・大手メディアという既得権益(その一)
https://isoladoman.hatenablog.com/entry/2019/06/26/162840
1835年のアラモ砦の戦い以来、アメリカが戦争を起こすパターンは約200年に渡って同じである。政府および関連企業が戦争を起こすためのシナリオを書き、メディアがそれに協力し、国民はそれに騙される。リメンバーアラモ、リメンバーメイン、リメンバーパールハーバー、リメンバートンキン、リメンバー911。内容は変わっても、形式は驚くほど同じだ。
戦前の日本や現在の北朝鮮のような「言論の自由」や「報道の自由」が存在しない国家体制であれば、政府とメディアが一体となって国民を騙し続けるという構図は当たり前と言える。そういう国であれば、そもそも国民には「知る権利」がない。憲法において「知る権利」や「言論の自由」が保障されなければ、自由な報道は不可能であり、国家御用達の報道に国民が異を唱えることも許されない。
「勝った、勝った、また勝った」と連日報道が行われていた大日本帝国においても、それを疑う人間はいただろう。ではそういう人が自らの疑念をもとに独自で取材をし、その成果を国民に広く知らしめることはできたであろうか。皇軍が大陸や洋上で手痛い敗戦を蒙っていたことを独自取材し、紙に印刷して国民に配ったとしたら、その人はどうなるだろう。その内容が真実であったとしても、間違いなく治安維持法によってその人は逮捕される。結果、特高に拷問されて死ぬか、大陸に送られて731部隊の生体実験の材料にされたかもしれない。
では、「知る権利」や「言論の自由」、「報道の自由」が憲法で保障される国家においては、大日本帝国や北朝鮮と違い、メディアは真実を報道できるのであろうか。その答えは、半分イエスであり、半分ノーである。半分YESというのは、メディアが真実を報道しても国家に逮捕されないということである。つまり、メディアは自由に報道できる。半分NOというのは、大手メディアは決して真実を報道しないということである。民主主義国家においては「言論の自由」が保障されているので、政府にとって都合の悪い内容が報道されても、治安維持法によって逮捕されることはない。それゆえ、真実の報道は国家によって保障されているのであるが、大手メディアはそうした自らの権利を放棄するのである。
なぜなら、大手メディアは巨大な「利権」だからである。戦争は、国家間の憎悪や宗教の違いが原因ではなく、利権争いが原因だと私は何度も書いてきた。国際金融資本家からすれば、国家間における宗教の対立や人権の問題などはどうでもいい。民主主義か独裁国家かという問題も、どうでもいい。正義がどっちにあるかということも、どうでもいい。戦争によって独裁国家を民主国家に変えるという目的は建前にすぎない。本当の関心は「いくら儲かるか」である。そのために戦争をいろいろな手練手管で「起こす」し、邪魔者は排除する。
ヴィクター・ソーン(Victor Thorn 1962-2016)が、世界四大金儲けは、戦争、麻薬、エネルギー、金融だと言ったが、その四つは密接にからんでいるため、実際には、金儲けは一つであり、それは一つの共同体だと言えるだろう。四つの利権に群がる人々が戦争を起こすのである。もちろん、政府は国民に対して、そのような本当のことは言えない。利権にからむ大手メディアも、本当のことは言えない。それゆえ、国民はいつでも「正義の戦争」という夢を信じて死んでいくのである。
独裁国家や共産主義国家において、国民がメディアに騙される理由は、政府とメディアが組織として同体だからである。他方、民主主義国家においても国民が相変わらず騙され続けることの理由は、メディアと政府は別組織であるが、メディアはメディアでそれ自体「利権」だからである。国際金融資本家、およびその操り人形である政治家は、自らの利権のために国民を騙す。騙して戦争を起こし、それにより、金も権力もない一般国民は大量に死ぬ。こうした詐欺と暴力の構造に、メディアも重要な役割を演じているのである。
こうした暴力と悲劇を防ぐために、国民には憲法で「言論の自由」や「報道の自由」が保障され、報道機関には権力を監視するという役割が当てられている・・・と建前ではなっている。これが民主主義国家の建前であるが、この建前が機能することは、憲法上でいくら「報道の自由」が保障されようとも、極めて難しい。なぜなら、国民の多くが信じる「大手メディア」は、巨大な「利権」であり、利権によって利権を監視するという構造が、民主主義国家における「権力の監視」だからである。
具体的な例をあげよう。大日本帝国が戦争をするに当たっては、大新聞やNHKラジオなどの御用メディアが、国民の戦意高揚のために大変に役に立った。これと同様、民主主義国家のアメリカがイラクを滅ぼし、その結果莫大な利益を国際金融資本家が得るために、ニューヨーク・タイムズは大変に役に立った。
イラク戦争開戦の大義とされ、戦争に踏み切るか否かについての極めて重要なファクターであったのが、イラクが大量破壊兵器を保有しているという情報であった。これの真偽について、開戦前は多くの議論があったが、当時のニューヨーク・タイムズのジュディス・ミラー記者は、イラクが大量破壊兵器を保有している旨の記事を多く書いた。911事件の約一年後、彼女は2002年9月8日のニューヨーク・タイムズ一面トップ記事を同僚記者との連名で書いた。それは、イラクのフセイン政権が核兵器の部品調達を急いでいるという内容の記事であった。
イラクが核兵器の開発のために、濃縮ウラン製造のための遠心分離機に使われるアルミ製チューブの購入を企んでいると同紙は書いた。その後、チェイニー副大統領、ラムズフェルド国防長官、ライス大統領補佐官がTVのニュース番組にゲスト出演し、ニューヨーク・タイムズの一面記事を紹介しながら、「イラクが大量破壊兵器を保有していることは間違いない」と国民に向かって訴えた。こうしてアルミ製チューブは、全米大手メディアのネットワークを経由して、国民に広く知られるものとなった。
通常なら原子力工学の専門家でなければ知るよしもない濃縮ウラン施設用のアルミ製チューブが、アメリカ国内で有名なものとなったのだ。その後、ブッシュ大統領やパウエル国務長官がアルミ製チューブについて国連で演説し、パウエルはアルミ製チューブの写真をテレビカメラに向けながら国連で演説をした。こうして、ニューヨーク・タイムズが紹介したアルミ製チューブがきっかけとなって、アメリカ国民のあいだでイラクの核開発を疑う人は少数派となり、多数派の国民がイラクにおける大量破壊兵器の存在を信じるようになった。
こうしてアメリカによる「正義の戦争」は遂行された。以前にも書いたように、イラク戦争による死者は、約50万だと言われている。この悲劇の茶番劇の茶番性が明らかになったのは、50万人がお亡くなりになった後である。誰もが知るように、イラクに大量破壊兵器はなかった。世界的に有名となった例のアルミ製チューブは、濃縮ウラン用のものではなく、単なる建築資材用のアルミ製チューブであった。核開発とはまったく関係のないチューブの写真が、濃縮ウラン用のアルミ製チューブだとでっち上げられて使われたのだ。
さらに、後になって、ニューヨーク・タイムズの一面記事は、当時の政府関係者からニューヨーク・タイムズの記者に流された情報だったことが判明した。ニューヨーク・タイムズは、政府関係者からアルミ製チューブについての情報を受け取り、それを細かく検証せずに、そのまま紙面に載せてしまったのだ。核開発用のアルミチューブは、一般の工業用のアルミチューブとは違い、耐久性の高いものでなければならず、太さや形状や材質がまったく違う。しかるべき原子力工学の専門家や、原子力施設専門の建設業者にきけば、それが原子力用のアルミチューブでないことはわかるはずであった。しかし、ニューヨーク・タイムズはそうした検証をせずに、受け取った情報をそのまま紙面に載せてしまった。
チェイニー副大統領は、TV出演した際に「ニューヨーク・タイムズの一面に載っているとおり、イラクが大量破壊兵器を保有していることは間違いありません」と声を大にして国民に訴えた。つまり、彼は自分でニューヨーク・タイムズに情報を流し、自分でつくった紙面を指差して、「新聞に載っているから間違いない」と国民に力説したわけである。
この時のアメリカ政府がやったことは、戦前の日本の大本営発表や、共産主義国家のTVニュースと同じである。政府と報道機関が同体なのである。そこには権力の監視なんてものは無いに等しい。ただ、民主主義国家においては、一応、政府とメディアは別物で、メディアは権力の監視が役目だという建前になっているために、独裁国家やファシズム体制と違って複雑でわかりにくい。国民は、北朝鮮のニュース映像を見て、「報道の自由がない国は憐れなもんだな」という気分になるが、実際のところは自分の国は北朝鮮と違ってメディアが権力を監視しているという夢を見ているだけである。
この件で、ニューヨーク・タイムズだけを責めても意味がない。他の新聞がきちんとその記事を検証したかと言えばしなかったわけであるし、TVの方も、ニューヨーク・タイムズの記事が間違っていることを、やる気があれば独自に検証できたはずである。そうした検証があれば、出演した政治家の言うことをそのまま鵜呑みにするのではなく、自らの検証をもとに政治家に反論することもできたはずである。また、情報を受け取る国民の方も、それを信じない自由は持っていたわけだから、疑うことによって、自分で調べて考えることができたはずである。それゆえ、イラクで50万人の死者を出した責任は、ニューヨーク・タイムズだけにあるわけではない。
民主主義国家においては、メディアは権力の監視の役割を担い、権力の暴走を止めるという建前となっている。しかし実際のところ、大手メディアの仕事は、権力と親密な関係になって、小さなメディアやフリージャーナリストでは手に入らない情報を獲得することである。そうやって、素人では知りようのない大本営の情報を発表することがプロとしての役割となってしまっているのだ。
権力と親密であることは、大手メディアにとって財産である。つまり、既得権益である。それゆえ、彼らはそれを国民に向かって隠す。NHKの幹部が頻繁に安倍総理や菅官房長官と夕食をともにしていることを、NHKは夜のニュースで報道しない。大手新聞社の政治部長は、自分が政権中枢や大臣やエリート官僚と親密な関係を持っていることを自慢に思っている。権力の監視ではなく、権力とどれくらい自分が親しいかが彼らの自慢なのであり、それが出世の道なのである。
