・現代の「スピリチュアル」のルーツは100年前のアメリカにあり

※今回は現代の「スピリチュアル」と呼ばれる現代の様々なことの過去の源流について、少し紹介してみたいと思います。

21世紀になってから「スピリチュアル」という言葉で、大きく括られるようになった様々な現象は、歴史的な観点からみると、実はほとんど新しいものはなにもありません。
世界観や思想、実践的な面も含めて、すべてとは言わないまでも、その大部分は19世紀後半から20世紀初頭のアメリカ合衆国で流行したものなのです。
 
【現代スピリチュアル・ブームのすべてが100年前にあった!?】

霊との交信、スピリチュアル・ヒーリング、クレアヴォヤンス(透視)などの超感覚的能力、さらには人類の霊的進化論や超古代文明史などの様々なオカルト的な教義などは、いずれも19世紀後半から20世紀初頭に大きな発展を遂げたものです。

そればかりか、それらと並行しながら、しばしばスピリチュアル的なものと隣接した形で語られることもなくはないホリスティックな健康観に基づく代替医療や自然療法、べジタリアニズム、アニミズム的な自然賛美、さらにはいわゆる「成功哲学」の原点ともいうべき幸福への精神論なども、その当時の資料を追って行くと、驚くべき広い支持を得ていたことが分かります。

今日の「スピリチュアル」と同様に、これらは明に暗にお互いに影響を与え合っていたとはいえ、決して何か1つのまとまった思想や運動を作り出すに至ったわけではありません。しかしながら、それらは19世紀の急速な近代化への対抗文化であったという意味では、1つの大きな潮流であったと見ることも可能です。

【アメリカで起こった「メタフィジカル・ムーヴメント」とは】

この当時の潮流を、歴史家たちは、しばしば「メタフィジカル・ムーヴメント(Metaphysical Movements)」と呼ぶこともあります。ちなみに、最初にそう呼ぶようになったのは、J・スティルソン・ジュダ『アメリカのメタフィジカル・ムーヴメントの歴史と実践』からです。

もともとスティルソン・ジュダは、ニューソート、スピリチュアリズム、神智学、クリスチャン・サイエンスなどの19世紀後半の合衆国で起こったメタフィジカルな思想を掲げるグループを総称する意味として、それを用いていました。

メタフィジカル・ムーヴメントに含まれる当時の思想を見てみると、その具体的な中身は多分に異なるものでありながらも、それらにいずれも共通するのは、やはり物質を超えた霊的領域の実在を前提とするという、文字通りメタフィジカルでスピリチュアルな世界観を持っていることが分かります。

それと同時に、ここでは詳しく述べることはできませんが、宗教史や社会学的な観点から見てさらに重要だと思われるのは、その多くが既存の宗教制度の外部において、スピリチュアリティを探究しようとしていたということです。

【「トランスセンデンタリズム」という文化的土壌】

また、スティルソン・ジュダは、こうした意味でのメタフィジカル・ムーヴメントのルーツを、アメリカのトランスセンデンタリズムに求めています。ジュダはメタフィジカル・ムーヴメントの諸相を、「アメリカのトランスセンデンタリズムが生み出した文化的土壌から成長する1つの樹の枝」だと述べています。

トランスセンデンタリズムというのは、1830年代頃のアメリカで、主に文学者たちを中心として形作られた思想です。その中心人物であったラルフ・ウォルド・エマソン(1803 - 1882)の思想の核心にあるのは、一切の外的権威に頼ることなく、自らの内側へと目を向けることで、真理へと到達し、霊性へと目覚めることができるといったものでした。

実際、トランスセンデンタリズムの推進者たちの何人かは、以前、本コラムで紹介したスピリチュアリズム・ムーヴメントの先駆となったアンドリュー・ジャクソン・デイヴィスが霊界に関する書物を最初に出版した際に、その熱心な支持を表明しています。

ただし、念のために言っておくと、歴史の中でトランスセンデンタリズムそのものが、メタフィジカル・ムーヴメントへの直接的な原動力だったと捉えてしまうとするなら、いささか行き過ぎだと思われます。あくまで、トランスセンデンタリズムは、メタフィジカル・ムーヴメントが育っていくための「文化的土壌」を用意したと見るべきでしょう。

