・マインド・リーディング VS マッスル・リーディング論争

※マインド・リーディング。それは言葉や身振りなどによる通常の情報伝達の方法を用いずに、5感を超えた、いわば超感覚的能力によって他人の考えていることをリーディングすることです。

今回は1880年代はじめに、イギリスにおいて沸きあがったマインド・リーディングに関する賛否両論の論争について紹介してみたいと思います。
 

1881年春、驚くべき的中率を示すマインド・リーディングを披露するアメリカのエンターテイナー、ワシントン・アーヴィング・ビショップがロンドンへ到着しました。

あらかじめ言っておくと、ビショップは本物の超感覚的能力を発揮するミディアムやクレアヴォヤンではなく、あくまでステージでショーを披露するエンターテイナーです。しかしながら彼の技は、多くの一般の人々に本物のマインド・リーディングではないかと思わせる程の驚異を与えるものでした。

そもそもビショップがマインド・リーダーとしてのキャリアをはじめたのは、1877年10月、シカゴで有名なマインド・リーダー、ジェイコブ・ランダル・ブラウンのパフォーマンスを目撃したことからはじまります。当時、ブラウンが舞台で披露していたのは、「ウィリング・ゲーム(willing game)」として知られている子供たちの娯楽に似たパフォーマンスでした。

ちなみにウィリング・ゲームというのは、およそ次のようなものです。1人が部屋から出る。その間に、残りの人たちは部屋の中の物を1つ選ぶ。その後、部屋に戻って来た人に向かって、部屋にいた人たちは心の中でその場所に向かって行くようウィリング(命令)することで、その選ばれた物がどれかを当てさせる。

こうした一般的な子供の遊びを、ショーとして見せることが出来る程のクォリティにまで洗練させたのがブラウンのマインド・リーディングのパフォーマンスでした。

【図2】 目隠しをされたブラウンは、隠された物の場所を当てるために、その場所を知っている人の手の甲を自分の額に触れさせ、その相手の手の上にもう一方の手で触れます。

後はその状態のまま、その正確な場所まで、ブラウンは相手を連れていきます。

かりに隠された物が、他の部屋や通りの外にあったとしても、ブラウンは見事にそれを的中させることが可能でした 。

ビショップはこうしたブラウンのパフォーマンスから大きな影響を受け、1880年代に入る頃には、このジャンルにおける最も有名なパフォーマーにまで登りつめることになりました。

それにしても、いったいどのようにしてブラウンやビショップは、そのようなマインド・リーディングの技を披露することができたのでしょうか。

アメリカの神経医ジョージ・ビアードは、ニューヘイヴンのミュージック・ホールで行われたブラウンのパフォーマンスを目撃した後、アマチュアのマインド・リーダーたちとも多くの実験を重ね、「マインド・リーディングの生理学(The Physiology of Mind-Reading)」と題した論文を1877年2月の『ポピュラー・サイエンス・マンスリー』に発表します。そこでビアードは、ブラウンやビショップらのマインド・リーディングのからくりを生理学的に説明しました。ビアードは次のように述べています。

目隠しをされたオペレーター〔マインド・リーダー〕は、被験者〔マインド・リーディングされる側の人〕と共に1つの部屋あるいは複数の部屋を行ったり来たりしたり、階段を上り下りしたり、ドアを抜けて通りへ出たりとしばしば非常に速く歩き回る。
そして被験者が精神を集中させているその場所の近くに来た時、ごくわずかな力もしくは動きが、被験者の手によって彼の手に伝えられることになる。この力は被験者の側の不随意かつ無意識なものである。被験者は気づいていないし、第一に自分がそのような力を与えているとは信じないだろう 。

ビアードにとって、実験の結果からマインド・リーディングには一切の神秘的なものはなにもありませんでした。どんなにマインド・リーディングが見事な的中率を示したとしても、あくまでその現象は生理学的に説明可能である。なぜなら、それは被験者が無意識に伝えてしまっている筋肉運動が示す合図をマインド・リーダーがリーディングしているに過ぎない。

また、マインド・リーダーの中には「振動もしくは震え」や「オーラや様々な種類の何とも言えない感覚」の体験を口にするものもいるが、「これらの多様な症状は肉体へ作用する精神の結果であり、純粋に主観的なもの」だとビアードは述べています。

