・スピリチュアル・ヒーリングのルーツを探る

※今回は、「スピリチュアル・ヒーリングのルーツ」について書いてみたいと思います。
 
ひとことで「スピリチュアル・ヒーリング」と言っても、みなさんもご存じのように、今日そこには様々な理論や方法があります。ただし、スピリチュアル・ヒーリングと呼ばれるものの共通の特徴は、その理論や実践の枠組みとして、必ず霊的な世界が前提とされているということです。

このことは、通常の医学と比べてみると分かりやすいでしょう。たとえば、風邪をひいたとします。通常の医学では、たとえば風邪薬を飲んだり、ビタミンを摂取したり、暖かくして安静にしているなどして、後は元気になるのを待つのみです。ここでは風邪の原因、あるいはそれを治すための方法として、霊的なものは何も出てきません。

一方で、スピリチュアル・ヒーリングの場合は、基本的にあらゆる病気の根源は、物質的なものを超えた霊的な領域にあると考えます。すなわち、この世界は目に見えるものだけではなく、目に見えない霊的な領域がある。スピリチュアル・ヒーリングは、その目に見えない高次の霊的な領域になんらかの方法によって働きかけることで、肉体の不調を回復させる。そう考えるわけです。

そういった意味で言えば、スピリチュアル・ヒーリングのルーツを、医学が明確に宗教と切り離される前の時代――すなわち宗教家や神官がヒーラーを兼ねていた古い時代へと遡らせることもできるでしょう。

ただし、今日のスピリチュアル・ヒーリングは、その実際の歴史的なつながりという観点から言えば、古代の宗教的ヒーリングから直接継承されてきたものというよりも、むしろ近代に誕生したあるヒーリングの方法が基になっています。

みなさんは、「メスメリズム」(mesmerism)というのをご存じでしょうか。メスメリズムというのは、18世紀のオーストリア出身の医師フランツ・アントン・メスメル(1734-1815)が発見した治療方法に由来するものですが、歴史を遡っていくと、実はそれこそが今日のスピリチュアル・ヒーリングの直接の原点となったものだと言えるでしょう。

メスメルは病気の原因を次のように考えました。人間のからだの中には、目に見えない磁気的な流体が流れている。その流れが滞ることがすべての病気の原因である。したがって、その流体の流れを良くしバランスをとることで、病気は治癒へと向かう。

メスメルの考えた流体の概念は、今日のわたしたちの視点からすれば、中国の「気」と似ていなくもありません。しかも「気」と同じく、その流体は人間のからだの中だけではなく、宇宙全体にも満ちているとメスメルは考えました。したがって、人間のからだの中の流体の流れを整えることは、すなわち宇宙全体との調和を回復することも意味していました。

では、メスメルがどうやって流体の流れを調整したのか。また、それがどのように今日のスピリチュアル・ヒーリングへと発展していったのか。それらについては、また機会を改めてお話をしたいと思います。


・死者の霊がこの世で大騒ぎした時代

※「死は終わりではない。肉体を抜け出した霊(スピリット)は別の世界で生き続ける。そしてしばしば地上のわたしたちの世界へとメッセージを送ってくる......」

19世紀後半の欧米で、そのような信念を持っていた人は、一般的に「スピリチュアリスト」と呼ばれていました。そしてその時代は、おそらく歴史上、最も濃密な形で地上の人間と死者の霊との交流が行われた記録の残っているときだと言えるでしょう。

今回は、今日以上に「スピリチュアル」的なものが広く流行し、驚く程多くのスピリチュアリズムの信奉者を生み出した19世紀後半の「スピリチュアリズム・ムーヴメント」の起こりについて書いてみたいと思います。

ことの起こりは、ニューヨーク州ハイズヴィル(ハイズビル)という小さな農村へと引っ越して来たフォックス家の周りで起こった「ポルターガイスト」からはじまりました。

この出来事は、「近代スピリチュアリズム」の幕開けとしてあまりにも有名なお話です。ただし、今日流通しているそのストーリーの多くは、しばしば後の脚色が混じったものとなってしまっています。したがって、ここではそれらのストーリーのそもそものソースである、事件の起こった1848年の4月に、E・E・ルイスというジャーナリストによって、当事者たちの署名入りで、その供述をまとめた40ページのパンフレット『ジョン・D・フォックス氏の家での不可解なノイズの報告(A Report of the Mysterious Noises Heard in the House of Mr. John D. Fox)』を元に、改めて出来事の概略を紹介していきたいと思います。


ハイズヴィルにフォックス家が引っ越してきたのは1847年12月のこと。

そして、その翌年の3月の後半から不可解な出来事がはじまりました。鳴り響く不気味なノック、天井の物音、ドアや壁になにかがぶつかる音、ベッドのフレームやテーブルを振動させるほどの衝撃等、それらは2週に渡って毎晩続き、一家の眠りを妨げるほど日増しに騒音は激しくなっていきます。

夜な夜な続く霊のしわざと思われる不気味な物音。それだけであるなら、単なるどこにでもありそうなゴースト・ストーリーの1エピソードでしかなく、特に人々の大きな注目を集めることもなかったはずです。

だが、フォックス家のそれは、エイプリール・フール前夜の3月31日を境として、思わぬ方向へとシフトしていきます。

それは母マーガレットと2人の娘マギーとケイトが、ある奇妙なゲームを試みたことからはじまります。それは次のようなものです。

いつものように不可思議な叩音が聞こえはじめます。それに対して、少女たちは指を鳴らし、その音を模倣します。さらに妹のケイトが手を叩き、叩音を起こしている何者かに向かって、自分と同じようにするようにと命じました。すると次の瞬間、驚くべきことにも、彼女が叩いた音と同じ数だけ叩音が続いたのです。

