・在日イスラム教徒17万人 お隣さんがイスラム教徒だったら(月刊WILL 2019年1月号)
イスラム思想研究者 飯山陽(あかり)
共生・歩み寄りなどという甘い言葉の前に決して譲れない部分、守るべき価値について考える時代に・・・
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イスラム教徒の恋愛事情
多くの日本人にとって、イスラム教徒は異教徒、信奉する宗教が違うということは単に宗教「だけ」ではなく、世界観や死生観が違うことを意味し、その違いは日常的な考え方や行動に直接反映されます。こうした傾向はイスラム教の場合、特に顕著にみられます。
たとえば、男女関係について考えてみるとしましょう。私たちの住む世界では、恋愛は自由の範疇に含まれます。誰かを好きになるのも自由ですし、互いの気持ちを確かめ合って恋人関係になるのも、恋人同士でデートをしたり、はたまた肉体関係を持つことも基本的に自由です。
しかし、イスラム教徒の場合、誰かを好きになるところまでは自由ですが、その先に自由はありません。なぜならば、互いに結婚することのできる関係性にある男女が閉じられた空間で二人きりになることは神によって禁じられていて、また互いに婚姻関係にある男女以外の営む性行為も全て神によって禁じられているからです。
よって未婚の男女間の性行為も、両者の合意があろうがなかろうが全て禁じられ、それはイスラム法上「鞭打ち刑」に相当する違法行為とみなされるのです。
イスラム=絶対服従
そんな「時代遅れ」な規範は廃止すればいい!そう思われる方もいるでしょう。しかし、イスラム教の規範は「人間が守らなければならないもの」として神から下されているので、それを人間が勝手に廃止したり変更したりすることはできません。神が下した規範を「時代遅れ」だと批判することはすなわち、神を批判することになってしまうのです。
しかもイスラム教徒は、これをイスラム教の「負の側面」とは決して考えません。むしろ、人間ではなく神が決めた規範だからこそ、それに従う価値があると考えます。
人間が自分の都合でコロコロ変えるような規範には従う価値など微塵もない-----これがイスラム教の論理です。時代や地域に応じて規範が変わるのは当然だ-----という私たちの考え方とは全く逆方向のベクトルを示します。
「イスラム」とはそもそも、「絶対服従」を意味するアラビア語。イスラム教の聖典「コーラン」五十一章五十六節に明示されているように、イスラム教では「神が人間を創造したのは、神自身を崇拝させるため」だとされ、崇拝とは、すなわち「服従」を意味しています。
そして、神の命令に従って現世を生きれば、現世が終末を迎えた後にやってくる来世で救済されて天国に行くことができ、逆に命令に逆らうと来世で地獄に落とされる-----。これがイスラム教の死生観の根幹です。
近づくだけで鞭打ち刑
男女関係の話に戻ると、一度でも人を好きになったことのある人なら誰しも、好きな相手とは仲良くしたい、触れ合いたいという気持ちを自然と抱いたことがあるでしょう。
しかし、イスラム教の場合、この自然な気持ちを行動に移すことは禁じられます。基本的には二人きりになった時点で何もしていなくても「アウト」。国や地域によってはそれだけで刑罰の対象とされます。性行為を行ったとなれば、死刑にすらなる場合もあります。
では一体、どこまでが「セーフ」なのか。たとえば日本にほど近いインドネシアのアチェでは今年十月末(注:この記事が載っている、WiLL1月号発売は2018年12月)、二十一歳の未婚の男女が公の場で接近しすぎたという理由で鞭打ち刑に処され、その様子が一般公開されました。
未婚の男女が公の場で接近することの何が悪いのか-----大方の皆さんはそう思われることでしょう。しかし、アチェでは鞭打ち刑に相当する違法な行為と規定されているのです(アチェはインドネシアで唯一イスラム法が施行されている地域であり、インドネシアの他の地域では事情が異なる)。
