・キリスト教が日本で広まらなかった理由(文藝春秋SPECIAL 2016冬 2015年12月16日)

島田裕巳(宗教学者)

※人口のわずか1%以下。世界最大の「非一神教国」の謎

世界には、キリスト教徒が23億人、イスラム教徒が16億人いると言われる。

ところが、日本のキリスト教徒はカトリックとプロテスタントを合わせても百万人程度で、人口の1%にも満たない。イスラム教となれば、日本人の信者は一万人程度で、外国人を合わせても10万人をわずかに越えているに過ぎない。

これは、注目されていいことだが、世界の国々のなかで、これほど一神教を信じる人間が少ない国はほかにない。日本は一神教が浸透しなかった最大の国なのである。

イスラム教の場合には、これまで日本人が接する機会はほとんどなかった。国内に海外からイスラム教徒が入ってくるようになったのは、ごく最近のことである。

これに対して、キリスト教の場合には、16世紀にすでに伝えられている。その後禁教とはされたものの、明治に入ると、禁教は解け、各国から宣教師がやってきて、キリスト教系のいわゆるミッション・スクールも全国に数多く作られた。

戦前は、国家神道体制のもとで、キリスト教の布教にも制限が加えられたが、戦後、新しい憲法のもとで信教の自由が確立され、自由に布教活動を展開できるようになった。

その結果、たしかにキリスト教徒の割合は増えた。戦前の信者の数は30万人程度だったので、現在はその3倍を越えている。終戦直後はアメリカを中心とした連合軍の占領下にあったこともあり、一時はキリスト教がブームになったこともあった。

しかし、その後、キリスト教の教勢はふるわず、社会的にも注目されることが少なくなってきた。何よりそれは、キリスト教系の知識人・文学者がいなくなったことに示されている。たとえば、キリスト教の信仰をもつ作家としてよく知られているのは曾野綾子氏くらいしかいないのではないか。一時は一つの文学ジャンルを形成していたキリスト教文学はほぼ消滅しつつある。無教会派のキリスト教徒が良心的な知識人として影響力を持つこともなくなった。キリスト教は、日本で信者を増やせなかったばかりか、知的な世界における影響力さえ失いつつあるのだ。

福音派の「壁」となったのは
 
なぜこれほどまでにキリスト教は日本で受け入れられなかったのか。日本のキリスト教史を考える上で、それはもっとも重要な疑問であり、課題である。

それは、キリスト教文学がまだ注目されていた頃、カトリックの信仰をもつ遠藤周作氏が、代表作となった『沈黙 』などで問うたことでもあった。遠藤氏は、『沈黙』に登場する棄教したポルトガル人の神父に、「この国はすべてのものを腐らせてしまう底なしの沼だ」と言わしめた。

このことばの意味するところを考えることは重要だが、戦後に限って考えれば、信者を増やしていく絶好の環境が整ったにもかかわらず、キリスト教の教勢が拡大しなかったのは、創価学会の存在があったからである。

これは、現在の世界で起こっていることだが、経済発展の著しい国では、プロテスタントの福音派が信者を増やしている。キリスト教徒が30%を占めるようになった韓国でもそうだし、中国でも最近ではキリスト教徒の割合が高くなっている。その主力は、中国政府に公認されない地下教会(あるいは家庭教会)で、その多くは福音派である。

福音派は、病気治療や現世利益の実現をかかげ、扇動的な説教を行うカリスマ的な牧師を中心に組織された集団である。カトリックの牙城であるはずの南米ブラジルでも、福音派への改宗者が爆発的な勢いで増えており、バチカンはそれに強い危機感を抱いている。

日本も、戦後には高度経済成長という形で、驚異的な経済発展を経験している。その時代に、キリスト教の福音派が勢力を拡大していても不思議ではなかった。

ところが、戦後その勢力を拡大したのは、創価学会や立正佼成会、霊友会といった日蓮系の新宗教だった。とくに創価学会は驚異的な伸びを見せ、現在では、実数で国民全体の3%程度を会員にしている。創価学会だけで、キリスト教徒の四倍程度の信者数を擁しているわけである。

戦後の創価学会をリードしたのは、第2代会長となった戸田城聖である。戸田は、現世利益の実現を中心に掲げ、その庶民的な語り口によって多くの会員を獲得するのに成功する。創価学会は、経済発展が続く国々で福音派が果たしていることと同じことをやっていった。しかも、政界に進出することで、政治的な権力から遠いところにあった庶民に選挙活動を通して政治に影響する力を与えた。

