・緊急事態宣言「全く不要だった可能性」の指摘も(PRESIDENT 2020年6月9日)
※日本と世界はそろりそろりと経済活動を再開させているが、実は自粛やロックダウンは不要だったのでは?」という声が相次いでいる。
緊急事態宣言より前に、感染はピークアウト?
5月25日、政府対策本部から、東京・神奈川・埼玉・千葉を除く全都道府県の緊急事態宣言解除が宣言された。約2カ月に及ぶ自粛生活はひとまず区切りを迎えた。
同時に方々で出始めているのは、この緊急事態宣言が果たして本当に必要だったのか? と疑問を呈する声である。
その根拠の1つは、「実効再生産数」、つまり“1人の感染者が何人の感染者を増やすか”を試算したデータ。1を上回ると感染者は増え続けることを意味するこの指標が、実は緊急事態宣言入りした4月7日より前にピークアウトしている、というのが「懐疑派」の指摘するポイントである。宣言を出さなくても、感染者は自然と減っていたのではないか、というわけである。
米英では「ロックダウンは無意味」の分析も
実は、世界各国で行われた強制力のあるロックダウンについても、「不要だった」とする主張がいくつか見られた。
3月16日にトランプ大統領が国民に移動制限を指示、それ以降にニューヨークを始め各都市でロックダウンが始まった米国では、日本を始めとした東アジア地域より格段に多い死亡者を出しているが、4月27日付米ウォール・ストリート・ジャーナルが米国の州別の人口100万人当たりの死者数と都市封鎖までの日数の相関を調査。シンプルながら患者の死亡者数に注目し、「相関関数が5.5%ときわめて低かった」とした。
また、3月23日からロックダウンを開始した英国のイースト・アングリア大学が5月20日付で発表した研究は、欧州30カ国における店舗に対する休業命令等々の対策の効果について、スポーツイベントや学校においては感染者が減るなどの効果があった半面、日を追うごとに感染者数が増加。外出禁止に効果がない可能性を示唆しているという。
ロックダウンとは真逆の自粛のみで乗り切ろうとしていた日本では、皆が新規感染者数の増減に一喜一憂していたが、SNS界隈の一部などでは、そもそも発症率・重症化率も低く、死亡者数が他国と比べて格段に少ないうえに年配層や基礎疾患を持っていた者に偏っていることに注目。高齢者と“病気持ち”のみ行動を制限し、無意味な緊急事態宣言を直ちに解除し経済活動を再開させよ、と主張していた者も賛同者を集めていた。要は感染者が増えようが、「死ななければいい」という割り切りである。
宣言せずとも、「グラフ」が必ず下降し続ける保証
5月29日、専門家会議は、この緊急事態宣言についての“中間評価”を披露。「欧米の先進諸国と比較して、新規感染者数の増加を抑制し、死亡者数や重症者数を減らすという観点から一定の成果」とし、同時に、すでによく知られている東アジアにおける死亡者の少なさにも言及している。
さらに、早い段階で中国からの流行を「適確に補足」して急激な感染防止を防止したことや、「感染者の5人中4人は他の人に感染させず、残りの1人のうち稀に多くの人に感染させる感染者がいる」という伝搬の特徴を早い段階で把握、特に感染初期において、接触者をさかのぼってクラスターを制御し、感染拡大を一定程度制御したことが奏功したと分析している。
目にする機会が最も多かった指標「新規感染者数」のピークは、宣言から3日後の4月10日(報告日ベース)だったが、冒頭で述べた通り、専門家会議は「実効再生産数」をもとにした感染時期のピークがそれより9日も前の4月1日だったと推定している。3月末から市民の行動変容などによって新規感染者は減少傾向に転じており、7日の宣言以降は「実効再生産数」が再度反転することなく、ずっと「1」を下回っていたことをグラフで示している。
緊急事態宣言入り「遅かった」が81%だった
では、4月7日以前にこの「減少傾向」を察知し、緊急事態宣言をせずとも「実効再生産数」のグラフが必ず下降し続けることを保証できたのだろうか。
当時の国内の空気がどうだったかを、少し振り返ってみよう。発令3日後の10日に安倍首相はジャーナリストの田原総一朗氏と面会、「実は、閣僚のほとんどが(宣言発令に)反対だった」と述べたという。ただ、その理由は「自粛不要論」ではなく財政危機論。緊急事態下では100兆円規模の経済対策が必要とされるため、そんなことは無理だというとらえ方が大半だったことによるという。
しかし、世間の空気は、それとは正反対だった。3月2日に安倍首相が小中学校の一斉休校を発表した頃は拒否反応が目立ったが、同25日に小池百合子東京都知事が都内で感染者が多数発生したことを受けて「感染爆発の重大局面」と表現、自粛を強く求めたことと、同29日にタレントの志村けんさんが死去したことが大きく影響した。
宣言発令直後の4月11日~12日に読売新聞が行った世論調査によれば、緊急事態宣言を発令したタイミングが「遅かった」と答えた人が81%と圧倒的。同14日の衆院本会議でも、野党議員が「遅すぎた」と安倍首相を批判する場面があった。
