・人間爆弾・桜花を発案した男の「あまりに過酷なその後の人生」
偽名を使い無戸籍のまま生き続けた(現代ismedia 2019年3月23日)

神立 尚紀

※「桜花」――戦時中の日本軍の非常さを象徴する、生還不能の特攻兵器につけられた名である。大型爆弾に操縦席と翼、ロケットをつけ、母機から放された瞬間に搭乗員の死が約束されるこの兵器は、敵の米軍にとって理解不能だったようで、彼らは「Baka Bomb(馬鹿爆弾)」と呼んでいた。

この兵器を発案した男は、終戦直後に死亡したとされたが、生存説もささやかれ、長らくその消息は謎に包まれていた。だが、5年前、遺族から神立さんへ一報があり、戦後、別人として生きてきた詳細な軌跡が判明する。

「特攻兵器『桜花』の生みの親」という過去を消し去って生きた男は、どのような後半生を送っていたのか?

特攻兵器「桜花」の初陣は全機撃墜された

いまから74年前、昭和20(1945)年3月21日午前11時20分。鹿児島県の鹿屋海軍航空基地から、「神雷(じんらい)部隊」の異名をもつ第七二一海軍航空隊の双発の一式陸上攻撃機(一式陸攻)18機、続いて、陸攻を護衛する零戦が相次いで離陸滑走をはじめた。

一式陸攻のうち15機は、胴体下の爆弾倉からはみ出す形で、小型の飛行機のようなものを搭載している。それは、母が子を抱いているような姿だった。陸攻に抱かれていたのは特攻兵器「桜花」。1.2トンの爆弾に翼と操縦席とロケットをつけ、それを人間が操縦して敵艦に体当りする超小型の飛行機で、「人間爆弾」とも呼ばれる。

母機の一式陸攻に懸吊(けんちょう)されて敵艦隊の近くまで運ばれ、投下されると主に滑空で、ときには装備したロケットを噴射して増速し、搭乗員もろとも敵艦に突入することになっていた。一機で一艦を撃沈することを目的とした、日本海軍の最終兵器だった。

「桜花」はこれが初の出撃だったが、レーダーで探知して待ち構えていた米海軍戦闘機と遭遇、敵艦隊にたどり着くことなく、全機が母機とともに撃墜された。護衛の零戦も、30機のうち10機が還らなかった。桜花搭乗員15名、一式陸攻搭乗員135名、零戦搭乗員10名、計160名もの若い命が、九州・都井岬南東の沖に消えた。

この日、神雷部隊を攻撃する米軍戦闘機のガンカメラ(機銃発射に連動して動画を撮影する、戦果確認用カメラ)のカラー映像が残されている。攻撃を受けて次々と火を噴き、あるいは片翼を飛散させて墜落してゆく一式陸攻の姿は、テレビ番組でもたびたび放送されている。

――米戦闘機の奇襲を受けた護衛戦闘機の零戦が、反撃に転じようと上昇する姿。総重量2トンを超える「桜花」を搭載した一式陸攻は、本来のスピードが出せない。それでも、被弾して火を噴き、墜落する瞬間まで、指揮官機に続こうと必死の操縦を続け、銃座からは米戦闘機に対して激しく機銃を撃ち続けている。「桜花」を切り離せば身軽になるのに、あくまでも攻撃を成功させようとしているのが手に取るように伝わる映像である。

この日、陸攻隊を指揮した野中五郎少佐は、数多の実戦経験から、一式陸攻が「桜花」を搭載したまま、無事に敵艦隊上空に到達できるとは考えておらず、

「俺は、たとえ国賊とののしられても、桜花作戦だけは司令部に断念させたい」

と、後輩の指揮官に漏らしていたという。出撃前夜には、桜花隊分隊長の一人であった林富士夫さん(当時大尉)に、

「ろくに戦闘機もない状況ではまず成功しないよ。特攻なんてぶっ潰してくれ」

と遺言していた。

野中少佐の言葉もむなしく、以後、桜花隊の出撃は10回にわたって続き、神雷部隊は、「桜花」搭乗員55名をふくむ829名もの戦死者を出した(陸攻搭乗員や護衛の零戦搭乗員、また零戦で特攻出撃した者もふくむ)。「桜花」による戦果は、米側記録との照合で、駆逐艦1隻撃沈、3隻に再起不能となるほどの大きな損傷を与え、ほか3隻を小破させたことが判明している。