【「アセンション」のルーツには神智学の影響も】

19世紀後半のメタフィジカル・ムーヴメントの発端の際に、最も大きな起爆力があったスピリチュアリズムについては、これまで本コラムでも、フォックス姉妹をはじめ様々なミディアムたちの当時のエピソードを紹介してきました。

スピリチュアリズムのミディアムたちと現代のチャネラーの間には、一般的なそのメッセージの具体的内容に違いはあれ(前者は亡くなった家族や知人たちの霊からのプライベートなメッセージがほとんどであるが、後者は一般的にプライベートなものというよりも、人間を超越した高次の霊的存在からの人類や地球の未来などに関する壮大で高尚なメッセージであることが多い)、明らかにそこには起こっている現象自体としては共通性があります。

また神智学についても、すでに本コラムの中で、その中心人物であるマダム・ブラバツキーとヘンリー・スティル・オルコットの交霊会での出会いを中心として、ごく簡単に紹介しました。

神智学の具体的な思想については、また改めて取り上げたいと思っていますが、歴史的には彼らの人類の霊的進化論が、1970年代から90年代初め頃までのイギリスやアメリカのニューエイジ・ムーヴメントへと非常に大きな影響を与えたことは間違いありません。

今日、日本でもよく聞かれるようになった「アセンション」という考え方も、そもそもニューエイジ・ムーヴメントの中で1980年代終わりに最大の盛り上がりを見せた「ハーモニック・コンヴァージェンス」に由来するものですが、そこに神智学的な人類の霊的進化論の残響を聞きとることは容易なことです。

【現代の「成功哲学本」の源流? ニューソート】

今日への影響の大きさとして、スピリチュアリズムと神智学以外で非常に重要なものとしては、なんと言ってもニューソートと呼ばれる実践があります。そのはじまりは、古くからある信仰治療とも似ていなくはない病気の治療法を提案したフィニアス・パーカスト・クインビー(1802 - 1866)の思想にあります。

クインビーの思想は、少々乱暴ではありますが、ひとことで言ってしまえば、すべての病気の原因は誤った信念にある、だから誤った信念を変えれば病気は治る、といったものです。

そのクインビーの思想の信奉者たちこそが、19世紀末に向かってニューソートという1つのまとまった思想へと結実していきますが、さらにその流れは、単なる病気の治療だけではなく、人生そのものへと広く応用されることになり、特に20世紀になってからは、いわゆる「ポジティヴ・シンキング」や「プロスぺリティ・コンシャスネス」と呼ばれるようなものへと形を変えます。

そして、それらの思想は、今日でも毎年のように大ヒットを飛ばしている、いわゆる「成功哲学」的な本の中において、時代に合わせていくぶん変奏されながらも語られ続け、非常に多くの一般の人々にも浸透するものとなっています。

今回は、19世紀後半から20世紀初頭にかけてのアメリカのメタフィジカル・ムーヴメントの諸相を概観してみました。次回はフィニアス・パーカスト・クインビーからはじまるニューソートへ向かう流れなどについても、もう少し詳しくご紹介できればと思っています。


・「成功哲学」の元祖フィニアス・クインビー

※「ポジティヴ・シンキング」や「成功哲学」といったジャンルの本は、いつ頃から流行するようになったのでしょうか。

それを過去の歴史へと遡っていくと、その源流として見えてくるものとして、19世紀末アメリカに誕生したあるヒーリングのメソッドの流行があります。

かつて「マインド・キュア」とも呼ばれていた、その当時の一連のムーヴメントのきっかけを作ることとなったフィニアス・パーカスト・クインビーという人物を紹介しながら、後のポジティヴ・シンキングや成功哲学の原点にあった思想的な背景を見ていきたいと思います。

★メスメリズムと「磁気睡眠」の衝撃

フィニアス・パーカスト・クインビーは、1802年2月16日、ニューハンプシャー州のレバノンに生まれました。1838年、クインビーが30代半ばを迎えた頃のこと、彼はある驚くべきものを目撃します。それはフランスからやって来たシャルル・ポイアンという人物が行ったメスメリズムのデモンストレーションでした。

メスメリズムというのは、もともとオーストリア出身の医師フランツ・アントン・メスメル(1734-1815)が、18世紀末のパリで大流行させたある治療法に由来するものです。本コラムでも以前に何度か触れていますが、もう1度、ここで簡単にそれがどういうものだったのかについて紹介しておきます。