また今年七月、バングラデシュで雨が降りしきる中、キスをする男女二人の写真をフェイスブックに掲載したカメラマンが会社をクビになり殴られるという事件がありました。公の場で男女がキスをすることは、バングラデシュでは「ふしだら」で許容されない行為。その場面をあたかも「微笑ましい」行為であるかのように写真に収めSNSにアップすることは、刑事罰の対象とはならないまでも一定の社会的制裁に値する行為なのです。
他方、個々のイスラム教徒に関しては、神の規範や国の法、社会のモラルにかかわらず自由に恋愛をする人もいます。イスラム諸国に行って、ナンパされたことのない日本人女性は極めて少数でしょう。
それは、神の規範よりも外国人女性をナンパして恋愛関係に至り、あわよくば外国に移住したいという世俗的な欲望を優先させるイスラム教徒男性が少なからず存在しているからです。
また姦通は違法ですが、その行為の立証には四人の男性の目撃証言か自白が必要と規定されているため、実際に立件されるケースは極めて稀です。これもまた、イスラム教徒の独身男性が「隠れて」姦通行為をする一因となっています。
イスラム教徒と結婚したら
しかし結婚が絡むと、恋愛の自由を貫徹するのは極めて困難です。ないがしろにされていたはずの神の規範が急に頭をもたげます。
たとえばイスラム教徒の男性の場合、自由な恋愛を楽しむような「ふしだら」な女性は結婚相手としてふさわしくないと考える人が多数派です。
既述のようにイスラム教では未婚の男女同士の性行為も「姦通」として禁じられていますが、独身男性が散々姦通行為を働いた後に親の決めた女性とイスラム的に正しいやり方で結婚する、というのはよくあるパターンです。
ではもし、日本人女性がイスラム教徒男性と結婚するとどうなるのか。まず女性は十中八九、イスラム教に改宗する必要があります。イスラム教の教義上、イスラム教徒男性が結婚を許されているのはイスラム教徒か啓典の民(キリスト教徒やユダヤ教徒など)の女性のみ。啓典の民と結婚することも禁じられてはいないものの望ましくないとされているため、女性は改宗を要請されることが一般的です。
イスラム教に改宗するのは極めて簡単。二人以上の成人男性イスラム教徒の前で、「私はアッラーの他に神はなく、ムハンマドは神の使徒だと誓います」という意味のアラビア語のフレーズを唱えれば、それでOK。アラビア語を知らない場合も、イスラム教徒が言うフレーズを復唱すればいいので、何も難しいことはありません。
しかし、一度イスラム教に入信したら二度とイスラム教信仰から抜け出すことはできません。イスラム教における信教の自由とは、イスラム教に「入信する自由」だけであり、イスラム教から「離脱する自由」は人間には認められていないのです。
もちろん、「心の中」で棄教するのは自由です。しかし、それを表明することは、背教罪に該当します。入信の契機となった結婚相手と離婚する場合でも、棄教は認められません。
イスラム教に入信し準備万端整ったとしても、ロマンチックなプロポーズを期待するのはNGです。イスラム法においては、結婚は男性が女性の身分後見人(一般的には父親)に対して申し込むものと規定され、婚姻契約を締結するのも男性と女性本人ではなく、女性の身分後見人とされます。
ロマンのかけらもない
また婚姻契約の際には、男性が女性の身分後見人に対して相当額の婚費を支払います。この婚費は現金の場合もあればゴールドのジュエリーや家や車、はたまた牛や羊だったりする場合もあるのですが、これは婚姻によって男性が女性から得る性的快楽の対価であるとイスラム法では規定されています。
多くの日本人女性からすれば、「ロマンのかけらもない!」ということになるでしょう。
女子会でお酒を飲むこともできなくなります。神は豚、死肉、酒、血を食べてはならないと命じていますから、それに倣うのが当然。
性交渉も気分次第とはいきません。イスラム法では生理中や出産後など特定の時期を除き、夫は妻に性交渉を要求する権利があり、妻が応じない場合には離婚事由を構成するとされています。
また預言者ムハンマドが「陰部の毛を剃るのはいいことだ」と言ったと伝えられているため、七日ごとの陰部の剃毛も推奨されています。一方、ムハンマドは「口髭を刈り、顎髭を伸ばすこと」も推奨しています。イスラム教徒の男性が顎髭を伸ばしていることが多いのは、預言者ムハンマドの伝承に由来しているのです。