「桜花」を発案したのは叩き上げの特務士官

ひとたび母機から切り離されれば絶対に生還が不可能な、この非情極まりない兵器を発案したとされるのは、大田正一少尉である。

大正元(1912)年8月23日、山口県熊毛郡生まれ、昭和3年6月1日、海軍四等水兵として呉海兵団に入団した、叩き上げの特務士官(兵から下士官、准士官を経て累進した士官)である。普通科電信術練習生、偵察練習生を経て、飛行機の偵察員(2人乗り以上の飛行機で、航法、偵察などを担当する)となり、支那事変(日中戦争)では九六式陸上攻撃機に乗って、多くの実戦に参加した。

その後、准士官(兵曹長)進級とともに予備役となり、即日召集されて教官配置につき、太平洋戦争では司令部所属の輸送機の機長として、ラバウル(現・パプアニューギニア)を拠点に、南太平洋の前線で空を飛んでいた。

その大田が、なぜ「桜花」を発案するに至ったのかは謎に包まれている。少尉といえば士官のなかでは最下級で、実務の上では大尉か中尉の分隊長を補佐する「分隊士」、実戦だとせいぜい小隊長クラスである。しかも海軍では、同じ少尉の階級でも、海軍兵学校出身の士官と、大田のような、叩き上げのノンキャリアでは扱いに大きな差があった。

さらに軍人社会は「現役」最優先で、「予備役」は格下に見られる。一度予備役に編入、つまりクビを宣告され、再び応召した、大田のような経歴の少尉のアイディアが上層部を動かし、兵器の開発につながるということは、普通ならば考えられないことだ。

さらに、大田は終戦直後の昭和20年8月18日、零戦を操縦して茨城県の神ノ池基地を離陸し、そのまま行方不明となっている。大田は、終戦時中尉だったが、のちに「公務死」として死亡が認定され、大尉に進級、戸籍も抹消されたという。

――だが、大田は、実は海上に不時着水、漁船に救助されて生きていた。北海道で引揚者に紛れ、新たに戸籍をつくったという噂も、まことしやかにささやかれたが、その消息については詳らかでなかった。私が神雷部隊の戦友会に出たり、関係者をインタビューするようになった20数年前も、大田については皆、あえて話題にするのを避けているような雰囲気があった。

戦後は、名と年齢を偽り、無戸籍で暮らす

私のもとへ、大田正一の遺族を名乗る人から、講談社を通じて連絡があったのは5年前、平成26(2014)年の春のことである。大阪市在住の大屋美千代さんというその女性は、大田正一の息子の妻で、結婚後は大田と同居し、晩年、介護もしていたという。

はじめは、半信半疑だった。これまでにも、戦死したはずの著名な軍人が実は生きていた、という話は時おり浮上することがあって、調べてみると、その全てが勘違いや作り話の類だった。今回も、あるいは大田正一を騙る別人の親族なのではないか、という疑念がふと頭をよぎったのだ。

だが、大阪・梅田の新阪急ホテル喫茶室で美千代さんと会い、話を聞き、持参いただいた写真を見たとき、そんな疑心は吹き飛んだ。

戦後、就職のために撮られた証明写真。その太い眉、するどい眼光は、戦中に撮られた写真で知る大田正一と、まぎれもなく同一人物である。美千代さんの話も、義父が大田正一その人であることに、全く矛盾のないものだった。

大屋さんは、これまでずっと、義父が桜花を発案したことは家族の胸にしまってきたのだという。だが、『桜花』のことをテレビで見て、母機の一式陸攻もろとも撃墜される姿に衝撃を受け、これは黙っているわけにはいかないと思い、私に接触を試みてくれたのだ。

