http://www.my-jia.com/The_Flight_of_the_Hog_Wild/Atlanta_Constitution_David_Snell_atomic_bomb_Korea.htm

(上)「日本は原子爆弾を開発した。ロシアが(日本人)科学者を捕獲した。」(the Atlanta Constitution紙、1946年10月3日、記者David Snell)

・日本は原爆を開発していた。ロシアが科学者たちを捕縛した。(1946年10月2日 木曜日 アトランタ・コンスティテューション)

デイヴィッド・スネル

http://transact.seesaa.net/article/353490405.html

http://transact.seesaa.net/article/363175264.html

※原爆実験は成功した

終戦3日前に、日本は原爆を開発し、実験に成功した。

ソ連陸軍先遣隊が朝鮮に突入する数時間前に、日本は朝鮮にあった原爆プロジェクト拠点で、未完成の原爆と機密文書と原爆プロジェクトを破棄した。

原爆を開発した日本の科学者たちはソ連の捕虜として、モスクワにいる。彼らは、原爆のノウハウを求める捕縛者たちから拷問を受けた。

朝鮮地域はソ連軍の厳格な支配下にある。ソ連軍は、この地域への米国人の訪問を禁じている。戦後、一度、米国のB-29スーパーフォートレスが朝鮮へ飛行中に、Hammung空港近くで、ソ連軍のYak戦闘機4機に撃墜された。

この情報を私は、日本敗戦前に興南プロジェクトの防諜の任にあったという日本軍将校から得た。彼は日本の原爆プロジェクトの名称と日付と事実と図面を私に手渡した。これを私はソウルの米国陸軍情報部に送った。米国陸軍省はこの情報の大半を保持している。私に情報を提供した人物を保護、及び陸軍からの要請により、彼を偽名、Tsetusuo Wakabayashi大尉と呼ぶことにする。

この情報は、米国の核兵器独占は長くは続かないだろうというスターリンの最近の演説に光を投げかけるかもしれない。おそらく、Henry A. Wallaceのとった立場を説明することになるかもしれない。また、おそらく、連合国が裕仁を傀儡君主として存続させることに同意するという、我々の提示した降伏条件の受入に日本が急に躊躇したという、これまで説明がつかなかった事態の説明になるかもしれない。そして、おそらく、我が軍のB-29を1945年8月29日に興南地域でソ連が撃墜した事件にも、新たな光を投げかけることになるかもしれない。

この情報を得たのは、私が朝鮮で活動していた第24刑事捜査部の一員だったときだった。私はWakabayashi大尉に、捜査員あるいは陸軍軍人としてだけではなく、報道記者としてインタビューすることができた。彼は自分が話したことが公表されることを知らされ、十分に理解していた。

彼は引揚者として日本に向かう途上で、ソウルに滞在していた。インタビューは朝鮮の首都を見下ろす丘の上の神社だった場所で行った。この神社は故郷へ還る日本人のためのホテルに転用されていた。

日本に対する戦勝後、朝鮮半島北部の沿岸都市興南近くの広大な山岳地帯で、終戦間際の数か月に動いていた、巨大で謎に包まれた工業プロジェクトの存在についての情報の断片が、米国軍情報部の手に流れ着いた。

この興南での活動についての最も完全な証言が米国の耳に届いたのは、この話題について日本が沈黙して以後、初のことではないかと思われる。

興南近くの山の洞窟で、男たちが昼夜なく働き、日本の原爆の名称である"genzai bakudan"の最終組み立てを行った。それは日本時間1945年8月10日で、広島で原爆の閃光が放たれてから、わずか4日後、日本の降伏の5日前のことだった。

その北では、ソ連の大軍が満洲へと雪崩れ込んでいた。

その日の深夜過ぎに、洞窟の入り口から日本のトラック輸送隊が移動し、用心深い歩哨たちの側を通過した。トラックは渓谷を進み、寝静まった農村を通過した。8月で、棚田の泥の中の蛙が夜中も鳴いていた。まだ涼しい夜明け前に、日本の科学者たちと技術者たちは、興南で"genzai bakudan"を船に搭載した。

日本海の入り江近くの沖合で、より必死な準備が進められた。その日の昼と夜を通して、老朽船やガラクタや漁船が停泊地の中へと移動した。

8月12日の夜明け前、停泊地の船をぬって、エンジン音を立てて、ロボットが発信し、入り江で座礁した。乗客は"genzai bakudan"である。そして、時計が時を刻んだ。

