・ソ連の北方領土不法占拠に暗躍したスパイ(デイリー新潮 2019年5月18日)

※北方領土が「戦争」で取られたものだという考えがあるが、戦後のゴタゴタにまぎれてソ連が不法占拠したのは事実であるが、北方領土を失った経緯はそんなシンプルなものではない。

有馬哲夫早稲田大学教授は、最新の文献研究をもとに著書『歴史問題の正解』の中で、この経緯について詳しく述べている。そこから分かるのは、決して「ソ連が隙を狙って侵攻してきた」といった単純な話ではない。
 
アメリカ大統領の人気取り、ソ連のスパイの暗躍……米ソの身勝手な振る舞いと謀略によって、領土が奪われていった経緯を見てみよう。

人気取りのためにソ連と共闘

1944年はアメリカ大統領選挙の年で、ルーズヴェルトは史上例のない大統領4選に臨んでいた。現在と違って当時は、世論調査は頻繁になされていなかったため、選挙の帰趨を予測することは難しく、彼は選挙戦を有利にするためにできることはなんでもしなければならなかった。
 
そんなルーズヴェルトが有権者にアピールするために取った策の一つが、英国のトップ、チャーチルとソ連のトップ、スターリンとの巨頭会談を開き、戦争終結のための協議をすることだった。ドイツとの戦争を早期に終結させ、日本にも白旗を揚げさせるのに手っ取り早いのは、ソ連に対日戦争に参加させることだ、と考えたのだ。問題はスターリンがこの誘いに乗ってくるか、だった。

というのも、スターリンは忙しかった。すでにドイツは敗走を続けていて、ソ連としては東ヨーロッパに支配地域を広げ、傀儡(かいらい)政権を作らなければならなかったからだ。それに、ドイツの敗戦が決まって、勢力地図がより明確になってからのほうが、噛み合った議論ができるため、スターリンの側には会議を急ぐ理由はなかった。この頃、すでに英ソ首脳は1944年10月9日にモスクワで、東ヨーロッパを英ソでどう分割するかまで話し合って、合意していたのだ。

いうまでもないことだが、これは英ソで勝手に決めていいことではない。当該国の国民はもちろんアメリカの承認もいる。
 
そこで、ソ連に駐在していた米国の大使ウィリアム・アヴェレル・ハリマンがこの話の相談に与ることになった。このとき、ハリマンは米英ソによる巨頭会談のことをスターリンに打診した。するとスターリンは、カイロ会議のときから対日参戦するにあたって米英に「政治的問題」が解決されなければならないと言っていたが、次の巨頭会談でそのことを話したいとも伝えた。
 
婉曲な言い方だが、スターリンの言う「政治的問題」とは対日参戦と引き換えにソ連に渡す利権のことだ。のちに「極東密約」と呼ばれるもので、南樺太の返還、千島列島を引き渡し、満州の利権の取得を斡旋するというものだった。つまり、参戦の見返りというエサで釣って、巨頭会談に応じさせたのだ。

このようにして巨頭会談は開催までこぎつけた。場所はソ連の領土、クリミア半島の南端のヤルタ。問題は、この会議でルーズヴェルトが行った信じがたい言動である。
 
ヤルタ到着後、ルーズヴェルトは会議場に行く途上で周辺が荒れ果てているのに気付いて「なぜクリミアはこうも荒廃しているのか」と尋ねた。
 
スターリンが「ドイツ軍によるものだ」と答えると「ではドイツ軍将校を5万人ほど処刑しよう」と提案している。
 
さらにドイツをどう処理するかという話になるとルーズヴェルトはソ連にドイツの約80パーセントの工業設備と約200万人の労働力を持ち去らせ、農業国にしてしまおうと言った。チャーチルが「それではドイツという馬は働けなくなります、干草ぐらいは残してやりましょう」ととりなすほどだった。

ソ連はのちに満州に侵攻し、現地のあらゆる日本の工業設備を持ち去っただけでなく、ポツダム宣言に違反して、約60万人の日本の軍民をシベリアに送り、強制労働させた。しかも、今にいたるまで謝罪も補償もしていない。
 
