・違法ではないが、道義としてどうか…新・菅政権の核心「自助」の源流を作った竹中平蔵のズルさとは(文春オンライン 2020年9月14日)

※次の首相になろうかという菅義偉は、「自助・共助・公助」が国の基本だという。聞こえはいいが主張の核心は「自助」だろう。

さかのぼれば、99年に小渕内閣の経済戦略会議が「個々人の自己責任と自助努力」をベースとする競争社会への変革を提言する。このとき公助(セーフティネット)もセットで言及されたが、結局は自己責任と自助努力が過度に求められる社会に向かっていった。

この経済戦略会議に竹中平蔵はいた。その後、竹中平蔵は小泉政権に入り込んで構造改革や規制緩和を推し進め、非正規雇用を増大させるなど、社会の様相を変えていく。

そんな竹中平蔵の評伝に、佐々木実『 市場と権力 「改革」に憑かれた経済学者の肖像 』(講談社・2013年 文庫改題『 竹中平蔵~ 』)がある。本書は、大宅壮一ノンフィクション賞や新潮ドキュメント賞を受賞するなど評価が高いことにくわえて、佐々木実が取材によって掘り起こした、あるエピソードが載ることでも知られている。それはどんな逸話か。

竹中平蔵のズルさ

――竹中平蔵が初めての著書を出版するのは33歳のときのこと。それによってサントリー学芸賞を受賞する。ところがそこには他の研究者と共同でおこなったものも取り上げられているのだが、「共同研究に基づくものであるという事実が、巧妙なやり方でぼやかされ」、竹中個人で行ったものであるかのようになっていた。成果をひとり占めされた共同研究者はその著書を見て、泣きだしたという。

本書に収められた数多くのエピソードのなかでも、これが特別ウケたようで、ネットでたびたび取り上げられている。それはなぜか。石井妙子『 女帝 小池百合子 』のマニキュアの話がそうであるように、ここに人物の本性が端的に出ているからだろう。それはひとびとが日頃から漠然とおもう、竹中平蔵のズルさだ。

違法ではないが、道義としてどうかという裏技

『市場と権力』には竹中平蔵のズルい話がいくつもある。住民税を回避するために住民登録の抹消と再登録を繰り返し、その術を林真理子との週刊誌での対談でおおっぴらに勧める。

あるいは小渕内閣の頃、「官房機密費を使ってアメリカに出張したいんです」と政府の諮問機関の事務局にお願いをする。不人気を極める森内閣のおり、その後の政局が自民党・民主党のどっちに転んでもいいように、両方のブレーンとなる。こうしたものだ。

違法ではないが、道義としてどうかと思うような、いわば裏技のようなやり口に対して後ろめたさがない。そんな人物像が浮かんで来る。

あるいは肩書の使いわけもそうだ。90年代末、竹中平蔵は慶応大学の教授など様々な肩書を得る。そのなかには国際研究奨学財団(後に東京財団に改組)の理事もあった。フィクサー・笹川良一が設立した日本船舶振興会からの資金で出来たシンクタンクである。

しかし笹川良一のダーティーなイメージを嫌ってのことか、「東京財団でやっていたことを書くときでも、慶大教授の肩書で発表していました。東京財団の名前は出さないことが多かった」という。

これは今日、竹中平蔵が新聞やテレビ番組などで労働に関する政策について論じる際に、パソナ会長の肩書を隠して大学教授を名乗るのに通じる話だ。もっともこうしたズルさの最たるものは、自らが進めた規制緩和によって儲けるパソナの会長になったことであろうが。

「博士号取得工作」で大学教授、シンクタンク、そして大臣へ
 
ところで竹中平蔵とは、いったいどんな経歴の人物なのか。1951年、和歌山県の履物屋さんの家に生まれ、地元の進学高から一橋大学へと進学し、政府系金融機関に就職する。

『市場と権力』にはそのおりおりのエピソードが並べられるのだが、「家業がどん詰まりになって、家に借金取りが押しかけたり、一家離散となったりして、社会への復讐を誓った!」というような強烈なエピソードがあるわけではない。裕福ではないが貧しくもない、いたってふつうの前半生である。

そして良くいえば如才なく、悪くいえばズルく、身ひとつで這い上がっていく。その過程で「博士号取得工作」などをして大学教授にまでなると、今度はサイドビジネスとしてシンクタンクの職を得る。このあたりが『市場と権力』の読みどころだ。佐々木実は、竹中平蔵にとってシンクタンクは「政治に近づくための手段であると同時に、大きな報酬を得るための大切な収入源」であり、「経済学という知的資産を政治に売り込み、換金する装置」であったと看破するのである。