メスメルの考えによれば、人間のあらゆる病気の原因は1つ。それは人間の体の中を流れる目に見えない「動物磁気」の流れが滞ったときに起こる。したがって、その流れを良くすれば病気は良くなる。そう考えたメスメルは、患者の体の表面の上で自らの手をゆっくりと動かすなど、いくつかの方法を用いることで、動物磁気の流れを整え、結果、患者の様々な病気の治療をおこないました。

こうしたメスメルの治療法は、当初は新奇なオルタナティヴ医療としてフランスのパリの人々の間に広まっていきましたが、しかしながらが、それはやがて思いもしなかった方向へと進んで行きます。

そのきっかけとなったのは、メスメルの弟子ピュイゼギュール侯爵アマン=マリー=ジャック・ド・シャストネ(1751-1825)が、肺炎を患ったヴィクトル・レースという患者を治療している際に起こった次のような現象でした。

ピュイゼギュールが治療を開始して間もなく、ヴィクトルの頭は突如だらりと垂れさがり、眠りはじめたかのようでした。だが、奇妙なことにもヴィクトルは、普通の意味での眠りに落ちたわけではありませんでした。それは言うならば、眠りながら起きているという奇妙な状態でした。

というのも、その眠りに似た状態のまま、ヴィクトルは大きな声で自分の家庭内での心配事を語りはじめたのです。そればかりではく、ヴィクトルはピュイゼギュールの問いかけに答えることができたのです。さらに、ピュイゼギュールが命じると、ヴィクトルは立ち上がり歩いたりもしました。夢遊病にも似たこの人工的に誘発された状態は、ピュイゼギュールによって「磁気睡眠」と名付けられました。

これ以後、さらに事態は大きく展開していきます。ピュイゼギュールによる磁気睡眠の発見が知れ渡るようになると、他の治療者の間でも同じような現象が起こりはじめるようになります。しかもそればかりか、磁気睡眠下に置かれた患者の振る舞いは、次第に不思議さの度合いを増していきます。普通では考えられない超常的としかいいようがない能力を発揮するという報告が相次いで出始めたのです。

たとえば、目の前の人の病気を診断し、その治療法を指示したり、その場にいる人の心の中を読んだり、遠く離れたものを見たり等々。

こうした不思議な現象を発生させるメスメリズムは、1930年代のアメリカでも、フランスからやって来た各地を巡業するデモンストレーターたちの活躍によって、大きく広がりはじめました。そして、クインビーをそのデモンストレーションで驚かせたフランスのシャルル・ポイアンこそ、まさしく合衆国にメスメリズムの本格的な布教に成功した最初の人物だったのです。

★メスメリストとしての経験から得た「気付き」

ポイアンは当時ニューイングランドのあちらこちらを回っては、レクチャー&デモンストレーションを繰り返していました。そこでクインビーは、そのまさに目下話題のメスメリズムを、直に目撃する機会に恵まれまたことをきっかけに、それまでの仕事である時計職人を辞め、プロフェッショナルのメスメリストへの道を歩みはじめることを決意することになります。

メスメリズムを習得したクインビーは、1843年から4年間に渡るニューイングランドの各地を回るツアーへと向かいます。その際にクインビーは、磁気睡眠中にクレヤヴォヤンス(透視能力)で他人の病気の診断を行い、治療法を指示するなどの不思議な能力を発揮する17歳のルーシャス・バークマーを同行させました。

当時の記録によれば、磁気睡眠下でのバークマーの発揮する能力は、驚くべきものだったと伝えられています。病気の診断とその処方。他人の思考をリーディングする。行ったはずのない離れた場所を描写する等々。

クインビーによるメスメリズムのデモンストレーションに集まった人々は、バークマーが発揮する様々な不思議な能力に驚きの声を上げました。恵まれた才能を持つバークマーの評判。それを携えながらクインビーは、メスメリズムの驚異の実演を各地で成功させて回ったのです。

プロフェッショナルなメスメリストとしての地位を確立していく一方で、次第にクインビーは、奇妙なことに気づきはじめます。それは磁気睡眠下でのバークマーが、実際にはその病気にはなんの効果も持たないはずの薬剤をしばしば処方していたにも関わらず、患者の病状は良くなっていくという事態でした。いったいこれはどういうことなのでしょうか?