トランプ米大統領が経済活動を再開した理由
相手は現在よりまだ正体がはっきりしなかった新型ウイルス。確かな特効薬も不明で、ワクチン開発はまだ遠い先だ。そのさなか、これだけの空気に囲まれ、しかも刻々と状況が変わる“ライヴ”のさなかで「自粛は効果がない」と見切って緊急事態宣言を見送る、もしくは途中で解除するという決断は、どんな豪胆なリーダーでも難しかったのではないか。情報も限られ、周囲のプレッシャーに晒され、旧態依然の制度や仕組みに足を取られつつその場、その場で最善の判断を下す難しさは、はた目からは分かりづらい。
感染すると死に至る危険のある高齢者と基礎疾患を持つ患者のみを自粛させ、「感染しても死ななければいい」として経済活動を通常に戻せ、との主張は一定の説得力がある。ただ、仮に4月にその決断を下すのなら、新規感染者がもっと増え、医療関係者の負担も増えるという危惧は消えていなかったはず。目の前で苦しむ感染者について、医療関係者が「この人は若いから死なない」「この人は年配だから危ない」と区別して治療に当たれるものなのだろうか。それに死者が少ない理由がはっきりしない以上、何かを契機にまったく違う様相となる可能性も考えなければならない。
しかし、やはり感染予防一辺倒ではそれこそ本当に国や企業、国民の息の根が止まる。トランプ米大統領は5月、「死者は増えるだろう」「これまで私自身が下さねばならなかった決断で最大のものだ」としつつ、それでも経済活動を再開させた。そうしないと、目下のライバルである中国と先々張り合うことができなくなる。安倍政権も遅まきながら、その路線を後追いしているようにも思える。結局は当事者にその場、その場で命と経済の最善のバランスを取ってもらう、としか言いようがないのだ。
・緊急事態宣言は不要だった(新経世済民新聞 2020年5月28日)
小浜逸郎 評論家/国士舘大学客員教授
https://38news.jp/economy/16011
※5月25日に首都圏でも緊急事態宣言が解除されました。
本来、日本では、この「緊急事態宣言」なるものは必要のないものでした。
そんなことを言えば、「何を言ってるんだ、それがなかったら、コロナ感染がどこまで広がっていたかわからない。死者数も比較的少なくて済んだのは、この宣言の要請にみんなが従って自粛したからじゃないか。それに、まだ終息したわけじゃなく、第2波、第3波にも備える必要があるんだぞ」と猛烈なバッシングを食らいそうです。
しかし、この疫病の性格をよく考えてみると、どうもそういう認識は当てはまらないようです。
これからその理由を述べていきますが、その前に、この過剰自粛を促した宣言が、どれほどの経済的犠牲を国民に強いたかに思いを寄せなくてはなりません。政府は「要請」というレトリックを用いて、休業補償から逃げ、大規模な財政出動からも逃げ、消費税の凍結からも逃げました。これから日本は大変な経済恐慌に突入していくでしょう。
理由の第一は、この病が、感染力の猛烈さに比べて、重症者や死者のほとんどが60歳以上の高齢者と持病の持ち主に限られているということです。
下の図は、5月7日時点での年齢別の感染者数で、上から順に、80代以上、70代、60代、50代、40代、30代、20代、10代、10歳未満、不明となります。色分けは、左が死亡、中が重症、右が軽症・無症状・確認中です。

理由の第二は、ここ7年間で、インフルエンザによる死者が平均2000人を超えているのに、その際、ロックダウンの可能性など一切問題にされなかったという事実です。
これに、ふつうの肺炎による死者が、年間11万人以上いることも付け加えておきましょう。これは病死の原因の第4位を占めています。
もっとも、この場合も、高齢者がほとんどで多くは基礎疾患があった場合でしょう。その点では新型コロナと変わりません。
11万人といえば、毎月約1万人に及ぶので、このコロナ禍が騒がれた4か月間に、すでに4万人近くに達している計算になります。
しかし、これまで普通の肺炎による死者が多いからというので、緊急事態宣言などが発出されたことはありませんでした。
ちなみにコロナ死者は、5月26日現在で累計846人。
理由の第三は、自粛徹底あるいは自粛要請が、果たして功を奏したのか、という疑問が残ることです。
政府や自治体は、国民の皆さんのご協力のおかげで感染者数、死亡者数も少なく抑えることができたと、その効果の宣伝に大いに努めることでしょう。
しかし、ヨーロッパでは、スウェーデンが外出規制や過剰自粛などを強制しなかったにもかかわらず、厳しい規制を強いたその他の諸国と、死亡者数の増加のカーヴに変化が見られません。(下図)
欧米諸国では現在、ほとんどの国が終息に向かいつつありますが、厳しい規制を課しているその最中にも、死亡者数はどんどん上昇していました。
無症状感染者、軽症感染者を増やすことによって、免疫力を獲得した人を増やすという戦略も十分にあり得たのです。