次に姉のマギーが「今度はわたしがするのと同じようにして」と述べ、数をカウントしながら手を叩くと、再び叩音はそれに従いました。

娘たちに続いて母マーガレットも、10回、音を立てることを命じました。再び10回の叩音が続きます。さらにマーガレットは次のステップへと踏み出します。

彼女は叩音の主に向かって、子供たちの年齢を尋ねてみました。そうすると、再びその数を正確に表すラップ音が鳴りました。このとき彼女は、叩音の背後になんらかの知的存在が介在しているのではないかと確信します。そこで彼女はその正体を突き止めるため、叩音を起こしているなにものかに向かってさらに質問を重ねていきました。そのときの模様をマーガレット自身は次のように述べています。

「次にわたしは、その音を起こしているのが人間かどうか、そしてもしそうなら、同じ音によって示すようにと尋ねました。音はありませんでした。

次にわたしは、それが霊なのかどうかを尋ねました。そしてもしそうなら、2回、音を立てることによって示すようにと。そう言うやいなや、すぐに2回、音が聞こえてきました。

次にわたしは、怪我を負わされた霊なら音を発するようにとお願いしました。そしてわたしははっきりとした音を聞きました。

次にわたしは、この家で怪我を負わされたのかどうかを尋ねると、そうだということが音で示されました。加害者は生きているかどうかを尋ねると、同じ答えが得られました。

さらにわたしは同じ方法によって、その遺骸が家の下に埋められていて、年齢がいくつだったのかを突き止めました」

20時頃、マーガレットは夫のジョンに隣人を呼び集めるよう依頼した。そして21時頃には、1ダース以上の好奇心溢れる人々がフォックス家へと集まりました。その間も、霊は叩音を出すことで質問に答え続けます。

近所に住んでいたウィリアム・デュースラという男性が率先して質問をすることで、その霊の正体について、次のようなことがおおよそ明らかになります。

生前、その霊は「行商人」として生計を立てていた。だが、5年前の火曜夜12時、かつてこの家に住んでいたジョン・C・ベルという人物によって、肉切り包丁で喉を掻き切られて殺された。殺人の動機は500ドルという被害者の所持金。男の死体は地下室へ運ばれ、10フィート下の大地に埋められた等。

当初、デュースラは懐疑的でした。そこで彼は霊からの情報が正確であるかどうかを確かめるために、自分自身や彼の妻、そしてこのとき一緒に訪れていた隣人のハイド夫妻の年齢、近隣の家族の子供の数と死んだ人の数などを尋ねてみます。すると、それらいずれの問いに対しても、正確な数のラップ音が返ってきました。

さらにデュースラは、殺された人物の名前を知るために、霊との新たな交信方法を試みました。それはデュースラがアルファベットを読み上げていくのに対して、正しいところに来たとき、霊に叩音を発してもらうというものでした。それによって、その霊の名前がC. B.というイニシャルだということが明らかとなりました。

この夜の出来事は、すぐに口伝えに広まり、翌日の土曜日には、フォックス家の小さな家が近隣から数百人の好奇心に満ちた訪問者たちで溢れかえることになります。

その日の19時頃、再び霊は叩音を開始します。

いかさまが行われる可能性を封じるため、数人のグループが家の様々な場所に分散して事態を見守りました。ある意味、霊は非常に辛抱強い性格だったと言えます。というのも、次々と訪れる見物人の年齢、子供の数などといった瑣末な質問に答えるべく、叩音を起こし続けたのです。すなわち、本来の目的であったはずの無念の殺害事件の主張とは関係のない質問に対しても、叩音の主は嫌がることなく応答したわけです。

もし霊が単に家に憑いていたものだったなら、その後、フォックス家の借家は、有名な幽霊出現スポットとして知れ渡るようになったのかもしれません。けれども、霊は場所を移動しました。ハイズヴィルから息子のデーヴィッドの家へと引っ越したフォックス家の後を追って。

今度は引っ越し先のデーヴィッドの家で叩音がはじまります。

そこで家族は、叩音がマギーとケイトの2人の娘がいる状況でのみ発生するのではないかと気づきはじめます。そこで家族は、2人の姉妹を別々に住まわせるべきだという結論を下します。そしてロチェスターに住んでいた長女のリアが、妹のケイトを自宅へと連れて帰ることになります。

けれども、それも無駄でした。

マギーだけが残ったデーヴィッドの家でも、叩音は相変わらず続きます。そこでは殺害された行商人とは別の霊たちが騒音をあげはじめました。一方、殺された行商人の霊はケイトについて行きました。

その後のケイトの周りで起こる不可思議な現象の数々については、後年出版されたリアの自伝『ミッシング・リンク(The Missing Link)』(1885)の中で詳しく述べられています(これは引っ越したばかりのロチェスターのリアの家で起こった現象について描写した唯一の記録ですが、他の箇所において、明らかな虚偽や意図的な書き換えなどをはじめとする不正確な引用を含むため、出来事を客観的に記述したソースとしては、いささか信用の置けるものではないということを断わっておきます)。

たとえば、リアは自宅へ帰った後、リアの娘エリザベスとケイトが一緒に庭へ出て行った後に起こった出来事を次のように述べています。

突然、まるでバケツの中の凝固した牛乳が天井から降って来て、窓の近くの床にぶちまけられたかのような、ものすごい音が聞こえてきました。その音はすさまじいだけでなく、まるですぐ近所で大きな大砲が発射されたかのように窓や家全体を振動させるほどのものでした。

