・「日米半導体摩擦」を振り返る 米国の圧力に屈した日本(電子デバイス産業新聞 2018年10月12日)
※世界トップに君臨する米国
1760年代に英国で石炭をエネルギー源とする産業革命が起き、1900年にはこれが石油や電力による第2次産業革命に発展した。豊富な石油資源を持っていた米国はこのアドバンテージを活かし、英国を追い抜いて世界一の工業国に躍進した。しかし、当時の米国は工業インフラの建設に必要な多額の資金を英仏から借金していたので、1位になっても欧州の主要国には頭が上がらなかった。それが、第一次世界大戦(1914年)の軍需景気で借金を返し、その後は第二次世界大戦(1945年終了)で疲弊した欧州や東西冷戦の宿敵のソ連を引き離し、ずっと世界トップの座に君臨し続けている。
1980年代には日本が高度経済成長とオイルショックを乗り越えて世界2位に台頭してきたが、米国は「プラザ合意」や「日米半導体協定」などで日本の成長の芽を摘み、90年代には日本をバブル崩壊に追いやった。
米国はライバルなき90年代、パソコンのOS「Windows」のマイクロソフトとCPUのインテルによるウィンテル連合が半導体とパソコン市場で世界を席巻。米国は2000年代にIT革命で先行し、再び王者に返り咲いた。

国家主導で半導体企業を支援
米国の半導体協会(SIA)が発表した文書にこんな一節がある。「●●製品の世界市場におけるシェアの増大によって、米国企業は大きな影響を受けているが、これは●●製品によるターゲット政策による結果である」。●●に入るのは国名だ。
この文章だとそれほどインパクトを感じないが、米国のある大手エレクトロニクス企業が発表した次の文章を読むと、米国の警戒感をダイレクトに感じとることができる。「●●は20年以上も特定産業において世界市場を席巻することを目的とした中央集権的な政策の策定、資金供与、市場コントロールを行ってきた」――。かなり具体的に批判しているのが分かるだろう。
この国家主導による産業政策や特定企業への資金供与、政府による市場介入によって急速に工業力を高めてきた国がどこかと問われれば、今の世の中ならば、たいていの人が「中国」と答えるだろう。しかし、この文書は1983年に発表されたものだ。米国が名指しで批判した相手国とは「日本」のこと。この年に日米の両国間で「半導体摩擦」が勃発した。
この当時、半導体市場を牽引していたアプリケーションは、パソコンやワープロなどのOA機器(16K、64KのDRAMを搭載)やビデオデッキ(映像処理のIC)、CDプレーヤー(オーディオ用IC)などだった。日本の大手半導体メーカー30社の売上高はなんと2兆円に迫り、NECは前年比31%増、東芝は40%増、富士通は49%増、日立は54%増、三菱電機は58%増と破竹の勢いで米国の半導体企業を打ち負かしていった。

1983年に日米半導体摩擦
米国半導体協会は1983年、米国に追いつけ追い越せと目覚ましい発展を続けていた日本の半導体産業に対して批判を始めた。その翌年、日本の通産省と米国の通商代表部および商務省は、半導体の通商問題について話し合う作業部会を設置した。84年にはロス五輪が開催され、オリンピックイヤー効果でテレビやビデオの販売が拡大し、爆発的なブームとなったパソコンも半導体需要を牽引し、世界の半導体マーケットは前年比約50%増の260億ドル規模の市場に拡大した。当然、世界中でバカ売れしている日本の半導体を横目で見ていた米国はさらに怒りを沸騰させていった。
しかし、85年は五輪開催後の反動で半導体市場は大不況に転落した。市況の急変は劣勢だった米国の半導体メーカーに大きな痛手を与え、日米の半導体摩擦は過熱の一途をたどった。テキサス・インスツルメンツ(TI)は同年に大量解雇を行い、インテルやナショナルセミコンダクター(NS)、モトローラも操業時間を短縮せざるを得ない厳しい事態に追い込まれた。米国の日本に対する敵対心はさらに膨れ上がった。
マイクロンは85年、日本の半導体メーカー7社が不当にDRAM(当時は64K)を安売りしているとしてダンピング訴訟を起こして日本企業を攻撃した。AMDやNSもダンピング提訴を起こし、ついにはレーガン大統領が直々に米商務部に日本のダンピング問題について調査するよう命令。そして、86年についに「日米半導体協定」が締結される事態に進展した。自由貿易に反して、米国が日本に米国製半導体の輸入促進をゴリ押しすることが許されるようになってしまった。
日米半導体協定により日米摩擦は解消されると期待されたが、米国は87年に第三国市場でのダンピングを理由にさらなる報復措置を発表。日米は戦後最大の緊張状態に突入した。レーガン大統領は日本が半導体協定に違反していたことによる損害賠償額として3億ドルを計上し、これに相当する日本製のパソコンやテレビ、電動工具に対して異例ともいえる100%の報復関税を発表した。また、米国防総省が富士通によるフェアチャイルドの買収を阻止するなど、日本企業に対する報復が続いた。
米国政府は日本に対して、米国の国家プロジェクトとして共同の半導体開発プロジェクトに参画するよう強制するなどして、半導体産業の立て直しを図った。ちなみに、米国でこの頃にICの設計開発と製造を分離する「ファブレス」の業態が誕生した。

逆境と戦うニッポン半導体
日本の半導体メーカーは販売面で米国から多大な圧力を受けるようになったが、逆にこれを試練として製造力を磨くことで対抗を続けた。汎用品となった1MBのDRAMでは世界市場の90%近くを獲得し、先端品の4MBのDRAMの製造でもランキング上位を席巻した。平成元年となった1989年には、日本の半導体大手30社の売上高は4兆円となり、半導体摩擦が起きる前と比べて7年で2倍に拡大。ニッポン半導体が世界市場の半分を獲得し、世界の頂点に立った。
86年に締結された日米半導体協定は91年に協定期限の5年目を迎えた。日本の半導体産業の弱体化に成功しなかった米国は、新たな日米半導体協定を締結して日本への圧力を継続した。新協定では、パソコンやテレビ、電動工具に対する100%の報復関税が解除されたものの、日本市場における外国半導体シェアを20%以上にするという具体的な数値目標が設定された。
この頃になると、米国の半導体メーカーは知的財産権による侵害を理由に日本企業を攻撃することが多くなった。89年に日本でTIのキルビー特許(キルビー博士が発明したICの基本特許)が30年ぶりに成立し、日本の半導体メーカーが後に支払ったこの特許料は総額数千億円にも達したといわれている。
米半導体業界の回復と対日制裁の終了
83年の日米半導体摩擦から10年弱が経過し、92年にはパソコン需要に牽引されたインテルが世界トップに躍り出るなど米国の半導体メーカーの回復が目立った。DRAMでは韓国サムスンが新たな日本の脅威となり、正面にはインテル、背後からはサムスンが襲いかかる構図が常態化したのもちょうどこの時期からだ。マイクロソフトは93年に「Windows3.1」、95年には「Windows95」を世に送り出し、米企業がエレクトロニクス業界の覇権を奪い返した。家電やオーディオ機器に強かった日本勢は徐々にかつての勢いを失っていった。
半導体の復権を果たした米国は94年、第2次日米半導体協定(91年に改定されたもの)の期限5年満了となる2年後に日米半導体協定の終了を決定。日米半導体摩擦は開始から13年後の96年についに終結した。

・日本の半導体はなぜ沈んでしまったのか?(Newsweek 日本語版 2018年12月25日)
遠藤誉(東京福祉大学国際交流センター長)
1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。東京福祉大学国際交流センター長、筑波大学名誉教授、理学博士。中国社会科学院社会学研究所客員研究員・教授などを歴任。
※1980年代にアメリカを追い抜き世界一だった日本の半導体はアメリカにより叩き潰され、その間、韓国が追い上げた。土日だけサムスンに通って破格的高給で核心技術を売りまくった東芝社員の吐露を明かす時が来た。
日本の半導体産業を徹底して潰したアメリカ:常に「ナンバー1」を求めて