「義父(ちち)は、『横山道雄』と名乗っていました。戦後、昭和26(1951)年に大阪で、大正14(1925)年生まれの義母と出会い、主人と二人の弟が生まれたんですが、義父は大正11(1922)年12月11日生まれと称していて、私たちもずっとそれを信じていました。実は大正元年生まれで、10歳もサバを読んでいたんです。若く見えたので、誰も疑わなかったですね。

大屋というのは義母方の姓で、戸籍がないから、義母とは正式に籍は入れられないままでした。私がお嫁に来て、いちばん仲良しだったのが義父でした。義父も私も血液型がAB型で、そのせいか気が合ったんです。いつも晩酌のお供をしていました」

美千代さんの夫・大屋隆司さんは、昭和27(1952)年生まれで、いまは電気工事関係の仕事をしているという。

「義父は、身長が175センチぐらいあって体格がよく、本人は働き者なんですが、勤め先で何か証明書を求められたりするたびに辞めて、また次の仕事を探す、という具合で、生涯で20いくつも仕事を転々としていました。しかし、うちはあまり干渉しない家族で、なぜ戸籍がないのか、深く考えて問いただしたこともなかったですね。

義父の性格は、山っ気があるというか、水力発電とか、太陽光湯沸かし器とか、いろんなアイディアが次々と出てくる人でした。器用な人で、いま住んでいる家も、大工の修業もしてないのに、自分で要塞みたいな家を建てたんです」

美千代さんによると、義父・横山道雄こと大田正一は、戦後何度か戸籍の回復を試みたものの、結局、死ぬまで無戸籍のままだった。就職のため本人が書いた履歴書を見ると、本籍地の欄は山口県ではなく、北海道と偽って記されている。仕事が不安定なので、義母の義子さんが資生堂の工場に勤めて家計を支えた。

晩年、癌を患い、無戸籍ゆえに保険にも入っておらず、医療費が高額となったことから、家族が、改めて戸籍作成と医療保護の申請をした。その結果、「大田正一」の名で医療保護は受けられたものの、戸籍の回復は間に合わなかった。手続きの過程で、義父には戦中に築いたもう一つの家族がいたことも、初めて知ることになった。

次に私は、大阪市東淀川区の大屋さん方を訪ねた。大屋さんの家は、裏に児童公園を隔てた淀川沿いにあって、晩年の大田正一は、いつも裏口に椅子を出して空を眺めていたという。美千代さんの夫・大屋隆司さんにとって、大田正一は――あくまで横山道雄としてではあるが――子煩悩なよき父親だった。

「子供の頃はよく、朝早くに天王寺動物園の周囲を散歩しながら、柵越しに動物を見たのを憶えています。私は、15歳までは(父の偽名である)横山姓でしたが、それ以後は母方の姓を名乗るようになりました。母から、父の本当の名前と『桜花』の発案者であることを教えられたのは、中学生の頃だったと思います。

それは、ショックでしたよ。まさか偽名だとは思わなかったし、あのやさしい父が、非人道的な特攻兵器を発案したなんて、信じられなかった。高校生の頃、本屋さんに行っていろんな本を読んでみましたが、『人間爆弾』を考え出す人間性を疑うというか……。父は、私が小さいときから、酒を飲んでは戦争の話を、もう辟易するほどに語ってましたが、『桜花』については何も言わなかったですね」

異例の経緯で採用された「桜花」の開発

大田正一が南方戦線にいた昭和18(1943)年春からの約一年間は、ガダルカナル島失陥にはじまり、米軍を主力とする連合軍が、まるでブルドーザーで地面をならすような勢いで、南太平洋のソロモン諸島、中部太平洋のマーシャル諸島、そして北太平洋のアリューシャン列島など、それまで日本軍が築いてきた拠点に侵攻し、航空部隊の損失も目に見えて増えていた時期である。

すでに、昭和18年6月末頃から、海軍部内では、飛行機に爆弾を積んだまま敵艦に突入するという捨て身の戦法が議論に上るようになっていた。昭和19年2月下旬には、のちに「回天」と名づけられる「人間魚雷」の試作が、極秘裏に始められている。