生まれた子どもはもちろんイスラム教徒。そもそもイスラム教においては、全人類がイスラム教徒として生まれると考えられています。異教徒というのは、生後に異教の「誤った」教えに導かれることで道をそれた残念な存在という理解です。子どもが正しい道からそれることのないよう、イスラム教徒として育てるのは親の務めです。
自由に自分らしく素敵な結婚式を挙げたい!なんて思ってもダメ。イスラム教徒になった以上、女性は神の規範に従い「慎ましい服装」をすることが義務づけられます。ゆえにグッと胸元があいていたり、袖がなかったりするウェディングドレスの着用は厳禁なのです。
結婚後に夫が第二夫人、第三夫人を娶りたいと要請する場合があることも頭に入れてください。イスラム法は男性に四人まで妻を娶ることを認めているからです。日本のように法律で重婚が禁じられている場合も、「内縁」形式で複婚を営んだり、祖国に別の妻がいたりするイスラム教徒男性は少なくありません。
価値観の衝突
イスラム教は世界中に信者がおり、各々の地域で「地域特有の習慣」と「イスラム法の規定」が融合している場合が多々あります。各々の個人が自身の地域の習慣を「これが正しいイスラムだ」と主張することで、一体何が正しいイスラムなのかわからなくなっているのです。
しかし、そもそもイスラム法の規定は時代や地域をこえて適用される普遍的な法だというのがイスラム教の論理。
そこで地域ごとの隔たりが激しくなった今、「本来あるべきイスラム法に回帰すべき」という動きが各地でみられます。
イスラム国もそのひとつですし、イスラム法ではLGBTが認められていないのにイスラム教徒が大多数を占めている国で認められているのはおかしい!と、インドネシアでは反LGBT運動が過熱しています。
また、移民の流入によりイスラム社会と西側諸国の対立も顕在化しています。イスラム教徒の中には、顔を覆うヴェール(二カーブやブルカ)が神に命じられた女性のあるべき服装だと考える人もいます。
しかし、互いが見せ合うことを民主主義社会の成立に必要不可欠な要素として重視し、ヴェールを女性の男性に対する服従の象徴ととらえるヨーロッパ諸国は、公共の場でそれを着用することは禁止しています。
まさに、価値観と価値観のぶつかり合い----ヨーロッパの普遍的価値を守るための戦いが始まっているのです。
いかに共存していくか
いかがでしょう。イスラム教の規範はすべて神中心、それが欧米がつくった自由や人権を基調とする規範といかに異なるかは、お分かりいただけたと思います。
現在、イスラム教徒は世界に18億人ほどおり、今世紀末には世界最大の宗教勢力となると予測されています。アメリカの中間選挙では、史上初めてイスラム教徒の女性下院議員が誕生しました。
そして、この日本国内すら、イスラム教徒数は2010年に10万人程度だったのが2016年には17万人に急増しました。今後も増え続け、無視することのできない存在になっていくはずです。
日本でも2001年に富山で切り刻まれた『コーラン』が発見されるという事件が発生し、イスラム教徒が東京でもデモを行いました。
2008年には、日本で製作されたアニメに『コーラン』の一節が「不適切に」描かれていると抗議を受け、当該アニメのDVDが出荷停止に。
国内の公立小学校で「反イスラム教的」であるとして、図工や音楽の授業免除を求めたり、集団礼拝に参加するため学校を一時的に抜けてモスクに行く許可を求めたりするイスラム教徒の父母が増加しつつあることも見聞きします。
国内で増加しつつあるイスラム教徒在住者や観光客のためにハラール食(イスラム法において合法な食事)の提供や、礼拝の場の設置を通して「歩み寄り」の姿勢を示すことも重要でしょう。しかしそれは、価値観の違いという問題の根本的解決にはなりません。
私たちは、どこまで「歩み寄り」が可能かだけではなく、決して譲れない部分-----守るべき価値についても真剣に考えなければならない時代を迎えています。
・なぜイスラム教では「宗教に強制なし」なのに「棄教=死刑」なのか?
