・「金大中拉致事件」に関与した吉田茂が創設した自衛隊「影の部隊」とは?(AERA dot. 2018年8月13日)

※2009年8月18日に死去した韓国の金大中元大統領は、いくつかの謎を残したままこの世を去ったが、その最大のものが、1973(昭和48)年8月に日本で発生した同氏の拉致事件をめぐる謎だ。

たとえば、拉致を実行した当時の韓国中央情報部(KCIA)の犯行計画を、自衛隊が事前に知っていたのではないか?との疑惑が以前から指摘されてきた。なぜなら、そのとき日本に滞在していた金大中氏の所在を突きとめるため、陸上自衛隊の元隊員がKCIAに協力していたという事実があったからだ。

韓国の盧武鉉・前政権が立ち上げた「過去事件真実究明委員会」の調査報告書(07年10月発表)によると、当時、朴正熙独裁政権の最大の政敵であった金大中氏の反政府活動を阻止するため、李厚洛KCIA部長が金氏の拉致を指令。計24人のKCIA要員がその秘密作戦「KT工作計画」に投入されたという。

その頃、金大中氏は亡命先のアメリカと日本とを往復しながら政治活動を行っていたが、KCIAは日本で拉致することを決定。その工作の現場責任者に駐日韓国大使館の1等書記官という“偽装身分”で活動していた金東雲が任命された。

ところが、金東雲の工作チームは、水面下で活動する金大中氏の居所をつかむことができなかった。そこで73年7月、金東雲は旧知の元自衛官に調査を依頼する。当時、東京・飯田橋で民間調査会社「ミリオン資料サービス」を経営していた坪山晃三・元3等陸佐である。

坪山氏はもともと陸上自衛隊の情報部門で、北朝鮮など海外情報も収集する任務に就いていたことがあり、現役時代から金東雲とは面識があった。事件後に明らかになったところによると、坪山氏らミリオン資料サービスの調査員たちは当初、金大中氏が東京での活動拠点としていた東京・高田馬場の「韓国民主制度・統一問題研究所」の事務所などを張り込んだが、警戒する金氏の姿を捉えられず、調査は難航したらしい。

しかし、やがて坪山氏は旧知のジャーナリストが同年8月2日に東京・新橋の「銀座第一ホテル」で金大中氏にインタビューする予定があるという情報を事前に入手し、そこでようやく本人の姿を捕捉することに成功した。つまり、坪山氏の働きにより、KCIAは金大中氏の居所をつかむことができたのである。

それから6日後の8月8日、金大中氏の追尾を続けていた金東雲らKCIA工作チームは、東京・九段下のホテル・グランドパレスで拉致を実行。そのまま金氏を車両で神戸市内の韓国総領事館宿舎に連行し、翌9日早朝、大阪港から偽装貨物船「龍金号」に乗せてひそかに日本を離れた。金氏がソウル市内の自宅前で“解放”されたのは、同13日のことだった。

■金大中事件ではKCIAに“協力”

都心のホテルで白昼堂々、韓国の著名な野党指導者が拉致されるという驚愕の事件に、警察当局はその威信をかけて最高レベルの捜査態勢を敷いた。そしてまもなく、拉致現場から採取された指紋のひとつが、駐日韓国大使館員・金東雲のものであることが判明する。彼がKCIA工作員であることは、警察も当然把握していた。

当の坪山氏からも警察当局に情報提供があり、金東雲が金大中氏を血眼になって捜していたことが明らかになった。韓国政府は否定したものの、KCIAの秘密工作であることは、こうしてきわめて早い段階から露呈することとなったのである。

坪山氏が金大中氏の所在確認にかかわっていたことも、まもなくマスコミの知るところとなり、「元自衛官が事件に関与か?」と仰々しく書きたてられた。坪山氏が自衛隊で情報部隊に所属していたことも、左翼政党らが問題視した。

坪山氏は現役自衛官時代、防諜活動を主任務とする「東部方面調査隊」という情報部隊の「業務班」という情報収集部門を経て、陸上自衛隊の情報部門の総元締である「陸上幕僚監部第2部」(後の調査部)の特殊チームに所属していた。

こうした背景から、「坪山氏の調査会社は自衛隊情報部隊のダミーか?」「自衛隊は拉致計画を事前に知っていたのではないか?」「知っていて手を貸したのでは?」といったさまざまな憶測が飛び交った。

しかし、日本政府は当時、そうした疑惑を一切否定した。坪山氏らミリオン資料サービスの関係者たちもマスコミには完全に沈黙を守り、真相はうやむやとなった。

事件の被害者である金大中氏は98年2月に韓国大統領に就任し、KCIAの過去の工作に関する全資料を入手しうる立場となったが、自衛隊の事件への関与を示す新情報が韓国側から明らかにされることはなかった。

前述した「過去事件真実究明委員会」の報告書にも、そうした記述は一切なかった。

実は09年春、私は75歳になった坪山氏に話を伺う機会があった。冷戦時代の自衛隊情報部門を担ったOBたちに連続インタビューするという軍事専門誌の取材だった。 その際、私はこの事件について、もっとも疑問に思っていた点をぶつけてみた。

「その頃の自衛隊情報部門は、秘密裏に諜報活動をするために民間の事務所を装ったアジトをいくつか持っていたといわれていますが、ミリオン資料サービスもそうしたダミーではなかったのですか?」

仮にその答えが「イエス」なら、左翼政党らが追及してきたように、「陸自の情報部隊がKCIAと連携して動いた」という疑惑がいっきに現実味を帯びてくることになる。

私はじっと坪山氏の言葉を待った。事件発生から36年、坪山氏は当事件のことに関してはずっと沈黙しつづけてきた。しかし、すでにこれだけの年月が過ぎ、もはや真実を隠しておく意味はないのではないか。私は待った。

坪山氏はそのとき、「金大中事件については今も語るつもりはありません」と言いながらも、誤解だけは解いておきたいと思ったのか、慎重に言葉を選びながら、しかし断固たる口調できっぱりと疑惑を否定した。

「自衛隊はまったく関係ありません。金東雲とは自衛官時代からの知り合いですが、仕事は個人的ルートから会社として請けたものです」

調査の内容に関しては、拉致事件が発生するまで、自衛隊時代のかつての上司などにも一切報告していないという。つまり、陸自の情報部門はまったくあずかり知らぬことだったというのだ。

そもそも坪山氏は、KCIAが金大中氏拉致を計画していることなど露ほども知らなかったという。彼はただ「北朝鮮主導で南北を統一するという金大中氏の“高麗連邦”計画を思いとどまらせるため、接触して説得したい」と金東雲から説明され、それを信じて依頼を請けたのだ。

「その後、金東雲が唐突に私に2千万円もの小切手を差し出してきました。さすがに断りましたが、あまりに高い金額に何かキナ臭いものを感じ、それできっぱりと手を引きました。もちろん拉致には一切かかわっていません」

また、坪山氏は金大中氏の所在を捜す際、旧知の警視庁公安部捜査員の協力を得ている。このことも事件後に明らかになっており、一部の左翼系メディアに「警視庁はKCIAの動きを事前に知っていたのでは?」と疑う記事が書かれたこともあった。この点についても坪山氏に尋ねてみたが、「彼は私とは古い“呑み仲間”で、友人として頼まれてくれただけ。公安部にもとくには報告などしていないと思いますよ」とのことだった。

ところで、私は同じく09年春、やはり自衛隊の情報部門の元幹部である塚本勝一・元陸将に話を聞く機会があった。金大中事件直前まで陸幕2部長を務めていた人物である。


■“自衛隊暗躍説”はなぜ広まったのか?