このように「ビジネスとしての経済学」に目覚めた竹中平蔵だが、凡百の秀才と異なるのは、シンクタンク程度にとどまることなく、政府のなかに入っていき、さらには小泉内閣の大臣にまでなってしまうことだ。こんな人物はほかに例があるまい。同時にそれが日本社会にとって不幸を生み出していく。

自己責任・自助努力……「竹中平蔵君、僕は間違えた」
 
橋本健二『との戦後史』に印象的な一文がある。「一九九九年二月、その後の日本の運命を決定づけたといってもいい答申が発表された。経済戦略会議の『日本経済再生への戦略』である」。冒頭で記したように竹中平蔵はこの経済戦略会議の委員であった。そしてこの答申は平等・公平を重んじる社会から自己責任・自助努力の競争社会への転換を謳うのである。
 
これによって規制緩和が進められ、労働市場の流動化を図った結果、非正規雇用の増大を招くなどする。経済戦略会議の委員だった中谷巌は「あるべき社会とは何かという問いに答えることなく、すべてを市場まかせにしてきた『改革』のツケが、経済のみならず、社会の荒廃をも招いてしまった」と、文藝春秋2009年3月号掲載の「竹中平蔵君、僕は間違えた」と題する小論で自己批判する。

もちろん竹中平蔵は「間違えた」などとは思ってはいまい。なにしろ規制緩和によってできた市場で儲けるパソナの会長になったくらいだ。

安倍晋三が首相となった翌月の2013年1月、新設された産業競争力会議の場にさっそく竹中平蔵はいた。そして今日にいたるまで政治に影響を及ぼし、菅義偉も安倍政権の継承をいうくらいだから、今後もそれが続くだろう。

佐々木実『市場と権力』は、竹中平蔵のピカレスクであると同時に、この先も社会が抱え続けるであろう宿痾がいかにして生まれ、肥大化していったのかを知るという点において、7年前に書かれたものでありながら、今現在を書いたノンフィクションなのである。


・竹中平蔵氏、処女作出版時に「共同研究独り占め」騒動を起こしていた 成果を横取りしていた…(ゲンダイismedia 2020年9月15日)

佐々木 実ジャーナリスト

※1990年代後半以来、歴代内閣のブレーンとして権力の中枢で影響力を行使し続けてきた竹中平蔵氏。ジャーナリストの佐々木実氏がこの特異な人物の実像に迫ったノンフィクション『市場と権力』が、このたび『竹中平蔵 市場と権力』として文庫化される。

同書が明らかにした重要な事実の一つに、竹中氏の処女出版が共同研究の成果を「独り占め」したものであるということがある。

日本開発銀行(開銀)の職員だった竹中氏は、1981年からアメリカ・ハーバード大学で研究員となり、開銀の2年先輩で、当時ペンシルベニア大学の研究員として留学していた鈴木和志(かずゆき)氏と共同研究を行なっていた。しかし帰国後、出向先の大蔵省で処女作の出版を目指した竹中氏は、当時の共同研究の成果を「独り占め」してしまう――。

以下は、その経緯を記した同書からの抜粋である。

独り占め

大蔵省大臣官房調査企画課の財政金融研究室に在籍していた竹中は、大蔵省での仕事とは別に、自分自身の将来を左右することになる重要な個人的プロジェクトを密かに進めていた。処女作の執筆である。

大蔵省に出向した際にはすでに構想を温めていたようで、大蔵省で上司となった吉田和男には話を打ち明けて協力を依頼していた。吉田の証言。

「本を出版するということだったので、それはがんばってもらわんといかんな、と。すでにストックがあって、それをまとめたいというので、私もいろいろなところを紹介しましたよ。(論文にする)材料はもっているということでしたので」

竹中の処女作には、吉田以外にも指導教授の役割を果たした経済学者がいた。ペンシルベニア大学で知り合った小川一夫である。小川はペンシルベニア大学で博士号を取得して帰国し、当時は神戸大学に在籍していた。

竹中は月に一、二回は東京から神戸に出向き、小川に論文の手直しなどを手伝ってもらっていた。小川の証言。

「開銀にいたとき書いたものをまとめて本にしたいということでした。その本で学位をとりたいということだったのだろうと思います。竹中さんは大学院に行っていなかったから、博士号をとりたかったのだと思いますよ」

