以下、「日本情報戦略研究会」様より転載

・ユニバーサル・ピクチャーズ

https://ameblo.jp/nodes-links/entry-12608169769.html

※ユニバーサル・ピクチャーズは設立が1912年の、現存するアメリカの大手映画会社として二番目に古い歴史をもつ会社とされています。NBCユニバーサルの子会社であり、NBCのほかに、マイクロソフトとNBCが共同で設立したMSNBC、NBCの衛星・ケーブルテレビのUSAネットワークなど、アメリカ三大ネットワークのNBCのグループ企業です。本社はカリフォルニア州ロサンゼルス、ユニバーサル・シティとなっています。2013年にコムキャストの完全子会社になりました。1990年から1995年にかけて、日本の松下電器が保有していました。

日本では、大阪のテーマパーク、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンの存在も有名です。テーマパークは、アメリカのハリウッドとフロリダ州のオーランドに、そしてシンガポールにもあり、北京にも近い将来にテーマパークがつくられるようです。ちなみに親会社NBCユニバーサルのCEOはユダヤ系のジェフ・シェルです。

創業者のカール・レムリ(1867 - 1939)はドイツ出身のユダヤ人です。レムリは1867年にドイツ、ヴュルテンベルク王国で生まれ、84年にアメリカに移住し、89年にアメリカに帰化しました。1894年に衣料会社で簿記を担当していました。1909年に映画配給会社を設立しました。

レムリは1912年に8社を合併して、ユニバーサル・ピクチャーズの前身となるユニバーサル・フィルム・マニュファクチャリング・カンパニーを設立しました。はじめはニュージャージー州フォートリーの映画スタジオで活動し、その後、1915年にカリフォルニア州サンフェルナンド・バレーに235エーカーの土地に移転しました。

レムリはプロデューサーとして数百本の映画を制作しました。『ノートルダムのせむし男』や『オペラ座の怪人』、『笑う男』などの作品を手がけました。1928年には社長の地位を息子のカール・レムリJrに譲りました。レムリJrも『ドラキュラ』、『フランケンシュタイン』、『透明人間』などのホラー映画を手がけました。1936年に会社は運用資金がなくなり、レムリ親子は会社を追放されることになりました。

その後、ユニバーサルは戦時から50年代まで長い低迷期を迎えます。

1952年にユニバーサルの経営権はデッカ・レコードが握り、大手俳優事務所のミュージック・コーポレーション・オブ・アメリカ(MCA)がユニバーサルに対して大きな影響力を持つようになりました。1962年にはMCAがデッカ・レコードと合併し、MCAが存続会社としてユニバーサル・ピクチャーズの親会社になりました。

1960年代には三大ネットワークの特にNBCの制作をユニバーサル・スタジオが請け負うようになりました。1970年代からジョージ・ルーカスやスティーブン・スピルバーグなどの映画監督が活躍し、ユニバーサルは一流の映画製作会社として再生することになりました。

1980年代からはハリウッドのほかの大手映画会社との業務提携なども積極的に行っています。

ユニバーサル・ピクチャーズのヒット作には、ジョージ・ロイ・ヒルの『スティング』(1973)やジョージ・ルーカスの『アメリカン・グラフィティ』(1973)、そしてスティーヴン・スピルバーグの『ジョーズ』(1975)、『E.T.』(1982)、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985-)、『ジュラシック・パーク』(1993-)などがあります。

アメリカのジャーナリスト、ニール・ガブラーは『彼らの帝国-ユダヤ人はどのようにハリウッドを発明したか』(1988)の中で次のように言いました。

「ハリウッドのユダヤ人はイメージとアイデアの強力な集合体を作成しました。ある意味で彼らはアメリカの想像力を植民地化しました。最終的にアメリカの価値観はユダヤ人が作った映画によって特徴づけられるようになりました。」

現在のNBCユニバーサルのCEOに至るまで、ユニバーサル・ピクチャーズのキーマンは概ね、ユダヤ人でした。おそらく今後も取り上げますが、ユニバーサル・ピクチャーズに限らず、パラマウント・ピクチャーズ、ワーナー・ブラザース、MGM、20世紀FOXとハリウッド映画のメインストリームは黎明期以来ユダヤ人で独占されています。

ハリウッドもそうですが、現在のアメリカのテレビメディアもおおむねユダヤ人の価値観が非常に大きな比重を占めています。アメリカ全体の1.7%しかいないユダヤ系の知識人やエリートが20世紀の初めころから映画業界・メディア業界を独占していきます。