★「病は気から」クインビーのまったく新しい治療メソッド

やがてクインビーはこの疑問に対して、次のような答えを導くことになります。

治療効果は薬剤とは関係ない。なぜなら、病気の本質は別のところにある。実のところ、病気とは患者自身の心の中の誤った信念によって作り出されたものに違いない。

クインビーいわく「自分は病気だ、あるいは病気がちだという信念に惑わされるなら、その信念がとりついて、実際の病気が起こる」。したがって、病気を治すには、その病気のもととなった誤った信念を取り除けばいい。すなわち、バークマーの診断と処方の成功は、患者に治る見込みを与えることで、「自分は病気である」という患者の誤った信念を除去できたことに由来する、そうクインビーは考えるようになったのです(引用は、Julius Dresser, The True History of Mental Science, Alfred Mudge & Son, 1887, p. 7から)

病気とは誤った信念である。この極めてシンプルなアイデアによって、クインビーは磁気睡眠を用いるメスメリズムの手法を必要としなくなりました。と同時に、生涯に渡ってクインビーが続けていくことになる新たな治療法が誕生することになります。

1859年、クインビーはメイン州ポートランドへと移り、そこで診療所を開設する。新しいメソッドでの病気の治療を開始します。クインビーによれば、ここで毎年500人の患者を治療したと言います。

クインビーの治療は、方法としては極めてシンプルなものでした。それは、薬剤を含めた一切の外的処置をすることなく、ただひたすら病気となった真の原因、つまり精神の誤った信念が病気の原因であることを説明し、それを正すことのみを目標とするものでした。

★2100頁にわたる膨大な手稿を残す

1859年から死の前年の1865年まで、クインビーは自らの教義を書きとめることをはじめます。その記録は、生前、そして1866年のクインビーの死の後も、しばらく出版されることはありませんでした。

米国議会図書館に所蔵されているそのオリジナルは、全12巻で2100頁に渡るものですが、ホラチオ・ドレッサーによって編集されたものが、1921年になって『クインビー・マニュスクリプト』(Quimby Manuscripts)と題して刊行されました。

クインビーの思想が詰め込まれたそれらの手稿集を見ると、彼のシンプルな治療法が、実はより大きなメタフィジカルな世界観というフレームの中で捉えられていたものであることが分かります。

ただし、そこで語られているクインビーの思想は、必ずしも明解ではないし、簡単な要約を許すほど体系的に整理されているわけではありません。ここではそのおおまかなアウトラインを描いておきます。

★「霊」と「物質」の世界を切り分けた世界観

まず、クインビーの世界観の前提にあるのは、霊と物質の領域の区別です。そしてクインビーは、前者を「神」、あるいは「叡智」と呼び、後者を「誤り」、「無知」、「実在の影」とみなします。

こういった言い方からも想像がつくように、クインビーは前者のみを唯一の実在とする一元論、すなわち、真に存在するのは霊の世界であり、物質の世界はその影に過ぎないという見方を取っています。

また、わたしたち人間の中にも、この2つの領域に対応する性質があると考え、前者と関連する部分を「霊的人間」(spiritual man)、あるいは「科学的人間」(scientific man)、そして後者と関連する部分を「自然的人間」(natural man)と呼びます。

さらに、精神(マインド)を「霊的物質」(spiritual matter)という両義的な呼び方をし、霊と物質という2つの領域の相互作用の媒体として位置付けていたようです。。

★イエス・キリストに対する独自の解釈

『クインビー・マニュスクリプト』には、キリスト教の聖書に関する言及も多々見られます。クインビーはキリスト教に関して独自の見解を述べますが、そこでもやはり霊と物質という枠組みを使った説明が行われます。

たとえばクインビーは、イエス・キリストと通常1つに呼んでいるものを、あえて2つに分けます。つまり、イエスは歴史上に存在した普通の血肉を備えた人間だが、キリストは霊的原理だと考える。そして再びクインビーは独特の言い回しで、キリストを「叡智」であり、「人間の罪や誤りを取り除く科学」、すなわち「健康の科学」(Science of Health)だと述べます。

こうしてイエスとキリストを切り離したうえでクインビーは、救世主(キリスト)イエスとは、すなわちキリストという人々を救うための霊的原理を、実際に体現した人物だと考えました。