国民は自分が見ているTVや新聞が、どのような既得権益で成り立っているかを、普通は考えないものである。へたをすると、一生考えない。大手メディアの社員はいくら給料を貰っているか。そのことをほとんどの国民は考えない。日本国民のほとんどは、NHK、フジテレビ、朝日新聞の社員の平均年収を知ったら驚くだろう。
大手メディアは、権力と親密になることで自らの仕事が成り立っている。それが民主主義国家における彼らの姿である。彼らは国民に大変に信用されており、少数の会社が利権を独占しているために、富がそこに集中している。大手メディアの社員の給料は高い。癒着によって情報が入り、苦労して取材しないで済むから、仕事は楽だ。楽な仕事で高い給料が貰えるのだから、彼らの仕事で大事なことは、余計な仕事をしないことである。つまり、社会に衝撃を与える事実を報道せず、毒にも薬にもならぬような記事を配信し続けることが彼らの大事な仕事なのである。
・大手メディアという既得権益(その二)
https://isoladoman.hatenablog.com/entry/2019/07/03/145421
国税庁発表によると、平成27年(2015年)の日本人サラリーマン平均年収は420万円だそうである。大手企業の社員、例えば日立や東芝のような大企業の社員の年収も、700万から800万程度のようだ。他方、朝日新聞の社員は、30歳で平均年収1000万をこえる。NHKも同様である。フジテレビなら1500万である。そのあたりの情報については、ネット上で様々なサイトが伝えているが、例えば以下のサイトでは、大手メディアの平均年収について比較して書かれている。
日本にはマスメディアの危機なんてない。あるのは社員の高すぎる給料だけだ。
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51672231.html
公務員ではどうだろうか。例えば警察官の場合、年収1000万をこえるには、警部以上に出世する必要があるようだ。日本の警察官は約25万人。そのうち、警部以上にまで出世できる確率は約10%だそうだ。つまり、約9割の警察官は、年収一千万に到達しない。
これに対して、大手メディアに勤めていれば、普通でも30歳になれば年収1000万に到達する。となると、余計な記事を書いて島流しになったり、クビになったりするよりかは、当たり障りのない仕事をしながら、そうした利権を手放さない方が利口である。それゆえ、大手メディアの報道は基本的に安全策であり、結果として大本営発表となる。
30代で平均年収1000万を突破する大手メディアの社員は、平均年収420万の一般国民と比べれば、特権階級と言える。平均年収420万の一般国民は、「我らの味方」という感情で、メディアに対して権力の監視を期待するだろう。しかし、特権階級の皆さんからすれば、そんな期待をされても困る。彼らからすれば、庶民の味方として「反権力」になって、既得権益を失うわけにはいかない。
権力を監視し、権力の痛い腹について報道することで、政権中枢やエリート官僚から嫌われたり、その結果自分の既得権益を失ったりすれば、そこで働く社員からすれば、何のために大手メディアに就職したのかわからなくなる。彼らにとって権力の監視は二の次であり、一番の目的は毎月高い給料を貰い、それで住宅ローンを払ったり、年老いた親を高級老人ホームに入れたり、子どもをいい大学に進学させることである。
私は大手メディアの社員の皆さんが高給であることを批判したいのではない。彼らにも生活がある。その生活を獲得するために、彼らは学生時代に勉強を頑張り、いい大学を卒業し、大手メディアに就職したわけである。そんな彼らを責めることは誰にもできない。それゆえ、低所得者層が彼らの高給を羨んで批判しても、何にもならないのである。
また、彼ら特権階級が自らの階級の強みを活かして大本営発表を続けることについても、誰も責めることはできない。民主主義国家においては「報道の自由」が保障されているのだから、誰が大本営発表をしようが、それも「自由」である。それゆえ、特権階級の皆さんが、その特権性により大本営発表を日々垂れ流し、それによって特権的な高給を得ていることは、自由主義国家における自由であるから、誰もそれを責めることはできないのだ。
問題は読者の勘違いである。彼らの既得権益を「既得権益」だと認識せず、例えば朝日新聞を読んで「自分は反権力メディアを読んでいる」と勘違いするならば、そちらの方が問題である。もちろん、朝日は「反権力」の外面をしており、読売は「権力べったり」の外面をしている。しかし、それは国民にも右翼的なテイストが好きな人もいれば、左翼的なテイストが好きな人もいるから、それぞれのニーズをもとに商品があるというだけの話である。「カルボナーラ風うどん」はスパゲッティでもなければイタリア料理でもない。あくまでも「うどん」である。テイストに騙されると、読売が右で朝日が左だと本当に思い込んでしまう。実際には、朝日が左翼で読売が右翼なわけではない。どちらも大手メディアであり、利権である。
これは、自民党を右翼や保守だと思い込んで投票している愛国者の勘違いと似ている。もちろん、自民党も一枚岩ではないので、一つの思想に決めつけることはできない。ただ、安倍晋三はCIAのエージェントであった岸信介の孫であり、要はアメリカ派である。つまり、国産金融資本勢力御用達の政治家である。日本会議も基本的にアメリカ派であるから、一水会などの右翼勢力は日本会議を嫌っている。
だから、アメリカからの独立を願っている日本の右翼は、アメリカ派の政治家が嫌いである。彼らは安倍晋三が嫌いであるし、郵政民営化によって日本の郵便局をアメリカ金融資本に売り渡した小泉純一郎や竹中平蔵のことも嫌いである。
それゆえ、安倍政権を支持するなら、そういうことをきちんとわかって、「アメリカ万歳!」とか「ゴールドマンサックス万歳!」という気持ちで支持するべきであるし、そういう気持ちで支持するなら問題ないだろう。問題は、自分のことを保守または右翼だと自認しながら、結果としてユダヤ人を支援していることをまったくわかっていない支持者である。それと同様、朝日新聞を反権力メディアとして購読しても、それは勘違いである。
ほとんどの国民は、大手メディアの政府広報を「報道」だと勘違いしてしまう。つまり、大手マスコミの言うことを「大本営発表」ではなく、「ニュース」として受け取ってしまうのだ。NHKのニュースや朝日新聞の記事を、朝鮮労働党の広報と同じ種類のものだとは見ない。確かに、朝鮮中央テレビの報道は嘘だらけである。しかし、ニューヨーク・タイムズの報道も嘘だらけなのである。
だから、朝日新聞の記事やNHKのニュースを、朝鮮中央放送の共産党ニュースと同じ種類のものだと自覚して見るのなら、何の問題もない。基本的に、大手メディアは薄くて広い報道をするわけだから、情報収集としては便利であるし、わかって見るのなら問題はない。天気予報やテレビ番組表、イベント情報や映画情報など、役に立つ情報も載っている。だから、問題は大手メディアにあるというよりも、大手メディアを「報道」として信じてしまう国民の方である。
どの国も「信じやすい人」、「騙されやすい人」というのはいるものだが、日本人はどうやら大手メディアに騙されやすい国民性のようである。以下のサイトは、その旨を説明している。
メディアへの信頼度が高いだけに世論誘導されやすい日本
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2015/10/post-4034.php
世界報道自由度ランキング(Press Freedom Index)において、アメリカは何位で、日本は何位だろうか。世界報道自由度ランキングは、国境なき記者団が年に一回発表している指標であり、Googleで「世界報道自由度ランキング」と検索すれば、誰でも見ることができる。
これによれば、日本は67位、韓国は41位、台湾は42位、アメリカは48位である。1位はノルウェーである。日本は、ボツワナ、トンガ、フィジー、ガイアナ、ベリーズ、マダガスカルより下である。私は、そうした発展途上国において、どのような憲法があり、どのような自由が保障されているかを知らない。しかし、日本国民は、大日本帝国における報道規制や言論弾圧に辟易した国民のはずである。また日本という国は、皇軍万歳報道のおかげで300万人の死者を出した国のはずである。なのに、なぜ67位なのか。そして、国民のほとんどがこれをなぜ何とも思っていないのか。その原因については、今の私にはまだわからない。
・「報道の自由」と「報道しない自由」
https://isoladoman.hatenablog.com/entry/2019/07/10/160326
私は民主主義における「報道の自由」を否定しているわけではない。民主主義国家なら自動的に国民に「知る権利」が手に入るという甘い話はないと言いたいのである。独裁主義国家や共産主義国家の体制を転覆して民主主義国家にすれば、「大本営発表」が自動的に克服されるわけではないし、「真実」が棚から牡丹餅式に国民に転がり込むわけでもない。例えば米軍が北朝鮮を滅ぼし、金王朝体制をひっくり返して、民主主義の国家体制をつくりあげたとしよう。それは北朝鮮の国民のみならず、世界中の人が喜ぶ祝祭となるだろう。しかし、ハネムーンの夢気分は長く続かない。
北朝鮮が民主主義、自由主義の国となったら、それまでの共産主義体制とは違い、日本やアメリカのように、民間企業が報道の担い手となるであろう。メディアが巨大な利権となるわけだ。そうなると、自由国家の北朝鮮の報道機関は自ら「報道の自由」を放棄して、利益を独占する大手メディアが権力と一心同体となり、国民に対して大本営発表をするようになるだろう。
そうなった時、北朝鮮の国民は試されることとなる。それまでの独裁主義体制であれば、国民は報道を信じなければよかった。政府は特権階級の集まりであり、一般庶民の味方ではない。少数の権力層が、多数の国民を支配する。その中で、政府と一体となった放送局が、真実を報道するはずがない。政府の失態をひたすら隠し、国民を欺く報道ばかりを流す。そのような中で、国民が取る態度は一つしかない。政府と一心同体のメディアを信用しないことである。
共産主義体制や独裁主義体制においては、国民は報道について「どうせ嘘だ」と思っていればいい。現に共産主義体制の報道は嘘だらけである。しかし、民主主義体制になったら国民に自動的に真実が転がり込むわけではない。もし、北朝鮮が民主化されたら、北朝鮮の国民は、どの情報を信用するか、自分で考えて判断するしかない。共産主義メディアは嘘だらけであるが、資本主義メディアも嘘だらけである。