結局のところ、マインド・リーダーがリーディングしているのは、「被験者側の無意識の筋肉の緊張と弛緩」であり、それゆえ「いわゆるマインド・リーディングとは、実際にはマッスル・リーディング」以外のなにものでもない 。それがビアードの結論でした。

ちなみに、こうしたマインド・リーディングを脱神秘化するビアードによる説明は、ブラウンやビショップにとってなんら問題となることではありません。

実のところ、もともとビショップは、以前に本コラムで紹介した女性ミディアム、アンナ・エヴァ・フェイの交霊会のアシスタントを務めていました。しかしながら、交霊会での収益の分け前を巡ってアンナと対立した結果、彼女のトリックを1876年4月12日の『デイリー・グラフィック』紙上で暴露し、そればかりかその後はミディアムのトリックを暴くデバンカーとしてショーを行うようになりました。

したがって、最初にも述べたように、ビショップはマインド・リーディングをデモンストレーションする際、自分自身をミディアムやクレアヴォヤンとして見せかけることもなく、単なるエンターテイナーとして告知していました 。

ロンドン到着後のビショップのパフォーマンスは、イギリスの科学者たちからも、大いに注目を集めることになりました。それはビショップの超感覚的能力云々ということではなく、あくまで生理学的な観点から人間の無意識の筋肉の作用を示す事例として調査するためでした。

1881年5月14日の『ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル(British Medical Journal)』には、生理学者ウィリアム・カーペンターが自宅で生物学者トマス・ハクスレーと共に行ったビショップの実験についての見解が掲載されています。

それによると、ビショップとの実験結果は「精神と肉体の自動的な相互作用に関するわれわれの知識を拡大する」ものである。だが、そこで起こっているプロセスについて被験者の無意識の筋肉の作用による指示以上のものは何もない。すなわち、カーペンターの結論もビアードと同様のものでした 。

さらに同年6月23日の『ネイチャー』では、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの哲学教授で『マインド』の編集者ジョージ・クルーム・ロバートソンの自宅で行われたビショップのマインド・リーディングに対する実験結果が、ロイヤル・ソサエティのフェローでロイヤル・インスティチューション生理学教授のジョージ・ジョン・ロマーニズによって発表されました。

ロマーニズのこの論文にも、やはり超自然的なものへの言及は一切含まれず、ビアードやカーペンターと同様のものでした。ロマーニズいわく、ビショップのそれは「被験者の筋肉による無意識的で気づかれていない指示を、意識的であれ無意識的であれ解釈するプロセスに完全に負っているもの」である 。それはマインド・リーディングではなく、単なるマッスル・リーディング(筋肉リーディング)である。そうロマーニズは結論づけました 。

さて、論争がはじまるのはこの後のことです。

ロマーニズによるビショップの実験結果が発表されてからおよそ2週間後、ダブリンの王立科学大学の物理学教授ウィリアム・フレッチャー・バレットは、『ネイチャー』に「マインド・リーディング VS マッスル・リーディング」と題した論文を発表しました。

その中でバレットは、バクストンのユニテリアンの牧師A・M・クリーリーの家の5人の子供たちを実験したところ、マッスル・リーディングでは絶対に説明不可能な結果を得たと主張しました。

すなわち、クリーリー家での実験を通して、マッスル・リーディングとは明らかに異なる本物のマインド・リーディングの例証となり得る証拠をついに手に入れた。そうバレットは発表したのです。

バレットが公表した実験結果を読む限り、クリーリー家の子供たち――年齢は9歳から14歳の間で4人は少女、1人は少年――の能力は、確かに偶然では片づけることのできない的中率を示すものでした。

バレットは密かに自分が紙に書き記した物を別の部屋から持ってくるように指示したところ、子供たちはほぼ間違いなく正しい物を持って来ることに成功しました。

ヘアブラシ、オレンジ、ナイフ、アイロン、タンブラー、カップは見事に正解。トースト用フォークは1度間違ったが2度目は成功。ソーサーだけが失敗。また、町の名前を当てさせたところ、リバプール、ストックポート、ランカスター、ヨーク、マンチェスター、マックルズフィールドは正解。レスターをチェスターと間違い失敗。ウィンザー、バーミンガム、カンタベリーは失敗。

しかもこうした実験では、ブラウンやビショップのパフォーマンスとは異なり、ウィリングする人との間に手を用いる等の一切の肉体的接触は必要ありませんでした。これは明らかに精神同士が空間的隔たりを超えて影響を及ぼし得る十分な可能性を示唆するものではないか。そう考えたバレットは次のようにも述べています。

