は重力によって地球に留まっているので。潮の干満?そんなものもないはずです。満潮と干潮は月の引力によって海が引っ張られ、月が近づいた時に微妙に各大洋がふくらみ上がることで起きるためです。

月の存在もやはり、ないはずです。月が存在することに関する解釈はすべて重力の概念を含むので。月の成り立ちについて最も広く受け入れられている説は、惑星規模の巨大な天体が初期の地球に衝突した時に生まれたというもので、衝突の際に飛び散った破片が地球の重力によって集められて月になったと説明しています。

別の成り立ち説では、(やはり重力のおかげで)地球が誕生したのと同時に月も形成されたとしています。また、地球の驚くほど強い重力が、近くを飛んでいた大きな隕石を引きつけて留め、それが月になったという説もあります。

重力は地球の層状構造の原因にもなっています。地球の層状構造とは、最も密度の高い物質が地球の核に向かって沈み、これよりは軽い物質がマントルを組成し、そして、最も軽い物質が地殻を形成していることをいいます。

この層状構造がなかったら、地球は多くの点で異なる様相を持つと考えられます。たとえば、地球の液状の外核は活発に動く巨大な磁石のような作用をし、地球の磁場をつくっています。磁場は太陽風が地球の大気をはぎ取ってしまうのを防ぐのに役立っています。太陽風は40億年前に火星の磁場が弱まった後に火星の大気を取り去ったことがあります。

もし、地球が平面的であったのなら、プレートテクトニクス(地球の地殻を組成する硬いプレートの動き)もないことになるとニューヨーク市にあるコロンビア大学のラモント・ドハティ地球観測研究所の地球物理学者であるジェイムズ・デイヴィスは言います。

「計算をすれば、計算は球体のものとして行わなくてはならないとわかります。計算と言っても『このプレートがこれだけ動いて、あのプレートがあれだけ動いたら』というような、とても単純な計算です」とデイヴィスは解説してくれました。「もし、地球が平らだと仮定したら、正解(実際の地球の観測結果に一致する解答)は得られません」

フラットアースナーたちは、このような観測結果がどのように平面的な惑星で可能なのかを説明する別の理論をつくり出しています。デイヴィスによると、問題はこれらの説明が数学や物理的現実に基づいていないということです。

1950年代にマクスウェルが土星の環は多数の小さな粒でできていると推測した時に彼が応用したのは重力と回転力の作用についての一般的な知識です。実際、これについて論じるマックスウェルの論文の大半は数式で書かれています。地球平面論ではそうはいかないとデイヴィスは指摘しています。

また、地球を平面と見る世界観は、異なる現象について、異なる理由を挙げることで成り立たせています。しかも、その説明は都合の良い事例のみを挙げているものなのです。

現実の世界では、地球も月も同じ定量化可能な理由、つまり、重力によって丸いのです。地球平面説の提唱者たちは地球と月について、それぞれ独立した説明を考え出さなくてはなりません。そして、そのような独立した説は互いに矛盾することが多いものです。科学的理論とはそのようなものではないとデイヴィスは主張しています。

「千の観察結果を一つの単純な理論で説明することは、千の観察結果を千の理論で説明するより簡単なことなのです」

まぁ、そういったことはともかく、もし、地球が本当に平らであるのなら、平らであることを否定する何百万人もの科学者たち(および、歴史を通してそうしてきた科学者たち)はまったくもって深遠な理由のために大きな陰謀によって団結しているということになります。


・アメリカで600万人が「地球平面説」を信じる理由 「陰謀物語」という疑似宗教が持つ力と危険性(東洋経済ONLINE 2022年8月15日)

ジョナサン・ゴットシャル : ワシントン&ジェフーソン大学英語学科特別研究員

※無邪気な「ナラティブ礼賛」ブームの裏側で

陰謀論、フェイク・ニュースなど、SNSのような新しいテクノロジーが「ストーリー」を拡散させ、事実と作り話を区別することが困難になりつつある現代。このたび、上梓された『ストーリーが世界を滅ぼす──物語があなたの脳を操作する』で、著者のジョナサン・ゴットシャル氏は、人間にとって大切な財産である「ストーリー」が最大の脅威でもあるのはなぜなのか、を明らかにしている。本稿では同書から一部を抜粋・編集してお届けする。