リアの証言によれば、ケイトの周りでは他にも様々な奇妙な現象が続出しています。冷たい手が娘たちの顔や体に触れ、顔の上にマッチ箱が振り落ち、別の部屋のテーブルがあちこち動き回り、ドアが開いたり閉ったりする等々。

ハイズヴィルからロチェスターへと2人の姉妹とともに、場所を移したポルターガイスト。その一連の騒ぎが意図するところは、もはや誰の目にも明らかでしょう。

あの世からこの世へと死者の霊が何かを伝えようと躍起になっている。

だとしたら、なすべきことは1つ。積極的に霊とコミュニケーションし、そのメッセージに耳を傾けることでしょう。

19世紀後半に大流行する交霊会の最初の形は、まさにここからはじまっていったわけです。

その後、フォックス姉妹を中心とした霊とのコミュニケーションは、数百人を集めたホールでのデモンストレーションをはじめ、合衆国北東部をツアーして周り、非常に大きな話題を集めます。当時の記録を読むと、まさしくフォックス姉妹はセレブリティとして人々の間で大きな脚光を浴びていたことがわかります。また、その話題が大きくなるに連れて、フォックス姉妹以外にも、霊を発現させることのできる「ミディアム(霊媒)」と呼ばれる人たちが、各地に続々と出現するようになります。

もちろん、フォックス姉妹や他のミディアムたちの周りで起こる霊現象を、疑ってかかる人、あるいはまったく信じない否定派の人々もいました。さらに、当時の新聞などのメディアは、こぞってフォックス姉妹を辛辣に批判し続けています。また、インチキやトリックを暴こうとする試み、または科学的態度による解明も、様々な人によって行われました。

それは本当に霊とのコミュニケーションだったのか?その真偽はともかくとして、近代のスピリチュアリズム・ムーヴメントが、ここからはじまったことは事実です。すぐにそれはイギリスをはじめヨーロッパへと飛び火し、そしてここ日本にもやって来たというわけです。


・19世紀後半、交霊会の方法

※19世紀後半のスピリチュアリストたちは、こうして霊と交信してきた!

人間が霊的存在から、なんらかのメッセージを受信しようとする行為自体は、様々な文化の中で非常に古くから存在します。けれどもそれらは、本来、神官や宗教家、あるいは広い意味で「シャーマン」と呼ばれるような、その共同体の中で独占的に聖性へと関わってきた特権的な人々にのみ許されていたものでした。

けれども今日では、随分とその様相も変わってしまっています。ごく普通の人々の間でも、なんらかの霊的存在と交信できるという人が、意外と多く存在します。そういう意味では、現代はいわば「霊とのコミュニケーションの大衆化時代」とも言えるのかもしれません。

昔、日本でも「こっくりさん」という霊と交信する「遊び」が、何度か流行しました。

ところで、いったいいつ頃から、霊とのコミュニケーションが、宗教的な特権性を失い、ごく普通の人々の手に渡るようになったのでしょう。

今日の「スピリチュアル」的なものに直接のルーツという観点から歴史を遡っていくと、18世紀終わりから19世紀前半のフランスやドイツでその発端がはじまり、19世紀後半の合衆国において、その重大なシフトが起こったことが分かります。

そしてその際に中心となったのが、当時、大衆の間で大流行した「交霊会」です。

今回は19世紀後半のスピリチュアリズム・ムーヴメントの中で、交霊会が実際にどのように行われていたのかを、当時の文献を元にしながら、その概要を簡単に紹介してみたいと思います。

● 1850年代、時代の流行は交霊会サークル?

合衆国で交霊会が流行するきっかけを作ったのは、1848年、ニューヨーク州ハイズヴィルに住むフォックス家ではじまった霊とのコミュニケーションでした。当時の新聞でセンセーショナルに取り上げられたその出来事は、またたく間に合衆国北東部を中心に広まりました。

当時のスピリチュアリスト、エリアブ・キャプロンによると、ニューヨーク州のオーバーンでは、1850年の夏までにラップ音や他の霊現象を生ぜしめる100人のミディアム(霊媒)が出現したと報告しています。さらに1851年の『ニューヨーク・トリビューン(New York Tribune)』では、プロビデンスに30人、ないし40人のミディアムがいると書かれています。また、同年の『デイリー・タイムズ(Daily Times)』は、シンシナティにおけるミディアムの数を1200人と見積もっています。

こうしたことからも分かるように、フォックス姉妹の出現以後、霊とのコミュニケーションは、わずか2、3年の間に、合衆国北東部を中心にした各地で、もはやどこでも見ることのできる公共の現象へと変わっていきました。それは同時に、もはや霊からのメッセージを受け取ることが、ごく少数の特別な人だけがなしえる特別なことではなく、それまで普通に生活を送っていたはずの主婦や少女たちの間でも、ミディアムになりえる人がいるかもしれないという可能性を示すものでした。

こうした大量のミディアムの出現と同時に、霊との交流を求めるより組織化された独自のサークルも形作られ始めます。

当時の雑誌『ホーム・ジャーナル(Home Journal)』で編集者のナサニエル・パーカー・ウィリスは、1850年代半ばにおいて、ニューヨーク市におおよそ300の交霊会を行うサークルがあったと述べています。