しかし、多くの国民はおそらく大手メディアを信用してしまうであろう。民主主義のベテランであるアメリカ国民でさえ、およそ200年くらい同じパターンで騙され続けている。民主主義歴70年以上の日本国民も、いまだに騙され続けている。北朝鮮が民主主義体制になるとしても、デモクラシー初心者の国民が、すぐにデモクラティックになるはずがない。結局のところ、彼らも民主主義国家における奴隷とならざるをえないであろう。せっかく独裁体制の奴隷から抜け出せても、今度は民主主義国家において奴隷となってしまうのだ。
民主主義国家における報道機関は、国家権力ではなく、民間の会社である。日本においては、NHKですらも国営組織ではなく、民間の法人である。こうした民間企業により、政府と癒着した報道が国民に流され、いかにも中立公正な「ニュース」という風体をとる。まるで間違いのない「事実」のような顔をした情報が国民に流されるのだ。
独裁国家が国民を騙すことは誰でも知っている。しかし、民主主義国家においても政府は平気でウソをつき、報道は平気でウソを垂れ流す。これを国民はどれだけ自覚しているだろうか。イラク兵がクウェートの病院を襲い、赤ん坊を病院の壁に投げつけたという報道はウソだった。涙の証言をしたナイラは駐米クウェート大使の娘だった。油まみれの水鳥は、フセインの軍隊による犠牲者ではなかった。中東の平和をかき乱すとされた核ミサイルは、イラクに一発もなかった。核施設のためのアルミ製チューブと言われた部品は、ただの建築用チューブだった。
何もかもがウソであり、ウソの大合唱であった。それによってイラク人やアメリカの若き米兵が大量に亡くなったが、政府もメディアも一切責任を取らない。チェイニーは軍事関連会社のハリバートンの役員であったから、あの戦争で相当に儲けただろう。ブッシュ一族は軍事投資会社であるカーライル・グループの幹部である。戦争で軍事関連企業は儲かり、そこに投資した金融業も儲かり、過熱報道をしたメディアも儲かった。犠牲者は戦場に行ったアメリカの貧困層の若者とイラク国民である。金持ちたちは、彼らを犠牲にして大儲けしたのだ。
当時の世界の人々は、気づかなかった。大量破壊兵器は、イラクにあるとずっと言われていたが、実はもっと身近なところにあったのだ。それは利権のためなら何でもする政治家であり、関連企業であり、大手メディアである。アメリカは、国自体が大量破壊兵器であり、それを支援する日本も同様である。兵器とは、爆弾やミサイルだけではない。戦争によって儲けようとする政治家や企業は大量破壊兵器であり、戦争を煽るメディアも兵器であり、メディアの言うことを鵜呑みにする国民も兵器である。
当時、子どもを爆弾で亡くしたイラク人の女性が、テレビカメラに向かって、「うちの子がなぜ死ななければならないの!」と泣き叫んでいた。その問いに対する答えは単純である。そうした人達が戦争で死ねば、地球の裏側の誰かが、非常に儲かるからである。誰かの悲しみは、誰かの利益である。
民主主義国家においては、「報道の自由」が憲法によって保障されている。その「自由」は、履き違えられて、「政府から流れてくる情報をそのまま報道する自由」となったり、あるいは逆に「肝心なことを報道しない自由」となったり、「忖度した情報を流す自由」となったりする。本来、「報道の自由」とは、国民が真実を受け取ることを国家によって妨げられないことを意味する人権である。しかし、それは大手メディアが「金を儲ける自由」と成り果ててしまった。
この履き違えられた自由をもとにして、大手メディアはきちんと事実を検証せず、政府筋から貰った情報をそのまま紙面に載せる。あるいは知っていて知らぬフリをする。例えばナイラ証言にしても、ナイラは大使の娘であったわけだから、画面でその顔を見た瞬間に気づいた人はいたはずだ。国務省関係者や外交官、あるいは外交担当のジャーナリストの中には、その茶番に気づいた者もいただろう。しかし、そうした外交のプロたちは、気づいていても、あえて声をあげなかった。余計なことを言って自分の地位と年収が脅かされることを恐れたわけである。
アルミ製チューブについても同様である。核施設用のアルミ製チューブと、通常の建築資材としてのアルミ製チューブでは明らかに形が違う。普通の建築用アルミ製チューブは、濃縮ウランの製造という厳しい環境では使用できない。太さも強度も明らかに異なる。これは、公開された写真をもとに、ジャーナリストが核施設の建築に携わる専門家に取材すれば、簡単にわかることである。しかし、彼らはそのような取材をしなかった。あるいは取材の結果、あれは濃縮ウラン用のチューブではないと明確にわかったのかもしれない。わかっていながら口を閉じたのだろう。
おそらく、大手メディアのそうした在り方を批判したり、文句を言うことは建設的ではないだろう。彼らは自らの既得権益を守っているだけであり、企業活動の自由が保障されている民主主義国家において、金儲けしているだけである。金儲けの自由が保障されている民主主義国家において、金儲けのために存在している企業を責めても意味はない。彼らには「報道の自由」があり、「報道しない自由」もある。それは、「わかっていながら隠す」という自由であり、当たり障りのない報道をして自分の利権を守る自由でもある。
現在(2019年7月10日現在)、「新聞記者」という映画が日本全国で公開されているようである。私はまだこの映画を見ていないが、次のようなセリフがこの映画に出てくるそうである。
「この国の民主主義は形だけでいいんだ」
日本には民主主義によく似た形があるだけ
https://president.jp/articles/-/29272
独裁国家や共産主義国家が民主主義国家になれば、「報道の自由」が確立されるだろう。しかし、それと同時に、その国は、「形だけの民主主義」に陥る危険性もある。この「形だけ」に国民が満足する時、その国は支配者層にとって大変に操りやすい国となる。
嘘の情報をもとに戦争が起きても、メディアはその嘘を暴かないし、国民もそれを疑わない。後でそれがバレても、誰も処刑されない。誰も罰せられることはない。費用は全額税金、死傷者は一般国民、儲かるのは国際金融資本家という構図が出来上がる。「形だけの民主主義」は、国自体が一つの大量破壊兵器となる可能性を秘めている。
・報道しない奴隷とその脱却法(1)
https://isoladoman.hatenablog.com/entry/2020/07/12/182053
1.皇軍の息子から軍産複合体の内臓へ
戦前の日本には検閲が存在し、報道の自由はなかった。例えば台風情報も国民に隠された。気象情報はすべて軍事機密として扱われたので、新聞やラジオは報道できなかった。そのため、事前にわかっていれば避難できた国民も、台風により命を失った。失われる命を前にして、ジャーナリストは屈辱の沈黙を自らに強いるしかなかった。
元来、報道とは危機を知らせるものである。知らないことは危険であるゆえに知らせる。知ることによって死ななくて済む。報道は元来、そうした良心と危機感に根差したものである。そこには大学のジャーナリズム論が講釈する晦渋なものはない。危ないものを「危ない」と知らせるものが「報道」であるなら、ジャーナリストの精神とは難しいものでもなんでもない。それは単純明快な「良心」であると言える。
もちろん、これに対して都合の悪い人々が存在する。報道が良心に基づいた単純な行為であるとしても、知られたら困る方の立場からすれば迷惑だ。こうして権力と反権力の構図が生じる。もともと報道は無意味に国家に楯突くものではなかろう。報道の根っこは反逆ではなく良心であるはずだからである。しかし、隠蔽が人命を危険にさらす場合、良心はやむなく隠蔽する国家に反抗せざるを得ない。危険な隠蔽を黙認する心性は、既にして良心ではないからである。
さて、戦後の日本では憲法も改まり、21条で表現の自由が保障され、報道の自由が保障されることとなった。屈辱の沈黙を強いられた報道機関は、自由な空を羽ばたけるようになったのである。台風が来たら皆に逃げろと報道できるようになった。負け戦を「勝った、勝ったまた勝った」と嘘つく必要もなくなった。
しかし、マスコミが世の春を謳歌したのは一瞬だった。すぐに厳しい現実が襲ってきた。食い扶持の問題である。全体主義国家におけるマスコミは楽だった。政府、官僚、軍部の言いなりになって報道すれば食うに困ることはなかった。むしろ戦火が広がるほどに新聞は売れた。彼らは戦争を煽りに煽った。煽れば煽るほど売れたからである。
平和の世では戦火の方程式は通じない。検閲は縛りであると同時に保護だった。保護者たる国家はマスコミを食わせた。しかし自由国家は検閲をしないと同時にマスコミを食わせない。父が子を養育しない以上、子は自力で食い扶持を稼ぐしかない。こうして戦後のマスコミは自立を余儀なくされた。自由になったと同時に、彼らは食い扶持を稼ぐために必死になった。
大手メディアは記者クラブをつくり、中小零細報道機関を閉め出し、既得権益の保持に躍起になった。軍部という父を失った代わりに、CIAという新たなパトロンと出会った。さらに官邸や霞ケ関とパートナーシップを結び、大企業と友達になった。こうして大手メディアは、戦前よりも大きなマスコミ帝国をつくった。
皇軍という父の死後、途方に暮れたマスコミは、頭を使って新しいパトロンを得ることで、しぶとく生き残った。そして戦前よりも高い給料を得る特権階級へと成り上がった。現在の日本の大手マスコミがどれだけの年収を得ているかについては、第十七回ブログを見てもらえばいいだろう。
現在では、NHKの会長になれば総理大臣と定期的に会食ができる。マスコミが脅せば政治家も怯む。報道によって議員を当選させることも落選させることもできる。検事長を奈落の底に突き落とすこともできる。戦後の焼け野原で父を失い泣いていた子は権力者になった。金も力もある。大衆心理も人心操作も思いのままだ。
こうして出世した息子はあの時の屈辱を忘れる。台風を報道できなかった屈辱。真実を捻じ曲げて報道した屈辱。嘘を言い、煽りに煽った挙句、300万人が死体となった屈辱。屈辱の中で唇を噛んだ息子は、今では悔しさも忘れ、Global強盗の手先となる。
それは皇軍という小さなレベルの話ではない。300万人の犠牲者では済まない。Global強盗の手先となることは、世界的規模の軍産複合体と手を組むということである。屈辱の息子は、保護者を失って食い扶持を稼ぐことに夢中になっているうちに、巨大な怪物の肉体へと包含された。皇軍の息子は、今ではGlobal経済という怪物の内臓となって機能している。