昭和19(1944)年4月4日、軍令部第二部長(軍備担当)・黒島亀人少将は、第一部長(作戦担当)・中澤佑少将に、特攻兵器を開発することを提案し、その案を元に軍令部は、9種類の特殊兵器の緊急実験を行なうよう、海軍省に要望した。

前線から帰還し、神奈川県の厚木基地に新設された輸送機部隊である第一〇八一海軍航空隊に転勤した大田が、大型爆弾に翼と操縦席を取りつけ、操縦可能にした「人間爆弾」の着想を、同隊司令・菅原英雄中佐に伝えたのは、昭和19年5月のこととされる。

これには、「戦局の悪化を目の当たりにしたから(ラバウル方面での搭乗員戦死率は、投入された人数の概ね75パーセントにのぼっていた)」、「陸海軍で模索されていた誘導弾の最大のネックである誘導装置を人間に置き換えた」など、いくつか断片的な説があるが、いずれにせよ、体当り攻撃自体が、海軍の既定路線とされつつある時期のことである。

大田は、支那事変(日中戦争)の頃、ロケットで敵機の針路前方に投網を打ち上げて撃墜しようとの思いつきを披露したエピソードの残る、いわば奇抜なアイディアマンであり、これは、美千代さんが語る戦後の姿とも重なる。本人のこの発明家的資質が、自ら目にした南方戦線の現実と重なり、「人間爆弾」の着想につながったのだと思われる。

大田は菅原中佐の推薦で、そのアイディアを航空技術廠(空技廠)長・和田操中将に提案した。和田中将はこれを、海軍の航空行政を司る航空本部に伝え、航空本部の伊東祐満中佐と、軍令部の源田實中佐とが協議して研究を進めることとなった。

海軍の技術、行政、軍令の中枢が、たかが一少尉の進言で動くということは通常ではありえないが、そのありえないことが起きた。大田はさらに、三菱名古屋発動機製作所を訪ね、陸軍が開発中の「イ号誘導弾」と称する、母機から投下する有翼誘導弾のあらましを聞き出した。

大田が次に訪ねたのは、東京帝国大学工学部に付属する航空機研究所である。東大では、小川太一郎教授を通じて実現可能性の実験や概略の設計を依頼、木村秀政所員が機体形状をまとめ、谷一郎教授が風洞実験のデータを計測した。大田がなぜ、ここまでのことを行動に移せたのも謎の一つである。

海軍航空きっての実力者で、軍令部で特攻を推進する立場にあった源田實中佐の口添えがあったからだとも言われるが、戦後、航空幕僚長を経て参議院議員を務めた源田は、平成元(1989)年に亡くなるまで、そのことについていっさい語っていない。

いっぽう、6月19日には、第三四一航空隊司令・岡村基春大佐が、第二航空艦隊司令長官・福留繁中将に、「体当り機300機をもって特殊部隊を編成し、その指揮官として私を任命されたい」と意見具申している。

大田のアイディアは、「特攻」に舵を切ろうとしていた軍令部や、一部の第一線部隊指揮官にとってまさに渡りに舟、希望に沿うものであったのだ。

開発決定と同時に、「生還不能の新兵器」搭乗員募集

昭和19(1944)年8月16日、航空本部は大田少尉の「人間爆弾」試案に○大(マルダイ)の秘匿名をつけ、空技廠に試作を命じた。のちの「桜花」である。

〇大の設計を担当した三木忠直技術少佐は、人間が乗って敵艦に体当りするという構想を聞かされたとき、「なにが一発必中だ。そんな物が造れるか、冗談じゃない」と憤慨したが、「いったい誰を乗せるつもりだ」との問いに大田が、「私が乗ってゆきます。私が」と答えたことで、