これは映画やメディアにとどまらず、金融業界やアメリカの情報機関などにおいても中心的な役割を演じています。非常に強い民族としての結びつきと、秘密主義的な側面はフランス生まれのイギリスの作家ヒレア・べロックの『ユダヤ人』の中でもいかんなく表現されています。

アメリカを中心に欧米のメディアは概ねユダヤ人の意のままにできる状態にあるということを、多くの日本人が知らずにいます。


・ワーナー・ブラザース

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※ワーナー・ブラザースは1923年にワーナー4兄弟によって設立されました。

ワーナー兄弟はポーランド系ユダヤ人の移民労働者でした。1903年にハリー、アルバート、サムがオハイオ州やペンシルベニア州などの鉱山町で無声映画『大列車強盗』の展示などをして巡業していました。1904年にピッツバーグで映画配給会社を設立し収益を上げました。

1908年にトーマス・エジソンが映画配給を独占するモーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニーを設立しました。モーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニーはエジソン・トラストまたはMPPCなどとも言われます。

このエジソン・トラストは映画特許をもとに、トラスト参加各社の作る映画を上映するたびに映画館から料金を徴収するというものでした。これによって一時期、ワーナー兄弟も業界から身を引きました。兄弟の中で映画製作の夢を持ち続けていたサムが、兄弟を説得して1918年にハリウッドに映画スタジオを構えました。

この時期、エジソン・トラストから逃れるために多くのユダヤ系の業者が西海岸のハリウッドへと移りました。1915年に連邦裁でエジソン・トラストの行動は、本来の特許を守るという目的を逸脱しているとして違法であるという判決を受けました。1918年にエジソン・トラストの上訴が却下され、これ以降ハリウッドが世界最大の映画産業の地になりました。

1920年代からワーナーはシーシェパードを主人公にした映画でハリウッド有数のスタジオへと躍進します。この映画は「名犬リンチンチン」シリーズというもので、リンチンチンの死後はリンチンチンJrが活躍するなど、このシリーズは1930年代まで人気を博しました。

1924年にはユダヤ系資本のゴールドマン・サックスから多額の融資を受けます。この資金を元にロサンゼルスをはじめいくつかの都市で放送局を誕生させることに成功しました。

この時代のハリウッドはエジソン・トラストを逃れたユダヤ人を中心に、ユニバーサル・ピクチャーズ、MGM、20世紀フォックス、パラマウント・ピクチャーズなどがその地位を確立していくという時代でした。

1927年に、セリフのある世界初の長編映画『ジャズ・シンガー』を配給しました。そしてこのタイミングでサム・ワーナーが死去します。最も映画製作に熱心だったサム・ワーナーを失ったワーナー兄弟は、やがて修復しがたい決裂を招くことになります。

1929年には20世紀フォックスの前身フォックス・フィルムとのファースト・ナショナルの買収合戦に勝利し、合併しました。これによってワーナー・ブラザースはさらに大きな企業へと躍進しました。

この年には『On With The Show!』で全編音声付の二色式カラー映画を製作し、この技術をもとに『ドクターX』(1932)や『肉の蝋人形』(1933)などのミステリー映画を製作されました。

1930年代にはリアルなギャング映画をはじめ、女性向けのメロドラマ、日本のチャンバラ映画に相当する剣戟映画など多様な映画を製作し、ディズニーキャラクターに対抗したようなアニメキャラクターも製作されます。バッグス・バニー、ダフィー・ダック、ポーキー・ピッグ、トゥイーティーなどのキャラクターが生み出されました。

ディズニーキャラクターのように今日も全世界で認知され続けているというキャラクターにまで成功したとは言えませんでしたが、キャラクターデザインなどにも力を入れていたことがわかります。

1943年、ワーナーはフランクリン・ルーズベルト大統領の助言を元に『ミッション・トゥ・モスクワ』を映画化します。この映画はアメリカ人に対してソ連が優れた同盟国であることを説得するというプロパガンダ映画として製作されています。この映画はニューディール・プロパガンダとも言われています。

一方で、同年に『カサブランカ』がアカデミー賞最優秀作品賞を受賞しました。この作品はハル・ウォリスがプロデューサーでしたが、この賞の授賞式でハリ・ウォリスがトロフィーを受け取ろうとした際、ワーナー家全員が妨害するように道を塞いだとされています。結果的にトロフィーはジャック・ワーナーが受け取り、ウォリスは40年たったのちもショックから立ち直ることができないと言っています。