これでは福音派が日本に入り込む余地はない。以前、日本で布教活動をしていた韓国の福音派の牧師が、布教を途中で諦めたという話を聞いたことがある。創価学会をはじめとする日蓮系新宗教は、キリスト教を日本に浸透させない壁となったのである。

ミッション校は多いのに
 
ただ、日本にキリスト教が浸透している例としてあげられるのが、ミッション・スクールの数の多さである。

小学校から大学まで、宗教を背景とした学校は全国に849校あるが、そのうち565校がキリスト教系で、全体に占める割合は66.5パーセントにも及ぶ。つまり、3分の2がキリスト教系の学校なのである。

しかも、ミッション・スクールのなかには、有力な進学校が少なくない。神奈川の栄光学園や聖光学院、鹿児島のラ・サール、広島の広島学院などである(橘木俊詔『宗教と学校』河出ブックス)。

ミッション・スクールでは、とくにカトリック系の場合には、かなり熱心に宗教教育が行われており、学生・生徒に礼拝への参加を義務づけているようなところもある。

したがって、とくに思春期の生徒たちが通う中学・高校の段階では、宗教的情操の面で影響を受けることも少なくない。だが、卒業後に信者でなかった生徒が洗礼を受けてキリスト教徒になる例はそれほど多くはない。

ミッション・スクールは、明治に入って禁教が解けてから次々と生まれたものであり、教会や修道会も、それを増やしていくことに力を入れた。当然それは布教活動の一環であったわけである。さらに言えば、そのもっとも重要な柱であった。

その戦略は、半面では成功した。ミッション・スクールは、今日でも名門として日本の教育界に一大勢力を築いているからである。

しかし、布教活動として成功したのかということになると、必ずしも十分な成果を上げたとは言えない。毎年、ミッション・スクールの卒業生は50万人程度に達し、高校の卒業生だけで15万人を越えているが、それは信者の伸びには結びついていないのである。

これもまた、日本の社会とキリスト教との関係にまつわる大きな謎の一つということになるが、日本の社会は、教育機関としてミッション・スクールを利用してはいるものの、信仰を植えつける機能については、それが十分に作用しないよう妨げているとも言える。

では、どうやってそれを妨げているのか。

その説明はなかなか難しいが、ミッション・スクールに子どもを通わせる親の方は、キリスト教の信者でないことが多い。そもそも信者数が少ないからだ。

となると、ミッション・スクールの卒業生は、家族や親族のなかにキリスト教の信者を見出すことが難しい。しかも、ミッション・スクールに子どもを行かせる家は、家族親族のつながりが強く、冠婚葬祭の機会も多い。

ミッション・スクールの卒業生は、女性の方が多く、彼女たちが結婚した場合にも、相手先の家は豊かで、冠婚葬祭に熱心ということが少なくない。

となると、神道や仏教とのかかわりが多く、キリスト教の信仰をもつとそれが邪魔になるケースも出てくる。ならば、キリスト教にシンパシーを持ちつつ、洗礼までは授からない。そうした卒業生が多くを占めることになり、それで信者が増えていかないのかもしれないのである。

新宗教の信者を見ても、今は、親がその宗教の信者だというケースが多い。新宗教が活動を活発に展開している時期には、次々と新しい信者が入ってくるが、安定し、さらには停滞するようになると、信仰二世や三世に受け継がれていく傾向が強くなる。創価学会など、かつては強引な折伏で会員を増やしていったが、今は、子どもや孫に信仰を受け継いでいくという形が大半を占めている。

キリスト教が日本で信者を増やしていく上では、家全体を取り込むということが不可欠だったはずである。つまり、「創価家庭」と同じように、「キリスト教家庭」を生み出していく必要があったわけだ。

創価学会の場合には、会員になると、日蓮の書いた曼陀羅を書写したものが与えられ、それを仏壇に祀って、その前で「南無妙法蓮華経」の唱題を行うことが日々の実践になっていく。そのため、会員数は個人ではなく、世帯を単位に数えられてきた。

明治以降、キリスト教に入信するというときに、入信者の多くは若い世代であり、彼らは、自らは信仰を得ても、それを家族にまで伝えていくということができなかった。若い世代であれば、冠婚葬祭において重要な働きをするわけではないので、個人の信仰を貫くということも可能だった。