2019年2月1日
http://www.iiyamaakari.com/2019/02/blog-post.html
※2019年1月初頭、ラハフという名の18歳のサウジ人女性がビザ不所持でタイのイミグレで拘束され、イスラム教を棄てたので国に帰ると家族に殺されると主張、それが理由で難民認定されカナダに移住するという事件が起こりました。
イスラム教の規範においては一般に、「棄教=死刑」とされています。
典拠としては一例として以下のようなハディースが挙げられます。
一方でイスラム教の聖典『コーラン』には「宗教に強制なし」とか「あなた方にはあなた方の宗教があり私には私の宗教がある」という章句があることがよく知られています。
宗教に強制がないならばイスラム教をやめるのも自由なはずではないか、という疑問がわくのは当然です。
イスラム世界には、こうした問題についてイスラム法学者に質問をすると法学者がファトワーという回答を出してくれるという伝統があります。
ちょうどこの問題について、クウェートの著名法学者であるウスマーン・ハミース師が先日(1月9日)ファトワーを出しました。
同師は言います。
「棄教者に対する死刑は、その人をイスラム教徒にもどすことを意図するものではない。」
ではなぜ死刑に処されるのかというと、
「棄教者は犯罪を犯したからだ。」
とのこと。
姦通の罪を犯した者が既婚者ならば石打刑、 未婚者ならば鞭打ち刑に処されるのと同様に、棄教者は棄教という罪を犯したので死刑に処される、ただそれだけのことだ、と同師は説明します。
棄教はイスラム教に対する侮辱と同等の罪と規定され、預言者ムハンマドや唯一神アッラーを侮辱した場合と同様の罰を受けると同師は述べています。
預言者や神に対する侮辱に対する罰は死刑であり、よって棄教者も死刑に処されるのであって、それは棄教者にイスラム教という宗教を強制するのとは全く異なる、と説明されています。
同師は次のようにも言っています。
「我々は、イスラムに改宗しろ、さもなければ斬首する、などとは言わない。」
つまり、「宗教に強制なし」と「棄教=死刑」は全く矛盾してなどいないのです。
なお「棄教=死刑」というのはイスラム法の規定であり、現在のイスラム諸国ではイスラム法ではなく国家の定めた制定法が施行されているので、必ずしも全ての国において「棄教=死刑 」ではありません。
一方、「棄教=死刑」というイスラム法の規定は現在もなおイスラム教徒に広く支持されているということも指摘しておきます。
2010年にピュー・リサーチセンターが実施した調査では、エジプト人の86%、ヨルダン人の82%、アフガニスタン人の79%が棄教者に対する死刑を支持していルことが示されています。
歌手のゼイン・マリクの例に見られるよう、イスラム教をやめたと公に宣言した人に対し「死ね」という脅迫が殺到する理由は2つあり、ひとつ目はイスラム法でそう定められているからで、ふたつ目はその規定が今もなお一般のイスラム教徒に強く支持されているからです。
刑法で「棄教=死刑」と定められてはないものの国民の90%がイスラム教徒であるエジプトにおいても、基本的に棄教というのはあってはならない…というか、ありえない行為です。
ところがここ数年、エジプトの特に若者の間でちょっとした「無神論ブーム」があり、ある若者がテレビのトークショーで自分は無神論者だとぶっちゃけ、大変な騒ぎになりました。
問題のトークショーの映像と解説はこちら「無神論者vsイスラム教徒:エジプトのトークショーで大波乱」です。
司会者とイスラム教指導者が最初思わず茫然自失し、その後怒涛の反撃で怒りをあらわにする様子がよくわかります。
なおイスラム法においては、棄教はそれ自体が犯罪とされているように、不信仰もそれ自体が犯罪とされています。
不信仰者は不信仰者であるだけで、自分では全く悪いことをしているつもりはなくとも十分立派な犯罪者なのです。
イスラム思想研究者 飯山陽(あかり)
共生・歩み寄りなどという甘い言葉の前に決して譲れない部分、守るべき価値について考える時代に・・・