兄弟間の対立はジャック・ワーナーの裏切りによって決定的となりました。1956年にワーナー・ブラザースの売却劇がありましたが、この裏で密かにシンジケートを組織していたのがジャック・ワーナーでした。ハリーとアルバートは完全に虚を突かれ、ハリーは二度とジャックと口を利かなかったと言われています。こうして1970年代初頭までジャック・ワーナーは映画業界における大きな権威であり続けました。

1967年に、ジャック・ワーナーはカナダ人投資家のハイマン兄弟に経営権を売却しました。ついで1969年にハイマン兄弟は、スティーヴ・ロスのキニー・ナショナル・カンパニーの買収提案を受け入れました。キニー社は、1940年代後半に設立した当初は小さな駐車場に過ぎませんでしたが、やがてレンタカー、清掃、建設、芸能エージェンシーと手を広げ短期間で巨大化した会社でした。

こうしてワーナー・ブラザースは、ワーナー家の手を離れて、タイム・ワーナーからワーナーメディアへと進展していく道が形成されていきました。

1990年代末には『ハリー・ポッター』シリーズの映画化権を購入しました。『ハリー・ポッター』シリーズは現在までに全世界興行収入1兆円を超えた世界的なブームとなりました。

2019年にはスリラー映画『ジョーカー』が大ヒットしており、今に至るまで、ワーナー・ブラザーズはハリウッド業界での一大勢力としての地位を守り続けています。


・MGM

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※MGM(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー)は、アメリカの巨大メディア企業です。本社はカリフォルニア州ビバリーヒルズにあります。略称はMGMで、MGMの映画は吠えているライオンがオープニングで登場しますが、これをレオ・ザ・ライオンといい、このロゴには長い歴史があります。

MGMが最盛期だったのは30年代から40年代にあたりまでで、MGMは、早期に衰退期を脱したユニバーサル・ピクチャーズやワーナー・ブラザースとは異なり、長らく浮上することができませんでした。MGMの最盛期は経営部門のトップがルイス・メイヤーの時代とほぼ完全に重なるのは着目に値します。

日本との関連でいえば、2005年から2015年にかけてソニー・ピクチャーズ・エンターテインメントの資本が入っています。2010年にMGMは倒産法の適用を申請しましたが、『007 スカイフォール』、『ホビット 思いがけない冒険』の世界的大ヒットにより、MGMは破産状態から脱却することができました。

MGMの最盛期、特にルイス・メイヤーがトップであった時代と、その前身のルイス・メイヤー・ピクチャーズと、ルイス・メイヤーピクチャーズと合併したゴールドウィン・ピクチャーズの時代に着目すべきでしょう。第二次世界大戦以前に最盛期を迎えていたこの時代を見ていきたいと思います。

まず、サミュエル・ゴールドウィンと彼の会社ゴールドウィン・ピクチャーズについて見ていきましょう。

サミュエル・ゴールドウィン(1879 - 1974)は、出生時の名前はサミュエル・ゴールドフィッシュといいます。

ゴールドフィッシュはポーランド生まれのユダヤ人で、父親の死後、ワルシャワからハンブルグに移り住み手袋職人の訓練を受けていました。その後、イギリスのバーミンガムにいき、1899年にニューヨークに行きました。そこで衣料品のビジネスを行い、そこでマーケティングスキルを身に着けました。

その後、1913年に義理の兄であるジェシー・ラスキーやセシル・デミル、オスカー・アプフェルらとともにジェシー・ラスキー・フィーチャー・プレイ・カンパニーを設立します。1914年に会社はパラマウント・ピクチャーズの前身であるフェイマス・プレイヤーズ・フィルム・カンパニーと年間36本の映画供給の契約を結びました。

1916年に、ゴールドフィッシュはブロードウェイのプロデューサーであるセルフィン兄弟と共にゴールドウィン・ピクチャーズを作りました。この時、ゴールドフィッシュは正式に名前をゴールドウィンに改めます。先ほども紹介しましたが、この時のマスコットキャラクター、レオ・ザ・ライオンの商標が、のちのメトロ・ゴールドウィン・メイヤーに引き継がれ、今日まで記憶される存在になっています。

会社は、のちにマーカス・ロウのメトロ・ピクチャーズと合併してメトロ・ゴールドウィン・ピクチャーズに、次にルイス・メイヤー・ピクチャーズと合併し、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーになりました。

しかしサミュエル・ゴールドウィンは併合前に会社を放擲され、1923年にサミュエル・ゴールドウィン・プロダクションズを設立しました。会社は1959年まで続きました。