2.マスコミの進化と奴隷制度の進化
戦前のマスコミには自由がなく、ただひたすらに屈従があった。その分、楽だった。国家と一体となったマスコミほど楽なものはない。言われたとおりに報道し、言いなりになって仕事をすればいい。考えることを面倒だと思う人間からすれば、そうした職場は堕落という名の天国である。
この堕落天国は、現在では共産主義国家に存在する。共産主義国家には検閲が存在し、報道の自由がない。検閲は屈辱であり、裏返せば楽である。中国や北朝鮮の人民は、この体制に慣れた。彼らは報道の自由を諦めている。諦めは屈従でありながら安寧である。それゆえ彼らは何十年にも渡って、不自由という安楽椅子に座り続けている。
では自由主義国家に堕落はないか。答えは否である。自由主義国家においては検閲がない。ということは安楽もない。検閲の裏には安定した生活があるが、自由の裏には競争しかない。売らなければ会社もなく、個人の生活もない。こうして良心の報道よりも金が大事になってくる。共産主義国家のマスコミは検閲に堕落し、自由主義国家のそれは金に堕落する。
こうして自由主義国家においても真実の隠蔽が大手を振って闊歩するようになる。それは国の強制ではない。自由なメディアによる自由な経営判断である。つまり自由主義国家においては検閲によって国民に真実が隠されるのではなく、マスコミの金と権力により隠されるのである。
金儲けに走るマスコミを体内に取り込んだGlobal経済という怪物は、ここでふと気づいた。国家が人民を牛耳るのに、検閲は必要ないと。奴隷を縛って統制する時代は終わった。ムチで叩くことは逆効果だ。古い手法に固執する共産主義国家と違い、洗練された国家では国民に自主的に自由を返納させる。
奴隷制度は消えたのではなく進化した。新しいシステム下では、誰も自分が奴隷だと思わない。中国や北朝鮮のような旧態依然の奴隷国家では、いまだに検閲を行っている。これでは自分が手にする新聞が検閲済みのものだと国民の誰もが気づいてしまう。それよりも自由な新聞各社が競争し、保守系と革新系に分かれて喧嘩する方がよい。
国民はどちらもCIAとは気づかないから、特に革新系の新聞読者は、自分がリベラルな国民だと勘違いするだろう。民主主義国家の場合、国民は自分の手にする情報を統制されたものだと意識しない。自分が奴隷だとわかっている奴隷と、自分を自由だと思いこんでいる奴隷とでは、どちらが主人にとって都合のいい奴隷であるか。
「自由でないのに、自由であると考えている人間ほど奴隷になっている」(ゲーテ)
https://note.com/viappia2472/n/nf2c9362a4797
かつて多かった共産主義国家が、今は少ない理由はなんであろうか。ソ連が崩壊したとき、ある自民党の政治家は「勝負あった」と述べた。つまり自由主義陣営が勝ったのだと。そのようなロマンティックな解釈に浸る人は幸せ者なのかもしれない。しかし、真相はより残酷なものかもしれない。
共産主義国家の情報統制は、党幹部の利益のためである。ということは、国内の利益にしかならない。それに比べれば、Global経済の利益は国境を跨ぐ。日本人の無知はアメリカの利益にもなる。各国を共産化して個別に支配するよりも、世界を自由化し、巨大マスコミを使って世界市場を動かす方が、Global資本家にとっては儲けが多い。
怪物が世界を股に掛けて行っていることは、Business(仕事)やEnterprise(事業)、時にはCharity(慈善事業)と呼ばれるが、その実質は強盗である。そのため人に見られることはまずい。隠す必要がある。その際、報道を力でねじ伏せるやり方は古い。ナイフで脅すよりも、目撃者を共犯者にする方が利口である。
こうして報道機関は権力の敵ではなくBusiness Partnerとなる。Partnerから国民に流される情報は洗練されたものである。内容は侵略であり殺人であっても、「紛争」という名で報道される。われわれ「市民(citizens)」は、イラク戦争がなぜ起きたのか知らない。そこで何人死んだのかも知らない。どこかの国で台風が来たのと同じように、いつのまにか戦争がはじまり、いつのまにか終わる。そして数年経てば忘れる。
殺人は報道というパッケージングの過程で、無味無臭のものとなる。「市民(citizens)」は殺され、殺人犯が莫大な利益を得る。それが洗練された「報道」という商品として、異なる場所の「市民(citizens)」に供給される。朝、ニュースを見た「市民(citizens)」は、会社に行って働く。明日は我が身とは思わずに。
3.進化するシステムと良心
アメリカで奴隷制度が消滅し、南アフリカではアパルトヘイトが廃止された。ナチスや皇国は滅びた。ソ連が崩壊し、世界の共産主義は著しく縮小した。全体主義の時代が終わり、自由主義が世界に広まった。これで人類の奴隷時代は去ったかのように見えた。
しかし、奴隷時代の終焉は新たな次元をもたらした。それが奴隷の隠蔽である。あからさまな奴隷制度が死滅したということは、進化した奴隷制度が生まれたことを意味する。自分が奴隷だと気づかない奴隷の誕生である。新たな奴隷の集合体が「市民社会(civil society)」である。
もともとアメリカで黒人奴隷の制度が誕生したきっかけは、イギリスの産業革命であった。アフリカから黒人を買って家業を手伝わせるという習慣はそれ以前から存在した。しかしそれは小規模なものに過ぎなかった。イギリスの片隅で生まれたテクノロジーの革命は、こうした牧歌的な奴隷時代を終わらせた。産業革命により、イギリスの綿織物の生産量が激増したのだ。
イギリスに送る綿花はいくら栽培しても足りないという状況になった。これにより、黒人はいくらいても足りないということになった。こうして黒人奴隷制度は小規模な売買という次元を越える。黒人奴隷の売買は国家レベルの大事業となり、巨大なシステムへと変貌していく。
このシステムが終焉をむかえたのも、同じく産業革命が原因であった。莫大な黒人によって収穫される莫大な綿花は、莫大な織物となり、供給過剰となった。行き場を失った商品が在庫となるだけでは意味がない。そこで、大量生産を大量消費する「市民(citizens)」が必要となった。奴隷は質素に暮らし、少数の貴族が贅沢をするという生活様式では、このニーズに応えられなくなったのだ。
人権思想家が奴隷制度に対して怒りの声を上げるより先に、奴隷制度は経済的に無意味なものとなった。拡大し続ける「産業」という怪物は、奴隷に対して別の役割を期待するようになった。つまり、きちんと教育を受け、会社で働き、結婚して子を育て、人口を増やすという「市民(citizens)」の役割が期待されるようになった。莫大な数の市民が莫大な量の商品を欲する巨大市場が求められるようになった。
奴隷にムチを打って働かせるという行為は、それをすることで儲かるというシステムがなければ意味がない。産業革命の初期は、そうした奴隷を大量に必要とした。しかし後期になると逆に不要となった。不要となった代わりに、別の人間モデルが必要となった。巨大産業という怪物が、人間にモデルチェンジを強いたのだ。この時怪物が必要とした人間の型は、次から次へと現われる商品を購入する欲深な「市民(citizens)」である。
もともと人間は動物を飼いならし、そこから生活の糧を得るという知性を持つ。その知性の発展として、いつしか人間は莫大に増え、人間が人間を飼いならし糧を得るという生き方が当たり前となった。その過程で奴隷制度が生まれ、その後モデルチェンジがあった。この拡大し、進化する過程の中で、経済もGlobal経済へと進化したのだ。
すべてが可視から不可視へと進化する過程である。あからまな植民地支配は消滅し、目に見えない植民地支配が行われるようになる。見てすぐわかる奴隷はいなくなり、主人のような奴隷が誕生する。独立国の顔をした植民地が生まれ、同盟国のような宗主国が支配する。公正中立のような報道機関が偏向報道をし、病気を治すための薬が人間を病気にする。綺麗なビルの大企業が殺人鬼であり、正義のための戦争が侵略であり、死ぬまで離婚しない夫婦が仮面夫婦である。
古来、大地の作物や草原の羊に話しかけ、彼らとコミュニケーションすることで糧を得た人類は、スーパーの陳列棚に置かれる死体を糧として生きるようになった。ビニールパックされた植物や動物を得るために、我々は人間とコミュニケーションをして金を得なければならなくなった。人が人を騙すという高度な知性が進化するうちに、人類は真実を隠すようになった。
今では報道も進化し、80年前のようにウソで人を騙さなくなった。かわりに彼らは「事実」で騙すようになった(第五十八回ブログ参照)。進化し、洗練された報道は、我々を「市民(citizens)」という穏やかな夢の中に眠らせるようになった。おかげで、誰も自分が奴隷だと気づかない。我々は余計なことを考えず、仕事をし、家庭に帰り、週末はディズニーランドに行って遊べばよい。
しかし会社で人を騙し、家庭で妻を騙し、週末は遊技場で巨大資本に騙されているうちに、我々は根本的に疲弊するようになる。その疲弊は温泉に入って治るものでもなければ、精神科を受診して癒されるものでもない。
洗練された「市民社会(civil society)」においては、戦争は軍人ではなく広告代理店によってデザインされ(第十五回ブログ参照)、兵士は戦場で泥をすすることなく、安全な部屋で遠隔操作によって人を殺す。狙撃手はサラリーマンのように通勤し、業務を終えた後はスーパーで惣菜を買って、家族で夕食をとる(第四十四回ブログ参照)。
高度な知性で「市民(citizens)」を騙すジャーナリストや、高度なテクノロジーで「市民(citizens)」を狙撃する軍人は、高給取りである。年収は1500万から2000万であろう。ただ、ここで当然の疑問が生じてくる。仮にそうなったとしても、我々は隷属から解放されたのだろうか。我々は自由な「市民(citizens)」ではなく、「市民(citizens)」という名の進化した奴隷なのではないだろうか。
この隷属状態を脱する手立ては、市民革命ではなかろう。革命を成功させても、その先に待っているものはシステムのさらなる進化だからである。では隷属から脱却する術(すべ)は何であろうか。それは冒頭で述べた個人の「良心」であろう。システムが人間を支配できるのは、その物質面のみであり、「良心」は奪えないからである。
