・元スパイが明かす実情「日本に渡すのは重要度の低い情報」(ZUU online 2020年3月2日)
※(本記事は、山田 敏弘氏の著書『世界のスパイから喰いモノにされる日本 MI6、CIAの厳秘インテリジェンス』講談社の中から一部を抜粋・編集しています)
■韓国の内情に深く食い込む米英
筆者が国内外で何度も話を聞いたMI6の元スパイは、インテリジェンス分野における日本とのつながりをこんなふうに見ている。
「MI6からすれば、今、日本と反目する理由はない。ただ全面的に協力する理由もない」
日英両国の間には、軍事面で物品を提供したり、外国での緊急事態における自国民等の保護に協力してくれるなど、日英物品役務相互提供協定(日英ACSA)という協定があり、準同盟国という位置付けになっている。
にもかかわらず、元スパイは「諜報機関の協力関係」という話には首を傾げた。
「繰り返しになるが、こちら側が日本に渡す、または共有するような情報は、もっとも重要度の低いものに過ぎない。薄い情報だと考えていい」と言う。
「CIAなどもまさにそうだろうが、いろいろな重要情報を日本の情報当局と共有しているというのはあり得ない。北朝鮮、韓国、ロシア、中国、こうした国で起きていることを、CIAはほとんどすべて把握していると言える。それらを日本と情報共有するのは考えられないし、していないだろう」
事実、以前に公安調査庁の元職員から「CIAからもたらされる情報は、使えないと思えるものも多い」というぼやきのような声を聞いたことがあるが、この感覚は正しいということだろう。重要な情報は共有してくれないのである。
MI6の元スパイが続ける。
「朝鮮半島情勢で言えば、日本には韓国(韓国民団)や北朝鮮(朝鮮総連)の団体などがあり、そこから情報を集め、それなりのインテリジェンスを持っているはずだ。だがそれについても、MI6やCIAはそれほど不可欠な情報とみなしていない。CIAなら、韓国には米軍基地があり、数万人規模の兵士がいる。いや、それどころか、実際には言われているよりも多くの兵士や米政府関係者が韓国内にいて情報を摑んでいる。北朝鮮と中国、ロシアが近くにいるのだから当然だ。そんな彼らが、韓国で何が起きているのか、いないのかを独自に把握していないとは考えられない。すべて自分たちで集めている。なんなら、韓国の内政にも工作すらしている可能性がある。
MI6にしても然り。2016年に北朝鮮の元駐英公使が韓国に亡命しているが、もちろんそうした動きも、MI6が周到に関わっていないはずがない。北朝鮮なら、北朝鮮の国外にいる北朝鮮の政府幹部をスパイにする工作も行っている」
■たしかに存在する協力者
MI6は2014年までに、南アフリカで、北朝鮮の核開発に関与する北朝鮮高官に接触し、スパイにすべく何度か交渉をしていたこともある。協力の対価として金銭を払うことやMI6と秘密裏に接触できる極秘の連絡先などを交換していたという。そしてこの高官が南アフリカに立ち寄る際に、現地の諜報機関である南アフリカ秘密局(SASS)に協力を要請していた。この人物が南アフリカに来る際の監視や、交渉を行う安全な場所の提供をMI6は求めていたのである。この工作がうまく行ったかどうかは不明だが、こうした工作はMI6が独自に行っている。
また、最近になって米政府はCIAを中心に北朝鮮の金正恩政権と核開発問題で直接交渉を行っていたが、そうした動きも日本が関与する余地はなかったという。日本が彼らから受ける協力は、推して知るべしということだろう。
もちろん、日本の情報機関関係者の中にも、海外の諜報機関の諜報員と親しくしている人もいると聞く。ただそれと情報共有は別レベルの問題で、時には、そうした関係性から逆に情報操作されてしまったり、あげく、相手の利害に沿ってうまく利用されてしまうリスクもある。そうした国外諜報機関からの情報で動き、逆に外交問題などで混乱を起こしてしまうケースも散見されると聞く。
現在の日本はイギリスとの関係で、とくに差し迫った懸案はない。とはいえ、日本側から見ると、イギリスのEU離脱問題は関心事であり、日本企業が影響を被ることもあって日本経済に重要な影響を及ぼす。日本は情報機関や大使館勤務の関係者がその動向を追っているはずだが、逆に最近、MI6側の諜報機関関係者が日本で任務に当たっているということはあるのだろうか。
「もちろん。すべての国で、MI6はいろいろな現地の協力者(インプラント)がいる。日本にももちろんロジスティックス(支援)などを担当する人などを含めた関係者はいる。私が勤務していたころにもいたのは知っているし、今もいる」
元スパイは続ける。
「イギリスは、インテリジェンス活動という意味でアメリカやロシアと競合しており、これらの国ではMI6が抱えるインプラントやモール(スパイ)の数は数百人規模になる。MI6が利害を鑑みて、重点的に注意をはらっている国だからだ。さまざまな立場で協力をしているために、それくらいの規模になるのは当然。それぞれの国には、私たちスパイが現地入りした際に旅行をアレンジしたり、車を手配したり、運転をする協力者たちもいる。ところが、こういう人たちは自分がMI6に協力している自覚すらない場合も多い。日本の場合も同じだ。
現時点では日本とイギリスは非常に関係の良い友人同士といったところだ。大きなトラブルを両国間で抱えているなんてこともない。日本にスパイ網を張って、日本を陥れるような情報を得るために厳しくスパイ活動をする必要はないということだ。ただ、何かが両国間で起きた際には、すぐに対応できるためにMI6のスパイが足場は確保しているし、首相から情報を求められた場合に備えて情報は常に集めている」
MI6だけでなく、その他の友好関係にある国々のスパイたちも、日本が誇る自動車産業の拠点の周辺では活動を展開している。諜報機関は、世界に影響を与える人や企業の動向には目を光らせているものだ。
■ゼロトラスト(けっして信用しない)
この元スパイのくわしい経歴は明かすことはできない。だが長年MI6に所属し、世界各地でスパイ工作に従事してきた人物であることは間違いない。すでに退職しているが、MI6で働いていた職歴は完全に抹消され、その空白期間は一般企業で働いていたことになっている。その「偽」の経歴は、MI6が退職に伴って用意したものである。
筆者も、アメリカやシンガポールに暮らし、長期にわたり南アジアや欧州など各地で取材活動をしてきた経験から、いろいろな要人やスパイたちに接する機会があった。
そんな活動のなかで知り合うことになったこの元スパイは、何度かの交渉の末に、MI6について、筆者の取材に応じてくれることになった。
この人物は、キャリアの中で何度か日本を訪問し、日本の情報機関関係者とやりとりを繰り返した経験もあるという。そんな彼の目には、日本とMI6の関係はどう映っているのか。
「今から何年も前に私が現役だったころ、諜報活動を指揮するエージェントはいた。日本に永住しているイギリス人がエージェントをしていることもある。当時、日本のインプラントは20人もいなかったと思う。いろいろな省庁、情報機関の当局、政府関連機関や民間などに協力者や情報提供者はいた。ただ単に食事をするだけの民間企業の関係者なども、もちろんこちらの本当の顔を知らずに関わっているし、ロジスティックスで協力している人たちももちろんいる。たとえば、電話など通信手段の安全を確保する人たちもいる。企業のサービスを利用すれば、こちらの個人情報をそこまで伝えなくてもいいので、そういう企業もいくつか確保している」
MI6では、プロジェクトの指揮をとるエージェント、その下にエージェントをサポートするスタッフが数多くおり、世界中でイギリスのために諜報活動を行っているのである。末端には、MI6の仕事をしていることを知らない人も多いらしい。
MI6は組織の文化として、こうしたミッションにおいて現地で関与する人たちのことすらも、まったく信用しないよう叩き込まれているという。
「まず私たちは映画のように作戦を『ミッション』と呼んだりはしない。『フィールドワーク』と呼んでいる。『モスクワのフィールドワーク』に行く、といった具合だ。
外国の現場では信用がすべてで、自分たちの協力者であってもまったく信用はしない。私たちの中では信用度に4段階のレベルがあり、日本での作戦の際には、足がつかない通信デバイスを確保する企業を雇っても、彼らとは最も信用度の低いレベル4の関係から始まる。
インプラントなども同じレベルで、つまりいっさい信用していないということだ。相手は私がただの顧客ということ以外、何も知らない。でもレベル3になれば、もう少し情報を与えられ、こちらの要望も少し高くなる。レベル1ともなれば、必要があればコミットメント(覚悟を持たせる)の意味でも、こちらがイギリスの政府のために働いていることを伝える場合もある。MI6とは明かさなくとも、相手が気づいている場合もあったと思う。とはいえ、日本のインテリジェンス関係者は、そこまで判断できる情報がないので、政府機関と言ってもまさかこちらがMI6だと思うようなことはないだろうと思っていた。
MI6は外国人にレベル1の信用を与えることはない。レベル1のクリアランス(機密情報にアクセスできる権限)は、外国人には与えられないので、どれだけ頑張ってもレベル2だ。つまり、システム的にも、限られた情報しか外国人には提供しないし、できないことになっている」
MI6の任務においては、このゼロトラスト・モデルがになっているようだ。MI6という機関の実態については、後章でもさらに深く探りたい。
山田 敏弘