〈私は、操縦者の意志の代表として、彼の発案を喜んで実現の促進に努力する腹を決めた。〉

と戦後、手記に記している。

三木は戦時中、「桜花」の出撃が報じられたさいの新聞インタビュー(昭和20年5月29日付毎日新聞)には、

〈魂と科學の一體(いったい) 「神雷」生みの親・三木少佐〉

との見出しのもと、「桜花」(記事中の呼び名は「神雷」)はドイツのⅤ-1(巡航ミサイルの始祖)に呼応して研究が進められたロケット兵器で、地上を目標とするⅤ-1と異なり、海上の艦船を目標とするには無人機では到底不可能、どうしても人の手を借りねばならない、とした上で、〈この悩みを解決したのが大田中尉(當時少尉)である〉と述べている。三木は戦後、鉄道技術者となり、初代新幹線や小田急ロマンスカー(3000形)などのデザインを手がけた。

○大の試作が決まったのを受け、昭和19年8月中旬、第一線部隊をのぞく日本全国の航空隊で、「生還不能の新兵器」の搭乗員希望者を募集した。「新兵器」がどんなものであるかは、その時点では明かされていない。

筑波海軍航空隊の零戦搭乗員・湯野川守正中尉は、飛行学生になる前、軽巡洋艦「阿賀野」に乗組み、ガダルカナル島攻防さなかのソロモン戦線での戦いを経験している。ただ一度の出撃で死に至る任務を志願することにはためらいもあったが、

「この戦争は尋常な手段では勝てない。同じ負けるにしても負けっぷりというのはある。どんな兵器かは知らないが、自分の命を有効に使えるならやってやろうじゃないか。母が悲しむかも知れないが、俺は次男で、戦死要員だ」

と決心し、「熱望」の意志を上層部に伝えた。

「桜花」の開発は急ピッチで進み、併行して部隊の編成も進められた。10月1日、茨城県百里基地で「桜花」を主戦兵器とする第七二一海軍航空隊(神雷部隊)が誕生(11月7日、同じ茨城県の神ノ池基地に移動)。先に特攻部隊の指揮官になることを熱望した岡村大佐が司令となり、湯野川中尉(のち大尉)は、この隊の桜花隊分隊長となった。10月31日、爆薬の代わりに水を搭載、着陸用の橇(そり)をつけた桜花一一型単座練習機(K1)が、長野一敏飛曹長の操縦で初の実用実験に成功する。開発が決定してから、わずか2ヵ月半後のことだった。

湯野川さんの回想――。

「ずいぶん単純な飛行機だな、というのが『桜花』の第一印象でした。搭乗員は一度ずつ、『K1』の搭乗訓練を受け、それが終われば、あらゆる作戦に使用可能な『技倆A』とみなされます。母機の一式陸攻から、ハシゴを伝ってK1の操縦席におさまると、風防を閉め、バンドを締めて各部を操作し、異常なければ『・---・』と、電信音で母機に合図を送る。高度3500メートル、投下のタイミングがくると、母機から『・・・-・』という信号が届き、最後の短符が耳に届くと同時に、K1は母機から切り離される。

乗り込んだときはあまりいい気はしませんが、投下されてガーッと機首を突っ込んで、250ノット(時速約460キロ)ぐらいの高速で操縦桿を動かしてみたとたん、これはいい!と思った。舵の効きがいいし、すばらしく操縦しやすい。零戦のようなエンジンのある飛行機だと、下手に急降下するとどうしても機首が浮いてしまいますが、『桜花』(K1)は自由自在、思ったところへきちんと持って行けるんです。面白い、これでやってやろう、と。逆説的ですが、『桜花』ほど安全な飛行機はない、とさえ思いました」

K1訓練中の死亡事故は2回、不時着重傷が1名、それとは別に、改良型桜花二二型の投下実験での殉職が1名という。湯野川さんは戦後、航空自衛隊に入り、空将補。音楽評論家・湯川れい子さんの実兄である。

「腕で守れなければ身をもって守れ」

10月17日、フィリピン・レイテ島のレイテ湾口にほど近いスルアン島に米軍が上陸、これを米軍の本格的な侵攻の前ぶれと判断した日本海軍は、総力をもってこれを迎え撃つべく「捷一号作戦」を発動。一連の戦闘で、戦艦「武蔵」以下多くの艦艇を喪失する記録的大敗を喫する。

