・イラク政府の殺人兵器工場の建設をアメリカ政府がどのように支援していたか(ロンドン・タイムズ 2002年12月31日)

ティム・リード記者

※現アメリカ国防長官にして、サダム・フセインを最も声高に批評する一人である、ドナルド・ラムズフェルド。

新しく機密扱いを解かれたアメリカ政府文書によれば、1983年、彼は、炭疽菌と腺ペスト培養菌をふくむ生物および化学兵器要素を、自国のアメリカ企業が、バグダッドに販売しやすくしてもらうべく、イラク大統領サダム・フセインに面会している。

会談の前に温かい握手を交わす模様が、映画フィルムに収められているが、フセイン大統領とラムズフェルト氏の90分間の会談は、1980年代を通して盟友の一つとしてのイラク指導者の機嫌を伺っていた、ロナルド・レーガン大統領およびジョージ・ブッシュSr.政権下のアメリカ合衆国の一政策を、フセイン大統領に告げるものであった。

公開されたその機密文書記録によれば、イラクはイランのイスラム原理主義に対抗する砦と位置づけた、当時の米国の戦略が、異常なほど執拗に推し進められたので、 北イラクで1988年3月にフセイン大統領のイラク政府がクルド人を毒ガスで殺している後でさえ、ワシントン政府は、生物兵器・化学兵器の兵器供給と外交活動とを増進させたのである。

1983年11月の国家安全保障指令の一つには、次のように書かれている。

イランとの戦争でイラクが損失を受けてしまうのを防ぐのに、必要と合法とであるならば、アメリカ政府は何でもするつもりでいる、と。

その当時は、一民間人であったラムズフェルド氏が、対中東特派大使の一人として、レーガン大統領から選ばれたのであった。

ラムズフェルドは、12月20日にフセイン大統領と面会し、そして、ワシントン政府のほうは完全な外交関係を再開させる用意があることをフセイン大統領に告げたことが、この面談の模様を報告した国務省レポートにはある。

フセイン大統領がクウェートに侵攻する僅か1週間前の、1990年7月25日までの、その後7年間もの間、この対イラク政府支援外交政策が続けられたが、ブッシュSr.大統領が“よりよく深い関係を望んでいる”ことを、このバクダッド特使≒ラムズフェルド特使は、フセイン大統領に保障したのであった。

フセイン大統領による、イラン部隊やイラク自国民への化学兵器の使用を無視しながら、
レーガン政権とブッシュSr.政権との二つの政権を跨ぐこの異常な長さが、フセイン政権の助力として役立っていた、というのが、昨日の「ワシントンポスト」紙のハイライトであった。

そこで今、フセイン政権から兵器を取り上げる理由として、フセイン政権の化学兵器および生物兵器の保持を繰り返し引き合いに出す現ブッシュJr.大統領が、アメリカ合衆国によるイラク侵攻を可能にする準備をしているが、この1980年代における対イラク政権支援外交戦略という現在とは真逆の政策についてのスクープ記事はフセイン大統領の大量殺人兵器開発の生成にアメリカが関係していたことを、いま、この時宜に適ったものとして思い起こさせる。

イラク側によって始められ、1980年から1988年まで続いたイラン-イラク戦争でのイラク側の敗北を防ぐべく、レーガン政権は、イラン軍部隊の動きを分析する戦場の情報分析を、フセイン政権への供給を開始している。

1980年代のその十年間の末までには、ワシントン政府は、軍事および民生の両応用の、あまたの品目/アイテムをイラクに販売する許認可を、すでに通してしまっている。このワシントン政府による対イラク販売の許認可品目のこれらの中には、 炭疽菌と腺ペストといった有毒な化学品や生物ウィルスが、含まれていた。

アメリカ商務省からの認可の下で1980年代半ばに、炭疽菌の菌株をふくむ多数の生物由来物質が、イラクに輸出されていたことを、アメリカ上院銀行委員会による1994年調査が明らかにしている。