もちろん、サークルはニューヨークだけでなく、フィラデルフィア、ボストン、プロビデンス、シンシナティ、さらに州で言ってもウィスコンシン、インディアナ、ミシガンなどに、スピリチュアリストのサークルが存在したことが報告されています 。その実際の数については信頼の置ける統計が存在しないため、その正確なところは明らかではないものの、各地でかなりの数のサークルが作られていたことは間違いありません。

それにともない交霊会を行うためのガイドラインが、1851年1月25日の『スピリット・メッセンジャー』には掲載されます。

さらにフィラデルフィアの「調和の慈悲協会(Harmonial Benevolent Association)」による『フィラデルフィアで結成されたサークルの一つのミーティングで受け取られた霊的指示』(1852)、アーディン・バロウ著『霊の現れの中での真相、原因、特性に関する諸見解についての解説』(1852)などをはじめ、交霊会についての詳細な指示を明記した出版物が続々と出回りはじめます。

中でもアンドリュー・ジャクソン・デイヴィスは、『霊的交流の哲学』(1853)を書いて、交霊会の理論化とハウ・ツー化を促進するのに最も大きな影響を及ぼしました。

これらをもとに、以下に当時の交霊会がどのような形で行われていたのか、そのアウトラインを簡単にまとめてみます。

● 交霊会のガイドライン

・参加者の数は最大12人まで。
・男性と女性の数を等しくする。
・参加者は全員テーブルの周りに集まって座る。そしてテーブルの上に手を置くか、もしくは隣同士で手を結ぶ。
・そして、交霊会のはじまりには、「瞑想」、「内なる祈り」、「讃美歌を歌う」等といったことが行う。

図をご覧ください。ここに描かれているような人々が1つのテーブルを囲む交霊会の模様は、もしかすると現代の映画やテレビドラマなどのワンシーンとしてご覧になったことがある方もいらっしゃるかもしれないが、そのイメージのステレオタイプが作られたのは、まさにこの時代のことなのです。

また、スピリチュアリストたちは、交霊会でテーブルを囲む参加者のポジションを説明するために、不可視の現象の説明に最も都合のよい十九世紀の最も先鋭的な科学用語――すなわち「電気」を採用します。

スピリチュアリストたちによれば、霊たちは自らの存在を表すため電気を用いる。その流れを促進するために、テーブルを取り囲む男女は交互に座るべきである。なぜなら、男性は「ポジティヴ」、女性は「ネガティヴ」な性質をそれぞれ強く持っている(小学校の理科の時間の言い方をすれば、男性は+の極、女性は-の極の性質を持っているということ)。そして最も「ネガティヴ」な性質を持っている人物がミディアムとなる。そしてミディアムの向かい合わせの場所には、最も「ポジティヴ」な性質を持った人物が座るべきである等々。

すなわち、当時のスピリチュアリストたちは、「ネガティヴ」な性質を持つと考えられた女性性にミディアムの役割を結びつけて考えていたのです。

また、しっかりと組織化された交霊会の進行は、ある種の宗教的な儀式を思わせるものでした。外部の喧噪から遮断され、静けさの保たれた薄暗い部屋の中、参加者たちは霊的な事柄へと意識を集中する。そして決められた一定の儀式的手続きが厳かに繰り返されることで、参加者は日常生活との結び付きから離れ、宗教的感情へと浸っていくわけです。

こうした参加者の態度と同時に、もうひとつ交霊会で重要な要素だったのが、ごく親密なつながりを持つ少人数の親しいもの同士が集い、グループの間に調和的な関係を作り出すことでした。逆に、調和を乱す懐疑的な人物などを参加させることは、霊との交信を邪魔することになるとも考えられていました。こうした調和的サークルとしての交霊会は、必然的に部外者との分離、及び排他性へと向かっていくことにもなります。

さらに前にも述べた通り、交霊会の典型的な形では、テーブルの前の人々は一定の間隔で座り手をつなぎます。それもまた完全なる調和の表現であり、デイヴィスが言うには、「電気」的な宇宙とのラポールを作り出すための手段でした。そして、さらにそれを高めるための聖歌を参加者たちは声を合わせて歌います。当時、交霊会用に作詞作曲された聖歌の集めたコンピレーションもいくつか出版されています。

たとえば、『霊の詩』(1855)の中に載っている交霊会のはじまりの歌の出だしは次のようなものとなっています。

聖なる父よ
わたしたちを穏やかに祝福してくださいますように
今宵、わたしたちが愛の中で出会い
地上でのあらゆる心配事からわたしたちを解放してくださるよう
わたしたちすべてが光で満たされますよう祈ります。

また、同コンピレーションの中の交霊会の終わりの歌では次のようにも歌われます。

わたしたちは精神の中ではなく、肉体の中において引き離されています。
わたしたちの精神は一つであり続けます。
そしてお互いに愛の中で結ばれています。
そして手に手を取り合い進んでいきます。

交霊会での聖歌の内容は、これを見ても分かるようにキリスト教的な要素を残しつつも、同時にそこにはスピリチュアリストたちの明白なイデオロギーが混在したものでした。すなわち、聖歌を歌うことは宗教的感情を高めるだけでなく、スピリチュアリストとしての彼らの信念をはっきりと表明するものでもあったわけです。

もしかすると交霊会というと、今日ではなんとなく「怖い」というイメージを持たれる人もいるかもしれませんが、当時のそれはまったくその逆です。霊界にいる霊との会話は、死は終わりではないことを確信させ、愛する人の喪失の悲しみに慰めを与えるがゆえに、人々は幾度となく交霊会へと足を運んだのです。スピリチュアリズムが絶頂期を迎えた時代に出版されたユライア・クラーク著『スピリチュアリズムへの平易なガイド』(1863)では次のようにも述べられています。