20マイル彼方に観測者たちがいた。休みなく働き、その仕事がまったく手遅れであることを知っていた男たちにとって、その待ち時間は困難で、奇妙なものだった。

閃光で眼が眩む観測者たち

日本がある方向の東の空が明るくなった。太陽が水平線から顔を出した瞬間、停泊地は閃光に照らされ、溶接用の遮光面をつけた観測者たちの眼が眩んだ。火球は直径推定1000ヤードの大きさになった。極彩色の上記の雲が上空へを湧き上がり、成層圏にキノコ雲を形成した。

爆発直下の船は、水と上記の混合物に包まれて、見えなくなった。停泊地で、船やガラクタが激しく燃え上がった。大気が少し澄みはじめると、観測者たちは幾つかの船が消滅したことを確認できた。

その瞬間の"genzai bakudan"は、東から昇る太陽の輝きに匹敵していた。広島と長崎を破壊したのと同じく恐るべき原爆の実験に日本は成功した。

時間はあまり残されていなかった。戦争はクライマックスへとなだれこんでいた。米軍の日本上陸に対抗して投下するために神風に原爆を搭載する前に、ソ連軍先遣隊が興南へと到達するだろう。

それは難しい決断だった。しかし、決断は為された。

観測者たちは急いで水上を興南へと戻った。ソ連軍先遣隊が数時間先に迫っており、神々の黄昏の最後のシーンが始まった。科学者たちと技術者たちは機械を壊し、組み立て途中の"genzai bakudan"を破壊した。

ソ連軍列が興南に到達する前に、洞窟はダイナマイトで封鎖された。しかし、ソ連軍はあまりに早く到達し、科学者たちは逃げ切れなかった。

これが、Wakabayashi大尉が私に語った話である。

日本が原爆製造の努力を始めたのは1938年、ドイツと日本の科学者が会って、原子の中に秘められたエネルギーの軍事利用についての論じたときからだった。このとき、技術情報は交換されず、理論だけが論じられた。

1940年に、東京の理化学研究所の仁科研究室で、世界でも最大級のサイクロトロンが建設された。(米軍が東京で発見したサイクロトロンは破壊された。)

原爆はリスキーだと考えた

戦争初期に科学者たちは原子理論の研究を続けていたが、米国が日本との戦争を始めるまで、科学者たちは日本政府に対して、本格的な原子力プロジェクトに関心を持たせることはできなかった。従来、日本政府はそのような冒険は、あまりにリスキーで高くつくと考えていた。真珠湾に続く数年、日本の軍国主義者は核兵器を使うことなく、米国を屈服させられると考えていた。

機動部隊と侵攻軍先鋒による戦線が日本本土に近づくと、日本海軍は水陸両用作戦に対する防衛手段として原子爆弾の製造に着手した。原爆は神風攻撃により連合軍艦船に対して投下されることになっていた。

Wakabayashi大尉は原爆による完全破壊領域を1平方マイルと推定していた。

プロジェクトは名古屋で始まったが、B-29による日本本土の工業都市への攻撃が始まると、朝鮮への移動をよぎなくされた。

「私はB-29こそが日本を打倒したと考えている。B-29により、朝鮮へプロジェクトを移動せざるを得なくなった。これにより3か月を浪費した。B-29の爆撃がなければ、3か月早く"genzai bakudan"を完成できた」とWakabayashi大尉は述べた。

朝鮮でのプロジェクトには約4万人の日本人作業者が配属された。うち約25000人が訓練された技術者及び科学者だった。プラントの組織は、作業者たちの行動範囲を自分の部署に限っていた。プラントの聖域は洞窟深くに合った。ここでは400名の専門家が働いていた。

互いに秘密になっていた

1人の科学者がプロジェクト全体の総責任者だった。他の6人は、著名な日本の科学者で、原爆製造の6つの工程を受け持ってた。これらの6人は、他の5人の仕事の内容について知らされていなかった。(これらの科学者の名前は米軍の検閲に該当する。)