この炭疽菌を、フセイン大統領の生物兵器計画の鍵となる構成要素としてペンタゴン=国防総省は、これまで見なしてきた。

化学戦に使われているかもしれない、という疑惑があるにもかかわらず、アメリカ商務省は化学兵器に応用可能な殺虫剤の輸出をも承認してしまっている。

ラムズフェルド氏が最初にバグダッドに訪問する1カ月前の1983年11月に、国務長官であったジョージ・シュルツは、イラク軍部隊がイラン人に対して、CW(化学兵器)を毎日のように使っていることを示した諜報レポートを受けていた。

にもかかわらず、すでにバグダッド政府≒フセイン政権からの支持を求める方向に傾倒していたレーガン政権は、このレポートに目をつむる動きに出てしまうのであった。

議会からの異議が出たにもかかわらず、アメリカ国務省は、1982年2月において、テロリズム・リスト(一覧)から、イラク国家を、すでに外していた。

フセイン大統領に対して、ラムズフェルドの最初のイラク訪問の1983年12月の面談のときに、 化学兵器群の使用について“注意/警告をした” のだと、実際に最近ラムズフェルド氏は述べている。

しかし、この今現在のラムズフェルドの主張は、1983年当時のラムズフェルドのフセインとの面談についての国務省文書の内容と完全に一致しない。

ラムズフェルド氏がイラクの外務大臣のターリク・ミハイル・アズィーズに警告を発した、とペンタゴン=国防総省のスポークスマンが、その後に言ったが。

レーガン政権中、国家安全保障会議役員であったハワード・タイシャーによって誓われた宣誓供述書によれば、アメリカ政府は、数十億ドルの残高をイラクに供給し、そして、軍事諜報分析情報や助言をイラク側に提供し、そして、軍事情報とアドバイスをイラク人に提供し、そしてまた、イラクが求めていた軍事兵器類を得ることが出来るように計らうべくイラクへの第三国兵器の販売を密接にモニタリング監視することで、イラク側の奮戦を、積極的に支援していた”という。

バグダッド政府に、クラスター爆弾を供給するために、前CIA長官のウィリアム・ケーシーが、チリのダミー会社/フロント企業を使っていた、とタイシャ―氏は語っている。

イラク空軍が、北イラクで1987年後半に、クルド人抵抗勢力に対して、化学兵器を使用し始めたが、ハラブジャというクルド人の村への、今や有名となった1988年3月の襲撃の後では特に、米国議会で憤慨を引き起こした。

ところが、クルド村へのイラク政府の襲撃に、米国議会が憤慨した半年後の1988年9月に、国務長官補であったリチャード・W・マーフィーが化学兵器類のフセイン大統領の使用について扱ったメモのなかに、こう書いている。

アメリカ合衆国とイラクとの関係は、我ら米国の長期規模の政治的かつ経済的目標にとって、重要である。経済的制裁が、イラクに役に立たないか逆効果の影響を与えることになるだろう、と我々は思っている”と。

ところで他方、現在のブッシュJr.大統領は、“レジーム・チェンジ(枠組変更)”を正当化する根拠として、“ブッシュ自身にとっての人民に対する”フセイン政権による化学兵器使用を、これまで繰り返し引き合いに出して来ている。

元バグダッド駐在アメリカ大使であったデイヴィッド・ジョージ・ニュートンが、ポスト紙に対して、こう語っている。

“基本的に、この政策(フセインによる大量殺人兵器使用)は、当時においては正しいとされていたのだ。イランとの戦争でのイラクの敗北が、サウジアラビアおよびペルシャ湾を脅かしてしまうことになる、との理由から、イランとの戦争にイラクは敗北してはならない、と、その1980年代当時においては我らは懸念していたからだ。”と

“われら合衆国政府側の長期的な規模での期待は、あのフセイン政府が、非-鎮圧抑圧的になってもらうと共に、道義心の責任のあるものになってくれることであった”、というのが、デイヴィッド・ジョージ・ニュートン元バグダッド駐在アメリカ大使の述懐である。