・【戦後70年~昭和20年夏(1)】街が一瞬で消えた…紫電改操縦士が見た原爆の惨禍 トルーマンが突きつけたポツダム宣言の真意とは…(産経ニュース 2015年8月5日)



(上)海軍のエースパイロットといわれた、本田稔元海軍少尉(92)。精鋭部隊である第343海軍航空隊に所属し、本土防衛の任務についた。広島の原爆投下に上空で遭遇、唯一空から原爆を見た日本人と言われる。長崎では被爆者の救護も行った。




(上)93式中間練習機の前に立つ練習生(後列中央が本田稔氏)

※昭和20年8月6日午前7時45分、22歳だった第343海軍航空隊(通称・剣部隊)少尉、本田稔=大津市在住=は、兵庫県姫路市の川西航空機(現新明和工業)で真新しい戦闘機「紫電改」を受け取り、海軍大村基地(長崎県大村市)に向けて飛び立った。

高度5000メートル。抜けるような青空が広がり、眼下には広島市の街並み、そして国宝・広島城が見えた。

その瞬間だった。猛烈な衝撃にドーンと突き上げられたかと思うと紫電改は吹き飛ばされた。操縦桿(かん)は全く利かない。必死に機体を立て直しながら地上を見て驚いた。

「街がない!」

広島の街が丸ごと消えていた。傾いた電柱が6本ほど見えるだけで後はすべて瓦礫(がれき)。炎も煙もなかった。

やがて市中心部に真っ白な煙が上がり、その中心は赤黒く見えた。白い煙は猛烈な勢いで上昇し、巨大なきのこ雲になった。

「弾薬庫か何かが大爆発したのか?」

そう思った本田は大村基地に到着後、司令部に事実をありのまま報告したが、司令部も何が起きたのか、分からない状態だった。

正体は原子爆弾だった。

米軍B29爆撃機「エノラゲイ」は高度9600メートルからウラン型原爆「リトルボーイ」を投下、急旋回して逃げ去った。

午前8時15分、リトルボーイは地上600メートルで炸裂(さくれつ)した。閃光(せんこう)、熱線に続き、超音速の爆風が発生した。

本田が見たのは、この爆風で廃虚と化した広島の街だった。この後、大火災が発生し、この世の地獄と化した-。

× × ×

本田が、広島に米軍の新型爆弾が投下されたことを知ったのは2日後の8月8日だった。翌9日、大村基地から大村湾を隔てて15キロ南西の長崎市で再び悲劇が起きた。

9日午前11時2分、B29「ボックスカー」はプルトニウム型原爆「ファットマン」を長崎市に投下した。第1目標は小倉(現北九州市)だったが、視界不良のため長崎市に変更したのだ。

広島と同様、空襲警報は発令されず、大村基地にも「敵機接近」との情報はもたらされなかった。

本田は食堂で早めの昼食を食べていた。突如、食堂の天幕が激しく揺れ、基地内は大騒ぎとなった。

まもなく上官が本田らにこう命じた。

「長崎に猛烈な爆弾が落とされて病院はすべてダメになった。収容できない被害者を貨車で送るから大村海軍病院に運んでほしい」

本田は手の空いている隊員20人を率いて海軍病院に向かった。

海軍病院前にはすでに貨車が到着していた。扉を開けると数十人が横たわっていた。だが、体は真っ黒で髪もなく、服も着ていない。男女の区別どころか、顔の輪郭も分からない。息をしているかどうかも分からない。

「とにかく病院に運ぼう」。そう思い、担架に乗せようと1人の両腕を持ち上げるとズルッと肉が骨から抜け落ちた。

甲種飛行予科練習生(予科練)を経て海軍に入った本田は昭和16年の日米開戦以来、インドネシア、トラック諸島、ラバウルなど各地で零式艦上戦闘機(零戦)の操縦桿を握り続けた。ガダルカナル島攻防では、盲腸の手術直後に出撃し、腹からはみ出した腸を押さえながら空戦したこともある。本土防衛の精鋭として剣部隊に配属後も、空が真っ黒になるほどのB29の大編隊を迎え撃ち、何機も撃墜した。この間に何人もの戦友を失った。

そんな百戦錬磨の本田も原爆の惨状に腰を抜かした。「地獄とはこういうものか…」

剣部隊司令で海軍大佐の源田実(後の航空幕僚長、参院議員)は本田にこう語った。

「もし今度、新型爆弾に対する情報が入ったら俺が体当たりしてでも阻止する。その時は一緒に出撃してくれるか」

本田は「喜んで出撃します」と返答したが、その機会は訪れることなく8月15日に終戦を迎えた。

× × ×

戦後、本田は航空自衛隊や三菱重工に勤め、テストパイロットとして操縦桿を握り続けた。92歳となった今も広島、長崎の悲劇を忘れることはない。そして原爆搭載機に向かって出撃できなかった無念もなお晴れることはない。