「明らかにわたしたちの精神の中の支配観念の神経誘導(nervous induction)が、その子供の受動的な精神の上に起こったのである。また、その実験はいくぶん電気や磁気誘導との類似した現象を思い起こさせるものでもあった。そこには精神の紛れもない神経外作用があったように思われる 」

バレットの口調からは、マッスル・リーディングへと還元することのできない離れた人間同士の間の思考や観念の伝達が起こっていることに関して、彼がほぼ確信に満ちていたことは明らかです。

しかしながら、この結果は、前述のウィリアム・カーペンターなどから、実験の手続きの不備を指摘する等、その得られたデータ自体を無価値なものだと決めつられけ、ごく少数の科学者を除いて、まともに取り扱われることはありませんでした。

ちなみにウィリアム・バレットは、そもそも主流の科学界から外れた異端の科学者だったわけではありません。むしろ逆です。ダブリンの王立科学大学の物理学教授となる前は、ロイヤル・インスティチューションで、かのジョン・ティンダルの助手を務めながら科学の教育を受けた人物です。

すなわち、当時のマインド・リーディングの擁護は、超常現象をなんでも信じたがる「素人」が提出したものではなく、あくまで専門的な教育を積んだ科学者によって提出されたものだったのです。

このバレットのクリーリー家の実験に対しての評価(*)は別として、それがもたらしたインパクトは、多くの人々に対して物質を超えた精神の領域への本格的な研究を促す強い刺激となりました。

特に1882年にロンドンで設立され、この分野に関する最も詳細な研究を残している研究団体「サイキカル・リサーチ協会(Society for Psychical Research)」は、バレットの論文に関心を惹かれたケンブリッジ大学出身の学者や少数の科学者たち、さらに傑出したスピリチュアリストたちの協力を得て結成されたものです。

はたしてマインド・リーディングは本当にあり得るのか? 肯定派と否定派の間の論争は完全な決着がつかないまま1880年代を通してずっと持ちこされていくことになります。

*後に、クリーリー家の子供たちのトリックへの強い疑いが、他の実験者たちによって提出されることになります。


・思考やイメージが伝わる!? テレパシーの誕生

※人間の超感覚的能力の1つを表す「テレパシー(telepathy)」という語は、みなさんも聞いたことがあるのではないでしょうか。

そもそもテレパシーとは、離れた人間同士の間で、通常の5感とは異なる方法によって思考やイメージなどが伝達される現象を説明するために、今から120年程前にイギリスで超常現象を研究する人々の間で使われるようになった専門用語です。
今回はテレパシーという概念が誕生するきっかけとなった当時の状況ついて紹介したいと思います。
 
1882年2月20日、前回のコラムで紹介したダブリンの王立科学大学の物理学教授ウィリアム・フレッチャー・バレットと英国スピリチュアリスト協会の中心人物ドーソン・ロジャーズの呼びかけによって、超常現象全般を組織的に調査するための団体「サイキカル・リサーチ協会(The Society for Psychical Research)」(以下、SPRと略する)がイギリスのロンドンで設立されました。

SPRの初期のメンバーの大多数は、霊の存在を信じるスピリチュアリストでしたが、その一方で現実に中心的な役割を果たしたのは、19世紀後半のイギリスを代表する哲学者ヘンリー・シジウィックをはじめとするより客観的な立場から調査に乗り出したケンブリッジ大学出身のエリートたちでした。

ちなみに、SPRの最初の議事録に掲載された「協会の目的」は、次のようにはじまっています。

「メスメリック、サイキカル、スピリチュアリスティックといった用語によって示されている多数の未解決の現象群を研究するために、今が組織的かつ体系的な試みを行うまたとない機会であると多くの人々によって感じられるようになってきている。

様々な国々の卓越した科学者たちによって最近行われた観察をも含む、過去そして現在における多くの優秀な目撃者の記録した証拠から、多くの錯覚や詐欺とは別に、一見したところ一般的に認められているどんな仮説においても説明できず、もしそれらが疑いなく立証されたならば、この上なく高い価値を持つことになるだろう注目に値する重要な現象が存在すると思われる。

このような未解決の現象を調査する研究はしばしば個人の努力によって引き受けられてきた。だが、十分な広い範囲に渡る母体の上に組織された科学的な団体によって行われたことはこれまでなかった。