1980年代半ば、日本の半導体は世界を席巻し全盛期にあった。技術力だけでなく、売上高においてもアメリカを抜いてトップに躍り出、世界シェアの50%を超えたこともある。特にDRAM(Dynamic Random Access Memory)(ディーラム)は日本の得意分野で、廉価でもあった。
それに対してアメリカは通商法301条に基づく提訴や反ダンピング訴訟などを起こして、70年代末から日本の半導体産業政策を批判し続けてきた。
「日本半導体のアメリカ進出は、アメリカのハイテク産業あるいは防衛産業の基礎を脅かすという安全保障上の問題がある」というのが、アメリカの対日批判の論拠の一つであった。日米安保条約で結ばれた「同盟国」であるはずの日本に対してさえ、「アメリカにとっての防衛産業の基礎を脅かすという安全保障上の問題がある」として、激しい批判を繰り広げたのである。
こうして1986年7月に結ばれたのが「日米半導体協定」(第一次協定)だ。
「日本政府は日本国内のユーザーに対して外国製(実際上は米国製)半導体の活用を奨励すること」など、アメリカに有利になる内容が盛り込まれ、日本を徹底して監視した。
1987年4月になると、当時のレーガン大統領は「日本の第三国向け輸出のダンピング」および「日本市場でのアメリカ製半導体のシェアが拡大していない」ことを理由として、日本のパソコンやカラーテレビなどのハイテク製品に高関税(100%)をかけて圧力を強めた。
1991年7月に第一次協定が満期になると、アメリカは同年8月に第二次「日米半導体協定」を強要して、日本国内で生産する半導体規格をアメリカの規格に合わせることや日本市場でのアメリカ半導体のシェアを20%まで引き上げることを要求した。1997年7月に第二次協定が満期になる頃には、日本の半導体の勢いが完全に失われたのを確認すると、ようやく日米半導体協定の失効を認めたのである。
時代は既に移り変わっていた
しかし、第二次協定の満期によって、日本がアメリカの圧力から解放されたときには、時代は既に激しく移り変わっていた。
80年代の全盛期、日本の半導体は総合電機としての自社のエレクトロニクスを高性能化させるサイクルの中で発展してきた。日立や富士通などの大型計算機はIBMに近づいており、他のハイテク製品の性能を高めるための半導体の開発は、アメリカを凌いでいたと言っても過言ではない。
ところが1993年にインテルがマイクロプロセッサーPentiumを、 1995年にはマイクロソフトがPC用のOSであるWindows95を発売すると、世の中はワークステーション時代からPC時代に入り、いきなりインターネットの時代へと突入し始めた。
それまでのDRAMは供給過剰となって日本の半導体に打撃を与え(DRAM不況)、二度にわたる日米半導体協定によって圧倒的優位に立ったアメリカ半導体業界が進めるファブレス(半導体の設計は行うが生産ラインを持たない半導体企業)など、研究開発のみに専念する生産方式についていけなかった。時代は既に設計と製造が分業される形態を取り始めていたのである。
当時の通産省が率いる包括的な半導体産業に関する国家プロジェクトは、分業という新しい流れについていくことを、かえって阻害した側面がある。
一方、バブルの崩壊なども手伝って、1991年ごろには日本のエレクトロニクス関係の企業は、半導体部門のリストラを迫られていた。
「土日ソウル通い」:日本の半導体技術を「窃取した」韓国
リストラされた日本の半導体関係の技術者を韓国のサムスン電子が次々とヘッドハンティングしたことは周知の事実だろう。また2014年には、東芝のNAND型フラッシュメモリーの研究データを韓国企業に不正に流出させたとして、東芝と提携している日本の半導体メーカーの元技術者が逮捕されたこともある。
しかし、こんなものは実に「かわいい」レベルで、もっと凄まじい「窃盗まがい」のことが起きていた。
日本の半導体関係の技術者がリストラをひかえて窓際に追いやられていた頃、技術者の一部は「土日ソウル通い」をしていたのである。
その人は元東芝の社員で、非常に高度な半導体技術の持ち主だった。しかし半導体部門が次々に閉鎖され、上級技術者もリストラの対象となって、すでに「もしもし」と声がかかるようになっていた。解雇は時間の問題だった。そういった人たちのリストを韓国は手にしていた。そこで水面下でこっそりと近づき、甘い誘いを始めたのだ。
金曜日の夜になると東京からソウルに飛び、土曜と日曜日の2日間をかけて、たっぷりとその半導体技術者が持っている技術をサムスン電子に授ける。日曜日の最終フライトで東京に戻り、月曜日の朝には何食わぬ顔をして出社する。
土日の2日間だけで、東芝における月収分相当の謝礼を現金で支給してくれた。領収書なしだ。
「行かないはずがないだろう」と、その人は言った。
「長いこと、東芝には滅私奉公をしてきました。終身雇用制が崩れるなどということは想像もしていなかった。だというのに、この私を解雇しようとしているのです。それに対して韓国では、自分が培ってきた技術を評価してくれるだけでも自尊心が保たれ、心を支えることができる。おまけに1ヵ月に4倍ほどの給料が入るのですよ。行かないはずがないでしょう!」
それに「土日のソウル通いは、私一人ではない。何人も、いや、おそらく何十人もいるんですよ!」と、自分の罪の重さを軽減させるかのように顔を歪めた。
彼の吐露によれば、それは「韓国政府がらみ」で、サムスン電子単独の行動ではないというのである。
恐ろしいのは、その次のステップだ。
「彼らはですね。私たち技術者を競わせて、そのときどきに最も必要な技術者を引っ張ってくる。半導体も、どのようなハイテク製品を製造するかによって内容が変わってきます。私ら、やや古株から吸い取れる技術を吸い取り終わると、なんと突然"解雇"されるわけですよ。もっとも、闇雇用ですから、"解雇"という言葉は適切ではないんですがね......。要は、"用無し"になったわけです」
この時には、東芝からは、まさに正式に「解雇」されていた。
これら一連の吐露の中で、最もショックを受けたのは「だから、誰もが韓国側から"解雇"されまいと、より核心的で、より機密性の高い東芝技術を韓国側に提供するわけですよ。"土日ソウル通い"者同士が競い合うのです」という件(くだり)だ。韓国側の関連企業同士も謝礼を上乗せして競い合ったという。
見るも無残な日本半導体の現状
アメリカの半導体市場調査会社IC Insightsの統計によれば、2017年の世界半導体メーカー売上高トップ10の第一位を飾っているのはサムスン電子で、あのインテルを追い抜いている。2018年ではサムスン電子の前年比成長率は26%であるのに対し、インテルは14%と、インテルとの差を広げている。日本は1社(東芝)が辛うじて滑り込んでいるありさまだ。
ファブレス半導体メーカーに至っては、日本勢は1社もトップ10に入っていない。
同じくIC Insightsが2018年初頭に発表した統計によると、2017年のファブレス半導体メーカー世界トップ10は、アメリカ6社、中国2社、シンガポールと台湾各1社となっており、日本の半導体メーカーの姿はないのである。消えてしまった。
ファブレス半導体トップ10の第7位はHuaweiのハイシリコン社だが、Huaweiでさえ、ハイテク製品企業の研究開発部門を本社から切り離し、半導体の研究開発だけに特化できる会社としてハイシリコン社を立ち上げている。
日本は、これができなかった。
総合電機が半導体事業を抱え込んだまま沈んでいき、分社化する決断と経営の臨機応変さが欠けていた。
そして韓国が虎視眈々と東芝を狙っていた、あの「狡猾さ」というか「窃盗まがいの逞しさ」に気づかず、日本の当時の通産省が主導した半導体先端テクノロジーズ(Selete、セリート)に日本国内の10社以外に、なんとサムスン電子だけを加盟させて11社にし、サムスンの独走を許してしまったのである。
東芝の経営体制や韓国側のモラルが問題なのか、日本全体の産業政策が間違っていたのか。
あるいはアメリカには何を言われようとも、何をされようとも、日本は文句が言えない立場にあるのか?