だが、現地で編成された、零戦に250キロ爆弾を搭載して敵艦に体当りする「神風特別攻撃隊」が、10月25日、初めて敵艦に突入、米護衛空母撃沈などの戦果を挙げた。フィリピンを米軍に取られれば、いずれ沖縄、本土が脅威にさらされるのは目に見えている。

「桜花」はフィリピン戦線に投入されることになり、神雷部隊には12月23日、レイテ湾の敵艦船に攻撃をかける内示が出された。そのため、「桜花」の整備員11名がフィリピンに先発する。

ところが、「桜花」を輸送途中の空母「信濃」と「雲龍」が、相次いで米潜水艦に撃沈され、計画は頓挫。空母「龍鳳」が58機を台湾まで輸送したものの、結局、フィリピンで「桜花」が使われることはなかった。

「信濃」沈没時、生存者の救助にあたった駆逐艦「濱風」水雷長・武田光雄さん(当時大尉)によると、「信濃」に搭載されていた50機の「桜花」は、弾頭をつけていなかったため、沈没時に機体が海面に浮き、それにつかまって救助された者が多かったという。皮肉にも、特攻機が救命具となって人命を救ったのだ。いっぽう、「雲龍」は、敵潜水艦の魚雷を受けたのち、積んでいた30機の「桜花」の誘爆で轟沈した。フィリピンに先発した神雷部隊の整備員たちは、待ちぼうけを食わされたあげくに、陸上戦闘に巻き込まれて全員が戦死した。

米軍の大型爆撃機・ボーイングB-29による日本本土空襲は昭和19年から続いていたが、翌昭和20年に入ると、フィリピンの日本軍を掃討した米機動部隊が日本近海に出没するようになり、艦上機による空襲もまた、猛威をふるいはじめた。

3月18日、米艦隊発見の報告を受け、大分県の宇佐基地に展開していた湯野川大尉率いる桜花隊に出撃命令がくだる。母機の陸攻隊指揮官は足立次郎少佐。だが、出発準備をほぼ完了、襲撃方法の打ち合わせを終えて、別杯の用意が整えられようとしていたまさにそのとき、基地は敵艦上機の奇襲攻撃を受けた。執拗で激しい銃爆撃に、一式陸攻18機の大半が地上で焼失した。

足立・湯野川隊が大打撃を受けたので、長崎県の大村基地に退避していた野中五郎少佐の指揮する陸攻隊が急遽、鹿屋基地に進出し、三橋謙太郎大尉を隊長とする桜花隊を抱いて3月21日、敵機動部隊を求めて出撃する。しかし、桜花隊を護衛するべき零戦隊も18日の戦闘で戦力を消耗し、護衛についたのは、当初予定されていた72機の半分にも満たない30機に過ぎなかった。

この日の護衛戦闘機隊の数少ない生存者の一人だった野口剛さん(当時上飛曹)は、

「出撃前に、『腕で守れなかったら身をもって守れ』と訓示を受けました。私は編隊左翼の最後部の位置にいましたが、重い「桜花」を積んだ一式陸攻の速度は遅く、周囲を旋回したり、バリカン運動(2機が互いに交錯する形でジグザグに飛ぶ)をしながらついて行きました。都井岬から1時間半ほど飛んだとき、後上方から敵戦闘機にいきなり撃たれたんです。

ドラム缶をハンマーで叩くような大きな音がして被弾、火は吹きませんでしたが、方向舵が効かなくなってしまった。振り返ると、後方にも敵機。50機ぐらいいたと思います。敵味方が入り乱れての空戦になり、戦闘機も陸攻も火を噴いて墜ちてゆく。方向舵が効かないと空戦はできませんから、私は、機体を傾けることで方向を変えながら降下して離脱、南大東島に不時着しました」

と回想している。陸攻隊は、桜花を抱いたまま全滅。こうして、「桜花」初の攻撃は失敗に終わった。

大田正一は、神雷部隊の発足時から、「桜花」発案者として隊に迎えられ、訓練基地の神ノ池では個室を与えられるなどの特別待遇を受けていたとされる。「自分が乗っていく」と言い、上層部や技術者を説き伏せた大田だったが、本人は操縦員ではなく偵察員である。練習機で一通りの操縦訓練は受けたものの、「操縦適性なし」とされ、神雷部隊にあっては、一式陸攻の偵察員として出撃することもなかった。