1882年1月6日、それを果たすための第1歩として、バレット教授によってカンファレンスが召集され、サイキカル・リサーチ協会が企図された。最終的に1882年2月20日に協会は設立された」

こうしてはじまったSPRの初期の調査において、最も中心的な主題となったのが、「マインド・リーディング」を巡る問題でした(ちなみに、当時はマインド・リーディングと同様の現象を差す用語として、「思考リーディング(thought reading)」、あるいは「思考伝達(thought transfer)」という語も使われていました)。

そして同年12月9日、SPRの第2回目となる会合において、マインド・リーディングの可能性を強く肯定する驚くべき結果が、ウィリアム・バレット、フレドリック・マイヤーズ、エドモンド・ガーニーの3人によって発表されることとなりました。

それはブライトンのジャーナリストのダグラス・ブラックバーンとメスメリストのジョージ・アルバート・スミスの2人のコンビに対して行われた実験結果でした。同年12月3日と4日にマイヤーズとガーニーの2人(バレットは参加していない)によって行われた実験はおよそ次の通りです。

受信者の役割を果たすスミスは、集中力を助けるために目隠しをすることを自ら望みました。そして実験の間、マイヤーズとガーニーの方に対して、スミスは背を向けて座ります。

初日の実験では、スミスにまず色を当てさせる実験が行われました。マイヤーズもしくはガーニーのどちらかが書いた色を、送信者であるブラックバーンへと見せる。次にブラックバーンはスミスの手を握り、その色を尋ねる。するとスミスはブラックバーンの思考をまるで受け取っているかのように、かなりの近似値でそれらを次々と的中させていきました。

たとえば、最初の色を当てる実験結果は次の通りです。

実際に書いた色 / スミスからの回答

ゴールド / 金箔、写真のフレームの色
ライトウッド / ダーク・ブラウン、スレート色
クリムゾン / 燃えているような感じ、レッド
ブラック / 暗闇、ブラック
オックスフォード・ブルー / イエロー、グレー、ブルー
ホワイト / グリーン、ホワイト
オレンジ / 赤みを帯びたブラウン
ブラック / 疲れたので、何も見えない

その後、休憩を挟み、さらに同様のやり方で数や名前を当てさせる実験が繰り返されていきますが、スミスの的中率はもはや偶然の一致で済ますことのできない高さを示すこととなります。

さらにブラックバーンの体の特定の場所をつねるなどして痛みを感じさせ、その場所を一方のスミスに当てさせるという実験も行われました。その際、目隠しをされたスミスの顔の前には、さらにソファクッションが置かれました。こうしてスミスの目から完全にブラックバーンの姿が見えない状態が作られました。ただし、ブラックバーンの手がスミスの手を握ることだけは許されました。

実験の結果は見事なものとなりました。ブラックバーンの「左の上腕」、「右の耳たぶ」、「頭のてっぺんの髪」、「左の膝」の4箇所を順に刺激していくと、スミスはそのすべての部位を完全に的中させたのです。

また、この日の最後には、マイヤーズもしくはガーニーが図形を描き、それを送信者であるブラックバーンに見せ、さらに受信者であるスミスがそれを当てるという実験も行われました。

たとえば右の【図1】に対して、スミスは「円の中の三角形、そして下の方を指すまっすぐな線」であると述べ、実際とは上下さかさまではあるものの、これまた見事な正確さで言い当てています。

この最後のタイプの実験は、翌日にも少しやり方を変えて行われました。前日と同様に適当に描いた図形をスミスに見られないようブラックバーンに見せる。次にしばらくの間、ブラックバーンがスミスの手を握る。そしてブラックバーンが手を放すと、今回はスミスにそれを言い当てさせるのではなく、目隠しをされた状態のままで絵を描かせる。

スミスが絵を描いている間は、ブラックバーンとのごくわずかな接触もありません。かりにブラックバーンがスミスに対してモールス信号で使われるようなコードを用い、なんらかの方法でこっそりとアルファベットの情報を伝えていたとしても、今回の実験に限っては、その成功の助けとすることは困難です。なぜなら、言葉や数や色の場合とは違って図形の場合は、それをアルファベットの情報では伝えることが不可能です。