https://isoladoman.hatenablog.com/entry/2019/06/26/162840
1835年のアラモ砦の戦い以来、アメリカが戦争を起こすパターンは約200年に渡って同じである。政府および関連企業が戦争を起こすためのシナリオを書き、メディアがそれに協力し、国民はそれに騙される。リメンバーアラモ、リメンバーメイン、リメンバーパールハーバー、リメンバートンキン、リメンバー911。内容は変わっても、形式は驚くほど同じだ。
戦前の日本や現在の北朝鮮のような「言論の自由」や「報道の自由」が存在しない国家体制であれば、政府とメディアが一体となって国民を騙し続けるという構図は当たり前と言える。そういう国であれば、そもそも国民には「知る権利」がない。憲法において「知る権利」や「言論の自由」が保障されなければ、自由な報道は不可能であり、国家御用達の報道に国民が異を唱えることも許されない。
「勝った、勝った、また勝った」と連日報道が行われていた大日本帝国においても、それを疑う人間はいただろう。ではそういう人が自らの疑念をもとに独自で取材をし、その成果を国民に広く知らしめることはできたであろうか。皇軍が大陸や洋上で手痛い敗戦を蒙っていたことを独自取材し、紙に印刷して国民に配ったとしたら、その人はどうなるだろう。その内容が真実であったとしても、間違いなく治安維持法によってその人は逮捕される。結果、特高に拷問されて死ぬか、大陸に送られて731部隊の生体実験の材料にされたかもしれない。
では、「知る権利」や「言論の自由」、「報道の自由」が憲法で保障される国家においては、大日本帝国や北朝鮮と違い、メディアは真実を報道できるのであろうか。その答えは、半分イエスであり、半分ノーである。半分YESというのは、メディアが真実を報道しても国家に逮捕されないということである。つまり、メディアは自由に報道できる。半分NOというのは、大手メディアは決して真実を報道しないということである。民主主義国家においては「言論の自由」が保障されているので、政府にとって都合の悪い内容が報道されても、治安維持法によって逮捕されることはない。それゆえ、真実の報道は国家によって保障されているのであるが、大手メディアはそうした自らの権利を放棄するのである。
なぜなら、大手メディアは巨大な「利権」だからである。戦争は、国家間の憎悪や宗教の違いが原因ではなく、利権争いが原因だと私は何度も書いてきた。国際金融資本家からすれば、国家間における宗教の対立や人権の問題などはどうでもいい。民主主義か独裁国家かという問題も、どうでもいい。正義がどっちにあるかということも、どうでもいい。戦争によって独裁国家を民主国家に変えるという目的は建前にすぎない。本当の関心は「いくら儲かるか」である。そのために戦争をいろいろな手練手管で「起こす」し、邪魔者は排除する。
ヴィクター・ソーン(Victor Thorn 1962-2016)が、世界四大金儲けは、戦争、麻薬、エネルギー、金融だと言ったが、その四つは密接にからんでいるため、実際には、金儲けは一つであり、それは一つの共同体だと言えるだろう。四つの利権に群がる人々が戦争を起こすのである。もちろん、政府は国民に対して、そのような本当のことは言えない。利権にからむ大手メディアも、本当のことは言えない。それゆえ、国民はいつでも「正義の戦争」という夢を信じて死んでいくのである。
独裁国家や共産主義国家において、国民がメディアに騙される理由は、政府とメディアが組織として同体だからである。他方、民主主義国家においても国民が相変わらず騙され続けることの理由は、メディアと政府は別組織であるが、メディアはメディアでそれ自体「利権」だからである。国際金融資本家、およびその操り人形である政治家は、自らの利権のために国民を騙す。騙して戦争を起こし、それにより、金も権力もない一般国民は大量に死ぬ。こうした詐欺と暴力の構造に、メディアも重要な役割を演じているのである。
こうした暴力と悲劇を防ぐために、国民には憲法で「言論の自由」や「報道の自由」が保障され、報道機関には権力を監視するという役割が当てられている・・・と建前ではなっている。これが民主主義国家の建前であるが、この建前が機能することは、憲法上でいくら「報道の自由」が保障されようとも、極めて難しい。なぜなら、国民の多くが信じる「大手メディア」は、巨大な「利権」であり、利権によって利権を監視するという構造が、民主主義国家における「権力の監視」だからである。
具体的な例をあげよう。大日本帝国が戦争をするに当たっては、大新聞やNHKラジオなどの御用メディアが、国民の戦意高揚のために大変に役に立った。これと同様、民主主義国家のアメリカがイラクを滅ぼし、その結果莫大な利益を国際金融資本家が得るために、ニューヨーク・タイムズは大変に役に立った。
イラク戦争開戦の大義とされ、戦争に踏み切るか否かについての極めて重要なファクターであったのが、イラクが大量破壊兵器を保有しているという情報であった。これの真偽について、開戦前は多くの議論があったが、当時のニューヨーク・タイムズのジュディス・ミラー記者は、イラクが大量破壊兵器を保有している旨の記事を多く書いた。911事件の約一年後、彼女は2002年9月8日のニューヨーク・タイムズ一面トップ記事を同僚記者との連名で書いた。それは、イラクのフセイン政権が核兵器の部品調達を急いでいるという内容の記事であった。
イラクが核兵器の開発のために、濃縮ウラン製造のための遠心分離機に使われるアルミ製チューブの購入を企んでいると同紙は書いた。その後、チェイニー副大統領、ラムズフェルド国防長官、ライス大統領補佐官がTVのニュース番組にゲスト出演し、ニューヨーク・タイムズの一面記事を紹介しながら、「イラクが大量破壊兵器を保有していることは間違いない」と国民に向かって訴えた。こうしてアルミ製チューブは、全米大手メディアのネットワークを経由して、国民に広く知られるものとなった。
通常なら原子力工学の専門家でなければ知るよしもない濃縮ウラン施設用のアルミ製チューブが、アメリカ国内で有名なものとなったのだ。その後、ブッシュ大統領やパウエル国務長官がアルミ製チューブについて国連で演説し、パウエルはアルミ製チューブの写真をテレビカメラに向けながら国連で演説をした。こうして、ニューヨーク・タイムズが紹介したアルミ製チューブがきっかけとなって、アメリカ国民のあいだでイラクの核開発を疑う人は少数派となり、多数派の国民がイラクにおける大量破壊兵器の存在を信じるようになった。
こうしてアメリカによる「正義の戦争」は遂行された。以前にも書いたように、イラク戦争による死者は、約50万だと言われている。この悲劇の茶番劇の茶番性が明らかになったのは、50万人がお亡くなりになった後である。誰もが知るように、イラクに大量破壊兵器はなかった。世界的に有名となった例のアルミ製チューブは、濃縮ウラン用のものではなく、単なる建築資材用のアルミ製チューブであった。核開発とはまったく関係のないチューブの写真が、濃縮ウラン用のアルミ製チューブだとでっち上げられて使われたのだ。
さらに、後になって、ニューヨーク・タイムズの一面記事は、当時の政府関係者からニューヨーク・タイムズの記者に流された情報だったことが判明した。ニューヨーク・タイムズは、政府関係者からアルミ製チューブについての情報を受け取り、それを細かく検証せずに、そのまま紙面に載せてしまったのだ。核開発用のアルミチューブは、一般の工業用のアルミチューブとは違い、耐久性の高いものでなければならず、太さや形状や材質がまったく違う。しかるべき原子力工学の専門家や、原子力施設専門の建設業者にきけば、それが原子力用のアルミチューブでないことはわかるはずであった。しかし、ニューヨーク・タイムズはそうした検証をせずに、受け取った情報をそのまま紙面に載せてしまった。
チェイニー副大統領は、TV出演した際に「ニューヨーク・タイムズの一面に載っているとおり、イラクが大量破壊兵器を保有していることは間違いありません」と声を大にして国民に訴えた。つまり、彼は自分でニューヨーク・タイムズに情報を流し、自分でつくった紙面を指差して、「新聞に載っているから間違いない」と国民に力説したわけである。
この時のアメリカ政府がやったことは、戦前の日本の大本営発表や、共産主義国家のTVニュースと同じである。政府と報道機関が同体なのである。そこには権力の監視なんてものは無いに等しい。ただ、民主主義国家においては、一応、政府とメディアは別物で、メディアは権力の監視が役目だという建前になっているために、独裁国家やファシズム体制と違って複雑でわかりにくい。国民は、北朝鮮のニュース映像を見て、「報道の自由がない国は憐れなもんだな」という気分になるが、実際のところは自分の国は北朝鮮と違ってメディアが権力を監視しているという夢を見ているだけである。
この件で、ニューヨーク・タイムズだけを責めても意味がない。他の新聞がきちんとその記事を検証したかと言えばしなかったわけであるし、TVの方も、ニューヨーク・タイムズの記事が間違っていることを、やる気があれば独自に検証できたはずである。そうした検証があれば、出演した政治家の言うことをそのまま鵜呑みにするのではなく、自らの検証をもとに政治家に反論することもできたはずである。また、情報を受け取る国民の方も、それを信じない自由は持っていたわけだから、疑うことによって、自分で調べて考えることができたはずである。それゆえ、イラクで50万人の死者を出した責任は、ニューヨーク・タイムズだけにあるわけではない。
民主主義国家においては、メディアは権力の監視の役割を担い、権力の暴走を止めるという建前となっている。しかし実際のところ、大手メディアの仕事は、権力と親密な関係になって、小さなメディアやフリージャーナリストでは手に入らない情報を獲得することである。そうやって、素人では知りようのない大本営の情報を発表することがプロとしての役割となってしまっているのだ。
権力と親密であることは、大手メディアにとって財産である。つまり、既得権益である。それゆえ、彼らはそれを国民に向かって隠す。NHKの幹部が頻繁に安倍総理や菅官房長官と夕食をともにしていることを、NHKは夜のニュースで報道しない。大手新聞社の政治部長は、自分が政権中枢や大臣やエリート官僚と親密な関係を持っていることを自慢に思っている。権力の監視ではなく、権力とどれくらい自分が親しいかが彼らの自慢なのであり、それが出世の道なのである。