もちろんその場合でも、高齢者や持病の持ち主には、厳しい隔離政策を取ることが要求されますが。
理由の第四は、ウィルスというのは、生体に寄生して初めて活性化するので、その生体が死んでしまえば自分も不活性になってしまうという事実です。
現在、ブラジルなど一部の例外を除いて、世界的にコロナ死者が終息に向かっているのは、規制が功を奏したのではなく、一定の死亡者が出たために、ウィルスそのものが自然に不活性化しつつあるためではないかと考えられます。
これはペスト、コレラなどの伝染病を引き起こす細菌でも同じで、中世のペスト流行も、抗生物質などなかった時代にもかかわらず、多大な死者を出したのちに、生き残った者たちの間に自然に免疫が形成され、最終的には終息していきました。
原因は、生体に寄生して生きる宿命を持ったこれらの微生物が、生体の死と共に自分も死んでいったからだと考える以外、決定的な理由が見出せません。
理由の第五は、欧米とアジアとの死亡者数の極端な差にかかわります。
日本ではなぜ欧米に比べて重傷者、死亡者がこんなに少ないのかという現象は、多くの人がその理由を問題にしてきました。
欧米の握手、ハグなどの「濃厚接触」の習慣、マスクをしない習慣、日本人の「ウチ、ソト」をハッキリ分ける伝統、清潔好きの国民性、BCGをしたかしないかの違いなど、いろいろなことを言われましたが、どれもピンときません。
下の図は、人口100万人当たりの死亡者数の5月26日現在までの累計です。

死亡者が多く出た欧米諸国、上昇中の国、死亡者の少ない国の三つがよくわかるように国を選んであります。
上から順に、ベルギー、スペイン、イタリア、イギリス、フランス、スウェーデン、ブラジル、ドイツ、メキシコ、ロシア、フィリピン、日本、インドネシア、シンガポール、マレーシア、タイ。
なお、筆者の判断で、この国の統計は、そのカーヴの具合や国情から見て当てにならないと思える国は、省いてあります。それは、中国、韓国、台湾、インドです。
しつこいようですが、このグラフの縦軸は、対数目盛です。
したがって、多い国と少ない国との差は、見た目よりもはるかに大きくなります。
最高のベルギーは805.38、日本は6.78、最低のタイは0.82といった具合です。
まずここで言いたいのは、欧米に比べて死亡者が少ないのはじつは日本だけではなく、アジア諸国が軒並み2桁から3桁低い数字を示しているという事実です。
これは、生活習慣その他で説明できる問題ではありません。
フィリピンやインドネシアが、日本のような清潔好きの国民性を持っているとは考えられないからです。
なぜアジア諸国がこんなに少ないのか。
ここで指摘しておきたいのは、日本人は先進国意識がぬけないために、国際比較をしようとすると、欧米社会しか思い浮かべない癖がついていることです。
そのため、死亡者数に2桁の違いがあるにもかかわらず、欧米で騒がれたことはその対策に関してもすぐ見習って大騒ぎしやすい。
西洋は、社会心理的、宗教的理由から、一種の集団ヒステリーに陥ったのだと思います。ペストの歴史的な記憶も甦ったことでしょう。
日本は、足元のアジアの事情など関心の埒外で、この集団ヒステリーに煽られて、パンデミックだのロックダウンだのオーバーシュートだのクラスターだのソーシャルディスタンスだのといった、日常聞き慣れないカタカナ語の飛び回る大きな渦に巻き込まれてしまったわけです。
日本ははたしてロックダウンなど想定すべき状況だったでしょうか。
筆者の考えでは、答えは否です。
ではアジア諸国と西欧諸国とは、どうしてこんなに差がはなはだしいのでしょうか。
推測の域を出ませんが、これには遺伝子的な相性の問題が関係しているのではないかと思われます。
調べてみますと、ヒト白血球抗体(HLA)の違いというのが、ウィルス性の伝染病に罹りやすいか罹りにくいかに大きく関係しているという研究があります。
この相性の問題は白血病や結核についても昔から研究されていますね。
新型コロナでも、今回のウィルスは、西欧人の体内のHLAと共存しやすい。
断定はできませんが、今のところ、この仮説が一番説得力がありそうです。
理由の第六。次のような資料があります。
https://newstopics.jp/url/11218490
新型コロナ患者から取り出した検体からウイルス培養を試みた場合、発症から8日目までの検体からは培養できても、9日目以降の検体からは培養できないそうです。
培養できなくなるとは、ウイルスが増殖力を失ったか減退させたことを意味します。
増殖力がなければ感染も不可能です。
同じ資料にこれと符合する研究が紹介されています。
台湾で100例の確定患者とその濃厚接触者2761人を調べたものがあります。
後に発病したのは22人ですが、すべて確定者患者とは発症前もしくは発症後5日以内に接触した者で、発症6日以降に接触した者には発病者はゼロだったそうです。
これらの研究が正しければ、発病後1週間を経た患者にはもはや感染力はないことになる。