しかし、こうした非道な行為も、スターリンにしてみれば、ドイツに対して行っていいとヤルタでルーズヴェルトとチャーチルが認めたのと同様のことを、同じ敗戦国の日本にして何が悪いということになる。

ルーズヴェルトの非道

さらにルーズヴェルトは、まるで最後の審判を下す神になったかのような発言をする。敗戦国ドイツの生活水準がソ連を上回ることがないようにしようとスターリンに言ったのだ。(日本占領のときも、占領軍は日本を農業国家にし、生活水準を戦勝国の中華民国よりも低く保つべきだという議論をしている)

ルーズヴェルトの人間性を疑わせる最大の問題点は、1941年8月の大西洋会談でチャーチルとともに、あらゆる国(敗戦国も含む)に対して、政体選択の自由と領土保全が認められると決めたにもかかわらず、これに反する政治的取引をスターリンとしていることだ。つまり、ルーズヴェルトはスターリンが東ヨーロッパの人民から政体選択の自由を奪うのを黙認し、ドイツと日本から領土を奪う取り決めをしている。これは、当時であっても極めて横暴で無法な行為である。

しかも、ルーズヴェルトは、自国の領土をソ連に与えると約束したのならともかく、日本固有の領土、即ち南樺太と千島列島をソ連に与えると約束している。
 
ルーズヴェルトは、ソ連が軍事力でドイツや日本の領土を奪うのを黙認するというレベルにとどまらず、自らはそれらの領土になんの権利もないのに、あたかもあるかのように振舞って、ソ連に与えることを承認したり、約束したりしている。
 
決して見逃すことができないのは、極東密約のなかでソ連との取引材料とされた東清鉄道、南満州鉄道、大連、旅順の利権は、敗戦国どころか、アメリカにとっては同盟国である中華民国のものだということだ。アジアの同盟国は、敗戦国と同等だとでも思っているようだ。ルーズヴェルトのモラルのなさは想像を絶している。

ルーズヴェルトは、日米開戦以前から、戦争を繰り返さないための恒久的平和維持機構として、国際連合を創設するという理想を掲げていた。
 
にもかかわらず、理事国となることを想定しているソ連に、他国の領土を奪うことを承認したり、両国の交渉の取引材料に使ったりするのでは、この国際機構の先は見えている。事実、今日のわれわれがよく知っているように、このあとの国際連合は恒久的平和維持機構というより、強国のエゴを小国に押し付ける大国クラブに堕してしまう。これはルーズヴェルトが現実主義的だったということではなく、節操がなかったのだと言わざるを得ない。

こうしたルーズヴェルトの言動は、決して当時の大国の「常識」であったわけではない。モスクワ会談で極東密約の大枠が決まったあとで、アメリカ国務省はハリマン大使とスターリンの間で話し合われた千島列島全体の引き渡しに問題がないかどうか調査している。その結果、南千島(北方四島)は、歴史的にも住民の実態からも北海道の一部なので、ソ連への引き渡し対象からは除外すべきだと結論しているのだ。国務省はそれを勧告書にまとめルーズヴェルトに提出していた。

この通りにすれば、北方領土は奪われなかっただろう。
 
しかし、ルーズヴェルトがヤルタで南千島についての報告書や勧告書を読んだ形跡はない。したがって、彼はスターリンと話したとき、千島列島の引き渡しについてなんら条件を付けなかった。
 
ヤルタ会議の当時、ルーズヴェルトの健康状態が悪化していて、とても会議に耐えうる体でなかったことはさまざまな研究から明らかにされている。もし、健康で、より気力が充実した状態で、万全の準備を整えてヤルタ会議に臨んでいたならその後の世界はどうなっていただろうか。