小川に送ってくる論文はワープロ書きではなく、手書きだった。忙しい仕事のあいまを縫って書き継いだのだろう。

本を完成させる作業のなかで研究者としての自信を得たのではないか、と小川は話した。

「設備投資の状況を見ながら、景気の判断ができるようになったよ」

小川に向かって竹中はそう言ったという。

じつは、竹中の著作が刊行された際、開銀の研究関係者たちは一様に驚いた。というのも、開銀時代の論文がベースになっていたにもかかわらず、開銀には出版の話を事前にはいっさい明かさなかったからだ。そして、竹中の著作が引き起こしたある事件が、瞬く間に開銀内に波紋を広げることになった。

事件の一部始終を知ることになった経済学者がいた。宇沢弘文である。宇沢は日本を代表する経済学者である。スタンフォード大学、シカゴ大学に在籍して数々の研究実績をあげ、若くして世界にその名を知られるようになった。アメリカから帰国したあと、東京大学で教鞭をとるかたわら、設備投資研究所(*)の顧問として開銀の研究者たちを指導していた。

*編集部註:竹中氏が所属していた開銀内の研究所。

竹中の処女作をめぐる事件の顛末を聞くために、私は東京・渋谷区の閑静な住宅街に宇沢を訪ねた。

「ぼくは初代の所長だった下村治さんとよく話をしたんですけれども、設備投資研究所はリベラルな雰囲気をつくってやっていこうということで運営していたんです。竹中君の一件はそれを傷つけちゃったようなところがあってね。それまではリベラルな雰囲気でみんなでいっしょにやっていたんだけれども……ものすごいダメージを与えるんですよ、ああいうことは」

じつのところ、事件の顛末を詳しく聞くことはかなわなかった。宇沢がきっぱりとこういったからである。

「わざわざ来ていただいて悪いんだけれども、彼の一件についてはもう話もしたくない、というのがぼくの率直な気持ちです」

なにが起きていたのか。当時の関係者の話から浮かび上がってきた事実を記してみたい。

発表を拒否されたにもかかわらず…

竹中の処女作『研究開発と設備投資の経済学 経済活力を支えるメカニズム』が東洋経済新報社から出版されたのは一九八四(昭和五九)年七月のことだった。設備投資研究所で顧問をつとめる宇沢のもとには竹中から献本が届けられた。

「竹中君がこんな本を送ってくれたよ」

設備投資研究所で、宇沢は鈴木和志に本を見せた。鈴木と共同研究した内容が入っていたからだ。ところが、鈴木は本を見て、驚いた顔をしている。不審に思った宇沢がたずねると、献本がなかっただけでなく、竹中が本を出版したことすら知らなかった。激しいショックを受けていることは傍目にも明らかだった。宇沢や同僚たちがいる前で、鈴木は泣きだしてしまったのである。

じつは、本を出版するかなり以前に、竹中は鈴木のもとを訪れていた。共同研究の成果を竹中個人の名前で発表することの承諾を求めたのである。鈴木は拒否した。

「ふたりで研究したのだから、発表するならふたりの名前で発表してほしい」

鈴木は竹中にそういった。結局、話し合いはつかず、ふたりは別れた。このあと、竹中からは何も知らされることはなかった。しかも突然出版された本には、承諾しなかった共同研究の成果が収められていたのである。それは鈴木にとってもアメリカでの研究の集大成だった。悔しさのあまり、鈴木は涙を流したのだった。

ふたりが共同研究を発表した経緯は前に述べたとおりである。竹中の本が出版される二年前、設備投資研究所の『経済経営研究』に発表した「税制と設備投資」がふたりの研究成果だった。

エイベルの投資理論を日本経済に適用した実証研究は、竹中の処女作の価値を高める重要な論考だった。そこには、「税制と設備投資」で行った実証研究の結果が引用されていた。ペンシルベニア大学でふたりの研究作業を見ていた小川一夫の証言では、「データのハンドリングは鈴木さんのほうがやっていた」のだから、実証研究は鈴木が主導していたことになる。

ところが、竹中の処女作では、鈴木との共同研究に基づくものであるという事実が、巧妙なやり方でぼかされていた。「あとがき」に初出論文が列挙されているのだが、鈴木との研究についてはなぜか『日本経済新聞』一九八二年二月二日掲載の「経済教室」のほうをあげている。先述したように、これは早くエイベルを紹介しておくために書いた紹介記事にすぎない。ふたりが本格的な論文を書くのはそのあとだ。