「長崎の人たちには本当に申し訳ないと思っています。本土防衛の役目を担った私たちがあんなに近くにいたにもかかわらず…」

本田は涙をにじませ、こう続けた。

「戦争というのは軍人と軍人の戦いのはずだ。だから原爆は戦争じゃない。非戦闘員の真上で爆発させるんですから。虐殺ですよ」

× × ×

1945(昭和20)年7月26日、第33代米大統領のハリー・トルーマンは、英首相のウィンストン・チャーチル、中国国民政府主席の蒋介石と連名で、日本政府にポツダム宣言を突きつけた。宣言は13章あるが、その趣旨は最終章に集約されている。

「われわれは日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、その行動を十分保障することを求める。これ以外の選択は迅速かつ完全なる壊滅あるのみ」

これは単なる脅しではなかった。米国は7月16日にニューメキシコ州のアラモゴード実験場で初の原爆実験を成功させた。「完全なる壊滅」とは原爆投下を意味したのだ。

トルーマンのこの時期の言動を追うと、日本への「原爆投下ありき」で動いていたことが分かる。

トルーマンは、知日派の国務長官代理、ジョセフ・グルーの進言を通じて「国体護持」(天皇の地位保全)さえ保証すれば、日本が降伏すると踏んでいた。にもかかわらず、陸軍長官、ヘンリー・スティムソンが作成したポツダム宣言の草案から「天皇の地位保全」条項を削ってしまった。日本があっさりと降伏すれば、原爆投下のチャンスが失われると考えたからだとみるのが自然だろう。

ポツダム宣言は、7月17日~8月2日にベルリン郊外のポツダムで行われたトルーマン、チャーチル、ソ連共産党書記長のヨシフ・スターリンとの会談の最中に発表された。

すでにソ連は対日参戦に向け、着々と準備を進めていたが、スターリンは名を連ねていない。当時、日本外務省と在ソ大使館の暗号電文は解読されており、日本が日ソ中立条約を信じてソ連に和平の仲介役を求めてくることが分かっていたからだ。トルーマンも、その方が原爆投下まで時間を稼げると考えたようだ。

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第32代米大統領、フランクリン・ルーズベルトが、軍と科学者を総動員して原爆製造の「マンハッタン計画」をスタートさせたのは42(昭和17)年8月だった。当初はドイツへの使用を想定していたが、44年9月には日本に変更した。

秘密主義者のルーズベルトは、副大統領だったトルーマンにも計画を教えなかった。45年4月12日にルーズベルトが死亡し、後を継いだトルーマンはスティムソンから計画を聞かされ、さぞ驚いたに違いない。

すでに原爆は完成間近で4月27日の目標検討委員会の第1回会合では、日本の17都市を「研究対象」に選定した。5月11日の第2回会合では、京都、広島、横浜、小倉の4カ所を目標に選んだ。原爆の効果を正確に測定するため、4都市への空襲は禁止された。

7月に入ると、B29爆撃機による投下訓練が始まり、ファットマンとほぼ同一形状、同一重量の爆弾「パンプキン」が目標都市周辺に次々と投下された。

米公文書によると、米軍内で広島、小倉、新潟、長崎のいずれかに原爆を投じるよう命令書が出たのは7月25日だった。ということは、トルーマンはポツダム宣言発表前に原爆投下を命じていたことになる。

× × ×

トルーマンはなぜこれほど日本への原爆投下にこだわったのか。

ポツダム宣言発表時、海軍の戦艦、空母など主力部隊は壊滅に近く、制空権、制海権はほぼ失われ、日本陸海軍は戦闘機による特攻などでわずかな抵抗を続けているにすぎなかった。

B29爆撃機はほぼ連日空襲を続け、ほとんどの都市は焼け野原と化し、首都・東京も市街地の5割強が焼失。原爆を使用せずとも降伏は時間の問題だった。

米政府内でもスティムソンやグルー、海軍長官のジェームズ・フォレスタル、陸軍参謀総長、ジョージ・マーシャルらは原爆投下に反対していた。太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツや、太平洋陸軍総司令官のダグラス・マッカーサーは原爆の存在さえ知らなかった。トルーマンに同調したのは国務長官のジェームズ・バーンズだけといってもよい。