ソ連は7人のキーマンを含む、最も訓練された捕虜の大半を確保した。7人のうち1人が1946年6月に脱出し、朝鮮半島の米軍占領地域に逃げ込んだ。米軍情報部はこの男を尋問した。Wakabayashi大尉はこの男とソウルで話した。その科学者はソ連人から拷問を受けたと証言した。彼は7人全員が拷問を受けたと証言した。

「ソ連人たちは燃える破片を科学者たちの指先に突っ込んだ。鼻腔に水を注いだ。我が日本の科学者たちは、機密をソ連人に漏らす前に死んでしまうだろう」と彼は述べた。

Wakabayashi大尉はソ連人が、興南地区を精力的に調査していると述べた。

戦争賠償委員会のEdwin Pauleyが朝鮮半島北部を調査したとき、特定の地域しか見ることを許されず、それも厳格なソ連軍の監督のもとだった。

1945年8月29日、米軍のB-29が、連合国捕虜収容所に投下する食糧と医療品の貨物を搭載して、興南地区に向かっていた。近くのHammung空港から飛び立った4機のソ連軍Yak戦闘機がB-29を取り囲み、Hammungに着陸するように信号を出した。

パイロットは拒否し、ソ連軍機は攻撃した

パイロットである、ケンタッキー州AshlandのJose H. Queen中尉は空港が小さいことを理由に拒否し、「ソ連軍と事を構えたとき」にSaipon基地へと帰還しようと回頭した。海外から10マイル沖合で、Yak戦闘機は攻撃を開始し、B-29を撃墜した。12人の乗員に怪我はなかった。ソ連軍機一機が通信士Douglas Arthurを機銃掃射したが、はずした。

ソ連人が後にQueen中尉に、「ドイツ軍がときどき米軍のマークをつけていたので、日本軍もそうするのかと思い、米軍のマークが見えたが、確信が持てなかったのだ」と告げた。

Wakabayashi大尉は「日本の防諜部隊は少なくとも、広島原爆投下の1年前には、米国東部山脈に巨大で謎めいたプロジェクトがあることに気づいていた(おそらく、テネシー州Oak Ridgeのマンハッタンプロジェクト)。そこで原爆が製造されていると考えていたが、確信は持てなかった。」と述べた。

「一方、連合国情報部は興南の原爆プロジェクトについて知っていたはずだ。というのは、長期計画だった日本海軍の核実験のわずか6日前に広島に原爆を投下したからだ。」と述べた。

おそらく、ここに、米国による原爆投下の決断を疑問視するモラリストたちへの回答があるだろう。

日本人の事務所で、通訳と私は香り立つ緑茶をすすり、Wakabayashi大尉は、偉大な、そしておそらく世界を揺るがす話を繰り広げた。彼の眼は黒縁眼鏡の奥で誇りを持って輝いていた。インタビューが終ると、彼は我々をドアへと案内し、深々とお辞儀をした。
  
※現アトランタ・ジャーナル・コンスティテューション(旧アトランタ・ジャーナルと旧アトランタ・コンスティテューションが合併)は、米国ジョージア州アトランタの大都市圏で唯一の主要な日刊紙。 Cox Enterprisesの主力出版物。

※David Snell (1921–1987) ジャーナリスト。ライフ誌記者(レポーター兼漫画家)。

日本の原爆実験成功を伝える記事の執筆者であるDavid Snellは、1945年に米国陸軍に入隊したとき、Atlanta Constitutionの報道記者だった。

ルイジアナ州Minden生まれのSnellは、米国陸軍入隊の直前に、MariettaにあるAtlanta Constitutionの報道局に配属された。陸軍入隊中に、Snellは米国内での訓練中も、朝鮮占領軍として赴任中も、多くの記事をAtlanta Constitutionに掲載した。

朝鮮で、Snellは、米国に対する犯罪を調査する第24刑事捜査部(24th Criminal Investigation Detachment)に配属された。原爆の記事は、彼の正式任務ではなく、その一部でもなかった。

Atlanta Constitution在職中は、SnellはMariettaに住んでいた。彼の妻はアーカンソー州Augustaの旧姓Julia Williamsで、Marietta在住中に1人息子のBarryが生まれている。

そして、この記事について、当時の米軍は一蹴した。

・グローヴス少将は日本の原爆について初耳だと述べた(UP通信社 1946年10月2日)