ソ連スパイの暗躍

それにしても、なぜルーズヴェルトは自国の国務省の勧告書を読まなかったのか。
 
実はここでソ連の諜報機関が関与していたことが、今日では明らかになっている。
 
当時、国務省の高官で、会議の文書や資料を用意する事務方のトップとして会議スタッフに入っていたのは、アルジャー・ヒス特殊政治問題局長だった。
 
このヒスがかかわった会議では、ルーズヴェルトに渡されるべき報告書や勧告書が渡っていなかったり、記録されるべき議論が記録されていなかったりといった問題が多くある。これはもともとがずさんだったうえに、ヒスが意図的にやった可能性が高い。のちにわかったのだが、彼はソ連のスパイだったのである。

ヒスについては、一時期までは実際にスパイだったのか疑問視されていたが、90年代から機密文書の発掘でKGBなどの研究が進んだ結果、実際に1930年代から、ソ連のスパイとしてアメリカで活動していたことが判明している。
 
首脳同士の会議では、事前に議題を整理し、結論をまとめた文書やメモを用意することが、会議の結論を左右することになるのだが、ヤルタ会議ではアメリカ側の作業を担当していたのが、ソ連のスパイだったことになる。アメリカは戦後処理を決める首脳会談をよりによってソ連のスパイに取り仕切らせてしまったのだ。
 
そのため、せっかくの国務省の勧告書は意味を持たなかったのである。


・「日本の身代わり」で東欧2カ国がソ連に支配されていた! 終戦後に日本が分割占領されなかった理由(デイリー新潮 2018年9月6日)

※第2次世界大戦の終了後、日本はなぜ事実上ほぼアメリカ1国の占領下に置かれたのだろうか。なぜドイツのように、アメリカとソ連をはじめとする連合国の分割占領とならなかったのだろうか。

いまだ返還されない北方領土や、南北に分断された朝鮮半島を思えば、日本の占領からソ連の影響力を排除できたことは、われわれ日本人にとって僥倖であったのは間違いない。

あまり知られていないことだが、日本がアメリカによる「単独占領」に置かれた背景には、日本の「身代わり」として、ブルガリアとルーマニアの東欧2カ国がソ連に差し出されたという歴史的事実がある。

国際政治学者の細谷雄一・慶應義塾大学教授は、近著『戦後史の解放II 自主独立とは何か』において、アメリカとソ連の取引によって、日本と東欧2カ国が「交換」されたことを明らかにしている。

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終戦後、ソ連の指導者スターリンは、「負かされても、日本人のような民族は必ず立ち上がってくる」と、日本に対して強い恐怖心を抱いていたという。そのことを細谷教授は次のように指摘している。

「ロシア人は半世紀の間に、日露戦争、シベリア出兵、そしてノモンハン戦争と、強大な日本軍の侵攻を、3度も経験していた。その強大な軍事力による侵略を受けた記憶からも、日本の将来について、ロシア人は根強い恐怖心と不安を抱いていたのだ。それは簡単に払拭できるものではなかった。言い換えれば、規律正しく、組織的で効率的な日本国民が持つ潜在的な資質に対して、ロシア人は畏怖を感じていたともいえる。」

そしてスターリンは、日本が二度と立ち上がれないようにするために、過酷な占領政策を行うべきだと考えていたという。だが一方でスターリンは、アメリカの原子爆弾に対して、より大きな恐怖を覚えていた。スターリンはソ連国内の原爆開発担当者に次のように言った。

「ヒロシマは世界全体を揺るがした。バランスが崩壊したのだ。爆弾を開発せよ。それによって、われわれは巨大な危険から解放されるであろう」

核兵器開発とウラン

しかし、ソ連が自前で核兵器を開発するには、大きな難問が立ちはだかっていた。ソ連国内で核兵器を作るために十分な量のウランが見つかっていなかったのである。そこでスターリンは、日本占領よりも、高品質のウラン鉱石が埋蔵されているブルガリアとルーマニアを勢力圏に組み入れることを優先して考えるようになる。

1945年10月、スターリンはアメリカのハリマン駐ソ大使と会談し、アメリカが対日占領で優越的な地位を独占するのを認めるかわりに、ソ連がブルガリアおよびルーマニアとの戦後処理で優越的な地位を独占すること認めるよう、「交換取引」を持ちかける。米ソの利害が一致した結果、日本と東欧2カ国の「交換」は1945年12月のモスクワ外相理事会で外交的合意として成立する。