長い夕べの間、社交のための食卓のまわりに家族と友人たちが集まり、永遠の春と永続する夏の地へとこの世を去った人々との交わりを求めること以上に、穏やかで優しい思いになることができる楽しみごとは他にありません 。

そう、交霊会とは、当時の人々にとって、ごく普通の家庭で親しい人々の間で行われる「穏やかで優しい思いになることができる楽しみごと」でもあったのです。

こうして霊の権威は、男性の聖職者が取り仕切る教会にではなく、家庭へと移行していきました。前にも述べたように、ミディアムは女性性へと結び付けられました。それゆえ、スピリチュアリズムにとっての聖なる場所は、当時の女性の領分だった家の応接室へと置かれるようになりました。そしてそのことが、最初に述べた「霊との交信の大衆化時代」へと道を開いていったわけなのです。


・アメリカの霊能者たちはこんなに凄かった!!

※19世紀後半、アメリカを中心にヨーロッパでは、前代未聞の規模でスピリチュアリズム・ムーヴメントが盛り上がりました。

現代の日本ならば「霊能者」、「ヒーラー」、「チャネラー」、「スピリチュアル・カウンセラー」、「サイキック」と呼ばれるような特殊な能力の持ち主が続々と登場します。

そういった人々の活躍が記録されているその時代の文献を実際に読んでみると間違いなく驚かされるのは、その数の多さ、さらにその発揮される能力のインパクトという点です。
正直言って、当時の水準で超感覚的能力を発揮できる人は、現代では見つからないのではないかと思われるほどです。

スピリチュアリズム・ムーヴメントの起こりについては、アメリカのフォックス姉妹が行った霊との間の叩音による交信からはじまりました。

そしてその後、各地で交霊会が開催されるようになり、フォックス姉妹と同じような能力を発揮するミディアムたちが続々と出現するようになりました。

そんな中、1850年代には単に霊と交信できるというだけでなく、さらに驚くべき能力を見せつけるミディアムたちが登場してくるようになります。
 
その時代の傑出したミディアムのほとんどはアメリカ出身でしたが、1860年代になるとこぞってイギリスへと渡って大きな話題を呼び、『Times』などの一級のニュースペーパーの紙面を華々しく飾ることにもなります。

「アメリカン・インヴェイジョン」とも言うべき、こうしてアメリカからミディアムがイギリスへと渡って来る1860年代の前半、とりわけ話題を呼び大きな成功を収め有名となった人物としては、ダニエル・ダングラス・ホーム(Daniel Dunglas Home)、J・R・M・スクワイア(J. R. M. Squire)、ダベンポート兄弟(Davenport Brothers)、チャールズ・H・フォスター(Charles H. Foster)らをあげることができます。

交霊会の中で彼らが見せる能力は、それぞれ得意とするものがありました。

ダニエル・ダングラス・ホームは、数あるレパートリーの中でも「レヴィテイション(levitation)」、すなわち「空中浮遊」を最も華麗に見せつけました。人々の見守る中、ホームは天井の高さまで浮き上がり、数分間、部屋中を漂ったというのですから驚くべきことです。

J・R・M・スクワイアは、巨大な重いテーブルを部屋の中で走り回らせたかと思うと、最後には手を触れることなくそれを打ち砕き、部屋中にその破片を撒き散らせました。

ダベンポート兄弟の交霊会では、いくつかの楽器が誰も手を触れていないはずなのにも関わらず、音を鳴らしながら部屋中を飛び回りました。また兄弟はどれだけロープできつく縛られても、そこからあっという間の早さで抜け出す、後にステージ・マジシャンたちのレパートリーとなる「ロープ抜け」を見事に披露しました。

最後のチャールズ・フォスターは「ペレット・リーディング(pellet reading)」と「ダーマグラフィー(dermagraphy)」を得意としました。

日本のスピリチュアリズムに関する文献では、チャールズ・フォスターに言及しているものはあまりなさそうなので、おそらく「ペレット・リーディング」と「ダーモグラフィー(Dermography)」がどういうものかご存知ない方が多いと思います。ここでそれがどういうものかを簡単に説明しておきましょう。

直訳すると「小粒読み」となるペレット・リーディングというのは、簡単に言うと次のようなものです。

交霊会の参加者は自分の知り合いの亡くなった人の名前を誰にも見られないように紙片に記す。そしてその書いた文字が見えないように丸めて小粒にする。そしてペレット・リーダーであるフォスターが、その中身を見ることなく書かれていることを言い当てる、といったものです。

さらにもう一方のダーマグラフィーですが、これがどういうものかは実際の当時のフォスターの交霊会の模様を紹介しながら説明したいと思います。

ここでは劇作家のエペス・サージェント(Epes Sargent)が友人とともに、1861年にボストンで経験したフォスターの交霊会の報告から、その内容を簡単にまとめておきます――このときの模様は、サージェントの著書『プランシェット』に詳しく記されています。

時は正午。窓が完全に開かれたその部屋には、フォスター1人だけがいた。サージェントと友人はフォスターとは初対面であり、またフォスターと会うことを他の誰にも秘密にしていた。

交霊会の間、その部屋の中にいたのは、フォスターとサージェントと彼の友人の3人だけだった。すなわち、詐欺の可能性となり得るサージェントと友人に関する事前情報の漏洩はまったくあり得ないはずだった。