加えて、「桜花」が新聞で発表され、発案者として大きく紹介されてからというもの、不遜の態度がありありと見えたとの隊員の回想もあり、神ノ池基地での大田の評判は、けっして芳しいものではない。

K1での訓練で、陸攻の切り離しタイミングのミスで着陸に失敗、九州進出を目前にして重傷を負った佐伯正明さん(当時一飛曹)は、大田のことを、

「嫌いでしたね」

と、一言のもとに切って捨てている。

「憎まれましたよ、この人は。あいつがこんなものを発明したから、俺たちは死なないといかん。そんな不満を持つ者は多かったと思います」

だが、佐伯さんと同じく桜花隊搭乗員だった植木忠治さん(当時一飛曹)は、大田の別の一面を記憶している。

「桜花隊で、下士官と(学生出身の)予備士官との間の軋轢から騒動が起き、下士官が抜刀して士官宿舎に押しかけたことがありました。そのとき、大田さんが出てきて、刀を持った下士官の前で、『俺を斬ってから行け!』と一喝したんです。それで皆、引き下がった。下士官上がりの大田さんじゃなかったら、大変なことになるところでした。――大田さんはね、『桜花』に乗っていった連中の気持ちも十分承知してたと思うんですよ」

「桜花」生みの親となってしまった男の49年後の悔恨

大田が、終戦3日後の8月18日、零戦を操縦、空の彼方に消え、「公務死」とされたのは、先に述べた通りである。その模様を目撃した佐伯さんによると、大田の乗った零戦は、ボロのミシンで縫うようにヨロヨロと離陸していき、やがて見えなくなった。

これが、ほんとうに自決を覚悟しての行動だったのか、狂言だったのか、そこのところも謎である。結果として大田は、海上に着水して漁船に救助された。北海道に渡ってしばらくそこで過ごしたとされるが、植木さんは、戦後間もない頃、神ノ池基地のあった近くで、階級章をはずした軍服姿の大田と、偶然バスで乗り合わせたという。青森や名古屋で会ったという人もいるし、かつての戦友に寸借を重ねていたという話もある。

そして大田は、昭和25(1950)年頃、「横山道雄」の偽名で大阪に出て、日本橋の電気街裏の借家に居を構え、ここで義子さんと出会った。今回、大屋隆司さん、美千代さん夫妻の話から判明したのは、この時期以降の大田の姿である。

隆司さんが小学校に上がる前(昭和30年代前半)には、大田は繊維業界に伝手をつくり、「繊維新聞」と称する事業を興し、印刷した生地の見本帳を持って売り歩いていたという。そしてこの頃、日本橋で世話になった老人から土地の提供を受け、自分で大工仕事をして建てたのが、現在、大屋さん一家が暮らす家である。

2階、3階と建て増して、地下室をつくったときには、隆司さんも土を掘って運び出す手伝いをしたという。地下室は一時、知人に貸して機械工場にしていたが、騒音の苦情で閉鎖した。大田は以後、長年この家に住み続けたが、近所に、仲の良い人はいても友人と呼べる人はいなかった。

「父は社交的というか、世渡り上手なところがあって、仕事を辞めてもすぐに次の仕事が見つかるといった感じでした。工事現場のガードマンをしたり、覚えきれないぐらい仕事を転々として、実年齢で75歳ぐらいまでは働いていましたね。軍事雑誌の『丸』をときどき買って、自分の名前が載っていると、『これが俺や』と、母には言っていたようです。ふだんの生活に、戦争中のことや戸籍がないことへの負い目は見えませんでした」(隆司さん)