ささいなことにみえるかもしれないが、鈴木にとっては見逃すことができない重要な記述である。日経の紹介記事が竹中との研究成果ということになってしまえば、読者は当然、その後竹中がひとりだけでエイベル理論の研究を深めたと解釈するからだ。

一方、肝心の共同研究「税制と設備投資」を、竹中は数多く列挙した「参考文献」のなかに意図的に紛れ込ませていた。鈴木との共同研究はあくまで紹介記事のほうであるというのだ。鈴木が共同論文の成果を竹中個人の著作に入れることを拒んでいた経緯を考えると、竹中が考え出した巧妙な仕掛けとしか考えられない。

明治大学教授の鈴木に電話で話を聞くと、「あまり思い出したくないことなので……」と言葉少なだった。本が出版されて以降、竹中とのつきあいはまったくなくなったという。本の内容についてたずねようとすると、「見たくないから見ていません」とだけ鈴木は言った。

「鈴木さんとなにかあったみたいだけど、大丈夫なのか?」

出版直後、トラブルが起きていると耳にした同僚が心配してたずねると、竹中からはこんな返事が返ってきた。

「鈴木さんのところはちゃんと切り分けてやったよ。だから大丈夫だよ」

学者に転身するための単著

じつは、竹中の処女作を見て驚いたのは鈴木だけではなかった。開銀の後輩研究者だった高橋伸彰は、自分が作成したはずのグラフが竹中の本に掲載されているのを発見して驚いた。

これは高橋が、開銀の定期刊行物『調査』で発表した論文のなかで作成していたグラフだ。縦軸に設備の年齢(新旧)をあらわす「ヴィンテージ」、横軸に「投資率」をとって描かれた曲線は、設備の新しさと投資率の関係を示すもので、高橋の論文の核になるグラフだった。

竹中は、高橋の名前を出すこともなく、このグラフを勝手に拝借していた。グラフの下には「各年のヴィンテージは日本開発銀行推計」とだけ書かれていた。事情を知らない読者が見れば、竹中が独自に作成したと勘違いするに違いない。

現在立命館大学で教鞭をとっている高橋は研究室でこう話した。

「最初見たときはびっくりしましたよ。しょうがないなあ、とは思ったけど、竹中さんには言ってません。そのことよりぼくが不思議に思ったのは、あの本が設備投資研究所の成果、とくに石油ショック以降の研究を集大成した内容だったことです。だから、個人名の著作として出版されたことに違和感をもった」

開銀の研究者たちには隠すように、しかも鈴木とのあいだで問題が起きるのは目に見えているのに、なぜ竹中はこのようなやり方で本の出版を強行したのだろうか。

竹中の処女作出版に尽力した人物がいた。開銀の上司だった佐貫利雄である。佐貫は、自分の本の担当編集者だった東洋経済新報社の渡邉昭彦を竹中に紹介している。

「単著を書け。共著を書いても意味がないぞ」

佐貫は竹中に、日ごろから繰り返しそうアドバイスしていた。単著とは、単独で書いた著作物である。経済学では共同論文はめずらしくないが、アカデミズムで認められて学者に転身するためには、まず単著を著して博士号を取得することが必要だ、と佐貫は事あるごとに説いていた。

それは佐貫が実際に実行した方法でもある。

共著では博士論文として提出するときに支障があるし、業績として申告するときにも単著よりはるかに価値が落ちる。

竹中の論文執筆を手伝った小川は「博士号をとる」ことが目的だったのだろうと証言したけれども、竹中が単著にこだわったのもそのためだろう。

処女作が出版された時期、ちょうど大蔵省の当初予定の出向期限が切れる間際だった。竹中としても背水の陣をしいた賭けだったのである。担当編集者としてつきあった渡邉はこんな感想を漏らした。

「大学院を出ていなくても、開銀では排除されていても、単行本でなら勝負できると感じて、実際に勝負したんだと思うよ」

『研究開発と設備投資の経済学』は、一九八四年度の〈サントリー学芸賞〉を受賞することになった。選考委員の森口親司京都大学教授は選評で、「著者は以前に日本開発銀行設備投資研究所に勤めていただけに、研究上の有利さがあった」と述べている。

大蔵省に出向して事務仕事で長富の信頼を勝ち取り頭角をあらわした竹中は、受賞を機に、研究者としても存在感を示すことができるようになったのである。