※日本が降伏3日前に原爆実験を実行したという記事について知らされた水曜夜に、原爆マンハッタンプロジェクトの責任者であるレズリー・グローヴス少将は「その話が真実なら、とても興味があったと思う。私にはまったく初耳だ」と述べた。

米国陸軍省当局は、刑事捜査部の任を終えて最近帰国した著者が情報を朝鮮ソウルの米国陸軍情報部に渡したというアトランタ・コンスティテューションの記事について、コメントを辞退した。

マサチューセッツ工科大学学長のDr. Carl T. Comptonは昨年、連邦上院委員会で「日本は原爆を開発しようとしたが、2つの理由で失敗した。ひとつは日本の物理学者たちが誤った結論に到達していたこと。もう一つはB-29の爆撃で、実験が行われていた施設が破壊されたことだ」と証言していた。

米軍が日本降伏後に日本に進駐したとき、サイクロトロンを発見して、破壊した。

原爆開発に関係した多くの軍専門家たちは、米英加のチームを除いて、原爆開発競争で最も進んでいたのはドイツだと主張している。

帝国の軍事的崩壊前に、ドイツの科学者の研究がかなり進展していたことが知られている。実際、ドイツを逃れた非ナチスの科学者が、ニューメキシコでの最初の原爆製造に到達した研究に、貴重な知識を寄与していることが記録されている。

また、翌日にAP通信社が否定記事を配信する。



・日本が原子爆弾を開発したというレポートは信用できない(AP通信 1946年10月3日)

※原爆を開発し、終戦三日前に実験に成功した日本の科学者たちが、モスクワでソ連の捕虜となっているとアトランタ・コンスティテューションが自社記事で木曜日(1946/10/02)に述べた。

元アトランタ・コンスティテューションの記者で、ソウルで活動している第24犯罪捜査部隊の軍務から最近、帰国した、その記事の執筆者David Snellは、ソ連人たちが「原爆のノウハウ」を手に入れようとして科学者たちに圧力をかけたと述べた。

Snellはこの話を、朝鮮興南にあった日本の原爆開発拠点の防諜部隊長と称する日本人将校から聞いた。この将校は、ソ連軍侵攻の数時間前に、機械と秘密文書と部分的に完成していた原爆を破壊したと述べたと、Snellは書いている。

「全くの嘘だ」という烙印

東京では米国陸軍情報将校が木曜日に、米日の科学者たちとともに、Snellの証言を嘲った。

「まったくの嘘だ」と日本の最も注目される核物理学者仁科芳雄博士はコメントした。

「まずありえない」と東京の米国陸軍情報将校は素っ気なくコメントした。

日本の軍事専門家である仁科芳雄博士は「常に嘘をついており、根拠なくものを言っている。そのような実験は朝鮮では行われていない。ただし、興南には化学肥料工場があった」と付け加えた。

マンハッタン計画を率いたレズリー・グローヴス少将は「話が本当なら、彼は非常に興味を惹かれたことだろう」との見方を示した。しかし、サンフランシスコではパターソン陸軍長官は日本の原爆の爆発報道は真実ではないことを保証した。彼は終戦三日前に日本が原爆実験を行ったという報道を否定した。

"Genzai Bakudan"と呼ばれた

しかし、米軍が日本に入った時、実験室で使われていた原子分離装置であるサイクロトロンを発見して、破壊したことが思い出される。

Snellは、日本の原爆開発スタッフのひとりが、6月にソ連人たちのもとから脱出し、米国情報機関の尋問を受けた件に関係していた。さらに彼自身が、偽名"Tsetusuo Wakabayashi"大尉という情報提供者から得た情報を、ソウルの米国陸軍情報部に提供したと述べた。

しかし、米国陸軍省は「日本の原爆についての得た情報は、ほぼすべてSnellによるものだった」と真偽を留保した。


そして、"Genzai Bakudan"は消え去った。

この話は、その後、特に相手にされることなく、40年近くの時が流れる。

そして、1985年にRobert K. Wilcoxの本"Japan's Secret War: Japan's Race Against Time to Build Its Own Atomic Bomb"で、新たな証拠と主張されるものとともに、とりあげられ、再び、世に知られるようになったようである。しかし、これも否定されて忘れ去られた。

さらに、20年後の2005年にMilitary ChannelがJapan's Atomic Bombでとりあげるが、このときに至るも、核実験成功の根拠は、David Snellのインタビュー記事のみである。