ところで、聖書の中では、しばしばイエスは、病める人に対して奇跡的な治療をおこなっていますが、クインビーは、そこで行われていたことは、実は自分が発見したものと同じものだと考えました。クインビーは次のように述べています。

「イエスは、わたしが毎日教えていることや行っていることと違う何かを教えようとしたことは決してない」

したがって、クインビーの治療は、イエスの行ったのと同様の科学、すなわち彼の言い方では「キリストの科学」(Christian Science)なのです。

★病気からの回復=内面的に生まれ変わり再生すること

こうして見てくると、いかにクインビーが自らの治療法をメタフィジカル、あるいは宗教的な枠組みの中で考えていたかは明らかです。それはもはや通常の意味での医療ではありません。

クインビーの治療が目指すところは、物質の誤りに囚われていた「自然的人間」が、クインビーの治療、すなわち「キリストの科学」を受け入れることで、「霊的人間」、あるいは「科学的人間」として生まれ変わり再生する。

クインビーにとって、本当の意味で病気から回復するというのは、そういう宗教的回心にも似たプロセスを通過することでもあるのです。

クインビーの思想と実践は、やがて「クリスチャン・サイエンス」のような新興宗教へと引き継がれていく一方で、後のニューエイジ・ムーヴメントにも大きな影響を与えた「ニューソート」と呼ばれる思想へと発展していき、さらに「ポジティヴ・シンキング」として知られる成功哲学を生み出して行くことになります。


・ポジティヴ・シンキング思想の源流となった新宗教「クリスチャン・サイエンス」の誕生

※前回は、今日、「ポジティヴ・シンキング」あるいは「成功哲学」と呼ばれるような一連の思想の源流として、19世紀末アメリカで、メンタル・ヒーリングの創始者となったフィニアス・パーカスト・クインビーを紹介しました。

今回は、そのクインビーの影響から、キリスト教系の非常に大きな新宗教団体である「クリスチャン・サイエンス」を興すことになるメアリー・ベイカー・エディという女性を紹介したいと思います。
 
病気の本当の原因は誤った信念にある。その誤った信念を正せば病気は治る。その信条を基に、新たなメンタル・ヒーリングのメソッドの創始者となったのが、前回お話したフィニアス・パーカスト・クインビーでした。

そして1862年10月のこと。クインビーのポートランドの診療所へやってきた患者の中の1人に、後にクリスチャン・サイエンスと呼ばれる宗教団体の創始者となり、メンタル・ヒーリングの大きなムーヴメントを起こすことになる1人の女性がいました。

本名メアリー・アン・モース・ベイカー。彼女のより広く知られている名のメアリー・ベイカー・エディは3度目の結婚後の名前です。

エディが診療所を訪れたときは、極度の衰弱した状態でした。彼女は治療室までの階段を支えてもらいながら昇って行ったほどだったと伝えられています。これまで何をやっても効果のなかった慢性的な病を彼女は患っていました。しかしながら、クインビーによる治療は、彼女の病状に対しては非常に効果があり、驚くべき回復を経験しました。ここから彼女の新たな人生がはじまります。

完全なクインビー主義者となったエディは、彼の治療法を学ぶ熱心な生徒となりました。そして4年間の師弟関係が続きますが、1866年にクインビーが死去。その後の彼女は、次第に独自の道を自ら切り開いていくことになります。

エディがクインビーから離れて、最初の大きな第1歩を踏み出したのは、1875年、著書『科学と健康』(Science and Health with Key to the Scriptures)を出版したことにはじまります。

また同年、マサチューセッツ州リンのブロード通り8番地に家を購入し、「クリスチャン・サイエンティストの協会」(Christian Scientists' Association)を設立します。そして6月6日には、そこで約60人の生徒を集めた最初の公開の会合が行われました。こうして後に巨大な組織となるクリスチャン・サイエンスの礎が作られることになっていくのです。

1881年にはクリスチャン・サイエンスの「プラクショナー」として働く人々を教育するための「マサチューセッツ・メタフィジカル・カレッジ」(Massachusetts Metaphysical College)をボストンに設立。エディ自身が代表を務めたのはもちろん、当初は彼女自身が唯一の教師として指導の立場にありました。