※私たちの心の機能を奪う「陰謀物語」

私たちは陰謀論的な思考のパンデミック状況を生きている。

陰謀論についてまず理解しておくべき最も重要なポイントは、この言葉自体が誤った名称であることだ。「論」という言葉には基本的に、虚偽であると実証できるこれらのナラティブが、理性の過ちゆえに信じられているという含みがある。

しかし無限にある陰謀論のラインナップのいずれにおいても、主役は道に迷った理性ではない。主役は理性が道に迷う原因となる強い物語だ。そこで、これら誇大妄想的なファンタジーを実態にふさわしく「陰謀物語」と呼ぼう。

陰謀物語がなぜこれほど伝染しやすくしぶといのかを理解するには、最も古くからあって、そのでたらめさとしぶとさにかけて世界屈指というべき陰謀物語を考えてみるとよいだろう。地球平面説だ。


150年以上しぶとく生き残っている「地球平面説」

地球平面説の生みの親はサミュエル・バーリー・ロウボサム(1816〜1884)、各地を転々としながら講演、著述、医者まがいのことをしていた人物で、「パララックス」の名で通っていた。

地球が恐ろしく古いビリヤードボールのような球体で、時速1000マイル(約1609キロメートル)の猛スピードで自転しながら太陽の周りを時速6万7000マイル(約10万8000キロメートル)で回っているなどうそだ、とパララックスは断言した。

地球は本当は新しくて、動かず、パンケーキのように平らである。月と太陽はパンケーキ型の地球の上を、1本の軌道に乗った2つの小さな照明のように移動している。諸大陸はパンケーキの中央に飾られた果物のように集まっている。縁を巨大な氷の壁がホイップクリームのように取り囲み、海が虚空に落ちるのを防いでいる。越えられない氷の壁を実際に越えたらその先がどうなっているかを、本当は誰も知らないとパララックスは説明した。

だがもしパンケーキのような地球の下にスパチュラを入れて引っくり返せたとしたら、反対側はおそらく地獄だろう。

パララックスは、地球は平らだという自分の主張を似非科学用語で塗り固めていた。だが科学者になるために高学歴は必要ないと彼は力説した。数学など知らなくてもいい。技術的な機械装置もいらない。必要なのは常識感覚だけだ。私たちの惑星が時速数千マイルで宇宙空間を回転しているように感じるだろうか。そう感じないのは、実際そうではないからだ。

地球平面説を信じているのはアメリカの成人の2%、およそ600万人である。これだけ見れば、地球平面説は物語戦争で大敗北を喫していると思われるかもしれない。

だが見方を変えれば、地球平面説は大健闘している。科学的にはまったく破綻しているにもかかわらず、150年以上も生き永らえているからだ。

それ以上に懸念されるのは、よくできた弁舌巧みなユーチューブ動画やインターネット上のミームやポッドキャスト──ちょっとした数の有名インフルエンサーは言うに及ばず──に若い人たちがどっぷりと触れているせいで、ミレニアル世代の3分の1が地球の形状について確信が持てなくなったと言っていることだ。

こんなばかばかしい考えが多少なりとも市場シェアを獲得し、何百万人もの若者の心に地球の形状についての疑いを植え付けていること自体、地球平面説の大勝利と言えるだろう。


地球平面説信者が持つ資質

辞書に愚かな考えの同義語として載っている地球平面説を、なぜ少なくない数の人々が受け入れるのだろうか。

地球平面説は釣り竿の先につけた疑似餌のように愚か者を引き寄せる派手で薄っぺらい似非学説だからだ、という説明はあまりにも安易である。

むしろ、地球平面説の旗手たちは創造性、恐るべき弁舌力、心底感心してしまうほどの大胆な意見といったすばらしい知的資質を多々備えているように私には映る。

実際、知的能力の高い人が必ずしも合理的なわけではなく、陰謀論的な空想を紡ぎ出すことに長けている場合がある、という研究もある。彼らは人より優れた知的能力を使って、ルーブ・ゴールドバーグ・マシン(人間が簡単にできることを複雑な連鎖反応によって達成する機械装置)のナラティブ版を考案し、細部を作り込んでいく。作るにも維持するにも桁外れの想像力を要することだ。