コロナ患者をいたずらに回避したり快復後も外出自粛を要求するのは、無意味で非合理といわざるを得ません。
つまり、新型コロナは、短期間の感染力は猛烈ですが、大した疫病ではなかったのです。
以上述べてきたことについて、次のような反論があろうかと思います。
そうは言っても、第2波、第3波は、必ずやってくる。これで終息に向かうなどとは言えないだろう。
もちろん、第2波だろうと第10波だろうと、こうした流行病のたぐいはこれからもやってくるときはやってくるでしょう。何が起きるか、未来はわかりません。
これまでも、インフルエンザは何度も何度も、かたちを変えてやってきました。
でも問題は、これからそのたびに「そらパンデミックだ」と大騒ぎし、緊急事態宣言を出し、経済活動を停止させるのかということなのです。
一部の医療関係者を中心に、第2波、第3波が必ず来ると騒いでいる人たちは、どういう科学的根拠があってそんな予言めいたことを言っているのでしょうか。
思うに、こうした不安を煽る(自分が不安に煽られている)人たちは、例のスペイン風邪の歴史的な記憶に基づいて騒いでいるだけなのではないか。
また新型コロナにはS型とL型があって、日本にはS型が入ってきたが、ヨーロッパにはL型が入った、第2波ではL型がくるから、これには抵抗できない可能性が高いなどという人もいます。
しかし外国帰りの日本人や訪日外国人を通して、すでにL型は入ってきているのです。
それなのに、感染爆発など起きていませんね。
また、最近よく報道されているニュースに、ブラジルのコロナ禍が増大しているというのがあります。
たしかに上の図で確認される通り、ブラジルのコロナ死者数はついにドイツを追い越して、急速に上昇中です。
しかし、これは、疫病問題というよりは、貧困問題、政治問題でしょう。
なぜなら、メディアに映し出されるようなああいう貧困地区では、非衛生極まりなく、治安も悪いので、これまでも悲惨な事態が他にいくらでもあったにちがいないでしょうから。
メキシコもおそらく事情は同じ。
そこからコロナ問題だけを抽出すれば、いかにも今度は中南米から全世界に広がっていくようなイメージを与えられ、集団ヒステリーはまだまだ続くことになります。
それにしても、今回よりずっと死者が多かったほかの時には、日常生活や社会活動を壊すような騒ぎにはならなかったのに、今回のように政府、マスコミ、一般国民のほとんどすべてに至るまで、夜も日も開けずにコロナ、コロナと騒ぎ立てたのは、どうしてなのでしょうか。
世の中には、いろいろなことが起きていて、個別の不幸や苦しみに出会い、そこで耐えられなくなって挫折したり、必死で耐えている人がたくさんいます。
世界大の出来事もあちこちでたくさん起きているはずです。
ところが、マスコミやネットニュースは、来る日も来る日もまずはコロナばかり。
まるで大事なことはそれしかないと言わんばかりの勢いでした(まだこの傾向は続いていますが)。
この一点集中は、悪循環を生んで、私たちの関心をますますそこに追いこみ、洗脳状態にしてしまいました。
これは一種の全体主義と呼ぶべき事態です。
全体主義といえば、ナチズムやスターリニズムのような、政治的・歴史的な大事件を思い浮かべるのが慣らいですが、筆者は、今回のコロナ騒動に遭遇して、ああ、全体主義ってこういうものなんだなあと、痛感しました。
全体主義とは、要するに、人々が普通の日常生活を普通の気分で送ることを許さない雰囲気の支配、ということです。
たとえば、今日は休みだから、ちょっとぶらっと床屋でも行って、いつものコロッケ屋のおばさんに冗談を言って、コロッケを買って家に帰る。夜は飲み屋で酒を飲み、いい機嫌になって大将と馬鹿話をする。
こういうことができるのが「自由」で、そうした普通の日常を壊すのが「全体主義」です。
今回の「全体主義」の真犯人は、人々の社会不安につけ込んで心理を支配してしまった、たった一つの「情報」という妖怪です。
その意味では、全体主義が成立するためには、大衆の不安心理という非合理的なものの参加が不可欠です。
そして、この不安心理の背景にあるのは、情報のグローバリズムです。
遠いヨーロッパで起きていることとそっくり同じことがこの日本でも起きているかのような錯覚に陥らせる。
何しろ、リアルタイムで遠隔地の状況が知らされるのですから、明日は我が身、他人事とは思えないという焦りの気分が一気に醸成されます。
こうしてパニックはたちまちのうちに広がり、日本の為政者も国民も、それに何の抵抗もなく乗っかってしましました。
もっとも、今回の場合、ヨーロッパほど厳格な規制を敷いたわけではなかったし、死者数を見ればその必要もなかったのですが、「お上」の言うことに率先して従って自主規制を徹底させた国民は、経済的に自ら首を絞める結果になりました。
この事態はむしろ、まことに日本的というべきかもしれません。
※日本と世界はそろりそろりと経済活動を再開させているが、実は自粛やロックダウンは不要だったのでは?」という声が相次いでいる。
緊急事態宣言より前に、感染はピークアウト?