その結果は以下の一連の図をご覧いただくと分かるように、スミスの描いた図形は送信前のものの完璧な再現ではないにせよ、その見事なまでの類似性の高さは一目瞭然です。

同年3月28日のSPRの第2回の総会では、マイヤーズとガーニーが責任者を務めるSPRの「文献委員会(Literary Committee)」によって、これまでの「マインド・リーディング」、「思考リーディング」、「思考伝達」といった語の代わりに、ギリシャ語のtele(遠隔)+patheia(感情)を元にして造られた「テレパシー(Telepathy)」という語を用いることが提案されることになります。

それはブラックバーン&スミスとの実験結果を見ても分かるように、「思考リーディング」や「思考伝達」という語がもはや適切ではなかったため――すなわち、離れた人間の精神の間でやり取りされる情報が、単に思考だけでなく絵やイメージを含んでいたため――「思考」に限定されることなく、それらすべてを含めることのできる語が必要とされたことによります。

かくして「既知の感覚器官の通常の働きなしに、遠隔で受け取られた印象のすべての事例を対象とするため」の新たなテクニカル・タームとして、今日でも広く一般的に知られている「テレパシー」という語が誕生することとなったのです。

実のところを言うと、ブラックバーン&スミスの実験は、後にインチキの可能性を巡る議論が紛糾しますが、少なくともこの時点では、SPRにとってはテレパシーの実在を裏付ける非常に肯定的な証拠として考えられていました。いずれにしてもSPRによるテレパシーという語の採用は、非常に重要な意味を持つこととなったのは事実です。

まず何と言っても、それによってSPRは霊の存在を前提とするスピリチュアリズム(または、その存在を立証しようとするスピリチュアリズム研究)とは明確に異なるスタンスをより強くアピールすることができました。

なぜなら、テレパシーという仮説を主張することにおいて、死後の霊が存在するか否かの議論はさしあたって棚上げしておくことができることとなります。そればかり、むしろ死者の霊から来ると称されたメッセージも、交霊会の参加者の思考がテレパシーによってミディアムへと伝達されたものなのではないか、といった解釈の可能性が開けてきます。

かくして19世紀末へと向かうイギリスの超常現象研究は、テレパシーという包括的な解釈の枠組みの中に組み入れられていくことになっていきます。テレパシーの存在を立証しようとするSPRのその後の調査研究については、また改めてご紹介したいと思います。


・人が危機に陥った時、その思念は愛する人へと届くのか?

※「あの人が亡くなったちょうどその時の晩、わたしの夢にその人が出てきて......」

そんな体験をした人の話を、みなさんも耳にしたことはあるでしょう。あるいは、みなさんの中にも、実際、そんな体験をしたという人がいるかもしれません。

今回は、そういった現象を単なる迷信だと片付けてしまうのではなく、「科学的」なアプローチで真面目に取り組もうとした19世紀末イギリスでの研究を紹介したいと思います。
 

この問題に対して、全力を傾けて調査を行ったのは、様々な霊的現象を研究していたイギリスの「サイキカル・リサーチ協会(The Society for Psychical Research)」でした(以下、略してSPRと呼びます)。

もともとSPRは、「思考リーディング」あるいは「思考伝達」の研究を行っていたダブリンの王立科学大学の物理学教授ウィリアム・バレットの呼びかけによって結成された組織です。その中心となって活動したのは、初代会長を務めたヘンリー・シジウィックをはじめ、フレドリック・ウィリアム・ヘンリー・マイヤーズ、エドモンド・ガーニーといったケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ出身の人々でした。

1886年、SPRは自分たちの研究成果を公の場に『生者の幻(Phantasms of the Living)』と題された1冊の書物として発表しました。この本は3人のSPRの研究者F・W・M・マイヤーズ、エドモンド・ガーニー、フランク・ポドモアの共著の形を取ったものの、実際には、序文をマイヤーズ、そして本文をガーニーが執筆しました。そしてその本の中で展開された中心命題こそが、死の間際の人が愛する人へと思念を送る可能性についてだったのです。マイヤーズは序文で次のように書いています。

「『生者の幻(Phantasms of Living)』という標題のもとで、わたしたちが提議するのは、語られた言葉、書かれた言葉、また合図が用いられることなしに――すなわち、知られている感覚のチャンネルとは異なる手段によって――、人間が別の精神に影響を与えると仮定するための理由があるすべての事例の分野を扱うことである」

「知られている感覚のチャンネルとは異なる手段」によって「人間が別の精神に影響を与える」という可能性について、すでにSPRでは実験を重ねた結果、有意な結果を得たと判断し、それを「テレパシー」と名付けていました。