日本では、時事通信が1999年に原爆記念ネタとして、"Genzai Bakudan"を取り上げている。

・「旧日本軍が終戦直前、原爆実験?」 朝鮮半島東岸沖合 GHQに極秘情報(1999年8月6日 西日本新聞)

※【ワシントン5日時事】旧日本軍が第二次世界大戦の終戦直前、現在は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)領となっている朝鮮半島東岸の興南沖合で原爆実験を実施したとの情報を米軍がつかみ、戦後日本を占領統治した連合国軍総司令部(GHQ)などが秘密裏に調査していたことが、米国立公文書館で時事通信が入手した米軍機密文書(約三百ページ)で分かった。一九四七年の米軍防諜機関の報告は「原爆に似た爆発があった」と伝えているが、真相は解明できなかったもようだ。

また、これらの文書から、米軍は興南にあった化学コンビナートで日本海軍が秘密裏に核開発を進めていたとみて、朝鮮戦争(五〇―五三年)に乗じて疑惑施設を徹底的に爆撃していたことも明らかになった。

米軍犯罪調査部隊のデービッド・スネル氏は、旧日本軍が四五年八月十二日未明、興南沖三十数キロの海上で原爆実験を行い、巨大なきのこ雲が上がったとの情報を、ソウルで元日本軍情報将校から入手。退役後の四六年、米ジョージア州アトランタの新聞に公表したが、一笑に付されていた。

しかし、在朝鮮米軍司令部防ちょう部隊が四七年一月十六日付で作成した報告は、調査結果として、「日本軍は朝鮮北部東海岸沖に浮かべた小さな船で爆破を伴う実験を行い、原爆に似た爆発が起きた。関与した科学者らの名も(スネル報告は)正確だ」と指摘、科学者は旧ソ連軍によってソ連に抑留されたと伝えた。興南は八月十二日、進攻ソ連軍に占領された。

興南での日本軍の核開発説について、四五年のGHQ文書は(1)日本軍復員者によると、興南の化学工場で原子力関係の実験が行われていた(2)日本海軍は興南の化学工場の秘密部門で、「NZ計画」と呼ばれる水素化合物によるジェット燃料実験を実施していた(3)ソ連による興南占領後、秘密施設がソ連軍に接収され、日ソ両国科学者の共同研究が行われている―などの情報を挙げて、徹底調査を命じた。

興南には戦前、日本窒素肥料(チッソの前身)の大型化学工場があり、海軍と共同で重水などを生産していた。

一方、朝鮮戦争中の米軍文書(五〇年十二月二十九日付)によれば、米軍は興南の化学工場施設に空爆を加え、施設の九五パーセントを破壊したという。


韓国内にも、ありえないネタという報道がある。

・Japan Tested Atomic Bomb in NK Before End of WWII?" (2009年12月4日 Korean Times)

Robert Neff

※多くの現代研究家たちが、Wakabayashiの主張に誤りを見出している。Walter E. Grunden は、テネシー州Oak Ridgeの米国のプラント(93平方マイル、ウラン235製造を専門とする要員82000人)とHamheungを比較しており、それによれば、わずか15平方マイルで、最大要員45000人で、その多くは「朝鮮人労働者、学徒動員、囚人、捕虜」であり、主として「合成燃料や爆薬や工業化学製品の製造」に従事していた。Grundenは、米国が用途を特定できなかったHamheungの建屋はわずか5つだったと主張している。

Grudenは、このようなストーリーがひとたび歴史的神話になると、消すことはほぼ不可能だと主張した。そして、Hamheungでの日本の原爆実験があったという嫌疑は、Snellが結論したように「米国による原爆投下の決断を疑問視するモラリストたちへの回答」だと示唆した。




(上)「成功していた日本の原爆実験―隠蔽された核開発史」 (ロバート・ウィルコックス 著 矢野義昭 訳 勉誠出版 2019年8月1日)

※ロバート・ウィルコックス(Robert K. Wilcox)

1943年生まれ。作家、ジャーナリスト。専門は軍事史。
ニューヨークタイムズ他の新聞社・雑誌に寄稿。10冊以上の著作を発表している。

※矢野 義昭

昭和25(1950)年大阪生。昭和40(1965)年、大阪市立堀江中学校卒。昭和43(1968)年、大阪府立大手前高校卒。昭和47(1972)年京都大学工学部機械工学科卒。同年同文学部中国哲学史科に学士入学。同昭和49(1974)年卒。