それでもトルーマンを原爆投下に突き進ませたのは、ルーズベルトが45年2月にスターリンと結んだヤルタ密約の存在が大きい。

スターリンは、ルーズベルトに対し、ドイツ降伏後3カ月以内にソ連が日ソ中立条約を破棄して対日参戦に踏み切ることを約束。見返りとして南樺太や千島列島の引き渡しや、満州の鉄道・港湾権益を要求した。

そもそも日米が開戦に至る対立は満州・中国での権益争いに始まったことを考えると本末転倒だといえるが、すでに病が悪化していたルーズベルトはスターリンにまんまと乗せられた。

トルーマンは大統領就任後、金庫から出てきたヤルタ密約を見て驚愕(きょうがく)したという。ポーランドやドイツの統治をめぐってもソ連との対立はすでに顕在化していた。トルーマンは「戦後のソ連との覇権争いで優位に立つには原爆しかない」と考えたとみられる。

こうして8月6日、広島に原爆が投下された。慌てたソ連は8日に日本に宣戦布告。9日には長崎に原爆が投下され、2都市で計21万人の尊い命が失われた。日本政府は、昭和天皇の聖断により、14日深夜にポツダム宣言を受諾した。

広島への原爆投下をマニラで知ったマッカーサーは記者にこう語った。

「これであらゆる戦争は終わった。戦争はもはや勇気や判断にかかわる問題ではなくなり、科学者の手に委ねられた。もう戦争は起こらないのだ」

トルーマンは死ぬまで自らの行為を正当化し続けた。58(昭和33)年2月、米テレビで原爆投下についてこう語った。

「日本への上陸作戦には150万人の兵力が必要で25万人が戦死すると推定された。だから強力な新兵器を使用するのに何ら良心の呵責(かしゃく)を感じなかった。夜もぐっすり眠れた…」

(敬称略)


・「練習台にされたんや」49発の“模擬原爆” 95歳、悔しさ今も(西日本新聞社 2020年8月6日)



(上)模擬原爆パンプキン



(上)模擬原爆が投下された18都府県と数

※広島、長崎に落とした原爆の投下訓練として、米軍の特別部隊が1945年7月下旬から8月に本州、四国の18都府県に計49発の「模擬原爆」を落下させた。死者は400人を超え、1200人以上が負傷。長崎に投下されたプルトニウム型とほぼ同じ形状の4・5トンの通常爆弾は、黄やオレンジに塗られた外見から「パンプキン(かぼちゃ)」と呼ばれた。

「練習台にされたんや」。戦後75年が経過した今も、体験者は刻まれた記憶を語り継ぐ。

「バリバリバリバリ、そしてズドン。とてつもない音やったよ」。大阪市東住吉区に爆弾が落とされた7月26日、着弾した料亭のそばの寺で今年も追悼集会が営まれ、龍野繁子さん(95)が当時の様子を語った。

国民学校教諭だった龍野さんは、現場から150メートルほどの町工場に勤労動員の生徒20人を引率していた。戦況悪化で資材の入荷は滞り、作業はなし。午前9時26分。授業でもしようと別室に移った直後、料亭から吹き飛ばされた直径1メートルの岩が天井や床を突き破った。「最初の部屋にいたら命はなかった」

外に出ると、噴煙の奥の電線に真っ二つに折れた畳、人間の内臓がぶら下がっていた。姉の親友ら身近な7人が犠牲になった。

心の傷を消し去ろうと懸命に戦後を生きた。半世紀がたったころ、あの爆弾がパンプキンだったと知った。原爆投下後に自機に被害が及ばぬよう、急旋回の操縦技術を身に付ける練習だったということも。

「こんなばからしいことがあるか」。湧き上がる悔しさが、龍野さんを語り部活動に踏み切らせた。核なき世界に逆行するトランプ米大統領の言動に触れるたびに「原爆や戦争の恐ろしさを知ってもらえる望みが消えてしまわないか」と不安が増す。「人と人の争いでやってしまうのが戦争。止められるのも、人間なんです」



パンプキンの存在や役割を突き止めたのは、市民団体「春日井の戦争を記録する会」(愛知県春日井市)。91年に国立国会図書館(東京)が所蔵する米軍資料から見つけた「特殊任務」の一覧表と地図に、45年7月20日から8月14日までに投下された2発の原爆、49発のパンプキンに関する情報が時系列で記されていた。

会は各地の市民団体などと連携して聞き取りを進め、米軍の部隊が原爆投下の練習として各地を爆撃した事実をつかんだ。8月9日の長崎への原爆投下後も、終戦前日に愛知で7発が落とされた。記録する会の金子力(つとむ)代表(69)は「原爆はもちろん、パンプキンの実態も広く知ってもらいたい」と話している。