国際ジャーナリスト。1974年生まれ。米ネヴァダ大学ジャーナリズム学部卒業。講談社、英ロイター通信社、『ニューズウィーク』などで活躍。その後、米マサチューセッツ工科大学でフルブライト・フェローとして国際情勢とサイバーセキュリティの研究・取材活動にあたり、帰国後はジャーナリストとして活躍。世界のスパイ100人に取材してきた。著書に『モンスター 暗躍する次のアルカイダ』(中央公論新社)、『ゼロデイ 米中露サイバー戦争が世界を破壊する』(文藝春秋)、『CIAスパイ養成官 キヨ・ヤマダの対日工作』(新潮社)翻訳書に『黒いワールドカップ』(講談社)などがある。
※ブログ主コメント・・・情報機関と秘密結社は組織の性格がよく似ている。実際重複しているのだろう。
・30年以上アメリカのために働いたキヨ・ヤマダの人生 CIAスパイ養成官だった日本女性─その「消された」経歴を追う(COURRiER 2019年8月24日)
8月21日に発売された山田敏弘著、『CIAスパイ養成官 キヨ・ヤマダの対日工作』(新潮社)からの抜粋をまとめたものです。
※アーリントン国立墓地に埋葬された日本人女性がいる。2010年に亡くなった彼女の名は、キヨ・ヤマダ。ペンタゴンがよく見える場所に眠る彼女は、生前、CIAで30年以上もスパイに日本語や日本文化を教え、対日工作にも関与したが、その経歴は「消され」ていた。
そんな彼女の知られざる人生をジャーナリスト山田敏弘氏が追った。著作『CIAスパイ養成官 キヨ・ヤマダの対日工作』(新潮社)より、一部抜粋してお届けする。
2015年8月、米バージニア州アーリントンは抜けるような青空が広がっていた。
筆者は首都ワシントンDCで、前日まで開催されていたシンクタンクの会議を終え、あとは当時暮らしていたマサチューセッツ州ボストンへ戻るだけだった。だが、帰途に就くまえに、以前からどうしても気になっていた場所に立ち寄ることにした。
DCのすぐ西側にある、アーリントン国立墓地である。
朝9時になったばかりだというのに、墓地の案内所となっているウェルカム・センターは人でごった返していた。ガイドブックを手にした人たちや、ツアーガイドの説明に熱心に耳を傾けている集団もいた。
アーリントン国立墓地は、米陸軍省が管理している。墓地のすぐ南東には、最高軍事行政機関である米国防総省、通称ペンタゴンがある。
肩書きは「妻」
アーリントン国立墓地を訪問してみたいと思ったのは、知人女性との雑談がきっかけだった。2001年から夫の留学のために五年間、DC近郊で暮らしていたというこの知人は、その当時に「興味深い女性」と知り合ったと話した。在米の日本人主婦が、友人だけを集めて開いた、小規模なホームパーティでのことだったという。
知人が直接聞いた話によれば、その「興味深い女性」の名前は、キヨ・ヤマダという。日本で生まれ育ったキヨは、戦後しばらくして渡米し、アメリカ人と結婚。そのあと、アメリカの諜報機関であるCIA(中央情報局)に入局し、スパイに日本語や日本文化を教えていた――。
初めて知人からこの話を聞いた2014年の時点で、キヨ・ヤマダはすでに他界し、アーリントン国立墓地に埋葬されている、とのことだった。しかもキヨの希望で、墓地のなかでも、もっともペンタゴンの建物がよく見える場所に墓が設けられたというのだ。
そこで、DCへの出張に合わせて、ちょっとした観光気分で、初めてアーリントンを訪れたのだった。
「70区画54番」
これが、彼女の墓の番号だった。
その墓は、最南東の区画に位置し、区画内でもさらに一番端っこにひっそりと建っていた。墓の前で、墓石にある名前を確認するためにしゃがみ込んだ。間違いない。そして立ち上がり、ふと顔を上げた。するとそこには、五階建の白い壁が印象的な、ペンタゴンの建物がはっきりと見えた。
その墓石の正面を見ると、男性の名前が確認できた。「チャールズ・S・スティーブンソン」。キヨの夫だろう。名前の下には、「中佐」「米空軍」という彼の所属と肩書き、さらに「第二次大戦」「朝鮮戦争」「ベトナム戦争」という戦歴が並び、そして一番下に、1922年5月15日生、2006年2月11日没と彫られている。アーリントン国立墓地の墓石には、アメリカのために貢献した政治家や軍人、職員などの死者の、地位や戦歴といった肩書きがこのように彫られているのが普通である。
墓石の反対側に移動し、裏面を確認すると、面食らった。
そこには「キヨ・ヤマダ」という彼女の名前と、その下にこう彫られていたからだ。
「妻」
「1922年9月29日
2010年12月27日(没)」
CIAどころか、政府職員などといった肩書きすら、そこには見当たらなかった。
女性としての葛藤
彼女のことを知る多くの関係者たちに話を聞いて歩くことで、アメリカのために働き、その経歴を「消された」日本人、キヨ・ヤマダを探す旅を始めた。
何人かのCIA関係者たちからは、守秘義務を理由に、取材を拒否された。キヨの知人たちは高齢になっており、すでに亡くなっていた人も多かった。認知症が悪化して日常生活ができなくなり、話を聞く前に施設に入ってしまった知人もいれば、取材の前に交通事故に巻き込まれて死亡した親友もいた。
それでもキヨの人生に触れた、たくさんの関係者から証言をえることができた。
キヨは世界を大きく変えるような目に見える変革や発明をもたらしたわけではない。前人未到の領域に到達し、派手に歴史を塗り替えた偉人でもない。しかし、30年以上もの間、日本の歴史の裏舞台で暗躍してきたスパイを養成し、引退時にはCIAから栄誉あるメダルを授与され、表彰を受けるほどの評価と実績を残していた。そしてその事実は、私たちの見ている世界からは見えないところに封印されている。
キヨ・ヤマダの人生を紐解いていくと、戦前から戦後にかけて生まれ育ち、日本人女性としての「殻」を破ろうと、生き方を模索する女性の姿が浮き彫りになって見えてくる。それだけではない。現代にも通じるような苦悩に満ちた女性の葛藤がそこにはあった。
CIAの活動
CIAは、戦後からソビエトとの冷戦、対共産主義工作、貿易摩擦、対テロ戦争と、世界中で暗躍するようになる。その存在はよく知られていても、活動は国家機密であり、公式には表に出てこない。とはいえ、これまで元局員や関係者、ジャーナリスト、歴史家らが掘り起こしてきた情報から、CIAの活動は色々な形で暴露されてきた。
政権を転覆させたり、クーデターを後押ししたこともあれば、国家指導者などの暗殺を企てたこともある。
日本でも、政界工作やロッキード事件、貿易摩擦でのスパイ工作などへの関与が指摘されている。そうした日本での工作に、キヨが関与していたのである。
山田敏弘 1974年生まれ。国際ジャーナリスト、『ゼロデイ 米中露サイバー戦争が世界を破壊する』(文藝春秋)など著書・訳書多数。新刊『CIAスパイ養成官 キヨ・ヤマダの対日工作』(新潮社)が8月21日に出版。
・CIAスパイ養成官キヨ・ヤマダ、日本企業に今も残る「教え子」たちの影響力(DIAMOND online 2019年9月5日)
窪田順生:ノンフィクションライター
※政界はもちろん、大企業やマスコミ、世論に影響を与える有名人に、それと知られずに近づき、意のままに操るCIA工作員。しかも、その工作員たちの「先生」は大正生まれの日本人女性だった。最近明らかになった、驚くべき真実とはーー。

(上)キヨ・ヤマダ
日本の大企業やマスコミ、政界などで今なお広く活動しているCIAのスパイたち。その先生は、なんと大正生まれの日本人女性だった。
あなたの隣にもいる!?CIAの協力者の実態
ある全国紙で活躍する記者が大怪我を負って入院した。と、ほどなくしてきちんとした身なりの外国人が病室にお見舞いにやってきて、こんなことを言う。
「私はアメリカ大使館の政治担当オフィサーをしている者です。いつもあなたの記事を読ませていただき勉強させてもらっています。入院をしたと聞いて、いてもたってもいられなくなりお見舞いに伺いました」
その後も足繁く通い、雑誌や食べ物などを差し入れてくるこの「親切な外国人」に、記者は徐々に心を開き、いつしか治療費などがかさんで今月ピンチだ、なんてグチまでこぼせるような間柄となっていた。
そんなある日、米大使館員を名乗るこの男は、「お力になれるかもしれません」なんて感じで記者に「援助」を申し出てきた。気がつけば、この記者は取材活動の中で得られる日本政府や日本企業の情報を男に提供して、男が望むような記事を書く「協力者」となり、その関係はこの記者が「論説委員」になるまで続いたというーー。
これは、ジャーナリストの山田敏弘氏が、日本で活動していた元CIA諜報員にインタビューして聞き出した「実際にあったエピソード」である。
「CIA」といえば、多くの日本人は映画のように派手なアクションを繰り広げるスパイをイメージするが、実はその国の政治家、役人、大企業の社員、そして世論に影響を与えるマスコミや有名人などに接近して、知らぬ前に「協力者」(エージェント)へと仕立てあげ、情報収集や工作活動に利用する、というのが彼らの主な仕事である。
つまり、あなたのデスクの隣にいる人や、テレビに出ているあの有名人も、本人にその自覚のないまま、CIAの「協力者」になっているという可能性もゼロではないのだ。
と言うと、「そんな落合信彦のスパイ小説じゃあるまいし」「中国相手ならわかるが、同盟国で、子分のように尻尾をふる日本にわざわざそんな面倒な工作活動なんてしないだろ」とシラける方も多いかもしれないが、それは大きな間違いだ。
我々が想像している以上に、アメリカは日本へスパイを送り込んでおり、ゴリゴリの工作活動に励んでいるのだ。その動かぬ証拠とも言うべき人物が、2010年に88歳で他界したキヨ・ヤマダこと、山田清さんである。
日本の大企業の中に大勢いる「CIAの協力者」
大正11年、東京・深川の肥料問屋の家庭に生まれた山田さんは、東京女子大学の英語専攻学部を卒業して英語教師となった。終戦後に渡米してミシガン大学大学院で教育関係の修士号を取得。米空軍の爆弾処理の専門家と結婚してキヨ・ヤマダ・スティーブンソンとなり、20年ほど家庭で夫を支えていたが、46歳の時にCIAの「日本語講師」の募集に応募して見事合格した。