東芝の元半導体技術者のモラルも問われないわけにはいかないだろうが、少なくとも東芝と当時の通産省(のちの経産省)などの脇が甘かったことだけは確かだ。
サムスンとの経緯を踏まえながら、ともかく日本の国益をこれ以上は損なわないよう、日本国民は強い自覚を持たなければならないし、日本政府には熟考をお願いしたいと思う。
・韓国半導体産業「もろさ」露呈 日本の技術を“ハニートラップ”で奪い…半導体関係メーカー幹部「恩を仇で返された。韓国勢に協力する人はいない」(夕刊フジ 2019年9月2日)
※韓国が世界一を誇る半導体産業が今後、危機に直面しそうだ。この分野は、かつて日本が世界を牽引(けんいん)していたが、「ハニートラップ」といった“反則技”などもあり、虎の子の技術を奪われた。日米は、裏切り者の韓国に最新技術を渡すことはない。技術的蓄積に欠ける韓国の現状とは。
◇
「これが、ハニートラップか…」
ある日本の半導体関係メーカーの幹部は2000年ごろ、異様な経験をした。韓国の企業で打ち合わせをした後、ソウルのバーで酒を強く勧められて酩酊(めいてい)しそうになった。すると、美女ホステスが並ぶ、怪しげな雰囲気のいるクラブに連れて行かれたのだ。
「おかしな行為を撮影される。危ない!」と正気に戻り、相手が引き止めるのを振り払ってホテルに帰った。
日本の技術者の中には、夜遊びの猛者がいた。携帯型の盗聴機探知機を持って接待に付き合った。実際に盗聴器を発見し、さんざん遊んだ後に「盗聴したな」と詰め寄った。韓国側はもちろん否定したが、その人は自分の遊びを不問にさせる交渉材料にしたという。
しかし、これは例外だ。前出の幹部は「技術者を引き抜けば何千万円も人件費がかかる。ハニートラップは成功して脅せば数十万円ですむ」と語る。
電子機器を制御する重要部品である半導体。日本はこの分野で1990年代まで世界を牽引していた。1986年の日米半導体協定で、外国産半導体の調達を自主的に行うことになり、韓国企業に技術を供与して半導体を作ってもらった。
それをきっかけに、韓国の半導体産業は飛躍した。DRAM(記憶素子)や、東芝が発明したフラッシュメモリー(情報の一括消去可能な記憶素子)など、汎用(はんよう)技術に基づく半導体を大量に生産して安値販売し、赤字覚悟でシェアを奪う戦略で成長した。
2000年前後は、日本企業が汎用半導体部門を縮小した時期で、人についた技術が流出したとされる。日本の半導体産業は10年ごろまで、そうした流出技術を活用したと思われる韓国製品との競争に苦しんだ。
ライバルの韓国勢に技術を与える日本企業の甘さと設備投資の判断ミス、収益率の低さからの撤退など日本側の問題も多いが、韓国勢のハニートラップを含めた「反則技」の影響も深刻だったといえる。
もちろん、日本企業も流出技術の実態調査と防衛策を考えたが、「ハニートラップなどの危うい手法は、引っかけた方も、引っかかった方も沈黙するので詳細は分からなかった」(同幹部)。
ちなみに、韓国企業に協力した技術者の多くは、数年すると勤めた韓国の会社を辞め、中には自殺する人もいた。日本企業にも戻れず、あまり幸せな経歴を歩んでいないという。
こうしてシェアだけは世界のトップになった韓国の半導体産業だが、その足元は崩れやすいものだ。
そもそも、韓国勢のつくる主な半導体は市況につられ価格が乱高下する汎用品で、その生産に特化した強い企業が数社あるのみだ。そうした製品の利益率は低い。半導体の検査、製造機械、製造原料などを供給する企業は韓国内にほとんど育たず、今でも日本に依存している。
高付加価値品は日米メーカーが強く、韓国メーカーはライセンス生産に甘んじている。自社開発も試みているが、なかなか成功しない。
■日米はこれまで以上に激しく監視へ
日本の経産省が、半導体製造に必要な高純度フッ化水素などの輸出審査を厳格化しただけで、韓国の半導体生産は今でも混乱している。
韓国は経済が破綻してIMF(国際通貨基金)管理となった1997年でも、半導体産業に税制優遇をし、補助金をつぎ込んで守った。ようやく成長し、経済低迷に直面する文政権で唯一の輸出の主力といえる。
ただ、今回のGSOMIA破棄を受け、日米の姿勢は変わりそうだ。
前出の幹部は「技術を日本から奪うという安易な発想をしたツケが出ている。『恩を仇で返された』という思いを持つ日本企業で、積極的に韓国勢に協力しようという人はいない。半導体の技術革新が進んだときに、韓国企業は主役になれないだろう」と言い切る。
実際に、世界経済が減速した今年になって韓国半導体関係企業の収益は大きく悪化している。また敵側の共産圏に寝返ったと言える文政権の外交政策によって、戦略物資と言える半導体技術の流失を、日米両国政府はこれまで以上に厳しく監視するようになるはずだ。
自業自得とはいえ、韓国経済の苦難はより厳しいものになりそうだ。
■石井孝明(いしい・たかあき) 経済・環境ジャーナリスト。時事通信記者、経済誌記者を経て、フリーに。安全保障や戦史、エネルギー、環境問題の研究や取材・執筆活動を行う。著書に『京都議定書は実現できるのか』(平凡社)、『気分のエコでは救えない』(日刊工業新聞)など。
・韓国の「半導体材料国産化」を見くびれない理由 模倣や日本企業からの人材引き抜きに警戒だ(東洋経済ONLINE 2019年8月8日)
※日本政府は8月2日、韓国を輸出管理上の優遇国である「ホワイト国」の対象から外すことを閣議決定した。これに対して、今後、韓国政府はさまざまな対抗措置を講じてくると見込まれる。
韓国が打ち出した宣言に日本は強気な姿勢
日本が半導体材料の対韓輸出規制を実施した直後に、韓国が打ち出した「半導体材料国産化宣言」はその1つだ。日本政府による半導体材料の対韓輸出規制強化を受け、韓国政府は半導体の材料や部品、設備などを国産化するため、研究開発投資に毎年1兆ウォン(約920億円)規模を集中投資する方針を打ち出した。
続いて5日、半導体、ディスプレー、自動車、電機・電子、機械・金属、基礎化学の6大分野から100品目を戦略品目に指定し、7年間で7兆8000億ウォン(約6800億円)を投じる「素材・部品・装備競争力強化対策」を発表した。
このうち、日本政府が輸出規制の対象とし、日本企業が世界シェア70~90%を占める半導体材料、高純度フッ化水素、レジスト(感光材)、フッ化ポリイミドなどを含む20品目は、1年以内に日本依存から脱却するという。ただし、すべて国産化で対応して供給安定化をはかろうとしているわけではなく、日本以外から調達する輸入先拡大も視野に入れているようだ。
これらの発表を受けて、日本の関係者は「日本メーカー各社が長年にわたり蓄積してきた技術に追いつく(国産化)には時間がかかる」と異口同音に強気の姿勢を示している。
これまで、同様のセリフを何度聞いてきたことか。そう言っていたはずの家電、半導体、液晶・有機ELパネル、2次電池、スマートフォンなどは、韓国にあっという間にキャッチアップされ、品目によっては追い抜かれリードされてしまった。
なぜ、韓国企業は日本側の想定を超える速さで日本のお家芸にキャッチアップできたのか。それは、「模倣」と「水平分業」を巧みに駆使したからである。日本企業のお家芸が高度な生産システムであるのに対して、韓国企業が最も重視したのはスピードである。
模倣は一般的に「ずるい」と思われている一方で、まねて超えるというのは、とても頭のいい経営戦略である。ときには、ライバルの失敗を見て反面教師にもできる(井上達彦・早稲田大学教授の『模倣の経営学』日経BP社、に詳述されている)。
加護野忠男・神戸大学大学院特命教授は「現在のパナソニックが最も競争力を発揮していたのは、(松下電器を揶揄して)『マネシタ電器』と呼ばれていた頃だ」と指摘している。たしかに、富士通も「打倒IBM」と臆面もなく言い、大型コンピューターで競い合っていた時代は、労使ともに闘争心むき出しで、社内は活気にあふれていた。
模倣は研究開発に大きな投資と多くの時間を割くことなく、「売れ筋」となる技術を簡単に手に入れることができる。
この点はM&A(企業の合併・買収)と類似している。研究開発投資と時間を節約できた分、改良に時間を割ける。一から積み上げていく独自開発に比べ、完成度が高い技術をベースにした模倣は、改良の時間も節約できる。それどころか、模倣しながら多くのことを学び、学ぶ過程でイノベーションも生まれる。
模倣することで経済発展してきた日本
例えば、“kaizen”という英語にまでなり、世界の産業界に広まったトヨタ自動車の「トヨタ生産システム」も、創業者の豊田喜一郎氏がアメリカの自動車産業を見学したところから始まり、追いつけ追い越せの号令のもと、必死で模倣していく過程で生まれたイノベーションと言えよう。
日本企業は欧米企業の技術を模倣したとしても、日本独自の改良ノウハウにより、内製化することに情熱を燃やした。
