・Twitterが「宗教を理由としたヘイト発言」を禁止 違反ツイートは削除の方針 アカウント停止の可能性も。(ねとらぼ 2019年07月10日) 

※削除対象となるツイート例として、以下を例示しています
 
•ネズミは駆除するべきだ。【宗教名】は実に不愉快だ。
•【宗教名】はウイルスだ。彼らがこの国を病気にしている。
•【宗教名】は処罰されるべきだ。私たちは、あの汚らわしい動物を除去するために十分なことをしていない。
•私たちはこの国に【宗教名】が増えることを望みません。ウジ虫はもうたくさんだ。

Twitterは2018年、ヘイト行為を禁止する同社のルールに“人間性を奪う言葉”を追加することについて、世界中のユーザーから意見を募りました。2週間で30カ国・8000件以上の回答が寄せられ、ルールの明確化を求める声や、一貫性のある運用を求める声が寄せられました。

ユーザーや外部有識者の意見を元にルールを改正、また一貫性のある運用を行うため社内教育の改善に取り組みました。同社は、それでも対応できていない分野があると認識しています。例えば、個別のツイートを取り上げるとヘイト表現に見えても、会話全体の流れでみると、そうでもない場合があり、これにどう対処していくかは、今後の課題であるとしています。

Twitterが禁止しているヘイト行為

人種、民族、出身地、信仰している宗教、性的指向、性別、性同一性、年齢、障害、深刻な疾患を理由とした他者への暴力行為、直接的な攻撃行為、脅迫行為を助長する投稿を禁じます。また、このような属性を理由とした他者への攻撃を扇動することを主な目的として、アカウントを利用することも禁じます。

Twitterのポリシーより


・ツイートまとめ テーマ:強まるネット言論統制。「非親告罪化した著作権法」はネット言論弾圧の凶器になり得る。要警戒!

https://kokuhiken.exblog.jp/30362714/

〇裏権力及びその走狗は核心を付く彼らにとって不都合なネット言論者の締め出しを図っていると見る。その為には卑劣な脅しや圧力もかけてくるはずである。著作権法はその為の「武器」否「凶器」になり得る。TPP等で著作権法の非親告罪化を進めた真の狙いがこれだと見ている。陰謀追及者は注意されたし!

〇統計的なデータや何らかの系統的な情報を示す資料は人々が公共の為に広く利用できるようにしていないと公開する意味がないのではないだろうか?ましてや公益を図る為に利用してもらえるなら本望であろう。それをガタガタと言うなら最初から公開しないでおけばよい。と思う次第である。個人的な意見。

〇猶太資本家や朝鮮半島系権力人脈を批判する事を「差別」と言い掛かりを付ける事が出来る「ヘイトスピーチ」という新概念と同様に「著作権侵害」で因縁を付ける事は容易である。誰にでもあり得る事だからである。故に言論弾圧の為の凶器になる。陰謀追及をする上で今後最も警戒を要するポイントである。

〇誰もが悪いと分かっているような犯罪(殺人や強盗など)ではなく、「法律違反」としてひっかけるのがより容易がものほど言論弾圧の凶器になる。「非親告罪化された著作権法違反」はその最たるものである。これはTPPの関連法案として設けられた。包括的奴隷条約絡みという時点で裏権力案件だと分かる。

〇著作権法の非親告罪は現時点では「行為の対価として財産上の利益を受ける目的」「(有償著作物等の提供若しくは提示により)著作権者等の得ることが見込まれる利益を害する目的」という目的で縛りをかけているようだが、段階的に対象を広げていく可能性があるので公益目的の陰謀追及に於いても要警戒。

〇「引用の際の出所の明示義務違反」も非親告罪化しているようである。これがかなりひっかけやすいだろう。要注意である。本人が別にいいと思っても本人の意向に関わらず勝手に取り締まるとは何だか変ではないか。警察はそんなに仕事熱心だっただろうか。やはりネット言論弾圧目的の規定としか思えない。

〇自分の事として具体的に考えてみる。情報拡散が目的なのでツイートの引用は大歓迎である。出来れば引用元は明示して貰いたいとは思うが、誰かが明示せずに引用した場合に当局が勝手に取り締まったとしたら「余計な事をするな!」と言いたくなる。自由な言論環境を委縮させる事が一番悪い事だと考える。

〇SNSの規制強化など自由な言論環境がどんどん締め付けられているので、陰謀追及者としては裏権力及びその走狗による悪辣な言論妨害から身を守る為にこの辺の法律を研究しておく必要がありそうである。