そこから2000年、77歳で現役引退するまで、日本へ送り込まれるCIA諜報員に日本語や日本文化を教え続け、時には裏方として彼らの工作活動も支えたキヨ・ヤマダは、ラングレー(CIA本部)から表彰もされた「バリキャリ女子」の元祖のような御仁なのだ。
ちなみに、冒頭のエピソードを明かした元CIA諜報員もキヨ・ヤマダの「教え子」の1人で、実はこの工作活動にも、彼女は裏方として関わっていたという。
そんなスゴい日本人女性がいたなんてちっとも知らなかったと驚くだろう。それもそのはずで、アーリントン国立墓地にあるキヨ・ヤマダの墓標には「妻」としか刻まれておらず、CIAで働いていたこともごく一部の友人に明かしていただけで公にされていない。前出のジャーナリスト・山田氏がアメリカでCIA関係者や友人たちへ取材を繰り返すことで最近になってようやく、彼女が実は何者で、何をしていたのかがわかってきたのである。
そのあたりは是非とも『CIAスパイ養成官 キヨ・ヤマダの対日工作』(新潮社)をお読みいただきたいが、その中でも特に興味深いのが、キヨ・ヤマダと、その教え子たちが行っていた工作活動だろう。
同書には「キヨはもともと政府系だった企業などにも人脈を持っており、諜報員や協力者などの情報提供や、就職斡旋にも関与していた」と述べられており、以下のような証言もある。
「日本企業などに太いパイプを持っていた有力な日本人たちを介して、CIAに協力していた日本人スパイを、大手企業に送り込んでいた」
戦後の日本でCIAがこのような活動を延々と続けてきたということは、現在の日本の大企業の中には、キヨ・ヤマダの教え子たちに意のままに操られている「協力者」が山ほど潜んでいる可能性が高いということだ。
彼らは自分がCIAの手先になっているという自覚すらなく、業務で知り得た情報を提供しているかもしれない。あるいは、CIA工作員が投げた「餌」に飛びついて、アメリカが望むようなビジネスをしているかもしれない。
対象が「困っている時」を狙え CIAの人心掌握術
それがあながち荒唐無稽な話ではない、ということは、キヨ・ヤマダという女性の存在が雄弁に物語っている。
一方で、いくらスパイとはいえ、そんなに簡単に人間を操ることなどできるわけがないのではないかと感じる方も多いだろう。実はCIAには、世界のビジネスマンたちも参考にする「人心掌握術」があるのだ。
同書によれば、ポイントは「困っていることを探る」ことだという。といっても、弱みを見つけて脅迫をするのではなく、そこを突破口にして、あくまで自発的に協力をしてくれるように仕向けていくのだ。
サイバー安全保障が専門である著者の山田氏は、冒頭のような新聞記者を籠絡した手口は「情報機関の常套手段」として、最近あったという事例を紹介している。
「しばらく前に、コンピューターに不正アクセスをしてパスワードやクレジットカード番号を盗み出していたハッカーが当局に逮捕された。この人物を協力者にしようと考えた情報機関の関係者は、このハッカーの銀行口座などを調べ、かなりカネに困っていることを察知した。そして、保釈後、ハッカーに接触し、カネを提供するという約束をして、協力者にしてしまった」
困った時に救ってくれた恩人からの頼まれ事は断りにくいというのは、人間ならば当然の感情だ。CIAをはじめとした諜報機関は、そこを巧みについて協力者に仕立て上げるという。
あなたがピンチになった時、すっと手を差し伸べてきたその「優しい外国人」は、もしかしたらキヨ・ヤマダの教え子かもしれないのだ。
・戦後日本にCIAスパイを送り込んだ、日本人女性キヨ・ヤマダの数奇な運命(Newsweek 2019年9月28日)
山田敏弘(国際ジャーナリスト)
※<諜報活動という裏社会に身を投じて居場所を見出したキヨの葛藤は、現代女性にも通じるものがある>
筆者の知人が、アメリカ留学中だった10年ほど前に在米の日本人主婦らが集まった小さなホームパーティーに参加し、そこで「興味深い女性」の話を聞いたという。
その人物の名前は「キヨ・ヤマダ」。戦後間もなく渡米してアメリカ人と結婚した彼女は、その後に世界最強の諜報機関であるCIA(米中央情報局)に入局。スパイに日本語や日本文化を教えていたが、少し前に他界してワシントンのアーリントン国立墓地に眠っているらしい――そんな話だった。
この話を聞いた筆者は、キヨのことがずっと気になっていた。そしてワシントンへの出張の折、アーリントン国立墓地に立ち寄ってみたところ、肩書きに「妻」とだけ書かれたキヨの墓を発見する。そこには彼女が国家のために働いたという形跡は一つもなかった。その後、いろいろな文書などにも当たって調べてみたが、彼女のキャリアは完全に世の中から消されていた。
一体、キヨ・ヤマダとは何者なのか。彼女に対する好奇心が止まらなくなり、彼女の人生を掘り起こす取材を始めた――。
キヨが生まれたのは、1922年(大正11年)9月29日。東京市深川区深川東大工町(現在の江東区白河)に暮らす非常に裕福な家庭に、3人きょうだいの末っ子として生まれた。幼稚園から東京女子高等師範学校(現在の御茶ノ水大学)付属に通うような裕福な家庭に育ちながらも、封建的な社会制度のなかで家庭内の居場所を探し続けた。そんな中で、キヨは英語などの教育専門家となる目標を見据え、海外留学を目指す。日米の間に立ち、架け橋になりたいと考えていたという。
そして戦時中に、東京女子大学や東北大学、東京文理科大学(現在の筑波大学)で学んだ後、湘南白百合学園で英語教師を経験。程なく奨学金を得て、ミシガン大学の大学院で英語教育を学ぶために渡米する。
だが大学院卒業後は、米兵と結婚。アメリカやドイツなど各地を転々とする生活を続け、46歳まで専業主婦として軍人の夫を支えた。ただ彼女の気持ちの中で、キャリアを目指す思いは消えてはいなかった。そしてその年齢で、ふとしたきっかけからCIAに入局することになる。
CIAでは日本に送られる諜報員を養成する言語インストラクターとして働いた。その一方で、日米を頻繁に行き来しながら、工作活動やリクルート活動にも深く関与していた。
日本人であるキヨは、CIAで対日工作を行うことに、罪悪感はなかったのか。新著『CIAスパイ養成官 キヨ・ヤマダの対日工作』(新潮社刊)では、キヨのこんな心情を紹介した。
「キヨは晩年、アイルランド人のアンジェラに、過去のいろいろな話をした。アンジェラによれば、キヨはあるときこんなことを言ったという。『私がCIAに入ってよかったことは、やっとアメリカに受け入れられたと感じることができたことなの』」
戦後の日本を抜け出し、アメリカ暮らしとなった彼女が見つけた安息の地はそこにしかなかったのだろう。そしてCIA退官時にはメダルを得て表彰されるほどの実績を残している。彼女にとってCIAが唯一の輝ける場所だったのかもしれない。
表向きには消されてしまった彼女の人生には、戦後を駆け抜け、アメリカに居場所を見出し、諜報活動という裏社会に身を投じた日本人女性の物語があった。キャリアや結婚に思い悩みながら生き方を模索したキヨの葛藤は、女性がキャリアの様々な局面で障害に直面する今の時代にも通じるものがあるのではないだろうか。
・元CIA局員たちへの取材で炙り出された、日米の諜報活動の実態(Newsweek 2019年9月18日)
※<CIAのスパイを養成していた日本人女性キヨ・ヤマダの人物伝『CIAスパイ養成官――キヨ・ヤマダの対日工作――』(新潮社)を上梓した山田敏弘氏は、これまで各国の諜報機関関係者に取材してきた。山田氏に聞く、日本にもあるというCIAの養成学校の存在と、元CIA局員が指摘する日本のJICAとCIAの類似性とは>
またひとつ、埋もれていた歴史が発掘された。
このほど発売された新著により、戦後、アメリカのCIA(中央情報局)に日本に送りこむスパイを育成していた日本人女性がいたことが分かったのだ。
その女性の名はキヨ・ヤマダ。日本で生まれ育った生粋の日本人で、1954年に渡米し、1969年に46歳でCIAに入局。日本語インストラクターとしてCIA諜報員に日本語や日本文化を教えていた人物だ。日本のメディア関係者をスパイにするための工作に関わったり、企業にCIAスパイを送り込む工作にも従事していたという。
国際ジャーナリストの山田敏弘氏は、米マサチューセッツ工科大学(MIT)に安全保障問題の研究員として留学中の2015年にキヨ・ヤマダについて取材を始め、今年8月に『CIAスパイ養成官――キヨ・ヤマダの対日工作――』(新潮社)を上梓した。
そこに記されているのは、1922年に東京で生まれたキヨが戦後、日本を捨てるようにしてアメリカに移り住み、CIA局員として対日工作に関わりながら2010年12月27日に88歳で他界するまでの波乱に満ちた人生だ。
山田氏はこれまでにも、CIAだけでなくイギリスやイスラエル、インドやパキスタンなど世界の諜報機関の取材を続けてきた。今回もCIAが極秘扱いにしていたキヨの身分や任務を炙り出す過程で、複数の元CIA局員から直接話を聞いたという。
取材を通して見えてきたキヨ・ヤマダという元CIA局員の姿と、現在の日米の諜報活動の実態について聞いた。
***
――キヨ・ヤマダはどのような経緯でCIAに入ったのか。
キヨは戦後3年間、神奈川県藤沢市にあった湘南白百合学園で英語の臨時講師を数年務めていたが、もともと家族との関係が悪かったことと、戦前から西洋文化への憧れがあったことからフルブライト奨学生制度に応募し、合格してアメリカに留学した。
だが念願叶ってアメリカに渡ったものの、「敗戦国」から来た彼女が米空軍に勤務するアメリカ人男性と結婚して家庭に入り、夫の仕事で基地を転々とする生活が続けていくうちに自分を見失う。それでも日本で教師として培ったものを生かしてCIAに入り、アメリカに自分の居場所を探しながら生きていく。