したがって、今回のこの本は、通常、単なる偶然、あるいは迷信として片付けられてしまう類の体験談を、テレパシー理論によって説明すること、あるいは逆にそれらの多数の体験談を収集することによって、テレパシー理論を裏づける事例とすることを目的としたものだったのです。

このことを序文の中でマイヤーズは次のようにも述べています。第一に「実験はテレパシー――精神から精神への思考や感情の伝達――が、自然界の事実であることを証明している」。第二に、集められた「証言は、なんらかの危機――特に死――を経験している人の幻(印象、声、姿)が、単なる偶然では説明できない頻度で、友人たちや身内の人たちによって知覚されることを証明している」。そして「これらの現象は、精神に対する精神の超感覚的作用の事例である。したがって、第二の主張は第一の主張を裏付け、また第一の主張によって裏付けられる」。

全2巻、およそ1300頁に渡る大著である『生者の幻』には、全部で702の体験談が収められています。そこに含められた事例はいずれも、無反省に拾い集めた逸話が単に列挙されているものではありません。SPRによれば、体験者との直接的なインタビューを含め、その真正性を見極めるための根気強い調査を行った上で、真実の体験と思われるものを選別し、さらにそれらを慎重に分類し分析したものでした。

■テレパシー体験者の証言

では、ここで『生者の幻』に事例として収められた体験談の1つを紹介してみましょう。

「1875年12月16日、木曜日、わたしは少しの間、ロンドンの近くにあるわたしの義理の兄弟と姉妹の家を訪れていました。わたしの健康状態は良好でした。けれども、朝から終日、わたしはどういうわけか憂鬱と気分の落ち込みを感じていました。それをわたしは薄暗い天気のせいにしていました。

昼食の少し後の2時頃、わたしは託児所へ行くだろうと考えていました。子供といることで元気になるため。そして気分を直そうとしていたのです。その試みは上手くいきませんでした。そしてわたしはダイニングルームへ戻り、椅子に腰かけました。わたしの妹は他の場所へ行っていました。

――氏のことがわたしの思考の中に現れると突然、わたしの開かれた目で、わたしは眠気を感じていなかったため、それを確信していますが、部屋の中に、小さなベッドに横たわって死んでいる男をいるのが見えました。わたしはその顔がすぐに――氏のものであることがわかりました。そして彼が単に眠っているのではなく、死んだのだということを疑いなく感じました。

部屋は空っぽでカーペットも家具もないように見えました。どれぐらいの間、その状況が続いたのかをわたしは述べることができません。その時は、妹や義理の兄弟にその状況を告げることはしませんでした。

もし――氏が死んだなら、彼が空っぽで家具のない状態の部屋の中にいるという彼の環境は最もありえないものだということを自分が分かっているということを主な根拠として、わたしは自分が見たことは何の意味もないものだと自分自身を納得させようとしました。

2日後の12月18日、わたしは妹の家を出て自宅に向かいました。到着したおよそ1週間後、わたしの別の妹が、――氏の死の告知を日刊紙から読み上げました。それは外出していた12月16日、わたしがその光景を見たその日だったのです」 

■テレパシー体験の大半が「死」に瀕する瞬間に起きる

こうした『生者の幻』の中に収められたイギリス中から集められた幻姿の体験談のほとんどが、死、病気、事故などの痛ましい出来事と関連したもので、幸せや喜びの感情を伝えるものは、稀で例外的なものだったことも1つの目を引く特徴です。

特に遠距離からやって来た幻姿に関しては、なんらかの形で死の場面と関連した事例――作用主体者となる人物が臨死の状態のときか、あるいは死んだ瞬間か、あるいは死の直後に起こっているか――が多くを占めていました。

実際、『生者の幻』に収められた自発的テレパシーの688のケースの内、399は知覚者の体験が作用主体者の死と同時に起こっているか、あるいはまさにそのすぐ後に続いたかのどちらかです。こうしたことからガーニーは次のようにも述べています。

「人の生命が出会う最も深いショックの中で、これらの現象は最も頻繁に生じるように思われる」

■研究の対象はあくまで「生者」

しかし、このように『生者の幻』の中の体験談が、いかに死と関連したケースが多かったにせよ、そのタイトル自体が示しているように、この本が前提としていたのは、あくまで作用主体者は死者ではなく「生者」です。ガーニーは言います。