のちにサミュエル・ゴールドウィンJrも映画会社を設立しており、ゴールドウィンの影響力はこちら側にも生きています。

次にルイス・メイヤーについて紹介します。

ルイス・メイヤー(1884-1957)はロシア帝国領ミンスク生まれのユダヤ人です。父のヤコブは1886年にアメリカのニューヨークに渡り、その後カナダのセントジョンでスクラップ業者で働いていました。

メイヤーは1904年に親元を離れボストンでスクラップ業者として働きました。同じ年にメイヤーはマサチューセッツ州のバーバーヒルで小劇場を買収、1907年に改修して再オープンしました。1914年ころには映画の配給権の買収ビジネスを開始し、その時に得た資金を元手に1917年に映画製作会社のルイス・メイヤー・ピクチャーズを設立しました。

1924年にマーカス・ロウのメトロ・ピクチャーズ、サミュエル・ゴールドウィンのゴールドウィン・ピクチャーズと合同して、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーを設立し、副社長として実質的な主導権を掌握しました。

MGMはロイ・チェイニー、グレタ・ガルボ、クラーク・ゲーブル、スペンサー・トレイシー、ジュディ・ガーランドなどのスター俳優を輩出しました。

またMGMには天才的なプロデューサーのアーヴィング・タルバーグが在籍していましたが、1936年に37歳の若さで亡くなりました。

スター俳優と優れた映画製作のおかげで、大恐慌時のアメリカ経済にあって、MGMは好調を維持し、この頃にはハリウッドの最高峰の地位に立っていました。

第二次世界大戦が終結するとMGMのロマンス映画の人気かぎりが見え始め、テレビが一般家庭に浸透したこともあり、映画業界に逆風が吹き始めました。また、また、1948年のパラマウント訴訟の判決によって、大手スタジオは映画館の独占的支配権を一挙に失うことになりました。

1951年にはついに27年間保持し続けた最高権力を更迭されました。

ルイス・メイヤー時代の代表作には、『オズの魔法使い』、『風と共に去りぬ』、『トムとジェリー』シリーズがあります。

『ベン・ハー』はルー・ウォーレス原作によるMGMの1959年の映画です。

現在の『タイタニック』(1997)、『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』(2003)に並びアカデミー賞11部門を受賞を記録している、アメリカ映画史上最高峰の作品の一つとして作品です。

作品はキリスト、ナザレのイエスが生きていた時代のもので、ユダヤ人貴族の青年であるジュダ・ベン・ハーが主人公の作品です。

内容はローマの圧政時代のイスラエルにおいて、ユダヤ人であるベン・ハーとナザレのイエスの信念が互いに肯定的に扱われているという印象を受けます。

ハリウッドのユダヤ人たち、そしてアメリカのエスタブリッシュメントであるユダヤ人たちにとって、アメリカにおける大多数のクリスチャンに対して、ユダヤ人の存在を肯定的に感じさせるという意味で、非常に重要な役割を果たしてきた作品なのだろうという感じがします。

『ベン・ハー』は決して時期的に考えてもニューディール・プロパガンダとは言えないと思いますが、本質としてその目的は全く同じだと思います。

欧米、特にアメリカを中心にアメリカのエスタブリッシュメント、おそらくウッドロー・ウィルソン大統領の時代あたりから積極的に3S政策を推進してきたと考えられます。それは今もアメリカを中心に、全世界的に継続して行われています。

3S政策の3つのSとはすなわち、Screen(スクリーン)、Sports(スポーツ)、Sex(セックス)のことで、様々なプロパガンダ、あるいはパブリック・リレーションズ(PR)を構築することによって、一般大衆に政治に関心を持たないようにすることを指していいます。

現在のメディアのほとんどが、一般大衆が政治に関心を持たないように、あらゆる方法を用いています。アメリカでもそうですし、日本でもそうです。

私たちがエンターテインメントとして受け入れているものの多くは芸能・スポーツが中心ですが、これこそ3S政策の中心的な政策になります。映画・テレビ番組・スポーツなどのエンターテインメントのすべてが計画的に、国民から政治に関心を抱かせないために、そして深い熟慮を行わせないために存在しています。

ベン・ハーはプロパガンダとして非常にわかりやすいものですが、現在、世界に溢れている情報のほぼすべてがプロパガンダと言っても言い過ぎではありません。ヨーロッパで長い間諸国民に危険視されてきたユダヤ人が、いかに正義のために生きているのかをアメリカ人に印象付けるための作品と断定していいと思います。