まずサージェントたちは、死んだ友人の12人の名前をそれぞれ12の紙片に書き、それらを小さく丸めた。

そのときフォスターはサージェントたちに背を向けていた。サージェントたちは書いている間、フォスターが自分たちの手の動きを見られることがないよう注意していた。

フォスターたちは紙片をそれぞれ「普通のブドウの種」ほどの大きさになるまで丸め、テーブルの上に置き、そしてそれらを自分たちでもどれがどれだか分からなくなるほど混ぜた。

フォスターはそれらのどれも手に取ることなく、単にその上に手を素早く走らせた。

そしてすぐに彼は1つをサージェントたちの方に向けて押し出すと、一切のためらいなしにその名前を告げた。

――それはよくある名前ではなく、珍しい名前だった。そしてフォスターは言った。「わたしの腕にこの人の名前が表れるだろう」。フォスターは袖をまくりあげ、サージェントたちに左腕を見せた。

その肌の上には、よく見える赤い文字で「Arria」という名前が記されていた。結局その日、フォスターは12の紙片の粒から、8人の名前を正確に言い当てた。

前述のダーモグラフィーと言うのは、この最後の場面、すなわち左腕に文字が現れるという現象のことです。

こうしたフォスターの交霊会は、当然のことながら、それを目撃したアメリカやイギリスの数千人の人々の驚きの声をあげさせました。

フォスターと共にツアーを回り、後に『セーレムの見者(The Salem Seer)』と題した彼のバイオグラフィーを書いたジョージ・C・バートレットは、その序文の冒頭で次のようにも述べています。

「チャールズ・H・フォスターは、エマニュエル・スウェーデンボルグ以来、明らかに最も天賦の才を持つ卓越したスピリチュアル・ミディアムである」

当時のフォスターをはじめとする恐るべきパフォーマンスを発揮するミディアムたちの能力が本物だったのか、すなわち言い換えるとそこにトリックはなかったのか。もちろん、それを疑った懐疑派は当時も大勢いました。また、そんなものは「手品」に過ぎないと述べるマジシャンたちもいました。それにも関わらず、一般の多くの人々はそのパフォーマンスを目にすることで、霊の実在を信じ、スピリチュアリズムへと回心していくことになったのです。


・霊たちの楽団によるコンサート!? 1850年代、最も大きな話題をさらった奇妙な交霊会

※19世紀後半のモダン・スピリチュアリズム・ムーヴメントは、1848年のフォックス姉妹の周りで起こる奇妙な叩音からはじまりました。

しかしながら、ほんの数年の内にフォックス姉妹の話題がもはや霞んでしまうほど、遥かに驚くべき霊現象が各地で引き起こされるようになっていきました。

ダニエル・ダングラス・ホーム、J・R・M・スクワイア、ダベンポート兄弟、チャールズ・H・フォスターといったもはや「奇術」としか思えないような驚くべきパフォーマンスを発揮し、名声を得るようになるミディアムたちの活躍へとやがて時代は移っていきます。

今回はそういった傑出したミディアムたちの登場の前、フォックス姉妹のすぐ後に非常に大きな話題を集めることとなった、ウェストヴァージニア州に接したオハイオ州の丘陵地のアセンズに住むクーンズ家で起こった霊現象について紹介したいと思います。
 
■クーンズ家にやってきた「注文の多い霊たち」

1852年、ジョナサン・クーンズはフォックス姉妹からはじまった叩音の記事を新聞で目にします。その後、クーンズは近隣で行われていたいくつかの交霊会に参加。そして、自分自身にもミディアムの能力があること、そして彼の妻と18歳の息子も、同様にその能力を持っていることをすぐに発見し、自宅で交霊会を行うようになります。

クーンズ家の交霊会に現れたのは、これまでに聞いたことのないほど注文の多い霊たちでした。というのも、霊たちはクーンズ家に「霊の部屋」、すなわち交霊会を行うための専用の部屋を作るようにと要求します。しかもその要求も非常に細かく、その寸法、そこの設備や備品などについても指示を出してきました。

部屋全体は12×14フィートの大きさとし、ドアは1つ、そして鎧戸のついた3つの窓を作り、天井は7フィートの高さにするように......等。さらに奇妙なことにも、様々な楽器――テノール・ドラム、バス・ドラム、2つのフィードル、ギター、バンジョー、フレンチ・ホルン、ティン・ホルン、ティー・ベル、トライアングル、タンバリンを用意することを求めてきました。クーンズは律義なことにも、こうした霊たちの指示に素直に従い、苦労してその準備を整えました。

■霊たちによる盛大なコンサート

こうして霊たちの要求通りに準備を整えた後、霊たちはそれらの楽器を用いて大騒ぎをはじめます。外にまで鳴り響くその演奏を聞きつけた隣人たちは、すぐさまクーンズ家へと集まって来ました。さらにその噂はすぐに広まり、遠方からも訪問者が続々と訪れるようになります。

ニューヨークの有名なスピリチュアリスト、チャールズ・パートリッジもその噂を聞きつけてクーンズ家の「霊の部屋」にやって来た1人ですが、彼の報告によれば彼が到着したときには、その夜のパフォーマンスのために、すでに少なくとも50人が集まっていたそうです。