同年4月、久留米陸上自衛隊幹部候補生学校に入校、以降普通科(歩兵)幹部として勤務。美幌第6普通科連隊長兼美幌駐屯地司令、兵庫地方連絡部長(現兵庫地方連絡本部長)、第一師団副師団長兼練馬駐屯地司令などを歴任。平成18(2006)年小平学校副校長をもって退官(陸将補)。核・ミサイル問題、対テロ、情報戦などについて在職間から研究。

国家生存戦略研究会会長、日本安全保障戦略研究所上席研究員、防衛法学会理事、日本国史学会会員、岐阜女子大学特別客員教授。拓殖大学博士(安全保障)。


※実験成功の唯一の根拠が、捏造写真「上海南駅の赤ん坊」で有名なLIFE誌の記者の証言、しかも当人の見聞ではなく、他人からの伝聞証言のみが証拠というお粗末さ。

これだけの大冊(A5版 410P 殆ど活字ばかり)なのに全ては状況証拠と憶測しかない。翻訳のミスなのか核関係の科学用語もおかしいようだ。

http://reijiyamashina.sblo.jp/article/186694883.html


※以下、YOU TUBEのコメント欄より転載

https://www.youtube.com/watch?v=eZL_Sg4WFZs

白洲よみひと

ロバート・ウィルコックス氏の「Japan's Secret War」(第3版)英語版を図書館から借りて来て読みましたが、本の大部分は色々の人に会って、沢山の資料を探しましたが、終章で彼の結論は「原爆の実験が成功したと言う証拠はなかった。多分隠蔽・破棄されたのだろう。この種の秘密は往々にして後になって出てくるから、それを期待する。」という、努力したがダメでした、という話であった。これを日本版では、核実験成功、とする。

「Plutopia: Nuclear Families, Atomic Cities, and the Great Soviet and American Plutonium Disasters」という本に、この当時の米国では、いかにウランの精製に膨大な資源と人材が必要であったか、という話がある。コロンビア川にある巨大な水力ダムの電気を使い、その為に科学者、作業員のために町を作りその作業に当たるのだが、放射能汚染を受けた作業員を解雇し帰宅し不審な死を遂げる、など戦争中であるから人権・健康を無視した政府の行動があった。

それを読むと、北朝鮮でのウラン製錬があったかもしれない、という話は「可能性」でしかなく、もし真実であれば、かなり大規模でなければ必要なウランを製造できず、そのための人材・資源も膨大であり、かなりの証拠が残っていたはずである、と思われる。

朝日やNHKが反日的な嘘の報道をするが、保守派がその真似をする必要はない。

この本は1946年に出た新聞記事を元にしており、当時世界的にも米国の原爆を民間人殺略に使用したことに対する批判が出始め、その対策として「いや、日本だってやっていた。当然出来れば使っていたに違いない」と言う反論のための世論操作であった、ようだ。この記事もこの本も、根拠とする証拠はただ一人の一つの証言であり、『Tsetusuo Wakabayashi(偽名)」の語る、極めて劇的な原爆の実験の模様を使っている。ちなみにその記事では原爆を「Genzai bakudun」と書いており、記者がどの程度の正確さ・知識をもっていたか疑問である。

ウィルコックス氏の本の中にも、これ以外の証拠は見つからなかったと、結論している。

この話が何故公に米国でも日本でも報道され議論されなかったか、と言うと信頼性のない、嘘(洗脳報道)だったからである、と考える。

これは朝日新聞ではなく、保守派の団体が、「南京虐殺は本当だった」と主張するような、おかしな狂った現象である。元自衛隊の人が何故苦労して翻訳したのだろうか。

この男も反日なのだろうか。気味の悪い世の中になってしまった。


S. Amane

日本は原爆開発に成功しておりません。当時の原爆開発の第一人者である仁科博士の指揮下にあった関係者が証言しております。

民放の番組ですら、それを明らかにしています。 

https://www.youtube.com/watch?v=UA2G61bHwFc

米軍は、日本国土内でのウラン採掘情報を入手して、空爆まで行って採掘を邪魔しております。

朝鮮半島で日本軍が原爆実験に成功していた、などは、戦争犯罪である無差別大量殺戮である広島長崎の原爆投下を正当化するために、米国側が偽装工作情報を流したに過ぎません。 