――彼女は日本で生まれ育ってからアメリカに渡り、CIAで働くことを決めた。そこに、「母国」を裏切っている、というような気持ちはなかったのだろうか。
おそらく一つ大きいのは、CIAで働くことに決めたときには日本にもう家族がいなかったということ。あと自分の取材から見えてきたのは、「日本」を過去のものとして、アメリカに渡った、というイメージだ。
実際に、母親が亡くなったという報告が来ても日本に戻らなかったし、家業を継いでくれと言われても戻らなかった。そのままアメリカで生活していくなかでだんだん自分もアメリカ人になっていくのだが、それでも自分の居場所はぐらついたままだった。
アメリカに住んだことがある人なら誰しも分かると思うが、外国人がアメリカに住むと、自分がメインストリームには入れないという疎外感がある。だから同じ人種の人たちでコミュニティーを作り、かたまりやすくなる。長く住んでいる人でもそうだ。キヨも、いつまでたっても自分の居場所がないと感じていたのではないか。
本来なら夫が自分にとって一番身近な存在であるはずだが、キヨはアメリカ人の夫が黒人を差別する姿などを目の当たりにしてきた。アメリカ人も、もともとはみな移民なので、自分たちの立場を守ろうとするあまり排他的になってしまうところがあったりするのかもしれない。そんななか、CIAのような国家の中枢機関で国策に貢献できる仕事をすることで、キヨはアメリカに自分の居場所を見つけていく。
本にも書いたが、キヨは晩年、自分の身の回りの世話をしてくれていたアイルランド人のアンジェラという女性にこう語っている。「私がCIAに入ってよかったことは、やっとアメリカに受け入れられたと感じることができたことなの」、と。
おそらくキヨは、CIAで働くことでやっと居場所を見つけた。だから自分がしてきたことに誇りに思っていたし、晩年になって、自分がCIAで働いていたことを周囲に打ち明け始めたのだろう。
――取材を始めるに当たって、キヨ・ヤマダという人物に興味があったのか、CIAに興味があったのか。
そもそも諜報機関に対する興味が長年あって、ずっと取材をしてきている。イギリスやイスラエルなど、現役の諜報員は難しいが、以前働いていた人などは機会があれば取材をしてきた。今は中国の諜報力がすごいという人もいるが、CIAは予算も人員も影響力も歴史も含めて大きな組織だ。特にCIAに関心を持っていたなかで、日本人でCIAに関わっていた人がいると知人から聞き、それは面白いと思った。
CIA局員は仕事柄、自分の身分も任務も周囲に明かすことはないが、キヨが日本語インストラクターをしていた当時の教え子、つまり対日工作にかかわった元スパイに話を聞けるかもしれないとなり、これはぜひ本にしたい、と思った。
――CIAという組織とその任務は、今も拡大しているのか。
実際のところの細かい人員数や予算は、機密情報なので分からないようになっている。ただおそらく、人材の質は変わっていたとしても、規模は変わっていないのではないか。いま諜報活動は過渡期にあって、デジタル化が進み、ハッキングなどが非常に重要になっている。
昔は人を尾行していたが、今はその必要もない。かつてはウォーターゲート事件じゃないが、ビルに入り込んで情報を盗むということをやっていたが、今はその必要もない。
例えば、イスラエルのネタニヤフ首相は昨年、イランが核兵器を開発していると言ってイスラエルの国防省で会見を行った。その証拠がこんなにあると、イランから盗んできたという資料を大量に提示した。たぶん盗んだものをヘリにでも乗せて逃げて来たのだろうが、今はその必要がない。
物理的に持ち出して、逃げてくるのは大変だしリスクが伴う。いかにデジタル化して盗むことができるか、という技術力のほうが今は重要になっている。スパイ活動も変わりつつある。
――CIAはハッカーを養成しているのか。
CIA専門のハッカーはいる。ハッカーなどを扱っていた元CIA幹部を知っているが、局員以外でも協力者や契約職員としてハッカーを囲っている。アメリカにはNSA(国家安全保障局)があるので、そこには米国でトップの数学者やハッカーたちが揃っている。
NSAは軍寄りなのでCIAとはあまり仲が良くないと言われるが、作戦になると一緒に活動する。例えばアフガニスタンにドローンを飛ばす指揮はCIAがとるが、どこに敵がいるかをハッキングや盗聴などで調べるのはNSAなどの組織だ。
――日本にCIA工作員はどれくらいいるのか。
分からない。だが1つだけ言えるのは、日本からも欲しい情報はあるということだ。日本の中枢にいるような人たちで、日本版の国家安全保障会議(NSC)とか、内閣情報調査室とか、ああいう情報関係の人たちはCIAとつながっているだろう。これらで働く人たちは、部下たちからすぐに情報を集められる。
情報の世界は絶対にギブ・アンド・テイクなので、ギブだけというのはあり得ない。テイクしないといけないので、おそらく日米もある程度はギブ・アンド・テイクでやっている。当然、提供できない情報はあるだろうが、日米間で「協力」というのは常にやっていると思う。
日本の場合はアメリカから情報を盗まれても致命的になるほどではないのではないか。ただ、それが経済問題や民間企業の場合は、知的財産などが盗まれることになる。例えば名古屋にもCIAの協力者が実際にいたと聞いている。
――山田さんはこれまで諜報関係者に数多く取材をしてきているが、彼らはなぜ取材に応じてくれるのか。彼らにとって、取材に応じることによる「テイク」は何か。
彼らが今やっている仕事にプラスになると考えているのではないか。CIAを辞めた後に民間企業に入る人はとても多い。コンサルタントのようなことをしていたり。
そういう人たちが、(記者である自分と)繋がっていたほうがいいと思うからしゃべってくれるパターンはあるだろう。もしくは、こういう話があると伝えると、ここまでだったら話してもいいと、自分との関係性の上で話してくれる人もいる。
だが今回の取材で一番大きかったのは、答えてくれた人たちがキヨのことを尊敬していた、ということだろう。キヨの人生がこういう形で、歴史には記録されないまま終わっていくということを、自分たちも同じ仕事をしているので知っている。
そんななかで、もうキヨは亡くなっているし、彼女がやってきたことを歴史の一部分として、完全に匿名でという条件でなら話してもいいと応じてくれた。彼女が生きたということを遺したいという私の意図に乗ってくれたのだと思う。
――CIAで働いていた日本人はキヨだけではなかったのか。
日本人がいたのかはわからない。日本語を教えていたのはキヨだけではなく、日系人はいた。キヨよりも後の世代の日系人で、取材に応じてくれなかった人もいた。
――著書の中に、CIAを養成する学校が日本にもある、というくだりがある。そこでは何人くらい養成しているのか。
CIA以外にも、いろいろな立場の人が入り混じっていて、何の組織かよくわからなくなっている。それ以上、詳しいことはここでは言えないが(笑)。ちなみに、日本国内の各国大使館に、それぞれの国の諜報職員を紛れ込ませているというのは有名な話だ。
――日本にCIAのような組織はあるのか。
しいて言えば内閣情報調査室だが、内調は基本的には国内のことをメインに扱っているだろう。日本の組織のなかで海外の諜報活動をしているところはほぼないと言っていい。
だが警察関係のなかに、海外に行って動いている人たちはいる。とは言えその人たちも、国外で集めているのは日本人に関する情報だ。そういうことも含めて考えれば、日本にはCIAと同じような組織はないと言える。
おそらくどこの国にもCIAのような、国外で自国の国益になるような情報を拾う、もしくは自国に危険が及ばないように情報を収集する組織はあるのだが、日本にはない。それだと日本を守れないので、日本版CIAを作った方がいいのでは、という話は政府関係者の中でも聞かれる。
ただ、この取材で会った元CIA局員から面白いことを言われた。「日本はJICAってあるでしょう。あれって、ほぼCIAみたいじゃないか」と。「かなり色々な情報を収集して、政府関係者などにもかなり食い込んでいるでしょう」と言うのだ。
世界中にオフィスを持つJICA(国際協力機構)やJETRO(日本貿易振興機構)は各国で莫大な資金を使ったプロジェクトを行っているので、その国の中枢で働く人や省庁の役人たち、もっと言えば大統領などともつながることができる。信頼もされているだろうし、ああいう人たちは全部CIAにできますよね、と冗談っぽく言われた。
CIAも、局員のやっていることの多くはペーパーワークで、あとは現地のスパイたちに情報を集めさせたりしている。集まった情報を局員がまとめて上にあげる。JICAで働く人たちが既にやっているようなことだ。JICAはコバートアクションと呼ばれる秘密作戦や工作はやらないが、情報収集に関しては既に行っている。
彼らはどちらかというと現地寄りなので転換は必要だし、そもそもJICAの職員は途上国支援などといった志があるので情報収集を仕事にはしようとはしないだろうが、彼らの持っている情報網はCIAのような情報活動に近い、というとイメージしやすいかもしれない。
――著書の中で、日本のジャーナリストも実際にCIAにリクルートされたという話が出てくる。今でもそういうことはあるのか。
CIAに限らず、いるでしょうね。名前は言えないが。ただ、例えばイギリスの諜報機関が「協力者」を使う場合、使われているほうは自分が協力者に仕立て上げられていることを知らない場合がある。普通の会社員が、知らない間に諜報工作に手を貸している場合はある。
――山田さん自身は、リクルートされた経験はあるか。
一切ない。誤解されやすいのだが(笑)。