「わたしたちの主題は生者の幻である。生命の終わりの地点での分割線のこちら側において、テレパシーの誘発要因のコンディションを探求しているのである」

したがって、たとえ自発的テレパシーの発動が作用主体者の死と関連した事例が多いとしても、それは死者あるいは死後のその人の霊が作用主体者となるのではなく、死に直面した危機の瞬間の「生者」こそが、作用主体者だということになります。すなわち、『生者の幻』の中では、幻姿に関する数々の逸話から「あの世」や「死者の霊」といった仮定が完全に排除されたのです。

さらに『生者の幻』の中の13章「偶然の一致に関する理論(The Theory of Chance-Coincidence)」では、『生者の幻』の中に集められた事例が、単なる「偶然の一致」という言葉で片付けられるものではないことを、統計学的手法を用いて導くことも試みています。

こうして『生者の幻』に収められた事例の山は、単なる迷信的な逸話を超えたもの、言い換えるなら、科学的ナチュラリズムの範疇において再解釈可能な事例として提出されることとなったわけです。

■当時の科学界からは受け入れられず

しかしながら、いわばこの近代化された不思議体験の集積と分析からなる『生者の幻』は、当時の知識人や科学コミュニティの間で、快く受け入れられるものではありませんでした。アカデミックな雑誌の中に掲載されたものの中で、称賛のコメントを残したのは、1887年1月7日の『サイエンス』の書評ぐらいのものでした。ちなみに、それを書いたのは、ガーニーの友人アメリカの心理学者ウィリアム・ジェイムズでした。

一方、チャールズ・S・パース、ジョサイア・ロイス、グランヴィル・スタンリー・ホールのような当時のアメリカの一級の哲学者や心理学者たちからは、いずれも『生者の幻』の結論を完全に否定するコメントを浴びせられることとなりました。それらの批判の中心には、この類の主題に対して、科学的に合法と認められるアプローチが実際に可能であるのかどうなのかという点が含まれていました。

確かに『生者の幻』の著者たちは、この時点で、テレパシーが作用する可能性を信じていました。けれども、当時の知識人たちからの批判を見ると、それを事実として結論づけるには時期尚早で、いまだ答えなければならない批判が山積みだったと言わざるをえません。実際、著者であるガーニー自身も、チャールズ・パースの批判に対する反論の中で次のようにも述べています。

「わたしは『生者の幻』の中ではっきりと述べた。たとえ、その本がテレパシーの証拠を提供するものとして正当に受け入れられる可能性があっても、その証拠がすべての誠実な知性の持ち主に受け入れられる見込みがあるものではないと。
必要とされているのは、さらなる事例、現代の事例である。そしてこのために、わたしたちは多くの国の学識のある人々の幅広い助力に大きく頼らなければならない。次の重要な一群の証拠が、アメリカ合衆国からやって来るであろうことをわたしたちは信じている」

結論の出ない研究ではあったものの、少なくともそれは、歴史的な観点からすると、この種の問題に対する本格的な調査の試みとして、評価されるべきもだと言えるでしょう。

SPRはその後も、サイキカルな領域への研究を地道に続け、当時の科学コミュニティのパラダイムへと挑戦を続けていきます。


・物体に保存された情報を読み取るサイコメトリーとは?

※「超感覚的能力」として考えられている人間の潜在的能力の中で、広く知られているのもに「サイコメトリー」(psychometry)というものがあります。

今回は、サイコメトリーとはどのようなものなのか、それが生まれた歴史的な背景も交えて簡単に紹介しておきます。
 
実はサイコメトリーという能力が知られるようになったのは、それほど昔のことではありません。

19世紀半ばにケンタッキー州コビントンのエクレクティック・メディカル・インスティテュートの学部長の医師ジョセフ・ローデス・ブキャナン(Joseph Rodes Buchanan, 1841-1899)がその能力を「発見」して以来、以降広く知られるようになっていきました。ちなみに、サイコメトリーという語自体は、ギリシャ語で「魂」を意味するpsycheと測定を意味するmetronを組み合わせたブキャナンによる造語で、文字通りには「魂の測定」という意味を持っています。

ブキャナンがサイコメトリーを発見することになったのは、監督教会派の司教レオニダス・ポークという人物から暗闇のなかで真鍮に触れると、口の中に嫌な金属の味を感じることで、すぐにそれと分かるという話を聞いたのがきっかけです。
その後、ブキャナンはシンシナティ・メディカル・スクールの学生たちの助けを借りて、次のような実験を試みます。

まず中味がなんであるか分からないように包んだいくつかの薬を、学生たちに手渡します。そして学生たちの反応を見守ります。すると、不思議なことにも、その内の何人かはそれを内服したときと同様の反応を示したそうです。

たとえば、吐剤を手渡された学生は、それを飲んでいないにも関わらず、しかもそれが吐剤であることをまったく知らないまま、吐き気を感じたと報告されています。
なぜそのようなことが起こるのか?