5月25日、政府対策本部から、東京・神奈川・埼玉・千葉を除く全都道府県の緊急事態宣言解除が宣言された。約2カ月に及ぶ自粛生活はひとまず区切りを迎えた。
同時に方々で出始めているのは、この緊急事態宣言が果たして本当に必要だったのか? と疑問を呈する声である。
その根拠の1つは、「実効再生産数」、つまり“1人の感染者が何人の感染者を増やすか”を試算したデータ。1を上回ると感染者は増え続けることを意味するこの指標が、実は緊急事態宣言入りした4月7日より前にピークアウトしている、というのが「懐疑派」の指摘するポイントである。宣言を出さなくても、感染者は自然と減っていたのではないか、というわけである。
米英では「ロックダウンは無意味」の分析も
実は、世界各国で行われた強制力のあるロックダウンについても、「不要だった」とする主張がいくつか見られた。
3月16日にトランプ大統領が国民に移動制限を指示、それ以降にニューヨークを始め各都市でロックダウンが始まった米国では、日本を始めとした東アジア地域より格段に多い死亡者を出しているが、4月27日付米ウォール・ストリート・ジャーナルが米国の州別の人口100万人当たりの死者数と都市封鎖までの日数の相関を調査。シンプルながら患者の死亡者数に注目し、「相関関数が5.5%ときわめて低かった」とした。
また、3月23日からロックダウンを開始した英国のイースト・アングリア大学が5月20日付で発表した研究は、欧州30カ国における店舗に対する休業命令等々の対策の効果について、スポーツイベントや学校においては感染者が減るなどの効果があった半面、日を追うごとに感染者数が増加。外出禁止に効果がない可能性を示唆しているという。
ロックダウンとは真逆の自粛のみで乗り切ろうとしていた日本では、皆が新規感染者数の増減に一喜一憂していたが、SNS界隈の一部などでは、そもそも発症率・重症化率も低く、死亡者数が他国と比べて格段に少ないうえに年配層や基礎疾患を持っていた者に偏っていることに注目。高齢者と“病気持ち”のみ行動を制限し、無意味な緊急事態宣言を直ちに解除し経済活動を再開させよ、と主張していた者も賛同者を集めていた。要は感染者が増えようが、「死ななければいい」という割り切りである。
宣言せずとも、「グラフ」が必ず下降し続ける保証
5月29日、専門家会議は、この緊急事態宣言についての“中間評価”を披露。「欧米の先進諸国と比較して、新規感染者数の増加を抑制し、死亡者数や重症者数を減らすという観点から一定の成果」とし、同時に、すでによく知られている東アジアにおける死亡者の少なさにも言及している。
さらに、早い段階で中国からの流行を「適確に補足」して急激な感染防止を防止したことや、「感染者の5人中4人は他の人に感染させず、残りの1人のうち稀に多くの人に感染させる感染者がいる」という伝搬の特徴を早い段階で把握、特に感染初期において、接触者をさかのぼってクラスターを制御し、感染拡大を一定程度制御したことが奏功したと分析している。
目にする機会が最も多かった指標「新規感染者数」のピークは、宣言から3日後の4月10日(報告日ベース)だったが、冒頭で述べた通り、専門家会議は「実効再生産数」をもとにした感染時期のピークがそれより9日も前の4月1日だったと推定している。3月末から市民の行動変容などによって新規感染者は減少傾向に転じており、7日の宣言以降は「実効再生産数」が再度反転することなく、ずっと「1」を下回っていたことをグラフで示している。
緊急事態宣言入り「遅かった」が81%だった
では、4月7日以前にこの「減少傾向」を察知し、緊急事態宣言をせずとも「実効再生産数」のグラフが必ず下降し続けることを保証できたのだろうか。
当時の国内の空気がどうだったかを、少し振り返ってみよう。発令3日後の10日に安倍首相はジャーナリストの田原総一朗氏と面会、「実は、閣僚のほとんどが(宣言発令に)反対だった」と述べたという。ただ、その理由は「自粛不要論」ではなく財政危機論。緊急事態下では100兆円規模の経済対策が必要とされるため、そんなことは無理だというとらえ方が大半だったことによるという。
しかし、世間の空気は、それとは正反対だった。3月2日に安倍首相が小中学校の一斉休校を発表した頃は拒否反応が目立ったが、同25日に小池百合子東京都知事が都内で感染者が多数発生したことを受けて「感染爆発の重大局面」と表現、自粛を強く求めたことと、同29日にタレントの志村けんさんが死去したことが大きく影響した。
宣言発令直後の4月11日~12日に読売新聞が行った世論調査によれば、緊急事態宣言を発令したタイミングが「遅かった」と答えた人が81%と圧倒的。同14日の衆院本会議でも、野党議員が「遅すぎた」と安倍首相を批判する場面があった。
トランプ米大統領が経済活動を再開した理由