※(本記事は、山田 敏弘氏の著書『世界のスパイから喰いモノにされる日本 MI6、CIAの厳秘インテリジェンス』講談社の中から一部を抜粋・編集しています)
■韓国の内情に深く食い込む米英
筆者が国内外で何度も話を聞いたMI6の元スパイは、インテリジェンス分野における日本とのつながりをこんなふうに見ている。
「MI6からすれば、今、日本と反目する理由はない。ただ全面的に協力する理由もない」
日英両国の間には、軍事面で物品を提供したり、外国での緊急事態における自国民等の保護に協力してくれるなど、日英物品役務相互提供協定(日英ACSA)という協定があり、準同盟国という位置付けになっている。
にもかかわらず、元スパイは「諜報機関の協力関係」という話には首を傾げた。
「繰り返しになるが、こちら側が日本に渡す、または共有するような情報は、もっとも重要度の低いものに過ぎない。薄い情報だと考えていい」と言う。
「CIAなどもまさにそうだろうが、いろいろな重要情報を日本の情報当局と共有しているというのはあり得ない。北朝鮮、韓国、ロシア、中国、こうした国で起きていることを、CIAはほとんどすべて把握していると言える。それらを日本と情報共有するのは考えられないし、していないだろう」
事実、以前に公安調査庁の元職員から「CIAからもたらされる情報は、使えないと思えるものも多い」というぼやきのような声を聞いたことがあるが、この感覚は正しいということだろう。重要な情報は共有してくれないのである。
MI6の元スパイが続ける。
「朝鮮半島情勢で言えば、日本には韓国(韓国民団)や北朝鮮(朝鮮総連)の団体などがあり、そこから情報を集め、それなりのインテリジェンスを持っているはずだ。だがそれについても、MI6やCIAはそれほど不可欠な情報とみなしていない。CIAなら、韓国には米軍基地があり、数万人規模の兵士がいる。いや、それどころか、実際には言われているよりも多くの兵士や米政府関係者が韓国内にいて情報を摑んでいる。北朝鮮と中国、ロシアが近くにいるのだから当然だ。そんな彼らが、韓国で何が起きているのか、いないのかを独自に把握していないとは考えられない。すべて自分たちで集めている。なんなら、韓国の内政にも工作すらしている可能性がある。
MI6にしても然り。2016年に北朝鮮の元駐英公使が韓国に亡命しているが、もちろんそうした動きも、MI6が周到に関わっていないはずがない。北朝鮮なら、北朝鮮の国外にいる北朝鮮の政府幹部をスパイにする工作も行っている」
■たしかに存在する協力者
MI6は2014年までに、南アフリカで、北朝鮮の核開発に関与する北朝鮮高官に接触し、スパイにすべく何度か交渉をしていたこともある。協力の対価として金銭を払うことやMI6と秘密裏に接触できる極秘の連絡先などを交換していたという。そしてこの高官が南アフリカに立ち寄る際に、現地の諜報機関である南アフリカ秘密局(SASS)に協力を要請していた。この人物が南アフリカに来る際の監視や、交渉を行う安全な場所の提供をMI6は求めていたのである。この工作がうまく行ったかどうかは不明だが、こうした工作はMI6が独自に行っている。
また、最近になって米政府はCIAを中心に北朝鮮の金正恩政権と核開発問題で直接交渉を行っていたが、そうした動きも日本が関与する余地はなかったという。日本が彼らから受ける協力は、推して知るべしということだろう。
もちろん、日本の情報機関関係者の中にも、海外の諜報機関の諜報員と親しくしている人もいると聞く。ただそれと情報共有は別レベルの問題で、時には、そうした関係性から逆に情報操作されてしまったり、あげく、相手の利害に沿ってうまく利用されてしまうリスクもある。そうした国外諜報機関からの情報で動き、逆に外交問題などで混乱を起こしてしまうケースも散見されると聞く。
現在の日本はイギリスとの関係で、とくに差し迫った懸案はない。とはいえ、日本側から見ると、イギリスのEU離脱問題は関心事であり、日本企業が影響を被ることもあって日本経済に重要な影響を及ぼす。日本は情報機関や大使館勤務の関係者がその動向を追っているはずだが、逆に最近、MI6側の諜報機関関係者が日本で任務に当たっているということはあるのだろうか。
「もちろん。すべての国で、MI6はいろいろな現地の協力者(インプラント)がいる。日本にももちろんロジスティックス(支援)などを担当する人などを含めた関係者はいる。私が勤務していたころにもいたのは知っているし、今もいる」
元スパイは続ける。
「イギリスは、インテリジェンス活動という意味でアメリカやロシアと競合しており、これらの国ではMI6が抱えるインプラントやモール(スパイ)の数は数百人規模になる。MI6が利害を鑑みて、重点的に注意をはらっている国だからだ。さまざまな立場で協力をしているために、それくらいの規模になるのは当然。それぞれの国には、私たちスパイが現地入りした際に旅行をアレンジしたり、車を手配したり、運転をする協力者たちもいる。ところが、こういう人たちは自分がMI6に協力している自覚すらない場合も多い。日本の場合も同じだ。
現時点では日本とイギリスは非常に関係の良い友人同士といったところだ。大きなトラブルを両国間で抱えているなんてこともない。日本にスパイ網を張って、日本を陥れるような情報を得るために厳しくスパイ活動をする必要はないということだ。ただ、何かが両国間で起きた際には、すぐに対応できるためにMI6のスパイが足場は確保しているし、首相から情報を求められた場合に備えて情報は常に集めている」
MI6だけでなく、その他の友好関係にある国々のスパイたちも、日本が誇る自動車産業の拠点の周辺では活動を展開している。諜報機関は、世界に影響を与える人や企業の動向には目を光らせているものだ。
■ゼロトラスト(けっして信用しない)
この元スパイのくわしい経歴は明かすことはできない。だが長年MI6に所属し、世界各地でスパイ工作に従事してきた人物であることは間違いない。すでに退職しているが、MI6で働いていた職歴は完全に抹消され、その空白期間は一般企業で働いていたことになっている。その「偽」の経歴は、MI6が退職に伴って用意したものである。
筆者も、アメリカやシンガポールに暮らし、長期にわたり南アジアや欧州など各地で取材活動をしてきた経験から、いろいろな要人やスパイたちに接する機会があった。
そんな活動のなかで知り合うことになったこの元スパイは、何度かの交渉の末に、MI6について、筆者の取材に応じてくれることになった。
この人物は、キャリアの中で何度か日本を訪問し、日本の情報機関関係者とやりとりを繰り返した経験もあるという。そんな彼の目には、日本とMI6の関係はどう映っているのか。
「今から何年も前に私が現役だったころ、諜報活動を指揮するエージェントはいた。日本に永住しているイギリス人がエージェントをしていることもある。当時、日本のインプラントは20人もいなかったと思う。いろいろな省庁、情報機関の当局、政府関連機関や民間などに協力者や情報提供者はいた。ただ単に食事をするだけの民間企業の関係者なども、もちろんこちらの本当の顔を知らずに関わっているし、ロジスティックスで協力している人たちももちろんいる。たとえば、電話など通信手段の安全を確保する人たちもいる。企業のサービスを利用すれば、こちらの個人情報をそこまで伝えなくてもいいので、そういう企業もいくつか確保している」
MI6では、プロジェクトの指揮をとるエージェント、その下にエージェントをサポートするスタッフが数多くおり、世界中でイギリスのために諜報活動を行っているのである。末端には、MI6の仕事をしていることを知らない人も多いらしい。
MI6は組織の文化として、こうしたミッションにおいて現地で関与する人たちのことすらも、まったく信用しないよう叩き込まれているという。
「まず私たちは映画のように作戦を『ミッション』と呼んだりはしない。『フィールドワーク』と呼んでいる。『モスクワのフィールドワーク』に行く、といった具合だ。
外国の現場では信用がすべてで、自分たちの協力者であってもまったく信用はしない。私たちの中では信用度に4段階のレベルがあり、日本での作戦の際には、足がつかない通信デバイスを確保する企業を雇っても、彼らとは最も信用度の低いレベル4の関係から始まる。
インプラントなども同じレベルで、つまりいっさい信用していないということだ。相手は私がただの顧客ということ以外、何も知らない。でもレベル3になれば、もう少し情報を与えられ、こちらの要望も少し高くなる。レベル1ともなれば、必要があればコミットメント(覚悟を持たせる)の意味でも、こちらがイギリスの政府のために働いていることを伝える場合もある。MI6とは明かさなくとも、相手が気づいている場合もあったと思う。とはいえ、日本のインテリジェンス関係者は、そこまで判断できる情報がないので、政府機関と言ってもまさかこちらがMI6だと思うようなことはないだろうと思っていた。
MI6は外国人にレベル1の信用を与えることはない。レベル1のクリアランス(機密情報にアクセスできる権限)は、外国人には与えられないので、どれだけ頑張ってもレベル2だ。つまり、システム的にも、限られた情報しか外国人には提供しないし、できないことになっている」
MI6の任務においては、このゼロトラスト・モデルがになっているようだ。MI6という機関の実態については、後章でもさらに深く探りたい。
山田 敏弘
国際ジャーナリスト。1974年生まれ。米ネヴァダ大学ジャーナリズム学部卒業。講談社、英ロイター通信社、『ニューズウィーク』などで活躍。その後、米マサチューセッツ工科大学でフルブライト・フェローとして国際情勢とサイバーセキュリティの研究・取材活動にあたり、帰国後はジャーナリストとして活躍。世界のスパイ100人に取材してきた。著書に『モンスター 暗躍する次のアルカイダ』(中央公論新社)、『ゼロデイ 米中露サイバー戦争が世界を破壊する』(文藝春秋)、『CIAスパイ養成官 キヨ・ヤマダの対日工作』(新潮社)翻訳書に『黒いワールドカップ』(講談社)などがある。