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イスラム教徒の恋愛事情
多くの日本人にとって、イスラム教徒は異教徒、信奉する宗教が違うということは単に宗教「だけ」ではなく、世界観や死生観が違うことを意味し、その違いは日常的な考え方や行動に直接反映されます。こうした傾向はイスラム教の場合、特に顕著にみられます。
たとえば、男女関係について考えてみるとしましょう。私たちの住む世界では、恋愛は自由の範疇に含まれます。誰かを好きになるのも自由ですし、互いの気持ちを確かめ合って恋人関係になるのも、恋人同士でデートをしたり、はたまた肉体関係を持つことも基本的に自由です。
しかし、イスラム教徒の場合、誰かを好きになるところまでは自由ですが、その先に自由はありません。なぜならば、互いに結婚することのできる関係性にある男女が閉じられた空間で二人きりになることは神によって禁じられていて、また互いに婚姻関係にある男女以外の営む性行為も全て神によって禁じられているからです。
よって未婚の男女間の性行為も、両者の合意があろうがなかろうが全て禁じられ、それはイスラム法上「鞭打ち刑」に相当する違法行為とみなされるのです。
イスラム=絶対服従
そんな「時代遅れ」な規範は廃止すればいい!そう思われる方もいるでしょう。しかし、イスラム教の規範は「人間が守らなければならないもの」として神から下されているので、それを人間が勝手に廃止したり変更したりすることはできません。神が下した規範を「時代遅れ」だと批判することはすなわち、神を批判することになってしまうのです。
しかもイスラム教徒は、これをイスラム教の「負の側面」とは決して考えません。むしろ、人間ではなく神が決めた規範だからこそ、それに従う価値があると考えます。
人間が自分の都合でコロコロ変えるような規範には従う価値など微塵もない-----これがイスラム教の論理です。時代や地域に応じて規範が変わるのは当然だ-----という私たちの考え方とは全く逆方向のベクトルを示します。
「イスラム」とはそもそも、「絶対服従」を意味するアラビア語。イスラム教の聖典「コーラン」五十一章五十六節に明示されているように、イスラム教では「神が人間を創造したのは、神自身を崇拝させるため」だとされ、崇拝とは、すなわち「服従」を意味しています。
そして、神の命令に従って現世を生きれば、現世が終末を迎えた後にやってくる来世で救済されて天国に行くことができ、逆に命令に逆らうと来世で地獄に落とされる-----。これがイスラム教の死生観の根幹です。
近づくだけで鞭打ち刑
男女関係の話に戻ると、一度でも人を好きになったことのある人なら誰しも、好きな相手とは仲良くしたい、触れ合いたいという気持ちを自然と抱いたことがあるでしょう。
しかし、イスラム教の場合、この自然な気持ちを行動に移すことは禁じられます。基本的には二人きりになった時点で何もしていなくても「アウト」。国や地域によってはそれだけで刑罰の対象とされます。性行為を行ったとなれば、死刑にすらなる場合もあります。
では一体、どこまでが「セーフ」なのか。たとえば日本にほど近いインドネシアのアチェでは今年十月末(注:この記事が載っている、WiLL1月号発売は2018年12月)、二十一歳の未婚の男女が公の場で接近しすぎたという理由で鞭打ち刑に処され、その様子が一般公開されました。
未婚の男女が公の場で接近することの何が悪いのか-----大方の皆さんはそう思われることでしょう。しかし、アチェでは鞭打ち刑に相当する違法な行為と規定されているのです(アチェはインドネシアで唯一イスラム法が施行されている地域であり、インドネシアの他の地域では事情が異なる)。
また今年七月、バングラデシュで雨が降りしきる中、キスをする男女二人の写真をフェイスブックに掲載したカメラマンが会社をクビになり殴られるという事件がありました。公の場で男女がキスをすることは、バングラデシュでは「ふしだら」で許容されない行為。その場面をあたかも「微笑ましい」行為であるかのように写真に収めSNSにアップすることは、刑事罰の対象とはならないまでも一定の社会的制裁に値する行為なのです。