初代の駐韓防衛駐在官を務めるなど、“韓国通”として知られる塚本氏も当時、共産党機関紙「赤旗」などで、あたかも事件に関与していたがごとく書かれたことがある。とくに坪山氏のミリオン資料サービスについて、「塚本2部長が部下の坪山3佐に作らせた」と指摘されたが、これについては塚本氏も坪山氏も強く否定する。

「まったく無関係。事実無根のことを書かれてたいへん迷惑している」(塚本元陸幕2部長)

たしかに、同社は現在に至るも東京都内に存続しており、老舗の信用調査会社として営業を続けている。代表の坪山氏は東京都調査業協会副会長まで務めたことがある。実体のないダミー会社などではないことは、こうしたことからも裏づけられる。

おそらくは金大中事件当時、たまたま坪山氏が自衛隊情報部門を辞職したばかりだったということで、いわば“神話”がひとり歩きしてしまったということなのだろう。

しかし、こうした“自衛隊暗躍説”が広まってしまった責任の一端は、まぎれもなく当時の防衛庁・自衛隊にもある。

坪山氏が退官まで所属していた陸幕2部内の“特殊チーム”の存在を、当時の防衛庁当局がひた隠しにしたからだ。なにかを秘匿しているということ自体が、メディアや野党の猜疑心を呼び、実態以上のことまで疑惑を広げる結果になったことは否めない。

坪山氏が所属していたその“特殊チーム”は、自衛隊の正規の編成表にも載っていない非公然機関で、正式名称を「陸幕2部情報1班特別勤務班」といった。略して「特勤班」、または通称で「別班」とも呼ばれた。情報1班は広く国内外の情報を集約・分析する部署で、それ自体は秘匿された部署ではない。だが、そこに「別班」なる秘匿チームが存在することは、陸幕内でもほとんど知られていなかった。

坪山氏がその謎の組織「陸幕2部別班」のOBだったということが初めてメディアに書かれたのは、金大中氏拉致事件発生からほぼ2カ月後の73年10月のこと。評論家の藤島宇内氏が自衛隊関係者からの伝聞として週刊誌上で発表したのだ。


■非公然機関の成立の陰に日本の“密約”があった

金大中事件に自衛隊の秘密組織「別班」が関与していたのではないか――左翼政党の議員などが中心となって、そうした疑惑が指摘されたが、前述のように政府・防衛庁は隊内の秘密組織の存在そのものについて否定を貫いた。

別班の存在が秘匿された理由は主に二つあった。ひとつはその任務の秘匿性である。

別班は主にヒューミント(人を介した諜報工作)で情報収集する部隊だった。ときに身分を隠し、情報を持っていると思われるさまざまな人物と接触する。まさに公安警察的な隠密活動が必要なセクションだ。

そしてもうひとつの理由は、この部隊が非公式の日米共同機関、しかもアメリカ側が主導する機関だということだった。つまり、日本側の一存では公表できない特別な存在だったのだ。

もちろん、冷戦当時は日本でも左翼陣営がそれなりに発言力を持っており、自衛隊が公安的な部隊を運用しているとか、米軍と合同で情報活動をしているとかいったことが露呈すれば、国会などで追及される懸念が強かった。そうしたことも、防衛庁が別班の存在を頑なに秘匿した理由だった。

だが、こうして国民に隠された“謎の情報機関”の存在は、やがて噂が噂を呼び、“得体の知れない謀略機関”のように語られることとなった。とくに金大中事件の取材を続けた「赤旗」が70年代半ばに別班を「影の軍隊」と呼び、その存在を糾弾しつづけたことで、その虚像はどんどん膨らんでいった。

それでも「陸幕2部別班」の元隊員や関係者たちは沈黙を守った。そのため、その後長らく、この組織の存在そのものが、いわば“昭和史の謎”として残った。

しかし、時代は変わり、もはやその存在を明らかにしても、政府が野党に攻撃されるような懸念も、さらに言えば日本国の安全保障にダメージを与える懸念もまず考えられない状況になった。

ならば、かつて語られた“誤ったイメージ”を払拭し、正しい戦後史を後世の日本国民に残す必要があるのではないか――私のそうした訴えに、何人かの元別班員たちがその重い口を開いてくれた。 そこで語られた自衛隊情報部門の正史は、まさに日米同盟の成り立ちの“空白のピース”を埋めるものだった。なかでも重要なことは、その非公然機関の成立に、知られざる日米の“密約”が存在していたということだった。 その物語は、金大中事件の起きた73年からさらに数十年もさかのぼる“戦後”から始まっていた――。


昭和20年8月の終戦後まもなくから、旧軍の情報将校はアメリカ進駐軍の情報部門と関係をもった。

その中心人物は、元参謀本部2部長(情報部長)の有末精三・元中将で、彼はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の情報部「G-2」(参謀2部)のチャールズ・ウィロビー准将と連携した。

有末元中将のグループは“有末機関”とも通称されたが、その頃は他にも多くの元情報将校が非公式の協力者としてG-2傘下で情報工作活動に従事した。もっとも、有末元中将をはじめ、彼らのほとんどは、いわゆる“右翼”勢力の一翼として反共工作を担ったかたちだった。そんな彼らの何人かは、日本軍の再武装を画策した。

そんななか、1950(昭和25)年6月25日、北朝鮮で金日成の軍隊が38度線を越えて南侵し、朝鮮戦争が始まった。その2週間後の7月8日、GHQのダグラス・マッカーサー司令官は吉田茂首相あての書簡で警察予備隊創設を命令し、7万5千人の武装集団が誕生した。現在の自衛隊である。

警察予備隊はその発足時から、目立たないかたちで情報部門を整備した。もっとも、警察予備隊は当初から旧軍出身者よりも旧内務省出身者が主導しており、それは情報部門も同様だった。草創期の自衛隊情報部門で、その立ち上げに加わっていた元幹部は、懐かしげにこう語る。「初代2部長となった小杉平一さん(後、関東管区警察局長)、2代目2部長の山田正雄さん(後、陸幕長)、それに内局調査課長の後藤田正晴さん(後、警察庁長官・内閣官房長官・法相)などの旧内務官僚たちが中心になって動いていた。