相手は現在よりまだ正体がはっきりしなかった新型ウイルス。確かな特効薬も不明で、ワクチン開発はまだ遠い先だ。そのさなか、これだけの空気に囲まれ、しかも刻々と状況が変わる“ライヴ”のさなかで「自粛は効果がない」と見切って緊急事態宣言を見送る、もしくは途中で解除するという決断は、どんな豪胆なリーダーでも難しかったのではないか。情報も限られ、周囲のプレッシャーに晒され、旧態依然の制度や仕組みに足を取られつつその場、その場で最善の判断を下す難しさは、はた目からは分かりづらい。
感染すると死に至る危険のある高齢者と基礎疾患を持つ患者のみを自粛させ、「感染しても死ななければいい」として経済活動を通常に戻せ、との主張は一定の説得力がある。ただ、仮に4月にその決断を下すのなら、新規感染者がもっと増え、医療関係者の負担も増えるという危惧は消えていなかったはず。目の前で苦しむ感染者について、医療関係者が「この人は若いから死なない」「この人は年配だから危ない」と区別して治療に当たれるものなのだろうか。それに死者が少ない理由がはっきりしない以上、何かを契機にまったく違う様相となる可能性も考えなければならない。
しかし、やはり感染予防一辺倒ではそれこそ本当に国や企業、国民の息の根が止まる。トランプ米大統領は5月、「死者は増えるだろう」「これまで私自身が下さねばならなかった決断で最大のものだ」としつつ、それでも経済活動を再開させた。そうしないと、目下のライバルである中国と先々張り合うことができなくなる。安倍政権も遅まきながら、その路線を後追いしているようにも思える。結局は当事者にその場、その場で命と経済の最善のバランスを取ってもらう、としか言いようがないのだ。
・緊急事態宣言は不要だった(新経世済民新聞 2020年5月28日)
小浜逸郎 評論家/国士舘大学客員教授
https://38news.jp/economy/16011
※5月25日に首都圏でも緊急事態宣言が解除されました。
本来、日本では、この「緊急事態宣言」なるものは必要のないものでした。
そんなことを言えば、「何を言ってるんだ、それがなかったら、コロナ感染がどこまで広がっていたかわからない。死者数も比較的少なくて済んだのは、この宣言の要請にみんなが従って自粛したからじゃないか。それに、まだ終息したわけじゃなく、第2波、第3波にも備える必要があるんだぞ」と猛烈なバッシングを食らいそうです。
しかし、この疫病の性格をよく考えてみると、どうもそういう認識は当てはまらないようです。
これからその理由を述べていきますが、その前に、この過剰自粛を促した宣言が、どれほどの経済的犠牲を国民に強いたかに思いを寄せなくてはなりません。政府は「要請」というレトリックを用いて、休業補償から逃げ、大規模な財政出動からも逃げ、消費税の凍結からも逃げました。これから日本は大変な経済恐慌に突入していくでしょう。
理由の第一は、この病が、感染力の猛烈さに比べて、重症者や死者のほとんどが60歳以上の高齢者と持病の持ち主に限られているということです。
下の図は、5月7日時点での年齢別の感染者数で、上から順に、80代以上、70代、60代、50代、40代、30代、20代、10代、10歳未満、不明となります。色分けは、左が死亡、中が重症、右が軽症・無症状・確認中です。

理由の第二は、ここ7年間で、インフルエンザによる死者が平均2000人を超えているのに、その際、ロックダウンの可能性など一切問題にされなかったという事実です。
これに、ふつうの肺炎による死者が、年間11万人以上いることも付け加えておきましょう。これは病死の原因の第4位を占めています。
もっとも、この場合も、高齢者がほとんどで多くは基礎疾患があった場合でしょう。その点では新型コロナと変わりません。
11万人といえば、毎月約1万人に及ぶので、このコロナ禍が騒がれた4か月間に、すでに4万人近くに達している計算になります。
しかし、これまで普通の肺炎による死者が多いからというので、緊急事態宣言などが発出されたことはありませんでした。
ちなみにコロナ死者は、5月26日現在で累計846人。
理由の第三は、自粛徹底あるいは自粛要請が、果たして功を奏したのか、という疑問が残ることです。
政府や自治体は、国民の皆さんのご協力のおかげで感染者数、死亡者数も少なく抑えることができたと、その効果の宣伝に大いに努めることでしょう。
しかし、ヨーロッパでは、スウェーデンが外出規制や過剰自粛などを強制しなかったにもかかわらず、厳しい規制を強いたその他の諸国と、死亡者数の増加のカーヴに変化が見られません。(下図)
欧米諸国では現在、ほとんどの国が終息に向かいつつありますが、厳しい規制を課しているその最中にも、死亡者数はどんどん上昇していました。
無症状感染者、軽症感染者を増やすことによって、免疫力を獲得した人を増やすという戦略も十分にあり得たのです。
もちろんその場合でも、高齢者や持病の持ち主には、厳しい隔離政策を取ることが要求されますが。