1928年にフロイトの甥であるエドワード・バーネイズは『プロパガンダ』という著作を書いています。彼はウォルター・リップマンやギュスターヴ・ル・ボンなどから大衆心理というものを研究し、大衆操作を専門に活動していました。

フランスの社会心理学者ル・ボンは『群衆心理』の中で人々が集団のなかで物事を単純に考え、同じことを何度も繰り返し、暴力的に社会にかかわっていく心理に警鐘を鳴らしましたが、アメリカではすでに指導者たちがこの心理を利用して大衆を操作する方法を活用していました。

バーネイズは、プロパガンダを次のように定義します。

「大衆と、大企業や政治思想や社会グループとの関係に影響を及ぼす出来事を作り出すために行われる、首尾一貫した、継続的な活動」

現代のテレビ・映画・ラジオ・週刊誌などの多くがこのプロパガンダを広めるために存在しています。そして今、情報技術の発達によって、人々が戦前から続くプロパガンダの活動に気が付きだしています。現在はそういう時代と考えることができるでしょう。


・パラマウント・ピクチャーズ

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パラマウント・ピクチャーズの創設者のひとり、アドルフ・ズーカー(1873 - 1976)はハンガリー出身のユダヤ系アメリカ人です。

1891年にニューヨークに移住し、室内装飾店で働きました。その後、毛皮屋の見習いとして働くことになります。20歳の時には熟練したデザイナーとなっていました。1893年に毛皮事業を始め、支店を開設するほどになります。

1903年にいとこのマックス・ゴールドスタインが劇場に興味をもって融資を求めてきたことをきっかけに、ズーカー自身も映画業界に関心を持つようになりました。その後、ニューヨーク、ボストン、フィラデルフィア、ニューアークに一種のアミューズメント施設であるペニー・アーケードを開きました。

1912年、ズーカーはフェイマス・プレイヤーズ・フィルム・カンパニーを設立しました。その後、1916年にはサミュエル・ゴールドウィンの義理の兄にあたるジェシー・ラスキーの会社と合併し、フェイマス・プレイヤーズ・ラスキーを設立しました。

ズーカーの成功はすさまじいもので、1918年にはニューヨークに東京ドーム25個分に相当する広大な土地を買い取っています。そこに巨大な家とゴルフコース、プールなどを建設しています。さらに2年後に施設を倍以上拡大し、ズコーの私有のパラマウント・カントリークラブを作っています。

その後、今日知られるフェイマス・プレイヤーズ・ラスキーはパラマウント・ピクチャーズと改めました。

1920年代半ばには、その収益はフォックスの2倍、ユニバーサルの3倍、ワーナーの5倍ほどにもなっていました。

パラマウントは1948年のパラマウント訴訟まで、ハリウッドに圧倒的な地位を築いていました。パラマウントからゲイリー・クーパーやマルクス兄弟など、多くのスター俳優が誕生し、また、デイヴィッド・グリフィスのような名監督も輩出しています。特に大きな成功を収めたと言われるのが、女優のメイ・ウェストです。1933年の彼女の作品、『She Done Him Wrong』、『I'm No Angel』では、当時のパラマウントに巨万の富をもたらしたと言われています。

1928年に、パラマウントは、ユダヤ系のアニメーター、フィッシャー兄弟のフィッシャー・スタジオが製作した無声アニメーション、『アウト・オブ・ザ・インクウェル』をリリースしています。当時、フィッシャー兄弟はウォルト・ディズニーに対抗しうる数少ないアニメーターでした。

その後彼らが製作した『ポパイ』は、当時、ミッキーマウスを凌ぐ人気を誇っていました。フィッシャー・スタジオはやがてパラマウントに買収され、フェイマス・スタジオと改めています。フィッシャー兄弟は、パラマウントの管理下に置かれることでその知名度を失い、歴史に大きく名前を刻むことができませんでした。

ここでは1948年に判決が下されたパラマウント訴訟について触れたいと思います。

当時のアメリカの映画会社は5大企業とそれに続く3大企業によって牛耳られていました。

映画業界は、映画を製作する製作部門、製作した作品を映画館に卸す配給部門、それを映画館で放映する興行部門の三部門から成り立っています。

当時の映画会社の大手企業は、まず映画館を営む興行部門からスタートし、その後、配給部門を抑え、最終的には映画製作にまで進出するという形を取ることで巨大な企業へと成長していきました。