平成になると、10歳も若くサバを読んでいた大田の身体は徐々に衰え、足腰が不自由になって、家の裏に椅子を出し、黙って空を見上げる日が増えた。

そして平成6(1994)年――。

「ゴールデンウィークの連休明けに、父が突然、いなくなったんです。いつものように犬の散歩に出かけ、公園の木に犬をつないだまま姿を消して。あとから知ったんですが、父は伊丹空港から沖縄に飛び、そのあと、和歌山に渡って高野山に行ったようです」

大田は、沖縄でタクシーに乗って各地を回ったのち、高野山を訪ねた。沖縄は、「桜花」も出撃した激戦地であり、高野山には、多くの特攻戦死者を出した海軍飛行専修予備学生14期生の慰霊碑がある。大田は高室院という宿坊を訪ね、ここで若い僧侶・宮島基行さんに、自らの正体が「大田正一」であることを明かした上で、戸籍がないこと、「桜花」を発案し、それを悔やんでいることなどを語った。戦後49年、「横山道雄」が初めて「大田正一」に戻った瞬間だった。

翌日、高野山を辞した大田は、タクシーで南紀白浜の景勝地・三段壁に向かう。そしてここで、柵を乗り越えて断崖から飛び降りようとしたところを、パトロール中の警察官に保護された。足腰が弱り、すでに柵に登ることができなかったのだ。

白浜警察署からの連絡を受け、隆司さんが迎えに駆けつけたとき、大田は堰を切ったように泣いた。隆司さんにとって、父親のこんな姿を見るのは初めてのことだった。

この自殺未遂が、本心からの行為だったどうかはわからない。しかし、自らの命が長くないことを予感し、「大田正一」として、「桜花」戦没者への贖罪のうちに生涯を終えようとしたのだとすれば、その心情は斟酌できる気がする。

平成6年5月、沖縄から高野山に詣でた大田正一は南紀白浜で自殺を図るが、地元警察に保護された。これは翌月、そのときの礼に、家族とともに高野山・高室院を再訪した大田(右)と、高室院の僧侶・宮島基行さん。大田はこれから半年後に世を去った
南紀白浜での自殺未遂の後、大田は目に見えて衰弱していった。医師に診せたところ、前立腺癌が進行していて、余命3ヵ月だという。

「淀川キリスト教病院に3ヵ月入院し、その後、京都の日本バプテスト病院に転院しました。最後は脳が冒され、苦痛で暴れるのでベッドに縛られて。うわごとで号令をかけたり、『隊長!』と呼びかけたり、『すまんかった!』と誰かに謝ったり。そのとき、義父にとって戦争は終わってなかったんだな、ずっと悔いは残ってたんだな、と思いました……」

と、美千代さんは振り返る。

平成6(1994)年12月7日、大田正一、死去。享年82。戸籍の回復はならなかったが、役所は、埋葬許可に必要な死亡届を「大田正一」として受理した。

戦争が終わったとき、神雷部隊の隊員は、「3年後の3月21日、靖国神社で会おう」と約して解散。昭和23(1948)年3月21日、まだ空襲の爪痕も生々しい東京・九段に、約束通り約40名が集った。昭和26(1951)年からは毎年、春分の日に慰霊祭を行うこととし、これは、隊員の高齢化で、戦友会が公式には解散した現在も、存命の隊員や遺族によって続けられている。その結束の固さは、ほかの部隊にはちょっと例を見ないほどである。

大田は、神雷部隊の慰霊祭に参列したことは一度もなく、生存者のなかにはいまなお彼を快く思わない人もいる。昭和3(1928)年生まれ、最若年の「桜花」搭乗員で、満16歳で終戦を迎えた浅野昭典さんは、

「大田さんが生きていたのなら、戦後、せめてみんなの前で一言詫びてくれれば」

と言う。いっぽうで、軍令部、航空本部、航空技術廠で大田のアイディアを採用、それを「桜花」として完成させ、部隊を編成し、作戦を実行した上層部の関係者のほとんどは、戦後、このことについて自らの責任に言及することのないまま、天寿を全うした。

大田が埋葬された墓には、大田正一の名も、横山道雄の名もない。しかし、「大田正一」という男が「桜花」を発案したことは、数多くの謎に包まれながらも、確実に歴史に刻まれている。