例えば、シャープの創業者・早川徳次氏は日本初の国産ラジオを製品化する際、大阪・心斎橋で目にしたアメリカ製ラジオを持ち帰って分解し、見よう見まねで、部品から一つひとつ手作りした。今でいうところの垂直統合である。自社で何もかも作ることが日本の常識であり、誇りだった。たとえ、部品、材料を外のメーカーに作ってもらったとしても、「ケイレツ」と呼ばれる強固な結びつきを重視した。
半導体産業においても日本では、半導体メーカーが中心になり、製造装置、材料メーカーを育て、ネットワーク化が図られた。液晶パネルにおいても同様のエコシステム(生態系)が築かれた。
ところが、韓国メーカーは、製造装置や材料をアメリカや日本から調達する水平分業を貫き、スピード重視型の経営をコアコンピタンスとする模倣の戦略を徹底した。自動販売機にコインを入れるとドリンクが出てくるように、製造装置と材料を投入すれば半導体や液晶パネルが生産できる大規模投資型量産産業には、豊富な資金力をバックに大胆な投資ができる財閥資本主義が適していた。
韓国半導体産業の雄は、同国GDP(国内総生産)の5%を担うサムスンの中核企業・サムスン電子(三星電子)である。その歴史をたどると、1969年1月に三星電子工業を創業。同年12月に(2009年12月にパナソニックの子会社になった)三洋電機と合弁で三星三洋電機を設立し電子産業に進出したことにさかのぼる。
このときに、三洋電機の懇切丁寧な指導がなければ、サムスンのエレクトロニクス産業は誕生していなかったことだろう。その後も、NECと白物家電、ソニーと液晶パネルの合弁会社を立ち上げるなど、日本を先生にして模倣の戦略を着々と進めてきた。
この模倣の戦略には副産物があった。「お客様は神様」である日本の製造装置メーカーは、セールスを行う過程で、アメリカのライバルに顧客を取られたくないという思いも手伝い、その使い方を手取り足取り教えた。製造装置には、すでに日米の半導体メーカーと製造装置メーカーが長い時間をかけ、すり合わせて作り上げたノウハウが詰まっていた。
韓国メーカーは、顧客の立場を大いに活用し、日本やアメリカの半導体メーカーに内在する知財をスピーディーに吸収できたのだ。加えて、日本にある「研究所」が情報収集だけでなく人材スカウトの戦略拠点となった。
2009年12月、三洋電機がパナソニックにより子会社化されたとき早速、三洋電機のめぼしい技術者たちにサムスンからお誘いの声がかかったと聞く。自宅、携帯電話、ときには職場にまで電話やメールによるスカウト攻勢がかけられた。その中には、日本の数倍に当たる報酬を提示され、韓国へ渡った人もいた。
韓国企業の恐ろしい“戦略”
この頃、次のような話がまことしやかにささやかれた。
金曜日夜に空港へ行くと、ソウル行きの飛行機の搭乗口前で、複数の日本のエンジニアの顔が見られた。1泊2日で缶詰になり韓国企業で「家庭教師役」を務めることで、破格の報酬が渡された。
日本の技術や技術経営の肝を知る関係者が東京・赤坂の料亭で接待され、2次会は韓国クラブへ。接待が終わると高級ホテルのスイーツルームが予約されていた。その部屋の扉を開くと美女が……。
都市伝説まがいの噂話であり、真偽のほどは定かではないが、韓国企業の情報収集が実に巧みであることは否めない事実である。
このほど韓国政府が発表した巨額の公共投資は、韓国企業が研究開発のみに振り向けられるとは限らない。情報収集や人材スカウトに投資する可能性もある。公的資金が投じられたとなれば、韓国政府はそれを受け取った企業に対して結果を求めるだろう。当該企業は、結果を出すためには「何でも」トライしてくる可能性がある。この「何でも」が韓国企業の最も恐ろしい戦略である。
不買運動に象徴される反日感情を、経済が低迷する韓国政府が政治利用するのではないかと指摘する専門家筋の声も聞かれる。
そのような動きが懸念される背景には、韓国という国は国家的危機に直面したとき「同胞」が一体になるという国民性と、朝鮮民族に根付く「恨(ハン)」の思想がある。恨は、単なる恨みつらみではなく、悲哀、無念さ、痛恨、無常観、優越者に対する憧憬や嫉妬などの感情をいう。今回の日本政府による規制措置が、恨の感情を炎上させるかもしれない。
政治的対応はさておき、日本政府の「経営戦略的失敗」は、韓国に「材料、部品の国産化を急がなくてはならない」と再認識させてしまったことだ。
先進国にとって上手な商売とは何か。それは、「なぜ儲かっているのかわからないビジネス」である。日本企業を見れば、家電をはじめとする最終商品(B to C系商品)の競争力が落ちてきているからこそ、模倣されにくい「見えざる競争力」が求められる。要するにブラックボックスとなる参入障壁が高い産業である。この点、今回、対韓輸出規制品目となった半導体材料は、日本にとっては「金のなる木」と言えよう。
今回の1件で、日本の半導体材料メーカーの世界的に高いシェアを占めている点が注目された。例えば、レジストは91.9%(JSR、東京応化工業、信越化学工業)、フッ化ポリイミド(三菱ガス化学)は93.7%と寡占状態にある(JETRO調べ)。
日本企業の従業員を虎視眈々と狙う韓国側
しかし、浮き沈みの激しい半導体市況に左右されやすいという弱点もある。高シェアを誇る日本の材料・部品メーカーであっても、市況の変化に伴う業績の悪化はありうるし、技術者をリストラする局面もあるかもしれない。
そのとき韓国メーカーは彼らを高額報酬で虎視眈々と狙ってくるだろう。リストラを実施しなくとも、会社の評価を不本意に感じ早期退職を検討している技術者、定年まで勤めあげた後、第2の人生を模索しているベテランなども標的になる可能性も少なくない。
「終身雇用はもはや維持できない」と中西宏明・経団連会長や豊田章男・トヨタ自動車社長が公言し、早期退職者が急増している。日本企業が株主重視経営へ傾く中で、従業員を大切にする経営は、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の世界と化している。
アイリスオーヤマは大手電機メーカーの退職シニアを積極的に採用し、またたくまに「家電メーカー」の一角を占めるようになった。日本企業が日本人をスカウトしている場合は、むしろ人生二毛作時代の美談として受け取れなくもない。が、半導体材料・部品でも韓国メーカーに追いつかれ、追い越されてしまった場合、美談では済まされない。
日本は国家的危機を迎えるかもしれない。輸出規制は政府の命令で行えても、企業で働く従業員の心は、日本政府の思惑どおりにはならないからだ。
日本を追いかけてくる国として韓国以上の脅威となるのが中国である。半導体を基幹産業に育てようとしている中国は、半導体材料の国産化にも食指を動かしつつある。日本政府が対韓輸出規制の対象にしたフッ化水素については、森田化学工業、ステラケミファなどの日本勢が占めるシェアは49.9%。中国は46.3%とほぼ拮抗している(JETRO調べ)。日本が寡占しているレジストやフッ化ポリイミドとは事情が異なる。
日韓関係の悪化に乗じて、中国メーカーはフッ化水素を中心に日本のシェアを奪おうとしている。いったん離れた客は戻ってこない。漁夫の利を得るのは中国であり、これを機に中国の半導体産業が一挙に台頭してくると考えられる。
これまで、日韓分業のサプライチェーンが現存し、日本の材料・部品メーカーは、得意先を安定的に確保できていたが、日本は「パンドラの箱」を開けてしまった可能性もある。
韓国企業の戦略兵器は「人心掌握」
模倣の戦略の餌食にならないためには、追いかけられる側は、できるだけリードタイムを長くしておかなくてはならない。韓国企業が本当に半導体材料で日本に追いつけるか否かは、現時点では定かではないが、少なくとも、韓国が最も重視している「スピード」をアップさせて、リードタイムを短くする可能性を高めたのではないか。
日本政府が韓国への半導体材料の輸出規制を厳しくすると発表してから6日後の7月7日、サムスンの李在鎔(イ・ジェヨン)副会長が緊急来日した。規制の対象になった半導体先端素材3つ(フッ化水素・レジスト・フッ化ポリイミド)の取引先を探すため、慶応義塾大学大学院(経営管理研究科)留学時代に磨いた得意の日本語を駆使し、日本の半導体材料メーカーを行脚した。
日本の経済産業省がエッチングガスをはじめ、戦略物資の輸出許可権を握っているため、日本メーカー側が簡単に要請に応じたとは考えられないが、巧みな日本語と人心掌握術を駆使した交渉は、同じく日本(早稲田大学第一商学部)で学んだ父の李健熙(イ・ゴンヒ)会長譲りか。かつて、李会長は足しげく来日し、日本の有力技術者や経営者を自らスカウトした。
技術のキャッチアップと言えば、技術をまねる、と日本人は考えがちだが、模倣の戦略で鍛えられた韓国企業の戦略兵器は「人心掌握」である。このことを忘れて高をくくっていれば、近い将来、半導体材料でも想定外のスピードで韓国の国産化が実現し、ほかのキャッチアップされた製品と同様、日本メーカーの強敵になる可能性を秘めている。