〇ツイッターは「「宗教を理由としたヘイト発言」を禁止」の由。これでは権力組織としての宗教団体や思想ツールとしての宗教教義の批判はどうなるのか?根拠に基づく権力批判としての宗教批判を「ヘイト」扱いしかねない。増々言論統制を強めようとしている。非常に危惧する。

〇国際金融資本批判を「猶太人差別」扱いし言論抑圧するのは特に欧米に於いては裏権力の常套手段である。権力集団としての国際金融資本を批判する事を「猶太人差別」扱いする事から見ても、宗教的権力組織や宗教思想の批判を「ヘイト発言」扱いしかねない。権力や思想の批判・吟味は個人への嫌悪に非ず。


・西欧近代の自由主義や東西の自由観についての考察。

https://kokuhiken.exblog.jp/30362625/

〇個人の自由を重視するはずの近代の自由主義が何故超管理社会に帰結しか、というのは近代文明の大きな謎である。「個人の自由」を「巨大資本の自由」「巨大企業の自由」と読み替えた所に「自由」の名による個人の抑圧が始まったのかもしれない。以前考察したように新自由主義の帰結は集産主義だと見る。

〇新自由主義が何故集産主義になるのか。市場原理主義により少数の巨大資本に生産手段を含める財産が集中化するからである。これら寡頭独占資本が政府を支配すればそのまま集産主義体制の成立と言えるのではないか。「世界政府」はその究極。巨大資本が国家の主権を奪う包括的奴隷条約はその為の枠組み。

〇以前「近代の自由主義は超管理社会に帰結した」と述べたが、この原因について自分なりに少々考察してみる。按ずるに西欧近代の自由主義に於いてはその「自由」の観念の根底に「欲望の追求」を据えたからではないか。以下に自由主義が超管理社会となる過程について自分なりの分析を順を追って説明する。

〇①「自由」とは「欲望の追求」である。②欲望の追求が第一であれば、より大なる欲望の追求が望ましいとされる傾向が強まる。③より大なる欲望の実現の為には個人より組織化した方が効率的(自由主義と合理主義・功利主義は密接)。④個人の自由は「最大多数の最大幸福」を目指す組織の前で軽視される。

〇⑤個人は「合理性」と「功利性」を第一とする近代的組織の中で機械の一部の如くなり疎外される。⑥欲望の最大化の為には個人の自由は「コスト」でしかないと見なされる。⑦欲望の実現を最大化する為の「合理的」組織体の維持の為に個人は管理する対象となる。超管理社会の成立。以上のように分析する。

〇このように西欧近代の自由主義の言う「自由」が「欲望への自由」だった事が、最終的には「個人の自由の抑圧」=超管理社会に帰結するという逆説の原因だと分析した。逆に東洋の「自由」が「欲望からの自由」を主に意味する事は同時に合理主義的な近代的組織を発達させなかった事と相即すると言える。

〇西欧近代の自由主義は「欲望を追求する自由」謂わば「欲望への自由」なのに対し、東洋の「自由」は主に「欲望からの自由」を意味する事が多い。仏教の解脱・涅槃や老荘の無欲、宋学の「人欲を去る」という思想などが典型。最終的に超管理社会を生み出すか否かは「自由」の捉え方にかかっていると考察。

〇芸道でもこの自由観が顕著である。例えば、江戸時代に著された「天狗芸術論」という剣術指南書では心の中に私心や執着が無ければ自由自在に相手に対応できると教える。欲望の追求を自由とする考え方が欲望の対象に執着する事を「自由」とするのに対し、ここでは対象に執着しない事を「自由」とする。

〇話は多少変わる。国史上でも有数の名僧とされる鎌倉時代の明恵は北条泰時との対話の中で政治の要諦として「欲が乱の原因」(故に為政者たる者は欲を去れ)と説いた。これは迂遠な訓戒だろうか?そうは思わない。無論安倍一味以下の売国勢力や利権屋に「欲を去れ」と言っても無駄な事は言うまでもない。

〇だが、欲の追求は主観的な「欲望」だけでなく、客観的な諸条件にも依存する。如何に主観的な「欲望」が大きくても、それを実現し得る客観的な諸条件が無いと実現しない。今の売国政治で言うと、自称「民間議員」の制度がそれである。世の乱れを治め、売国政治を正すにはこれを廃止する事が必須である。

〇このように客観的な条件まで考慮に入れて解釈すると「欲が乱の原因」との洞察は古今不変の道理と言ってもよいのではなかろうか。私利私欲の塊である売国者や利権屋が国家に寄生して利権を追求出来ないような客観的な仕組みを整えるべきである。その為には自称「民間議員」の廃止は絶対的条件である。