冷戦終了後になって明らかになったこの「取引」を、細谷教授は著書の中で次のように振り返っている。

「この1945年12月のモスクワ外相理事会では、ソ連のルーマニアおよびブルガリア支配を承認するという対価を払って、アメリカは日本の実質上の単独占領の権利を確保する。これは通常われわれ日本人は意識していないことであるが、戦後日本の再出発は東欧諸国のソ連による支配という犠牲の上に成り立っていたといえるのかもしれない」


・日本で「無制限の権力」を振るったマッカーサーの演出力(デイリー新潮 2018年8月30日)

※1945年8月30日、神奈川県の厚木飛行場に一人の男が降り立った。ダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官。当時65歳。権威主義的な人格を持ち、日本占領において絶大な権力を振るったとされている。

長い年月を経た今でもなお、マッカーサーの名は色あせない。その理由はなんなのだろうか。国際政治学者の細谷雄一・慶應義塾大学教授は、近著『戦後史の解放II 自主独立とは何か』において、マッカーサーの過剰なまでの自信家ぶりと、その演出力について解説している。

まず、マッカーサーが日本に到着する有名なシーン。副官を務めていたコートニー・ホイットニー将軍は、その場面を次のように記していたという。

「機は飛行場にすべり込み、マッカーサーはコーン・パイプを口にくわえて、機から降り立った。彼はちょっと立ちどまって、あたりを見回した。空は青く輝き、羊毛のようなちぎれ雲が点々と浮んでいた。飛行場に照りつける日ざしでコンクリートの滑走路とエプロン(格納庫前の舗装場所)にはかげろうがゆらいでいた。飛行場には他に数機の米機があったが、そこらにいるわずかな数の武装した連合軍兵士は恐ろしく心細い兵力に見えた」

これについて、細谷教授は次のように解説する。

「つい少し前まで敵国であった日本に上陸した瞬間の、ホイットニーの心細さと不安、そしてそれに対して新しい統治者として威厳を保ち、威風堂々たる容姿を示そうとするマッカーサーの演出のコントラストが興味深い。マッカーサー自ら、歴史の主人公となることを意識して、入念に準備をした演出であった」

そして、マッカーサーの回顧録の一節を引き、彼が自らの有する権力の大きさについて過剰な自負を抱き、それを誇示していたことを明かす。

「私は日本国民に対して事実上無制限の権力をもっていた。歴史上いかなる植民地総督も、征服者も、総司令官も、私が日本国民に対してもったほどの権力をもったことはなかった。私の権力は至上のものであった」

「人格化」された占領

マッカーサーの名前は、日本人の誰もが知っていた。その圧倒的な威光は、日本にやって来た米国人をも驚かすほどであったという。細谷教授はアリゾナ大学のマイケル・シャラー教授の言葉を紹介する。

「日本占領は、その発端から最高司令官と同義語だった。ドイツ占領を管理した人物(ルシアス・クレイ将軍、後にジョン・J・マクロイ)の名前をあげられるアメリカ人はほとんどいないが、東京で最高位についている人物の名前はほとんどの者が知っていた。降伏の7カ月後に日本にやって来たあるアメリカ人は、『占領があまりに人格化されている』ことに驚いたことを覚えている。『あらゆる占領行動、あらゆる政策、あらゆる決定がマッカーサーによるものであった』。彼の名前はいたる所に見られたが、他の幹部の名前はどこにもない。彼も、検閲下に置かれた日本の新聞も、マッカーサー以外の者が政策を形成したなどと示唆することはなかった。事実上たった1人の人物が、『日本人に関する限りアメリカ政府を体現していた』のである」

「天皇以上の威厳」を演出する必要性

9月2日に横須賀沖のアメリカ戦艦「ミズーリ」で降伏文書調印式が行われた。マッカーサーは、「自由、寛容、正義という人類多数の願望を達成するようなより良い世界が出現することは、私の希望であり、また全人類の希望でもある」と、自らが文明史的使命を帯びていることを意識した壮大なスケールの演説を行う。その背後には、色あせた古い星条旗がたなびいていた。