そこで、「韓流・模倣の戦略」と戦う前に、日本企業が猛省しなくてはならないのが、株主重視経営、終身雇用終焉の結果、従業員の「人心掌握」を忘れてしまったことである。再び、「戦略的人的資源管理(SHRM)」として、日本人従業員の心を徹底的にリサーチし、上手にマネジメントしなくてはならないのではないか。
パナソニックの創業者・松下幸之助氏は「まだ会社が小さかった頃、従業員に、『お得意先に行って、きみのところは何をつくっているのかと尋ねられたら、松下電器は人をつくっています。電気製品もつくっていますが、その前にまず人をつくっているのですと答えなさい』とよく言ったものである」と述べている。
日本企業が行うべき戦略とは
優れた製品をつくるのは会社の最優先の使命である。それを実現するためには、まずすぐれた人材を養成すれば、おのずといい製品がつくれるようになり、事業も発展していくと考えたのだ。
さらに、「単に仕事ができ、技術が優れていればいいというものではない」と説く。会社の使命や仕事の意義を自覚し、自主性と責任感を持った人でなくてはならないと考えた。この考え方は、終身雇用、従業員重視の考えが背景にあってこそ成立する。
対韓輸出規制を機に、日系半導体材料メーカーの得意先(韓国メーカー)が、中国をはじめとする外国企業に取引先を転換してしまえば、もう戻ってこないだろう。そうなれば、半導体材料メーカーの業績悪化も避けられない。
この事態を迎えたとき、「人斬り」がタブーではなくなった日本企業が、従業員に牙を向ける可能性は、なきにしもあらず。そうなれば、今度は従業員が企業に対して牙を向ける。
「模倣の戦略」で迫ってくる企業から知財を守り、打ち勝つにはどうすればいいのか。このたびの対韓輸出規制を皮切りに、日本企業は従業員の心をおもんぱかる経営戦略を真剣に構築してほしいものだ。
※世界トップに君臨する米国
1760年代に英国で石炭をエネルギー源とする産業革命が起き、1900年にはこれが石油や電力による第2次産業革命に発展した。豊富な石油資源を持っていた米国はこのアドバンテージを活かし、英国を追い抜いて世界一の工業国に躍進した。しかし、当時の米国は工業インフラの建設に必要な多額の資金を英仏から借金していたので、1位になっても欧州の主要国には頭が上がらなかった。それが、第一次世界大戦(1914年)の軍需景気で借金を返し、その後は第二次世界大戦(1945年終了)で疲弊した欧州や東西冷戦の宿敵のソ連を引き離し、ずっと世界トップの座に君臨し続けている。
1980年代には日本が高度経済成長とオイルショックを乗り越えて世界2位に台頭してきたが、米国は「プラザ合意」や「日米半導体協定」などで日本の成長の芽を摘み、90年代には日本をバブル崩壊に追いやった。
米国はライバルなき90年代、パソコンのOS「Windows」のマイクロソフトとCPUのインテルによるウィンテル連合が半導体とパソコン市場で世界を席巻。米国は2000年代にIT革命で先行し、再び王者に返り咲いた。

国家主導で半導体企業を支援
米国の半導体協会(SIA)が発表した文書にこんな一節がある。「●●製品の世界市場におけるシェアの増大によって、米国企業は大きな影響を受けているが、これは●●製品によるターゲット政策による結果である」。●●に入るのは国名だ。
この文章だとそれほどインパクトを感じないが、米国のある大手エレクトロニクス企業が発表した次の文章を読むと、米国の警戒感をダイレクトに感じとることができる。「●●は20年以上も特定産業において世界市場を席巻することを目的とした中央集権的な政策の策定、資金供与、市場コントロールを行ってきた」――。かなり具体的に批判しているのが分かるだろう。
この国家主導による産業政策や特定企業への資金供与、政府による市場介入によって急速に工業力を高めてきた国がどこかと問われれば、今の世の中ならば、たいていの人が「中国」と答えるだろう。しかし、この文書は1983年に発表されたものだ。米国が名指しで批判した相手国とは「日本」のこと。この年に日米の両国間で「半導体摩擦」が勃発した。
この当時、半導体市場を牽引していたアプリケーションは、パソコンやワープロなどのOA機器(16K、64KのDRAMを搭載)やビデオデッキ(映像処理のIC)、CDプレーヤー(オーディオ用IC)などだった。日本の大手半導体メーカー30社の売上高はなんと2兆円に迫り、NECは前年比31%増、東芝は40%増、富士通は49%増、日立は54%増、三菱電機は58%増と破竹の勢いで米国の半導体企業を打ち負かしていった。

1983年に日米半導体摩擦
米国半導体協会は1983年、米国に追いつけ追い越せと目覚ましい発展を続けていた日本の半導体産業に対して批判を始めた。その翌年、日本の通産省と米国の通商代表部および商務省は、半導体の通商問題について話し合う作業部会を設置した。84年にはロス五輪が開催され、オリンピックイヤー効果でテレビやビデオの販売が拡大し、爆発的なブームとなったパソコンも半導体需要を牽引し、世界の半導体マーケットは前年比約50%増の260億ドル規模の市場に拡大した。当然、世界中でバカ売れしている日本の半導体を横目で見ていた米国はさらに怒りを沸騰させていった。
しかし、85年は五輪開催後の反動で半導体市場は大不況に転落した。市況の急変は劣勢だった米国の半導体メーカーに大きな痛手を与え、日米の半導体摩擦は過熱の一途をたどった。テキサス・インスツルメンツ(TI)は同年に大量解雇を行い、インテルやナショナルセミコンダクター(NS)、モトローラも操業時間を短縮せざるを得ない厳しい事態に追い込まれた。米国の日本に対する敵対心はさらに膨れ上がった。
マイクロンは85年、日本の半導体メーカー7社が不当にDRAM(当時は64K)を安売りしているとしてダンピング訴訟を起こして日本企業を攻撃した。AMDやNSもダンピング提訴を起こし、ついにはレーガン大統領が直々に米商務部に日本のダンピング問題について調査するよう命令。そして、86年についに「日米半導体協定」が締結される事態に進展した。自由貿易に反して、米国が日本に米国製半導体の輸入促進をゴリ押しすることが許されるようになってしまった。
日米半導体協定により日米摩擦は解消されると期待されたが、米国は87年に第三国市場でのダンピングを理由にさらなる報復措置を発表。日米は戦後最大の緊張状態に突入した。レーガン大統領は日本が半導体協定に違反していたことによる損害賠償額として3億ドルを計上し、これに相当する日本製のパソコンやテレビ、電動工具に対して異例ともいえる100%の報復関税を発表した。また、米国防総省が富士通によるフェアチャイルドの買収を阻止するなど、日本企業に対する報復が続いた。
米国政府は日本に対して、米国の国家プロジェクトとして共同の半導体開発プロジェクトに参画するよう強制するなどして、半導体産業の立て直しを図った。ちなみに、米国でこの頃にICの設計開発と製造を分離する「ファブレス」の業態が誕生した。

逆境と戦うニッポン半導体
日本の半導体メーカーは販売面で米国から多大な圧力を受けるようになったが、逆にこれを試練として製造力を磨くことで対抗を続けた。汎用品となった1MBのDRAMでは世界市場の90%近くを獲得し、先端品の4MBのDRAMの製造でもランキング上位を席巻した。平成元年となった1989年には、日本の半導体大手30社の売上高は4兆円となり、半導体摩擦が起きる前と比べて7年で2倍に拡大。ニッポン半導体が世界市場の半分を獲得し、世界の頂点に立った。
86年に締結された日米半導体協定は91年に協定期限の5年目を迎えた。日本の半導体産業の弱体化に成功しなかった米国は、新たな日米半導体協定を締結して日本への圧力を継続した。新協定では、パソコンやテレビ、電動工具に対する100%の報復関税が解除されたものの、日本市場における外国半導体シェアを20%以上にするという具体的な数値目標が設定された。
この頃になると、米国の半導体メーカーは知的財産権による侵害を理由に日本企業を攻撃することが多くなった。89年に日本でTIのキルビー特許(キルビー博士が発明したICの基本特許)が30年ぶりに成立し、日本の半導体メーカーが後に支払ったこの特許料は総額数千億円にも達したといわれている。
米半導体業界の回復と対日制裁の終了
83年の日米半導体摩擦から10年弱が経過し、92年にはパソコン需要に牽引されたインテルが世界トップに躍り出るなど米国の半導体メーカーの回復が目立った。DRAMでは韓国サムスンが新たな日本の脅威となり、正面にはインテル、背後からはサムスンが襲いかかる構図が常態化したのもちょうどこの時期からだ。マイクロソフトは93年に「Windows3.1」、95年には「Windows95」を世に送り出し、米企業がエレクトロニクス業界の覇権を奪い返した。家電やオーディオ機器に強かった日本勢は徐々にかつての勢いを失っていった。
半導体の復権を果たした米国は94年、第2次日米半導体協定(91年に改定されたもの)の期限5年満了となる2年後に日米半導体協定の終了を決定。日米半導体摩擦は開始から13年後の96年についに終結した。