他方、個々のイスラム教徒に関しては、神の規範や国の法、社会のモラルにかかわらず自由に恋愛をする人もいます。イスラム諸国に行って、ナンパされたことのない日本人女性は極めて少数でしょう。
それは、神の規範よりも外国人女性をナンパして恋愛関係に至り、あわよくば外国に移住したいという世俗的な欲望を優先させるイスラム教徒男性が少なからず存在しているからです。
また姦通は違法ですが、その行為の立証には四人の男性の目撃証言か自白が必要と規定されているため、実際に立件されるケースは極めて稀です。これもまた、イスラム教徒の独身男性が「隠れて」姦通行為をする一因となっています。
イスラム教徒と結婚したら
しかし結婚が絡むと、恋愛の自由を貫徹するのは極めて困難です。ないがしろにされていたはずの神の規範が急に頭をもたげます。
たとえばイスラム教徒の男性の場合、自由な恋愛を楽しむような「ふしだら」な女性は結婚相手としてふさわしくないと考える人が多数派です。
既述のようにイスラム教では未婚の男女同士の性行為も「姦通」として禁じられていますが、独身男性が散々姦通行為を働いた後に親の決めた女性とイスラム的に正しいやり方で結婚する、というのはよくあるパターンです。
ではもし、日本人女性がイスラム教徒男性と結婚するとどうなるのか。まず女性は十中八九、イスラム教に改宗する必要があります。イスラム教の教義上、イスラム教徒男性が結婚を許されているのはイスラム教徒か啓典の民(キリスト教徒やユダヤ教徒など)の女性のみ。啓典の民と結婚することも禁じられてはいないものの望ましくないとされているため、女性は改宗を要請されることが一般的です。
イスラム教に改宗するのは極めて簡単。二人以上の成人男性イスラム教徒の前で、「私はアッラーの他に神はなく、ムハンマドは神の使徒だと誓います」という意味のアラビア語のフレーズを唱えれば、それでOK。アラビア語を知らない場合も、イスラム教徒が言うフレーズを復唱すればいいので、何も難しいことはありません。
しかし、一度イスラム教に入信したら二度とイスラム教信仰から抜け出すことはできません。イスラム教における信教の自由とは、イスラム教に「入信する自由」だけであり、イスラム教から「離脱する自由」は人間には認められていないのです。
もちろん、「心の中」で棄教するのは自由です。しかし、それを表明することは、背教罪に該当します。入信の契機となった結婚相手と離婚する場合でも、棄教は認められません。
イスラム教に入信し準備万端整ったとしても、ロマンチックなプロポーズを期待するのはNGです。イスラム法においては、結婚は男性が女性の身分後見人(一般的には父親)に対して申し込むものと規定され、婚姻契約を締結するのも男性と女性本人ではなく、女性の身分後見人とされます。
ロマンのかけらもない
また婚姻契約の際には、男性が女性の身分後見人に対して相当額の婚費を支払います。この婚費は現金の場合もあればゴールドのジュエリーや家や車、はたまた牛や羊だったりする場合もあるのですが、これは婚姻によって男性が女性から得る性的快楽の対価であるとイスラム法では規定されています。
多くの日本人女性からすれば、「ロマンのかけらもない!」ということになるでしょう。
女子会でお酒を飲むこともできなくなります。神は豚、死肉、酒、血を食べてはならないと命じていますから、それに倣うのが当然。
性交渉も気分次第とはいきません。イスラム法では生理中や出産後など特定の時期を除き、夫は妻に性交渉を要求する権利があり、妻が応じない場合には離婚事由を構成するとされています。
また預言者ムハンマドが「陰部の毛を剃るのはいいことだ」と言ったと伝えられているため、七日ごとの陰部の剃毛も推奨されています。一方、ムハンマドは「口髭を刈り、顎髭を伸ばすこと」も推奨しています。イスラム教徒の男性が顎髭を伸ばしていることが多いのは、預言者ムハンマドの伝承に由来しているのです。