他に旧内務省出身者としては、後に統幕議長となる栗栖弘臣さんも、2部の情報班員として参画していたね。こうした人脈は、やはり旧内務官僚で後に陸幕長となる大森寛さんなどとも連携していた」

このように発足した警察予備隊には、戦後G-2と連携していた“有末機関”系の人脈がほとんど入らなかったため、アメリカ進駐軍はあらためて両国の軍事情報部門を連携させることにした。そこで52(昭和27)年より、警察士長(3佐)・1等警察士(1尉)クラスの中堅幕僚を在日米軍情報機関に出向させ、研修させるようになった。これが後の「別班」の起源である。

同年に警察予備隊が保安隊に改編された後も、この研修制度は続き、こうして日米のインテリジェンス部門の連携は徐々に親密さを増していった。


■元隊員が証言した“密約”の実態とは…

1954(昭和29)年、日米相互防衛援助協定(MSA協定)が締結され、正式に自衛隊が発足したが、その水面下で極東米軍司令官ジョン・ハル大将が吉田茂首相に書簡を出し、ある秘密協定が結ばれた。

元隊員が証言する。

「それは、陸上自衛隊と在日米陸軍が非公式に合同で諜報活動を行うという内容でした。もちろんアメリカ側の意向です。戦後、世界各地に拠点を広げた米軍は、あちこちの同盟国と似たような秘密協定を結んでいたようです」

これは今日に至るまで、戦後長らく秘匿されていた“密約”にほかならなかった。

当時を知る複数の元別班員たちの証言によると、その後、56年頃から、こうした自衛官のインテリジェンス研修が本格化した。米軍側の受け入れは、陸軍第500情報旅団(通称「500部隊」。本部・キャンプ座間)の分遣隊である「FDD」と呼ばれる秘密の情報機関で、その拠点はキャンプ・ドレイク(キャンプ朝霞)であったという。

この研修コースを米軍側は「MIST-FDD」と呼称した。MISTはミリタリー・インテリジェンス・スペシャリスト・トレーニング(軍事情報特別訓練)の略で、陸自側はそれに「武蔵」という秘匿名をつけた。ムサシはミストに語感が似ていることから名付けられたようだ。ちなみに、500部隊の隊長は大佐クラスで、FDDのトップは中佐クラス。歴代のFDD代表には日系人(その一人はスエチカ中佐)もいたという。

なお、その頃には、自衛隊でも旧軍の情報将校出身者が情報部門の中枢を担うようになっていた。とくに3代目2部長となった天野良英氏(後、統幕議長)、4代目2部長の広瀬栄一氏(後、北部方面総監)、5代目2部長となる田中光祐氏、2代目調査学校長となった藤原岩市氏(後、第1師団長。戦時中、南方で活躍した特務機関「F機関」の機関長として知られる)などが情報部門人脈の中心にいた。

さらに、後に東部方面総監部2部長になる上阪(こうさか)賑一氏、7代目陸幕2部長となる栂(とが)博氏、あるいは後に調査学校幹部として三島由紀夫事件(70年に三島が東部方面総監部に籠城し、自衛隊にクーデターを呼びかけた後で割腹自殺した事件)に関与した山本舜勝氏や、コズロフ事件(80年に摘発されたソ連諜報機関による自衛隊スパイ事件)に連座することになる宮永幸久氏なども、この頃から活躍していた。旧軍の情報将校出身で後に陸幕長となる杉田一次氏も、こうした人脈を強力にバックアップしていたという。

いずれにせよ、こうした情報研修はその後も拡大を続け、60年頃に陸幕2部内で「特別勤務班」と呼称するようになった。特別勤務班が日米の非公然の合同工作機関として秘密裏に立ち上げられたのは、61年のことだ。前述したように、タテマエ上は「陸幕2部情報1班特別勤務班」とされたが、実際には陸幕2部長直轄の秘密機関であった。

ちなみに、この特勤班誕生を主導したのは、当時の広瀬栄一・陸幕2部長である。広瀬氏は発足直後の警察予備隊で情報教育部門(調査学校の前身)の立ち上げを主導するなど、旧軍情報将校出身者としてはもっとも早くからこの分野を主導してきた人物である。戦時中は北欧で諜報活動に携わり、陸軍次官秘書官として終戦を迎えたが、終戦時には秘密諜報要員養成機関「陸軍中野学校」の学生・教官グループを束ねたという隠れた逸話も持つ。終戦内閣で下村定陸相の秘書官だったことから、GHQといち早く接触した経歴もあるようだ。

広瀬氏はまた、前出の藤原岩市・元調査学校長や杉田一次・元陸幕長とともに、後に自衛隊における三島由紀夫の後見人的な役割も担ったといわれる。三島の盟友だった前出・山本舜勝氏が晩年に発表した手記には、広瀬氏が「CIAとも関係があった」との記述があるが、その真偽は不明だ。

なお、当時を知る元幹部によると、こうした特殊な機関の創設については、陸幕や内局の上層部も報告を受けていた可能性がきわめて高いという。別班については長らく「防衛庁長官も事務次官も陸幕長も知らない秘密機関」「歴代の陸幕2部長だけが把握している」と噂されてきたが、俗説に過ぎなかったようだ。

その後、「武蔵」という秘匿名は65年に廃止され、以後、特勤班もしくは別班とのみ通称されるようになった。前述したように、発足当初は陸幕2部長が直轄していたが、その後、2部内に連絡幕僚が置かれ、さらにその後は情報1班長が連絡を担当するようになった。

ちなみに、初代の連絡幕僚は前出の山本舜勝氏で、初代の別班連絡兼任情報1班長は前出の宮永幸久氏だったという。

長らく“伝説の存在”であった陸幕2部別班の詳細が、今回、複数の元隊員の証言によって初めて明らかになった。

それによると、トップに米軍FDD(前出)の指揮官と陸自の別班長が同格で構成する合同司令部が設置され、その下に「工作本部」および日米おのおのの「工作支援部」が置かれていたという。工作本部には概ね三つの工作班が設置されていたようだ。工作班にはそれぞれ3~4人ずつ配置され、工作員は合計で十数人程度。その他に工作支援担当者がいて、別班全体の陣容は20人ほどだった。


■“特任”と呼ばれていたCIAからの工作依頼

活動内容は主に外国情報の収集だった。海外を往来する人から話を聞いたり、そういった人に依頼して外国で情報を集めてきてもらったりした。その内容は米軍と陸幕2部の両方に報告した。各工作班にはそれぞれ大雑把に調査担当エリアを割り振っていたが、それほど厳密なものではなかったようだ。

なお、「赤旗」などでは、「別班は国内左翼勢力の動向も調査していた」と指摘されていたが、今回取材した元別班員たちはみな一様に否定した。時期によって任務に変動があったのかもしれないが、そのあたりは不明である。