やがてそこからは、クリスチャン・サイエンスの原理を身につけた数多くのメンタル・ヒーラーたちが育っていくことになります。

クリスチャン・サイエンスの理論やその実践を見てみると、かつての師であるクインビーのものと非常に似ていることが分かります。そこで使われている用語自体は同じではないものの、基本的にはクインビーと同様、霊と物質の区別を立て、前者のみを真に実在するものとみなし、後者を非実在、あるいは無であるとみなす世界観を前提としています。

とはいえ、エディの思想をクインビー主義の変種、あるいは展開とみなすことは、クリスチャン・サイエンス側の公式の見解において(及び、エディ自身の後の主張においても)認められることではありません。

実際、エディ及び信奉者たちが認める唯一の権威は聖書であり、唯一認める先駆者はイエス・キリストです。また、そもそもエディの著書『科学と健康』は、啓示によって(しかも最終的な啓示として)受け取られたものだと主張されています。したがって、決してどこかの師から伝授されたものではありません。

エディは述べています。

「『科学と健康』の中に含まれる科学を、わたしに教えた人間の著述も言葉もない。またそれを打ち破ることのできる言葉も著述もない」(Mary Baker Eddy, Science and Health with Key to the Scriptures, Christian Science Board of Directions, 1994, p. 110)

こうしてエディは、かつての師であったはずのクインビーの思想と自分の新たな教団の思想の間のつながりを拒否していくようになりました。

また、『科学と健康』の中の教えは、信奉者にとって唯一無二のものとされました。そして教団が大きくなるにつれ、異端分子の発生を抑えるため、エディによる思想統制も厳しさを増していきます。

意見を異にする弟子、あるいは取り巻きを集めるほどに力をつけてきた弟子に対する一方的な破門宣告。決められた教団内のルールの一切の変更はもちろんのこと、自分の「聖なる科学」を別の人が解釈することまでをも禁じます。したがって、信奉者たちに必要なのは、『科学と健康』の中の言葉を、一切の解釈を差し挟むことなく、繰り返し口にし、ただまるごと受け入れることだけでした。

エディの教えの信奉者の数は、19世紀の終わりから20世紀初頭にかけて増え続けます。「クリスチャン・サイエンス・ジャーナル」に掲載された数字によれば、1890年の段階において8,724人だったメンバーは、1906年にはおよそ50,000人という数にまで上っています。

そして、こうしたエディの信奉者たちは、人々の救済という宗教的使命のもと、街の一角に小さな看板を掲げ、広告を出し、収入を得るヒーラーという「職業」を形作っていくことになります。結果として、エディの創設したクリスチャン・サイエンスという新宗教団体によって、クインビーからはじまるメンタル・ヒーリングの流れは、合衆国中に大きく広がっていくことになるのです。

一方で、こうしたエディの大きな成功は、かつてエディと同様に、クインビーから教えを学んだ他のメンタル・ヒーラーたちを大いに刺激することにもなります。結果としてそのことが、クリスチャン・サイエンスとはまた別に「ニューソート」と呼ばれるムーヴメントを作り出して行くことになります。そしてそれこそが、後に「ポジティヴ・シンキング」と呼ばれることになる思想の核心を、いよいよ作り出して行くことになるのです。


・スピリチュアル史に大きな影響を与えたムーブメント「ニューソート」とは?

※本コラムで以前に紹介したように、フィニアス・クインビーが創始した病気の治療法は、歴史的に振り返ってみると、現代のメンタル・ヒーリングやポジティヴ・シンキングの源流に位置づけられます。

実際に、クインビーの思想と実践は、19世紀末のアメリカにおいて、スピリチュアル史という観点から見て非常に重要な2つのムーヴメントを生み出すことになります。1つは前回紹介したメアリー・ベイカー・エディの創始したキリスト教系の新宗教団体クリスチャン・サイエンスです。そしてもう1つは、今回紹介するニューソートと呼ばれるムーヴメントです。
 
■クインビーの愛弟子・ドレッサー夫妻

クリスチャン・サイエンスの創始者メアリー・ベイカー・エディは、師であるはずのクインビーから距離を取っていきました。けれども、師へのリスペクトを決して忘れることのない良き弟子たちもいました。「ニューソート」と呼ばれるようになるムーヴメントは、この後者の弟子たちの間からはじまっていきます。