しかし、彼らが家庭をもち、冠婚葬祭にかかわるようになれば、キリスト教の信仰は邪魔になる。家族全体を信者にしない限り、その状況は変わらない。日本人の宗教が、家を単位としてきたことが、キリスト教の拡大を妨げる大きな要因になっていた面がある。

「デウス」は「大日」
 
もちろんそれは、日本に限らず、どの国においても言えることである。ヨーロッパで多くの人間がキリスト教徒になっていくのは、キリスト教徒の家庭に生まれるからで、それはイスラム教の世界でも同じである。社会が大きく変わらない限り、信仰は家を通して、あるいは地域を通して伝えられていく。

新しく宗教が伝わるというときに、いくら点を増やしていっても、その勢力は拡大しない。個人単位では広がらないのだ。それが、線から面になったとき、はじめて拡大という現象が起こる。まさに、戦後の創価学会は、家庭や地域をまるごと会員にしていくことで、面として拡大していったのだ。

日本のキリスト教が面として拡大していったのは、最初にそれが伝えられたキリシタンの時代に限られる。その時代、地域によっては信者がかなり増えたとされる。キリシタン大名などが次々と誕生したのも、それだけ、広く浸透していったからだ。

しかし、おそらくはそれゆえにということだろう、キリスト教は禁教になり、宣教師は追放され、信者たちは厳しい弾圧を受けた。信仰を隠しながら、それを守り抜こうとした隠れキリシタンの間では、その期間があまりに長かったこともあり、信仰は変容し、日本の土着信仰と習合してしまった。

そもそも、日本にキリスト教を初めて伝えたフランシスコ・ザビエルは、当初、神であるデウスのことを大日と称するなど、仏教の一派として布教活動を展開した。ほかにも、キリスト教の信仰を説明することばを翻訳するには、仏教用語を活用するしかなかった。

それで、はじめは仏教の僧侶に歓迎されたりもしたのだが、当時の日本社会には、仏教の信仰が庶民層にまで浸透しており、その壁が厚かったとも言える。仏教用語が翻訳に用いられることで、キリスト教の独自性はなかなか理解されなかったのである。

独自の宗教世界
 
東南アジアのなかで唯一のキリスト教国がフィリピンである。フィリピンにキリスト教が伝えられたのは日本と同じ十六世紀であり、今でもキリスト教徒の割合は九割を越え、大半がカトリックである。

同じ時期に伝わっていながら、日本とフィリピンで対照的な結果になったのは、フィリピンには、イスラム教は伝わっていたものの、インドのヒンズー教や中国経由の仏教などの影響をほとんど受けていなかったことが影響している。日本では仏教や神道がキリスト教を阻む壁になったのだが、フィリピンにはそれにあたるものがなかった。

日本では、土着の神道が存在するところに、六世紀に仏教が伝えられ、朝廷や貴族層に受け入れられた。仏教は、神道を排除することなく、それを信仰世界のなかに取り込み、中世においては、「神仏習合」の信仰が確立された。そこには、平安時代の終わりに台頭した武家も取り込まれ、やがてそれは庶民層にまで広がっていった。

そうした状況のなかでは、キリスト教が広がっていく余地がない。ザビエルのことについて、日本側の資料がいっさい残されていないのも、さほど日本側から関心がもたれなかったからではないだろうか。

キリシタンの禁教は、島原の乱などの抵抗を生んだが、けっきょくそれは制圧されてしまった。明治に禁教が解けたときには、新しい日本国家は、神道を国民道徳として前面に打ち出す方向に転じていた。

そうなると、キリスト教は、必ずしも国家の方針に賛同しない一部の知識人層に活路を見いだすしかなかった。そして、教育の機会の提供点では利用され、信仰としてのキリスト教は骨抜きにされてしまった。

当然、今やキリスト教を凌駕する勢いを見せているイスラム教が日本に浸透する余地もない(将来、移民の増加によっては、状況が変わりうるが)。日本は一度も一神教に席捲されなかった国として、これからも独自の宗教世界を維持し続けていくことになるのかもしれない。そのことはやがて世界的にも注目されることになっていくのではないだろうか。

しまだ ひろみ 1953年東京都生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員などを歴任。著書に『戦後日本の宗教史』(筑摩選書)、『キリスト教入門』(扶桑社新書)など多数。