国民は自分が見ているTVや新聞が、どのような既得権益で成り立っているかを、普通は考えないものである。へたをすると、一生考えない。大手メディアの社員はいくら給料を貰っているか。そのことをほとんどの国民は考えない。日本国民のほとんどは、NHK、フジテレビ、朝日新聞の社員の平均年収を知ったら驚くだろう。
大手メディアは、権力と親密になることで自らの仕事が成り立っている。それが民主主義国家における彼らの姿である。彼らは国民に大変に信用されており、少数の会社が利権を独占しているために、富がそこに集中している。大手メディアの社員の給料は高い。癒着によって情報が入り、苦労して取材しないで済むから、仕事は楽だ。楽な仕事で高い給料が貰えるのだから、彼らの仕事で大事なことは、余計な仕事をしないことである。つまり、社会に衝撃を与える事実を報道せず、毒にも薬にもならぬような記事を配信し続けることが彼らの大事な仕事なのである。
・大手メディアという既得権益(その二)
https://isoladoman.hatenablog.com/entry/2019/07/03/145421
国税庁発表によると、平成27年(2015年)の日本人サラリーマン平均年収は420万円だそうである。大手企業の社員、例えば日立や東芝のような大企業の社員の年収も、700万から800万程度のようだ。他方、朝日新聞の社員は、30歳で平均年収1000万をこえる。NHKも同様である。フジテレビなら1500万である。そのあたりの情報については、ネット上で様々なサイトが伝えているが、例えば以下のサイトでは、大手メディアの平均年収について比較して書かれている。
日本にはマスメディアの危機なんてない。あるのは社員の高すぎる給料だけだ。
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51672231.html
公務員ではどうだろうか。例えば警察官の場合、年収1000万をこえるには、警部以上に出世する必要があるようだ。日本の警察官は約25万人。そのうち、警部以上にまで出世できる確率は約10%だそうだ。つまり、約9割の警察官は、年収一千万に到達しない。
これに対して、大手メディアに勤めていれば、普通でも30歳になれば年収1000万に到達する。となると、余計な記事を書いて島流しになったり、クビになったりするよりかは、当たり障りのない仕事をしながら、そうした利権を手放さない方が利口である。それゆえ、大手メディアの報道は基本的に安全策であり、結果として大本営発表となる。
30代で平均年収1000万を突破する大手メディアの社員は、平均年収420万の一般国民と比べれば、特権階級と言える。平均年収420万の一般国民は、「我らの味方」という感情で、メディアに対して権力の監視を期待するだろう。しかし、特権階級の皆さんからすれば、そんな期待をされても困る。彼らからすれば、庶民の味方として「反権力」になって、既得権益を失うわけにはいかない。
権力を監視し、権力の痛い腹について報道することで、政権中枢やエリート官僚から嫌われたり、その結果自分の既得権益を失ったりすれば、そこで働く社員からすれば、何のために大手メディアに就職したのかわからなくなる。彼らにとって権力の監視は二の次であり、一番の目的は毎月高い給料を貰い、それで住宅ローンを払ったり、年老いた親を高級老人ホームに入れたり、子どもをいい大学に進学させることである。
私は大手メディアの社員の皆さんが高給であることを批判したいのではない。彼らにも生活がある。その生活を獲得するために、彼らは学生時代に勉強を頑張り、いい大学を卒業し、大手メディアに就職したわけである。そんな彼らを責めることは誰にもできない。それゆえ、低所得者層が彼らの高給を羨んで批判しても、何にもならないのである。
また、彼ら特権階級が自らの階級の強みを活かして大本営発表を続けることについても、誰も責めることはできない。民主主義国家においては「報道の自由」が保障されているのだから、誰が大本営発表をしようが、それも「自由」である。それゆえ、特権階級の皆さんが、その特権性により大本営発表を日々垂れ流し、それによって特権的な高給を得ていることは、自由主義国家における自由であるから、誰もそれを責めることはできないのだ。
問題は読者の勘違いである。彼らの既得権益を「既得権益」だと認識せず、例えば朝日新聞を読んで「自分は反権力メディアを読んでいる」と勘違いするならば、そちらの方が問題である。もちろん、朝日は「反権力」の外面をしており、読売は「権力べったり」の外面をしている。しかし、それは国民にも右翼的なテイストが好きな人もいれば、左翼的なテイストが好きな人もいるから、それぞれのニーズをもとに商品があるというだけの話である。「カルボナーラ風うどん」はスパゲッティでもなければイタリア料理でもない。あくまでも「うどん」である。テイストに騙されると、読売が右で朝日が左だと本当に思い込んでしまう。実際には、朝日が左翼で読売が右翼なわけではない。どちらも大手メディアであり、利権である。
これは、自民党を右翼や保守だと思い込んで投票している愛国者の勘違いと似ている。もちろん、自民党も一枚岩ではないので、一つの思想に決めつけることはできない。ただ、安倍晋三はCIAのエージェントであった岸信介の孫であり、要はアメリカ派である。つまり、国産金融資本勢力御用達の政治家である。日本会議も基本的にアメリカ派であるから、一水会などの右翼勢力は日本会議を嫌っている。
だから、アメリカからの独立を願っている日本の右翼は、アメリカ派の政治家が嫌いである。彼らは安倍晋三が嫌いであるし、郵政民営化によって日本の郵便局をアメリカ金融資本に売り渡した小泉純一郎や竹中平蔵のことも嫌いである。
それゆえ、安倍政権を支持するなら、そういうことをきちんとわかって、「アメリカ万歳!」とか「ゴールドマンサックス万歳!」という気持ちで支持するべきであるし、そういう気持ちで支持するなら問題ないだろう。問題は、自分のことを保守または右翼だと自認しながら、結果としてユダヤ人を支援していることをまったくわかっていない支持者である。それと同様、朝日新聞を反権力メディアとして購読しても、それは勘違いである。
ほとんどの国民は、大手メディアの政府広報を「報道」だと勘違いしてしまう。つまり、大手マスコミの言うことを「大本営発表」ではなく、「ニュース」として受け取ってしまうのだ。NHKのニュースや朝日新聞の記事を、朝鮮労働党の広報と同じ種類のものだとは見ない。確かに、朝鮮中央テレビの報道は嘘だらけである。しかし、ニューヨーク・タイムズの報道も嘘だらけなのである。
だから、朝日新聞の記事やNHKのニュースを、朝鮮中央放送の共産党ニュースと同じ種類のものだと自覚して見るのなら、何の問題もない。基本的に、大手メディアは薄くて広い報道をするわけだから、情報収集としては便利であるし、わかって見るのなら問題はない。天気予報やテレビ番組表、イベント情報や映画情報など、役に立つ情報も載っている。だから、問題は大手メディアにあるというよりも、大手メディアを「報道」として信じてしまう国民の方である。
どの国も「信じやすい人」、「騙されやすい人」というのはいるものだが、日本人はどうやら大手メディアに騙されやすい国民性のようである。以下のサイトは、その旨を説明している。
メディアへの信頼度が高いだけに世論誘導されやすい日本
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2015/10/post-4034.php
世界報道自由度ランキング(Press Freedom Index)において、アメリカは何位で、日本は何位だろうか。世界報道自由度ランキングは、国境なき記者団が年に一回発表している指標であり、Googleで「世界報道自由度ランキング」と検索すれば、誰でも見ることができる。
これによれば、日本は67位、韓国は41位、台湾は42位、アメリカは48位である。1位はノルウェーである。日本は、ボツワナ、トンガ、フィジー、ガイアナ、ベリーズ、マダガスカルより下である。私は、そうした発展途上国において、どのような憲法があり、どのような自由が保障されているかを知らない。しかし、日本国民は、大日本帝国における報道規制や言論弾圧に辟易した国民のはずである。また日本という国は、皇軍万歳報道のおかげで300万人の死者を出した国のはずである。なのに、なぜ67位なのか。そして、国民のほとんどがこれをなぜ何とも思っていないのか。その原因については、今の私にはまだわからない。
・「報道の自由」と「報道しない自由」
https://isoladoman.hatenablog.com/entry/2019/07/10/160326
私は民主主義における「報道の自由」を否定しているわけではない。民主主義国家なら自動的に国民に「知る権利」が手に入るという甘い話はないと言いたいのである。独裁主義国家や共産主義国家の体制を転覆して民主主義国家にすれば、「大本営発表」が自動的に克服されるわけではないし、「真実」が棚から牡丹餅式に国民に転がり込むわけでもない。例えば米軍が北朝鮮を滅ぼし、金王朝体制をひっくり返して、民主主義の国家体制をつくりあげたとしよう。それは北朝鮮の国民のみならず、世界中の人が喜ぶ祝祭となるだろう。しかし、ハネムーンの夢気分は長く続かない。
北朝鮮が民主主義、自由主義の国となったら、それまでの共産主義体制とは違い、日本やアメリカのように、民間企業が報道の担い手となるであろう。メディアが巨大な利権となるわけだ。そうなると、自由国家の北朝鮮の報道機関は自ら「報道の自由」を放棄して、利益を独占する大手メディアが権力と一心同体となり、国民に対して大本営発表をするようになるだろう。
そうなった時、北朝鮮の国民は試されることとなる。それまでの独裁主義体制であれば、国民は報道を信じなければよかった。政府は特権階級の集まりであり、一般庶民の味方ではない。少数の権力層が、多数の国民を支配する。その中で、政府と一体となった放送局が、真実を報道するはずがない。政府の失態をひたすら隠し、国民を欺く報道ばかりを流す。そのような中で、国民が取る態度は一つしかない。政府と一心同体のメディアを信用しないことである。
共産主義体制や独裁主義体制においては、国民は報道について「どうせ嘘だ」と思っていればいい。現に共産主義体制の報道は嘘だらけである。しかし、民主主義体制になったら国民に自動的に真実が転がり込むわけではない。もし、北朝鮮が民主化されたら、北朝鮮の国民は、どの情報を信用するか、自分で考えて判断するしかない。共産主義メディアは嘘だらけであるが、資本主義メディアも嘘だらけである。