その中でも非常に重要な人物は、熱心なクインビー主義者を貫いたジュリウス・ドレッサー、そしてその妻のアネッタ・ドレッサーです。

2人は、1882年から自分たちでメンタル・ヒーリングの実践を開始。さらに翌年には、新たなプラクショナーを育てるためのクラスを、エディのメタフィジカル・カレッジと同じくボストンに開設します。さらに、1887年には、ジュリウス・ドレッサーが『メンタル・サイエンスの真実の歴史』(The True History of Mental Science)を、さらに1895年、アネッタ・ドレッサーが『P・P・クインビーの哲学』(The Philosophy of P. P. Quimby, with Selections from His Manuscripts and a Sketch of His Life)を出版します。

この2冊の本は、クインビーを無視し、メンタル・ヒーリングの創始者足らんとするクリスチャン・サイエンスのメアリー・ベイカー・エディに対抗し、そのオリジネイターであるはずのクインビーをその正当なポジションへと位置づけるべく、その初期の歴史を誠実に記すことを試みたものです。

■メンタル・ヒーリングの拠点・ボストン

ところで、クリスチャン・サイエンスもドレッサー夫妻も、その活動の中心としていたのはボストンでした。このことからも分かるように、実はそこは1880年代半ば頃には、メンタル・ヒーリングの一大拠点となっていました。

また、ドレッサー夫妻以外にも、ウォレン・フェルト・エヴァンズやエドワード・J・アレンスといったクインビーの他の弟子たちも、クインビーの元で学んだヒーリング・メソッドを実践し、新たなヒーラーを養成するためのスクールを、同じくボストンに置いていました。

実のところ、この時期のボストンには、クインビーの後継者たちによって作られたスクールが、主要なものだけでもエディのクリスチャン・サイエンスを含め、少なくとも4つ存在していたのです。

■ウォレン・フェルト・エヴァンズの功績

ボストンを拠点としていたクインビー主義者の1人、ウォレン・フェルト・エヴァンズは、思想の深化という点で、後のニューソート・ムーヴメントへ最も大きな影響を与えた人物です。

1817年12月23日、ヴァーモント州ロッキンガム生まれ。メソジスト監督教会派の牧師としてキャリアを開始。しかしながら、18世紀のスウェーデンの幻視者エマニュエル・スウェーデンボルグの思想にも傾倒し、その色濃い影響を残す『天の夜明け』(The Celestial Dawn)を1862年に出版。

その翌年、エヴァンズはクインビーの診療所を来訪。また同年、エヴァンズはスウェーデンボルグ派の「新エルサレム教会」(the Church of the New Jerusalem)へと加入。そしてついに1864年、正式にメソジスト監督派の教会を離脱することになります。

1869年には『精神治療――肉体への精神の影響の説明』(The Mental Cure, Illustrating the Influence of the Mind upon the Body)を出版。この本の中では、熱烈なスウェーデンボルグ主義者であったエヴァンズによって、クインビーの思想が、スウェーデンボルグ主義的な世界観の中へと吸収され、スウェーデンボルグ主義的な言葉でもって表現されるものとなっています。

■「教師の教師」エマ・カーティス・ホプキンスの存在

こうしたドレッサー夫妻やエヴァンズの活動を振り返ってみると、ニューソート・ムーヴメントへと向かう流れは、1880年代、エディのクリスチャン・サイエンスと自分たちを明確に区別していこうとするメンタル・ヒーラーたちの努力からはじまったことが分かります。

この時期、いまだエディのクリスチャン・サイエンス教会は、順調にメンバーを増やしていく旺盛な拡大期にありましたが、1880年代後半になると、ウルスラ・ジェステフェルドやエマ・カーティス・ホプキンスといった有力なメンバーが教団を離れていくことになります。

特に、後者のホプキンスは、1884年9月から1885年10月まで「クリスチャン・サイエンス・ジャーナル」の編集を行っていたほどの重要人物です。彼女たちの脱退は、エディの束縛から自由になり、メンタル・ヒーリングの可能性をより発展させることを求めたことによるものでした。

エディの元から離れたホプキンスは、翌年の6月から、シカゴで自らのクラスをスタートさせます。そしてその活動は大きな勢いで広まっていきます。その年の内におよそ600人の生徒を指導し、翌年の1887年12月までには、ニューヨークからサンフランシスコ、そしてシアトルからルイヴィルへと活動の範囲を広げていきます。その翌年の1888年には、「クリスチャン・サイエンス神学校」(Christian Science Theological Seminary)を設立します。