「それは、92年前にペリー提督が日本に開国を迫ったときに、その旗艦サスケハナに掲げられていたものであった。歴史家の増田弘は、『日本開国の立役者ペリーと自己とをダブらせていたのかもしれない』と指摘する」

それにしても、マッカーサーはなぜわざわざこのような演出を施したのだろうか。その答えとして、細谷教授はある米軍大佐の次のような言葉を紹介する。

「あれが一つの演技であるとすれば、素晴らしい演技であり、それは必要なことであった。なぜならマッカーサーは連合国軍最高司令官で、しかも天皇を通して日本を支配する役割を担っていた。そこで、天皇以上の威厳を、日本国民に対して示さなければならなかったからだ」

あの有名な昭和天皇との2ショット写真も、マッカーサーが自らの威光を日本国民に知らしめる演出のひとつだった。
 
しかし、あまりにも自己顕示欲が強く、自らの権力に酔いしれたマッカーサーは、朝鮮戦争の指揮をめぐりトルーマン大統領と衝突し、1951年4月に電撃解任される。後任の第2代連合国軍最高司令官としてマシュー・リッジウェイが日本の占領統治に当たったが、その存在感は、ドイツ占領を担ったクレイ将軍らと同様、薄いものであった。今、もはやリッジウェイの顔をすぐに思い浮かべられる日本人はほとんどいない。


・知っておくべき「中国の侵略史」(デイリー新潮 2018年1月12日)

※日本と中国どちらが侵略回数が多いのか

国連発足後の「日本」と「中華人民共和国」、要は現在の国際秩序が生まれて以降の話を、比べてみたらどうだろうか。
 
テキストは『歴史問題の正解』(有馬哲夫・著)。有馬氏は早稲田大学教授で公文書研究の第一人者である。
 
同書の第9章のタイトルはズバリ「現代中国の歴史は侵略の歴史である」。有馬氏は、2014年に公開されたダグラス・マッカーサー記念アーカイヴズ所蔵の文書(「アメリカ極東軍司令部電報綴1949-1952」)を読み解くと、1949年に生まれた現在の中国が、誕生直後から「極めて貪欲にアジアの周辺諸国に侵略の手を伸ばし、これらの国々の間に紛争を起こしていく姿が鮮明に浮かび上がってくる」としている。

1949年以降一貫して侵略をしている中国

中国がアジアの他国に軍隊を送った事例として有名なのは朝鮮戦争だろう。この時、中国は朝鮮半島に約30万もの軍隊を派遣している。しかし実は中国は同時期に別の動きも見せている、

「中国は朝鮮戦争とほぼ同時進行で、ヴェトナム北部に大軍を送り、ミャンマー(当時はビルマ、以下同)北部・タイ・ラオス・中国南部の国境地帯で領土拡張の浸透作戦を行い、台湾に侵攻するための艦船の供与をソ連に求めていた。

しかも、前年の1949年にはすでにチベット東部を侵略していて、朝鮮戦争のさなかにも中央チベットまで侵攻し、チベット征服を完成させているのだ。まさしく貪欲そのものだ。

こういった中国の侵略的動きの全体を眺めてみると、朝鮮戦争への中国の参戦がこれまでとは違ったものに見えてくる。つまり、この参戦は、自衛というよりは、中国が周辺諸国に対して起こしていた一連の拡張主義的動きの一部だったと見ることができるということだ。事実この戦争のあと、中国はソ連に代わって北朝鮮の宗主国となる。

その後、中国はさらにヴェトナム、ラオス、ミャンマー、タイ、インドへとターゲットを変えつつ、侵略的動きを継続させていく。

近年の西沙諸島や南沙諸島の島々の強奪、そして尖閣諸島への攻勢は、この延長線上にあるのだ」

歴史が教えてくれるのは、少なくとも「中国」は誕生後、一貫して他国を侵略しつづけている、ということだ。これが、「正解」であり、決して偏った見方ではない。

「チベット」「フリー」といった単語でネット検索をすれば、洋の東西、あるいは保守リベラル関係なく、多くの先進国の人達が中国の侵略あるいは人権侵害への懸念を表明してきたことがすぐにわかるはずだ。また、中国がどれだけ多くの国と国境で紛争を起こしているかも、調べればすぐにわかる。