しかし、多くの国民はおそらく大手メディアを信用してしまうであろう。民主主義のベテランであるアメリカ国民でさえ、およそ200年くらい同じパターンで騙され続けている。民主主義歴70年以上の日本国民も、いまだに騙され続けている。北朝鮮が民主主義体制になるとしても、デモクラシー初心者の国民が、すぐにデモクラティックになるはずがない。結局のところ、彼らも民主主義国家における奴隷とならざるをえないであろう。せっかく独裁体制の奴隷から抜け出せても、今度は民主主義国家において奴隷となってしまうのだ。
民主主義国家における報道機関は、国家権力ではなく、民間の会社である。日本においては、NHKですらも国営組織ではなく、民間の法人である。こうした民間企業により、政府と癒着した報道が国民に流され、いかにも中立公正な「ニュース」という風体をとる。まるで間違いのない「事実」のような顔をした情報が国民に流されるのだ。
独裁国家が国民を騙すことは誰でも知っている。しかし、民主主義国家においても政府は平気でウソをつき、報道は平気でウソを垂れ流す。これを国民はどれだけ自覚しているだろうか。イラク兵がクウェートの病院を襲い、赤ん坊を病院の壁に投げつけたという報道はウソだった。涙の証言をしたナイラは駐米クウェート大使の娘だった。油まみれの水鳥は、フセインの軍隊による犠牲者ではなかった。中東の平和をかき乱すとされた核ミサイルは、イラクに一発もなかった。核施設のためのアルミ製チューブと言われた部品は、ただの建築用チューブだった。
何もかもがウソであり、ウソの大合唱であった。それによってイラク人やアメリカの若き米兵が大量に亡くなったが、政府もメディアも一切責任を取らない。チェイニーは軍事関連会社のハリバートンの役員であったから、あの戦争で相当に儲けただろう。ブッシュ一族は軍事投資会社であるカーライル・グループの幹部である。戦争で軍事関連企業は儲かり、そこに投資した金融業も儲かり、過熱報道をしたメディアも儲かった。犠牲者は戦場に行ったアメリカの貧困層の若者とイラク国民である。金持ちたちは、彼らを犠牲にして大儲けしたのだ。
当時の世界の人々は、気づかなかった。大量破壊兵器は、イラクにあるとずっと言われていたが、実はもっと身近なところにあったのだ。それは利権のためなら何でもする政治家であり、関連企業であり、大手メディアである。アメリカは、国自体が大量破壊兵器であり、それを支援する日本も同様である。兵器とは、爆弾やミサイルだけではない。戦争によって儲けようとする政治家や企業は大量破壊兵器であり、戦争を煽るメディアも兵器であり、メディアの言うことを鵜呑みにする国民も兵器である。
当時、子どもを爆弾で亡くしたイラク人の女性が、テレビカメラに向かって、「うちの子がなぜ死ななければならないの!」と泣き叫んでいた。その問いに対する答えは単純である。そうした人達が戦争で死ねば、地球の裏側の誰かが、非常に儲かるからである。誰かの悲しみは、誰かの利益である。
民主主義国家においては、「報道の自由」が憲法によって保障されている。その「自由」は、履き違えられて、「政府から流れてくる情報をそのまま報道する自由」となったり、あるいは逆に「肝心なことを報道しない自由」となったり、「忖度した情報を流す自由」となったりする。本来、「報道の自由」とは、国民が真実を受け取ることを国家によって妨げられないことを意味する人権である。しかし、それは大手メディアが「金を儲ける自由」と成り果ててしまった。
この履き違えられた自由をもとにして、大手メディアはきちんと事実を検証せず、政府筋から貰った情報をそのまま紙面に載せる。あるいは知っていて知らぬフリをする。例えばナイラ証言にしても、ナイラは大使の娘であったわけだから、画面でその顔を見た瞬間に気づいた人はいたはずだ。国務省関係者や外交官、あるいは外交担当のジャーナリストの中には、その茶番に気づいた者もいただろう。しかし、そうした外交のプロたちは、気づいていても、あえて声をあげなかった。余計なことを言って自分の地位と年収が脅かされることを恐れたわけである。
アルミ製チューブについても同様である。核施設用のアルミ製チューブと、通常の建築資材としてのアルミ製チューブでは明らかに形が違う。普通の建築用アルミ製チューブは、濃縮ウランの製造という厳しい環境では使用できない。太さも強度も明らかに異なる。これは、公開された写真をもとに、ジャーナリストが核施設の建築に携わる専門家に取材すれば、簡単にわかることである。しかし、彼らはそのような取材をしなかった。あるいは取材の結果、あれは濃縮ウラン用のチューブではないと明確にわかったのかもしれない。わかっていながら口を閉じたのだろう。
おそらく、大手メディアのそうした在り方を批判したり、文句を言うことは建設的ではないだろう。彼らは自らの既得権益を守っているだけであり、企業活動の自由が保障されている民主主義国家において、金儲けしているだけである。金儲けの自由が保障されている民主主義国家において、金儲けのために存在している企業を責めても意味はない。彼らには「報道の自由」があり、「報道しない自由」もある。それは、「わかっていながら隠す」という自由であり、当たり障りのない報道をして自分の利権を守る自由でもある。
現在(2019年7月10日現在)、「新聞記者」という映画が日本全国で公開されているようである。私はまだこの映画を見ていないが、次のようなセリフがこの映画に出てくるそうである。
「この国の民主主義は形だけでいいんだ」
日本には民主主義によく似た形があるだけ
https://president.jp/articles/-/29272
独裁国家や共産主義国家が民主主義国家になれば、「報道の自由」が確立されるだろう。しかし、それと同時に、その国は、「形だけの民主主義」に陥る危険性もある。この「形だけ」に国民が満足する時、その国は支配者層にとって大変に操りやすい国となる。
嘘の情報をもとに戦争が起きても、メディアはその嘘を暴かないし、国民もそれを疑わない。後でそれがバレても、誰も処刑されない。誰も罰せられることはない。費用は全額税金、死傷者は一般国民、儲かるのは国際金融資本家という構図が出来上がる。「形だけの民主主義」は、国自体が一つの大量破壊兵器となる可能性を秘めている。
・報道しない奴隷とその脱却法(1)
https://isoladoman.hatenablog.com/entry/2020/07/12/182053
1.皇軍の息子から軍産複合体の内臓へ
戦前の日本には検閲が存在し、報道の自由はなかった。例えば台風情報も国民に隠された。気象情報はすべて軍事機密として扱われたので、新聞やラジオは報道できなかった。そのため、事前にわかっていれば避難できた国民も、台風により命を失った。失われる命を前にして、ジャーナリストは屈辱の沈黙を自らに強いるしかなかった。
元来、報道とは危機を知らせるものである。知らないことは危険であるゆえに知らせる。知ることによって死ななくて済む。報道は元来、そうした良心と危機感に根差したものである。そこには大学のジャーナリズム論が講釈する晦渋なものはない。危ないものを「危ない」と知らせるものが「報道」であるなら、ジャーナリストの精神とは難しいものでもなんでもない。それは単純明快な「良心」であると言える。
もちろん、これに対して都合の悪い人々が存在する。報道が良心に基づいた単純な行為であるとしても、知られたら困る方の立場からすれば迷惑だ。こうして権力と反権力の構図が生じる。もともと報道は無意味に国家に楯突くものではなかろう。報道の根っこは反逆ではなく良心であるはずだからである。しかし、隠蔽が人命を危険にさらす場合、良心はやむなく隠蔽する国家に反抗せざるを得ない。危険な隠蔽を黙認する心性は、既にして良心ではないからである。
さて、戦後の日本では憲法も改まり、21条で表現の自由が保障され、報道の自由が保障されることとなった。屈辱の沈黙を強いられた報道機関は、自由な空を羽ばたけるようになったのである。台風が来たら皆に逃げろと報道できるようになった。負け戦を「勝った、勝ったまた勝った」と嘘つく必要もなくなった。
しかし、マスコミが世の春を謳歌したのは一瞬だった。すぐに厳しい現実が襲ってきた。食い扶持の問題である。全体主義国家におけるマスコミは楽だった。政府、官僚、軍部の言いなりになって報道すれば食うに困ることはなかった。むしろ戦火が広がるほどに新聞は売れた。彼らは戦争を煽りに煽った。煽れば煽るほど売れたからである。
平和の世では戦火の方程式は通じない。検閲は縛りであると同時に保護だった。保護者たる国家はマスコミを食わせた。しかし自由国家は検閲をしないと同時にマスコミを食わせない。父が子を養育しない以上、子は自力で食い扶持を稼ぐしかない。こうして戦後のマスコミは自立を余儀なくされた。自由になったと同時に、彼らは食い扶持を稼ぐために必死になった。
大手メディアは記者クラブをつくり、中小零細報道機関を閉め出し、既得権益の保持に躍起になった。軍部という父を失った代わりに、CIAという新たなパトロンと出会った。さらに官邸や霞ケ関とパートナーシップを結び、大企業と友達になった。こうして大手メディアは、戦前よりも大きなマスコミ帝国をつくった。
皇軍という父の死後、途方に暮れたマスコミは、頭を使って新しいパトロンを得ることで、しぶとく生き残った。そして戦前よりも高い給料を得る特権階級へと成り上がった。現在の日本の大手マスコミがどれだけの年収を得ているかについては、第十七回ブログを見てもらえばいいだろう。
現在では、NHKの会長になれば総理大臣と定期的に会食ができる。マスコミが脅せば政治家も怯む。報道によって議員を当選させることも落選させることもできる。検事長を奈落の底に突き落とすこともできる。戦後の焼け野原で父を失い泣いていた子は権力者になった。金も力もある。大衆心理も人心操作も思いのままだ。
こうして出世した息子はあの時の屈辱を忘れる。台風を報道できなかった屈辱。真実を捻じ曲げて報道した屈辱。嘘を言い、煽りに煽った挙句、300万人が死体となった屈辱。屈辱の中で唇を噛んだ息子は、今では悔しさも忘れ、Global強盗の手先となる。
それは皇軍という小さなレベルの話ではない。300万人の犠牲者では済まない。Global強盗の手先となることは、世界的規模の軍産複合体と手を組むということである。屈辱の息子は、保護者を失って食い扶持を稼ぐことに夢中になっているうちに、巨大な怪物の肉体へと包含された。皇軍の息子は、今ではGlobal経済という怪物の内臓となって機能している。