別班の活動予算は、当初の米軍での研修時代には約80%を米軍側が負担していたが、非公然機関として正式に発足してからは、日米半額ずつを負担した。米側予算はFDDから、日本側予算は陸幕2部の総括班が支出した。

工作費は多いときでも月額100万円程度だった。協力者への報償費も数千円から、多くて2万円程度であったという。

サラリーマンの平均月収が5万~7万円の時代だから、現在の貨幣価値なら5倍以上にはなるだろうが、それでも公安警察などとは比ぶべくもない小規模なレベルである。「赤旗」などが「多額の資金を使って活動する得体の知れない謀略機関」として報じたのは、かなり誇張されたものだったといえそうだ。

もっとも、それなりの秘密活動に携わったこともある。たとえば、CIAから依頼された工作もときおりあったという。ある元別班員はこう証言する。

「CIAからの工作依頼は別班が直接受けるわけではなく、内局調査課経由で入ってきます。内局はそうした工作を自ら行う場合もありましたが、陸幕2部に委託するケースもよくありました。われわれはそうした案件を“特任工作”と呼んでいました。そういえば、朝鮮総連への工作で内局が失敗し、別班がカバーしたこともありました」

こうしてまったく国民に知られることなく秘密の活動を続けていた別班は、73年に拠点としていた米軍のキャンプ朝霞が日本側に返還されたのにともない、500部隊の本拠地であるキャンプ座間に移転した。そして、ほぼ同じ頃に前述した金大中事件が発生し、「赤旗」などに大々的に書かれたため、規模を大幅に縮小したうえ、当時、東京・六本木の防衛庁にあった陸幕地下に移動したという。

その後、別班がどのような道をたどったかは定かでない。しかし、同じ六本木の米軍赤坂プレスセンター(通称「ハーディ・バラックス」)には、500部隊の連絡分遣隊が入っており、そこに現職の自衛官が出入りしていた形跡がある。ハーディ・バラックスの500部隊関連部署に再就職した別班OBもいる。

陸幕2部はその後、陸幕調査部と名称を変え、現在はさらに陸幕運用支援・情報部情報課に改編されているが、かつての別班に該当する部署が廃止されたという話は、いまだ聞かない。

最後に、自衛隊の秘密機関「陸幕2部別班」のカウンターパートであった米陸軍情報部隊の知られざる戦後史についても少々触れておきたい。

米陸軍の500部隊は戦後まもなくから日本に進駐し、主にヒューミントや公刊情報収集・分析(専門用語で「オシント」という)を行ってきた。オシントの分野では、旧軍参謀本部で第2部第7課(中国課)支那班長を務めていた山崎重三郎という人物を中心に、旧軍の情報将校を数十名雇用して情報分析にあたらせてきた。

この部署は「太平洋文書センター」など、そのときどきで名称を変えてきたが、関係者のあいだでは「500部隊の図書部」と通称されてきた部署で、現在も「アジア研究分遣隊」としてキャンプ座間内に実在している。現在の日本人スタッフのほとんども元自衛官だ。

500部隊図書部については、かつて共産党などが「米軍内に旧日本軍将校を中心とする山崎機関という秘密スパイ組織がある」と問題視し、国会で追及したことなどもあったが、関係者に取材するとそういうことではなく、やはり純粋な資料分析チームだったようである。ちなみに、この図書部と陸幕2部別班に直接の関係はない。


■詳細がいまだ不明な「秘密のダミー事務所」

500部隊のヒューミントとしては、陸幕2部別班のほかに、陸幕2部との直接的なコンタクトや、さらには公安警察や内閣調査室(現・内閣情報調査室)、公安調査庁とのコンタクトもあった。ヒューミント活動の拠点は、キャンプ座間やキャンプ朝霞、前出の六本木ハーディ・バラックスのほか、横浜ノースドックにもあった。

また、今回話を伺うことができた元別班員によると、「500部隊はいくつか秘密のダミー事務所を持っていた。そのひとつに、ネルソンという人物が代表を務める“マキノ事務所”という事務所があった。そのスタッフは陸幕2部や内局調査課にも直接出入りしていた。米側でもCIAの人間などが出入りしていた」という。

この“マキノ事務所”なるダミー事務所については、残念ながら詳細は不明である。

現在、500部隊は本部をハワイに移転させており、キャンプ座間にはその傘下部隊である「第441軍事情報大隊」が配置されている。私はこの第441軍事情報大隊が08年秋に作成した日本人従業員募集要項を入手したが、それによると、勤務地は六本木ハーディ・バラックスと横浜ノースドックになっている。しかも、仕事内容の筆頭は「日本側カウンターパートとの交渉の補助」となっており、そのカウンターパートとして内閣官房(おそらく内閣情報調査室)、警察庁、外務省、法務省(おそらく公安調査庁)が挙げられている。

つまり、米陸軍情報部隊は現在でも、日本側の公安機関と密接な関係にあるということである。

ともあれ、半世紀にわたって日本の外交を担ってきた自民党が敗北し、日米同盟にも転機が訪れている。民主党はかねてより、冷戦時代の“核密約”について情報を開示する方針を明言しているが、新しい時代の日本の進路を考えるためにも、正しい戦後史・昭和史を検証することが是非こそ必要であろう。

金大中事件に限らず、昭和の未解決事件の背後に日米同盟の秘部がかかわっていたというケースは、まだ他にもありそうに思えてならない。

(軍事ジャーナリスト・黒井文太郎)

※週刊朝日 ムック「真犯人に告ぐ! 未解決事件ファイル」(2010年1月25日発行)より抜粋



・人びとを恐怖させて操ってきた米英支配者は今、ウイルスの幻影を使っている

2021.01.11
 
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202101110000/

※被支配者である大多数の人びとが望まない政策を実現するため、支配者はショックを使うことが少なくない。さらに進んで人びとを恐怖させることも戦術として使われてきた。

第2次世界大戦後、アメリカとイギリスの情報機関がNATO加盟国に秘密部隊を作った。

秘密部隊を生み出したのは大戦中に米英がレジスタンス対策として組織したジェドバラ。1941年6月にドイツ軍は西部戦線に約90万人を残して約300万人をソ連への軍事侵攻、バルバロッサ作戦に投入した。西側は圧倒的に手薄な状態になったのだが、ドイツ軍と戦ったのはレジスタンスだけだった。

ドイツ軍は1942年8月にスターリングラード市内へ突入するのだが、11月になって戦況が一変。ソ連軍の反撃でドイツ軍25万人は完全包囲され、1943年1月に生き残ったドイツの将兵9万1000名はソ連軍に降伏する。それまでアメリカやイギリスはソ連とドイツの戦いを傍観していた。