・日本の半導体はなぜ沈んでしまったのか?(Newsweek 日本語版 2018年12月25日)
遠藤誉(東京福祉大学国際交流センター長)
1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。東京福祉大学国際交流センター長、筑波大学名誉教授、理学博士。中国社会科学院社会学研究所客員研究員・教授などを歴任。
※1980年代にアメリカを追い抜き世界一だった日本の半導体はアメリカにより叩き潰され、その間、韓国が追い上げた。土日だけサムスンに通って破格的高給で核心技術を売りまくった東芝社員の吐露を明かす時が来た。
日本の半導体産業を徹底して潰したアメリカ:常に「ナンバー1」を求めて
1980年代半ば、日本の半導体は世界を席巻し全盛期にあった。技術力だけでなく、売上高においてもアメリカを抜いてトップに躍り出、世界シェアの50%を超えたこともある。特にDRAM(Dynamic Random Access Memory)(ディーラム)は日本の得意分野で、廉価でもあった。
それに対してアメリカは通商法301条に基づく提訴や反ダンピング訴訟などを起こして、70年代末から日本の半導体産業政策を批判し続けてきた。
「日本半導体のアメリカ進出は、アメリカのハイテク産業あるいは防衛産業の基礎を脅かすという安全保障上の問題がある」というのが、アメリカの対日批判の論拠の一つであった。日米安保条約で結ばれた「同盟国」であるはずの日本に対してさえ、「アメリカにとっての防衛産業の基礎を脅かすという安全保障上の問題がある」として、激しい批判を繰り広げたのである。
こうして1986年7月に結ばれたのが「日米半導体協定」(第一次協定)だ。
「日本政府は日本国内のユーザーに対して外国製(実際上は米国製)半導体の活用を奨励すること」など、アメリカに有利になる内容が盛り込まれ、日本を徹底して監視した。
1987年4月になると、当時のレーガン大統領は「日本の第三国向け輸出のダンピング」および「日本市場でのアメリカ製半導体のシェアが拡大していない」ことを理由として、日本のパソコンやカラーテレビなどのハイテク製品に高関税(100%)をかけて圧力を強めた。
1991年7月に第一次協定が満期になると、アメリカは同年8月に第二次「日米半導体協定」を強要して、日本国内で生産する半導体規格をアメリカの規格に合わせることや日本市場でのアメリカ半導体のシェアを20%まで引き上げることを要求した。1997年7月に第二次協定が満期になる頃には、日本の半導体の勢いが完全に失われたのを確認すると、ようやく日米半導体協定の失効を認めたのである。
時代は既に移り変わっていた
しかし、第二次協定の満期によって、日本がアメリカの圧力から解放されたときには、時代は既に激しく移り変わっていた。
80年代の全盛期、日本の半導体は総合電機としての自社のエレクトロニクスを高性能化させるサイクルの中で発展してきた。日立や富士通などの大型計算機はIBMに近づいており、他のハイテク製品の性能を高めるための半導体の開発は、アメリカを凌いでいたと言っても過言ではない。
ところが1993年にインテルがマイクロプロセッサーPentiumを、 1995年にはマイクロソフトがPC用のOSであるWindows95を発売すると、世の中はワークステーション時代からPC時代に入り、いきなりインターネットの時代へと突入し始めた。
それまでのDRAMは供給過剰となって日本の半導体に打撃を与え(DRAM不況)、二度にわたる日米半導体協定によって圧倒的優位に立ったアメリカ半導体業界が進めるファブレス(半導体の設計は行うが生産ラインを持たない半導体企業)など、研究開発のみに専念する生産方式についていけなかった。時代は既に設計と製造が分業される形態を取り始めていたのである。
当時の通産省が率いる包括的な半導体産業に関する国家プロジェクトは、分業という新しい流れについていくことを、かえって阻害した側面がある。
一方、バブルの崩壊なども手伝って、1991年ごろには日本のエレクトロニクス関係の企業は、半導体部門のリストラを迫られていた。
「土日ソウル通い」:日本の半導体技術を「窃取した」韓国
リストラされた日本の半導体関係の技術者を韓国のサムスン電子が次々とヘッドハンティングしたことは周知の事実だろう。また2014年には、東芝のNAND型フラッシュメモリーの研究データを韓国企業に不正に流出させたとして、東芝と提携している日本の半導体メーカーの元技術者が逮捕されたこともある。
しかし、こんなものは実に「かわいい」レベルで、もっと凄まじい「窃盗まがい」のことが起きていた。
日本の半導体関係の技術者がリストラをひかえて窓際に追いやられていた頃、技術者の一部は「土日ソウル通い」をしていたのである。
その人は元東芝の社員で、非常に高度な半導体技術の持ち主だった。しかし半導体部門が次々に閉鎖され、上級技術者もリストラの対象となって、すでに「もしもし」と声がかかるようになっていた。解雇は時間の問題だった。そういった人たちのリストを韓国は手にしていた。そこで水面下でこっそりと近づき、甘い誘いを始めたのだ。
金曜日の夜になると東京からソウルに飛び、土曜と日曜日の2日間をかけて、たっぷりとその半導体技術者が持っている技術をサムスン電子に授ける。日曜日の最終フライトで東京に戻り、月曜日の朝には何食わぬ顔をして出社する。
土日の2日間だけで、東芝における月収分相当の謝礼を現金で支給してくれた。領収書なしだ。
「行かないはずがないだろう」と、その人は言った。
「長いこと、東芝には滅私奉公をしてきました。終身雇用制が崩れるなどということは想像もしていなかった。だというのに、この私を解雇しようとしているのです。それに対して韓国では、自分が培ってきた技術を評価してくれるだけでも自尊心が保たれ、心を支えることができる。おまけに1ヵ月に4倍ほどの給料が入るのですよ。行かないはずがないでしょう!」
それに「土日のソウル通いは、私一人ではない。何人も、いや、おそらく何十人もいるんですよ!」と、自分の罪の重さを軽減させるかのように顔を歪めた。
彼の吐露によれば、それは「韓国政府がらみ」で、サムスン電子単独の行動ではないというのである。
恐ろしいのは、その次のステップだ。
「彼らはですね。私たち技術者を競わせて、そのときどきに最も必要な技術者を引っ張ってくる。半導体も、どのようなハイテク製品を製造するかによって内容が変わってきます。私ら、やや古株から吸い取れる技術を吸い取り終わると、なんと突然"解雇"されるわけですよ。もっとも、闇雇用ですから、"解雇"という言葉は適切ではないんですがね......。要は、"用無し"になったわけです」
この時には、東芝からは、まさに正式に「解雇」されていた。
これら一連の吐露の中で、最もショックを受けたのは「だから、誰もが韓国側から"解雇"されまいと、より核心的で、より機密性の高い東芝技術を韓国側に提供するわけですよ。"土日ソウル通い"者同士が競い合うのです」という件(くだり)だ。韓国側の関連企業同士も謝礼を上乗せして競い合ったという。
見るも無残な日本半導体の現状
アメリカの半導体市場調査会社IC Insightsの統計によれば、2017年の世界半導体メーカー売上高トップ10の第一位を飾っているのはサムスン電子で、あのインテルを追い抜いている。2018年ではサムスン電子の前年比成長率は26%であるのに対し、インテルは14%と、インテルとの差を広げている。日本は1社(東芝)が辛うじて滑り込んでいるありさまだ。
ファブレス半導体メーカーに至っては、日本勢は1社もトップ10に入っていない。
同じくIC Insightsが2018年初頭に発表した統計によると、2017年のファブレス半導体メーカー世界トップ10は、アメリカ6社、中国2社、シンガポールと台湾各1社となっており、日本の半導体メーカーの姿はないのである。消えてしまった。
ファブレス半導体トップ10の第7位はHuaweiのハイシリコン社だが、Huaweiでさえ、ハイテク製品企業の研究開発部門を本社から切り離し、半導体の研究開発だけに特化できる会社としてハイシリコン社を立ち上げている。
日本は、これができなかった。
総合電機が半導体事業を抱え込んだまま沈んでいき、分社化する決断と経営の臨機応変さが欠けていた。
そして韓国が虎視眈々と東芝を狙っていた、あの「狡猾さ」というか「窃盗まがいの逞しさ」に気づかず、日本の当時の通産省が主導した半導体先端テクノロジーズ(Selete、セリート)に日本国内の10社以外に、なんとサムスン電子だけを加盟させて11社にし、サムスンの独走を許してしまったのである。
東芝の経営体制や韓国側のモラルが問題なのか、日本全体の産業政策が間違っていたのか。
あるいはアメリカには何を言われようとも、何をされようとも、日本は文句が言えない立場にあるのか?