2.マスコミの進化と奴隷制度の進化
戦前のマスコミには自由がなく、ただひたすらに屈従があった。その分、楽だった。国家と一体となったマスコミほど楽なものはない。言われたとおりに報道し、言いなりになって仕事をすればいい。考えることを面倒だと思う人間からすれば、そうした職場は堕落という名の天国である。
この堕落天国は、現在では共産主義国家に存在する。共産主義国家には検閲が存在し、報道の自由がない。検閲は屈辱であり、裏返せば楽である。中国や北朝鮮の人民は、この体制に慣れた。彼らは報道の自由を諦めている。諦めは屈従でありながら安寧である。それゆえ彼らは何十年にも渡って、不自由という安楽椅子に座り続けている。
では自由主義国家に堕落はないか。答えは否である。自由主義国家においては検閲がない。ということは安楽もない。検閲の裏には安定した生活があるが、自由の裏には競争しかない。売らなければ会社もなく、個人の生活もない。こうして良心の報道よりも金が大事になってくる。共産主義国家のマスコミは検閲に堕落し、自由主義国家のそれは金に堕落する。
こうして自由主義国家においても真実の隠蔽が大手を振って闊歩するようになる。それは国の強制ではない。自由なメディアによる自由な経営判断である。つまり自由主義国家においては検閲によって国民に真実が隠されるのではなく、マスコミの金と権力により隠されるのである。
金儲けに走るマスコミを体内に取り込んだGlobal経済という怪物は、ここでふと気づいた。国家が人民を牛耳るのに、検閲は必要ないと。奴隷を縛って統制する時代は終わった。ムチで叩くことは逆効果だ。古い手法に固執する共産主義国家と違い、洗練された国家では国民に自主的に自由を返納させる。
奴隷制度は消えたのではなく進化した。新しいシステム下では、誰も自分が奴隷だと思わない。中国や北朝鮮のような旧態依然の奴隷国家では、いまだに検閲を行っている。これでは自分が手にする新聞が検閲済みのものだと国民の誰もが気づいてしまう。それよりも自由な新聞各社が競争し、保守系と革新系に分かれて喧嘩する方がよい。
国民はどちらもCIAとは気づかないから、特に革新系の新聞読者は、自分がリベラルな国民だと勘違いするだろう。民主主義国家の場合、国民は自分の手にする情報を統制されたものだと意識しない。自分が奴隷だとわかっている奴隷と、自分を自由だと思いこんでいる奴隷とでは、どちらが主人にとって都合のいい奴隷であるか。
「自由でないのに、自由であると考えている人間ほど奴隷になっている」(ゲーテ)
https://note.com/viappia2472/n/nf2c9362a4797
かつて多かった共産主義国家が、今は少ない理由はなんであろうか。ソ連が崩壊したとき、ある自民党の政治家は「勝負あった」と述べた。つまり自由主義陣営が勝ったのだと。そのようなロマンティックな解釈に浸る人は幸せ者なのかもしれない。しかし、真相はより残酷なものかもしれない。
共産主義国家の情報統制は、党幹部の利益のためである。ということは、国内の利益にしかならない。それに比べれば、Global経済の利益は国境を跨ぐ。日本人の無知はアメリカの利益にもなる。各国を共産化して個別に支配するよりも、世界を自由化し、巨大マスコミを使って世界市場を動かす方が、Global資本家にとっては儲けが多い。
怪物が世界を股に掛けて行っていることは、Business(仕事)やEnterprise(事業)、時にはCharity(慈善事業)と呼ばれるが、その実質は強盗である。そのため人に見られることはまずい。隠す必要がある。その際、報道を力でねじ伏せるやり方は古い。ナイフで脅すよりも、目撃者を共犯者にする方が利口である。
こうして報道機関は権力の敵ではなくBusiness Partnerとなる。Partnerから国民に流される情報は洗練されたものである。内容は侵略であり殺人であっても、「紛争」という名で報道される。われわれ「市民(citizens)」は、イラク戦争がなぜ起きたのか知らない。そこで何人死んだのかも知らない。どこかの国で台風が来たのと同じように、いつのまにか戦争がはじまり、いつのまにか終わる。そして数年経てば忘れる。
殺人は報道というパッケージングの過程で、無味無臭のものとなる。「市民(citizens)」は殺され、殺人犯が莫大な利益を得る。それが洗練された「報道」という商品として、異なる場所の「市民(citizens)」に供給される。朝、ニュースを見た「市民(citizens)」は、会社に行って働く。明日は我が身とは思わずに。
3.進化するシステムと良心
アメリカで奴隷制度が消滅し、南アフリカではアパルトヘイトが廃止された。ナチスや皇国は滅びた。ソ連が崩壊し、世界の共産主義は著しく縮小した。全体主義の時代が終わり、自由主義が世界に広まった。これで人類の奴隷時代は去ったかのように見えた。
しかし、奴隷時代の終焉は新たな次元をもたらした。それが奴隷の隠蔽である。あからさまな奴隷制度が死滅したということは、進化した奴隷制度が生まれたことを意味する。自分が奴隷だと気づかない奴隷の誕生である。新たな奴隷の集合体が「市民社会(civil society)」である。
もともとアメリカで黒人奴隷の制度が誕生したきっかけは、イギリスの産業革命であった。アフリカから黒人を買って家業を手伝わせるという習慣はそれ以前から存在した。しかしそれは小規模なものに過ぎなかった。イギリスの片隅で生まれたテクノロジーの革命は、こうした牧歌的な奴隷時代を終わらせた。産業革命により、イギリスの綿織物の生産量が激増したのだ。
イギリスに送る綿花はいくら栽培しても足りないという状況になった。これにより、黒人はいくらいても足りないということになった。こうして黒人奴隷制度は小規模な売買という次元を越える。黒人奴隷の売買は国家レベルの大事業となり、巨大なシステムへと変貌していく。
このシステムが終焉をむかえたのも、同じく産業革命が原因であった。莫大な黒人によって収穫される莫大な綿花は、莫大な織物となり、供給過剰となった。行き場を失った商品が在庫となるだけでは意味がない。そこで、大量生産を大量消費する「市民(citizens)」が必要となった。奴隷は質素に暮らし、少数の貴族が贅沢をするという生活様式では、このニーズに応えられなくなったのだ。
人権思想家が奴隷制度に対して怒りの声を上げるより先に、奴隷制度は経済的に無意味なものとなった。拡大し続ける「産業」という怪物は、奴隷に対して別の役割を期待するようになった。つまり、きちんと教育を受け、会社で働き、結婚して子を育て、人口を増やすという「市民(citizens)」の役割が期待されるようになった。莫大な数の市民が莫大な量の商品を欲する巨大市場が求められるようになった。
奴隷にムチを打って働かせるという行為は、それをすることで儲かるというシステムがなければ意味がない。産業革命の初期は、そうした奴隷を大量に必要とした。しかし後期になると逆に不要となった。不要となった代わりに、別の人間モデルが必要となった。巨大産業という怪物が、人間にモデルチェンジを強いたのだ。この時怪物が必要とした人間の型は、次から次へと現われる商品を購入する欲深な「市民(citizens)」である。
もともと人間は動物を飼いならし、そこから生活の糧を得るという知性を持つ。その知性の発展として、いつしか人間は莫大に増え、人間が人間を飼いならし糧を得るという生き方が当たり前となった。その過程で奴隷制度が生まれ、その後モデルチェンジがあった。この拡大し、進化する過程の中で、経済もGlobal経済へと進化したのだ。
すべてが可視から不可視へと進化する過程である。あからまな植民地支配は消滅し、目に見えない植民地支配が行われるようになる。見てすぐわかる奴隷はいなくなり、主人のような奴隷が誕生する。独立国の顔をした植民地が生まれ、同盟国のような宗主国が支配する。公正中立のような報道機関が偏向報道をし、病気を治すための薬が人間を病気にする。綺麗なビルの大企業が殺人鬼であり、正義のための戦争が侵略であり、死ぬまで離婚しない夫婦が仮面夫婦である。
古来、大地の作物や草原の羊に話しかけ、彼らとコミュニケーションすることで糧を得た人類は、スーパーの陳列棚に置かれる死体を糧として生きるようになった。ビニールパックされた植物や動物を得るために、我々は人間とコミュニケーションをして金を得なければならなくなった。人が人を騙すという高度な知性が進化するうちに、人類は真実を隠すようになった。
今では報道も進化し、80年前のようにウソで人を騙さなくなった。かわりに彼らは「事実」で騙すようになった(第五十八回ブログ参照)。進化し、洗練された報道は、我々を「市民(citizens)」という穏やかな夢の中に眠らせるようになった。おかげで、誰も自分が奴隷だと気づかない。我々は余計なことを考えず、仕事をし、家庭に帰り、週末はディズニーランドに行って遊べばよい。
しかし会社で人を騙し、家庭で妻を騙し、週末は遊技場で巨大資本に騙されているうちに、我々は根本的に疲弊するようになる。その疲弊は温泉に入って治るものでもなければ、精神科を受診して癒されるものでもない。
洗練された「市民社会(civil society)」においては、戦争は軍人ではなく広告代理店によってデザインされ(第十五回ブログ参照)、兵士は戦場で泥をすすることなく、安全な部屋で遠隔操作によって人を殺す。狙撃手はサラリーマンのように通勤し、業務を終えた後はスーパーで惣菜を買って、家族で夕食をとる(第四十四回ブログ参照)。
高度な知性で「市民(citizens)」を騙すジャーナリストや、高度なテクノロジーで「市民(citizens)」を狙撃する軍人は、高給取りである。年収は1500万から2000万であろう。ただ、ここで当然の疑問が生じてくる。仮にそうなったとしても、我々は隷属から解放されたのだろうか。我々は自由な「市民(citizens)」ではなく、「市民(citizens)」という名の進化した奴隷なのではないだろうか。
この隷属状態を脱する手立ては、市民革命ではなかろう。革命を成功させても、その先に待っているものはシステムのさらなる進化だからである。では隷属から脱却する術(すべ)は何であろうか。それは冒頭で述べた個人の「良心」であろう。システムが人間を支配できるのは、その物質面のみであり、「良心」は奪えないからである。