特に抜きんでていた5大企業がズーカーのパラマウント・ピクチャーズ、ルイス・メイヤーとマーカス・ロウのMGM、ワーナー4兄弟のワーナー・ブラザース、デビッド・サーノのよって創設されたRKO、ウィリアム・フォックスの20世紀フォックスでした。

これに準ずるの3企業がユニバーサル・ピクチャーズ、コロンビア・ピクチャーズ、そしてユナイテッド・アーティスツでした。

この8つの企業が、興行部門・配給部門・製作部門を自社で抑えることによって、製作した映画の優劣にかかわらず、安定的に映画を供給できる体制を築き上げていきました。

このため市場は寡占状態に陥り、特に5大企業によって、独立系の製作会社などは、製作した映画を映画館で放映できないという状態へと追いやられました。

このためアメリカの司法省が苦情や抗議にこたえて、この5社を相手に独占禁止法に触れているとして訴えることになりました。

裁判は長引き、1948年の地裁での敗訴を、RKOが、次いでパラマウントが合意しました。この結果、製作・配給・興行の三部門のネットワークは解体され、自社所有の映画館を手放すことになりました。

この判決と相まって、一般家庭にテレビが普及しだし、映画館の観客は徐々に減少傾向へと向かうようになりました。

この結果、かつては安定して供給できた低予算かつマイナーなB級映画が減少せざるをえなくなり、映画製作は大作主義へと移行していきました。1960年代から1970年代にかけて、映画の都ハリウッドは崩壊の危機に立つことになりました。

この一連の出来事をパラマウント訴訟といい、5大企業のなかでも最大手のパラマウントの名前をとって、以後このように呼ばれるようになりました。

訴訟の後、パラマウントは、長らく失速することになりましたが、70年代に『サタデーナイト・フィーバー』や『グリース』の世界的大ヒットを記録しました。また66年からパラマウント・テレビジョンから『スタートレック』シリーズが始まり、テレビシリーズのSFが開始されています。『スタートレック』は現在に至るまで断続的に数々の作品が生み出されています。

80年代以降、パラマウントは数々の映画が世界的大ヒットを遂げます。『13日の金曜日』(1980)、『インディー・ジョーンズ』シリーズ(1981 - )、『トップガン』(1986)、『クロコダイル・ダンディー』(1986)、『ゴースト』など挙げるときりがありません。

1994年にバイアコムに買収され、現在はアメリカ三大ネットワークのCBSコーポレーションの傘下に置かれています。ユニバーサル・ピクチャーズがNBCグループであり、いかにハリウッドと三大ネットワークのつながりが強いのかということもわかります。

アメリカを中心とした欧米のメディアは誰が握っているのかという手がかりを知る上でも、ハリウッドの歴史を覗き見る必要があると思います。

現在ささやかれているハリウッドのセレブリティに関する聞くに堪えないダークな噂も、今後、私たちが向かっている世界の実像を洞察するうえでも無視できない問題だと思われます。


・20世紀スタジオ

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※20世紀スタジオは、旧名の20世紀フォックスで長らく親しまれた会社です。2019年にウォルト・ディズニー・カンパニーが買収を発表し、2020年に社名を現在のものに変更しています。

もともとは、1935年にフォックス・フィルムと20世紀ピクチャーズが合併することによって成立したのが20世紀フォックスの始まりで、長らくアメリカの映画スタジオとしてビッグ6に君臨していました。

また20世紀フォックスは、テレビ・ネットワーク事業にも力を入れており、1986年に設立されたFox放送は、歴史の長い3大ネットワークのABC、CBS、NBCに拮抗し、現在は4大ネットワークの一角を築くほどに成長しています。

フォックスの顔となる作品の代表作はやはり1977年からスタートしたジョージ・ルーカス監督の『スター・ウォーズ』シリーズでしょう。9部作からなること作品には世界中が熱狂しました。

また、パラマウントとの共同製作である『タイタニック』はアカデミー賞11部門を受賞しました。

また1950年代に最も人気のあるセックスシンボルの一人として、世界の人々にとって、アメリカ文化の象徴ともなっているマリリン・モンローは20世紀フォックスの花形役者でした。もちろん、ここでは日本で戦前から長らく伝えられてきた3S政策という観点から、これらの現象をとらえることになります。

映画やテレビ、性文化やスポーツは、アメリカの長い歴史にあって、大衆を政治に関心を向けさせないための、愚民化政策の一環として利用されてきたと、常に一部の人たちに非難されてきた歴史があります。