※ブログ主コメント・・・情報機関と秘密結社は組織の性格がよく似ている。実際重複しているのだろう。
・30年以上アメリカのために働いたキヨ・ヤマダの人生 CIAスパイ養成官だった日本女性─その「消された」経歴を追う(COURRiER 2019年8月24日)
8月21日に発売された山田敏弘著、『CIAスパイ養成官 キヨ・ヤマダの対日工作』(新潮社)からの抜粋をまとめたものです。
※アーリントン国立墓地に埋葬された日本人女性がいる。2010年に亡くなった彼女の名は、キヨ・ヤマダ。ペンタゴンがよく見える場所に眠る彼女は、生前、CIAで30年以上もスパイに日本語や日本文化を教え、対日工作にも関与したが、その経歴は「消され」ていた。
そんな彼女の知られざる人生をジャーナリスト山田敏弘氏が追った。著作『CIAスパイ養成官 キヨ・ヤマダの対日工作』(新潮社)より、一部抜粋してお届けする。
2015年8月、米バージニア州アーリントンは抜けるような青空が広がっていた。
筆者は首都ワシントンDCで、前日まで開催されていたシンクタンクの会議を終え、あとは当時暮らしていたマサチューセッツ州ボストンへ戻るだけだった。だが、帰途に就くまえに、以前からどうしても気になっていた場所に立ち寄ることにした。
DCのすぐ西側にある、アーリントン国立墓地である。
朝9時になったばかりだというのに、墓地の案内所となっているウェルカム・センターは人でごった返していた。ガイドブックを手にした人たちや、ツアーガイドの説明に熱心に耳を傾けている集団もいた。
アーリントン国立墓地は、米陸軍省が管理している。墓地のすぐ南東には、最高軍事行政機関である米国防総省、通称ペンタゴンがある。
肩書きは「妻」
アーリントン国立墓地を訪問してみたいと思ったのは、知人女性との雑談がきっかけだった。2001年から夫の留学のために五年間、DC近郊で暮らしていたというこの知人は、その当時に「興味深い女性」と知り合ったと話した。在米の日本人主婦が、友人だけを集めて開いた、小規模なホームパーティでのことだったという。
知人が直接聞いた話によれば、その「興味深い女性」の名前は、キヨ・ヤマダという。日本で生まれ育ったキヨは、戦後しばらくして渡米し、アメリカ人と結婚。そのあと、アメリカの諜報機関であるCIA(中央情報局)に入局し、スパイに日本語や日本文化を教えていた――。
初めて知人からこの話を聞いた2014年の時点で、キヨ・ヤマダはすでに他界し、アーリントン国立墓地に埋葬されている、とのことだった。しかもキヨの希望で、墓地のなかでも、もっともペンタゴンの建物がよく見える場所に墓が設けられたというのだ。
そこで、DCへの出張に合わせて、ちょっとした観光気分で、初めてアーリントンを訪れたのだった。
「70区画54番」
これが、彼女の墓の番号だった。
その墓は、最南東の区画に位置し、区画内でもさらに一番端っこにひっそりと建っていた。墓の前で、墓石にある名前を確認するためにしゃがみ込んだ。間違いない。そして立ち上がり、ふと顔を上げた。するとそこには、五階建の白い壁が印象的な、ペンタゴンの建物がはっきりと見えた。
その墓石の正面を見ると、男性の名前が確認できた。「チャールズ・S・スティーブンソン」。キヨの夫だろう。名前の下には、「中佐」「米空軍」という彼の所属と肩書き、さらに「第二次大戦」「朝鮮戦争」「ベトナム戦争」という戦歴が並び、そして一番下に、1922年5月15日生、2006年2月11日没と彫られている。アーリントン国立墓地の墓石には、アメリカのために貢献した政治家や軍人、職員などの死者の、地位や戦歴といった肩書きがこのように彫られているのが普通である。
墓石の反対側に移動し、裏面を確認すると、面食らった。
そこには「キヨ・ヤマダ」という彼女の名前と、その下にこう彫られていたからだ。
「妻」
「1922年9月29日
2010年12月27日(没)」
CIAどころか、政府職員などといった肩書きすら、そこには見当たらなかった。
女性としての葛藤
彼女のことを知る多くの関係者たちに話を聞いて歩くことで、アメリカのために働き、その経歴を「消された」日本人、キヨ・ヤマダを探す旅を始めた。
何人かのCIA関係者たちからは、守秘義務を理由に、取材を拒否された。キヨの知人たちは高齢になっており、すでに亡くなっていた人も多かった。認知症が悪化して日常生活ができなくなり、話を聞く前に施設に入ってしまった知人もいれば、取材の前に交通事故に巻き込まれて死亡した親友もいた。
それでもキヨの人生に触れた、たくさんの関係者から証言をえることができた。
キヨは世界を大きく変えるような目に見える変革や発明をもたらしたわけではない。前人未到の領域に到達し、派手に歴史を塗り替えた偉人でもない。しかし、30年以上もの間、日本の歴史の裏舞台で暗躍してきたスパイを養成し、引退時にはCIAから栄誉あるメダルを授与され、表彰を受けるほどの評価と実績を残していた。そしてその事実は、私たちの見ている世界からは見えないところに封印されている。
キヨ・ヤマダの人生を紐解いていくと、戦前から戦後にかけて生まれ育ち、日本人女性としての「殻」を破ろうと、生き方を模索する女性の姿が浮き彫りになって見えてくる。それだけではない。現代にも通じるような苦悩に満ちた女性の葛藤がそこにはあった。
CIAの活動
CIAは、戦後からソビエトとの冷戦、対共産主義工作、貿易摩擦、対テロ戦争と、世界中で暗躍するようになる。その存在はよく知られていても、活動は国家機密であり、公式には表に出てこない。とはいえ、これまで元局員や関係者、ジャーナリスト、歴史家らが掘り起こしてきた情報から、CIAの活動は色々な形で暴露されてきた。
政権を転覆させたり、クーデターを後押ししたこともあれば、国家指導者などの暗殺を企てたこともある。
日本でも、政界工作やロッキード事件、貿易摩擦でのスパイ工作などへの関与が指摘されている。そうした日本での工作に、キヨが関与していたのである。
山田敏弘 1974年生まれ。国際ジャーナリスト、『ゼロデイ 米中露サイバー戦争が世界を破壊する』(文藝春秋)など著書・訳書多数。新刊『CIAスパイ養成官 キヨ・ヤマダの対日工作』(新潮社)が8月21日に出版。
・CIAスパイ養成官キヨ・ヤマダ、日本企業に今も残る「教え子」たちの影響力(DIAMOND online 2019年9月5日)
窪田順生:ノンフィクションライター
※政界はもちろん、大企業やマスコミ、世論に影響を与える有名人に、それと知られずに近づき、意のままに操るCIA工作員。しかも、その工作員たちの「先生」は大正生まれの日本人女性だった。最近明らかになった、驚くべき真実とはーー。

(上)キヨ・ヤマダ
日本の大企業やマスコミ、政界などで今なお広く活動しているCIAのスパイたち。その先生は、なんと大正生まれの日本人女性だった。
あなたの隣にもいる!?CIAの協力者の実態
ある全国紙で活躍する記者が大怪我を負って入院した。と、ほどなくしてきちんとした身なりの外国人が病室にお見舞いにやってきて、こんなことを言う。
「私はアメリカ大使館の政治担当オフィサーをしている者です。いつもあなたの記事を読ませていただき勉強させてもらっています。入院をしたと聞いて、いてもたってもいられなくなりお見舞いに伺いました」
その後も足繁く通い、雑誌や食べ物などを差し入れてくるこの「親切な外国人」に、記者は徐々に心を開き、いつしか治療費などがかさんで今月ピンチだ、なんてグチまでこぼせるような間柄となっていた。
そんなある日、米大使館員を名乗るこの男は、「お力になれるかもしれません」なんて感じで記者に「援助」を申し出てきた。気がつけば、この記者は取材活動の中で得られる日本政府や日本企業の情報を男に提供して、男が望むような記事を書く「協力者」となり、その関係はこの記者が「論説委員」になるまで続いたというーー。
これは、ジャーナリストの山田敏弘氏が、日本で活動していた元CIA諜報員にインタビューして聞き出した「実際にあったエピソード」である。
「CIA」といえば、多くの日本人は映画のように派手なアクションを繰り広げるスパイをイメージするが、実はその国の政治家、役人、大企業の社員、そして世論に影響を与えるマスコミや有名人などに接近して、知らぬ前に「協力者」(エージェント)へと仕立てあげ、情報収集や工作活動に利用する、というのが彼らの主な仕事である。
つまり、あなたのデスクの隣にいる人や、テレビに出ているあの有名人も、本人にその自覚のないまま、CIAの「協力者」になっているという可能性もゼロではないのだ。
と言うと、「そんな落合信彦のスパイ小説じゃあるまいし」「中国相手ならわかるが、同盟国で、子分のように尻尾をふる日本にわざわざそんな面倒な工作活動なんてしないだろ」とシラける方も多いかもしれないが、それは大きな間違いだ。
我々が想像している以上に、アメリカは日本へスパイを送り込んでおり、ゴリゴリの工作活動に励んでいるのだ。その動かぬ証拠とも言うべき人物が、2010年に88歳で他界したキヨ・ヤマダこと、山田清さんである。
日本の大企業の中に大勢いる「CIAの協力者」
大正11年、東京・深川の肥料問屋の家庭に生まれた山田さんは、東京女子大学の英語専攻学部を卒業して英語教師となった。終戦後に渡米してミシガン大学大学院で教育関係の修士号を取得。米空軍の爆弾処理の専門家と結婚してキヨ・ヤマダ・スティーブンソンとなり、20年ほど家庭で夫を支えていたが、46歳の時にCIAの「日本語講師」の募集に応募して見事合格した。