「霊たちのコンサート」とも言うべきこのクーンズ家の交霊会でのプログラムの進行はたいがい決まっていて、それはおおよそ次のようなものでした。

観客が着席すると、ドア及び窓は閉められ、灯りが消されます。演奏はバス・ドラムの轟渡る音からはじまります。そしてクーンズはフィードルで陽気な曲を演奏しはじめます。
するとすぐにホルンとトランペットが加わり、さらにタンバリンとドラムが続きます。しかもさらに驚くべきことを言うと、ドラムを除いた他の楽器は、音を鳴らしながら観客のすぐ頭上をグルグルと旋回していたそうです。

楽器の演奏が終わった後は、霊たちの歌声が聞こえてきます。部屋を完全に満たすほど次第に大きくなっていくその合唱は、非常に素晴らしいものだったと伝えられています。1855年の『スピリチュアル・テレグラフ』の中で、チャールズ・パートリッジは、「わたしはこれほど素晴らしいハーモニーをこれまで聞いたことがない」とも述べているほどです。

ちなみに、式典のマスターとして霊の楽団の演奏を取り仕切ったのは、「キング・ナンバー・ワン(King Number One)」と名乗る霊でした。これまた驚くべきことにも、彼はティン・ホルンを通して流暢に語りました。彼が言うには、演奏している自分たちは、数千年近くアダムに先立って生きていた最も古代の原初の人間であり、自分たちのことを「オレス(Oress)」と呼んでいました。

こうした霊たちによる派手な楽器のパフォーマンス、そしてティン・ホルンを通して言葉を発するキング・ナンバー・ワンの出現というクーンズ家の交霊会の模様と比べれば、もはやフォックス姉妹の周りの霊たちの叩音によるコミュニケーションは、なんとも地味で控え目にすら思えてきます。

■暗闇に出現する「輝く手」

しかしながら、クーンズ家の霊たちの活動はそれだけではありません。
音楽プログラムの終了後には、暗闇の中で輝く霊の手が出現しました。手首のわずか上までのその手は、実際に触れることが可能でした。また交霊会の最後の締めとして、霊の手は紙の上に信じられないほどのスピードでメッセージを書き記したそうです。

それにしても、これらは本当に起こったことなのでしょうか? あまりにも陽気な霊のはしゃぎぶり、そしてアダム以前の人間だと称し、キング・ナンバー・ワンといういささか子供じみた存在からして、クーンズ家の交霊会は、実際の目撃者ではない部外者からしてみればすぐに信じることはためらわれるのではないでしょうか。

しかも、こうしたクーンズ家の交霊会の模様の報告は、霊の存在を紛れもなく信じるスピリチュアリスト、あるいはそもそもその実在を確信したいと思って集まってくるスピリチュアリスト予備軍たちからの報告に依存したものであるため、そこでなんらかのトリックが用いられていた疑いを拭いさることはできません。

■後世に続く交霊会のプロトタイプ

初期スピリチュアリズム・ムーヴメントにおいて、参加者を熱狂させ、大きな話題をさらったクーンズ家での霊たちのコンサートが、果たして本物か偽物かはさておき、その派手なパフォーマンスが以後の交霊会のあり方の明らかな予兆でありプロトタイプだったことは間違いありません。実際、この後に登場する前述の傑出したミディアムたちの「奇術」めいたパフォーマンスのいくつかは、クーンズ家の「霊の部屋」で起きた暗闇でのスペクタクルから明らかにインスピレーションを得たことは確かです。

いまだ懐疑論者たちによる本格的な介入がはじまる前の1850年代。霊たち、あるいはミディアムたちにとっては、その力を思う存分発揮できるまさしくスピリチュアリズムの絶頂期とも言うべき時代でした。そんな中、交霊会に参加してその驚くべき現象を体験した多くの人々が、続々とスピリチュアリズムへ回心させられていきました。

科学者による統制下での実験。マジシャンたちによるトリックの暴露。信奉者と懐疑論者の間におけるスピリチュアリズムの真実を巡る攻防。それがはじまるのは1860年代以降のこと。それについてはまた機会を改めて紹介したいと思います。


・スピリチュアル史を変える運命の出会いを呼んだ"奇妙な交霊会"

※「神智学(theosophy)」というのをご存知でしょうか?

それは現代のスピリチュアルな思想のルーツとして最も大きな影響を及ぼした、19世紀末にアメリカではじまった新たなオカルティズムのムーヴメントです。

スピリチュアル史、またはオカルティズム史という観点からすると、1875年に設立された神智学協会の存在は非常に重要なものがあります。というのも、神智学協会の登場以後、世紀末へと向かって、明らかに時代のトレンドはスピリチュアリズムからオカルティズムへとシフトしていくからです。

神智学協会の設立の中心メンバーであるマダム・ブラバツキーとヘンリー・オルコットは、日本でもオカルティズムに関心のある人にとっては非常に良く知られていることと思います。

しかしながら、彼らが2人とも、後に神智学が否定することになるスピリチュアリズムへの関心を持っていたことは、あまり触れられることがないようです。

今回は、彼らの出会いの場となった非常に奇妙な交霊会を紹介するとともに、偉大なるムーヴメントの創始者たちの初期のスピリチュアリストとしての姿を浮き彫りにしてみたいと思います。
 
■オルコットと"フルボディ・マテリアリゼーション"

1874年の7月のある日、ニューヨークで弁護士をしていたヘンリー・スティール・オルコットは、その仕事の合間に事務所の近所の店から買ってきた『バナー・オブ・ライト』のある記事に強く心を奪われました。それはバーモント州チッテンデンのある農家で起こっているフルボディ・マテリアリゼーションに関する報告でした。