東芝の元半導体技術者のモラルも問われないわけにはいかないだろうが、少なくとも東芝と当時の通産省(のちの経産省)などの脇が甘かったことだけは確かだ。
サムスンとの経緯を踏まえながら、ともかく日本の国益をこれ以上は損なわないよう、日本国民は強い自覚を持たなければならないし、日本政府には熟考をお願いしたいと思う。
・韓国半導体産業「もろさ」露呈 日本の技術を“ハニートラップ”で奪い…半導体関係メーカー幹部「恩を仇で返された。韓国勢に協力する人はいない」(夕刊フジ 2019年9月2日)
※韓国が世界一を誇る半導体産業が今後、危機に直面しそうだ。この分野は、かつて日本が世界を牽引(けんいん)していたが、「ハニートラップ」といった“反則技”などもあり、虎の子の技術を奪われた。日米は、裏切り者の韓国に最新技術を渡すことはない。技術的蓄積に欠ける韓国の現状とは。
◇
「これが、ハニートラップか…」
ある日本の半導体関係メーカーの幹部は2000年ごろ、異様な経験をした。韓国の企業で打ち合わせをした後、ソウルのバーで酒を強く勧められて酩酊(めいてい)しそうになった。すると、美女ホステスが並ぶ、怪しげな雰囲気のいるクラブに連れて行かれたのだ。
「おかしな行為を撮影される。危ない!」と正気に戻り、相手が引き止めるのを振り払ってホテルに帰った。
日本の技術者の中には、夜遊びの猛者がいた。携帯型の盗聴機探知機を持って接待に付き合った。実際に盗聴器を発見し、さんざん遊んだ後に「盗聴したな」と詰め寄った。韓国側はもちろん否定したが、その人は自分の遊びを不問にさせる交渉材料にしたという。
しかし、これは例外だ。前出の幹部は「技術者を引き抜けば何千万円も人件費がかかる。ハニートラップは成功して脅せば数十万円ですむ」と語る。
電子機器を制御する重要部品である半導体。日本はこの分野で1990年代まで世界を牽引していた。1986年の日米半導体協定で、外国産半導体の調達を自主的に行うことになり、韓国企業に技術を供与して半導体を作ってもらった。
それをきっかけに、韓国の半導体産業は飛躍した。DRAM(記憶素子)や、東芝が発明したフラッシュメモリー(情報の一括消去可能な記憶素子)など、汎用(はんよう)技術に基づく半導体を大量に生産して安値販売し、赤字覚悟でシェアを奪う戦略で成長した。
2000年前後は、日本企業が汎用半導体部門を縮小した時期で、人についた技術が流出したとされる。日本の半導体産業は10年ごろまで、そうした流出技術を活用したと思われる韓国製品との競争に苦しんだ。
ライバルの韓国勢に技術を与える日本企業の甘さと設備投資の判断ミス、収益率の低さからの撤退など日本側の問題も多いが、韓国勢のハニートラップを含めた「反則技」の影響も深刻だったといえる。
もちろん、日本企業も流出技術の実態調査と防衛策を考えたが、「ハニートラップなどの危うい手法は、引っかけた方も、引っかかった方も沈黙するので詳細は分からなかった」(同幹部)。
ちなみに、韓国企業に協力した技術者の多くは、数年すると勤めた韓国の会社を辞め、中には自殺する人もいた。日本企業にも戻れず、あまり幸せな経歴を歩んでいないという。
こうしてシェアだけは世界のトップになった韓国の半導体産業だが、その足元は崩れやすいものだ。
そもそも、韓国勢のつくる主な半導体は市況につられ価格が乱高下する汎用品で、その生産に特化した強い企業が数社あるのみだ。そうした製品の利益率は低い。半導体の検査、製造機械、製造原料などを供給する企業は韓国内にほとんど育たず、今でも日本に依存している。
高付加価値品は日米メーカーが強く、韓国メーカーはライセンス生産に甘んじている。自社開発も試みているが、なかなか成功しない。
■日米はこれまで以上に激しく監視へ
日本の経産省が、半導体製造に必要な高純度フッ化水素などの輸出審査を厳格化しただけで、韓国の半導体生産は今でも混乱している。
韓国は経済が破綻してIMF(国際通貨基金)管理となった1997年でも、半導体産業に税制優遇をし、補助金をつぎ込んで守った。ようやく成長し、経済低迷に直面する文政権で唯一の輸出の主力といえる。
ただ、今回のGSOMIA破棄を受け、日米の姿勢は変わりそうだ。
前出の幹部は「技術を日本から奪うという安易な発想をしたツケが出ている。『恩を仇で返された』という思いを持つ日本企業で、積極的に韓国勢に協力しようという人はいない。半導体の技術革新が進んだときに、韓国企業は主役になれないだろう」と言い切る。
実際に、世界経済が減速した今年になって韓国半導体関係企業の収益は大きく悪化している。また敵側の共産圏に寝返ったと言える文政権の外交政策によって、戦略物資と言える半導体技術の流失を、日米両国政府はこれまで以上に厳しく監視するようになるはずだ。
自業自得とはいえ、韓国経済の苦難はより厳しいものになりそうだ。
■石井孝明(いしい・たかあき) 経済・環境ジャーナリスト。時事通信記者、経済誌記者を経て、フリーに。安全保障や戦史、エネルギー、環境問題の研究や取材・執筆活動を行う。著書に『京都議定書は実現できるのか』(平凡社)、『気分のエコでは救えない』(日刊工業新聞)など。
・韓国の「半導体材料国産化」を見くびれない理由 模倣や日本企業からの人材引き抜きに警戒だ(東洋経済ONLINE 2019年8月8日)
※日本政府は8月2日、韓国を輸出管理上の優遇国である「ホワイト国」の対象から外すことを閣議決定した。これに対して、今後、韓国政府はさまざまな対抗措置を講じてくると見込まれる。
韓国が打ち出した宣言に日本は強気な姿勢
日本が半導体材料の対韓輸出規制を実施した直後に、韓国が打ち出した「半導体材料国産化宣言」はその1つだ。日本政府による半導体材料の対韓輸出規制強化を受け、韓国政府は半導体の材料や部品、設備などを国産化するため、研究開発投資に毎年1兆ウォン(約920億円)規模を集中投資する方針を打ち出した。
続いて5日、半導体、ディスプレー、自動車、電機・電子、機械・金属、基礎化学の6大分野から100品目を戦略品目に指定し、7年間で7兆8000億ウォン(約6800億円)を投じる「素材・部品・装備競争力強化対策」を発表した。
このうち、日本政府が輸出規制の対象とし、日本企業が世界シェア70~90%を占める半導体材料、高純度フッ化水素、レジスト(感光材)、フッ化ポリイミドなどを含む20品目は、1年以内に日本依存から脱却するという。ただし、すべて国産化で対応して供給安定化をはかろうとしているわけではなく、日本以外から調達する輸入先拡大も視野に入れているようだ。
これらの発表を受けて、日本の関係者は「日本メーカー各社が長年にわたり蓄積してきた技術に追いつく(国産化)には時間がかかる」と異口同音に強気の姿勢を示している。
これまで、同様のセリフを何度聞いてきたことか。そう言っていたはずの家電、半導体、液晶・有機ELパネル、2次電池、スマートフォンなどは、韓国にあっという間にキャッチアップされ、品目によっては追い抜かれリードされてしまった。
なぜ、韓国企業は日本側の想定を超える速さで日本のお家芸にキャッチアップできたのか。それは、「模倣」と「水平分業」を巧みに駆使したからである。日本企業のお家芸が高度な生産システムであるのに対して、韓国企業が最も重視したのはスピードである。
模倣は一般的に「ずるい」と思われている一方で、まねて超えるというのは、とても頭のいい経営戦略である。ときには、ライバルの失敗を見て反面教師にもできる(井上達彦・早稲田大学教授の『模倣の経営学』日経BP社、に詳述されている)。
加護野忠男・神戸大学大学院特命教授は「現在のパナソニックが最も競争力を発揮していたのは、(松下電器を揶揄して)『マネシタ電器』と呼ばれていた頃だ」と指摘している。たしかに、富士通も「打倒IBM」と臆面もなく言い、大型コンピューターで競い合っていた時代は、労使ともに闘争心むき出しで、社内は活気にあふれていた。
模倣は研究開発に大きな投資と多くの時間を割くことなく、「売れ筋」となる技術を簡単に手に入れることができる。
この点はM&A(企業の合併・買収)と類似している。研究開発投資と時間を節約できた分、改良に時間を割ける。一から積み上げていく独自開発に比べ、完成度が高い技術をベースにした模倣は、改良の時間も節約できる。それどころか、模倣しながら多くのことを学び、学ぶ過程でイノベーションも生まれる。
模倣することで経済発展してきた日本
例えば、“kaizen”という英語にまでなり、世界の産業界に広まったトヨタ自動車の「トヨタ生産システム」も、創業者の豊田喜一郎氏がアメリカの自動車産業を見学したところから始まり、追いつけ追い越せの号令のもと、必死で模倣していく過程で生まれたイノベーションと言えよう。
日本企業は欧米企業の技術を模倣したとしても、日本独自の改良ノウハウにより、内製化することに情熱を燃やした。
例えば、シャープの創業者・早川徳次氏は日本初の国産ラジオを製品化する際、大阪・心斎橋で目にしたアメリカ製ラジオを持ち帰って分解し、見よう見まねで、部品から一つひとつ手作りした。今でいうところの垂直統合である。自社で何もかも作ることが日本の常識であり、誇りだった。たとえ、部品、材料を外のメーカーに作ってもらったとしても、「ケイレツ」と呼ばれる強固な結びつきを重視した。
半導体産業においても日本では、半導体メーカーが中心になり、製造装置、材料メーカーを育て、ネットワーク化が図られた。液晶パネルにおいても同様のエコシステム(生態系)が築かれた。
ところが、韓国メーカーは、製造装置や材料をアメリカや日本から調達する水平分業を貫き、スピード重視型の経営をコアコンピタンスとする模倣の戦略を徹底した。自動販売機にコインを入れるとドリンクが出てくるように、製造装置と材料を投入すれば半導体や液晶パネルが生産できる大規模投資型量産産業には、豊富な資金力をバックに大胆な投資ができる財閥資本主義が適していた。