生まれた子どもはもちろんイスラム教徒。そもそもイスラム教においては、全人類がイスラム教徒として生まれると考えられています。異教徒というのは、生後に異教の「誤った」教えに導かれることで道をそれた残念な存在という理解です。子どもが正しい道からそれることのないよう、イスラム教徒として育てるのは親の務めです。
自由に自分らしく素敵な結婚式を挙げたい!なんて思ってもダメ。イスラム教徒になった以上、女性は神の規範に従い「慎ましい服装」をすることが義務づけられます。ゆえにグッと胸元があいていたり、袖がなかったりするウェディングドレスの着用は厳禁なのです。
結婚後に夫が第二夫人、第三夫人を娶りたいと要請する場合があることも頭に入れてください。イスラム法は男性に四人まで妻を娶ることを認めているからです。日本のように法律で重婚が禁じられている場合も、「内縁」形式で複婚を営んだり、祖国に別の妻がいたりするイスラム教徒男性は少なくありません。
価値観の衝突
イスラム教は世界中に信者がおり、各々の地域で「地域特有の習慣」と「イスラム法の規定」が融合している場合が多々あります。各々の個人が自身の地域の習慣を「これが正しいイスラムだ」と主張することで、一体何が正しいイスラムなのかわからなくなっているのです。
しかし、そもそもイスラム法の規定は時代や地域をこえて適用される普遍的な法だというのがイスラム教の論理。
そこで地域ごとの隔たりが激しくなった今、「本来あるべきイスラム法に回帰すべき」という動きが各地でみられます。
イスラム国もそのひとつですし、イスラム法ではLGBTが認められていないのにイスラム教徒が大多数を占めている国で認められているのはおかしい!と、インドネシアでは反LGBT運動が過熱しています。
また、移民の流入によりイスラム社会と西側諸国の対立も顕在化しています。イスラム教徒の中には、顔を覆うヴェール(二カーブやブルカ)が神に命じられた女性のあるべき服装だと考える人もいます。
しかし、互いが見せ合うことを民主主義社会の成立に必要不可欠な要素として重視し、ヴェールを女性の男性に対する服従の象徴ととらえるヨーロッパ諸国は、公共の場でそれを着用することは禁止しています。
まさに、価値観と価値観のぶつかり合い----ヨーロッパの普遍的価値を守るための戦いが始まっているのです。
いかに共存していくか
いかがでしょう。イスラム教の規範はすべて神中心、それが欧米がつくった自由や人権を基調とする規範といかに異なるかは、お分かりいただけたと思います。
現在、イスラム教徒は世界に18億人ほどおり、今世紀末には世界最大の宗教勢力となると予測されています。アメリカの中間選挙では、史上初めてイスラム教徒の女性下院議員が誕生しました。
そして、この日本国内すら、イスラム教徒数は2010年に10万人程度だったのが2016年には17万人に急増しました。今後も増え続け、無視することのできない存在になっていくはずです。
日本でも2001年に富山で切り刻まれた『コーラン』が発見されるという事件が発生し、イスラム教徒が東京でもデモを行いました。
2008年には、日本で製作されたアニメに『コーラン』の一節が「不適切に」描かれていると抗議を受け、当該アニメのDVDが出荷停止に。
国内の公立小学校で「反イスラム教的」であるとして、図工や音楽の授業免除を求めたり、集団礼拝に参加するため学校を一時的に抜けてモスクに行く許可を求めたりするイスラム教徒の父母が増加しつつあることも見聞きします。
国内で増加しつつあるイスラム教徒在住者や観光客のためにハラール食(イスラム法において合法な食事)の提供や、礼拝の場の設置を通して「歩み寄り」の姿勢を示すことも重要でしょう。しかしそれは、価値観の違いという問題の根本的解決にはなりません。
私たちは、どこまで「歩み寄り」が可能かだけではなく、決して譲れない部分-----守るべき価値についても真剣に考えなければならない時代を迎えています。
・なぜイスラム教では「宗教に強制なし」なのに「棄教=死刑」なのか?