フルボディ・マテリアリゼーションは、以前、本コラムでも紹介したように、ミディアムを介して、死者の霊が再び全身を物質化してこの世に戻って来る状態のことを言います。

もし死んだ人間が「一時的に固化し、目に見え、触れることができるまでに肉体と衣服を再構成するための手段を発見」し、また「訪問者がそれを見て、触れて会話することさえできるということが本当だとしたら」、それは「現代物理学におけるもっとも重要な事実」ではないか。そう考えたオルコットは、すぐにそこへ行き自分自身の目で確かめることを決心しました。

■「粗末な農民たち」のようなミディアム・エディ兄弟

オルコットが向かった農家で開催されていた話題の交霊会のミディアムは、ホレイショ・エディとウィリアム・エディという2人の兄弟でした。

「新たな摂理の預言者たちや司祭たちというよりも、良く働く粗末な農民たち」。それがオルコットのエディ兄弟に対する最初の印象でした。けれども、そこで実際に体験した交霊会での出来事は、オルコットにとってかなり衝撃的なものとなります。

■32人もの霊たちが登場する驚愕の交霊会

エディ兄弟の交霊会は、日曜を除く毎夜8時から、食糧庫の上の48×16フィートの広い長方形の部屋で行われていました。ミディアムがキャビネットの中に入り、明りを薄暗くする。するとやがてマテリアリゼーションされた霊がキャビネットから出て来ます。

すでに当時のイギリスで流行していたフルボディ・マテリアリゼーションと比較して、エディ家の交霊会に驚くべき点があるとすれば、それはキャビネットから出て来る霊たちのヴァリエーションの多さでした。

5日の滞在の間、3度の交霊会に参加し、一夜につき平均12、全体として32ものマテリアリゼーションされた霊たちがキャビネットの中から続々と現れたとオルコットは述べています。しかもオルコットによれば、それぞれの霊たちは「性別、歩き方、コスチューム、肌の色、髪型とその長さ、背の高さと体格、見た目の年齢に完全な違い」があったそうです。

■オルコットによる本格調査の開始

このオルコットがエディ家で体験した交霊会の報告は、9月5日の『ニューヨーク・サン(New York Sun)』に「霊たちの世界、信念をぐらつかせる驚異の奇跡」と題して掲載されました。さらにその記事を読んだ『デイリー・グラフィック(Daily Graphic)』の編集者からは、エディ家の再調査とその詳細なレポートを記事にするよう依頼が舞い込んで来ました。

そのためオルコットはオフィスを引き払い、9月17日にエディ家へと再び戻り、さらなる本格的な調査を開始することになります――。

オルコットによる今度のエディ家の調査は、9月29日から12月11日までの間の『デイリー・グラフィック』で20回に渡って、その状況を伝える詳細なイラストと共に掲載されることとなりました。また、それらの内容を含めた書籍『他界からの人々(People from the Other World)』が、翌年の1875年に出版されることとなります。

■滞在中に現れた霊たちの総数は300~400人

その記録を読むと、オルコットが今度のエディ家の滞在中に見た霊たちのヴァリエーションは、前回にも増してさらなる驚異的な数となったことが分かります。

【図2】は10月22日の交霊会に出演した霊たちの姿を描いたものですが、赤ん坊や小さな子供も含め、なんと総勢17人にものぼります。

今回の滞在中に見た霊の総数についてオルコットは様々なコスチュームを身に付けた「300ないし400の異なる物質化された霊たち、あるいはそのように称されている何かを見た」とも述べています。

■マダム・ブラバツキーとの運命的な出会い

この『デイリー・グラフィック』に掲載されたオルコットによる一連の報告こそが、神智学協会の共同設立者であり、実質的な支配者となるマダム・ブラバツキーの注意を強く惹きつけることとなります。

10月14日、ブラバツキーはその現象を直接目撃するため、フランス系カナダ人の女性とともに正午少し前にエディ家に到着しました。後にオルコットはブラバツキーを一目見た瞬間から、彼女に強い印象を受けたことを回顧しています。

オルコットによれば、正午のディナーを終えた後、彼は気になるブラバツキーとの会話のきっかけを作るため、彼女が紙に巻いた煙草へと火を差し出したそうです。後にオルコットが書いた神智学協会の歴史では、この瞬間からその物語が始められていますが、そこには次のように記されています。

「それは非常に散文的な出来事だった。『お任せください、マダム』とわたしは述べ、彼女の煙草に火をつけた。わたしたちの面識は煙草の煙の中ではじまった。だが、それは巨大な永続する火を引き起こすことになった」

オルコットとブラバツキー。かくしてこの2人の生涯に渡るパートナーシップは、こうした種々多様な霊たちがその姿を表し続けるエディ家での交霊会を、その仲立ちの場として始まることとなったのです。

■神智学協会の設立とオカルティズムへの傾倒

以後、オルコットとブラバツキーの間の友情は急速に深まっていきます。さらに2人は、交霊会をインチキだとするアンチ・スピリチュアリズムの人々からの攻撃に対して、強力な擁護者としてその名を広く知られるようになっていきます。

しかしながら、1875年、神智学協会を設立した2人は、明らかにスピリチュアリズムに対して距離を開け、19世紀末から20世紀初頭のオカルティズム・ムーヴメントの中心的な役割を果たして行くことになります。

なぜ、2人はスピリチュアリズムから離れ、オカルティズムへと向かって行ったのか? そしてそもそもスピリチュアリズムとオカルティズムの違いはなんなのか? それについてはまた機会を改めて見ていきたいと思います。