〇社会とは欲望と欲望のせめぎ合いの場と捉える事が出来る。そんな中で「欲望の追求こそ第一」とすると、結局は力の強い者の「自由」だけが重視され、それ以外の個々人の自由は軽視されがちになる。個々人の自由を守るのは「自由を尊重するべき」という道理である。道理を軽視すると自由も死ぬのである。

〇西欧近代に於いては道理と自由は対立的に捉える傾向があるが、「自由を尊重する」というのも立派な道理である。この道理が個々人の自由の条件となっている。故に道理と自由は対立しない。道理が守られないと自由が廃れる。デジタル・レーニン主義など個人の統制と管理が進む昨今の情勢はまさにこれ。

〇それぞれが好き勝手に欲望を追求する事を「自由」だとすると、自由と自由の衝突が起きて結局はより力の強い者の自由だけが残る事になる。さらに個人単位より集団化した方がより強い力になるので巨大組織の「自由」だけが罷り通る事になる。その究極がNWO。超権力集団にしか「自由」がない社会である。

〇「毫釐の差は千里の謬り」と言うが、自由観の違いが結果の大きな違いに帰結する。「自由を尊重する」という道理(只のモラルだけでなくこれを具体化したルール、諸制度を含む)は特に権力者に課されないといけない。それが緩みに緩む一方で庶民への統制が強まっているのが目下の情勢。破NWOあるのみ。

〇「自由を尊重する」とはいい意味で「放っておく」という事である。裏権力の連中は執着が強すぎて「放っておく」事が出来ない為に世界を自分好みに改造し支配しようとするのである。彼らが支配欲から「放っておく」事が出来ない為に中東などに要らぬ介入をして混乱を招き多くの命が失われたのである。

〇「自由」とは只の言葉に過ぎない。故に「実体」(関係によらずそれ自体で存在するもの)ではない。これを実体視したのがフリーメイソンやネオコンの言う「自由」である。「自由」を理念として実体視する故に他者に押し付け抑圧を強いる事になる。フリーメイソン的な「自由」とは「支配」の別名である。

〇「自由」とは実体ではなく「何かに(対象に)・とらわれていない・状態」を指す。状態であるからには実体的にではなく関係的に規定される。例えば、何らかの対象があり、それとの関係を言う言葉である。東洋の自由観では例えば「解脱」とは「煩悩に・とらわれていない・状態」を指す関係的概念である。

〇「自由」を実体的な理念として掲げると逆に抑圧と支配になる。「自由というモノ」にとらわれてしまう訳である。この状態自体が既に「自由」ではない。「自由」なる概念に執着した状態である。故に石屋にしろネオコンにしろ「自由」なる実体論的な観念に執着する連中が支配を意図するのは必然である。

〇これまで「自由」の名でどれ程の暴力が振るわれてきた事か。このような「自由」は「自由」なる概念を実体視して理念化し、他者に押し付け、支配する為の道具でしかない。「自由」なる概念すら押し付けないのが真の「自由」だと考える。誰かと誰かの間で「押し付けない」という「関係性」に自由を見る。

〇故に本来は「自由」と言う必要もない。老子の「大道廃れて仁義あり」と同じ。思いやりや道義が廃れたから「仁義」なる言葉が必要になったという捉え方。それと同じく自由の状態が無いから「自由」という言葉が強調されるのではなかろうか。「自由」を理念として掲げる者は不自由をもたらす事が多い。

〇「自由」が「不自由」を意味するという「ニュースピーク」である。フリーメイソン的「自由」とは庶民を守る防壁でもある国境を撤廃し「世界政府」という超権力によって世界の民衆を支配する事を指す。そこでは「自由」なのは少数の権力集団のみで大多数は不自由を強いられる。それがNWOの正体である。

〇いい意味で他者を「放っておく」とは所謂市場原理主義の「自由放任」とは違う。後者は実は「放っておく」の逆であり、巨大資本と政府が癒着した上で行う意図的な利益誘導政策である。いい意味での「放っておく」事とは他国に不当な介入をしない事や人々を監視したり支配しようとしない事などを指す。

〇「大国を治むるは小鮮を烹るが如し」という老子の教えがここで言う「放っておく」の説明に適合的である。老子は民衆への過剰な管理統制だけでなく為政者が欲を追求する事や戦争にも反対する。裏権力に言いたいのは我が国に介入するなという事である。世界の混乱の原因は欲に駆られて介入する事である。

〇新自由主義やデジタル・レーニン主義では貧困層を切り捨てたりなど悪い意味では「放っておく」一方で、民衆への介入を強め超監視社会化・警察国家化を進める。正しき政道はこれの逆である。前者の意味では放っておかず、後者の意味では放っておく事である。困っている人を助け、民衆の自由を守る事。