2019年2月1日
http://www.iiyamaakari.com/2019/02/blog-post.html
※2019年1月初頭、ラハフという名の18歳のサウジ人女性がビザ不所持でタイのイミグレで拘束され、イスラム教を棄てたので国に帰ると家族に殺されると主張、それが理由で難民認定されカナダに移住するという事件が起こりました。
イスラム教の規範においては一般に、「棄教=死刑」とされています。
典拠としては一例として以下のようなハディースが挙げられます。
一方でイスラム教の聖典『コーラン』には「宗教に強制なし」とか「あなた方にはあなた方の宗教があり私には私の宗教がある」という章句があることがよく知られています。
宗教に強制がないならばイスラム教をやめるのも自由なはずではないか、という疑問がわくのは当然です。
イスラム世界には、こうした問題についてイスラム法学者に質問をすると法学者がファトワーという回答を出してくれるという伝統があります。
ちょうどこの問題について、クウェートの著名法学者であるウスマーン・ハミース師が先日(1月9日)ファトワーを出しました。
同師は言います。
「棄教者に対する死刑は、その人をイスラム教徒にもどすことを意図するものではない。」
ではなぜ死刑に処されるのかというと、
「棄教者は犯罪を犯したからだ。」
とのこと。
姦通の罪を犯した者が既婚者ならば石打刑、 未婚者ならば鞭打ち刑に処されるのと同様に、棄教者は棄教という罪を犯したので死刑に処される、ただそれだけのことだ、と同師は説明します。
棄教はイスラム教に対する侮辱と同等の罪と規定され、預言者ムハンマドや唯一神アッラーを侮辱した場合と同様の罰を受けると同師は述べています。
預言者や神に対する侮辱に対する罰は死刑であり、よって棄教者も死刑に処されるのであって、それは棄教者にイスラム教という宗教を強制するのとは全く異なる、と説明されています。
同師は次のようにも言っています。
「我々は、イスラムに改宗しろ、さもなければ斬首する、などとは言わない。」
つまり、「宗教に強制なし」と「棄教=死刑」は全く矛盾してなどいないのです。
なお「棄教=死刑」というのはイスラム法の規定であり、現在のイスラム諸国ではイスラム法ではなく国家の定めた制定法が施行されているので、必ずしも全ての国において「棄教=死刑 」ではありません。
一方、「棄教=死刑」というイスラム法の規定は現在もなおイスラム教徒に広く支持されているということも指摘しておきます。
2010年にピュー・リサーチセンターが実施した調査では、エジプト人の86%、ヨルダン人の82%、アフガニスタン人の79%が棄教者に対する死刑を支持していルことが示されています。
歌手のゼイン・マリクの例に見られるよう、イスラム教をやめたと公に宣言した人に対し「死ね」という脅迫が殺到する理由は2つあり、ひとつ目はイスラム法でそう定められているからで、ふたつ目はその規定が今もなお一般のイスラム教徒に強く支持されているからです。
刑法で「棄教=死刑」と定められてはないものの国民の90%がイスラム教徒であるエジプトにおいても、基本的に棄教というのはあってはならない…というか、ありえない行為です。
ところがここ数年、エジプトの特に若者の間でちょっとした「無神論ブーム」があり、ある若者がテレビのトークショーで自分は無神論者だとぶっちゃけ、大変な騒ぎになりました。
問題のトークショーの映像と解説はこちら「無神論者vsイスラム教徒:エジプトのトークショーで大波乱」です。
司会者とイスラム教指導者が最初思わず茫然自失し、その後怒涛の反撃で怒りをあらわにする様子がよくわかります。
なおイスラム法においては、棄教はそれ自体が犯罪とされているように、不信仰もそれ自体が犯罪とされています。
不信仰者は不信仰者であるだけで、自分では全く悪いことをしているつもりはなくとも十分立派な犯罪者なのです。