この展開を見てアメリカとイギリスは慌て、1943年5月にワシントンDCで会談、7月にアメリカ軍とイギリス軍はシチリア島に上陸した。ハスキー計画である。その時に米英軍はコミュニスト対策としてマフィアと手を組んだ。西ヨーロッパでドイツ軍と戦っていたレジスタンスの中にはシャルル・ド・ゴールも含まれていたが、主力はコミュニスト。そのコミュニストに対抗させるため、ジェドバラというゲリラ戦用の組織をアメリカとイギリスの情報機関は編成したのである。ノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月になってからだ。

ジェドバラの人脈は戦後も生き続け、アメリカ国内では軍の特殊部隊やCIAの秘密工作部門で核になる。西ヨーロッパではNATO参加国の内部で秘密部隊を作り、そのネットワークはCCWU(西側連合秘密委員会)、後にCPC(秘密計画委員会)が指揮。その下部組織として1957年に設置されたのがACC(連合軍秘密委員会)だ。その下でNATOの秘密ネットワークが活動してきたのである。

そうした秘密部隊の中で最も有名なイタリアのグラディオは1960年代から80年代にかけ、極左を装って爆弾テロを繰り返し、クーデターも計画した。左翼に対する恐怖心を人びとに植えつけ、安全を求めさせ、左翼勢力を弱体化させると同時に監視システムを強化していった。これが「緊張戦略」だ。

・私的権力、政府機関、ファシスト、カルト集団、そして犯罪組織

2021.03.09

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202103090000/
 
※日本に限らないが、犯罪が強く疑われていても警察、検察、あるいは国税が動かないというケースはある。広告会社、広域暴力団、芸能事務所、警察、マスコミなどが結びついた犯罪システムの存在が指摘されているが、ここにもメスは入らない。

広域暴力団と政府機関との関係も指摘されてきた。そもそも広域暴力団、いわゆるヤクザが出現するのは第2次世界大戦の後である。博徒やテキ屋の集団は存在したが、広域暴力団はなかったのだ。そうした集団が出現する切っ掛けは、1951年に法務総裁を務めていた木村篤太郎の「反共抜刀隊」構想だ。この構想は実現しなかったが、博徒やテキ屋は組織化されている。

この構想が出てきた背景には、1950年6月から始まった朝鮮戦争がある。左翼勢力を押さえ込むための暴力集団を作っておきたかったわけである。1949年の国鉄を舞台とした3つの怪事件で労働組合をはじめとする左翼勢力は大きなダメージを受けたが、弱体化したとはいうものの、十分とは考えていなかったのだろう。

戦争では兵站が重要な意味を持つ。朝鮮戦争を含む東アジアでの軍事作戦で日本は軍事物資補給や整備などの拠点になる。物流が止まることは許されない。

当時の物流は海運が中心。港でストライキが起こることは防がなければならない。そして1952年に創設されたのが「港湾荷役協議会」だ。会長に就任したのは山口組の田岡一雄組長。その後、山口組が神戸港の荷役を管理することになり、東の重要港である横浜港を担当することになったのが藤木企業の藤木幸太郎だ。

溝口敦が書いた『山口組ドキュメント 山口組五代目』にはこんなことが書かれている:「山口組vs一和会抗争には終始警察の影がちらついた。一和会との分裂からして警察の策したものであった。」「竹中正久が射殺された吹田の『GSハイム第二江坂』の所在について、当初大阪府警は寝耳に水、竹中の愛人が住み、竹中が通っているとは、と驚いて見せたが、何のことはない、84年6月には地元吹田署が探知、府警本部に情報をあげていたと、「ヒットマン裁判」で担当の巡査部長が証言した。」

溝口は「山口組最高幹部」の次のような話も紹介している:「関東勢は警察と深いらしいですわ。われわれ、警視庁の17階に何があるか知らしまへんけど、よく行くというてました。月に1回くらいは刑事部長や4課長と会ういうようなこと大っぴらに言いますな。」

竹中は1985年1月に殺されているが、その当時、山口組の内部で路線の対立が生じていたと言われている。警察、あるいは表の権力システムとの関係をどうするかということである。竹中はあくまでも一線を画するという立場だったが、組の中には違う考え方をする人もいたようだ。

世界的に見ると、犯罪組織は表の権力者と結びついていることが珍しくない。アメリカの情報機関はナチスの残党、カルト、そして犯罪組織を手先として利用してきた。

例えば、海軍の情報機関ONI(対諜報部)はユダヤ系ギャングのメイヤー・ランスキーを介してイタリア系犯罪組織のラッキー・ルチアーノに接触、その紹介でシチリア島に君臨していた大ボスのカロージェロ・ビッツィーニと手を組んでいる。アメリカ軍とイギリス軍は1943年7月にシチリア島へ上陸しているが、その準備のためだった。

ドイツ軍は1942年8月にスターリングラードの市内へ突入、ソ連を制圧するかに見えたのだが、11月になるとソ連軍が猛反撃を始める。ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲されてしまった。生き残ったドイツ軍の将兵9万人余りは1943年1月に降伏する。

それを見て慌てたのがイギリスとアメリカ。両国は1943年5月にワシントンDCで会談、7月にシチリア島へ上陸することにしたのだ。この際にマフィアの手を借りたのは、コミュニスト対策だった。西ヨーロッパでドイツ軍と戦っていたのはレジスタンスだけと言える状態で、その主力がコミュニストだったのだ。ハリウッド映画の宣伝で有名なノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月のことだ。

スターリングラードの戦いでドイツ軍が劣勢になると、ドイツのSS(ナチ親衛隊)はアメリカとの単独講和への道を探りはじめ、スイスにいたアレン・ダレスの下へ派遣している。当時、ダレスは戦時情報機関OSSのSIB(秘密情報部)を率いていた。

1944年になるとドイツ陸軍参謀本部第12課(ソ連を担当)の課長を務めていたラインハルト・ゲーレン准将もダレスに接触している。1945年初頭にダレスはSSの高官だったカール・ウルフに隠れ家を提供、北イタリアにおけるドイツ将兵の降伏についての秘密会談も行われた。サンライズ作戦だ。

イギリスとアメリカの情報機関はレジスタンス対策としてジェドバラというゲリラ部隊を編成した。戦争が終わった後、この人脈はアメリカ軍の特殊部隊や情報機関の秘密工作部隊になるが、ヨーロッパでも秘密組織を作り上げた。

1948年頃、その秘密組織を指揮していたのは「西側連合秘密委員会(CCWUまたはWUCC)」。北大西洋条約が締結されてNATOが登場するとその中へ入り込み、1951年からはCPC(秘密計画委員会)というラベルの下で活動するようになった。1957年にはCPCの下部組織としてACC(連合軍秘密委員会)が創設された。NATO加盟国はソ連軍の侵攻に備えるという名目で秘密部隊が編成されたが、そのネットワークを動かしていたのがACCだ。