それに対してのブキャナンの考えはおおよそ次の通りです。

人も含めすべての事物からは、それ固有の目に見えない発散物が放出されている。それをブキャナンは「神経オーラ(nerveaura)」と呼びました。

そして、脳が外界の印象を受け取り記憶として保存していくように、外界の事物も神経オーラを通じて、その印象を受け取り保存していくに違いない。その残された印象を人間は感じ取ることができる。その能力のことをブキャナンは、「サイコメトリー」と呼んだのです。

こういったブキャナンの考えの背景にあったのは、「メスメリズム」による「流体論」でした。

宇宙全体は、目に見えないけれども磁気に似た「動物磁気」という流体によって満たされている。また動物磁気は人間の体の中にも流れている。そしてその流れが滞ったときに人は病気になる。そういった考えに基づくメスメリズムによる病気の治療法は、ブキャナンがサイコメトリーを「発見」した1840年代の合衆国では、非常にポピュラーなものとなっていました。

それと同時に、合衆国でのメスメル的流体の概念は、常識的には理解不可能な出来事――たとえば、離れた地点の間での目に見えない力やエネルギーの伝播、あるいは人から人への思考転移のような情報の伝達といった、一見、超常的に見える現象を説明するための理論的枠組みを提供するようになっていました。すなわち、目に見えないけれども空間を満たしているとされるメスメル的流体は、離れたもの同士の間での力の伝達を可能とする媒体だと考えられました。

そもそもメスメリストでもあったブキャナンは、こうしたメスメル的流体の明らかな影響の下、先ほどの「神経オーラ」というコンセプトを思いついたわけです。
ところで、ブキャナンのサイコメトリーの理論は、19世紀後半に入ると、それ本来の意味としてでなく、他の分野にも影響を与えることになります。

たとえば、スピリチュアリズムとの結び付きの中で、霊の出現をサイコメトリーの理論によって説明しようとしたのがそのひとつです。

それによると、「幽霊」と呼ばれているのは、地上から離れることのできない死者の霊ではなく、それは単にある特定の場所に記録された痕跡を人が見たり聞いたりしているものに過ぎないと説明されます。

すなわち、「幽霊を見る」ということは、その人が無意識のうちに、その場所に記録されたイメージをサイコメトリーによってリーディングしているのだというわけです。これは、「幽霊屋敷」と呼ばれるようなある特定の場所に、霊が出没しやすい理由としても用いられました。すなわち、「幽霊屋敷」と呼ばれる場所は、文字通りに霊が出没するスポットなのではなく、単に特別に深く過去の痕跡が記録されたスポットだと説明されるわけです。

その一方で、神智学者たちは、サイコメトリーを「アカシック・レコード(Akashic records)」というコンセプトの中へと吸収していきました。アカシック・レコードというのは、簡単に言ってしまうと、この世で起こった出来事がすべて記録されている非物質的で不滅の媒体のことです。神智学者たちは、このアカシック・レコードをリーディングすることとサイコメトリーの能力を結び付けて考えるようになっていきました。

こういった考えに基づき、アカシック・レコードをリーディングした神智学者の中には、遥か昔の歴史の情報にアクセスしたと主張する人も登場するようになります。

たとえば、W・スコット=エリオット(Walter Travers Scott-Elliot, 1895-1977)の『アトランティスと失われたレムリアの物語(The Story of Atlantis The Lost Lemuria』(1904)やG・R・S・ミード(George Robert Stowe Mead ,1863-1933)の『イエスは紀元前100年に生きていたのか?(Did Jesus Live 100 B.C. ?)』(1903)などは、その初期のものとして有名です。

アカシック・レコードについては、これまたなかなか面白いトピックですので、今後改めて、それをもう少し詳しく取り上げてみたいと思っています。