もちろんこのような見方に対して「大日本帝国時代をカウントしないのはずるい。日本人は残虐なのだ」という反論をする人もいるかもしれない。このような「日本人性悪説」を好む人は、隣国にも国内にも一定数存在している。

しかし、日本は戦後、他国を侵略したことは一度もない。この点にはさすがに中国人も同意してくれるのではないだろうか。


・「100万人を投獄」ウイグル人権問題の深刻度 元収容者が証言する強制収容の恐るべき実態(東洋経済ONLINE 2019年7月26日)

※「アメリカのペンス副大統領やポンペオ国務長官はまるでカルトと同類だ。こうした人々にとって、宗教の自由とは他国をデマで中傷し、民族間の親睦を破壊して内政干渉するための道具にすぎない」

中国外交部の耿爽(こう・そう)報道官は7月19日の記者会見で、アメリカ政府要人の発言に猛反発した。ペンス氏とポンペオ氏は、その前日にワシントンで開かれた国際会議で宗教の自由をめぐって中国を批判していた。

ウイグル人100万人が投獄されている

ペンス氏は中国のチベット自治区と新疆ウイグル自治区での宗教弾圧を非難し、後者については「ウイグル人をはじめ、100万人以上のムスリムが投獄されており、強制収容所で絶え間なく洗脳が行われている」とコメントした。

新疆ウイグル自治区の人口は2500万人で、そのうちウイグル人は1000万人余りとされている。その1割に相当する「100万人の投獄」が事実なら、異常事態といっていい。ポンペオ氏は中国のウイグル人弾圧を「今世紀の汚点」と断じた。

少数民族のウイグル人にはイスラム教徒が多く、中国の多数派である漢民族とは生活習慣が大きく異なる。10年前の2009年7月には区都のウルムチで両者が激しく衝突し、多くの死傷者を出す「ウルムチ騒乱」が発生した。その後、もともと進められてきた同化政策が加速している。その大義名分は「テロリズム、分離主義、宗教的過激主義」への対策だった。

ペンス氏らの主張に対し、耿爽氏は「中国の人民は法により信仰の自由を享受している。同時に中国は宗教の名を借りた犯罪行為を絶対に許さないし、どんな国家や勢力が宗教の自由を名目にして内政干渉することにも反対する」と反論。

さらに、耿爽氏は強制収容所ではなく「職業技能教育訓練センター」だという中国政府の見解に沿って、「新疆のすべての民族の生存権、発展権を保障するために取られた効果的な方策だ。われわれは、アメリカがまるで根拠のない、事実からかけ離れ、常軌を逸した虚偽の発言をやめることを望んでいる」と主張した。

新疆ウイグル自治区で大規模な強制収容が行われているというニュースは、昨年から世界各国のメディアで報じられている。外国籍を持っていたなど、特別な事情で釈放され、中国外に出国した元収容者の証言によるものだ。

2015年から3度にわたり収容所生活を経験し、現在はアメリカで暮らすウイグル人のメヒルグル・トゥルスンさん(29)もその1人。7月6日に明治大学現代中国研究所とアムネスティ・インターナショナル日本が共催し、都内で開かれた「ウイグル人証言集会」にネット中継で登場した。

電気ショックによる虐待で精神病院へ

メヒルグルさんはエジプトに留学していたウイグル人と結婚し、現地で三つ子を産んだ。2015年5月に里帰りした際にウルムチ空港で理由を告げずに拘束され、子どもとも引き離された。3カ月後に釈放されたとき、子どものうち1人は死亡していた。