理由の第四は、ウィルスというのは、生体に寄生して初めて活性化するので、その生体が死んでしまえば自分も不活性になってしまうという事実です。
現在、ブラジルなど一部の例外を除いて、世界的にコロナ死者が終息に向かっているのは、規制が功を奏したのではなく、一定の死亡者が出たために、ウィルスそのものが自然に不活性化しつつあるためではないかと考えられます。
これはペスト、コレラなどの伝染病を引き起こす細菌でも同じで、中世のペスト流行も、抗生物質などなかった時代にもかかわらず、多大な死者を出したのちに、生き残った者たちの間に自然に免疫が形成され、最終的には終息していきました。
原因は、生体に寄生して生きる宿命を持ったこれらの微生物が、生体の死と共に自分も死んでいったからだと考える以外、決定的な理由が見出せません。
理由の第五は、欧米とアジアとの死亡者数の極端な差にかかわります。
日本ではなぜ欧米に比べて重傷者、死亡者がこんなに少ないのかという現象は、多くの人がその理由を問題にしてきました。
欧米の握手、ハグなどの「濃厚接触」の習慣、マスクをしない習慣、日本人の「ウチ、ソト」をハッキリ分ける伝統、清潔好きの国民性、BCGをしたかしないかの違いなど、いろいろなことを言われましたが、どれもピンときません。
下の図は、人口100万人当たりの死亡者数の5月26日現在までの累計です。

死亡者が多く出た欧米諸国、上昇中の国、死亡者の少ない国の三つがよくわかるように国を選んであります。
上から順に、ベルギー、スペイン、イタリア、イギリス、フランス、スウェーデン、ブラジル、ドイツ、メキシコ、ロシア、フィリピン、日本、インドネシア、シンガポール、マレーシア、タイ。
なお、筆者の判断で、この国の統計は、そのカーヴの具合や国情から見て当てにならないと思える国は、省いてあります。それは、中国、韓国、台湾、インドです。
しつこいようですが、このグラフの縦軸は、対数目盛です。
したがって、多い国と少ない国との差は、見た目よりもはるかに大きくなります。
最高のベルギーは805.38、日本は6.78、最低のタイは0.82といった具合です。
まずここで言いたいのは、欧米に比べて死亡者が少ないのはじつは日本だけではなく、アジア諸国が軒並み2桁から3桁低い数字を示しているという事実です。
これは、生活習慣その他で説明できる問題ではありません。
フィリピンやインドネシアが、日本のような清潔好きの国民性を持っているとは考えられないからです。
なぜアジア諸国がこんなに少ないのか。
ここで指摘しておきたいのは、日本人は先進国意識がぬけないために、国際比較をしようとすると、欧米社会しか思い浮かべない癖がついていることです。
そのため、死亡者数に2桁の違いがあるにもかかわらず、欧米で騒がれたことはその対策に関してもすぐ見習って大騒ぎしやすい。
西洋は、社会心理的、宗教的理由から、一種の集団ヒステリーに陥ったのだと思います。ペストの歴史的な記憶も甦ったことでしょう。
日本は、足元のアジアの事情など関心の埒外で、この集団ヒステリーに煽られて、パンデミックだのロックダウンだのオーバーシュートだのクラスターだのソーシャルディスタンスだのといった、日常聞き慣れないカタカナ語の飛び回る大きな渦に巻き込まれてしまったわけです。
日本ははたしてロックダウンなど想定すべき状況だったでしょうか。
筆者の考えでは、答えは否です。
ではアジア諸国と西欧諸国とは、どうしてこんなに差がはなはだしいのでしょうか。
推測の域を出ませんが、これには遺伝子的な相性の問題が関係しているのではないかと思われます。
調べてみますと、ヒト白血球抗体(HLA)の違いというのが、ウィルス性の伝染病に罹りやすいか罹りにくいかに大きく関係しているという研究があります。
この相性の問題は白血病や結核についても昔から研究されていますね。
新型コロナでも、今回のウィルスは、西欧人の体内のHLAと共存しやすい。
断定はできませんが、今のところ、この仮説が一番説得力がありそうです。
理由の第六。次のような資料があります。
https://newstopics.jp/url/11218490
新型コロナ患者から取り出した検体からウイルス培養を試みた場合、発症から8日目までの検体からは培養できても、9日目以降の検体からは培養できないそうです。
培養できなくなるとは、ウイルスが増殖力を失ったか減退させたことを意味します。
増殖力がなければ感染も不可能です。
同じ資料にこれと符合する研究が紹介されています。
台湾で100例の確定患者とその濃厚接触者2761人を調べたものがあります。
後に発病したのは22人ですが、すべて確定者患者とは発症前もしくは発症後5日以内に接触した者で、発症6日以降に接触した者には発病者はゼロだったそうです。
これらの研究が正しければ、発病後1週間を経た患者にはもはや感染力はないことになる。