そうした秘密部隊の中でも特に有名な存在がイタリアのグラディオ。直接的にはイタリアの情報機関が指揮、1960年代から80年代にかけて極左を装って爆弾テロを繰り返し、クーデターも計画していた。

また、議員、政党幹部、労働組合指導者、政府職員、聖職者などを監視、そこにはローマ教皇やイタリアの大統領も含まれ、住居に盗聴器が仕掛けられるケースもあった。1960年代には少なくとも15万7000のファイルが作成されている。

アメリカは各国の軍人や警官を集め、訓練している。検察とも関係は深い。NATOに限らず、配下の国の情報機関をアメリカの情報機関は監視と工作の道具として使っている。

かつて日本には田中角栄という絶大な影響力を持つ政治家がいた。その田中が1976年7月に受託収賄などの容疑で逮捕されている。その前に田中の逮捕を田中本人に警告していたジャーナリストがいた。ごく限られたエリートが購読しているアメリカの定期刊行物を読む機会があり、その情報を知ったのだという。ジャーナリストの話を聞いた田中は、警察も検察も押さえているので大丈夫だと答えたというが、実際は逮捕されている。



・非公然に存在する自衛隊「別班」のスパイ活動は首相もコントロールできない…極秘組織の知られざる成立経緯 伝説の諜報機関・旧陸軍中野学校の遺伝子を継ぐ(PRESIDENT Online 2023年9月9日)

石井 暁 共同通信社編集局編集委員

※TVドラマの影響で注目を集めている自衛隊の非公然スパイ組織「別班」。その取材に5年以上をかけ2013年に「別班は現在も存在し活動している」というスクープ記事を出した共同通信の石井暁さんは「別班は陸上自衛隊の組織図に載っていない。幹部や防衛大臣はもちろん、自衛隊最高指揮官である総理大臣すらどんな活動をしているか把握しておらず、透明性がない。民主主義国家である日本にとっては危険な存在だ」という――。
※本稿は、石井暁『自衛隊の闇組織 秘密情報部隊「別班」の正体』(講談社現代新書)の一部を再編集したものです。


10年前「別班」のスクープ記事を出すまでの取材のきっかけ

「別班」の取材は、ある自衛隊幹部からもたらされた“すごい話”が端緒になった。

手元の取材メモによると、その幹部と会って話を聞いたのは、2008年の4月10日。彼とはその時点で10年以上の付き合いだった。場所は都内のレストラン。赤ワインを飲みながらの会話がふと途切れた直後、幹部は「すごい話を聞いた」と話し始めた。

「陸上自衛隊の中には、『ベッパン』とか『チョウベツ』とかいう、総理も防衛大臣も知らない秘密情報組織があり、勝手に海外に拠点を作って、情報収集活動をしているらしい。これまで一度も聞いた事がなかった」

事実ならば、政治が、軍事組織の自衛隊をまったく統制できていないことになる。シビリアンコントロールを大原則とする民主主義国家にとって、極めて重大な問題だ。直感でそう思い、執拗しつように質問を重ねたのだが、彼が把握していたのは伝聞で得た情報のみで詳しいことは知らず、会食後に取材メモをまとめてみると、幹部は「ベッパン」と「チョウベツ」という言葉を混同して使っていた。


公式な諜報機関として「調別」の存在は知られていた

「調別」の正式名称は、陸上幕僚監部調査部別室。前身の陸上幕僚監部第2部別室時代は「2別」と呼ばれていた。現在の防衛省情報本部電波部の前身で、いわゆるシギント(SIGINT=SIGNALS INTELLIGENCEの短縮形で、通信、電波、信号などを傍受して情報を得る諜報ちょうほう活動のこと)を実施する、公表されている情報機関であって、自衛隊の組織図にも載っていない秘密情報部隊「別班」とは全く違う組織だ。

調別時代から室長は警察官僚が務め、電波部長も例外なく警察官僚がそのポストに就いている。警察庁にとって手放したくない重要対外情報の宝庫だからだ。特にロシア、中国、北朝鮮情報については、アメリカの情報機関でさえも一目置く存在だ。

自衛隊幹部から話を聞いたのが、2008年4月10日。

「陸自が暴走」「文民統制を逸脱」「自衛官が身分偽装」といった記事の見出しが脳裏に浮かび、半信半疑のまま翌11日から早速、資料収集や取材を開始した。そして記事として最初に新聞に掲載されたのが、2013年11月28日。まさか、5年半以上も「別班」取材に費やすことになるとは、当然のことながらその時はまったく考えなかった。


別班本部は防衛省の市ヶ谷駐屯地内に堂々と存在する?

取材の端緒になったこの幹部は、いろいろと駆け回って情報収集に努めてくれた。当初、別班の姿形はまるで見えなかったが、数回会って話を聞いていくうち、やがて濃い霧のはるか向こう側に、ぼんやりとした輪郭のようなものが浮かんできた。

彼によれば、別班は陸上幕僚監部の「第2部別班」を振り出しに、組織改編による「調査部別班」を経て、「運用支援・情報部別班」が正式名称(2008年時点)だという(その後、さらなる組織改編によって2017年3月、「指揮通信システム・情報部別班」となっている)。通称「DIT」と呼ばれており、どうもこれは「DEFENSE INTELLIGENCE TEAM」の頭文字をとった略称だろうということだった。

トップの班長は1等陸佐で、旧日本軍や外国軍の大佐に相当する。歴代、陸上自衛隊の情報部門出身者が班長を務め、人事的なルートが確立している。ただし、全体像を把握する関係者が極めて限られているため、班員数など別班の詳細は不明という。表向き、別班は存在しないことになっている秘密組織でありながら、陸上幕僚監部運用支援・情報部長(当時)の直属で、本部は防衛省がある市ヶ谷駐屯地内に堂々と存在するともいう。



【図表1】陸軍中野学校から陸上自衛隊への組織変遷(一部)出典=『自衛隊の闇組織 秘密情報部隊「別班」の正体』


主な任務は海外にダミーの拠点を置いてのスパイ活動

別班は、中国やヨーロッパなどにダミーの民間会社をつくって別班員を民間人として派遣し、ヒューミント(HUMINT=HUMAN INTELLIGENCEの短縮形で、人を媒介とした諜報活動、人的情報収集活動)をさせている。有り体に言えば、スパイ活動だ。

日本国内でも、在日朝鮮人を買収して抱き込み、北朝鮮に入国させて情報を送らせるいっぽう、在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総聯)にも情報提供者をつくり、内部で工作活動をさせているという。また、米軍の情報部隊や米中央情報局(CIA)とは、頻繁に情報交換するなど緊密な関係を築き、自ら収集、交換して得た情報は、陸上自衛隊のトップの陸上幕僚長と、防衛省の情報本部長(情報収集・分析分野の責任者)に上げている。