※ブログ主コメント:まったくその通り。確かに日本は原子爆弾を開発していた。陸軍の「ニ号研究」と海軍の「F研究」である。それは事実である。しかし開発には成功しなかった。それが真実である。

日本の原子爆弾開発は、そもそもウラン原料調達とウラン濃縮の段階で躓いていたのである。

朝鮮半島からウラン原料を調達しただの、朝鮮半島に日本人科学者が疎開して、原爆開発に成功して、1945年8月12日に核爆発実験に成功しただの、全てたった1枚の新聞記事を根拠とした、戯言である。


・「1945年8月12日 日本が原爆実験成功」説の世界史的意義(アゴラ 2019年11月14日)

日本の「原子爆弾開発計画」はすでに1934年に着想され(注1)、日米開戦直前の1941年4月から実際に原子爆弾開発が進められた。日本軍部には二つの原子爆弾開発計画があった。

一つは日本陸軍の「二号研究」であり、いま一つは日本海軍の「F研究」である。「二号研究」は1941年4月の原爆開発依頼から京都帝国大学仁科芳雄教授が中心の理化学研究所「仁科教室」で行われ、「F研究」は1941年5月の原爆開発依頼から京都帝国大学荒勝文策教授中心で行われた(注2)。

「二号研究」では、天然ウランの中のウラン235を熱拡散法によって濃縮する方式が採用された。濃縮されたウラン235の原子核に中性子を当てると核分裂が起こり、大きなエネルギーが放出され原子爆弾になる。「F研究」では、ウラン235の分離は遠心分離法が採用された。遠心分離法は、イランなど現在でも広く用いられている濃縮方式である。

原料の天然ウランは、当時日本領土の北朝鮮のウラン鉱山などから調達された。その後、戦局が悪化すると共に、日本軍部は原子爆弾による戦局の挽回を目指し、両研究の連携により、遠心分離法を中心とするウラン濃縮を行い、原子爆弾の開発を促進した。

ちなみに、米国の「マンハッタン計画」は1942年から始まっている。同計画は総額20憶ドル、延べ45万人を動員し、3年で原爆を開発した(注2)。

「1945年8月12日 日本原爆実験成功」説



以上の経緯を経て、後記(注3)のロバート・ウイルコックスによれば、日本は戦争末期に核爆発装置を完成させ、1945年8月12日早朝、北朝鮮咸興(ハムフン)の興南沖水域で原爆実験を行い成功させた。海上爆発特有の「きのこ雲」の発生を日本人士官が証言し、その他にも数多くの状況証拠が存在する。

そして、原爆の原料である天然ウランは主として北朝鮮で採掘精錬し、当時北朝鮮の興南(フンナム)にはアジア最大の日本の軍需工場があり、原爆製造に不可欠な日本の世界最大級の発電所があった。原爆の開発には大量のウランと膨大な電力を必要とするからである。

しかし、ソ連が1945年8月8日に日本に対して宣戦布告し、満州国、朝鮮半島に侵攻したソ連軍は、8月12日の上記核爆発の数時間後に北朝鮮興南を占領し、核インフラを奪い日本の核技術者を連行した。ソ連はその成果を利用し、僅か4年後に核実験に成功した。中国の朝鮮戦争参戦の目的には興南の核インフラがあった。北朝鮮の核開発は、人材育成も含め、日本の統治下で基盤がつくられたのである。

このように、日本が原子爆弾開発を行っていた北朝鮮の興南は、戦後、ソ連、中国、北朝鮮の核開発の拠点になった(注3、注4)。

「日本原爆実験成功」に関するロシア、北朝鮮等の報道

ロシア政府系通信社「スプートニク」は、2013年6月13日付で「1945年8月12日、日本軍は小型の船艇に核爆弾を載せ、咸興沖で爆破すると、直径1キロの火球が天空に燃え巨大なキノコ雲が上がった」と報じている。