これらの産業は実際に、アメリカの政府であるのか、あるいは大手企業であるのか、あるいは目に見えない統治機構であるのかはさておき、彼らと大衆との関係性を、首尾一貫した、間断のない構築するために利用されているかのように確かに私の目にも見えます。

20世紀フォックスの前身フォックス・フィルム時代に人気を博した天才子役シャーリー・テンプルもまた、幼児時代からセックスシンボルとして利用されています。アメリカでは労働基準法の中に「シャーリー・テンプル修正条項」というものがあります。

16歳以下の児童を被写体としてポルノを製作・販売することが禁じられています。アメリカでは長らく野放しであった児童ポルノはシャーリー・テンプルの活動によって規制の対象となりました。

彼女がハリウッドで経験したことと、彼女の児童ポルノ批判の関連性がどの程度のものだったのかまでは具体的内容までは言及できませんが、いずれにせよ、彼女がハリウッドで経験し、見てきた世界が彼女のその後の行動を決定づけたようには思います。

2010年ころに日本でも児童ポルノに関する議論が巻き起こりましたが、児童ポルノの規制の背景には、ハリウッド業界が児童に対して行ってきた様々な行為が多大に影響しているという背景を考慮にいれなければならないのです。

ただし、彼女は、アメリカの悪名高いシンクタンク、外交問題評議会に所属し、更に国際的な非公開会議であるビルダーバーグ会議の出席者でもあり、少なくともそういった業界の関係者であるという点もまた考慮にいれる必要があるでしょう。

それでは、20世紀スタジオの起源について見ていくことにしましょう。

フォックス・フィルムの創業者ウィリアム・フォックスは、出生名をビルモス・フォックスといい、ハンガリー生まれのユダヤ人で、生後9か月の時に両親と多くの兄弟たちと共にニューヨークに移住しました。

その後、新聞配達員として働き、毛皮や衣服産業などに従事していました。1900年から自身の会社を設立し、そこから起業家としてショービジネス業界で活動します。

1915年にフォックス・フィルムを設立し、1925年にはドイツから35㎜フィルムにサウンドトラックを組み込んだトリ・エルゴン・システムのアメリカでの権利を購入しています。

1927年にMGMのマーカス・ロウが亡くなり、その後を継いだユダヤ系のニコラス・シェンクはフォックスにロウの家族の持ち株を売却しました。しかしそれに対してMGMのルイス・メイヤーとアーヴィング・タルバーグが反トラスト法に反するとしフォックスを訴えました。1929年にフォックスは交通事故による怪我を負い、これに伴い株価も暴落し、フォックスはMGMの敵対的買収に失敗しました。

それどころか、ウィリアム・フォックスはフォックス・フィルムの支配権も失い、1935年には20世紀ピクチャーズに合併し、20世紀フォックスが誕生することになりました。

この時期と前後して、子役のシャーリー・テンプルが子役として一躍大スターに駆け上がっています。

フォックスとユダヤ教との関係ですが、フォックス・フィルムは1917年にハリウッドにソル・ヴルツェルという人物を派遣しましたが、この人物がハリウッドのシナゴーグ、イスラエル寺院の初代会長を務めています。

このイスラエル寺院は改革派ユダヤ人によるシナゴーグで、多数の映画業界関係者によって創設されました。このシナゴーグには1000家族以上が加入しており、学校も現在3つ所有するほどです。

女優のエリザベス・テイラーがこの寺院でユダヤ教に改宗し、過去にはボブ・ディランもこの寺院で過越祭に参加しています。

フォックス・フィルムと合併した20世紀ピクチャーズはロシア系ユダヤ人のユナイテッド・アーティスツの前社長ジェフ・シェンクと、ワーナー・ブラザーズ出身のダリル・ザナックなどを中心に1933年に設立されます。

ジェフ・シェンク(1878 - 1961)は1893年にロシアから家族でニューヨークに移住してきました。弟のニコラスとともにニューヨークの遊園地で売店を運営しました。エンターテインメント事業に可能性を感じた二人はアミューズメントパークを購入し、更にマーカス・ロウとと提携して映画業界に参入します。

西海岸に移住したシェンクは、数年後にユナイテッド・アーティスツの二代目の会長になりました。

一方のダリル・ザナックはネブラスカ州のホテル経営者の息子として生まれ、6歳の時にロサンゼルスに移住しています。作家としての仕事を求めながら映画のプロットを製作する仕事を見出し、ワーナー・ブラザースで映画プロデューサーとしての道を切り開きます。1931年には製造部門の責任者にまでなりました。