ではいったい、どのような人物が別班の仕事に従事しているのかというと――陸上自衛隊の調査部(現・指揮通信システム・情報部)や調査隊(現・情報保全隊)、中央地理隊(現・中央情報隊地理情報隊)、中央資料隊(現・中央情報隊基礎情報隊)など情報部門の関係者の中で、突然、連絡が取れなくなる者がいる――それが別班員だというのだ。


別班は孤独な存在だが、決裁なしに300万円まで使えるとも

いくら自衛隊の情報部門の人間でも、普通は人事システムの端末をたたけば所属先ぐらい簡単にわかる。しかし、端末を叩いても何もわからない者がいる、との話だった(それでも、“同期”などごく近い人たちは感づくと思うが……)。

別班員になると、一切の公的な場には行かないように指示される。表の部分からすべて身を引く事が強制されるわけだ。さらには「年賀状を出すな」「防衛大学校の同期会に行くな」「自宅に表札を出すな」「通勤ルートは毎日変えろ」などと細かく指示される。

ただし、活動資金は豊富だ。陸上幕僚監部の運用支援・情報部長の指揮下の部隊だが、一切の支出には決裁が不必要。「領収書を要求されたことはない」という。情報提供料名目で1回300万円までは自由に使え、資金が不足した場合は、情報本部から提供してもらう。「カネが余ったら、自分たちで飲み食いもした。天国だった」という。

シビリアンコントロールとは無縁な存在ともいえる「別班」のメンバーは、全員が陸上自衛隊小平学校の心理戦防護課程の修了者。同課程の同期生は、数人から十数人おり、その首席修了者だけが別班員になれるということを聞いて、すとんと胸に落ちるものがあった(後から、首席でも一定の基準に達していないと採用されないとも聞いた)。

同課程こそ、旧陸軍中野学校の流れをくむ、“スパイ養成所”だからである。


ほぼ全員が陸自小平学校の心理戦防護課程の修了者

中野学校は1938年7月、旧陸軍の「後方勤務要員養成所」として、東京・九段の愛国婦人会別棟に開校した。謀略、諜報、防諜ぼうちょう、宣伝といった、いわゆる「秘密戦」の教育訓練機関として、日露戦争を勝利に導いたとされる伝説の情報将校・明石元二郎大佐の工作活動を目標に“秘密戦士”の養成が行われた。1940年8月に中野学校と正式に改称し、1945年の敗戦で閉校するまでに約2000人の卒業生を輩出したとされる。

卒業生の日下部一郎『決定版陸軍中野学校実録』や加藤正夫『陸軍中野学校 秘密戦士の実態』などによると、実際の教育内容は、郵便物の開緘かいかん盗読(封を開けたとわからないように読むこと)、特殊爆薬、秘密カメラ、偽造紙幣、盗聴、変装、潜行、候察、開錠、暗号解読。さらには武道、射撃、自動車運転や語学、心理学、政治、経済など、まさにスパイ養成そのものだったことがわかる。卒業生らは、特務機関員や情報将校となって、日本国内やアジア・太平洋をはじめとする海外で「秘密戦」に従事した。


旧陸軍中野学校の亡霊のような精神が引き継がれているのか

それでは、この旧陸軍の中野学校と、陸上自衛隊小平学校の関係はどうなっているのだろうか。

小平学校は2001年に調査学校(情報要員養成)と業務学校(会計、警務などの業務要員養成)が統合してできた陸自の教育機関で、情報、語学、警務、法務、会計、人事、システム・戦術の7部からなっている。

警務教育部では、各国軍の憲兵に近い存在の警務隊員養成を目的としている。情報教育部は第1教育課と第2教育課から構成されている。第1教育課では幹部上級、幹部特修、陸曹の各情報課程や地誌、航空写真判読などの教育コースがある。第2教育課は幹部、陸曹の調査課程(防諜部隊である情報保全隊員養成)と心理戦防護課程(別班員などの養成)の各コースからなる。つまり、第1教育課は“表”の教育コースであるのに対して、第2教育課は“裏”の教育コースということができる。

2018年の機構改革で、富士駐屯地に陸上自衛隊情報学校が新設された。情報教育部のうち、第2教育課を情報学校第2教育部として小平駐屯地に残し、ほかは情報学校第1教育部に再編、富士駐屯地に移転した。

そのような小平学校において、直接的に中野学校の流れをくむと言われているのが、情報教育部第2教育課の心理戦防護課程だ。かつては対心理情報課程と称していたが、1974年、現在の名称に改称された。



【図表2】陸上自衛隊小平学校の沿革出典=陸上自衛隊小平学校ウェブサイト


中野学校の教官が前身の調査学校で教えていた

中野学校と、小平学校情報教育部の第2教育課心理戦防護課程との連続性は明白だ。たとえば、元中野学校教官だった藤原岩市が、小平学校の前身である調査学校(1954年発足)の校長を務め、やはり元中野学校教官の山本舜勝が調査学校の副校長に就いていた。調査学校の初期の教官には、中野学校出身者が多かったとされる。

藤原岩市は太平洋戦争開始直前、タイのバンコクに特務機関「F(藤原)機関」を創設し、機関長として対インド侵攻などの工作活動に従事した“伝説の情報将校”だ。調査学校の校長時代には、対心理情報課程(小平学校情報教育部第2教育課心理戦防護課程の前身)を設置している。

山本舜勝は陸軍大学校卒業後、参謀本部参謀などを経て、中野学校教官として謀略論を担当した。陸上自衛隊入隊後は藤原の指示で米軍特殊戦学校に留学し、帰国後、対心理情報課程創設に直接関与している。

中野学校と小平学校の心理戦防護課程の教育内容は、恐ろしいほど似通っている。心理戦防護課程はまさに、歴史上、敗戦で完全消滅したことになっている“中野学校の亡霊”とも言える存在なのだ。


告白本によれば非公式のスパイ組織を復活させたのは米軍

そもそも、旧帝国陸軍の“負の遺伝子”を引き継ぐ別班は戦後、なぜ“復活”したのか。1970年代から関係者による一連の告白本が刊行されるまで、その誕生の経緯は長い間、謎とされてきた。

しかし、元別班長の平城弘通(『日米秘密情報機関』の著者)によれば、1954年ごろ、在日米軍の大規模な撤退後の情報収集活動に危機感を抱いた米軍極東軍司令官のジョン・ハル大将が、自衛隊による秘密情報工作員養成の必要性を訴える書簡を、当時の吉田茂首相に送ったのが、別班設立の発端だという。

その後、日米間で軍事情報特別訓練(MIST=MILITARY INTELLIGENCE SPECIALIST TRAINING)の協定が締結され、1956年から朝霞の米軍キャンプ・ドレイクで訓練を開始。1961年、日米の合同工作に関する新協定が締結されると、「MIST」から日米合同機関「ムサシ機関」となり、秘密情報員養成訓練から、情報収集組織に生まれ変わった。「ムサシ機関」の日本側メンバーは、陸上幕僚監部2部付で、実体は2部別班。「別班」誕生の瞬間だ。