さらに、北朝鮮の朝鮮労働党機関紙「労働新聞」も、2018年2月9日付で、「日本は敗戦直前咸興の興南沖水域で核爆発実験を実施した」と報じている。

また、中国政府の公式サイトは、2015年9月6日付で「日本は1939年から1940年の間に、日本で核兵器を製造した」と報じている。

上記ロシア、北朝鮮の報道は、いずれも、日時、場所、内容が一致し具体的であり、1945年当時の記録や資料に基づくものと思料される。ロシアと北朝鮮が、ことさら虚偽の事実を捏造した証拠はない。

なお、上記「スプートニク」の記事については、東京工業大学名誉教授の山崎正勝氏が「1キロの火球は広島に投下された原爆の10倍に相当し、エネルギー換算で1メガトンになり考えられない。ウイルコックスは信頼性の低いGHQの資料を引用している」などと批判する。

しかし、爆発の規模などに異論はあるとしても、原爆実験の存在そのものを根本的に否定する確たる証拠は提出されていない。後記の通り、原爆開発に関する記録はほとんど米軍が没収しているのである。

米国政府は「1945. 8.12日本原爆実験成功」について公式には論評していない。しかし、後記(注3)の米国人ジャーナリストのロバート・ウイルコックス著「成功していた日本の原爆実験」(『隠蔽された核開発史』)は、日本の原爆実験成功を認める米国CIA機密調査班の調査に基づくものである。

第二次世界大戦中の日本の原爆開発の記録のほとんどは米軍に没収されている(注2)。したがって、原爆開発に関する情報量は日本よりも米側が圧倒的に多いのであり、上記CIAの調査も圧倒的な情報量に基づき、当然上記記録なども利用されていると思料される。

さらに、「終戦の翌年、アメリカの新聞に驚くべき記事が掲載された。日本は原爆を開発していた。朝鮮半島北部で実験に成功」との内容の放送もされている(注5)。

「1945. 8. 12日本原爆実験成功」説の世界史的意義

仮に、上記「1945. 8.12 日本原爆実験成功」の事実が、今後の日米両国の諸研究・諸調査等により歴史上確定されれば、日本による「原爆実験成功」の世界史的意義は極めて大きい。

なぜなら、アジアの一国である日本が米国に伍して、戦前において、すでに人類史上初の「原子爆弾開発能力」を保有していたことを意味するからである。このことは、戦前からの日本の科学技術水準の高さを表し、戦後、理論物理学者の湯川秀樹、朝永振一郎両博士をはじめ、日本のノーベル賞受賞者多数の輩出へとつながっている。

(注1) デイビッド・J・ディオニシ著「原爆と秘密結社」平和教育協会訳2015年成甲書房
(注2) 山田克哉著「日本は原子爆弾をつくれるのか」2009年PHP新書
(注3) ロバート・ウィルコックス著「成功していた日本の原爆実験:隠蔽された核開発史」矢野義昭訳2019年勉誠出版
(注4) 矢野義昭著「世界が隠蔽した日本の核実験成功:核保有こそ安価で確実な抑止力」2019年勉誠出版
(注5) 「テレビ朝日」2008年8月2日~放送「原爆・63年目の真実」。

加藤 成一(かとう せいいち)元弁護士(弁護士資格保有者)
神戸大学法学部卒業。司法試験及び国家公務員採用上級甲種法律職試験合格。最高裁判所司法研修所司法修習生終了。元日本弁護士連合会代議員。弁護士実務経験30年。ライフワークは外交安全保障研究。

※ブログ主コメント:加藤センセー。妄想がひどすぎますwww

>上記ロシア、北朝鮮の報道は、いずれも、日時、場所、内容が一致し具体的であり、1945年当時の記録や資料に基づくものと思料される。

(反論)多分ロシアと北朝鮮の報道も、1946年の新聞記事がネタ元だと思いますよ。内容が一致するのは当然でしょう。

>ロシアと北朝鮮が、ことさら虚偽の事実を捏造した証拠はない。

(反論)何の冗談ですか?両国とも虚偽報道だらけですよ?まあネタ元があるから敢えて(わざわざ)捏造したとは言えませんけど。70年も前の虚偽報道をロンダリングして垂れ流しただけですから。

>原爆実験の存在そのものを根本的に否定する確たる証拠は提出されていない。

(反論)あの~~~・・・そもそも日本で原爆を開発していた当人達が、そんな段階まで行ってないと、否定しているんですが・・・朝鮮からウラン鉱石を取り寄せた事実も、朝鮮に原爆開発拠点を疎開した事実もありません。