コロナ患者をいたずらに回避したり快復後も外出自粛を要求するのは、無意味で非合理といわざるを得ません。
つまり、新型コロナは、短期間の感染力は猛烈ですが、大した疫病ではなかったのです。
以上述べてきたことについて、次のような反論があろうかと思います。
そうは言っても、第2波、第3波は、必ずやってくる。これで終息に向かうなどとは言えないだろう。
もちろん、第2波だろうと第10波だろうと、こうした流行病のたぐいはこれからもやってくるときはやってくるでしょう。何が起きるか、未来はわかりません。
これまでも、インフルエンザは何度も何度も、かたちを変えてやってきました。
でも問題は、これからそのたびに「そらパンデミックだ」と大騒ぎし、緊急事態宣言を出し、経済活動を停止させるのかということなのです。
一部の医療関係者を中心に、第2波、第3波が必ず来ると騒いでいる人たちは、どういう科学的根拠があってそんな予言めいたことを言っているのでしょうか。
思うに、こうした不安を煽る(自分が不安に煽られている)人たちは、例のスペイン風邪の歴史的な記憶に基づいて騒いでいるだけなのではないか。
また新型コロナにはS型とL型があって、日本にはS型が入ってきたが、ヨーロッパにはL型が入った、第2波ではL型がくるから、これには抵抗できない可能性が高いなどという人もいます。
しかし外国帰りの日本人や訪日外国人を通して、すでにL型は入ってきているのです。
それなのに、感染爆発など起きていませんね。
また、最近よく報道されているニュースに、ブラジルのコロナ禍が増大しているというのがあります。
たしかに上の図で確認される通り、ブラジルのコロナ死者数はついにドイツを追い越して、急速に上昇中です。
しかし、これは、疫病問題というよりは、貧困問題、政治問題でしょう。
なぜなら、メディアに映し出されるようなああいう貧困地区では、非衛生極まりなく、治安も悪いので、これまでも悲惨な事態が他にいくらでもあったにちがいないでしょうから。
メキシコもおそらく事情は同じ。
そこからコロナ問題だけを抽出すれば、いかにも今度は中南米から全世界に広がっていくようなイメージを与えられ、集団ヒステリーはまだまだ続くことになります。
それにしても、今回よりずっと死者が多かったほかの時には、日常生活や社会活動を壊すような騒ぎにはならなかったのに、今回のように政府、マスコミ、一般国民のほとんどすべてに至るまで、夜も日も開けずにコロナ、コロナと騒ぎ立てたのは、どうしてなのでしょうか。
世の中には、いろいろなことが起きていて、個別の不幸や苦しみに出会い、そこで耐えられなくなって挫折したり、必死で耐えている人がたくさんいます。
世界大の出来事もあちこちでたくさん起きているはずです。
ところが、マスコミやネットニュースは、来る日も来る日もまずはコロナばかり。
まるで大事なことはそれしかないと言わんばかりの勢いでした(まだこの傾向は続いていますが)。
この一点集中は、悪循環を生んで、私たちの関心をますますそこに追いこみ、洗脳状態にしてしまいました。
これは一種の全体主義と呼ぶべき事態です。
全体主義といえば、ナチズムやスターリニズムのような、政治的・歴史的な大事件を思い浮かべるのが慣らいですが、筆者は、今回のコロナ騒動に遭遇して、ああ、全体主義ってこういうものなんだなあと、痛感しました。
全体主義とは、要するに、人々が普通の日常生活を普通の気分で送ることを許さない雰囲気の支配、ということです。
たとえば、今日は休みだから、ちょっとぶらっと床屋でも行って、いつものコロッケ屋のおばさんに冗談を言って、コロッケを買って家に帰る。夜は飲み屋で酒を飲み、いい機嫌になって大将と馬鹿話をする。
こういうことができるのが「自由」で、そうした普通の日常を壊すのが「全体主義」です。
今回の「全体主義」の真犯人は、人々の社会不安につけ込んで心理を支配してしまった、たった一つの「情報」という妖怪です。
その意味では、全体主義が成立するためには、大衆の不安心理という非合理的なものの参加が不可欠です。
そして、この不安心理の背景にあるのは、情報のグローバリズムです。
遠いヨーロッパで起きていることとそっくり同じことがこの日本でも起きているかのような錯覚に陥らせる。
何しろ、リアルタイムで遠隔地の状況が知らされるのですから、明日は我が身、他人事とは思えないという焦りの気分が一気に醸成されます。
こうしてパニックはたちまちのうちに広がり、日本の為政者も国民も、それに何の抵抗もなく乗っかってしましました。
もっとも、今回の場合、ヨーロッパほど厳格な規制を敷いたわけではなかったし、死者数を見ればその必要もなかったのですが、「お上」の言うことに率先して従って自主規制を徹底させた国民は、経済的に自ら首を絞める結果になりました。
この事態はむしろ、まことに日本的というべきかもしれません。