韓国半導体産業の雄は、同国GDP(国内総生産)の5%を担うサムスンの中核企業・サムスン電子(三星電子)である。その歴史をたどると、1969年1月に三星電子工業を創業。同年12月に(2009年12月にパナソニックの子会社になった)三洋電機と合弁で三星三洋電機を設立し電子産業に進出したことにさかのぼる。
このときに、三洋電機の懇切丁寧な指導がなければ、サムスンのエレクトロニクス産業は誕生していなかったことだろう。その後も、NECと白物家電、ソニーと液晶パネルの合弁会社を立ち上げるなど、日本を先生にして模倣の戦略を着々と進めてきた。
この模倣の戦略には副産物があった。「お客様は神様」である日本の製造装置メーカーは、セールスを行う過程で、アメリカのライバルに顧客を取られたくないという思いも手伝い、その使い方を手取り足取り教えた。製造装置には、すでに日米の半導体メーカーと製造装置メーカーが長い時間をかけ、すり合わせて作り上げたノウハウが詰まっていた。
韓国メーカーは、顧客の立場を大いに活用し、日本やアメリカの半導体メーカーに内在する知財をスピーディーに吸収できたのだ。加えて、日本にある「研究所」が情報収集だけでなく人材スカウトの戦略拠点となった。
2009年12月、三洋電機がパナソニックにより子会社化されたとき早速、三洋電機のめぼしい技術者たちにサムスンからお誘いの声がかかったと聞く。自宅、携帯電話、ときには職場にまで電話やメールによるスカウト攻勢がかけられた。その中には、日本の数倍に当たる報酬を提示され、韓国へ渡った人もいた。
韓国企業の恐ろしい“戦略”
この頃、次のような話がまことしやかにささやかれた。
金曜日夜に空港へ行くと、ソウル行きの飛行機の搭乗口前で、複数の日本のエンジニアの顔が見られた。1泊2日で缶詰になり韓国企業で「家庭教師役」を務めることで、破格の報酬が渡された。
日本の技術や技術経営の肝を知る関係者が東京・赤坂の料亭で接待され、2次会は韓国クラブへ。接待が終わると高級ホテルのスイーツルームが予約されていた。その部屋の扉を開くと美女が……。
都市伝説まがいの噂話であり、真偽のほどは定かではないが、韓国企業の情報収集が実に巧みであることは否めない事実である。
このほど韓国政府が発表した巨額の公共投資は、韓国企業が研究開発のみに振り向けられるとは限らない。情報収集や人材スカウトに投資する可能性もある。公的資金が投じられたとなれば、韓国政府はそれを受け取った企業に対して結果を求めるだろう。当該企業は、結果を出すためには「何でも」トライしてくる可能性がある。この「何でも」が韓国企業の最も恐ろしい戦略である。
不買運動に象徴される反日感情を、経済が低迷する韓国政府が政治利用するのではないかと指摘する専門家筋の声も聞かれる。
そのような動きが懸念される背景には、韓国という国は国家的危機に直面したとき「同胞」が一体になるという国民性と、朝鮮民族に根付く「恨(ハン)」の思想がある。恨は、単なる恨みつらみではなく、悲哀、無念さ、痛恨、無常観、優越者に対する憧憬や嫉妬などの感情をいう。今回の日本政府による規制措置が、恨の感情を炎上させるかもしれない。
政治的対応はさておき、日本政府の「経営戦略的失敗」は、韓国に「材料、部品の国産化を急がなくてはならない」と再認識させてしまったことだ。
先進国にとって上手な商売とは何か。それは、「なぜ儲かっているのかわからないビジネス」である。日本企業を見れば、家電をはじめとする最終商品(B to C系商品)の競争力が落ちてきているからこそ、模倣されにくい「見えざる競争力」が求められる。要するにブラックボックスとなる参入障壁が高い産業である。この点、今回、対韓輸出規制品目となった半導体材料は、日本にとっては「金のなる木」と言えよう。
今回の1件で、日本の半導体材料メーカーの世界的に高いシェアを占めている点が注目された。例えば、レジストは91.9%(JSR、東京応化工業、信越化学工業)、フッ化ポリイミド(三菱ガス化学)は93.7%と寡占状態にある(JETRO調べ)。
日本企業の従業員を虎視眈々と狙う韓国側
しかし、浮き沈みの激しい半導体市況に左右されやすいという弱点もある。高シェアを誇る日本の材料・部品メーカーであっても、市況の変化に伴う業績の悪化はありうるし、技術者をリストラする局面もあるかもしれない。
そのとき韓国メーカーは彼らを高額報酬で虎視眈々と狙ってくるだろう。リストラを実施しなくとも、会社の評価を不本意に感じ早期退職を検討している技術者、定年まで勤めあげた後、第2の人生を模索しているベテランなども標的になる可能性も少なくない。
「終身雇用はもはや維持できない」と中西宏明・経団連会長や豊田章男・トヨタ自動車社長が公言し、早期退職者が急増している。日本企業が株主重視経営へ傾く中で、従業員を大切にする経営は、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の世界と化している。
アイリスオーヤマは大手電機メーカーの退職シニアを積極的に採用し、またたくまに「家電メーカー」の一角を占めるようになった。日本企業が日本人をスカウトしている場合は、むしろ人生二毛作時代の美談として受け取れなくもない。が、半導体材料・部品でも韓国メーカーに追いつかれ、追い越されてしまった場合、美談では済まされない。
日本は国家的危機を迎えるかもしれない。輸出規制は政府の命令で行えても、企業で働く従業員の心は、日本政府の思惑どおりにはならないからだ。
日本を追いかけてくる国として韓国以上の脅威となるのが中国である。半導体を基幹産業に育てようとしている中国は、半導体材料の国産化にも食指を動かしつつある。日本政府が対韓輸出規制の対象にしたフッ化水素については、森田化学工業、ステラケミファなどの日本勢が占めるシェアは49.9%。中国は46.3%とほぼ拮抗している(JETRO調べ)。日本が寡占しているレジストやフッ化ポリイミドとは事情が異なる。
日韓関係の悪化に乗じて、中国メーカーはフッ化水素を中心に日本のシェアを奪おうとしている。いったん離れた客は戻ってこない。漁夫の利を得るのは中国であり、これを機に中国の半導体産業が一挙に台頭してくると考えられる。
これまで、日韓分業のサプライチェーンが現存し、日本の材料・部品メーカーは、得意先を安定的に確保できていたが、日本は「パンドラの箱」を開けてしまった可能性もある。
韓国企業の戦略兵器は「人心掌握」
模倣の戦略の餌食にならないためには、追いかけられる側は、できるだけリードタイムを長くしておかなくてはならない。韓国企業が本当に半導体材料で日本に追いつけるか否かは、現時点では定かではないが、少なくとも、韓国が最も重視している「スピード」をアップさせて、リードタイムを短くする可能性を高めたのではないか。
日本政府が韓国への半導体材料の輸出規制を厳しくすると発表してから6日後の7月7日、サムスンの李在鎔(イ・ジェヨン)副会長が緊急来日した。規制の対象になった半導体先端素材3つ(フッ化水素・レジスト・フッ化ポリイミド)の取引先を探すため、慶応義塾大学大学院(経営管理研究科)留学時代に磨いた得意の日本語を駆使し、日本の半導体材料メーカーを行脚した。
日本の経済産業省がエッチングガスをはじめ、戦略物資の輸出許可権を握っているため、日本メーカー側が簡単に要請に応じたとは考えられないが、巧みな日本語と人心掌握術を駆使した交渉は、同じく日本(早稲田大学第一商学部)で学んだ父の李健熙(イ・ゴンヒ)会長譲りか。かつて、李会長は足しげく来日し、日本の有力技術者や経営者を自らスカウトした。
技術のキャッチアップと言えば、技術をまねる、と日本人は考えがちだが、模倣の戦略で鍛えられた韓国企業の戦略兵器は「人心掌握」である。このことを忘れて高をくくっていれば、近い将来、半導体材料でも想定外のスピードで韓国の国産化が実現し、ほかのキャッチアップされた製品と同様、日本メーカーの強敵になる可能性を秘めている。
そこで、「韓流・模倣の戦略」と戦う前に、日本企業が猛省しなくてはならないのが、株主重視経営、終身雇用終焉の結果、従業員の「人心掌握」を忘れてしまったことである。再び、「戦略的人的資源管理(SHRM)」として、日本人従業員の心を徹底的にリサーチし、上手にマネジメントしなくてはならないのではないか。
パナソニックの創業者・松下幸之助氏は「まだ会社が小さかった頃、従業員に、『お得意先に行って、きみのところは何をつくっているのかと尋ねられたら、松下電器は人をつくっています。電気製品もつくっていますが、その前にまず人をつくっているのですと答えなさい』とよく言ったものである」と述べている。
日本企業が行うべき戦略とは
優れた製品をつくるのは会社の最優先の使命である。それを実現するためには、まずすぐれた人材を養成すれば、おのずといい製品がつくれるようになり、事業も発展していくと考えたのだ。
さらに、「単に仕事ができ、技術が優れていればいいというものではない」と説く。会社の使命や仕事の意義を自覚し、自主性と責任感を持った人でなくてはならないと考えた。この考え方は、終身雇用、従業員重視の考えが背景にあってこそ成立する。
対韓輸出規制を機に、日系半導体材料メーカーの得意先(韓国メーカー)が、中国をはじめとする外国企業に取引先を転換してしまえば、もう戻ってこないだろう。そうなれば、半導体材料メーカーの業績悪化も避けられない。
この事態を迎えたとき、「人斬り」がタブーではなくなった日本企業が、従業員に牙を向ける可能性は、なきにしもあらず。そうなれば、今度は従業員が企業に対して牙を向ける。
「模倣の戦略」で迫ってくる企業から知財を守り、打ち勝つにはどうすればいいのか。このたびの対韓輸出規制を皮切りに、日本企業は従業員の心をおもんぱかる経営戦略を真剣に構築してほしいものだ。