ホプキンスには、教師としての素晴らしい才能があったのだと思われます。しばしば彼女は「教師の教師」とも呼ばれますが、実際、彼女のレクチャーからは数多くの優秀な人材が育っていっています。チャールズ・フィルモア、マートル・フィルモア、アニー・リックス・ミルッツ、H・エミリー・キャディ、ミセス・フランク・ビンガム、マリンダ・E・カルメル、エラ・ウィーラー・ウィルコックス、アーネスト・ホームズなど、いずれも後にメンタル・ヒーリングの教師となり、ニューソート・ムーヴメントを導いていくリーダーとなる人々です。

■クリスチャン・サイエンスとの差別化が「ニューソート」の始まり

ニューソート・ムーヴメントの明確なはじまりのラインを引くことは難しいものの、大方の歴史家の見解は、ホプキンスが1885年にクリスチャン・サイエンスから離脱し、独自のスクールを開始したことを、その出発点とみなしています。ただし、その時点では、いまだ「ニューソート」という語は使われていませんでした。むしろ、ホプキンス自身は、エディから離れた後も、自分の教えを「クリスチャン・サイエンス」と呼び、自らの学校名にもそれを冠していました。それはこの時期、「クリスチャン・サイエンス」という語が、エディの教会での教えを意味することに限定されず、クインビーに端を発する当時のメンタル・ヒーリングの様々な実践を表すため、より一般的に広い意味で用いられていたからです。

しかしながら、エディの教団とは違うものとして自分たちをアピールしようと考えるようになったメンタル・ヒーラーたちにとっては、「クリスチャン・サイエンス」という名称は好ましいものではありませんでした。事実上、その代わりとなった「ニューソート」と言う語が、実際のところ、誰が使いはじめたのかは明らかではないものの、少なくとも1890年代に入ってから、それがメンタル・ヒーラーたちの間で広く用いられる名称となっていきます。

■ニューソートが持つ思想の自由と多様性

ところで、クリスチャン・サイエンスと一線を画そうとして誕生したニューソートですが、この2つの間の違いはどこにあるのでしょうか? 共にそれぞれの基となる理論が、クインビーの思想に由来しているため、その違いを思想的な面で線引きするのは、その当初は難しいものでした。したがって、その違いを明らかにするのは、思想的な内実ではなく、その思想へと向き合う態度にあったと言うべきでしょう。

まず、クリスチャン・サイエンスはエディの著書『科学と健康』の中に書かれていることを絶対的な権威とし、個人がそれらを勝手に解釈することは許されません。一方で、ニューソートでは、そういった唯一の聖典を持たず、解釈の自由、そして思想の多様性を許容しました。

こうしたニューソートの開放性は、閉鎖的なクリスチャン・サイエンスにはなしえなかった他の分野との自由な知的交流を可能にし、それによって新たな思想の展開への可能性を開くものともなりました。

たとえば、ミス・M・J・バーネットの『プラクティカル・メタフィジックス』(Practical Metaphysics, 1889)では神智学が、そしてウィリアム・J・コールヴィルの『健康とヒーリングのスピリチュアル・サイエンス』(Spiritual Science of Health and Healing, 1889)ではスピリチュアリズムが持ち込まれました。また、前述のホプキンスも、プラトン、プロティノス、ゾロアスター、エックハルト、『バカヴァッド・ギータ』等々、数え上げればきりがない古今東西の様々な神秘思想が引用されています。

こうしてニューソートの開放性は、同時代のスピリチュアルやオカルト的な傾向を持つ様々な思想等を、吸収し折衷していくことともなりました。

ニューソートの本流の活動は、現代でも続いています。その一方で、ニューソートの中に含まれている霊的なエッセンスが薄められていく方向で、後のポジティヴ・シンキングやいわゆる「成功哲学」とも呼ばれる考え方を唱える人々が出てくるようになります。また、ニューソートの思想は、1970年代から1980年代のアメリカやイギリスを中心とした「ニューエイジ・ムーヴメント」にも非常に大きな影響を与えるものとなっています。

こうしたその後のニューソートの思想の別の領域への変遷と展開などについては、改めてまた紹介してみたいと思います。