そこから2000年、77歳で現役引退するまで、日本へ送り込まれるCIA諜報員に日本語や日本文化を教え続け、時には裏方として彼らの工作活動も支えたキヨ・ヤマダは、ラングレー(CIA本部)から表彰もされた「バリキャリ女子」の元祖のような御仁なのだ。
ちなみに、冒頭のエピソードを明かした元CIA諜報員もキヨ・ヤマダの「教え子」の1人で、実はこの工作活動にも、彼女は裏方として関わっていたという。
そんなスゴい日本人女性がいたなんてちっとも知らなかったと驚くだろう。それもそのはずで、アーリントン国立墓地にあるキヨ・ヤマダの墓標には「妻」としか刻まれておらず、CIAで働いていたこともごく一部の友人に明かしていただけで公にされていない。前出のジャーナリスト・山田氏がアメリカでCIA関係者や友人たちへ取材を繰り返すことで最近になってようやく、彼女が実は何者で、何をしていたのかがわかってきたのである。
そのあたりは是非とも『CIAスパイ養成官 キヨ・ヤマダの対日工作』(新潮社)をお読みいただきたいが、その中でも特に興味深いのが、キヨ・ヤマダと、その教え子たちが行っていた工作活動だろう。
同書には「キヨはもともと政府系だった企業などにも人脈を持っており、諜報員や協力者などの情報提供や、就職斡旋にも関与していた」と述べられており、以下のような証言もある。
「日本企業などに太いパイプを持っていた有力な日本人たちを介して、CIAに協力していた日本人スパイを、大手企業に送り込んでいた」
戦後の日本でCIAがこのような活動を延々と続けてきたということは、現在の日本の大企業の中には、キヨ・ヤマダの教え子たちに意のままに操られている「協力者」が山ほど潜んでいる可能性が高いということだ。
彼らは自分がCIAの手先になっているという自覚すらなく、業務で知り得た情報を提供しているかもしれない。あるいは、CIA工作員が投げた「餌」に飛びついて、アメリカが望むようなビジネスをしているかもしれない。
対象が「困っている時」を狙え CIAの人心掌握術
それがあながち荒唐無稽な話ではない、ということは、キヨ・ヤマダという女性の存在が雄弁に物語っている。
一方で、いくらスパイとはいえ、そんなに簡単に人間を操ることなどできるわけがないのではないかと感じる方も多いだろう。実はCIAには、世界のビジネスマンたちも参考にする「人心掌握術」があるのだ。
同書によれば、ポイントは「困っていることを探る」ことだという。といっても、弱みを見つけて脅迫をするのではなく、そこを突破口にして、あくまで自発的に協力をしてくれるように仕向けていくのだ。
サイバー安全保障が専門である著者の山田氏は、冒頭のような新聞記者を籠絡した手口は「情報機関の常套手段」として、最近あったという事例を紹介している。
「しばらく前に、コンピューターに不正アクセスをしてパスワードやクレジットカード番号を盗み出していたハッカーが当局に逮捕された。この人物を協力者にしようと考えた情報機関の関係者は、このハッカーの銀行口座などを調べ、かなりカネに困っていることを察知した。そして、保釈後、ハッカーに接触し、カネを提供するという約束をして、協力者にしてしまった」
困った時に救ってくれた恩人からの頼まれ事は断りにくいというのは、人間ならば当然の感情だ。CIAをはじめとした諜報機関は、そこを巧みについて協力者に仕立て上げるという。
あなたがピンチになった時、すっと手を差し伸べてきたその「優しい外国人」は、もしかしたらキヨ・ヤマダの教え子かもしれないのだ。
・戦後日本にCIAスパイを送り込んだ、日本人女性キヨ・ヤマダの数奇な運命(Newsweek 2019年9月28日)
山田敏弘(国際ジャーナリスト)
※<諜報活動という裏社会に身を投じて居場所を見出したキヨの葛藤は、現代女性にも通じるものがある>
筆者の知人が、アメリカ留学中だった10年ほど前に在米の日本人主婦らが集まった小さなホームパーティーに参加し、そこで「興味深い女性」の話を聞いたという。
その人物の名前は「キヨ・ヤマダ」。戦後間もなく渡米してアメリカ人と結婚した彼女は、その後に世界最強の諜報機関であるCIA(米中央情報局)に入局。スパイに日本語や日本文化を教えていたが、少し前に他界してワシントンのアーリントン国立墓地に眠っているらしい――そんな話だった。
この話を聞いた筆者は、キヨのことがずっと気になっていた。そしてワシントンへの出張の折、アーリントン国立墓地に立ち寄ってみたところ、肩書きに「妻」とだけ書かれたキヨの墓を発見する。そこには彼女が国家のために働いたという形跡は一つもなかった。その後、いろいろな文書などにも当たって調べてみたが、彼女のキャリアは完全に世の中から消されていた。
一体、キヨ・ヤマダとは何者なのか。彼女に対する好奇心が止まらなくなり、彼女の人生を掘り起こす取材を始めた――。
キヨが生まれたのは、1922年(大正11年)9月29日。東京市深川区深川東大工町(現在の江東区白河)に暮らす非常に裕福な家庭に、3人きょうだいの末っ子として生まれた。幼稚園から東京女子高等師範学校(現在の御茶ノ水大学)付属に通うような裕福な家庭に育ちながらも、封建的な社会制度のなかで家庭内の居場所を探し続けた。そんな中で、キヨは英語などの教育専門家となる目標を見据え、海外留学を目指す。日米の間に立ち、架け橋になりたいと考えていたという。
そして戦時中に、東京女子大学や東北大学、東京文理科大学(現在の筑波大学)で学んだ後、湘南白百合学園で英語教師を経験。程なく奨学金を得て、ミシガン大学の大学院で英語教育を学ぶために渡米する。
だが大学院卒業後は、米兵と結婚。アメリカやドイツなど各地を転々とする生活を続け、46歳まで専業主婦として軍人の夫を支えた。ただ彼女の気持ちの中で、キャリアを目指す思いは消えてはいなかった。そしてその年齢で、ふとしたきっかけからCIAに入局することになる。
CIAでは日本に送られる諜報員を養成する言語インストラクターとして働いた。その一方で、日米を頻繁に行き来しながら、工作活動やリクルート活動にも深く関与していた。
日本人であるキヨは、CIAで対日工作を行うことに、罪悪感はなかったのか。新著『CIAスパイ養成官 キヨ・ヤマダの対日工作』(新潮社刊)では、キヨのこんな心情を紹介した。
「キヨは晩年、アイルランド人のアンジェラに、過去のいろいろな話をした。アンジェラによれば、キヨはあるときこんなことを言ったという。『私がCIAに入ってよかったことは、やっとアメリカに受け入れられたと感じることができたことなの』」
戦後の日本を抜け出し、アメリカ暮らしとなった彼女が見つけた安息の地はそこにしかなかったのだろう。そしてCIA退官時にはメダルを得て表彰されるほどの実績を残している。彼女にとってCIAが唯一の輝ける場所だったのかもしれない。
表向きには消されてしまった彼女の人生には、戦後を駆け抜け、アメリカに居場所を見出し、諜報活動という裏社会に身を投じた日本人女性の物語があった。キャリアや結婚に思い悩みながら生き方を模索したキヨの葛藤は、女性がキャリアの様々な局面で障害に直面する今の時代にも通じるものがあるのではないだろうか。
・元CIA局員たちへの取材で炙り出された、日米の諜報活動の実態(Newsweek 2019年9月18日)
※<CIAのスパイを養成していた日本人女性キヨ・ヤマダの人物伝『CIAスパイ養成官――キヨ・ヤマダの対日工作――』(新潮社)を上梓した山田敏弘氏は、これまで各国の諜報機関関係者に取材してきた。山田氏に聞く、日本にもあるというCIAの養成学校の存在と、元CIA局員が指摘する日本のJICAとCIAの類似性とは>
またひとつ、埋もれていた歴史が発掘された。
このほど発売された新著により、戦後、アメリカのCIA(中央情報局)に日本に送りこむスパイを育成していた日本人女性がいたことが分かったのだ。
その女性の名はキヨ・ヤマダ。日本で生まれ育った生粋の日本人で、1954年に渡米し、1969年に46歳でCIAに入局。日本語インストラクターとしてCIA諜報員に日本語や日本文化を教えていた人物だ。日本のメディア関係者をスパイにするための工作に関わったり、企業にCIAスパイを送り込む工作にも従事していたという。
国際ジャーナリストの山田敏弘氏は、米マサチューセッツ工科大学(MIT)に安全保障問題の研究員として留学中の2015年にキヨ・ヤマダについて取材を始め、今年8月に『CIAスパイ養成官――キヨ・ヤマダの対日工作――』(新潮社)を上梓した。
そこに記されているのは、1922年に東京で生まれたキヨが戦後、日本を捨てるようにしてアメリカに移り住み、CIA局員として対日工作に関わりながら2010年12月27日に88歳で他界するまでの波乱に満ちた人生だ。
山田氏はこれまでにも、CIAだけでなくイギリスやイスラエル、インドやパキスタンなど世界の諜報機関の取材を続けてきた。今回もCIAが極秘扱いにしていたキヨの身分や任務を炙り出す過程で、複数の元CIA局員から直接話を聞いたという。
取材を通して見えてきたキヨ・ヤマダという元CIA局員の姿と、現在の日米の諜報活動の実態について聞いた。
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――キヨ・ヤマダはどのような経緯でCIAに入ったのか。
キヨは戦後3年間、神奈川県藤沢市にあった湘南白百合学園で英語の臨時講師を数年務めていたが、もともと家族との関係が悪かったことと、戦前から西洋文化への憧れがあったことからフルブライト奨学生制度に応募し、合格してアメリカに留学した。
だが念願叶ってアメリカに渡ったものの、「敗戦国」から来た彼女が米空軍に勤務するアメリカ人男性と結婚して家庭に入り、夫の仕事で基地を転々とする生活が続けていくうちに自分を見失う。それでも日本で教師として培ったものを生かしてCIAに入り、アメリカに自分の居場所を探しながら生きていく。