これはすべてパララックス本人に間違いなく当てはまっていた。彼は頭がよかっただけでなく、科学的権威を議論で言い負かすほどの弁舌のスキル(加えて闘争心)もあった。

地球平面説信者について理解しておくべき大事な点は、彼らが科学的な好奇心からこの説に引き寄せられたのではないことだ。

地球平面説のコミュニティーを構成しているのはあまのじゃくな科学オタクではない。彼らが自分の見解をめぐって戦うとき、本当の争点は地球の形状ではない。それはしょせん、争うほどのことではない。

地球平面説はある意味では正しいとも言える。というのも、地球は厳密には完全な球体ではないからだ。地質学者は地球を扁球と表現する。両極がわずかに平らでウエスト部分が太くなっているのだ。

そもそも、地球平面説信者は科学の闘士ではなく物語の闘士だった。パララックスは地球の形状に本気でこだわっていたわけではない。

彼がこだわったのは自分のお気に入りの物語を宣伝し、擁護することだった。それもただの物語ではない。聖書に書かれている、物語の頂点に君臨する物語だった。パララックスは聖書に書かれたそのままを頑固に信じる創造論者だった。生命の起源と発達をめぐって進化生物学者と争う現代の創造論者は私たちにもおなじみの存在だ。

だが創世記の物語はあらゆる生命の突然の出現だけでなく、天地創造についても語っている。パララックスは地質学系の創造論者だった。彼は神が1日で地球を創ったと感じ、聖書のさまざまな記述を地球が平面であることの描写として解釈した。


創造論者が拒絶したもの

パララックスは地球は丸いという説はうそではなく科学的誤りだとした。

しかし、彼の信者はやがて地球は丸いという説を、聖書信仰を揺るがし世俗的な世界観を広めるために世界の本当の姿を隠そうとする、文字どおり悪魔の陰謀だとして非難するようになった。聖書に忠実な現代の創造論者と同じように、地球平面説を唱えた創造論者が拒絶したのは地球科学そのものというより、科学に源流を持つナラティブだった。彼らが戦っていた相手は、聖書がほこりをかぶった神話の集積であり、生命は偶然発生し、どろどろした原生生物から10億年かけて無意味な性交と殺し合いを経て進化していった、という思想だった。

この10年で、地球平面説は主にデジタルメディアをエネルギー源として大々的に再注目されるようになった(ユーチューブの推奨アルゴリズムだけでも、地球平面説の動画を何億回も推薦して積極的な役割を果たした)。

一部の聖書原理主義の地球平面説信者は今も悪魔の陰謀と戦っているが、現代の最も目立つ地球平面説信者たちはごくふつうの世俗的な陰謀論者だ。

そして彼らの前にも、同じように動機の問題が立ちはだかっている。ユダヤ人、ビルダーバーグ会議の面々、イリュミナティ、四次元からやってきた爬虫類人の支配者など、黒幕と思われる対象を挙げればきりがないが、なぜ彼らはわざわざ大変な手間をかけて世界が丸いと私たちに信じ込ませようとしているのか。

私たちを欺くには、世界中の宇宙飛行士、科学者、船員、航空機パイロット、地図製作者、各国の大統領など、百万人単位の人々が口裏を合わせるための気の遠くなるような統制が必要なはずだ。彼らに何の得があるのだろうか。

しかし子細に見てみると、世俗の地球平面説信者には壮大で説得力のある物語がある。

その全体的な効果は、赤い薬を飲むと自分が本当だと信じていたことがすべてうそであり、悪の勢力が自分という人間のあらゆる面を管理しているとわかる映画『マトリックス』によく似ている。聖書原理主義の地球平面説信者が聖書物語の世界に生きているのに対して、世俗的な地球平面説信者はSFとミステリーとスリラーが入り混じった世界に生きている。世俗派たちは手がかりをつなぎ合わせ、犯人を暴き、その隠れた動機を解明するという探偵のような仕事を求められているのだ。