1933年にザナックはジェック・ワーナーと対立して会社を辞めることになりました。数日後にジェフ・シェンクと提携し、ニコラス・シェンクやルイス・メイヤーから資金援助をうけて20世紀ピクチャーズを設立しました。

20世紀ピクチャーズが映画を製作し、ユナイテッド・アーティスツにその映画を配給してもらうという形でスタートしました。1934年に『ロスチャイルド家』を映画化し、1935年には、ヴィクトル・ユーゴ―の小説を映画化した、『レ・ミゼラブル』がアカデミー賞最優秀作品賞にノミネートされています。

1935年にユナイテッド・アーティスツと20世紀ピクチャーズで報酬の支払い条件で対立し、当時低迷していたフォックス・フィルムと電撃的な合併をすることで、その後大企業としての道を歩むことになりました。

1935年に誕生した20世紀フォックスは、先ほども触れましたが、50年代にマリリン・モンロー主演作品などを手掛けましたが、1962年に作成した『クレオパトラ』が大失敗に終わり、一時は倒産の危機に陥りましたが、次第に軌道修正に成功します。

代表作の『スター・ウォーズ』がヒットし、数々のヒット作を生み出しました。『スター・ウォーズ』シリーズ以外では、1996年の『インデペンデンス・デイ』、1997年の『タイタニック』、2009年の『アバター』、シリーズものでは『ダイ・ハード』、『ホーム・アローン』、『X-MEN』や『アイス・エイジ』などがヒット作に数えらえています。

これまで、ユニバーサル・ピクチャーズ、ワーナー・ブラザース、MGM、パラマウント・ピクチャーズ、そして20世紀フォックスの歴史を見てきましたが、その創設者のほぼ全てがユダヤ人であったというのは、これまでの記事で紹介した通りです。そして、今回取り上げたハリウッドのシナゴーグ、イスラエル寺院が、多様性と進歩主義を信条とするユダヤ教改革派に属するという点も考慮に入れるべきでしょう。

多くの日本人には、ユダヤ教に見られるような多様性や進歩主義は、必ずしもどういったものか実感がないものと思います。したがって、私たち日本人の感覚とは全くことなる宗教観をもった人たちが、ハリウッド映画を製作してきたということを自覚すべきでしょう。

しばしば、ハリウッド業界では子役たちに対する性搾取が噂されていますし、事実、これまでもかつての子役たちのなかにはこのことを証言する人たちもいます。このような性搾取がハリウッドの伝統の中にあるということと、ユダヤ教改革派の中の中にある価値観や、彼らについての一般のアメリカ人の分析とを、私たちは考慮にいれるべきでしょう。

多くの日本人があまり知らないことですが、欧米ではカトリックの総本山のバチカンから、ユダヤ教に至るまで、アブラハムの宗教の中には、児童に対する性の搾取がしばしば取り沙汰されます。この点については、イギリスの進化生物学者のリチャード・ドーキンスが『神は妄想である』の中ではっきりと、このような事実があることをエヴィデンスを用いて提示しています。

日本人の多くはキリスト教やユダヤ教、イスラム教についての単純なイメージをメディアなどを通じて刷り込まれていますが、キリスト教やユダヤ教、イスラム教における世界観や価値観、道徳意識は、日本人の宗教観と比較して、きわめて多様であり、同時に多様であるがゆえに、恐ろしいほどの内部矛盾を抱えています。

ハリウッド業界は、子役を含めた児童に対する性の搾取に加えて、サタニズムや秘密結社との関係性すら指摘されています。これらの多くが、世間で陰謀論と片づけられる通りに、妄想であるならば、彼らに対する非難は確かに有名税では片づけられない程度の名誉棄損に相当します。
   
しかし、一方で、ハリウッド業界では彼らにしかその意味が解らないようなシグナルが多数盛り込まれている事実について、なんら説明に足りるような理由も見つかりません。



そして付け加えるならば、現在はインターネットを通じて、サタニズムの儀式などが動画などで公開されているというような状況であり、ハリウッド業界に関する多数の噂がすべて正しいとは言えないにせよ、部分的には正しいか、それに類することが行われていると考えたとしても、おそらく間違っていないものと思われます。

今回はシリーズとしてハリウッド業界がどういった人たちによって成立してきたのかを紹介しましたが、主題は映画でもハリウッドでもなく、政治であり、思想です。今回はこれらの議論を円滑に進めるための資料作成という部分があります。