――彼女は日本で生まれ育ってからアメリカに渡り、CIAで働くことを決めた。そこに、「母国」を裏切っている、というような気持ちはなかったのだろうか。
おそらく一つ大きいのは、CIAで働くことに決めたときには日本にもう家族がいなかったということ。あと自分の取材から見えてきたのは、「日本」を過去のものとして、アメリカに渡った、というイメージだ。
実際に、母親が亡くなったという報告が来ても日本に戻らなかったし、家業を継いでくれと言われても戻らなかった。そのままアメリカで生活していくなかでだんだん自分もアメリカ人になっていくのだが、それでも自分の居場所はぐらついたままだった。
アメリカに住んだことがある人なら誰しも分かると思うが、外国人がアメリカに住むと、自分がメインストリームには入れないという疎外感がある。だから同じ人種の人たちでコミュニティーを作り、かたまりやすくなる。長く住んでいる人でもそうだ。キヨも、いつまでたっても自分の居場所がないと感じていたのではないか。
本来なら夫が自分にとって一番身近な存在であるはずだが、キヨはアメリカ人の夫が黒人を差別する姿などを目の当たりにしてきた。アメリカ人も、もともとはみな移民なので、自分たちの立場を守ろうとするあまり排他的になってしまうところがあったりするのかもしれない。そんななか、CIAのような国家の中枢機関で国策に貢献できる仕事をすることで、キヨはアメリカに自分の居場所を見つけていく。
本にも書いたが、キヨは晩年、自分の身の回りの世話をしてくれていたアイルランド人のアンジェラという女性にこう語っている。「私がCIAに入ってよかったことは、やっとアメリカに受け入れられたと感じることができたことなの」、と。
おそらくキヨは、CIAで働くことでやっと居場所を見つけた。だから自分がしてきたことに誇りに思っていたし、晩年になって、自分がCIAで働いていたことを周囲に打ち明け始めたのだろう。
――取材を始めるに当たって、キヨ・ヤマダという人物に興味があったのか、CIAに興味があったのか。
そもそも諜報機関に対する興味が長年あって、ずっと取材をしてきている。イギリスやイスラエルなど、現役の諜報員は難しいが、以前働いていた人などは機会があれば取材をしてきた。今は中国の諜報力がすごいという人もいるが、CIAは予算も人員も影響力も歴史も含めて大きな組織だ。特にCIAに関心を持っていたなかで、日本人でCIAに関わっていた人がいると知人から聞き、それは面白いと思った。
CIA局員は仕事柄、自分の身分も任務も周囲に明かすことはないが、キヨが日本語インストラクターをしていた当時の教え子、つまり対日工作にかかわった元スパイに話を聞けるかもしれないとなり、これはぜひ本にしたい、と思った。
――CIAという組織とその任務は、今も拡大しているのか。
実際のところの細かい人員数や予算は、機密情報なので分からないようになっている。ただおそらく、人材の質は変わっていたとしても、規模は変わっていないのではないか。いま諜報活動は過渡期にあって、デジタル化が進み、ハッキングなどが非常に重要になっている。
昔は人を尾行していたが、今はその必要もない。かつてはウォーターゲート事件じゃないが、ビルに入り込んで情報を盗むということをやっていたが、今はその必要もない。
例えば、イスラエルのネタニヤフ首相は昨年、イランが核兵器を開発していると言ってイスラエルの国防省で会見を行った。その証拠がこんなにあると、イランから盗んできたという資料を大量に提示した。たぶん盗んだものをヘリにでも乗せて逃げて来たのだろうが、今はその必要がない。
物理的に持ち出して、逃げてくるのは大変だしリスクが伴う。いかにデジタル化して盗むことができるか、という技術力のほうが今は重要になっている。スパイ活動も変わりつつある。
――CIAはハッカーを養成しているのか。
CIA専門のハッカーはいる。ハッカーなどを扱っていた元CIA幹部を知っているが、局員以外でも協力者や契約職員としてハッカーを囲っている。アメリカにはNSA(国家安全保障局)があるので、そこには米国でトップの数学者やハッカーたちが揃っている。
NSAは軍寄りなのでCIAとはあまり仲が良くないと言われるが、作戦になると一緒に活動する。例えばアフガニスタンにドローンを飛ばす指揮はCIAがとるが、どこに敵がいるかをハッキングや盗聴などで調べるのはNSAなどの組織だ。
――日本にCIA工作員はどれくらいいるのか。
分からない。だが1つだけ言えるのは、日本からも欲しい情報はあるということだ。日本の中枢にいるような人たちで、日本版の国家安全保障会議(NSC)とか、内閣情報調査室とか、ああいう情報関係の人たちはCIAとつながっているだろう。これらで働く人たちは、部下たちからすぐに情報を集められる。
情報の世界は絶対にギブ・アンド・テイクなので、ギブだけというのはあり得ない。テイクしないといけないので、おそらく日米もある程度はギブ・アンド・テイクでやっている。当然、提供できない情報はあるだろうが、日米間で「協力」というのは常にやっていると思う。
日本の場合はアメリカから情報を盗まれても致命的になるほどではないのではないか。ただ、それが経済問題や民間企業の場合は、知的財産などが盗まれることになる。例えば名古屋にもCIAの協力者が実際にいたと聞いている。
――山田さんはこれまで諜報関係者に数多く取材をしてきているが、彼らはなぜ取材に応じてくれるのか。彼らにとって、取材に応じることによる「テイク」は何か。
彼らが今やっている仕事にプラスになると考えているのではないか。CIAを辞めた後に民間企業に入る人はとても多い。コンサルタントのようなことをしていたり。
そういう人たちが、(記者である自分と)繋がっていたほうがいいと思うからしゃべってくれるパターンはあるだろう。もしくは、こういう話があると伝えると、ここまでだったら話してもいいと、自分との関係性の上で話してくれる人もいる。
だが今回の取材で一番大きかったのは、答えてくれた人たちがキヨのことを尊敬していた、ということだろう。キヨの人生がこういう形で、歴史には記録されないまま終わっていくということを、自分たちも同じ仕事をしているので知っている。
そんななかで、もうキヨは亡くなっているし、彼女がやってきたことを歴史の一部分として、完全に匿名でという条件でなら話してもいいと応じてくれた。彼女が生きたということを遺したいという私の意図に乗ってくれたのだと思う。
――CIAで働いていた日本人はキヨだけではなかったのか。
日本人がいたのかはわからない。日本語を教えていたのはキヨだけではなく、日系人はいた。キヨよりも後の世代の日系人で、取材に応じてくれなかった人もいた。
――著書の中に、CIAを養成する学校が日本にもある、というくだりがある。そこでは何人くらい養成しているのか。
CIA以外にも、いろいろな立場の人が入り混じっていて、何の組織かよくわからなくなっている。それ以上、詳しいことはここでは言えないが(笑)。ちなみに、日本国内の各国大使館に、それぞれの国の諜報職員を紛れ込ませているというのは有名な話だ。
――日本にCIAのような組織はあるのか。
しいて言えば内閣情報調査室だが、内調は基本的には国内のことをメインに扱っているだろう。日本の組織のなかで海外の諜報活動をしているところはほぼないと言っていい。
だが警察関係のなかに、海外に行って動いている人たちはいる。とは言えその人たちも、国外で集めているのは日本人に関する情報だ。そういうことも含めて考えれば、日本にはCIAと同じような組織はないと言える。
おそらくどこの国にもCIAのような、国外で自国の国益になるような情報を拾う、もしくは自国に危険が及ばないように情報を収集する組織はあるのだが、日本にはない。それだと日本を守れないので、日本版CIAを作った方がいいのでは、という話は政府関係者の中でも聞かれる。
ただ、この取材で会った元CIA局員から面白いことを言われた。「日本はJICAってあるでしょう。あれって、ほぼCIAみたいじゃないか」と。「かなり色々な情報を収集して、政府関係者などにもかなり食い込んでいるでしょう」と言うのだ。
世界中にオフィスを持つJICA(国際協力機構)やJETRO(日本貿易振興機構)は各国で莫大な資金を使ったプロジェクトを行っているので、その国の中枢で働く人や省庁の役人たち、もっと言えば大統領などともつながることができる。信頼もされているだろうし、ああいう人たちは全部CIAにできますよね、と冗談っぽく言われた。
CIAも、局員のやっていることの多くはペーパーワークで、あとは現地のスパイたちに情報を集めさせたりしている。集まった情報を局員がまとめて上にあげる。JICAで働く人たちが既にやっているようなことだ。JICAはコバートアクションと呼ばれる秘密作戦や工作はやらないが、情報収集に関しては既に行っている。
彼らはどちらかというと現地寄りなので転換は必要だし、そもそもJICAの職員は途上国支援などといった志があるので情報収集を仕事にはしようとはしないだろうが、彼らの持っている情報網はCIAのような情報活動に近い、というとイメージしやすいかもしれない。
――著書の中で、日本のジャーナリストも実際にCIAにリクルートされたという話が出てくる。今でもそういうことはあるのか。
CIAに限らず、いるでしょうね。名前は言えないが。ただ、例えばイギリスの諜報機関が「協力者」を使う場合、使われているほうは自分が協力者に仕立て上げられていることを知らない場合がある。普通の会社員が、知らない間に諜報工作に手を貸している場合はある。
――山田さん自身は、リクルートされた経験はあるか。
一切ない。誤解されやすいのだが(笑)。