陰謀論的世界観はエゴを満足させる。この点が、ひとたび陰謀論の世界にはまった人を現実に引き戻すのが難しい理由の1つだ。陰謀論のナラティブの中にいる限り、そこではヒーローでいられる。自分が間違っていると認めれば、信じていたものとは違う物語の中にずっといたことを認めるはめになる。

物語はモンスターに突撃する自分と仲間を主人公にした英雄叙事詩ではなかった。物語は滑稽な悲劇であり、自分は風車に突撃していただけだったのだ。


物語パラドックスが最も純粋に表れている「宗教」

陰謀物語を疑似宗教に分類する心理学者もいる。陰謀物語の形態と機能は伝統的な宗教に類似しているのだという。宗教の信者も陰謀説の信者も喜ばない類比だが、たしかになるほどと思わせる。陰謀説と伝統的宗教の原理主義的な特徴は明らかにきわめて類似している。これは、文化が生んだ最も荘厳なナラティブと最も卑近なナラティブが、ナラティブ心理の同じ面から発生することを示唆している。

例えば、地球平面説やQアノンのような陰謀物語もキリスト教のような宗教も、クチコミのストーリーテリングで広まった運動だ。どちらも、悪と戦う大義ある聖戦の主人公として信者に協力を求める。そしてどちらも、活性化する感情を喚起し、信者にいい(あるいは悪い)知らせを伝道者の熱意をもって広めさせることによって、口づてに広まる。

しかもどちらの現象も、それを否定するエビデンスを鉄壁のように跳ね返すという特徴がある。陰謀物語は、その物語を否定するエビデンスがことごとく信者の創意あふれる再解釈によって肯定するエビデンスにされてしまうことでよく知られる。

そしてこの否定的なエビデンスに動かされない頑固さは、宗教においてもまったくめずらしくない。つい数百年前まで、ほとんどの宗教の信者は聖典を文字どおりの真実と受け取る原理主義者だった。その後、聖典が主張していた検証可能な事実、例えば宇宙の年齢、惑星の形成、太陽系の仕組み、生命の発生などの誤りを科学が辛抱強く証明していった。

原理主義の信者もいまだにいる。この科学をフェイク・ニュースとして退ける人々だ。だがほとんどは聖典を比喩として解釈する方向に転じた。「完全無欠のわが聖典の検証可能な細かい事実が誤りであることはたしかに証明されたが、私の宗教が100%正しいことに変わりはない。神が教条的な直解主義に陥るはずがないではないか」というわけだ。

そして神が全知全能にして善なる存在であるという想定と大きく齟齬をきたすように思われる出来事(例えば2004年に女性や子供を中心に約20万人の無辜の人々が亡くなったインド洋の津波)が起こると、敬虔な信者は決まり文句(「神の業は人知の及ばぬもの」)で信仰を弁護するか、鉄槌を振りかざして脅す(「神の計画に疑問を唱えるお前は何様だ?」)。

宗教心のある人々の中にはここまでのくだりをいわれのない攻撃と受け取る人もいるかもしれない。 だが、この本から宗教を外すわけにはいかない。神聖なナラティブが大きな益と害を同時に世にもたらしている宗教は、物語パラドックスが最も純粋に表れている代表例だからだ。


支配的ナラティブと戦士

それに私が言いたいのは、宗教物語や陰謀物語の信者がナラティブから過大な力を得ているということではない。肝心な点は、宗教と陰謀物語はナラティブ心理の一般的な傾向がとくに鮮明に出ている例であることだ。私たちが世界を理解するために用いるナラティブには、あれもこれも説明しようとして拡大したがるという意味で、貪欲な性質が備わっている。また、自身の欠陥を否定しがちという意味で傲慢な性質が備わっている。そしてナラティブが十分な貪欲さと傲慢さで膨らむと、支配的ナラティブとなる。つまり世界の実質的にすべてを説明しようとするのだ。

世俗的か宗教的かを問わず、このような支配的ナラティブは提唱者から不可侵で議論の余地がないものとして扱われ、その物語を守るために戦う者は正義の側で戦う聖戦士になる。

これは独善的なマルクス主義者にも、熱狂的なMAGA (「アメリカを再び偉大な国に」のスローガン)の礼賛者にも、潔癖すぎる「社会正義派」にも、敬虔なキリスト教徒や地球平面説信者と同様に言えることだ。