1961年に「ムサシ機関」という名になり本格始動した

ムサシ機関の情報収集活動のターゲットは、おもに共産圏のソ連(当時)、中国、北朝鮮、ベトナムなどで、当時はタイ、インドネシアも対象となっていた。平城によると〈その後、初歩的活動から逐次、活動を深化させていったが、活動は内地に限定され、国外に直接活動を拡大することはできなかった〉という。

石井暁『自衛隊の闇組織 秘密情報部隊「別班」の正体』(講談社現代新書)石井暁『自衛隊の闇組織 秘密情報部隊「別班」の正体』(講談社現代新書)
それでは、いつから海外に展開するようになったのだろうか。

平城は草創期の別班員の活動について、次のように記述している。

〈工作員は私服ではあるが、本来は自衛官であり、米軍と共同作業をしている。

そして工作員は、自身がいろいろと工作をやるのではなく、エージェントを使って情報収集をするのが建前である。身分を隠し、商社員、あるいは引揚者、旅行者などと接触し、彼らに対象国の情報を取らせるのだ〉

現在の別班員の姿の原型と考えると、非常に興味深い証言といえる。



・『VIVANT』で注目の自衛隊「別班」、金大中事件では元メンバーの関与浮上するも安倍元首相は「別班」の存在自体を否定(NEWSポストセブン 2023年9月24日)

※警察や軍関係、暴力団組織などの内部事情に詳しい人物、通称・ブラックテリア氏が、関係者の証言から得た驚くべき真実を明かすシリーズ。今回は、日曜劇場『VIVANT』(TBS系)で話題になった陸上自衛隊の「別班」について。

 * * *

『VIVANT』で注目された陸上自衛隊の秘密情報部隊「別班」。その名前はこれまでにも何度かメディアやノンフィクション本の中に登場してきた。そしてこれまで唯1人、別班の元メンバーとして実名があがった人物がいる。
 
ドラマの中で「美しき我が国を汚す者は何人たりとも許さない」という信念の下、世界で暗躍する自衛隊の影の諜報部隊として描かれていた組織について、2013年11月、共同通信社はこんな記事を報じた。

「陸上幕僚監部運用支援・情報部別班(別班)が、冷戦時代から首相や防衛相(防衛庁長官)に知らせず、独断でロシア、中国、韓国、東欧などに拠点を設け、身分を偽装した自衛官に情報活動をさせてきたことが分かった」。

記事を書いたのは編集委員の石井暁氏。現在Amazonでベストセラーになっている『自衛隊の闇組織 秘密情報部隊「別班」の正体』(講談社現代新書)の作者だ。

この報道を踏まえ2013年12月2日、国会で鈴木貴子衆院議員が別班について質問した。鈴木氏の父親はロシアと関わりの深い鈴木宗男氏。宗男氏はそのような拠点の存在を報じられ、どう思ったのだろう。貴子議員の質問に対し12月10日、安部晋三首相(当時)が答弁書を送付。その内容は「『陸上幕僚監部運用支援・情報部別班』なる組織について、これまで自衛隊に存在したことはなく、現在も存在していないことが確認されており、現時点においてこれ以上の調査を行うことは考えていない」というものだった。日本政府はその存在を否定し続けている。

別班の存在が初めてクローズアップされたのは1973年。評論家の藤島宇内氏が『週刊現代』1973年10月18日号で、東京・飯田橋のホテルグランドパレスから、韓国の大統領候補だった金大中氏が拉致された事件に、別班の元メンバーが関わっていたと明らかにしたのだ。この時名前が挙がったのが、後に映画『KT』で佐藤浩市さん演じる陸上自衛隊中央調査隊富田満州男のモデルとなった陸上自衛隊元3等陸佐の坪山晃三氏だ。

実は坪山氏のことはよく知っている。すでに亡くなってしまったが、民間の調査会社を経営していた彼に、幾度となく調査の仕事を頼み、時に協力し合い、調査方法や尾行について教えを請うたこともあるからだ。


元警察官より元自衛官の方が使える
 
坪山さんが自分を別班だったと言ったことはないは、映画『KT』について聞くと、「自分が一緒に拉致していることになっているが、あれは事実とは違う」と話していた。当時、拉致を計画していた韓国中央情報部(KCIA)は、日本に滞在していた金大中氏の所在が掴めなかった。そこでKCIAの工作チームは旧知の元自衛官坪山氏に調査を依頼。調査員らによって所在が判明した金大中氏を、工作チームが拉致。坪山氏は拉致目的とは知らず会社として仕事を請けただけだが、現役時代、陸上自衛隊の情報部門「陸上幕僚監部第2部」の特殊チームに所属していたことから、元自衛官が事件に関与かと騒がれた。

『VIVANT』と類似しているのは、金大中の所在を探す際、坪山氏が警視庁公安部の捜査員に協力を求めたという点だろう。警視庁公安部は坪山氏からの情報により、早くからこの事件の真相を掴んでいたという。ここら辺の詳細は、様々な著作やネットで調べれば色々出てくる。

当の坪山氏は、存在感のある佐藤浩市さんとは似ても似つかないタイプである。別班メンバーと判明した新庄浩太郎役の竜星涼さんのように、スラリとしたイケメンでもない。イケメンは人込みでも目立ち、尾行や張込みには向かないが、坪山氏は小柄で目立たず、顔つきはしっかりしてまじめそうな風貌ながら個性がない。趣味の山登りで健康そうに日焼けした、気さくな感じのどこにでもいるオジサンにしか見えず、いとも簡単に雑踏に紛れてしまうタイプだ。。だが、仕事の話になると目つきが変わり、底知れぬ暗い色の目になった。

情報収集については元自衛隊で調査隊に所属し、防諜や諜報活動は陸上自衛隊の学校で学んだと聞いた。その学校は、スパイ養成学校として知られた陸軍中野学校の流れを汲むものだ。それだけに調査の腕は一流で、インテリジェンス関係者からの信頼は厚かった。坪山氏の調査会社で働く調査員には他にも自衛隊出身者がいた。。その理由を彼は「元警察官より元自衛官の方が使えるから」と話した。

「警察官は尾行が見つかっても警察手帳を見せれば、それで済む。だが自衛官には手帳がない。自分たちの力でどうにかしなければならない」。警察手帳は警察官にとって水戸黄門の印籠のようなものだが、自衛官が頼るべきは自分の力しかないというのだ。その調査員らもまた別班のメンバーだったかは不明だ。

元防衛大臣の石破茂議員は15日に公開されたCS放送TBS NEWSの『国会トークフロントライン』で別班について、「あるいともないとも言えませんがね」とコメントし、「ただ、そういうものはあるべきでしょう。国家のために」と付け加えた。中国に北朝鮮、ロシアの動静を注視しなければならない我が国には、石破議員の言う通り、そういうものがあるべきだ。