その後は当局の許可を受けたうえで就労していたが、2017年4月には「民族間の対立をあおった」として再び収容された。不衛生な狭い部屋に20~30人が押し込まれ、2時間ごとに交代で横になっていた。そのうえ尋問のため3日にわたり不眠状態に置かれたり、電気ショックによる虐待を受けたりした結果、8月末には精神病院に入院するに至る。それまでに同房者から9人の死者が出たという。

2018年1月には3度目の拘束をされ、「無期懲役か死刑」と脅迫された。しかし子どもたちがエジプト国籍だったため、同国政府の働きかけで奇跡的に収容所から出て、エジプトに渡航することができた。

出国の条件は2カ月後に中国に戻ることだった。出発にあたり、メヒルグルさんが「自分はなぜ何度も拘束されたのか」と係官に尋ねたところ、「ウイグル人だからだ」という答えが返ってきただけだという。

エジプトで判明したのは、夫が2016年にメヒルグルさんを追いかけて中国に戻り、そこで懲役16年を宣告されたということだった。その後の消息は不明だ。最終的に彼女はアメリカへの亡命を選んだ。メヒルグルさんは、中国の狙いはウイグル文化を消し去り、完全に漢民族と同化させることだという。

中国は3月に「新疆での反テロリズム、極端主義との闘争と人権保障」という白書を出している。収容されている住民は宗教極端思想に染まり、教育程度が低く、中国語の能力が低い人々で、彼らに「職業訓練」をほどこしている、と説明している。憲法や刑法、反テロリズム法などを教え、食品加工からeコマースまで各種の技能訓練を授けているという。

強制収容所で100人以上の死亡を確認

集会ではほかにも10人ほどの在日ウイグル人が証言したが、例に挙げられた被拘束者の多くは大学教授や文化人などの高学歴者で「職業訓練」の必要は乏しそうだ。また、彼らの集計では収容所内で100人以上の死亡が確認されたという。

当局の情報統制が厳しいため、自治区の実態は外部にはほとんど漏れてこない。在日ウイグル人の手にする情報も限られているが、それでも悲惨な現実は十分に伝わってくる。

ある集会参加者は故郷の自宅の写真を示した。監視カメラが設置された門の前に、家族と一緒に漢民族の公務員が写っている。誰かが拘束された家庭には、定期的に公務員が宿泊して挙動を監視するそうだ。その食事代やカメラの設置費用は「監視される側」の負担だという。

7月8日には日本を含めた西側の22カ国が、新疆ウイグル自治区でのウイグル人弾圧を非難する書簡を国連人権理事会に提出した。人権や宗教の自由を尊重し、国連などの調査を受け入れることを求める内容だ。

中国はこれに素早く反応した。7月12日には中国を擁護する国37カ国が、西側諸国の主張に正面から反論する書簡を提出した。「人民を中心にした発展哲学と、発展を通じた人権促進により、特筆すべき成果をあげている」と中国を持ち上げ、その「透明性と開放性」を称揚する内容だ。「新疆ではこの3年、テロが起きていない。人民はより強い幸福感と満足感、安心を感じている」としている。

この書簡には北朝鮮、パキスタン、ミャンマー、カンボジア、ロシアのように中国と密接な国に加え、サウジアラビアやアラブ首長国連邦のような中東の主要国も署名している。また、アフリカからも16カ国が署名した。

外国報道陣をウイグルに招く取材ツアーを実施

中国政府は7月21日には新たな白書を公表し、新疆ウイグル自治区を「中国の不可分の領土」としたうえで「史上最高の繁栄の時期を迎えている」と自賛した。

さらに中国は7月14日から22日まで、アメリカや日本を含む24カ国の報道陣を新疆ウイグル自治区に招き、「シルクロード経済ベルトの中心地を歩く」と題する取材ツアーを実施した。ウルムチに加え、カシュガルやホータンなどの地方都市までを案内したという。中国も多少なりとも情報公開しないと、国際社会の批判をかわしきれないと判断しているようだ。

しかし、新疆ウイグル自治区の実情は極端な秘密主義に覆われ、まったく見えてこない。そのこと自体が、経済成長を続ける中国の本質的な危うさを強く感じさせる。その懸念は本当の「透明性と開放性」を実現することでしか消せないだろう。